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『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

●演劇鑑賞文遅れの顛末とお詫び③(最終回)

2018年08月19日 10時46分58秒 | ●演劇鑑賞

  3種類全80巻計230㎏の美術全集

 ………………3種類の美術全集を自室で楽しむ……そのための「専用書架」購入の “決意” 。そのことが演劇鑑賞ノート紛失の「第一楽章」になるとは。無論、神のみぞ知る世界であり、凡夫の与(あずか)り知るところではなかった

 本稿①に紹介済みの「A・B・C」3種類の「美術全集」は、2011年3月末に現在のちっぽけなアパートに引越して来て以来、ずっと「押入れ」の中にあった。全集3つの総容量は、ほぼ「押入れ」下段の3分の2を占めていた。

 それだけのものを「押入れ」から取り出すということは、当然、それだけの「総容量」を「室内に確保」することを意味する。と同時に、それらをいつでも鑑賞できるようにするためには、結構な大きさの頑丈な書架も必要だ。

 「美術全集」はサイズも大きく重量も結構なもの。前回は「C」全集のみの紹介だったが、今回は「A・B」各集のサイズと重量をお伝えしよう。※以下の「サイズは縦×横×厚さ」の順(単位はcm)。「重さ:kg」は1巻の平均です。ちなみに、各巻の定価は「A:2,400円」「B:5,200円」「C:3,800円」。

 『A:「世界の美術館」25巻』(講談社版)

   ……38×27.5×2.5。2.5㎏×25巻=62.5㎏

 『B:「現代世界美術全集」25巻』(集英社)

   ……40.5×31×3.5.3.4㎏×25巻=85㎏

 『C:「原色日本の美術」30巻』(小学館)

   ……37×27.5×3.5。3㎏×30巻=90㎏

 「3種総巻数80巻」の「総重量」は、何と230㎏余にも及ぶ。そこで筆者は、3種総巻数の「体積(㎥)」と「重量」をもとに、それらが確実に収納できる「間口・奥行き・高さ」を[5㎜方眼紙]に割り出した。つまりは、それらのサイズや容量に見合った「スチール製の書架」の当たりをつけるためだ。

       ★

 翌日、筆者はホームセンターにおいて、お誂え向きの「スチール書架」を手に入れた。間口:80㎝、奥行:40㎝、そして高さ:177㎝の全5段(スチール枠内4段)であり、結果として「A・B・C」3種の美術全集が、少しの無駄なくピッタリと収まったのだ。その心地よさと言ったらなかった。

 ……誰かがふいに訪ねて来る……なんてな……ことはないだろうか……そうなれば「第1号の閲覧者」として招き入れ、館長みずから美術講義をのたまわる……………天にも昇りかねない能天気の寸感ここにあり……の図であった。 

 ……と簡単にケリがついたかのような表現だが、そこに行きつくまでには既存の小さな書棚」を移動させなければならなかったし、移動させるためには必然、その「書棚」から本を取り出さなければならなかった。もちろんそのあと、整理・分類した本を再び「小さな書棚」に戻す作業があった。

 実はこの「整理・分類」とそれに伴う一部書籍の室内処分に一番手間がかかった。それら一連の作業あっての「スチール書架」の “新加入” であり、美術全集「A・B・C」の “デヴュー” となった。

 

 Missing狂騒曲

 今振り返って考えるとき、この “デヴュー” だけで終わっていれば何ら問題はなかった。返す返すも口惜しいの一言、いや二言に尽きる。余計なことを考えずに、すんなり終わらせるべきだったのだ。少なくとも、“著しく整理整頓能力が欠落した輩” のすべきことではなかった。

 だが後先を考えない “行き当たりばったり” を常とする御仁は、そのとき血迷ってつい色気を出してしまったのだ……

 ――この際、ついでに他の書架も、一度全部の本を取り出して根本的に整理しなおしてみよう……。

 この “悪魔の囁き” こそ、「演劇鑑賞ノート」のmissingへと通じる「第二楽章」となってしまった。

 ……………正直言って、思い出すことは辛い。そして、情けない。結末を明かせば、依然「演劇鑑賞ノート」はmissingのままであり、筆者の “演劇感想記述意欲” を、著しく損ねてしまったのだ。

  missingにきづいたこの時機、筆者の住処は「部屋」の中のみならず、キッチン・廊下部分、玄関脇の下駄箱の上に至る部分まで「足の踏み場もない」どころか、「ロフト寝室部」のテーブルや布団の上にも、“広げられた夥しい本の散乱に占領されてしまっていた……。

 ……そしてこれら 広げられた夥しい本の散乱” が治まったあと、筆者が再び演劇鑑賞ノート」を目にすることはなかった。

 ……だが以上の事実は容易に受け入れがたい。そこでその後、幾度となくmissing note の “捜索を敢行” したのだが、その甲斐なく依然、「演劇鑑賞ノート」は “missing” という惨めな確認に終わった。実は昨土曜日深夜にも捜索を試みたのだが……………。(了)


 

 


●演劇鑑賞文遅れの顛末とお詫び②

2018年07月20日 01時00分19秒 | ●演劇鑑賞

 わが「古書鑑定能力」やいかに

 「BО店」に持ち込もうとしたC:原色日本の美術」(小学館)は、「全30巻揃い」で手入れは良好。購入時は、1巻3,800円で全巻114,000円。その金額にあらためて驚いた。しかもそれは、42年前の刊行となっている。

 「物」の扱いは少々ぞんざいといわれる筆者だが、こと「書籍」に関しては自負するものがある。ましてやそれが「美術全集」ともなれば、自分でも感心するほど行き届いた取り扱いをしている……と思っているのだが

 ともあれ、ネット上の各種「販売価格」の実態からして、「1巻:150円から200円」くらいは行けるのでは? そうなれば、30巻で4,500円から6,000円……というところだろうか。間をとって「175円×30巻=5,250円」。まずまずというべきか。

 ふと思った。ひょっとしたら筆者は「古書鑑定能力」なるものが、本人も気づかぬうちに育っているのかも知れないと。何と言っても大学時代、世界有数と言われる「神田神保町の古書店街」に足げく通っていたのだ。かくて、わが身一人の思惑は、際限もなくオプティミスティックに広がり始める。夢と希望をさらに膨らませながら……。

       ★

 「BО店」に到着した。実はこの店にはこれまで本を「買いに行った」ことも、「売りに行った」こともない。そのためだろうか、さきほどの武者震いが再び全身を巡った。そしてその武者震いは、応対の「女性スタッフ」を見た瞬間、ある種の “不安” へと変化し始めていた。

 彼女は若かった。どこか初々しさの残る感じに、新卒のような印象を受けた。たえずニコニコと愛想は申し分ない。だが “美術全集について、どこまで理解しているのだろうか?” との疑念を取り除くことはできなかった。

 彼女は30巻を手に取ってしげしげしげと眺めたりはしない。全体の巻数を確認しながら、十数巻をカウンターの上に並べる程度で、特に精査している様子は見当たらない。その代わり、パソコンや資料を覗き込んだり、誰かと携帯で連絡を取りあっているようだった。

 “どこからかベテランの査定人が現れるのだろうか?” 期待と不安相半ばしながらも、少し落ち着き始めたとき、彼女は、やや緊張した面持ちで筆者に言葉を発した。

500円になりますけど……』

 ――筆者は考えたそういえば「人気のある巻」は、バラでも1巻500円~1,250円ほどで売りに出されているものもあり、「不人気の巻」は30円~60円というものもあった。ということは「1巻平均:500円」という評価なのか。つまり500円×30巻=15,000円》……。そこまで考え及ぶのに5秒とはかからなかった。

 ――いやまてよ! ネットでの「販売価格」の大勢からみても、「BO店」が「15,000円」で「仕入れる」ことなどありない。だが次の瞬間! 一つの “疑念” がよぎった。

 ーー彼女は、何かとんでもない勘違いをしているのかもしれない。社会経験と書籍に関する知識不足のため、的確な「価格査定」とはならなかったのでは? となれば、天性の「古書鑑定能力」を持つ筆者が、己の利益享受のために知らんぷりするなど、如何なものだろうか……。 

 と一瞬そう思ったものの、さきほどの我が最終試算の「175円×30巻=5,250円」が再び脳裏を掠めた。それを3倍近くも上回る15,000円などありえないのだ。となれば、こちらのとんでもない勘違いということに……

 そう思い直して彼女を見た。笑顔ではあるものの “どこか申し訳なさそうな下向き視線”となっている。その “俯き加減” に “胸騒ぎ” を覚え、はっと我に返った。そして筆者はしっかりと彼女を見据えたまま、おもむろに尋ねた。

500円というのは1巻の値段ですか? それとも全30巻という意味でしょうか?』

『…………全巻です』

 その答えまでに “ひと呼吸” あったことが、今思えば救いだったのかもしれない。だがそう思いながらも同時に、500円÷30巻=16円66銭という厳粛な「計算式」が、何度となく脳裏にフラッシュバックした。

       ★

 出版時とさほど変わりない保存状態の全集――。美術全集1巻のサイズは「縦37㎝×横27.5㎝×厚さ3.5㎝」。それに「重さはジャスト3㎏」。……その「美と知と感性の書」の価値が、10円玉と5円玉と1円玉2個にも満たないとは。我が人生において、これほど惨めな計算の記憶はない……。

 筆者は言いたいことをすべて封印し、穏やかな笑顔で彼女に丁重に語りかけた。

申し訳ないけど売るのを中止して、このまま持って帰りましょう。お手数をおかけしました。ごめんなさいね

 彼女はとまどいながらも、申し訳なさそうな笑みを見せた。筆者はカウンター上の十数巻を段ボールに入れ、残り5つの段ボールとともに車に積み込んだ。

       ★

 帰り道、「A、B、C3つの美術全集は絶対に手放さないことを心に誓った。のみならず、いつでもそれらを自室で楽しめるよう「専用書架」の購入も決意した。

 だがこの “決意” こそ、演劇鑑賞ノート紛失の「第一楽章」となったのだ。(続く)

 


●演劇鑑賞文遅れの顛末とお詫び①

2018年07月15日 12時29分06秒 | ●演劇鑑賞

 「演劇鑑賞ノート」紛失による混乱と遅筆

 本ブログの「演劇鑑賞」について、演劇関係各位をはじめ、多くの演劇学生諸兄姉が気づいていることがある。何よりも、「それに関するメールや書簡」をいただき、そのたびに “口にするのも恥ずかしい……いや情けないほどの言い訳” をさんざん繰り返さなければならなかった。

 それはまた、己の愚かさと虚しさに引き戻されることを意味するとともに、果てしなき後悔と自己嫌悪に陥るばかりだった。

 そう……いまさら、何を隠くすことがあろうか……。この際、“真実” を明らかにしなければならない。

       ★

 実は恥ずかしながら、筆者は “命の次に大切な或る【演劇鑑賞ノート】を紛失していた” のだ。それも「ノートが入ったバッグごと屋外で紛失した」と言うのならまだしも、何と『明らかにこの小さな自室の何処かに紛れ込んでいる……』という “真実”(99%の確信ある事実?!)に我ながら呆れ、その “嫌悪感と憔悴感” は “ハンパなかった” ……。

 紛失時期は、今年の3月下旬――。と言えばこの瞬間、演劇ファン各位は、『演劇ユニット「」(かぎかっこ)』『演劇ユニットMr.daydreamer』の「演劇鑑賞」が、いっこうに出てこなかったことを納得されたに違いない。

       ★

 本ブログ・カテゴリーの「演劇鑑賞」は、ご覧いただくとお分かりのように、最近の5回分はすべて『九演』(九州大学演劇部)の「2017年度後期定期公演2作品についてのもの。このときの「演劇鑑賞ノート」は、2作品のボリュームを考え、「この公演専用ノート」として別に用意していた。

 そのため、結果として “難を逃れ”、「九演・2舞台」の鑑賞文は、3月12日~5月6日アップの原稿通り、文字通り “難なく” 5回もの連載に結びついた。最初の3月12日の本ブログ原稿の最後は、次の一節で結んでいる――。

 【かくして、その「メモ」と前夜の観劇時に走り書きした“ミミズのごとき文字を頼りに、筆者はブログアップのための〈脳トレを開始した。】

 5回もの鑑賞文として、我ながら元気に張り切っている様が伝わってくる。 

 ……But! しか~し! である……。

        ★


 「演劇鑑賞ノート」紛失の序曲

 ところで、「演劇鑑賞ノート紛失事件」の発端は、「美術関連図書」の『処分問題』から始まった。筆者とて齢71。いつしか “終活” なるものを頭の片隅に描き始めたようだ。そこで、この小さなアパートに引越して来てからというもの、「押入れ」の奥に追いやられたままの「3種類の美術全集」を、なんとかしようと思った。

