世界の映画関係者に計り知れない影響を与えたと言われる『七人の侍』。“七人の侍”をはじめ、彼等に絡む“村人”や“野武士”たちの人物設定は秀逸だ。“どの場面のどの人間”であっても、“活き活きと生きている”。そして、それらの人物をより引き立てているのが“無駄のないセリフ”であり、「脚本」の完成度の高さを物語っている。「脚本」が練りに練られたものであるからこそ、リアリティのある緻密な人間の深みが伝わってくる。
この映画の「脚本」は、すでに故人となった三人の「脚本家」の手になる。今日でも高い評価を受けている橋本忍と小国英雄の両氏に黒澤明監督が加わり、40日に渡る旅館での「三人合宿」によって完成した。その経緯はもはや伝説として語り継がれようとしている。
橋本忍氏は、後に「羅生門」や「生きる」などの「黒澤名画」の「脚本」を担当することになり、小国英雄氏も「椿三十郎」「天国と地獄」などの「脚本」を手掛けた。
また“小津映画”も、そのほとんどは“共同脚本”による。『東京物語』をはじめ、『晩春』『麦秋』『早春』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』などの作品は、小津安次郎監督と野田高梧氏の二人が「脚本」を書いている。小津監督は、絶対にアドリブを許さないことで知られ、“脚本通り”のセリフや演技を徹底して求めたという。
『東京物語』に登場した笠智衆、東山千栄子、山村総、三宅邦子、杉村春子、中村伸郎、そして原節子に香川京子。これらの芸達者を使ってもなお「脚本」からの逸脱を拒んだのは、ひとえに「脚本」の重要性を裏付けるだけでなく、演出家としての「監督」の存在の重さを物語っている。何度も小津映画に出演した女優の香川京子さんが、小津監督の“脚本絶対主義”について、先日テレビで語っていた。
洋画においても、優れた作品はいずれも複数の脚本家による。『ローマの休日』の「脚本」は、イアン・マクレラン・ハンター、ダルトン・トランボ、ジョン・ダイトンの3人が担当した。ダイトン氏は死後、1993年にアカデミー賞「最優秀脚本賞」が授与され、夫人が代わって受賞した。
ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの『カサブランカ』も、同様に3人の脚本家の共同作業だ。ハワード、コッチ、ジュリアス・J・エプスタイン、フィリップ・J・エプスタイン。
「脚本」が優れているということは、「人物」がしっかり描かれている証左であり、それを裏付けるものが「セリフ」といえる。たとえ短くとも、優れた「セリフ」はその人物の存在感を高めるだけでなく、周りの人物を引き立てる。何よりも、私たち観客の心に“宝石のような言葉”として輝いている。
私が今日の「テレビドラマ」をほとんど観ないのは、魅力ある「セリフ」を耳にすることがないからだ。ことに人気タレントを何人も出演させたドラマほどつまらないものはない。視聴者(というよりそのタレントのファン)サービスのためにとの気持があるのだろう。満足に演技もできないタレントを何とか引きたてようとして、意味もない「セリフ」を延々と喋らせている。そのため、ただでさえ貧しい演技がいっそうまずくなり、説明調の後味の悪い「セリフ」だけが耳に残る。
さらに悪いことに、それらの「余計なセリフ」は、その「セリフ」の顔を立てるため、さらに「余計なセリフ」を必要とする。かくて意味も感動もない耳障りな「セリフ」が溢れている。騒がしいだけの落ち着きのない展開に終始し、じっくりと登場人物の人間性や心の動きを感じたいとする、“ドラマ本来の楽しみ”など望むべくもない。