『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・母親の運転による2歳愛娘の死:下

2020年12月01日 14時56分27秒 | ■世事抄論

  前回(6月27日)の最後の部分において、筆者は以下のように述べていました。

 

    ★ ★ ★

 ――ところで、今回のような事故を未然に防ぐ〝手堅い方法〟として、おそらく多くの方は次のようにお考えになると思います。それは――、

  《子供にあれこれ言葉で注意を促すよりも、親(大人)が車を運転する前に子供を車に乗せ、きちんとシートベルトをかける。》

……と言えば、「そんなことは言うまでもないことだ。」とお叱りを受けるかもしれません。確かに〝ことさら目新しいこと〟を述べた訳ではありません。

 しかし、筆者が〝本当に言いたいことは、実はここから〟始まるのです。(続く)

                                       

   というところで終っていました。この先は、以下の「第1」及び「第2」の「点」となります。

  第1は、 

 《子供を乗せてシートベルトをかける前に、まず次の事をしっかり体験させてから肝心な話をする。》

 というもの。

 その体験とは、子供を「運転席」に座らせ、〝運転者の視点=視線〟を体験させることです。つまりは、「車」というものが、〝いかにその車内からの視界狭いものであるか〟を。

 すなわちいかに見えにくい、危険なものであるか〟を、「その子の目」を通して実際に体験させることです。

  「幼児の」場合は、親が「抱っこ」した状態で運転席に臨むことになると思いますが、その際、「その子の目線高さ」を〝運転する親の目線〟と同じ高さにすることが肝要です。    

    「子供」自身が、単独で「運転席」に座ることができる「小学生」以上であれば、座席に何枚かの座布団を敷けば充分かもしれません。ともあれ、〝子供を大人と同じ運転者の立場にすることが絶対条件となります。

 以上のように、〝運転者の目線〟を充分体験させた状況下で、「しかるべき説明」をするべきでしょう

 「三つ子の魂百までも」という「諺」の通り、できるだけ早い年齢より機会あるごとに、これでもかというくらいに繰り返し体験させることが重要です。「体験」開始年齢が早いほど、より教育効果も上がるというものです。

 

第2は、

 以上のような〝実際の体験〟を、決して「一家族レベル」では終わらせないということです。必ず「複数の家族間」において、〝子供たちの実体験を共有し合う〟ことが肝要です。

 つまりは、「さまざまな車」による「運転手の目線体験」を、一つでも多く体験させることです。それによって、いろいろな種類や大きさの異なった「それぞれの車」に潜む、危険な実態を子供に身体全身で感じさせ、身を持って覚え込ませる」ことです。

                  ★

  以上の「第1」及び「第2」のような〝実際の体験〟を通して、子供たちは〝自分の親の車という限定的な小さな危険〟から、〝車社会そのものが抱えている大きな危険〟を、否応なく思い知らされることでしょう。

 実は、こちらの〝大きな危険〟の再認識と確認こそが極めて実践的であり、またいっそう意義深いと言えるでしょう。

                   

 ともあれ、以上のような体験学習を一度や二度で終わることなく、機会があれば何度でも繰り返すことが肝要です。

 そのためにも、「ママ友」や「ご近所」をはじめ、「学校校区や「地域社会」といった、より広い単位で実施することをおすすめします。

 念のために申し上げますが、以上のことは「車の所有家族だけが対象」ではないと言うことです。もちろん、「総ての子供・総ての家族」が対象であることは、言うまでもありません。

                        

 

 これから年末の慌ただしさにかけて

 ことは人間――それも〝いたいけな子供の生命にかかわる〟ことであるため、関係各位がその重要性を、ここでしっかりと再認識していただきたいと強く願うものです。

 折しも、今日12月1日は「師走」に入ったわけですが、言うまでもなく〝慌ただしい年末へかけての危険な予兆〟が感じられる時節です。

 そのためにも、この記事をご覧の諸兄諸姉の中で、「身近に、小さなお子さんをお持ちのご家族」をご存じであれば、どうか以上について「ひと言」おっしゃっていただければと思います。