 持ち主にすら目を通されることなく、ひたすら暗闇に静臥したままの各美術全集関係3種。

 ・「ルーヴル」や「ヴァチカン」をはじめ、世界有数の美術館や博物館の作品群(A:「世界の美術館」25巻)

 ・「モネ」や「ルノアール」など37人もの大家の秀作群(B:「現代世界美術全集」25巻」) 

 ・伝統的な日本美術の集大成といった名品の数々(C:「原色日本の美術」30巻)

         ★

 筆者は考えた――。本を大切に、喜んで目を通してくださる方があれば……金額などいくらでも構わない。あるいは、図書館か公的施設などに寄付することはできないだろうか(※近くの公民館に問合せたが、これはダメだった。同じ考えの人々が多いようだ)……。

 そこで、物は試しとばかりに近くの「某(BO)店」に「」を持ち込むことにした。もちろん全30巻である。6つの段ボールに収め、2階から階段下すぐに車を寄せて運んだ。久しぶりの重労働となった。正直言って、このときほど力の衰えを感じたことはない。嗚呼!(続く)

 


●演劇鑑賞まとめ/『散歩する侵略者』『いちごをたべたい』(九州大学演劇部)

2018年05月06日 00時21分40秒 | ●演劇鑑賞

 《九演》に期待するもの

 今回は『:散歩する侵略者』と『:いちごをたべたい』の2つの舞台について、補足しながら最後の “締め”としたい。

 今回の舞台〈〉の鑑賞文については、友人より『九演に対する評としては、いつになく厳しいのでは……』というメールを受けた。『厳しい』という言葉に暫し沈思黙考の体であったが、筆者としては“励ましと期待”の気持ちの表れと思っている。九演》すなわち「九州大学演劇部」(※注1)は、全国でもトップレベルの「学生演劇集団」だ。そういう《九演》に対する“社交辞令的な賛辞”など、非礼というものだろう。

       ★   ★   ★

 さて、今回の〈A・B〉2つの舞台の組み合わせは、なかなかのバランスといえる。《定期公演》とあって、公演全体のボリュームや登場させるべき部員総数などを周到に加味しながら、メイン&サブの〈舞台〉のテーマ&ストーリーなどの組み合わせを考慮したのだろう。

 書画に例えるなら、舞台〈〉はちょっと小ぶりの「山水画の条幅」であり、〈〉は印象派風の「油絵の小品」といえる。無論、前者は墨痕鮮やかなモノクロであり、後者はこじゃれた金色装飾の額縁に、色彩豊かなキャンバスが収まったというところだろうか。

 そう考えると、カラフルな照明や分かりやすいBGMの舞台〈〉に対し、〈〉は敢えて“地味な照明や音響・効果”に徹したのかもしれない。つまりは〈散歩する侵略者〉を取り巻く“不条理性”や“不可思議性”を際立たせ、さらに“捉えがたい感情や意識”という内面の表現には、《全ての美術、大・小道具、衣装、照明、音響・効果等》を“モノトーン感覚”で貫くべし……とでも言うかのように。

 筆者がそう考えた理由は、公演当日の「案内チラシ」(※注2)の「スタッフ」名が、〈A・B2作品共通のスタッフ〉として表記されていたからだ。すなわち、「照明、音響、装置、小道具、衣装、宣伝美術、制作」の全てにおいて、各スタッフは〈A・Bいずれの作品も手掛けたことを意味する。無論、両舞台における“力点の置き方”に各人各様の違いはあるのだろうが……。

 以上のような“モノトーン感覚”で貫くべしとの意図が実際にあったとしたら、それは“一般的な学生演劇のレベルを超えて”いる。もっとも観劇者としては嬉しいことであり、《九演》舞台の尽きない魅力にまた一歩近づいたことになるのだが……。

               ★

 それにしても、〈〉におけるBGMの選曲やオペレーションは素晴らしいの一語に尽きる。ことにヒロイン〈姉さん〉の複雑に揺れる心情をラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」で表現したところなど心憎い〈音響〉効果であり、このときの〈照明〉とのオペレーション・コラボも申し分なかった。

 優れた〈照明〉あっての〈音響〉、そして無論、優れた〈音響〉あっての〈照明〉ということを、全身全霊を通して体得することができた。筆者は観劇中“(聞こえるものの見えない音楽・効果音”を“(見えるものの聞こえない)照明とともに視覚的に”感じながら、同時に“(見えるものの聞こえない照明”を“(聞こえるものの見えない)音楽・効果音”とともに聴覚的に”感じてもいた。

 このような“感じ方”こそ、《九演》が2014年11月に《海峡演劇祭2014参加作品》として上演した『桜刀』において体験したときの〈照明〉と〈音響・効果〉に通じるものでもあった。願わくば、あのように秀逸なデザイニングやオペレーションを確実に引き継ぎ、そこからさらに進化させて欲しい。

 それは九州のみならず、全国的に見て抜きん出た《九演》の使命であるのかもしれない。少なくとも筆者はそう思っているし、近い将来その一端を明らかにする機会があればと密かに願っている。


  ※注1:九州大学伊都キャンパス  ※注2:この「案内チラシ」自体の装丁やレイアウトそのものが、すでに〈A・B〉両舞台の “一体性” ……というより “不即不離性” といったニュアンスを醸し出しているようだ。


 散歩する侵略者(作/前川知大、演出/久保文恵)  

キャスト/加瀬鳴海:川口紗梛、加瀬真治:東馬場徳、桜井:中島怜音、船越明日美:大和真彩子、船越浩紀:白上惠太、天野光夫:塩塚直輝、立花あきら:下田花音、丸尾:小貫真太郎、長谷部:末廣勝大、車田:本西祐也 

公演情報散歩する侵略者』(九州大学演劇部2017年度後期定期公演) 


  『いちごをたべたい』 (作・演出/大野奈美、助演/菅本千尋

キャスト/姉さん:野上紗羽、賢治:橋本大智、イチ:槌井雄一、想太:久永海斗、萌:伊東佳穂、友輔:本名慶次、ちーちゃん:小島彩

◆公開情報いちごをたべたい』(九州大学演劇部2017年度後期定期公演)


  なお当日受け取った「案内チラシ」には、今回上演された〈2作品共通のスタッフ〉として、以下の名前が表記されていた。

スタッフ/【照明】石橋知佳、菅本千尋、野上紗羽、東馬場徳、塩塚直輝、末廣勝大 音響】河北佐那子、久保文恵、川口紗梛、染矢光信、小貫真太郎、小島彩、槌井雄一、橋本大智、本名慶次、大和真彩子 【装置】伊東佳穂、高橋拓也、川口紗梛、坂上義実、久永海斗、大野奈美、下田花音、白上惠太、中嶋怜音、本西祐也 【小道具】塩塚直輝、東馬場徳、染矢光信、小貫真太郎、槌井雄一、橋本大智 【衣装】小島彩、川口紗梛、菅本千尋、石橋知佳、下田花音、白上惠太 【宣伝美術】大和真彩子、野上紗羽、染矢光信、小島彩、下田花音、本名慶次 【制作】大野奈美、久永海斗、坂上義実、菅本千尋、石橋知佳、末廣勝大、橋本大智   


  最後に散歩する侵略者』の演出を手掛けた久保文恵、『いちごをたべたい』の作・演出を担った大野奈美、同助演の菅本千尋各嬢以下、これら2つの舞台に携わった全てのキャスト・スタッフ諸君」の、学業を含めた今後いっそうの精進を祈りつつ、敬愛と感謝の意を込めて本鑑賞の結びの言葉としたい。(了)

 

 tea break――  

◆『辻井伸行:月の光&亡き王女のためのパヴァーヌ』[10分07秒](デヴュー10周年記念特別コンサートから) クリック

 

       ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 ――それにしても、宇宙人が “概念” を奪うですって? あたくしの “美貌” や “品格” が奪われるなんて……ああ、やだやだ。……でも、奪われるのは “概念” なんでしょ? ……だったら平気。“概念” は奪われても、あたくしの “美貌“ や ”品格“ の “本質” が奪われるわけでもないでしょうから……。

 それにしても、あなたのお部屋……何というありさまなの? ああ! やだやだ。足の踏み場もないって……ほんとにあるのね。連休前に全部片づけるっておっしゃってたのに。

 ……え? 何ですって? 宇宙人に “片付け” という “概念” を奪われたって言うの? ふう~ん。……でもそれは絶対にないわ。あたくし1,000,000%の自信があるの。……あなたはこの世に来るとき、片付け”という “概念” を忘れて来たのよ。

 ……ああ! 神様。 今からでも遅くはありません。どうか、この方に “片付け” の “概念” をお与えくださいますように。……ほら、あなたも一緒にお願いしましょ。……ねえ? 聞いてる? ……ね~え? え? あれっ?……寝ちゃったの……? 

 


●演劇鑑賞:『いちごをたべたい』(九州大学演劇部)

2018年04月24日 17時10分07秒 | ●演劇鑑賞

 しっかりした「脚本」の成功

 舞台『いちごをたべたい』の“成功”は、一にも二にも「脚本」がしっかりしていることにある。“言わんとするテーマ”は明快であり、“ストーリーの展開”もまとまりがよかった。的確なキャスティングに役者達の無難な演技、それに登場人物7人の「キャラクター」やその“絡み方”も素直で分かりやすかった。

 『九演』(九州大学・伊都キャンパス演劇部)本来の“堅実な舞台創り”として、いつもながらの“知力の高さ”を感じた。〈舞台美術、照明、音響・効果〉にしても“基本をオーソドックスに踏まえ”たデザイニング、そしてオペレーションであり、これといった欠点は見当たらなかった。

 上演時間は程よい長さであり、人物の登場のさせ方については、かなり“分かりやすさ”に気を配ったようだ。そのため〈場面の転換〉に無理がなく、ごく自然に“物語の世界”に浸ることができた。初めて舞台を観た人も“フラッシュ暗算化”に陥ることなく、十二分にこの優れた舞台を、そして物語や役者を堪能したことだろう。事実、帰り際にそういう声を耳にした。

 前述のように、この舞台は“初心者向け”と言ってよい。といってそれは“作品のレベルが初級”というのでは決してない。それどころか、作・演出者の秘めたる才能と豊饒な開花を予感させるものであり、“余裕”をもった脚本そして演出との印象を受けた。

 そのためだろうか。筆者は“創り手側”の一員のように“ヤキモキ”することが一切なく、それだけ観劇に没頭することができた。

 

 巧みな「登場人物・役者」の活かし方  

 物語の舞台は、「キリスト教系の炊き出しをしている施設」といったものだろうか。世間的には、キリスト教会がホームレス等を対象に無償の食事を提供し、その活動をボランティアが支えるという実態が増えている。舞台は、そういう類の施設を運営する〈姉さん〉、〈賢治〉の夫婦をはじめ、〈〉という14歳の少女とその叔父の〈想太〉青年に、〈イチ〉というおっさんの5人がまず登場する。

 そこに〈姉さん〉の実兄〈友輔〉が「借金の申し出」のために訪ねて来る。そこから兄妹二人の過去が明らかにされるとともに、物語が一気に展開する。それに伴い、登場人物それぞれの意識や感情が錯綜し始める。

 妹の親友〈ちーちゃん〉のストーカーであったという〈友輔〉は、その一方、会社の同僚への傷害事件により損害賠償の請求を受けたようだ。そういう“問題児”的な〈友輔〉の過去や、妹〈姉さん〉との対面時の言動などから、彼は直情径行型の人間として描かれている。自分勝手な思い込みに加え、自意識過剰な雰囲気はどこか得体のしれない不気味さを醸し出している。

 この舞台において、筆者が一番注目したのがこの〈友輔〉役の「本名慶次」君であり、彼の声や巧みな顔の表情には目を見張るものがあった。二十歳そこそこの年齢なのだろうが、どこか達観したような大人の落ち着きと人間的な深みを感じさせた。立ち居振る舞いや台詞の口調に、冷徹ともいえるサイコパス調の人格が垣間見えた。

