『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・師走のハムレット(下ー2) 最終回

2010年12月30日 06時16分30秒 | ■つれづれに(日記)


 ひとしきり「N紙販売店主」の話を聞いた後、筆者は応えた。

 ――リーマン・ショックは、私の仕事関係の建築・不動産業界、そして私の仕事にも影響を与え始めています。誰もこの影響から逃れることはできないでしょう。Y紙の後はA紙……。もうこの順序を替えることはできません。“そのあと”でよろしければ……。

 2008年の師走半ば――。この瞬間、2009年は「A紙」、2010年は「N紙と決まった。それにしても、“そのあと”でよろしければ……。とは、筆者が言う必要はあったのだろうか。

 ……しかし、もうすんでしまったこと。いいではないか。2010年の「N紙」が終われば、総てが解決する。筆者はしばし、安堵感に浸りながら振り返った。

 2006年から2010年までの5年間、「購読紙」は1年毎に「N、A、Y、A、N」と、見事に交代している。これに2011年の「A紙」が続く。となれば、そのイニシャルは「NAYANA」と並ぶ。「A」が母音のように見え、そう想うと何となく心も弾んだ。

 ……年が明けたその日。玄関横の元日用ボックスの中に、あの“愛燦々……”いや違う“朝日燦々……”の「A紙」が待っている。分厚いひと束の重みを感じながら迎える一年の始まり……。その瞬間、忘れ去られ、混乱の中を彷徨(さまよ)い続けていた“”も安住の地に還って来るというもの。しかも、forever……。
 
 だが、ある“疑念”が、筆者の脳裏を急速に駆け巡り始めていた。

 「A紙」から、「来年の購読を確認する電話」がないということだった。あの2007年師走の「Yの悲劇」を体験しているA紙。あれだけ口惜しそうに語っていたではないか。それが何の連絡もないとは……。いや、待てよ。すでに「確認の電話」があり、それを筆者が失念していたということはないだろうか…。いやいや、忘れるほどまだ惚けてはいない……。

 “疑念”が膨らみ始めた筆者の心に、一つの“不安”がきざし始めてもいた。
 それは数日前、N紙の配達員と顔を合わせたときのことだった。人のよさそうな華奢でおとなしい青年。彼の軽い会釈の言葉が妙に気になりだした。よく聞こえなかったが、『来年もよろしくお願いします』……青年は確かにそう言った。そして、筆者は反射的にうなずいていた。
 
 あれは、年も押し詰まった際の単なる“挨拶”だったはずだ。だからこそ、こちらもうなずいたのだ。

 だが『来年もN紙をよろしく』と言う意味だったのだろうか。もしそうであれば、“承諾”のサインを送ったことになる。はたしてどっちだろう……。

 筆者はハムレット的な懊悩に入りかけようとしていた。
 あさって元日。配達される新聞は、AなのかNなのか?……いや、そもそも配達されるのかされないのか?……。いやいや、ひょっとして……ひょっとしたら……AとNとが同時に配達されるということも……?
 
 「操の定理」を脳裏に描きながら、アラカンのハムレットは、さらに独り呟いていた。    
 
 “混乱を招いた操は、さらなる混乱を招く……ということもある”
  
  いや、これはハムレット的ではない。筆者は、おもむろに呟いた――。

 “……忘れ去られた操は……”

 しかし、それにしてもとにかく眠い。今日は大事な原稿もあるというのに……。

 “眠るべきか眠らざるべきか……それが……………z z z……
  
       
                             ―完―


※註/リーマン・ショック 2008年9月15日。150年の歴史を誇る、全米第4位の投資銀行『リーマン・ブラザーズ』が破綻。市場や金融界は、想像以上に早く反応した。その影響が、3か月後に地方都市の「新聞販売店」に及んだのは、自然ななりゆきであったと言える。そしてこのショックは、今日なお「日本経済」、いや「世界経済全体」を巻き込んでいる。  

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・師走のハムレット(下―1)

2010年12月25日 16時05分58秒 | ■つれづれに(日記)

 

 ……忽然と現れた「Y紙」との突然の「一時的同盟」……。後世の歴史家は、「緊急避難的同盟」……いや、「ご都合主義的同盟」とでも呼ぶのかもしれない……。「大義」のためには、甘んじて受けることとしよう。
 だが「能書き」はともあれ、その「ご都合主義的同盟の選択」は「当事国」だけの問題ではすまなかった。

 やがて訪れた「絶対的同盟国」の「A紙」。それとなく権利を仄めかしながら、「A紙」の最前線指揮官は毅然と言い放った。 

 ――「N紙」のあとはずっと「うち」(A紙)ということでしたから、ご挨拶もしないまま……「うち」も念を押しておけばとよかったのでしょうが……控えておりました。で、「そのあと」は「うち」でよろしいですよね?