 筆者は、数日前より今日「師走」の到来が気になり、何となく落ち着かない日を重ねていました。

 そこで自分に強く言い聞かせて老躯に鞭打ち、何度かに分けて本稿を綴り終えた次第です。正直言って、少しホッとしております。 

 それにしても、前回の本記事「上」より、かなりの時間が経過しております。あらためて、大幅な遅筆遅稿をお赦しください。 陳謝また感謝

 花雅美 秀理 拝

 

 

 

 

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・母親の運転による2歳愛娘の死:上

2020年06月27日 21時04分27秒 | ■世事抄論

 

 今や全くテレビを観ない筆者にとって、「テレビ・ニュース」と言っても、それは必然ネット配信のものです。各種の情報は、もっぱらこの「ネットニュース」や新聞・雑誌各社からの「配信メール」(※注①)に頼っており、それらを適宜選択しながら観たり読んだりしています。

                        ★

  いたいけな女の子の……

 数日前、母親が運転する車に、2歳の愛娘が轢かれて死亡するというテレビニュースをネットで目にしました。病院の「駐車場」を出ようとした際の出来事のようですが、事件が起きたその市に、同じ年頃のお子さんを持つ知人がいただけに、他人事とは思えませんでした。

 画面で見る限りでは、「病院ビル」内のとてもよく整備された「駐車場」であり、街中と異なって、視界も申し分のない印象でした。

 そのためごく自然に、〝それなのに……なぜ?〟という素朴な疑問が湧き、事故当時の状況を少し調べてみようかと思ったほどです。

 しかし、その気持ちはすぐに消え、逆に〝報道された内容以上のことについて、触れることはできるだけ控えよう〟という気持ちに変っていました。

 2歳の〝いたいけな女の子〟に起きた、あまりにも〝いたましい出来事〟であり、それが〝女の子を産み育て、誰よりもその子を愛していた母親〟によってもたらされたからです。

 ご遺族にとっては、まさしく〝胸の張り裂ける〟ほどの〝痛恨の極み〟であり、形容のしようがないほどの悔恨、未だ……ということなのでしょう。

                        ★

 ……この数年来、老境における我が身の〝情感〟について、これまでとは異なった趣きを感じています。

 そのためでしょうか。最近、以上のようなニュースに接するとき、これまで素朴に感じて来た〝哀しみや口惜しさ〟よりも、〝虚しさや憤り〟をより強く感じる自分に、実は少々戸惑っています。

 といって、誤解を避けるために申し上げますが、〝憤り〟と言っても、それは当事者としての「母親」や「彼女を取り巻く人々」に対するものではありません。

 そうではなく、およそ人間なるものが、〝どれほど細心の注意を払っても〟、そしてまた〝常日頃より「愛するわが子」のためなら我が身を〟と、どれだけ崇高な情愛に徹してみても、それらを非情に奪い去る〝運命のいたづら〟とやらに対する〝憤り〟です。

 まさしく〝生死事大(しょうじじだい)〟として指し示される宿命であり、つまるところは、否応なく受け止めざるをえない〝無常迅速(むじょうじんそく)〟とやらの世界なのでしょうか。

 といって、今回のような出来事を〝過失〟や〝不可抗力〟、さらには〝不運〟という言葉によって片づけたくはありません。

 そのため筆者個人のせめてもの慰めは、《やりきれない》といった言葉だけは、どんなことがあっても使うまいと決意したことでしょうか。

                     ★  ★  ★

 

 ところで、今回のような事故を未然に防ぐ〝手堅い方法〟として、おそらく多くの方は次のようにお考えになると思います。それは――、

  子供にあれこれ言葉で注意を促すよりも、親(大人)が車を運転する前に子供を車に乗せ、きちんとシートベルトをかける。》

 

 ……と言えば、「そんなことは言うまでもないことだ。」とお叱りを受けるかもしれません。確かに〝ことさら目新しいこと〟を述べた訳ではありません。

 しかし、筆者が〝本当に言いたいことは、実はここから〟始まるのです。(続く)

                  


※注釈

※注① 「ニュース」だけでなく、ちょっとした「政治・経済、社会問題」関係の読み物もあり、内容として優れて実務的であり、かつ平易です。筆者はいくつかの無料のものを読者登録しています。


 

