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『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・母親の運転による2歳愛娘の死:下

2020年12月01日 14時56分27秒 | ■世事抄論

  前回(6月27日)の最後の部分において、筆者は以下のように述べていました。

 

    ★ ★ ★

 ――ところで、今回のような事故を未然に防ぐ〝手堅い方法〟として、おそらく多くの方は次のようにお考えになると思います。それは――、

  《子供にあれこれ言葉で注意を促すよりも、親(大人)が車を運転する前に子供を車に乗せ、きちんとシートベルトをかける。》

……と言えば、「そんなことは言うまでもないことだ。」とお叱りを受けるかもしれません。確かに〝ことさら目新しいこと〟を述べた訳ではありません。

 しかし、筆者が〝本当に言いたいことは、実はここから〟始まるのです。(続く)

                                       

   というところで終っていました。この先は、以下の「第1」及び「第2」の「点」となります。

  第1は、 

 《子供を乗せてシートベルトをかける前に、まず次の事をしっかり体験させてから肝心な話をする。》

 というもの。

 その体験とは、子供を「運転席」に座らせ、〝運転者の視点=視線〟を体験させることです。つまりは、「車」というものが、〝いかにその車内からの視界狭いものであるか〟を。

 すなわちいかに見えにくい、危険なものであるか〟を、「その子の目」を通して実際に体験させることです。

  「幼児の」場合は、親が「抱っこ」した状態で運転席に臨むことになると思いますが、その際、「その子の目線高さ」を〝運転する親の目線〟と同じ高さにすることが肝要です。    

    「子供」自身が、単独で「運転席」に座ることができる「小学生」以上であれば、座席に何枚かの座布団を敷けば充分かもしれません。ともあれ、〝子供を大人と同じ運転者の立場にすることが絶対条件となります。

 以上のように、〝運転者の目線〟を充分体験させた状況下で、「しかるべき説明」をするべきでしょう

 「三つ子の魂百までも」という「諺」の通り、できるだけ早い年齢より機会あるごとに、これでもかというくらいに繰り返し体験させることが重要です。「体験」開始年齢が早いほど、より教育効果も上がるというものです。

 

第2は、

 以上のような〝実際の体験〟を、決して「一家族レベル」では終わらせないということです。必ず「複数の家族間」において、〝子供たちの実体験を共有し合う〟ことが肝要です。

 つまりは、「さまざまな車」による「運転手の目線体験」を、一つでも多く体験させることです。それによって、いろいろな種類や大きさの異なった「それぞれの車」に潜む、危険な実態を子供に身体全身で感じさせ、身を持って覚え込ませる」ことです。

                  ★

  以上の「第1」及び「第2」のような〝実際の体験〟を通して、子供たちは〝自分の親の車という限定的な小さな危険〟から、〝車社会そのものが抱えている大きな危険〟を、否応なく思い知らされることでしょう。

 実は、こちらの〝大きな危険〟の再認識と確認こそが極めて実践的であり、またいっそう意義深いと言えるでしょう。

                   

 ともあれ、以上のような体験学習を一度や二度で終わることなく、機会があれば何度でも繰り返すことが肝要です。

 そのためにも、「ママ友」や「ご近所」をはじめ、「学校校区や「地域社会」といった、より広い単位で実施することをおすすめします。

 念のために申し上げますが、以上のことは「車の所有家族だけが対象」ではないと言うことです。もちろん、「総ての子供・総ての家族」が対象であることは、言うまでもありません。

                        

 

 これから年末の慌ただしさにかけて

 ことは人間――それも〝いたいけな子供の生命にかかわる〟ことであるため、関係各位がその重要性を、ここでしっかりと再認識していただきたいと強く願うものです。

 折しも、今日12月1日は「師走」に入ったわけですが、言うまでもなく〝慌ただしい年末へかけての危険な予兆〟が感じられる時節です。

 そのためにも、この記事をご覧の諸兄諸姉の中で、「身近に、小さなお子さんをお持ちのご家族」をご存じであれば、どうか以上について「ひと言」おっしゃっていただければと思います。

