『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・名脚本家達(映画は脚本―中)

2010年03月22日 06時32分35秒 | ◆映画を読み解く
 

 世界の映画関係者に計り知れない影響を与えたと言われる『七人の侍』。“七人の侍”をはじめ、彼等に絡む“村人”や“野武士”たちの人物設定は秀逸だ。“どの場面のどの人間”であっても、“活き活きと生きている”。そして、それらの人物をより引き立てているのが“無駄のないセリフ”であり、「脚本」の完成度の高さを物語っている。「脚本」が練りに練られたものであるからこそ、リアリティのある緻密な人間の深みが伝わってくる。
 
 この映画の「脚本」は、すでに故人となった三人の「脚本家」の手になる。今日でも高い評価を受けている橋本忍と小国英雄の両氏に黒澤明監督が加わり、40日に渡る旅館での「三人合宿」によって完成した。その経緯はもはや伝説として語り継がれようとしている。

 橋本忍氏は、後に「羅生門」や「生きる」などの「黒澤名画」の「脚本」を担当することになり、小国英雄氏も「椿三十郎」「天国と地獄」などの「脚本」を手掛けた。

 また“小津映画”も、そのほとんどは“共同脚本”による。『東京物語』をはじめ、『晩春』『麦秋』『早春』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』などの作品は、小津安次郎監督と野田高梧氏の二人が「脚本」を書いている。小津監督は、絶対にアドリブを許さないことで知られ、“脚本通り”のセリフや演技を徹底して求めたという。

 『東京物語』に登場した笠智衆、東山千栄子、山村総、三宅邦子、杉村春子、中村伸郎、そして原節子に香川京子。これらの芸達者を使ってもなお「脚本」からの逸脱を拒んだのは、ひとえに「脚本」の重要性を裏付けるだけでなく、演出家としての「監督」の存在の重さを物語っている。何度も小津映画に出演した女優の香川京子さんが、小津監督の“脚本絶対主義”について、先日テレビで語っていた。

 洋画においても、優れた作品はいずれも複数の脚本家による。『ローマの休日』の「脚本」は、イアン・マクレラン・ハンター、ダルトン・トランボ、ジョン・ダイトンの3人が担当した。ダイトン氏は死後、1993年にアカデミー賞「最優秀脚本賞」が授与され、夫人が代わって受賞した。

 ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの『カサブランカ』も、同様に3人の脚本家の共同作業だ。ハワード、コッチ、ジュリアス・J・エプスタイン、フィリップ・J・エプスタイン。

 「脚本」が優れているということは、「人物」がしっかり描かれている証左であり、それを裏付けるものが「セリフ」といえる。たとえ短くとも、優れた「セリフ」はその人物の存在感を高めるだけでなく、周りの人物を引き立てる。何よりも、私たち観客の心に“宝石のような言葉”として輝いている。

 私が今日の「テレビドラマ」をほとんど観ないのは、魅力ある「セリフ」を耳にすることがないからだ。ことに人気タレントを何人も出演させたドラマほどつまらないものはない。視聴者(というよりそのタレントのファン)サービスのためにとの気持があるのだろう。満足に演技もできないタレントを何とか引きたてようとして、意味もない「セリフ」を延々と喋らせている。そのため、ただでさえ貧しい演技がいっそうまずくなり、説明調の後味の悪い「セリフ」だけが耳に残る。

 さらに悪いことに、それらの「余計なセリフ」は、その「セリフ」の顔を立てるため、さらに「余計なセリフ」を必要とする。かくて意味も感動もない耳障りな「セリフ」が溢れている。騒がしいだけの落ち着きのない展開に終始し、じっくりと登場人物の人間性や心の動きを感じたいとする、“ドラマ本来の楽しみ”など望むべくもない。

・巨匠への憧れ(映画は脚本―上)

2010年03月14日 19時25分38秒 | ◆映画を読み解く
 

 「恋文代筆屋」を廃業した後、ちょっとのあいだ映画に夢中になり、「映画監督」に憧れた。本ブログの『恋文代筆屋稼業』にあるように、誰もが本格的な大学受験勉強を始めた高二の頃だった。

 ところが、この生来の“天の邪鬼”は、級友たちが眼の色を変えて勉強に励む姿を哀れむかのように、飄々と映画館通いを始めた。とはいえ無論、本当に“飄々とした心”でいたわけではない。今一つ“受験勉強に気持ちが乗らなかった”のだ。

 映画鑑賞の軍資金は「レコード代」を節約したり、下校時の「買い食い」を極力控えたりして捻出した。記憶では「ドーナツ盤」のレコードが330円だったように想う。映画料金と言えば、二流館の「2本立て」が100円~150円くらいだったろうか。もちろん、新作の「封切り物」などに手が出させる余禄はなかった。

 交通費の節約のため、必然、学校から徒歩圏内の「映画館」が中心となった。学校のある「西新(にしじん)」という街には、映画館が4、5軒はあったように思う。

 ほぼ週に2回の映画館通いは、西新町周辺の映画館をすぐに制圧した。そのため、他の街まで足を伸ばさなければならず、必然、映画館が集中する九州最大の歓楽街「中洲(なかす)」や繁華街の天神(てんじん)」まで出かけることとなった。
 『センターシネマ』(天神)という、唯一の「リバイバル洋画」専門館は1本50円と割安だったが、往復の電車賃が馬鹿にならなかった。

 ガラ空きの「三流映画館」では、試写会に臨む“巨匠・クロサワ”のような気分だった。ほぼ横向きに脚を組み、その気になって腕組みをしていた。とは言うものの、生来の飽きっぽさゆえに「映画監督」はあっさりと諦めた。それでも、これはと思う「作品」については『鑑賞ノート』に批評を残し、100点満点で評価していた。