 「A紙」の「主張」に対する「わが軍」の「返書」は、実に弱弱しくまたきわめて曖昧なものでしかなかった。「しばらく時間を……」と言うのがやっとだった。

 無論、「長年の協調」を強く訴える「N紙」も黙ってはいなかった。

 ――「うち」のあとは、「紙」だけと言うことでしたよね。それで「うち」は控えていたんですが……。それが「Y紙」が入っていたなんて……。

 電話口の向こうで、それとなく“口惜しさ”を滲ませながら、「N紙の指揮官」は呟く。その哀愁と苦渋とが充分伝わって来た。相手の立場に立てば、同じように考えるはずに違いない。 
 そこで、ここに「第3の定理」が確立する。

 “一旦忘れ去られた操は、混乱を招きやすい……”
 
 「歳月」も「新聞」も人を待たず――。

           ★

 問題の「Y紙」との購読期間が切れる時節が近づいて来た。言うまでもなく、それまで当然のように「紙」と「N紙」からの攻勢が何度かあった。だが「返事」を先延ばしにしていたのだ。

 2008年、師走の寒い夜――。その電話はかかって来た。「N紙」の「指揮官」は電話口で言う。どうやら何かの「記録」を見ているようだ。

 ――2006年までが「うち(N紙)」、2007年が「A紙」、そして2008年が「Y紙」ですよね。となれば……。

 言われてみて、初めて気づいた。1年ごとに」「」「」と、1年ごとに見事に替わっている。順番通りとなれば、来年2009年は「N紙」と言うことなのか……。ん? しかし、これはどういう「根拠」に基づいているのだろうか。このように判断する……いや、判断せざるを得ない「法理」とは何ぞや?
  だが、この哲学的思惟を凌駕する「N紙指揮官」の「攻勢」が始まった。

 ――ご主人。うちら中小企業、いや、零細も零細の販売店……。ほら、例の「リーマン・ショック」……あれご存じでしょ? うちも、もろに影響を受けましてね。でも、これからますますその余波というんでしょうか。出て来ることになるでしょうね……。 

 「リーマン・ショック」を出されるというのは、実に辛いものがあった。なぜなら筆者自身、この「リーマン・ショック」によって、堅いと思われた「コンサル契約」を逃していたのだ。
 それにしても、「N紙指揮官」の電話は、いつも巧みだ。「電話セールス」といって簡単に片づけられるものではなかった……。(続く)(次回が最終回)

  

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・師走のハムレット(中の2)

2010年12月19日 08時59分56秒 | ■つれづれに(日記)

 

 “操”への重大な危険を予感させる“天啓”……。だが、“東山魁夷先生の『道』や『静映』などが手に入るのであれば、たとえ……を……することがあっても…と芽生え始めた“ただならぬ決意”……。

 To………or Not To………。筆者は、完全に「ハムレット」的な“懊悩”の世界に没我しようとしていた。

 なのに……である。最前線の指揮官いや「」は、東山魁夷先生にも、目の前の筆者にもとんと興味を示さず、自信なさそうに、ファイルの文字を目で拾っているだけではないか。

 おそらく、この男は想っている――。自分の目の前にいる「A紙“命”のおっさん」……。まかり間違っても、日本画などあるわけがない……と。どうみても、「魁夷」などの漢字の読み方すらしらないだろうに……。

 その証拠に、男の表情には明らかに、“最前線からの離脱”をうかがわせる注意の散漫さが見て取れた……。

 その瞬間、筆者は確信した! 男は、もう「白幡をかかげようとしているのでは?」……そうなったのも、きっとあのひと言――。『A紙とN紙以外は購読したことがなく、残りの人生はひたすらA紙とともに』という。そうだ! あれこそが“先制攻撃”であり、「Y軍」の“戦意”を完全に喪失させたのだと。