 筆者は、数日前より今日「師走」の到来が気になり、何となく落ち着かない日を重ねていました。

 そこで自分に強く言い聞かせて老躯に鞭打ち、何度かに分けて本稿を綴り終えた次第です。正直言って、少しホッとしております。 

 それにしても、前回の本記事「上」より、かなりの時間が経過しております。あらためて、大幅な遅筆遅稿をお赦しください。 陳謝また感謝

 花雅美 秀理 拝

 

 

 

 


・母親の運転による2歳愛娘の死:上

2020年06月27日 21時04分27秒 | ■世事抄論

 

 今や全くテレビを観ない筆者にとって、「テレビ・ニュース」と言っても、それは必然ネット配信のものです。各種の情報は、もっぱらこの「ネットニュース」や新聞・雑誌各社からの「配信メール」(※注①)に頼っており、それらを適宜選択しながら観たり読んだりしています。

                        ★

  いたいけな女の子の……

 数日前、母親が運転する車に、2歳の愛娘が轢かれて死亡するというテレビニュースをネットで目にしました。病院の「駐車場」を出ようとした際の出来事のようですが、事件が起きたその市に、同じ年頃のお子さんを持つ知人がいただけに、他人事とは思えませんでした。

 画面で見る限りでは、「病院ビル」内のとてもよく整備された「駐車場」であり、街中と異なって、視界も申し分のない印象でした。

 そのためごく自然に、〝それなのに……なぜ?〟という素朴な疑問が湧き、事故当時の状況を少し調べてみようかと思ったほどです。

 しかし、その気持ちはすぐに消え、逆に〝報道された内容以上のことについて、触れることはできるだけ控えよう〟という気持ちに変っていました。

 2歳の〝いたいけな女の子〟に起きた、あまりにも〝いたましい出来事〟であり、それが〝女の子を産み育て、誰よりもその子を愛していた母親〟によってもたらされたからです。

 ご遺族にとっては、まさしく〝胸の張り裂ける〟ほどの〝痛恨の極み〟であり、形容のしようがないほどの悔恨、未だ……ということなのでしょう。

                        ★

 ……この数年来、老境における我が身の〝情感〟について、これまでとは異なった趣きを感じています。

 そのためでしょうか。最近、以上のようなニュースに接するとき、これまで素朴に感じて来た〝哀しみや口惜しさ〟よりも、〝虚しさや憤り〟をより強く感じる自分に、実は少々戸惑っています。

 といって、誤解を避けるために申し上げますが、〝憤り〟と言っても、それは当事者としての「母親」や「彼女を取り巻く人々」に対するものではありません。

 そうではなく、およそ人間なるものが、〝どれほど細心の注意を払っても〟、そしてまた〝常日頃より「愛するわが子」のためなら我が身を〟と、どれだけ崇高な情愛に徹してみても、それらを非情に奪い去る〝運命のいたづら〟とやらに対する〝憤り〟です。

 まさしく〝生死事大(しょうじじだい)〟として指し示される宿命であり、つまるところは、否応なく受け止めざるをえない〝無常迅速(むじょうじんそく)〟とやらの世界なのでしょうか。

 といって、今回のような出来事を〝過失〟や〝不可抗力〟、さらには〝不運〟という言葉によって片づけたくはありません。

 そのため筆者個人のせめてもの慰めは、《やりきれない》といった言葉だけは、どんなことがあっても使うまいと決意したことでしょうか。

                     ★  ★  ★

 

 ところで、今回のような事故を未然に防ぐ〝手堅い方法〟として、おそらく多くの方は次のようにお考えになると思います。それは――、

  子供にあれこれ言葉で注意を促すよりも、親(大人)が車を運転する前に子供を車に乗せ、きちんとシートベルトをかける。》

 