 その配点は、監督40点、脚本30点、俳優20点、その他(撮影・美術・音響・編集等)10点と、判り易いものだった。配点の根拠が特にあったわけではない。自分なりにもっともらしい御託を並べただけであり、単に計算しやすかったにすぎない。

 今思えば、「脚本」の配点をわずか「30点」としたところが幼い。今なら間違いなく「80点」は付けるだろう。いや、「90点」を与えてもよい。それほど「映画」における「脚本」のウエイトは高く、これがすべてと言える。

 いや「映画」にかぎらず、「舞台演劇」や「TVドラマ」においても、「脚本」以外の「監督(演出)」や「俳優(役者)」その他は、いわば“脚本の影”にすぎない……と今では断言している。「脚本」あっての「監督」であり、また「役者」であり、「音楽」や「美術」そして「編集」ということになる。

 優れた「脚本(ときには「原作」)」があるからこそ、心を動かされた「監督」は撮ってみたいと製作意欲を掻き立てられるのであり、「俳優(役者)」も演じてみたいと思うのだ。このことは、古今東西の“名作”と言われた数多くの「映画」が実証している。

・化粧の哲学―(下4)《最終回》

2010年03月07日 08時42分40秒 | ■男と女のゐる風景

 

 「野多目(のため)」という交差点が目の前に迫って来た。筆者は右折レーンに入り、「202号線」と別れなければならなかった。ひょっとしたら彼女も同じように右折を……と秘かに期待したのも束の間、彼女はそのまま真っ直ぐ筆者の横を走り去って行った。

 見ず知らず……どころか、顔を合わせることも、言葉を交わすこともなかった女性。わずか20分足らずの間、偶然、走行する車が前後したにすぎなかった。しかも、“最接近した信号停止”のときですら、彼女との距離は10m以上は離れていたはずだ。それなのに「恋人」と別れて来たかのような“喪失感”が残っているのはなぜだろうか。

 ともあれそれ以降、筆者の“運転マナー”が格段に向上したのは言うまでもない。いや“マナー”というよりも“心構え”……いやいや、“精神”と言うべきかもしれない。

 そこで特に感じるようになったことは、男性運転者の“ゆとり”や“品位”の欠如だった。せっかく一定の車間距離を保って走っていても、すぐに割り込んで来る。右左折の際に、慎重に直進車や歩行者を待っていると、クラクションを鳴らして急かそうとする。何とも落ち着きがなく、気忙(きぜわ)しい。それに加えて、「肘出し片手ハンドル」、「吸殻の灰落とし」や「ポイ捨て」など。すべて男性運転者だ。恥ずかしいというより、哀しい気持にさせられる。

 それに比べて女性運転者は……。男性に比べて、何となく“ゆったりしたリズム”が感じられる。「モーグル競技」の実況アナウンサーが、『男女とも同じコースを滑り、男女のタイム差は5秒……』と言っていたのを想い出した。

 この『5秒という性差』に、一つのヒントがあるような気がする。スピードを競う場合は別として、少なくとも男性よりも“スピードを抑える”ということが、女性の意識や行動の始まりに大きな影響を与えているのではないだろうか。それは“生命を宿し、それをより安全に生み育てなければならない”という、“母性(母体)本能”から来ているのは言うまでもない。

 そういう「一つの結論」に達したとき、A嬢の言う『男性はお化粧をしないので可哀想だと思いますよ』という言葉が、ストンと胸の中に降りて来た。女性にとって、『化粧(化粧道具や化粧行為)』は生物学的な“本能”から来るものであり、スポーツにおける『男女のスピード差=性差』は、そのささやかな証明の一つと言える。

 無論、スピードの問題だけではない。女性は男性に比べ、その肉体も精神もきわめてデリケートであり、しかもそのデリカシーのバリエーションは、天文学的な数値を示すのだろう。
 
 その日の、いや一瞬一瞬の自分というものを確かめる習性が、本能的に備わっているようだ。そのときどきの季節や曜日や時間帯の中で、太陽の輝きぐあいや空の色、雨の降るさまや風のそよぎの微妙な変化を本能的に感じながら、刻々と変化していく自分の体調や気分を調整するために、たえず身だしなみや『化粧(化粧道具や化粧行為)』のチェックをしているのだろう。
 そのためにも、むやみに“急いではならない”のであり、また“他の生命”を脅(おびや)かしてもいけないのだ。

 問題は、女性たちの『化粧(化粧道具や化粧行為)のチェック』すなわち“化粧の哲学”に匹敵するものを、男性は持っているのかということだ。

 答えは“否”と言わなければならない。少なくとも今の筆者には思い浮かばない。だが、この答えは、これからの「オマケ」としてとっておくのも悪くない……。 (了)

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 ――うちのかみさんを車に乗っけると、必ず化粧を始めるんですよ。あっしはあれが嫌で嫌で……。そのうえ、こう命令するんです。『急ブレーキを踏むようなことだけは絶対に止めてね!』。
 でも、これからはちっとは眼をつぶってやることにしやしょうかね。……しかし、旦那。「電車の中の化粧」だけは止めてもらわねえと。あれだけはどうにも許せねえ!

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 ――ねえ? ひとつお聞きしたいの。車の運転をしていたというその女性……『比較的若い』ってことですけど……。言葉の正確さを心がけるあなたにしてはとても曖昧じゃありません? “比較的”とおっしゃるからには、「比較の対象となる方」でもいらしたのかなと思って……。