読者へ

次回は、

・反差別の系譜(1)/米国空軍士官学校長のSpeech(下)

です。

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・極上の “Less”

2011年05月10日 17時18分10秒 | ■世事抄論

 つい最近、行きつけの喫茶店で「料理人」という「M氏」と知り合いになった。数日後、筆者のブログに対して「メール」が来た。最初から遡って観ていただいたようだ(※抜粋。下線・強調は筆者)。
 

 『……"Less is more(少ないほど豊か)"(※註1)という話題がありましたね。私の修行中にもよく言われた言葉です。3年から5年の経験を積むと、料理人として必要な技術はほぼ習得します。そこでこの期間に勉強した知識から、やりたいことが山ほど出てきます。

 これくらいの経験の料理人に、たとえば「ホタテ」を使った一皿を作らせると渾身の逸品を作り上げます。「持てる技術」を総動員するのはいいとしても、たった「ひと皿」のために、10種類以上もの「食材」を使うようなものが出てきます。「主素材」が何であるのか判らないようなお皿です。このような例は、自分の「技術」に本当の自信が無いことの表れでしょう。

 経験値が上がってくると、「ひと皿」に“のる”素材の数は減り、よりシンプルに、しかし、食材同士の組合せは『絶にして妙』となり、素晴らしい「ひと皿」となります。

 私はフレンチの経験が長いのですが、「ひと皿」を構成する要素は、「主素材」、「付け合せ2品」、そして「ソースと言ったところでしょうか。「構成素材」が少ないとごまかしがききませんから、本当の意味での「技術」や「センス」の差が出ます。

 どの業界も"Less is more(少ないほど豊か)"が大切ですね。極上のLess”を得るためにも、「基本」が大切ということを改めて考えさせられるところです』

     ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 『極上のless』とは、何と洒落た表現だろうか。筆者はすっかり気に入り、さっそくこのコラムのタイトルに拝借した。
 それにしても、『“極上のLess”を得るためにも基本が大切』というのは、総ての分野に共通しているように思う。
 建築や料理にしても。またビジネスや芸術においても。つまりは文学や美術、そして音楽においても、どこかにそのエキスが潜んでいるような気がしてならない。

 高校生の頃、「エレキバンド」を組み、ドラムを担当していた。このとき「ドラム演奏」に関して言われていた言葉に『おかずが多い』というのがあった(今でも通用しているように思う)。どうやらこの言葉も、“極上のLess”に通じるものがあるようだ。

 「エレキバンド」において、ドラムは本来、「テンポ」と「リズム」の「指標」といえる。「リード」「サイド」「ベース」という「三つのギター」を導きながらも、目立ちすぎてはいけない。この“目立ちすぎる”ような「ドラミング」すなわちドラム演奏を『おかずが多い』と言う。「主素材」はあくまでも「ギター」ことに「リードギター」にあるからだ。

 「エレキギター」は、通常の「アコースティックギター」と異なり、かなりボリューム(音量)が出る。そのため、ドラムはそのボリュームに負けないよう、いきおい「ビート」を効かせることとなる。ただでさえ大きな音のドラムが、やたら本来のリズムを超えた「ドラミング」に走ってはうるさいばかりだ。

 しかし、アドリブが当たり前のジャズの場合、ドラムは一定のリズムをさりげなく刻みながらも巧みな「ドラミング」により、ピアノなどのメロディ楽器を引き立たせる。さらに楽器同士のいわば“緩衝帯”として、楽器相互の「強弱」のバランスを取り、またときには魅力的な「メロディの変調」を導いていく。「ディブ・ブルーベック・カルテット」の5/4拍子という『TAKE FIVE(テイクファイブ)』のドラミングは、その典型と言えるかもしれない。

 ともあれジャズの場合、「スネヤドラム」が「ホタテ」となり、「バスドラム」と「ハイハット(シンバル)」がその「付け合わせ」といえるのかもしれない。そして「トップシンバル」は、無論「ソース」ということになるのだろう。……そんなことを考えながら、久しぶりに聴いた『TAKE FIVE』のドラムソロに軽い興奮を覚えた。

 

     ★★★★★★★ 付け合わせ ★★★★★★★
 
 ――“極上のless”……味わい深い言葉だわ。“Less is more”って「少ないほど豊か」って意味でしょ? 何であれ、“種類” も “量” も控えるってことなのでしょうね。“かぎられたごく少量のもの” をじっくり味わうためにも、という意味が込められてて……まあ、何てステキ。

 ……え? それで今晩のメニュー、もう決めたとおっしゃるの? Less is more menu” ? 