 ……と言えば、「そんなことは言うまでもないことだ。」とお叱りを受けるかもしれません。確かに〝ことさら目新しいこと〟を述べた訳ではありません。

 しかし、筆者が〝本当に言いたいことは、実はここから〟始まるのです。(続く)

                  


※注釈

※注① 「ニュース」だけでなく、ちょっとした「政治・経済、社会問題」関係の読み物もあり、内容として優れて実務的であり、かつ平易です。筆者はいくつかの無料のものを読者登録しています。


 

読者へ

次回は、

・反差別の系譜(1)/米国空軍士官学校長のSpeech(下)

です。


・極上の “Less”

2011年05月10日 17時18分10秒 | ■世事抄論

 つい最近、行きつけの喫茶店で「料理人」という「M氏」と知り合いになった。数日後、筆者のブログに対して「メール」が来た。最初から遡って観ていただいたようだ(※抜粋。下線・強調は筆者)。
 

 『……"Less is more(少ないほど豊か)"(※註1)という話題がありましたね。私の修行中にもよく言われた言葉です。3年から5年の経験を積むと、料理人として必要な技術はほぼ習得します。そこでこの期間に勉強した知識から、やりたいことが山ほど出てきます。

 これくらいの経験の料理人に、たとえば「ホタテ」を使った一皿を作らせると渾身の逸品を作り上げます。「持てる技術」を総動員するのはいいとしても、たった「ひと皿」のために、10種類以上もの「食材」を使うようなものが出てきます。「主素材」が何であるのか判らないようなお皿です。このような例は、自分の「技術」に本当の自信が無いことの表れでしょう。

 経験値が上がってくると、「ひと皿」に“のる”素材の数は減り、よりシンプルに、しかし、食材同士の組合せは『絶にして妙』となり、素晴らしい「ひと皿」となります。

 私はフレンチの経験が長いのですが、「ひと皿」を構成する要素は、「主素材」、「付け合せ2品」、そして「ソースと言ったところでしょうか。「構成素材」が少ないとごまかしがききませんから、本当の意味での「技術」や「センス」の差が出ます。

 どの業界も"Less is more(少ないほど豊か)"が大切ですね。極上のLess”を得るためにも、「基本」が大切ということを改めて考えさせられるところです』

     ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 『極上のless』とは、何と洒落た表現だろうか。筆者はすっかり気に入り、さっそくこのコラムのタイトルに拝借した。
 それにしても、『“極上のLess”を得るためにも基本が大切』というのは、総ての分野に共通しているように思う。
 建築や料理にしても。またビジネスや芸術においても。つまりは文学や美術、そして音楽においても、どこかにそのエキスが潜んでいるような気がしてならない。

 高校生の頃、「エレキバンド」を組み、ドラムを担当していた。このとき「ドラム演奏」に関して言われていた言葉に『おかずが多い』というのがあった(今でも通用しているように思う)。どうやらこの言葉も、“極上のLess”に通じるものがあるようだ。

 「エレキバンド」において、ドラムは本来、「テンポ」と「リズム」の「指標」といえる。「リード」「サイド」「ベース」という「三つのギター」を導きながらも、目立ちすぎてはいけない。この“目立ちすぎる”ような「ドラミング」すなわちドラム演奏を『おかずが多い』と言う。「主素材」はあくまでも「ギター」ことに「リードギター」にあるからだ。

 「エレキギター」は、通常の「アコースティックギター」と異なり、かなりボリューム(音量)が出る。そのため、ドラムはそのボリュームに負けないよう、いきおい「ビート」を効かせることとなる。ただでさえ大きな音のドラムが、やたら本来のリズムを超えた「ドラミング」に走ってはうるさいばかりだ。