 同時に、あの“一撃”こそが“終戦の宣告”となっていたのだろう。とするなら、“無意味な戦い”は一刻も早く終結させなければ……。
 だが、そのときだった――。

 ――ああ、来年の1月……来月からの配布ですね……。

 男は相変わらず、ファイルに視線を落としたまま、ぼそっと呟くように喋っている。しかし、筆者にとって、彼はもはや「敵」ではなかった。彼はまぎれもなく「敗残兵」いや「敗軍の将」であり、筆者は「戦勝国」として、ジュネーブ協定以前に“彼を保護する”必要に迫られていた。

 ……次第に高まりつつある“歓喜”と、一刻も早く「敗軍の将」の話の先を“聴きたい”いや“受け止めてやらなければ……”とする衝動を、筆者は必死で抑えていた。
 せめて、話だけでも聞いてやろう。東山魁夷先生のことを、どこまでどのようにこの「敗残の指揮官」は語るのだろうか。

 その「敗軍の将」は語り始める――。

 ――で、ですね……。そうそう、これこれ……この2つ……

 「敗軍の将」は他人事のように小さな声で呟いている。筆者は、学生時代に何度も“戦いを交えた”、あの果敢な「Y戦闘員」を思い浮かべた。それに比べて、この目の前の……。何と言う違いだろうか。“野武士的なしぶとさ”で定評のある「Y軍団」。その輝かしい“栄光の歴史と伝統”は微塵もなかった。

  ――ほら……『白い朝』……と、そう、この『』という絵です……

 東山魁夷作品の『』……。≪道≫という“言霊(ことだま)”が宙空を浮遊する……。

 その瞬間、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んできた筆者は、新たなる太平の世への一歩を踏み出すため、また「戦勝国」としての“措置を敢行”するため、時局の収拾に当たらなければならなかった。筆者は静かに、そして一縷の迷いもなく“終戦”を宣告した。

 ――要するに、1年間契約すれば、東山魁夷先生の絵が毎月2枚貰えるということですね……。だったら、来月から1年間だけ……。 

 「貰える」……「だったら」「だけ」という言葉に、「戦勝国」としての“ささやかな優越感と賤(いや)しさ”とを滲ませながらも、筆者は《その言葉》を、まるでラーメンの麺の固さを注文するかのような軽さで言い放っていた。自分でも不思議な、そして信じがたいほどの決断だった。 

 そこで、ここに「第2の定理」が確立する。

 “操は、高雅な芸術のために沈黙する……こともある
 
 …………いや、やはり、ここは「歴史の当事者」として、“真実”から目を背けてはならない。

 “操は、ひょんなことからあっけなく忘れ去られる……こともある

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・師走のハムレット(中の1)

2010年12月14日 04時54分07秒 | ■つれづれに(日記)

 

 筆者のマンションは、往来に面している。ノ―ロックのため、セールスマンの格好のターゲットだ。それに加え、筆者の部屋は往来に一番近い一階の端と来ている。

 やっと「A紙」に戻って半年経った頃。ちょうど3年前のことだった。

  天気がよいこともあり、玄関廻りを掃いていた。「師走」に入ってすぐのこの日、マンションの敷地内には、枯れ尽きた落ち葉が目立った。

 ――今年最後の落葉でしょうね。
 男の声に振り返った。筆者と同年代だろうか。男はかすかに微笑んでいる。とっさに、セールスマンであることを直感した。何のセールスだろうか……。

 ――旦那さん。失礼ですが、新聞は何を……? 「Y紙」の者ですが……。
 男はこちらの懸念をよそに、あっさりと正体を現した。久しぶりに接する「新聞拡張員」。それも「Y紙」……。だが学生時代のように、「アンチ○○!」と騒ぐほどの敵意はもはやなかった。それでも「第○次Y戦争」の“第一陣の攻撃”は、いきなり、しかし静かに始まった。

 筆者は男に告げた。生まれてこの方、「A紙」と「N紙」以外は購読したことがなく、残りの人生をひたすら「A紙」とともに……ということを。その堅い決意に、われながらひそかに勝ち誇った気持だった。それはもう、「勝利宣言」に等しかった。何といっても「Y紙との数次の戦い」において、ただの一度も敗北を喫したことなどなかった。

 それに加えて、かたくなに守りとおそうとする“A紙純血主義”。誰が見ても、この戦争の“早期終結”は明らかだった。あとは、いつ“終戦を宣告”するか……時間の問題でしかなかった。