 もちろんそれは“役作り”によるものだが、少しも不自然さを感じさせない演技だった。けだし“秀演”というべきだろう。ことに〈妹・姉さん)に強く迫る際の口調と視線に、筆者は一瞬ハッとさせられ、その巧みな人物表現に何度も頷かされた。筆者は帰り道、今回のキャラクターとは真逆な人物を彼がどのように演じ分けるのか、早くもそのことを想像していた。

 その他の役者としては、〈姉さん〉の「野上紗羽」嬢と〈〉の「伊東佳穂」嬢に注目した。前者はヒロインとして登場機会がもっとも多いこともあり、その存在感は大きかった。兄の〈友輔〉に対する嫌悪と憎しみとが入り混じった感情――おそらくそれは、忘れようとして長いこと封じ込めていたもの――が兄との再会によって甦り、新たな苦悩を引き起こしていく。

 しかし最後は、クリスチャンとしての“諦念と赦し”により自分を説き伏せ、〈友輔〉にしかるべき金額を与えた。そこへ到るプロセスに「聖句」すなわち「聖書の一節」を用いなかったことに、christianityに対する作・演出家の“矜持”のようなものを感じた。つまりは、安易に「聖書訓話」的な解決を図らなかったということを意味する。舞台美術に「十字架」を使用しなかったことも、その思いをいっそう強くした。

 以上の〈姉さん〉に14歳の少女の想いをストレートにぶつけたのが〈〉であり、大人へと成長していく多感さをよく表現していた。台詞自体が的確であったのに加え、伊東嬢の堂々たる台詞回しや感情の表現は、観客を鮮烈に引き込む説得力があった。筆者は次第に「本物の14歳」に思えて仕方がなかった。

 同様に「本物のおっさん」と思わせるほどの好演を見せたのが、〈イチ〉役の「槌井雄一」君だ。彼は“渋い”というバイプレーヤーへの賛辞ともいうべき特性を見せた。ほんとに“おっさんらしい”雰囲気に溢れ……まさか五浪した留年五年生なんてことはないよね? ……いや、失礼。

 ヒロインの夫〈賢治〉の「橋本大智」君と〈想太〉の「久永海斗」君は、それぞれ〈妻・姉さん〉と〈萌〉という二人の女性を魅力的に描き出す人物と言えるだろう。〈ちーちゃん〉の「小島彩」嬢は、ほんの一瞬の登場だった。

 ともあれ「登場人物」と、演じた「役者」双方の「個性」を巧みに調和させたと言えるだろう。優れた脚本であり演出であることを改めて感じた。

 

 

   


●演劇鑑賞:『散歩する侵略者』②(九州大学演劇部)

2018年04月11日 21時06分38秒 | ●演劇鑑賞

 場面転換 における 照明 音響・効果音 相乗力

 前回述べたように舞台が単調に流れた要因”は、「.場面転換」における「.照明演出」及び「音響・効果」の3点だった。正確に言えば、「a.ABC3点それぞれの演出・表現の曖昧さ」と「b.ABC3点の相乗効果の不足と言える。

 そしてその最大の場面こそ、前回述べたように明転における出捌け“すなわち“照明が灯ったまま”での〈役者の登場と捌け方〉にあった。つまりは、この「.場面転換」における「.照明演出」と「音響・効果」が、やや“素っ気ない=不充分な”ため、「場面の転換」が観劇者にスムーズに伝わらなかったようだ。

 といっても、筆者個人は事前の“傾向と対策”のお陰で“これと言った不都合”を感じることはなかった。だが「舞台観劇」にあまり慣れていない人にとっては、“戸惑う”場面がいくつもあったように思う。筆者の座席は舞台〈上手〉の最後尾右端であり、劇場全体がよく見渡せた。そのため、観劇者のそういう雰囲気を感じ取ることができた。

 ついでに言わせて貰うなら、“観劇中の筆者の脳”は以下のようなものかもしれない――。

 “刻々と進行する瞬間ごとの中心的な役者”に目を遣りながらも他の役者にも注意を払い……もちろん〈照明〉にも〈音響・効果〉にも無意識のうちに心を配りつつ……時には素早く“ノートにメモ”しながら……“心の声”は次から次へと感じたことを猛烈なスピードで呟き続けている……………

 ……この波音……ちょっと短い……あと“ひと呼吸”あれば……できたら日本海の荒波の感じでドバッも悪くない……そうなれば波の効果音は短くてもいい……設定場面の状況も瞬時に伝わるはずだ……

 ……この〈明転〉の捌け方……もう少し“コソコソ感”が必要……今ここは「総合病院」……やはり屋内への転換を感じさせる〈照明に変化〉を……それに宇宙人の策動によって“概念を奪われた多くの人々”がこの病院に連れて来られているはず……その騒々しい雰囲気効果音)があれば……登場人物それぞれの未来へ向けた心の不安や怖れも、いっそう伝わって来るのでは……

       ★   ★   ★

■もたらされた今後の課題■

 確かに〈暗転〉を使えば、簡単に〈場面転換〉は可能となるだろう。しかし、それでは〈①場面と場面との“繋がり具合”〉が損なわれかねない。また〈②登場人物の“微妙な心の変化”が途中で断ち切られるおそれもある。何よりも〈暗転〉は、観劇者の心を“舞台から引き離す”〉危険を孕んでいる。

 舞台上の役者の“安全第一”を考えるとき、〈明転〉が多くなるのも無理はない。「2時間10分」もの長丁場の“どこをどう削っていくか”あるいは“短くしていくか”……演出家や舞台監督、照明や音響・効果等スタッフを大いに悩ませたことだろう。

 だが《舞台表現としての分かりやすさ》の向上のために、〈場面転換〉時の〈照明〉や〈音響・効果〉による演出が、今後の大きな課題として残ったことは否定できない(※注1)。

 そして「その解決法」が何であるのか、この舞台を観た読者はすでに理解されたと思う。「波の音」や「病院内の雰囲気」を表現する〈騒擾音〉一つにしても、「創造的想像力」によるアイディアによって、さまざまなバリエーションがあるはずだ。我々観客は、密かにそれを期待している。 


  ※注1:「著作権」に関する脚本内容の許諾において、特に役者や場面の設定、それに台詞については厳しい制限があるはずです。そういう厳しい制約が「照明」や「音響・効果」にも及んでいたのでしょうか。著者によっては、かなり柔軟な運用を認めるケースもあるようですが……。

      


●演劇鑑賞:『散歩する侵略者』①(九州大学演劇部)

2018年03月30日 11時20分42秒 | ●演劇鑑賞

 ★読者各位★                                          

 今回、九州大学演劇部によって上演された『散歩する侵略者』(原作:前川知大)は、同名の「映画」が『第41回日本アカデミー賞』において、「優秀監督賞」(黒沢清監督)と「優秀主演女優賞」(長澤まさみ)を受賞しています。

 今後、この映画のDVDをご覧になる方も多いと思われますので、本稿においては “ネタばれ” とならないよう“物語のあらすじ” をストレートに追うことを避けています。


  舞台演劇創造のエネルギ―               

 「舞台」は2時間10分もの長丁場となった。物語は“サスペンス調”の展開と相まって、先の見えない不安や緊張を程よく煽りつつ終演を迎えた。筆者はこの「舞台」によって、“一つの舞台演劇を創り上げるための膨大なエネルギー”についてあらためて考えさせられた。

 とはいえ、残念ながら「舞台」全般がやや単調に流れたことは否定できない。あくまでも私見にすぎないが、30分程度の「上演時間」であれば、〈観客〉は“特にこれと言った問題点を意識する暇(いとま)もなかったはずだ。

 だが2時間10分もの大作となれば、〈観客〉は無意識のうちに“観劇しながら学習し、学習しながらさまざまな展開予測また期待”するだろう。〈舞台創り〉に携わる人々からすれば、それだけ余分に“舞台創造のエネルギー”が求められることを意味する。〈創り手〉の立場にある人は、今一度〈観客〉の立場から自分達の舞台を振り返って欲しい。

       ★   ★   ★

 ところで“なぜ舞台は単調に流れた”のだろうか。その要因として.場面転換」「.照明演出」「音響・効果」の3点が挙げられる。言うまでもなく、この3点は“どの場面”においても常に“不即不離”の関係にある。

 そこでまず“今回の舞台の特徴”と“それがもたらした今後の課題”について整理してみたい。

■今回の舞台の特徴■                                            

10人もの〈登場人物〉の数に加え、〈場面転換〉=〈物語の進行〉=〈役者の出入り〉が多いうえに、そうした“転換場面”の“変化が分かりずらい”ため、観客は“物語の世界にすんなりと入ることができなかった”あるいは“入ることはできたものの、何となく居心地が悪かった”。

物語の進行〉が“形として捉えにくい人間の内面の変化)”に重点が置かれたため、役者の動き(motion)”が地味にならざるを得なかった。つまりは、“同じような感じの場面そして役者の立ち居振る舞い”という印象が残った。

 今回の物語は、:現に起きている隣国との戦争」と「宇宙人による侵略の可能性」という2つの“状況”の中で進んで行く。

 「:隣国へ向けて戦闘機が飛び立つ軍事基地のある街」では、「:人間の持つ“概念”を奪おうとする宇宙人が策動を開始している」。

 ヒロイン・加瀬鳴海の夫(真治)以下3人の宇宙人が、人間から“貰った”とする“概念”を学習することによって“その人間の概念”を完全に奪い取って行く。「家族」や「所有」や「愛」といった“概念”が奪われるということは、“あるべき人間としての本質や人間関係が失われることを意味する。

 ……と以上のように、物語の中心的な展開が形而上学的な想念をはじめ意識や感情の変化によるため、“登場人物の置かれた場所や立場”がはっきりしないまま、〈場面転換〉が繰り返されることとなった。まずそのことが、“単調に流れた”最大の要因といえるだろう。

 個人的には好きな系統の展開なのだが、それにしても〈場面転換〉における〈明転※注1の際の役者の〈立ち位置〉や〈捌け方〉は、やはり“単調”ではなかっただろうか。筆者には、役者がボックス型の椅子を持って出入りする定番の〈出捌け※注2が、妙に堂々としているような気がしたのだが……。

 実は帰路の車中においても“そのこと”がずっと気になり、思考を停止しようとしても、勝手に数々の場面がプレイバックし始めた。気分転換を図るために近くの「マック」に立ち寄ったものの、〈明転の際の出捌け〉について考えるばかりだった……。

 気が付いたとき、今回の“出捌け”が、学生演劇を観始めた2001年当初の“違和感”と似ているような気がし始めていた……。

 ……それは、2年ぶりの観劇というblankの影響だろうか……。老脳によるflexibilityの衰退だろうか……。もしそうであれば、潔く〇〇〇〇からの〇〇も視野に入れなければ……ってなことを本気で考えさせられる一瞬だった。

 ……閑話休題……。

 単調に流れた主たる要因こそ、まさに上述「A・B・」の3点であり、その結果次回に述べるような「今後の課題」が残ったようだ。

 そうではあっても今回の舞台が総合的に見て、精神性の高い優れた舞台”であることは些かも揺るがない。    

 


 ※注1:「明転(めいてん)」  照明が点灯した中で「舞台」の〈場面転換〉が行われること。つまり、「役者」が舞台から〈立ち去ったり=捌ける〉、別の役者が新たに〈登場したり〉すること。もちろん、舞台背景が転換(変化)することもあります。この「明転」とは逆に、照明が消された中で以上のことが行われることを「暗転(あんてん)」と言います。

※注2:「出捌け(ではけ)」役者が舞台上に「登場したり」、「立ち去ったり(捌ける)」すること。「出ハケ」と表記されるのが一般的なようです。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   


●《2017年度・九州大学演劇部後期定期公演》の鑑賞にあたって

2018年03月12日 19時29分33秒 | ●演劇鑑賞

 2年ぶりの演劇鑑賞

 さる3月6日と7日の両夜、《2017年度九州大学演劇部後期定期公演》を観に行った。会場は「甘棠館Show劇場」(福岡市中央区唐人町商店街内)であり、以下の(a) (b)2つが上演された。筆者にとってはほぼ2年ぶりの観劇であり、九州大学演劇部(伊都キャンパス)特有の“高い精神性に支えられた舞台”を堪能することができた。

a)3/6『散歩する侵略者』(作:前川知大演出:久保文恵 

b)3/7『いちごをたべたい』作・演出大野奈美

 それぞれの《鑑賞文》は次回以降に譲るとして、今回は(a)の観劇に際しての筆者の「事前準備」について述べてみたい

        ★   ★   ★

 