 しかし、アドリブが当たり前のジャズの場合、ドラムは一定のリズムをさりげなく刻みながらも巧みな「ドラミング」により、ピアノなどのメロディ楽器を引き立たせる。さらに楽器同士のいわば“緩衝帯”として、楽器相互の「強弱」のバランスを取り、またときには魅力的な「メロディの変調」を導いていく。「ディブ・ブルーベック・カルテット」の5/4拍子という『TAKE FIVE(テイクファイブ)』のドラミングは、その典型と言えるかもしれない。

 ともあれジャズの場合、「スネヤドラム」が「ホタテ」となり、「バスドラム」と「ハイハット(シンバル)」がその「付け合わせ」といえるのかもしれない。そして「トップシンバル」は、無論「ソース」ということになるのだろう。……そんなことを考えながら、久しぶりに聴いた『TAKE FIVE』のドラムソロに軽い興奮を覚えた。

 

     ★★★★★★★ 付け合わせ ★★★★★★★
 
 ――“極上のless”……味わい深い言葉だわ。“Less is more”って「少ないほど豊か」って意味でしょ? 何であれ、“種類” も “量” も控えるってことなのでしょうね。“かぎられたごく少量のもの” をじっくり味わうためにも、という意味が込められてて……まあ、何てステキ。

 ……え? それで今晩のメニュー、もう決めたとおっしゃるの? Less is more menu” ? 

 ……ええ。ええ。限りなくシンプルな「主素材」に、ぎりぎりまで抑えた「付け合わせ」……というわけ? なんだかよくわからないわ。……で、その「メニューの正体」は? 

 「豚キムチ」に「辛子めんたい」と「イカの塩辛」の「付け合わせ」

 ……Oh  my  god!



◆「Less is more」(2009.5.17) ※本ブログです。


 


・“真夏の夜の茶番劇二席”

2010年09月01日 17時42分29秒 | ■世事抄論

 

  昨夜(8月31日)、若手ユニットの舞台「演劇」を観に行った。観客三十人程度の小さなものだったが、そのあまりの“拙劣さ”に衝撃を受け、帰宅後しばらく考え込んでしまった。 

   気を取り直してテレビをつけると、「民主党代表選」に関する報道の真っ最中。菅首相と小沢一郎氏の「話し合い」が物別れとなり、「挙党一致」態勢が崩れたとのこと。党分裂の危機を孕んだ一騎打ちとなったわけだが、国民としては黙って推移を見守らざるをえない。

  だが今回の「話し合い」のきっかけとなった「例の元首相」が、『自分は何だったの?』との「セリフ」を言ったとか言わなかったとか……。結果はどうなるにせよ、「伝書鳩」の『脚本』通りにいかなかったことだけは確か。

  もっとも、以前よりこの元首相の“言葉の軽さ”には定評があった。彼が菅首相と小沢氏の仲立ちをするのではと言われていても、正直言ってまともに期待するマスコミはなかった。
 思うに、せめて彼が「国民世論という森の中」から飛び立っていればまだしも救いはあったのかもしれない。だが悲しいかなこの「伝書鳩」は、ひとり自らの「軽井沢鳩舎」から飛び立ち、国民不在のもとでこっそり「小沢カラス」に対し、“合従連衡時の大義”とやらに殉じていたのだ。

  今回の「両者の対立」は、一年前の“政権交代”以前へと「タイムスリップ」させたことになるだろう。“一寸先は闇”の政治の常道からすれば、今回の「茶番」も“織り込み済み”と言えるのかもしれない。ただ厄介なことに、「伝書鳩」が不意に「蝙蝠(こうもり)」に変貌することがあるため、どちらの陣営からも“仲立ち”としての信頼がかぎりなくゼロに近いということだろうか。

      ☆   ☆   ☆

 
  ともあれ、“前者”の若手「演劇」は、はっきり言って「芝居」以前のもの。この「演劇」の存在を知ったのは、他の演劇公演時に配布された案内チラシだった。眼を通したそのとき『あれっ?』と想ったのは、チラシの中に、「原作者」や「脚本家」という重要スタッフの表記がまったくなかったからだ。