 しかし、「Y軍」は、わが方の平和的な思いなど、どこ吹く風で聞いている。いや、そもそも、ちゃんと聴いているのだろうか……。まるでC半島のあの御仁(ごじん)を彷彿とさせる……。
 
 勝ち誇った気持はあっと言う間に萎(しぼ)み、予想不可能な「Y軍」の静けさに不気味なもの感じ始めていた。油断は禁物。今一度、“戦況”を沈着かつ冷静に眺めなければ……。と、心を引き締めようとしたそのとき、Y軍の“第二陣の攻撃”が始まった。

 ――旦那さん、「」なんかご覧になりますか?
 「え?」……いや、「」? 敵は予想だにしない「兵器」を持っている。 「絵」とは、いったいこれいかに? しかし、もちろんそのような表情は一切見せなかった。そうした緊張漂う中、筆者は正直に、そして控え目に頷(うなず)いた。Y軍の最前線指揮官は、さりげなく言う。

 ――東山……という……偉い画家の先生ですがね……。
 再戦線の指揮官は、「資料」を確かめるように、手持ちのファイルを開いた。そのファイルの隙間にちらっと見えた「絵」に、筆者の目はすばやく反応した。

 それは、筆者が大好きな東山魁夷(ひがしやまかいい)画伯の「」という絵だった。好きなどというものではない。この30年来、日本画といえば「東山魁夷」であり、中でも断トツ好きなのがこの作品だった。最前線の指揮官は、事務的に言葉を続ける。

 ――来年から1年間、読者に「毎月」この先生の」を2枚ずつ配布」するんですよ

 (筆者の心の声)
 『……東山魁夷先生の作品が配布される……。それも1年間……。ということは2作品×12か月=24作品……。もちちろん「道」も当然ある……だろう……』

 筆者の脳裏に“天啓”のように“言葉”が、そして24枚の作品を眺める筆者自身が降りてきた

 ……だが……である。その“天啓”は、“”に重大な危険が迫っていることを、秘かに予感させるものでもあった。はたしてこの“天啓”は、「天使」からのものか? それとも「悪魔」からのものであろうか?

 ああ! 読者諸兄諸姉よ…… “操”の運命やいかに……! 
 
 to be continued……

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・師走のハムレット(上)

2010年12月10日 21時11分05秒 | ■つれづれに(日記)
 

 東京にいた4年間の学生時代と卒業後の1年、全国紙の「A紙」を購読した。古いアパート住まいのこの時代、何度も複数新聞の「勧誘員」の攻勢に遭った。しかし、誰が何と言おうと、筆者はひたすら「A紙」に忠節を誓い、「他紙」を寄せ付けなかった。

 その日も、販促用の「洗剤」をちらつかせながら、50前後の「Y紙の勧誘員」の攻撃が始まった。筆者は正直言って、この「Y紙」は好きではなかった。いや、はっきり言って嫌いだった。いわゆる「アンチ○○」だったのだ。

 しかし、目上に対する非礼を慎むあまり、この日は防戦一方となっていた。そのため、しぶとい「Y紙」の勧誘員は、一段と攻勢を強めた。

 ――A紙といえば、頭が良い学生さんが読んでますね。でも若いうちから一つの物の観方に偏るというのはどうでしょうか。人間、バランスが大切ですからね。「A紙」を否定するつもりはありません。でもそれ一本というのは……。

 時代は「70年安保闘争」(※註1)の前年。学生と言うだけで「ラディカルなリベラリスト」(※註2)と思われた。特に「A紙」は「他紙」に比べ、やや「反××的」な一面があったことは否めなかった。勧誘員はとにかく粘る……。

 ――2年も3年も取ってくれとは言いません……たった1年間、1回きりです。それでこれだけの「洗剤」が全部貰えるんですよ。学生さんなら一年分はゆうにあるでしょう。今この洗剤がいくらするか知ってますね? 君だって、親孝行もしたいでしょうし……。

 だが筆者は、何とかこの“闘い”を制し、A紙への“忠節”を貫いた。
 この勧誘員は、その後何度も訪れた。そのたびに、“思想の偏りと親孝行云々”を繰り返した。おそらく学生向けの“常套文句”だったのかもしれない。

 その後、1年間京都に移り住んだ。このときも、もちろん「A紙」だった。
 翌年、実家の福岡へ戻ったとき、両親が愛読する地元の「N紙」を読むことになった。その数年後、結婚して所帯を持ったときもやはり「A紙」となった。