 日本アカデミー賞と映画散歩する侵略者

  3月2日第41回日本アカデミー賞》の授賞式が行われた。この発表についてはテレビで放映されたようだが、筆者は観ていない。この十数年、賞の結果については「アワード」等のネットで確認している。

 それによると、今回の舞台と同名の『散歩する侵略者』が黒沢清監督によって〈優秀監督賞〉を、またヒロインとして加瀬真治の妻・鳴海を演じた長澤まさみさんが〈優秀主演女優〉を受賞した。

 だが筆者は、劇作家前川知大(ともひろ)氏も黒沢清監督も、名前を知っているという程度でしかない。というのもこの15、6年、邦画・洋画を問わず映画館での映画鑑賞などまったくなかったからだ。となれば必然、当代の人気脚本家や監督等に関する知識はゼロに等しい。

 そこで筆者はいつものように、観劇に際しての〈傾向と対策に着手した。それは演目をはじめ、原作者脚本家さらには演出家等の名前をヒントに、ネット検索をすることを意味する。特に今回のように「10人もの登場人物」ともなれば、事前の〈人物整理〉すなわち〈人物個々のキャラクターやそれら人物相互の関係把握〉が絶対に必要となる。そのためにも最低限の情報を得たいと思った。

 しかも「演劇鑑賞」を書くとなれば〈予習〉は不可欠であり、〈舞台進行〉における〈フラッシュ暗算化〉に陥らないための予防策ともいえる。例えば、登場人物が4、5名程度で「場面転換」が緩やかな舞台は、〈1桁の数字がゆっくりフラッシュする〉……というイメージだろうか。「…」といった計算式を想い描いていただきたい。

 だが「10名もの人物が登場するうえ、場面転換が多い舞台」ともなれば、〈2桁の数字が結構な速さでフラッシュする〉……。「7539514982+……」と。これに「物語」の展開が速く、しかも過去と現在現在と未来とが行き来する舞台と来ればフラッシュはいっそう速く、その数字も2桁ではすまないだろう。

 あえて数字を誇張するなら……「85+359-44+623-71+20-372…」といった感じであり、暗算のスペシャリストならいざ知らず、通常人は脳裏に数字をキープするだけで精いっぱいとなる。それらを逐一計算しながら、次々にフラッシュされる数字を脳裏に描き続けることなど、まず不可能だろう。これは、《観劇》をする際の脳や五感の働きと同じようなもの……と筆者は思っているのだが……。

 

  「原作」と「映画DVD」

 ――本論に話を戻そう。今回、筆者は公演前日の3月5日に近くのTSUTAYAにて原作(文庫本)」を買い求め、夕食後一気に読み終えた。その際〈役名と役者(出演予定者)〉をもとに「人物関係」を整理し、併せて〈物語の概要〉をまとめた。

 さてここで、筆者個人の最近の“学生演劇の楽しみ方”の一端をご紹介しよう。原作等により「内容」が判明している場合は、演出の仕方や舞台美術、照明・音響効果等について“想像あるいは創造する”ことにしている。

 音と照明のデザイニング

 ことに最近、「音楽効果)」や「照明」についての《デザイニング》や《オペレーション》に目覚めつつある。……とここで、音響」ではなく「音楽効果)」としたことに留意されたし。この際言わせてもらうなら、筆者は「音響」という「呼称」に違和感を感じる。いかなる「物語」そして「舞台会場」であれ、やはり基本的には「音楽」と「効果)」という“区別”と“呼称”が必要ではないだろうか。

 それを「音響」という“2文字”で片付ける感覚や考えには、どうしても納得できない。筆者にとっての「音響」という言葉には、「音響メーカー」や「音響装置」といったハードやテックニック面が色濃く纏わり付き、「音全般に関するデザイ二ング」というartisticな「ソフト」面が欠落している

 実際の「舞台演劇」を構成する“およそ音に関するもの”は、やはり「音楽」と「効果)」として区分すべきと思う。もし両者を“一本化した呼称”でまとめるのであれば、せめて「音響・効果」として欲しいものだ。この問題は非常に重要であるため、別の機会に詳述したい。

 ともあれ、舞台の『散歩する侵略者』を観劇した翌3月7日の深夜、筆者はTSUTAYAにおいて同名「映画」のDVDを借りた。何とこのDVDは、この日がレンタル開始日となっていた。その夜のうちに1回目を観終わった筆者は、翌夜に“部分的な観直し”をしながら「メモ」を取った。

 かくして、その「メモ」と前夜の観劇時に走り書きした“ミミズのごとき文字”を頼りに、筆者はブログアップのための〈脳トレを開始した。

 


●演劇鑑賞:『The Tempest』(福岡女学院大学・岩井ゼミ):下

2016年02月05日 00時40分53秒 | ●演劇鑑賞

 

 若い女優だけの難しさと課題

  最後に今後の課題として、次の点が残ったと言えるでしょう。

  それは「一人二役」の俳優が四人いたことについて――。

 四人各自の「」または「」役の区別が、演劇に不慣れな一般の人々には判りにくかったかも知れません。なにしろ俳優」すべてが、「同世代の若き女子大生のみということですから。

  つまりは、「」と「世代」と「身分・地位」の違いを、どうやって観客に判って貰うかという問題です。「衣装」を変えたり、「立位置」を工夫したり、さらには「立ち居振る舞い」の違いを際立たせる演出といっても限界があるでしょう。

 無論、「舞台背景」や「小道具、それに、お得意の「照明」や「音響」の繊細なプランや操作といっても、やはりそれだけでは容易に解決できない問題です。

 もちろん、「岩井ゼミ」を中心とするこの舞台の「キャスト&スタッフ」は、「芸術学部演劇科」ではなく、あくまでも「人文学部表現学科」の学生ですから、いろいろな意味においも、どこかで“一線を画す”必要があると思います。

 つまりは、「演劇舞台」の表現を唯一最大の専門にしている訳ではないということです。そう考えると、以上のハンデを百も承知の上で挑戦をしていることになり、それだけですでに凄いことをやっていると筆者は思いjます。

 それだからこそ「欲が深い筆者」は、それをあえて承知の上で、この「ゼミ」そして「学校」に、秘かに期待するものがあるのかもしれません。

       ☆

  「シェークスピア」の戯曲は、どれもかなりの数の「人物」が登場します。しかも、身分や地位や職業の違いは実にさまざまであり、王様も王女様も、聖職者も殺人者も。老いも若きも、子供も若い娘も、女も男も。善人も悪党も。非情な人間も慈悲深い人間も。富んだ人も貧しい人も。と、どのキャラクターも個性に富み、存在感を持った人物として描かれています。

 これこそが「シェークスピア演劇」の特徴であり、魅力でもあるわけです。しかもそれらの「登場人物」は、この現代世界において、さまざまな形を変えて営々と生き続けています。だからこそ少しも古びることなく、その時代、その民族の共通認識として、共感を呼び、感動をもたらすことになるのでしょう。

  この舞台を観た直後、筆者は新潮文庫により『あらしThe Tempest)』(訳:福田恒存)を読んだわけですが(※おそらく、20数年ぶりでしょう)、今回、独自に「台詞」や「舞台進行」をアレンジしたことは賢明な選択でした。

  誰の翻訳を元にしたのかは解かりませんが、とても “聞きやすい言い回し”に直し、また、ある程度シーンを “カット” したことがよかったと思います。

 

   演出家の言葉

  当日プログラムの演出の言葉に、共感しました。

 人は、誰しも何らかのしがらみの中で生きているのではないでしょうか。大学生である私たちもそれぞれに悩みやストレスを抱え日々過ごしています。そこから救われる方法は人によって異なりますが、『こんな世の中でも、素晴らしいことはたくさんある。人間は、愛は、やはり美しい』と思える瞬間が一度は訪れるはずだと私は信じています。その瞬間を、少しでも表現できれば嬉しい限りです。

  読者の多くが、筆者と同じように“共感”することでしょう。ここに、あの突出した演技や歌やダンス、そして優れた感性とイマジネーションとクリエイティビティを遺憾なく発揮した岡崎嬢の、もう一つの顔があるようです。等身大の、何処にでもいる「一人の女子大生」であり、「一人の若い女性」です。

 人は誰しも日々の迷いや苦悩の中で、精いっぱい生きて行くことを宿命づけられているのでしょう。それこそが“人間であるとして”。

  思うに、晴らしいことは、きっと一度のみならず二度、三度、そして四度五度、いえそれ以上、何度でも訪れるのかもしれません。そして、その瞬間、瞬間において、人との出会いという素晴らしいときが、そして、それに伴う愛というものがあるのでしょう。要は、訪れたその何でもない瞬間を、自分がどのように受取るかにかかっていると思います。

  筆者なりに、今回の舞台に込められたものを理解するとき、それは「演出家」のいう “人間は、愛は、やはり美しいと思える瞬間” であり、その瞬間を、真に愛ある、そして美しいと思える人間の心というものかもしれません。そのきわめて人間的な表現として、この舞台においては、“赦し” があり、“祈り” があると思うのですが。もちろん、それを導き出しのは、シェークスピアの中に流れる Christianiy というものでしょう

 福岡女学院というmission school なればこその、 spiritual need のなせる業……筆者はそう受け止めています。

 以上に関連して、実はこの舞台の「案内チラシ」が素晴らしセンスとメッセージでした。ある会場で貰った中に、A4判の表面に、縦二行の文字が筆者の目に飛び込んだ来たのです。

  《我々人間は夢と同じもので織り成されている。

   はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ。》

 もうこれだけで、即、観に行こうと決めました。筆者の乏しい知識でも、何となくシェークスピアっぽいかなと思いつつ、チラシ下の横書き文字が「福岡女学院大学12期岩井ゼミ卒業公演」となっていたため、やっぱりと思いました。そして裏面を見ると、『The Tempest』、原作:William Shakespeare ……。

 「シェークスピア」だったと、ほっとしつつも、哀しいかな Tempest? ……今度は英単語健忘症に悩まされ、何とも出てこない……。こんなのあったのかよ……。しかし、かすかな記憶の底に、「temp.」=「気温(温度)」との認識あり。それでもう一度「表面」に戻ってよく見ると、何やら「星座表」らしきものと、「天体図」が見えるではないか! よっしゃあ! それで筆者の脳は、Tempest を「嵐」と読み取ったのです。やったぜ! 

 

  演劇の素晴らしさを堪能  

 今回の舞台は、観劇から7月近くも経過しているにも関わらず、“これはといういくつもの場面” が鮮やかに甦って来ます。そして、そうした、いくつもの “鮮やかな瞬間の記憶” があったからこそ、何としてもこの感動を留めたいと “想い続けることができた” と思います。

 これからも、この「舞台」については、機会あるごとに “想い続ける” でしょう。この原稿を綴っているこの瞬間においても同じ気持ちです。

 筆者の正味14年の学生演劇公演歴において、この『The Tempest』は、「学生演劇」のさらなる可能性と高い精神性を、さらに強く印象付けてくれた作品です。 (了)

 

        ★   ★   ★

 『The Tempest』 

 ■原作/William Shakespeare

 ■作/岩井ゼミ

 ■演出/岡崎沙良

 

  キャストスタッフ】  

 大塚愛理ミランダセバスチャン):宣伝美術

 岡崎沙良エアリエル

 藏園千佳アントーニオ):小道具

 橋本美咲アロンゾー&トリンキュロー):宣伝美術・メイク・衣装

 畑島香里ゴンザーロー):制作

 濱畑里歩ファーディナンドステファノー):衣装

 本山真帆ブロスベローキャリバン):舞台監督

 【スタッフ】  

 ■照明鮫島強志高尾美悠藤木沙織早良夢華

      只松未友希、佐々木春乃当間琴子 

 ■音響黒木真里奈末永名安莉太田千智 

 ■全体補佐柳川千尋  ■会計福川由理

       ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

 

 最後に、「岩井ゼミ」の岩井眞實教授をはじめこの舞台公演に携わったすべての「キャスト」及び「スタッフ」各位に対し、感動的な舞台を創造されたことに感謝と敬意を表します。

 あわせて、この舞台が持つ高い芸術性と、各位の真摯な研究や学習が、いっそう地域社会の人々に伝えられて行くことを心から願うものです。

 花雅美 秀理

       ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

 


●演劇鑑賞:『The Tempest』(福岡女学院大学・岩井ゼミ):中

2016年02月02日 19時55分40秒 | ●演劇鑑賞

 

 繊細な感性による音のグラデーション

 もう少し「照明」と「音響」に触れてみましょう。筆者がこの両者を“プロ的”すなわち通常の「大学演劇部」等※註1)との感性及び技術上の“”と感じるのは、次のような「シーン」です。

