お茶を飲んだら、さっさと帰る?!
私が初めてこの言葉を知ったのは、坐禅を始めて間もない頃(前回の『一休の頓知問答』を参照)、ある寺に掲げられた大きな額の中だった。
さっそく調べたところ、“お茶を飲んだら、さっさと帰る” という意味とあり、それ以上の詳しい解釈は特になかった。そのため、自分なりに次のように受け止めていた。
……どのようなことであれ、“あること” を行うときは真剣に取り組み、それがひと段落ついたら、もう “そのことに執着することなく心を離れ、次なる物や事に全身全霊を傾ける”。
つまりは、“お茶を飲む” ときは飲むことに集中し、飲み終えたら、身も心も「お茶」のことから離れて速やかに立ち去る……と。
『喫茶去』という “字面の並び” についても、気に入っていた。「茶」の字を間に挟んで、「喫」と「去」が、前後いや左右に分けられている。
かたや「……茶を喫する」、かたや「その茶から離れ去る……」。まさしく道元禅師の言う “前後裁断” であり、いうまでもなく “一切の物や事に執着しない” に通じるものであると……。
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しかし、しばらく後にこの「去」には「置き字」としての働きがあり、「喫茶」の二文字の語調を整えながら、意味を強調するための「字」であることを知った。
つまり、本来は「去る」と言う意味を持たないということだ。
結論を言えば、ごく単純に “茶を喫する”、すなわち “お茶でも一杯” という意味のようだ。
この『喫茶去』は、中国・唐末期の趙州(じょうしゅう)禅師に由来する。
趙州は事あるごとに、用件はさておいて『まあ、お茶でも一杯どうぞ』と言って、誰彼となく勧めたという。つまりは「行住坐臥」の一例としての「挨拶」だったのかもしれない。その逸話として、以下のような三人に対する “喫茶去 ”がある。
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趙州のもとに、二人の僧が訪ねてきた。趙州はその一人に問う。
趙州「以前、ここに来たことはあるのか?」
甲僧「いいえ」
趙州「喫茶去」
さらに、趙州はもう一人の僧に問う。
趙州「以前、ここに来たことはあるのか?」
乙僧「はい。あります」
趙州「喫茶去」
以上に対して、院主が趙州に訊ねた。
院主「初めてここに来た者にも、以前ここに来た者にも、師は同じように “喫茶去 ”としかおっしゃらなかったようですが、なぜでしょうか?」
趙州「院主よ」
院主「はい。なんでしょうか?」
趙州「喫茶去」
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