  そして昨夜、会場に入った途端嫌な予感がした。舞台美術(?)による「場」の「背景」が、“いかにも女の子っぽいと思わせる“賑やかな”ものだった。“これ見よがし”に安直な色柄の布地や飾り”で占められていた。「舞台背景」のまとまりに欠け、「劇」そのものの進行にもほとんど意味を持たず、自らを「stage direction」と称する担当者の自己満足にすぎなかった。とにかく“目ざわりな美術”であり、バックの音楽も“耳障りな音響”でしかなかった。

  それに加え、観客は女子高生をはじめとする若い女性が大半を占め、しかも「女子高文化祭」の“ノリ”が漂っていた。セリフや演技のあまりの“拙劣さ”に、途中で何人かの若い男性が席を立ったほど。どうやら大学生のようだった。今思えば、その勇気を讃えたい。


  こういう“途中退席”は、百数十本の舞台観劇体験の中でも初めてのものだった。実は筆者自身、演劇開始後数分で“途中退席”をしたかったのだが、ここは“大人”の責務として必死で我慢していた。それはただ一つ、最後の「アンケート」に以下のような感想を残したかったためだ。

  『演劇とは何か。脚本とは何か。演じるとは何か。人間とは、生きるとは何か……。演劇の基本を、ちゃんとしたテキストを使ってみんなで学んで欲しい。』

  ほんとはその後に、次の一文も付け加えたかった。

  『正直言って、当世流行りの薄っぺらな“一発ギャグ”や“瞬間芸”的な安易さの集積と言わざるをえない。どこか入口を間違えてしまったのでは?』……と。

  だがこの「一文」は控えた。

      ☆

  一方、“後者”は公共の電波を使った「政治的三文芝居」と言える。前者の「演劇」のように、今さら“驚きも躊躇い”もない。だが誰がどのような理由でどちらの陣営を応援するのかしないのか。ここはしっかりと見据える必要があるのかもしれない。もっとも、まともな『脚本』がない以上、せめて奇跡的な『アドリブ』に束の間の慰めを期待するとしようか。

  ともあれ、いずれにしても「茶番」二つの暑苦しい夜となった。

 


・ラーメンどんぶりとコイン

2009年08月12日 18時30分51秒 | ■世事抄論
 

 20数年前になるだろうか。不動産流通関係の経営コンサルタントになって間もない頃、関西のある新興不動産会社を訪問したときの話だ。ときまさにバブルの絶頂期。経営指導と社員教育を依頼したいとのことであり、訪問はその打合せと社長にお会いするのが目的だった。30半ばの社長はたった一人の創業から、わずか5年で30名近い社員を抱えるまでになっていた。

 著名な建築家の設計による完成直後の社屋は、ちょっと派手な感じがしたものの斬新さが際立っていた。4階建ての「打ち放しコンクリート」であり、非コンクリート部分のドアや窓は、ブラウン系統のパステルカラーでまとめられていた。

 敷地の門を入った。ほぼ全面ガラス張りの建物内が素通しに見え、受付に制服姿の二人の女性の姿があった。ガラスの自動ドアが心地よく開き、すっと中に導かれた。受付嬢の制服はなかなかのデザインだった。後で知ったが著名な女性デザイナーのオリジナルという。それなりの女性が着れば、きっと素晴らしく映えたに違いない……と、ちょっと意地悪な想像をしながら、受付嬢に名刺を渡した。

 受付嬢が総務部長を内線で呼んだ。部長は1分近く経ってやっと受話器に出たものの、それから10分以上経過しても現れなかった。30秒もあれば、彼の「デスク」から「受付」まで来ることができたはずと思えたのだが……。

 二人の受付嬢は、筆者のことにはお構いなくただひたすら喋り続けている。訪問者を待たせているとの気遣いもなければ、お茶が運ばれた記憶もない。お待たせして申し訳ありません、というひと言もなかった。