 この舞台では、〈エアリエル〉という妖精がたびたび出て来ます。この妖精は、みんなには見えない形で登場するわけですが※註2)、その際の「照明」の“処理”をはじめ、「音楽(BGM)」の「選曲」に「音量」の“絞り込み”、“イン・アウト(音の出し・入れ)”、“強弱”のタイミングが素晴らしいのです。

 その中を巧みな演技の役者が、素晴らしい声と歌と踊りで華麗に、そしてリズミカルに登場したり、退場したり、また飛んだり跳ねたり、舞ったりいているわけです。

 もう一つの例として、役者が台詞を喋っているさなか、低い声の役者が、しみじみと語っているとき、そのバックに高音の音楽(メロディ)を、非常に絞った音量によって “かすかにかぶせて” いるのです。もちろん、ほかのときとは明らかに違う、繊細な感じの音量の絞り込みです。無論、どのような曲のどの部分のメロディを流すかも重要です。

 後述するミラノ公〈ブロスベロー〉役の本山真帆嬢の声でした。無論、他の劇団や演劇部でもやっているでしょう。しかし、こういう繊細さは、記憶にありません。このようなシーンが効果を持つのは、何度も言うように、開演前のBGMを極力抑えることや、劇中音楽の選曲や音量が巧みにコントロールされているからです。

 その上で、大きいから小さいまでの音のグラデーションを、一瞬一瞬のシーン(情景)や役者(その置かれた立場や心理、意識)、そして台詞に併せてオペレーションしているからでしょう。 

 つまりは、ぎりぎりまで“余計な音楽や音量やイン”を抑えながら、“最高の音楽である役者の声” をいかに魅力あるものとするかでしょう。

 そのためにも、音楽のメロディを、抜群のタイミングで “出し入れ” しながら微妙な “強弱” を調整し、それと同時に「照明」とコラボしていく……。

 前回述べた「開演前の落ち付いた静かな音量の音楽(BGM)」に、今述べた劇中における素晴らしい「照明」と「音響」と優美で繊細な「アイディア(プランニング)」と「オペレーション(操作)」のコラボレーションということです。

 筆者は、この「舞台」によって、「観客」にとっても、どのような心づもりで「音楽」や「効果音」を聴き、かつそこからどのように自分のイメージに “繋げていく” のか、あるいは “膨らませていく” のかということの本質を学び取ったような気がしました。

       ☆

 その他では、余計なものが一切ない、シンプルな舞台美術(背景)も素敵でした。シンプルであるからこそ、観客それぞれのイマジネーションを心地よく刺激し、またそのクリエイティビティを広げて行くのです。

  それに加えて、余計なデザインや色調を排除した白っぽい衣装の一体感も、『あゆみ』のときと同じように、イマジネーションを膨らませるものでした。とはいえ、キャラクターがそれぞれかなり異なるため、「舞台」に不慣れな人々には解かりにくかったかもしれません。この件は、次回触れたいと思います。

 

 岡崎、本山両嬢の存在感  

 では、「役者陣」(女優陣)をみて行きましょう。

  何と言ってもミュージカル・スター並みの熱演をした岡崎沙良嬢を挙げなければなりません。彼女は、筆者の正味14年に及ぶ「学生演劇歴」の中でも、ひときわ輝く役者の一人であり、女優です。先ほど述べたように、演技、台詞回し、歌、ダンスといったすべての面で、とても一介の「女子大生」とは思えない役者ぶりであり、ミュージカル女優でした。

 その存在感は半端ではありません。筆者のような、ミュージカルやダンス等に疎い者でも、彼女の抜きん出た役者そしてミュージカル女優としてのセンスは、凄いものがあると直感しました。そういう持って生まれた才能を感じさせるとともに、歌やダンスについて、専門的なトレーニングを積み重ねているような印象を受けました。

  彼女が演出した『あゆみ』も、今回、演出・出演の『The Tempest』も、いずれもミュージカル仕立てのものであり、彼女の魅力を遺憾なく発揮したと言えるでしょう。

 ところで、まもなく開演の『NINE』は、ミュージカルですね。この際、筆者も「ミュージカル」の勉強を「生の舞台」を通してして学んでみたいと思います。まだ「チェット」もあるかもしれません。興味がある方はどうぞ(巻末)(※註3)。

       ☆

 次は、ミラノ公〈ブロスベロー〉と〈キャリバン〉(※註4)の「二役」を演じた本山真帆嬢――。この「二役」を演じ分けた力量は見事です。この舞台の「二役」は、何度も同じ場にいるとの設定のため、必然、連続して登場したり、その場で “早変わり的に二役” を演じるというものでした。その “掛け合い” は大変難しいものでしたが、それをうまくやり通したと思います。

 ことに声の使い分けがうまいため、最初は「別の役者」と思ったくらいです。それほど、巧みに演じ分けたということです。ことに〈ブロスベロー〉としての彼女の声は秀逸でした。

 この役の声を、目を瞑って聴けば、誰もが「中年の男性役者」と思うでしょう。それくらい、巧みな発声でした。しかも、それが無理した「作り声」ではなく、自然に出していた……いえ、出ていただけに、観客はすんなりとその役を受け止めることができたと思います。

 筆者は、後日、実際に彼女に会ってその「肉声」を聴いただけに、役者としての発声の見事さに、あらためてびっくりしました。ごく普通の、ちょっとナイーブな感じの、うら若き女子大生の声だったからです。 

 この本山嬢の声は、しっかり、しかしソフトにお腹の底から響き渡る声であり、この役の特徴を声だけでもよく表現していたと思います。そしてこの声の魅力は、空気の妖精〈エアリエル〉の岡崎嬢との絡みにおいて、その本領を遺憾なく発揮したのです。

 器楽に例えれば、「クラシックベース」のような彼女のミラノ公〈ブロスベロー〉の声が、岡崎嬢の「ピアノ」の高音部のように弾む妖精〈エアリエル〉の声と相まって、独自のハーモニーを創り出していたようです。つまりは、それだけマッチしていたということでしょう。

 また両者ともに声質がクリアで通りが良いと言うことも、魅力の一つでした。この二人の声の“かけあい”は、ジャズの「インプロヴィゼーション(即興演奏)」を彷彿とさせるものであり、大変リズミカルで印象深いものでした。

  二人の声のハーモニーが、台詞の流れという一曲の “主調” となって、他の役者たちの台詞にメリハリを付けたともいえるのです

 それが結果として、他の5人を巧みに活かしながら、それらのキャストの魅力をいっそう引き出していたと言えるでしょう。

  〈ブロスベロー〉の娘の〈ミランダ〉の大塚愛理嬢が、まずそうだったでしょう。ミラノ公の娘に相応しく、なかなかチャーミングな役回りを的確にこなし、また声もしっかりしていました。最初の段階での大塚嬢と本山嬢の声のハーモニーも魅力の一つでした。

 この王女に対する〈ファーディナンド〉の濱畑里歩嬢も、しっかりした声でした。宝塚的にならず、見ていて自然でよかったと思います。

  〈アントーニオ〉の藏園千佳嬢、〈アロンゾー〉と〈トリンキュロー〉の橋本美咲嬢、それにゴンザーロー〉の畑島香里嬢もなかなかの熱演でした。どの役者も、役作りに相当苦労したと思われます。

 なにしろ、「癖のある男」を演じるのですから。それも「シェークスピア劇」という、いずれも際立った個性の人物です。それを “うら若き女子大生” が演じるのですから……。生半可な努力や考えでは務まらないというわけです。この件も次回にあらためて論じたいと思います。

 

 女子大生らしい一面に共感

 また、今回だけでなく、『あゆみ』のときも感じたのは、「演出家」も「キャスト」も、そして「スタッフ」も、単に若い演劇好きの「女子大生」という枠を越えたところにいるような気がします。つまりは、それだけ高い次元の「演技」や「台詞回し」であり、「音響」や「照明」、さらには「舞台美術」に「衣装」、「小道具」ということでしょう。

 日頃からアイディアやオペレーションに対するクリエイティブな姿勢を保ち続けているという印象でした。要するに浮ついた気持で演劇をしているのではない”という明確な意思表示であり、覚悟を感じました。それが爽やかな印象を強めたような気がします。

 それはやはり、「学問研究」として学んでいるという真摯な姿勢であり、その「成果」を地域社会に還元しながら、学習の進捗と各自の人間性の成長に活かして行こうとする明確な目標があるからでしょう。

 それに何よりも、誠実さや清楚感であったと思います。何と言っても、「学生」であり、「若い女性」であるわけですから。

 

 ※註1 もちろん、「演劇会場」がどこかにもよります。また「大学演劇部」といっても、筆者が知る限り、「九州大学演劇部・伊都キャンパス」や「西南学院大学演劇部」は優れています。それでも、この「演劇会場」でのこの「舞台」の「照明&音響」は、正直言って抜きん出ていました。

 ※註2 ミラノ公のブロスベローには見えるようです。

 ※註3 

  ミュージカル舞台公演のご案内

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   本ブログの「演劇案内」が出て来ます。    

 

 ※註4 ミラノ公〈ブロスベロー〉に救われ、奴隷のようになっている怪物。

 


●演劇鑑賞:『The Tempest』(福岡女学院大学・岩井ゼミ):上

2016年02月01日 21時26分33秒 | ●演劇鑑賞

 

 演劇鑑賞の魅力と難しさ

  筆者が「演劇鑑賞」を綴りたいとする最大の動機は、 “優れた舞台の感動を、せめて言葉を通して表現したい” との思いにほかなりません。それは同時に、舞台の「表現者」(総てのキャスト&スタッフ)に対する、筆者なりの “賛辞と敬意” を示すことでもあるのです。

  舞台終了後の「感想」において、『素晴らしい舞台でした。また観に来たいと思います』というだけでは、「表現者」に対して礼を失するような気がします。第一それでは、あまりにも芸がなさすぎるというものであり、何よりも筆者自身、大いなるフラストレーションに苛まれるでしょう。

  言い方を変えれば、“優れた舞台”とは、それだけで筆者自身の「鑑賞文」の作成意欲を掻き立てるものといえるのです。何とか「鑑賞文」をまとめることができたとき、新たな発見と次の課題を手にしたような気分になります。それは同時に、多少なりとも筆者自身が自己の成長を感じる瞬間でもあるのです。

 そういう意味において、『The Tempest』のきちんとした「演劇鑑賞」に着手できなかったことは、筆者にとっては何よりも辛いものでした。

 もう半年以上も前になりますが、718日付の本ブログにおいて、「陰湿集団」の『通話する男、森を忘れるな』の「演劇案内」をした際に、78に観た同舞台の感想に簡単に触れ、《後日、きちんとした「演劇鑑賞」を書きたいと思っている》と結んでいました。その感想は、おおむね次のようなものでした。

       ★  

  “総てに洗練された秀逸な舞台だった。(中略)なぜこの「舞台」は、こんなにも感動を与えるのだろうか。なぜこんなにも役者が活き活きと、そして、瑞々しく演じ切ることができるのだろうか。今回は「音響」も「照明」も文句なく、優れたプランニングそしてオペレーションだった。少なくとも、これについては、もう  “プロ級” といってよい。

   何と言っても、「音響」と「照明」と「演技」との、息をのむほどのコラボレーションに圧倒された。今こうして原稿を綴りながらも、そのときの興奮と余韻とが甦って来る。それにしても、「この劇団」は多くの魅力にあふれている。 

        ★ 

  そしてその後、旧臘大晦日の「わが2015年の福岡演劇(学生)を顧みて(総評編):上」においても、「わが最優秀舞台」として、次のような表現を用いて評価していました。

  “総合的な完成度の高さ

 “別次元の芸術性と感動” を余すところなく伝えてくれた作品

  ……とした上で、『このたびのゼミの学生諸君を高いレベルで指導して来られた、岩井 眞實 教授のご尽力』という表現を用い、同教授の優れた指導を、この舞台創造の要因の一つとしていました。

       ★

 「岩井ゼミ」中心の関係「四団体」の相乗力 

 今思うに、「岩井ゼミ」とは、歴とした「大学の専門的な研究機関」であり、「文化的及び言語的表現」を学門研究の対象としながら、その研究及び学習成果の実践の場として、「演劇の舞台」をその一手段とする。……そういうスタンス、そしてニュアンスであると、筆者なりに理解しています。