 ……ええ。ええ。限りなくシンプルな「主素材」に、ぎりぎりまで抑えた「付け合わせ」……というわけ? なんだかよくわからないわ。……で、その「メニューの正体」は? 

 「豚キムチ」に「辛子めんたい」と「イカの塩辛」の「付け合わせ」

 ……Oh  my  god!



◆「Less is more」(2009.5.17) ※本ブログです。


 

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・“真夏の夜の茶番劇二席”

2010年09月01日 17時42分29秒 | ■世事抄論

 

  昨夜(8月31日)、若手ユニットの舞台「演劇」を観に行った。観客三十人程度の小さなものだったが、そのあまりの“拙劣さ”に衝撃を受け、帰宅後しばらく考え込んでしまった。 

   気を取り直してテレビをつけると、「民主党代表選」に関する報道の真っ最中。菅首相と小沢一郎氏の「話し合い」が物別れとなり、「挙党一致」態勢が崩れたとのこと。党分裂の危機を孕んだ一騎打ちとなったわけだが、国民としては黙って推移を見守らざるをえない。

  だが今回の「話し合い」のきっかけとなった「例の元首相」が、『自分は何だったの?』との「セリフ」を言ったとか言わなかったとか……。結果はどうなるにせよ、「伝書鳩」の『脚本』通りにいかなかったことだけは確か。

  もっとも、以前よりこの元首相の“言葉の軽さ”には定評があった。彼が菅首相と小沢氏の仲立ちをするのではと言われていても、正直言ってまともに期待するマスコミはなかった。
 思うに、せめて彼が「国民世論という森の中」から飛び立っていればまだしも救いはあったのかもしれない。だが悲しいかなこの「伝書鳩」は、ひとり自らの「軽井沢鳩舎」から飛び立ち、国民不在のもとでこっそり「小沢カラス」に対し、“合従連衡時の大義”とやらに殉じていたのだ。

  今回の「両者の対立」は、一年前の“政権交代”以前へと「タイムスリップ」させたことになるだろう。“一寸先は闇”の政治の常道からすれば、今回の「茶番」も“織り込み済み”と言えるのかもしれない。ただ厄介なことに、「伝書鳩」が不意に「蝙蝠(こうもり)」に変貌することがあるため、どちらの陣営からも“仲立ち”としての信頼がかぎりなくゼロに近いということだろうか。

      ☆   ☆   ☆

 
  ともあれ、“前者”の若手「演劇」は、はっきり言って「芝居」以前のもの。この「演劇」の存在を知ったのは、他の演劇公演時に配布された案内チラシだった。眼を通したそのとき『あれっ?』と想ったのは、チラシの中に、「原作者」や「脚本家」という重要スタッフの表記がまったくなかったからだ。

  そして昨夜、会場に入った途端嫌な予感がした。舞台美術(?)による「場」の「背景」が、“いかにも女の子っぽいと思わせる“賑やかな”ものだった。“これ見よがし”に安直な色柄の布地や飾り”で占められていた。「舞台背景」のまとまりに欠け、「劇」そのものの進行にもほとんど意味を持たず、自らを「stage direction」と称する担当者の自己満足にすぎなかった。とにかく“目ざわりな美術”であり、バックの音楽も“耳障りな音響”でしかなかった。

  それに加え、観客は女子高生をはじめとする若い女性が大半を占め、しかも「女子高文化祭」の“ノリ”が漂っていた。セリフや演技のあまりの“拙劣さ”に、途中で何人かの若い男性が席を立ったほど。どうやら大学生のようだった。今思えば、その勇気を讃えたい。


  こういう“途中退席”は、百数十本の舞台観劇体験の中でも初めてのものだった。実は筆者自身、演劇開始後数分で“途中退席”をしたかったのだが、ここは“大人”の責務として必死で我慢していた。それはただ一つ、最後の「アンケート」に以下のような感想を残したかったためだ。