 退屈した私は、フロアの隅にラーメンらしき「どんぶり鉢」を見つけた。3枚か4枚のようだ。正確な数が判らないのは、見ている位置から15、6m離れていたことと、「どんぶり鉢」がきちんと重ねられてなかったからだろう。そのうえ、鉢と鉢の間から使用済みの箸がのぞいている。というより四方八方から突っ込まれていたというのが適切だろうか。

 真新しい建物に惹かれた私は、壁や天井、それに家具や照明器具などを眺めた。どれもが洗練されたデザインや色調であり、またソファやイス、それにテーブルなどもそれなりのグレードのものだった。
 気づいたとき「どんぶり鉢」のある場所へと近づいていた。そしてごく自然に「どんぶり鉢」の中に視線が行った……と思った瞬間、衝撃的なものが眼に入った。

 一番上の「どんぶり鉢」の中に、“10枚ほどの硬貨がそのまま”入っていたのだ。しかも、うっすらと油がにじんだスープの中に、半分浸ったように……。

 何とも言えない感情が込み上げてきた。憤りでも哀しみ、情けなさでも歯がゆさでもなかった。虚脱感に似た疲れが一瞬にして全身をめぐった。喋り続ける二人の受付嬢を視界の端にとらえながら、その場に居合わせた自分を半ば責めるかのように、一切の考えを停止しようとして戸外に出た。


ゴーストライター

2009年07月18日 17時07分04秒 | ■世事抄論
 

 今日、“ゴーストライター(ghost writer)”が盛んな時代といえそうだ。といっても、その名の通り表舞台には出てこない“幽霊(ghost)”としての「書き手」であり、その道では“覆面ライター”ともいう。
 
 芸能人やスポーツ選手の著作の99.99%は、ゴーストの手によると言われている。のみならず、企業経営者や文化人、さらには政治家の著作にしても、そのほとんどがゴーストによるといえそうだ。そういう「ゴースト本」を知人から貰ったことがある。著名な男性経営者のものを、三十歳台の彼女がゴーストしたものだった。

 どのような分野のものであれ、多くの『ゴースト本』の制作過程の基本はシンプルだ。まず本人に関するデータを集め、関係者へのヒヤリングや本人のインタヴューをフォノライトして元ネタとする。それに本人に関するエピソードやテレビ、雑誌での発言を入れて仕上げるものがもっともポピュラーだろう。「フォノライト」とは「テープ起こし」、即ちテープに録音された会話や講演内容を文字に書き直す仕事をいう。
 
 実は筆者自身、かつて“ゴースト”をしていた。不動産・住宅産業関係の月刊誌や週刊誌等への寄稿であり、不動産関連法規の改正ポイントや業界への影響について、その新聞社の論説委員の立場から書いていた。また取材のため毎月上京していたこともあり、中央での不動産業界の動向を地元業界誌の派遣記者の形で書くこともあった。

 当時、本業は不動産業者団体の事務局スタッフであり、その「機関紙」の取材・編集を一手に引き受けていた。「署名」はなくとも、その「機関紙」の記事や論説が筆者によるものであることは、周知の事実だった。のみならず、業者団体のスポークスマンとして、会長挨拶や役職者のコメントなども書いていた。
 
 ところが他誌での“ゴースト”は、まさしく「幽霊」であるため、誰が書いているのか判らない(知っているのは各誌の編集長のみ)。こちらは他人の目を気にすることなく、自由に書くことができた。そのため、不動産業者団体の「機関紙」に書いた自分の「論説」に、「他誌(紙)」の「ゴースト」として多少ケチを付けることもあった。

 「機関紙」ではホンネが書けなかった場合の捌け口であり、ゴーストとしての密かな愉しみでもあった。と同時に、“ゴースト”が“自分ではない”ことをさりげなくアピールするカモフラージュともなった。

 で、もしかしてこの原稿も“ゴースト”?