 したがって、そのような「専門学問研究」機関の「舞台」を、「大学文化サークル・演劇部」の「舞台」と比べること自体、「岩井ゼミ」の関係各位に対して失礼ではないだろうかという気がします。

 逆に「大学の演劇部」から見るとき、そのような高いレベルの専門機関と比較されることは酷な気もします。

 しかし、「大学演劇部」からすれば、無論、相手にとって不足はないわけですから、比較されることは大いなる励みとなるはずです。また是非そういう気持ちで挑戦して欲しいと思います。

 問題は「岩井ゼミ」の関係各位の立場と言うことになるわけですが、そこは、“同じ大学生”あるいは、“ほぼ同世代” の “演劇を愛する仲間” という気持ちで赦していただければと思います。

 要は、「優れた劇団」の「キャスト&スタッフ」同士が、高い次元で競い合い、励まし合い、ときには議論し、競演することが大切なのかもしれません。そういう “切磋琢磨”の中で、さらなる「優れた舞台」の創造を願うものです。

       ★   ★   ★

 

 息をのむ“演技・照明・音響”の一体化

 さて、舞台の鑑賞ですが、既に述べたように、この「舞台」は優れた「演技」と「台詞回し」と「音響」と「照明」の調和に尽きるでしょう。ことに今回は、「照明」がいっそう素晴らしかったと思います。7名もの「照明スタッフ」というのも頷けます。

 このときの「会場」は、専門的な小劇場の「ぽんプラザホール」であり、優れた「照明プラン」や「オペレーション(操作)」がいっそう要求されたはずです。それを見事にこなしたといえるでしょう。筆者もこの劇場には10数回足を運んでおり、ここでの照明の難しさは、門外漢ながらもよく判ります。

 ことにこの舞台の「照明」の素晴らしさを引き立てたものは、やはり「音響」でした。選曲といい、音量といい、もちろんオペレーション(操作)のタイミングといい、つまりは “音に対する繊細な感性と芸術性” とが余すところなく表現されていたのです。

 ことに〈エアリエル〉(空気中に棲む妖精)が、文字通り “妖精として” 軽やかに、そしてリズミカルに踊り跳ねるシーンは、まさにミュージカルであり、岡崎沙良嬢の非常に質の高い演技に、歌に、そしてダンスに、圧倒されていました。

 それをいっそう際立たせたものこそ、秀逸で繊細なプラン&タイミングの「照明」であり、「音響」だったのです。

 〈エアリエル〉が、やや逆光の中で歌い踊りながら、その五体をしなやかにのけぞらせて消えて行くシーンは、まさに “秀美の極み” でした。抜群のタイミングの「照明」と「音響」があってこそのものであり、また役者の「演技」でした。それによって、筆者はこの舞台一番の感動に酔いしれることができたのです。

 そして、こうした “ここぞ” という際の「照明」と「音響」をいっそう魅力的にした最大の貢献者こそ、開演前の“抑制の効いた静かなBGM”であり、“ぐっと控え気味の舞台照明”でした。このような点が、まさにプロ級、いえプロそのものといえるでしょう。

 開演前、BGMの音に敏感な筆者ですら “少し音量が小さいのでは?” と思えるほど、音量を抑えたBGMでした。しかし、その “抑制された音響” だからこそ、舞台が始まった冒頭の “嵐(tempest)” のシーンが、“うるさい音量”にならず、品位と深みを持ったシーン構成となったのです

 開演前のあの「音響」(BGM)こそが、「冒頭シーン」を格段に活かし、劇的効果をいっそう高めたのです。筆者は心の中で、ほんとに『まいりました』と呟いていました。もうこの「冒頭」の段階で、これらの舞台の成功は半ば約束されたといっても過言ではありません。

 開演前のBGMが “静かに流れる” ということは、いやが上にも、開演を待ちわびる観客の心を静かに整え、徐々にその観劇姿勢を高めながら、観客のイマジネーションを優しく刺激しているのです。

  このような華麗かつ繊細な表現は、やはり「岩井ゼミ」生を中心とする「四団体」公演の『あゆみ』(昨年)や、「演劇部」単独の『フローズン・ビーチ』(一昨年)にも確実に活かされていました。

 最近、この「岩井ゼミ」をはじめとする「福岡女学院大学」の「演劇活動」の実態の “謎” が、ようやく筆者にも、少し分かるようになりました。「四団体」とは、「岩井ゼミ」を中心に、「演劇部」「ESS」(英研)そして「クロコブ」という団体(組織体)の合同を意味するようです。

  ちなみに「クロコブ」とは、この団体のTwitterによると、《照明や音響を勉強しながら大学の学生ホールを管理運営する委員会のことで、正式名は「学生ホール管理運営委員会」》と言うようです。

  道理で、『The Tempest』(主催:岩井ゼミ)も『あゆみ』(主催:四団体)も、そして『フローズン・ビーチ』(主催:演劇部)(※註1)も、素晴らしい「照明」そして「音響」だったのです。

 

 ※註1 「演劇部」単独主催となった『フローズン・ビーチ』は、一部の「照明」や「音響」に指摘した点はあったものの、「一大学の演劇部」としては、高いレベルにあったことは確かです。ことに開演前のビートルズの曲が、開演後のステージをいっそう活かし、また意味を深めたのは事実です。

 実はそれ以降、筆者は「ビートルズ」を耳にするたびに、この舞台が甦って来るようになりました。もちろん、女優陣の演技や舞台美術等にしても同じです。

 

 

 


●演劇鑑賞:『ピーターパンシンドローム』(陰湿集団番外公演)

2016年01月26日 06時46分19秒 | ●演劇鑑賞

  

  この鑑賞は、あくまでも一個人の私的感想

 昨年の大晦日の演劇鑑賞は、『わが2015年の福岡演劇(学生)を顧みて』となっています。頭に『わが-』と付けており、あくまでも筆者個人の私的な感想です。自分の趣味好みの範囲において、観たい舞台を自分で選び、鑑賞したいものを、好き勝手に評価しているだけです。それ以上でも、それ以下でもありません。もちろん、今回のような「単発の鑑賞」にしても同じです。

  一人の人間が、一年間にそう多くの舞台を観ることなどできません。見逃した優れた舞台が沢山あると思います。そのことは、「その舞台の表現者」にとっても、「観客(筆者)」にとっても、ある意味では “” であり、“” というものでしょう。老い先短い身であり、今後はいっそう自分が納得できる「劇団」や「舞台」に絞って行きたいと思います。

 とはいえ、持ち前の気まぐれや整理不得手の性格ゆえ、せっかく観劇したのにもかかわらず、優れた舞台であっても鑑賞原稿のタイミングを失くし、本欄にアップしそこなったものもあります。我ながら、何と言うことをしたものかと落ち込み、反省しきりでした。

  最近のものでは、「2013年度・九州大学演劇部番外公演」の『動物園物語』(作:エドワード・オールビー、演出[ダブル]:森聡太郎・棟久綾志郎の両氏)であり、同じく「同大演劇部2014年度前期定期公演」の『カノン』(作:野田秀樹、演出・脚色:白居真知氏)です。遅きに失した感はありますが、両舞台の「演出家」はもとより、キャスト&スタッフ各位にお詫びを申し上げます。

  ことに「前者」は友人を誘った舞台でしたが、、帰りに演出家の森氏棟久氏にエールの握手を求めたほどです。筆者が関係者に握手を求めたのは、後にも先にも、このときしかありません(※筆者は、存外、恥ずかしがり屋のため、なかなかできないのでしょう……)。同席した友人も非常に感動した一人であり、それ以来、いっそう演劇に惹かれたようです。

 

  ピーターパンシンドローム』に素直に共感

  昨年末の12月26日(土)、「陰湿集団番外公演」の『 ピーターパンシンドローム』(作・演出:大和)は、地味な舞台ながら、作・演出家の高い精神性や一途な思いが伝わって来るとともに、捻くりまわさない素直さが、確かな共感を呼んだといえるでしょう。

 番外とはいえ、「陰湿集団」らしい深い哲理を感じさせる舞台であり、手垢のつかない青年劇団の、含羞と照れを漂わせる作品でした。本舞台は1時間20分程度の中編のため、もっと観続けたいとの気持ちになり、会場を去りがたく感じたものです。体調が充分ではない筆者でしたが、おかげで爽やかな気分で帰ることができました。

 その “演出の言葉” に、次のようなチャーミングな一文があります。ちょっと長いものですが、引用してみましょう(原文のまま。抄録)。

       ☆

 《私の幼稚園の時の夢はカタツムリ屋さんでした。…(中略)…カタツムリ屋さんって、そもそもなんだよ、ありえない。意味が分からない。でもそういうのが実は夢であり、叶える努力をし続ければもしかしたらあり得るのかもしれません。夢は叶えられないから夢だという言葉は間違ってはいないと思いますが、本当は夢は今はありえないがあり得る可能性を秘めているのが夢なのではないでしょうか。》

      

  以前にも書きましたが、当日の「プログラム」における〈物語のエキスを垣間見せる言葉〉や〈作・演出家の言葉〉は、非常に重要です。なぜなら、これらの言葉は、これから始まる舞台の感動を大きく左右すると同時に、作家演出家自身の “人間性舞台芸術家としての姿勢” を “さりげなく” 示しているからです。

 と同時に、観客に対しては、「キャスト&スタッフ」が〈想像&創造した世界〉を、それとなく感じさせつつ、「観客自身」による〈想像&創造を促す働き〉を持っているからです。少なくとも、的確で優れた〈言葉〉とは、そういうものです。

 つまりは、それらの〈キーワード〉によって、観客は自らの〈感性〉 や〈美意識〉 を “さりげなく、また心地よく刺激される” というわけです。そのため、語り過ぎず、寡黙過ぎず……という裁量こそが、作家や演出家の “感性や美意識” を、そして “知性や悟性” を示唆するものとなるのでしょう。

  したがって、そうでない「舞台」は、当然、これらの作家や演出家の葉も、本当に疑問視せざるをえないものがあり、何を言っているのか理解不能なものや、謎めいた言葉をちりばめた自己陶酔的なものが見られます。とても残念であり、観客に対して失礼です。

  そういう意味からすれば、この「陰湿集団」は、常に何を言わんとしているかがはっきりしており、また誠実にそれを舞台上で表現しようとしています。

 昨年できたばかりの「小劇団」として団員も少ないわけですが、目指す方向は “しっかり捉えており、ぶれないところ” が、素晴らしいと思います。もっと言えば、筆者が常々ここでお話している “高い精神性をいっそう高めようとしている” からです。

 それだけ地に足がついた、「青年集団」らしい、豊かな文学の香りを漂わせながらも、しっかりと社会参画を見据えている姿勢に最大の魅力があります。

 このブログをごらんの方、特に年配の方々に申し上げたいのは、ご自身や配偶者の方はもとより、息子さんや娘さんと一緒にご覧になることをお勧めします。

      ☆

 さて、「物語」はというと――、

  かつて、男性「ピーターパン」を演じていたと言う〈大和田〉。今ではクスリによる入院により療養を続ける日々――。そんな彼が、「大人」になれない〈ミレイ〉という少女と出会い、彼女を通して自分の生き方や他との関わり方というものに変化を見せ始める……。そこに、医者の〈福島〉や看護師の〈鈴谷〉、それに〈老婦人患者〉その他が絡む。

 「リノベーション・ミュージアム冷泉荘」と聞いて、一応、建築畑でもある筆者は、その方の関心もあって観に行きました。「――荘」とついているので、もしやという気もしつつ……。案の定、ハード面の「リノベーション」には程遠いものの、ソフト面でのrenovationについては、模範的といえるものでした。

 「小舞台・小客席」には、まさに “打ってつけ“。一切の無駄を省き、余計な造作や内装などは皆無。もとはと言えば、おそらく2DK程度のものをスケルトン方式で利用・運用しているのでしょうか。

 もうこれだけで、演劇関係者であれば、イマジネーションを刺激されるはずです。もちろん、観客も。ことに素朴でシンプルな建物大好き人間の筆者などは、「会場」に入っただけで、ワクワク、ゾクゾクでした。

 演劇舞台の究極は、「役者」だけで成り立つ。と考えている筆者にとって、こういう「会場」の「舞台」は大好きです。

 何と言っても、手を伸ばせば届くほどのところに役者がいるという魅力は格別です。そのため、今回も役者の顔に目に、視線に表情に、細やかな身のこなしに、感情をしっかりこめた歩き方や喋り方に、それに手の動きに、声の出し方に、そして無論、照明に、音響に、舞台背景に……と沢山の刺激と感動を貰ったというわけです。