  『演劇とは何か。脚本とは何か。演じるとは何か。人間とは、生きるとは何か……。演劇の基本を、ちゃんとしたテキストを使ってみんなで学んで欲しい。』

  ほんとはその後に、次の一文も付け加えたかった。

  『正直言って、当世流行りの薄っぺらな“一発ギャグ”や“瞬間芸”的な安易さの集積と言わざるをえない。どこか入口を間違えてしまったのでは?』……と。

  だがこの「一文」は控えた。

      ☆

  一方、“後者”は公共の電波を使った「政治的三文芝居」と言える。前者の「演劇」のように、今さら“驚きも躊躇い”もない。だが誰がどのような理由でどちらの陣営を応援するのかしないのか。ここはしっかりと見据える必要があるのかもしれない。もっとも、まともな『脚本』がない以上、せめて奇跡的な『アドリブ』に束の間の慰めを期待するとしようか。

  ともあれ、いずれにしても「茶番」二つの暑苦しい夜となった。

 

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・社員教育の果てに(下―5)《最終回》

2010年06月23日 20時16分21秒 | ■世事抄論

 ……私の意を解した彼女は、上司と相談してくると言って席を外しました。戻って来た時、ゼネラル・マネージャーと一緒でした。彼女から話を聞いた彼は、私と直接話がしたかったようです。彼は、サービス商品の開発から顧客開拓、それに人材育成や労務管理のすべてを任されているとのことでした。

 二人の協力を得ることになった私は、急いで「喫茶ルーム」へ戻ったわけですが、みなさんを待たせていたことなど少しも気になりませんでした。

 「宿泊部屋」に案内したみなさんの反応は、私の想像を超えていました。私はただ“あるがまま”を見ていただくという態度を貫いたつもりでした。そのため自分の感想や考えは一切控え、また『どんなことがあっても社員を責めない』と自分に誓いました。会長、社長、専務に対してもその気持ちは変わりませんでした。気がついたとき、私は若手女子が宿泊した部屋の「ゴミ」を、ビニール袋に移していたのです。なぜあのようなことができたのか……自分でもよくわかりません。

 しかし、私にとっての最大の難問は、研修以後のことでした。ことに“宿泊部屋の一件”をどういう形で社員に伝え、それをどのように活かしていくか……。ところがその答えは、「ルームメイクの女性」からのアドバイスによって、比較的簡単に見出すことができたのです。

 その結果、あの翌日に最古参の女子社員(総務)に一部始終を打ち明けることができました。彼女も私と同じように、地に足がつかない会社の雰囲気や社員の動きを感じていたようです。というより、社会や業界全体の動きが、尋常ではないと思っていたのでしょう。

 紆余曲折はありましたが、彼女の尽力によって「QC委員会」と「QCレター」が実現したことは大きな成果といえるでしょう。いずれも社員の自主運営によるものであり、メンバーの多くは若手の男女です。そして、その中心メンバーこそ、『あの若手女子諸君』でした……。

               ★ ★ ★ ★ ★

 あれから20年――。S常務を想い出すたびに、企業における問題提起とその対応について考えさせられる。何よりも、“人を動かす力”の偉大さと“人の縁”の不思議さを痛感するばかりだ。一人の人物が“きっかけ”となり、そこにいろいろな人が絡み合いながら、一つの試み、そして問題解決へと進んでいったのだろう。

 “ネクタイピン”から始まった“社員研修”。いや“役員研修”でもあったのかもしれない……。
 当時、世は地価や株価の上昇が連続し、その資産価値が実体経済から大きくかい離した、いわゆる“バブル”膨張の一途を辿っていた。“土地神話”の絶頂期であり、怪しげな「地上げ屋」が跋扈する一方、土地や中古の戸建・マンション等の「投機買い」が異常に進んでいた。不動産業者のもとには「一億総不動産屋」といわれるほど、浮利を貪る一般のサラリーマンや主婦までもが門前市をなしていたのだ。