 我ながら、「A紙」に対する“忠節”は“読者の鏡”といえる。いやもうそれは、かたくなに守り通す“操”と言ってもよかった。
 
 そこで、ここに「第1の定理」が確立する。
 “操は、それが攻撃に遭遇すればするほどいっそう強固になる”

 そして10年前、母と二人暮らしのこのマンションに来た。このときは、母が読み慣れている「N紙」にした。「N紙」との付き合いは、母が入院する3年半前まで続いた。入院にともない、筆者は約7年ぶりに「A紙」に“戻る”こととなった。
 これで命のある限り「A紙」への“操”を守り通すことができる……そう思ったのは自然のなりゆきだった。

 朝起きて、玄関のドアに幾重にも折りたたんで挟んである「A紙」。開いたとき、独特のインクの“におい”とともに右上肩に見える「シンボル的な朝日の模様」。その模様を背景に並ぶ四文字の「ロゴ」……。
 一日の始まりであり、なぜか落ち着く一瞬……といえるものだった……のだが………。


 ※註1/70年安保闘争:1968年頃から盛んになった「日米安全保障条約(安保条約)に反対する労働者、学生、市民レベルの反政府、反米運動。
   註2:ラディカル(radical)=急進的。リベラリスト(liberalist)=自由主義者。 
                            
 
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・長距離少年との約束(下)

2010年12月02日 12時35分53秒 | ■つれづれに(日記)
 

 女性スタッフと言っても、二人ともアルバイトの女子大生だった。
「気をつけるのよ」
「ちゃんと帰りなさいね」

 二人の声を背に、少年は腰をおろして靴を履こうとしていた。姉のように接する二人の女子大生。その優しさに少年はいっそう饒舌になり、背中越しに話し続けている。

 ……予想以上に“こと”がうまく運んでいる……と感じた少年の“こころ”が、一瞬、“小さな滓(おり)”となって私の“こころ”を掠(かす)めた。

 私はゆっくり、そしてはっきりと少年の背後から声をかけた。
「君の名前と住所と電話番号を教えてくれないかな?」
 振り返った少年の目と、私の目が合った。俯き加減に私のメモ用紙を受け取った少年は、その上に視線を落としたまま沈黙した。

 『人にお金を借りたら、自分がどこの誰で、借りたお金をいつどのようにして返すかを約束するのが、社会というものだよ』……と言いかけてやめた。
 その代わり――、
「今日中に帰って、家に着いたら必ず電話をしてね」
 という言葉に置き換えた。少年は軽く頷きながら、観念をしたようにすらすらと書き始めた。

 すでに「家出少年」であることを察知していた私は、彼をこの場に引き止め、自宅に電話をかけようかとも思った。しかし、どう考えても、少年がこのまま何日も家出を続けることなど考えられなかった。

 少年が立ち去ると同時に、私は電話を入れた。すぐに母親が出た。
「子供は今どちらに? お宅様の住所は? お金はいくらお借りしたのでしょうか?」
 息もつかずに尋ねる電話の声。その様子に母親の情愛を感じながらも、“どこか手がかりを待っていた”かのような“手慣れた”印象を受けた。

 少年が立ち去ってから2時間。帰り着いてもよいと思える8時近くになっていた。
 しかし、少年からの電話はなかった。9時になっても10時になっても電話は鳴らなかった。私は引き留めるべきであったかと多少後悔しながら、オフィスを閉めた。

 翌朝、少年の父親から電話があった。少年は夜中の1時過ぎに帰って来たという。私はほっとすると同時に、少年二人の「空白の5時間」を想った……。バス賃をゲームに使い、夜の繁華街をうろついていたのでは……。いや、小学生にしか見えないあの少年のこと、すぐに補導されるのがおちだろう。それにもう一人の少年は何も食べてはいないはず。二人して何か食べていたのかも……。
  
 私は繁華街のゲームセンターから自宅までの道のりを、深夜たった一人で走り続ける少年の姿を想い描いた。ひたすら走り続ける少年。彼は何を考えながら、家路に向かっていたのだろうか。
 
 あれから十数年――。はや三十路すぎとなっている少年。私は、かろうじて記憶の片隅に残っている“少年”をぼんやりと想い浮かべた。春の夕べ……。少年と二人の女子大生……。私は、二度と戻ることのない“あの春の夕べの四人のひととき”を、なぜか懸命に巻き戻そうとしていた。

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