 今回の「舞台背景(美術)」もなかなかどうして。白い布地感覚のものに、青色発光ダイオードのような色彩を発色する照明は秀逸でした。豪華なステージも、豪華な幕も、豪華な舞台装置もない、素朴でありながら、豊かな感性と創造性に溢れた独自の創意工夫……。

  ただ、ラストシーンの音楽が少し大きく、台詞が聴きとりにくかったのが悔やまれましたが……。

 では次に、「役者」陣を見て行きましょう。

      ☆

  確実に成長している役者とその布陣

  昨年の旗揚げ公演の『陰湿クラブ』では、舞台が暗めのためよく観えなかった三留夏野子嬢。今回は、冒頭からしっかりとその姿と演技を拝見しました。堂々たるものであり、声も通りがよく、ぐっと惹きつける確かな演技でした。変に片意地張ったところも、これ見よがしもなく、素直で自然な動きであり、台詞回しでした。

 筆者がもっとも好む“自然流自然体”であり、手垢のつかない若者らしい発声や動きだからこそ、より感動が深まったというものです。いっそう精進して頑張ってください。

 長野真結嬢に村上悠子嬢。この両嬢も「舞台」ごとに確実に上手くなっています。それも単なる“小手先のうまさ”ではなく、役の“人間像”をしっかり受け止めことができるからでしょう。それだけ、人間的な成長があるということでしょう。それは、今回のように、“等身大ではない役” をしたときに、その真価が発揮されるものです。

 そういう意味では、今回、筆者が観た〈村上・ミレイ〉は、その関門を突破していたと言えるでしょう。今回は観ることができなかった〈長野・ミレイ〉でしたが、筆者は、この両嬢については、以前より秘かに注目していた一人です。確実に高いレベルの役者として成長しています。三留嬢とともに楽しみです。

 それもこれも、やはり「陰湿集団」の持っている“高い精神性”と“白居真知主宰山本貴久丸尾行雅両君等の確固たる哲学”の賜物といえるでしょう。演技や台詞回しは、それだけの訓練で上手くなるというものでは絶対ないようです。やはり、その役者個人の人間としての成長が何よりも大きいと思います。

 その意味において、「精神性高い劇団」での「出演」やそのための「ワーキング」こそ、やはりすべての面における成長のカギではないでしょうか。そういうことを、この「劇団」には感じます。

  それだからこそ、観客としても、どのような役者が、どのような成長をみせてくれるのかという楽しみとともに、“演劇の可能性” に対する期待を膨らませてくれるのです。

 そういう意味では、石川悠真木下智之の両君も、前述の女優陣同様、確実に成長し、かつ高みを目指しつつある役者と言えるでしょう。ことに今回、〈老婆〉役の木下智之君の演劇が光ったようです。脇役ながら、どうしてどうして、しっかり他の役者を脅かしたかもしれません。秀逸な演技でした。

 主人公のテラバイト☆ゆういち君については、今回の舞台だけでは、正直言ってよくわかりません。欲を言えば、少なくとも前半においては、「ピーターパン」役の華やかりし時代と、心身ともにボロボロになっている現在との違いを際立たせて欲しいというのが筆者の希望でした。

 つまり、もう少し「シンドローム」性を出した方が、“鬱屈感”や“屈折感”がいっそう描かれ、それだけ人物の魅力が増したと同時に、〈ミレイ〉もいっそう活かされたのではないでしょうか。ということは、この二人を見守る〈福島〉〈鈴谷〉そして〈老婆〉や〈ファンの女性〉などもさらに具体性を持って描き出されたような気がします。少し、“穏やか過ぎた”かな、というのが筆者の偽らざる感想です。

 しかし、なかなかの熱演でした。 

      ☆

 筆者は、『陰湿集団』の哲理ともいえる頑固なフレーズが、お気に入りです。「プロフィール」に、こう書かれてます――。

 九州大学演劇部OBを中心に結成された陰湿な劇団。日々、まがりくねったものをもとめて活動中。》

 チラシも品位と美的センスともにgoodでした。ソフトフォーカス気味のドローイングが何とも味があっていいですね。作画は、宣伝美術担当の本村茜さん?! 

 

  ☆作・演出:大和

  キャスト】 

  〈ミレイ〉 ●長野真結  ■村上悠子  ※ダブルキャスト

  〈大和田〉 ■テラバイト☆ゆういち  福島〉 ●石川悠真 

  〈鈴谷〉 ◆三留夏野子  〈その他〉 ○木下智之

 スタッフ】 

  舞台美術・音響・制作:●山本貴久 

  照明:○大園和人 

  宣伝美術:○本村茜 

  ※註:所属 ●陰湿集団 ■九州大学演劇部(伊都・箱崎キャンパス)

   ◆九州大学・大橋キャンパス演劇部

 

  今回のすべての「キャスト」及び「スタッフ」各位に讃嘆と感謝を捧げるとともに、演劇活動に対する真摯な態度と情熱とに敬意を表します。

   花雅美 秀理  

 

    


●演劇鑑賞:『八月のシャハラザード』(西南大学演劇部)

2015年07月05日 00時03分23秒 | ●演劇鑑賞

 

   退屈させなかった145分の舞台

   今回の舞台の「公演時間」は正味2時間25、6分だろうか。筆者にとっては久しぶりの「長編」となった。「2時間程度」はときどき体験するものの、「2時間30分前後」となると、プロ劇団の舞台を除けばあまり記憶にない。

   「2時間」を越える舞台ともなれば、プロ・アマのものを問わず、多少は退屈するものだ。しかし、今回の舞台に関しては、途中、一度も時計を見ることはなかった。

   それだけ「演出」や「役者の演技」が優れていることを意味するわけだが、最大の功績は、何といっても、「役者」の顔の表情や細やかなしぐさが、きちんと見えたことにある。もしも今回の舞台が、前回の『うちに来るって本気ですか?』(作:石原美か子/演出:田中里菜)同様、“観劇席の制限” が厳しいものであったなら、こうはいかなかっただろう。

   やはり、「演じる役者」と「観客」とは、基本的には、できるだけ近いにこしたことはない。まじかで見ることができるからこそ、役者の表情をしっかり把握することが可能となる。それに加え、手や指先の小さなしぐさも、筆者は結構こまかく観察している。筆者にとっての「魅力ある舞台」とは、繊細で丁寧な演出、そして演技となる。 

        ★

   今回の物語の「あらすじ」は、おおむねつぎのとおり――。

   貧乏役者の〈天宮亮太〉は、目ざめたとき、タグボートの上にいた。実は彼は海で死んでおり、「ガイド役」の〈夕凪〉により、間もなく「あの世」行きの船「シェハラザード号」に乗り込むところだった。しかし、彼は恋人の〈ひとみ〉に今一度会いたいと言って海に飛び込み、タグボートから脱走する。                          

   一方、根っからの犯罪者といえる〈川本五郎〉は、仲間の〈梶谷〉と現金輸送車を襲撃し、強奪に成功する。しかし、〈梶谷〉の裏切りによって現金を持ち逃げされ、警察へ密告される。〈川本〉は、警察との銃撃戦によって被弾し、瀕死の重傷を負う。だがなんとか逃げ延び、〈梶谷〉を見つけた〈川本〉は、奪った現金の在り処を吐かせようとするものの、〈梶谷〉の彼女の〈マキ〉の抵抗により手こずる。この〈マキ〉こそ、〈梶谷〉が〈川本〉を裏切るようそそのかした女だった。

   他方、海で死んだ〈天宮〉について語り合う劇団主宰者の〈木島〉や劇団員の〈あらた〉に〈武志〉、そこへ〈ひとみ〉がやって来る。

   既に肉体を持っていない〈天宮〉。死んではいても、かろうじて肉体を保っている〈川本〉。その二人が、〈夕凪〉によって “つながり” を持ち、“あの世と現世” との中間的な存在となって行動する。〈天宮〉と〈川本〉は互いに姿も確認でき、また言葉をかわすことができる。また〈川本〉は “現世の人間” にも姿が見え、言葉をかわすこともできる。しかし、〈天宮〉は自分の方からは見えても、“現世の人間” からは姿も見えず、言葉をかわすこともできない。

   自分を裏切った〈梶谷〉と〈マキ〉への復讐に燃える〈川本五郎〉に対し、最後に恋人の〈ひとみ〉に会って、ひとこと告げようとする〈天宮亮太〉。

 ――結果として、〈川本五郎〉は自らの復讐を止め、その「肉体」と「声」を通して、〈天宮亮太〉の “気持ちと言葉” を〈ひとみ〉に伝え、最後の別れの場面を用意してやる――。

        ★

   9人の役者の好演による舞台だった。その中でもまず目を惹いたのは、〈川本五郎〉役の「高倉輝」氏と〈マキ〉役の「岡澤百夏」嬢だった。なかなかのキャスティングといえる。両者によって、他の役者がいっそう活かされたのではないだろうか。

   高倉氏の声質や声量はもとより、非常に伸びのある台詞回しが印象的であり、一語一語が心地よく耳に残った。それにしても、堂々たる演技だった。「役作り」がうまいと言ってしまえばそれまでだが、当然、それなりの努力を重ねたに違いない。やはり、生まれ持った「役者としてのセンス」というものだろうか。

  岡澤嬢は、ダーティーな役どころを意欲的に、かつ的確にこなしたと言える。小ワルの〈梶谷〉を演じた「瀬川 」の手堅い演技もあって、岡澤嬢の堂々とした演技や台詞回しは、いっそうきわだった。ことに、〈川本五郎〉役の「高倉輝」氏との絡みは、この舞台最大の見どころといえる。

  ラストに、〈川本〉の身体を通して、肉体を持たない〈天宮〉に触れ、彼と言葉をかわす〈ひとみ〉役の「田中里菜」嬢の姿に、少しほろりとさせられた。筆者も歳を重ねて、いっそう涙腺が緩んできたようだ。劇団主宰者〈木島〉役の「尾野上峻」氏にも惹かれたし、〈夕凪〉の「和田遥風」嬢の、非常に通りのよいリズミカルな声は魅力的だった。「鼻本光展」および「西畑嵐」は、あまり目立たなかったかもしれないが、観客には解らない役作りに精進したという印象を受けた。

          ★

 演出 新ヶ江優哉

 キャストスタッフ】 森健一天宮亮太):制作高倉輝川本五郎):小道具・衣装メイク、和田遥風夕凪):大道具・照明、田中里菜ひとみ):衣装メイク・宣伝美術、瀬川 梶谷):助演・小道具、岡澤百夏マキ):衣装メイク・音響、西畑嵐武志):大道具・宣伝美術、尾野上崚木島さん):照明・大道具、鼻本光展あらた):制作・照明

 【スタッフ】 花浦 貴文:助演・照明、讃井基時:大道具・照明、岸川織江 :小道具・音響、藤野和佳奈:制作・照明・照明オペ、宮地桃子 :衣装メイク、井口敬太・音響・音響オペ、桝本大喜;舞台監督・大道具、加藤希:音響・照明、徳勝有香:大道具・制作、本田高太郎 :受付・衣装メイク、布住 :宣伝美術・音響・音響オペ、汐月優理恵:照明・音響・照明オペ、佐々木智代:小道具・制作、遠藤あかり:衣装メイク、多賀晶咲:音響・制作、白浜勇輔:大道具・小道具、池田果歩:小道具・照明、山口 明日香:小道具・衣装メイク、富岡ちなみ:音響・宣伝美術、高木はるか:音響・照明、松山和正:制作・衣装メイク、古賀麻友香:照明  以上の諸氏諸嬢。

 

  「音響」と「照明」も、「西南大学演劇部」の得意とする総合力が発揮されものであり、洗練されたものだった。

  このたびの「キャスト」及び「スタッフ」のみなさんをねぎらうとともに、讃嘆と感謝の意を表したい。

 

 

 


●演劇鑑賞:『アイ・ドント・ノー・ホェア・アイ・アム』(陰湿集団)

2015年06月09日 00時00分55秒 | ●演劇鑑賞

 

 倉庫を舞台に

  今回の「演劇」は、上演時間はほぼ40分短編。「会場」は九州大学箱崎キャンパス内の「倉庫」であり、机や椅子などが雑然と置かれていた。「六畳一間ちょっと」のコンクリートの土間を「ステージ」とし、椅子等を並べただけの「客席」だった。だが “演劇舞台は役者だけでも成立する” と思う筆者には、何の不満もなかった。

   鉄骨スレート葺き構造の「倉庫」は本来の「窓」はあるものの、「役者用の出入口」や「通路」として利用するため、その外側に一部外壁らしきものが施されていた。そのため「出入口」以外には開口部も換気口もなく、また空調設備もない。もっとも、「倉庫」全体が簡素な資材できているため、その適度な隙間が有効な換気をはたしていた。

   この日は夏日であり、空気環境は好くなかった。しかし、「役者(キャスト)」は平然と演じ、「スタッフ」は淡々とこなし、観客は集中して観ていた。好きこそやれる、またできるというものだろう。

 「倉庫ステージ」の最大の利点は、5m弱の天井高にある。この高さによって、役者の声の明瞭さや伸びがいっそう際立ち、籠ることなくとても聞きやすかった。演劇における「役者の声」は最高の音楽と確信する筆者にとって、高い天井は大きな魅力。それに加え、空間の拡がりをいっそう感じさせた。それにしても、このような「倉庫」を「演劇の舞台」として活かそうとする情熱と知恵に感心した。

 

  「陰湿集団」らしき世界

   さて「舞台」の主な「登場人物」として、一応次の「4人」が挙げられる。

○所在なさげな感じの〈父親A〉(木下智之

○ゲームに夢中な〈息子A〉(長野真結

○「得体の知れない店舗のような施設」の〈女従業員〉(泉加那子

○怪しげな〈弁護士〉(白居真知

   その他として、白居氏演じる〈客〉や〈強盗らしき男〉〈少年Bの父親〉。木下氏による〈ゲーム好き少年B〉、そして泉嬢演じる〈少年Bの母親〉といった人物。

      ★

   冒頭の〈息子A〉が「ゲーム」中の「キャラクター」を設定する場面は、白居氏の巧みでコミカルな動きによって観客の心を掴んだ。                                       

   その白居氏演じる〈怪しげな弁護士〉と〈「得体の知れない店舗のような施設」の〈女従業員〉(泉加那子)のやりとりは哲学的であり、見応えがあった。この〈弁護士〉は、〈女従業員〉に「六法全書」の “取り替え” を2回要求する。1回目はコーヒーで汚れたからという理由だったが、取り替えてもらうことができた。 

   だが「破れた個所」があるとの2回目については、何と「破れた個所」をのぞきこんだ〈女従業員〉が、“該当する条文” をスラスラと口述して〈弁護士〉に教えたのだ。〈弁護士〉が、商売道具の「六法全書」を “取り替えて” もらうことや、素人が法律条文を諳んじるという着想が優れている。作者の豊かな才能と細やかな感性を感じた。

  また今回、木下氏の演技に注目した。寸足らずの「棺桶」の中でもがき苦くしむ場面は印象深いメッセージを残した。これまでの氏には見られなかった自己表現ではなかっただろうか。                                                                                                                                     

  ともあれ、今回の「舞台」は作・演出家自身の、そしてまさしく「陰湿集団」らしい “鬱屈した世界”……しかし、“希望と救済を約束された世界” であり、タイトルの雰囲気が感じられた。

       ★

  焦らずに課題の克服を

  だが今回、残念に思う場面も残った。それは、木下氏を「ゲーム好きの少年B」とし、嬢を「その母親」、白居氏を「その父親」としたこと。わずか40分の「舞台」の中でこの3人をあえて登場させる必然性はあっただろうか。

   確かに、ゲームに夢中になりすぎた「少年B」の〈母親〉が、狂い出さんばかりに怒った嬢の演技は見応えがあった。しかし、「ゲームに夢中な少年」というのであれば、長野嬢演じる「少年A」で間に合ったはずだ。何よりもこの「少年A」と「父親とはもっと絡んでもよかったのではないだろうか。                                                                           

  やはり、木下氏は「少年Aの父親」役だけを、また嬢は「女従業員」役だけを演じる方がよかったような気がする。〈弁護士〉他いくつもの役を演じた白居氏は、あれでよいと思う。というのも、彼は「冒頭」において “さまざまなキャラクターのさまざまなバリエーション” を感じさせる人物として描かれていたからだ。

   ともあれ、何と言っても「案内チラシ」と「当日のプログラム」の【あらすじ】には、次のように記されていた――。

 

  ある店に来た親子息子はゲームをやめない。奇妙な注文ばかりをしていく他の客。さて、父親の順番が来た。は何を注文するのか。

   これに「タイトル」の『アイ・ドント・ノー・ホェア・アイ・アム』を加えて考えるとき、今回の舞台における〈父親〉の存在は大きい。やはりこの〈父親〉にもっと焦点を当てたほうが、「物語」がいっそう印象深く観客の心を捉えたのではないだろうか。

  実は筆者は、今回の「舞台」を同じ日に2回観た。その理由は、この〈父親〉の扱いに今一つしっくりいかないものがあり、それを確かめるためだった。

       ★

  思うに、〈弁護士〉と〈女従業員〉との「六法全書」の “取り替え” を巡る “絡み” をもう一回挟むとよかったのかもしれない。ついでに言えば、「小道具」としての「六法全書」は、“独自の条理(=秩序)の世界” をイメージさせる「オリジナルなもの」がよかったのでは……。 

 【キャスト】 木下智之(父)、長野真結(息子)、泉加那子(女従業員)[※註1]、白居真知(客=弁護士、その他)

 【スタッフ】 白居真知(舞台美術)、山本貴久(照明)、谷口陽菜実(音響)、木下智之(制作)、長野真結(宣伝美術)。 以上、諸氏諸嬢。

  

  今回は、正直いってあといくつか指摘したいことが残ったようだ。しかし、それは成長へのステップであり、いつか話してみたい。

  ともあれ、今回の「舞台」に携わった「キャスト・スタッフ」各位に労いの言葉を贈りたい。

  とにかく “焦らずに、じっくり腰を据えて” 進んで欲しい。「小さな劇団」ではあっても、 “進もうとしている方向も、進むべき方向” も確実に捉えている。……と確信する筆者は、ぜひそれを見続けたいし、また見届けたい。

            ★   ★   ★                                                                 

 ※註1:福岡大学演劇部所属 

 

 


●演劇鑑賞:『『人数の足りない三角関係の結末』/演劇ユニット「 」(かぎかっこ):下

2015年06月04日 00時05分31秒 | ●演劇鑑賞

 

  家族の再生

  ところでこの「物語」は何を伝えようとしたのだろうか。「エピソード:1」の洋食・中華・和食の鉄人という設定が表現しようとした世界は、趣味趣向や価値観の違いであり、少なくとも表向きは「競争社会」における “闘い” あるいは “対立” を象徴的に描いているのだろう。人は誰しも、さまざまな場面において、何がしかの “闘い” や “対立” に身を置いている。

  「エピソード:2」は、1人の「(山路)」を巡る「女2人」の “闘い” であり、“対立” といえる。無論、「男」自身もずっと “闘って” 来たし、漂流中もそうだった。結果として、ここでの “恋愛” は未完のまま終りを迎えた。しかし、前述のように「離婚経験者」として “家族の破綻” を招いた「男(山路)」の「(なrなえ)」が、「エピソード:3」の「花嫁」となる。

   そして「エピソード:3」は、人間社会の “さまざまな闘いや対立” を超えたところで、「家族」という人間関係が成り立つ、あるいは成りたっていることを示している。つまりは、何の脈絡もなかった「人」と「人」とを “つなぎ留めた” 「家族」という形態の力強さというものだろう。「(えにし)」と言ってよいのかもしれない。

 人間は自分の「家族」を守るために、他人の「家族」を破綻させることを厭わない。愛する妻子のために、同じように愛する妻子を抱えた男を殺め、彼から金銭を奪うのも男だ。「家族」という名のもとに、何か赦されることがあるというのだろうか。

 人間は一つの「家族」を壊しても、また次なる「家族」を創ろうとする。「壊れた家族」で育っても、いや、だからこそ「壊れない家族」をと試みるのかもしれない。そういう「家族」の強さ……いや、“家族を創り上げようとする” 人間の “意志の強さ” というものだろうか。それはもう “再生” といった生易しいものではない。そんなことを感じさせられた。

 

  優れた音響効果

  この「エピソード:3」において、「音楽」がとても感動的だった。夫婦と娘とのやりとりが終わる頃、静かにサティの「ジムノペディ」がゆったりとinし、「結婚披露宴」での〈娘・ななえ〉のメッセージが始まる中、ずっと流れていた。絶妙な選曲であり、見事な場面転換だった。音量調整もタイミングも申し分なかった。

   しかし、それ以上に感動したのが「」の「効果音」であり、自然の「波音」そのものではなく、舞台に合わせて作られたオリジナリティが感じられた。 “根なし草のように不安定に漂う” 感じや、“逡巡しながら海の中に引き込まれていくような空虚感” がよく表現されており、3人の男女の不安感をきわだたせていた。

   “ありきたりの自然な波音”では、こうはいかなかっただろう。といって “作り物=まやかし” というものでもない。あまりの素晴らしさのために「劇団」に問合せたところ、「自然の泡や波」を複数組み合わせて作成したという。

   「演劇」には、こういう細やかな神経が求められるわけだが、それもやはり研ぎ澄まされた “感性” の所産というものだ。主宰の浜地氏が「音響」を担当したというのも頷ける。無論、「音響操作」も秀逸だった。

   また、地味ながらも「照明」や「照明操作」も、「音楽・効果音」ほどの派手さはないものの、優れた「企画」であり、また「照明操作」だった。……とはいえ……

       ★

  今回の「舞台」において、もう一つ素晴らしいと思ったのは「演劇会場」の使い方だった。実は今回の「会場」は、『陰湿クラブ』(陰湿集団)と同じ「シゲキバ」だった。「陰湿」とはまったく異なったステージの造り方をしており、とても納得がいった。

   観客席を細長く取り囲むように、「3つ」の「エピソード」の「舞台」を離しながらも、どこか “つながり感” を意識させていた。 何でもないようだが実にうまい。

 

  解りやすい舞台進行を――もっと照明に

  最後に、舞台運営について、率直に筆者の所見を述べてみたい。それは、今回の舞台のように「複数のシチュエーション」に「多くの登場人物」の場合、“どうすれば、観客がよりよく舞台を理解できるのか” についての、いっそうの配慮が望まれる。今回の場合、「エピソード:2」の「漂流」において特にそう感じた。

  ことに、「舞台背景」等の「舞台美術」や「小道具」「衣装」等が省略された場合(無論、それらの省略については何の異論もない)、「観客」の拠り所は「役者」の「演技や台詞」だけとなる。今回、同劇団の優秀な役者3人による舞台進行とはいえ、また前述した素晴らしい「」の効果音があったとはいえ、やはりそれだけでは「舞台」が表現しようとする真の意図を理解することは難しいようだ。

   上っ面の把握だけでは、折角の舞台がもったいないというもの。何よりも、「エピソード:3」への “つながり”が 浅いものとなりかねない。やはりここでは、「照明」を利用した「海」や「漂流」といった「シチュエーション」を表現して欲しかった。あれだけ素晴らしい「波音」を創造した劇団にとって、それほど難しいことではないと思う。

   「照明」においては、大がかりな照明装置やカラフルなライトなどなくとも構わない。最近、これはと思う劇団において、「音響効果」のレベルはかなりアップして来たように思う。あとは「照明」ということになろうか。

 もっと光を! ……どこかで聞いたな……いや違う。 もっと光に! 

 ……いやいや、もっと照明をだ! いや、それも違う。

 もっと照明に! これだ。 出でよ! 「照明の鉄人」! 

 

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 【キャスト】 浜地泰造丸尾行雅石川優衣酒井絵莉子せとよしの(※註1)

 【スタッフ】 音響:浜地泰造、照明・宣伝美術:石川優衣、制作:酒井絵莉子、音響操作:古川綾、照明操作:伊比井花菜 の諸氏諸嬢。

 ※【チラシ写真撮影・デザイン】:椎名諒

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 椎名氏の「案内チラシ」のデザインと後ろ姿の女性フォトがいい。同氏のような「ブレーン(brain)」の氏名明示については大いに賛成したい。言うまでもなく、当該「舞台公演」の「表現者の一人」でもあるからだ。

 ともあれ、より解かりやすい「舞台運営」をあらためて望むとともに、このたびの「舞台公演」に関わったすべの「キャスト」「スタッフ」そして「ブレーン」その他の人々に敬意と深謝の意を表したい。(

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  ※註1:彼女の所属は、演劇ユニット「そめごころ」、アートユニット「豆小僧」。