 しかし、それからほぼ1年後(5月)。景気過熱によるインフレ抑制のため、数次にわたって公定歩合の引き下げが実施された。それに連動して土地関連融資の「総量規制」が始まり、やがて地価や株価の急落、すなわち“バブルの崩壊”が始まった。この崩壊は、企業倒産、中小金融機関の破綻、不良債権問題等を引き起こし、消費の低迷と失業者の増大を生み出しながら深刻な不況をもたらし始めた。そしてその影響は、S常務の会社にも深く静かに及び始めていたのだった。

 だがこの“バブルの崩壊”は、実はほんの“プロローグ”にすぎなかった。[了]

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・社員教育の果てに(下―4)

2010年06月18日 20時14分03秒 | ■世事抄論
 

 福岡に戻った翌日。兄弟三氏とS常務、それにM課長他数人の社員諸君に礼状を送った。
 数日後、三兄弟の連名による公式の礼状が届き、少し遅れてS常務のハガキが届いた。だが気になっていた“会社のその後”については“ひとこと”も触れられてはいなかった。

 それから約三か月後、ようやくS常務から長文の書簡を貰った。書簡は「前篇」と「後篇」に分かれ、まず『近況のご報告』と書かれた前篇に眼を通した――。

 ……研修後、あまりにも多くのことが目まぐるしく続き、書簡を送るタイミングを逸したようだ。「緊急役員会」(三兄弟とS常務)や「部課長会議」が何回も開かれ、そのたびに数多くの議題が俎上に上ったという。

 ことに経営方針の変更や物件の買取・販売をめぐっては、「銀行と会社の間」、「三兄弟の間」、さらには「社員同士の間」に“三つ巴”の≪α……、β……、θ……≫が生じ、微妙なバランスを保ちながらも複雑に絡み合って……と、表現が“ぼかして”あった。

 ≪αβθ≫に当てはまる一文は、おそらく≪駆け引き……、対立……、妥協……≫という趣旨のものが入るのだろう。「守秘義務」により詳細を明らかにできないという慎重な表現は、誰一人傷つけまいとする抑制の効いた文章だった。

 後編の『QCへ向けて』には、筆者が一番知りたかった“会社のその後”に関することが述べてあり、同封の「QCレター(社内報)」を先にご覧くださいとあった。

 「QC(=quality control)」とは、当時流行(はや)った「品質管理運動」であり、「社内報」はついひと月前に発行されたばかりだった。

 社内報は語る――。

 ……その1:社内外での服装・言葉づかい・運転マナー等の見直しと改善のためのチェック。 
 その2:社内外の「清掃整備」を徹底的に行うとの宣言とローテーションの確立。
 その3:社内での「喫煙時間帯」と「喫煙コーナー」の設置。 その4:会社車両内での「禁煙」の徹底。

 非喫煙者への配慮は、20年前の“当時として”は案外しっかりしたものであったようだ。
 『QC』のきっかけが、あの“寝泊部屋”の一件にあったことは言うまでもない。そして、それに関しては次のようなS常務の『ドラマチックな述懐』があった。

 ……“あの時”つまり「ルームメイクの女性」に『社員たちの寝泊まりした部屋』を見せてもらったことは、私にとって“ひどい衝撃”でした。部屋の様子に衝撃を受けたというだけではなく、私と一緒に部屋に入った彼女が、私以上に驚いた表情をしたからです。ことに「若手女子社員の部屋」を見た彼女の戸惑いは、明らかにホテルの従業員という立場を離れたものでした。私は思わず、『社員教育が行き届きませんで』と彼女に頭を下げていました。

 ところが彼女は、『とんでもありません』との言葉を返した後、いろいろなことを語ってくれました。
 彼女は、ホテルの近くに住んでいる主婦であり、数日前からパートで働きに出た方でした。同じような年頃の娘さんがいるとのことであり、それだけに母親として考えさせられるものがあったようです。

 ルームメイクの彼女からそのことを打ち明けられた瞬間、私は閃きました。眼の前の《部屋の状況》と《彼女との出会い》を“活かさなければならない”と……。
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・社員教育の果てに(下―3)

2010年06月11日 20時51分51秒 | ■世事抄論
 
 S常務は三氏に配慮しながら、“部屋を案内”するにいたった“いきさつ”を語った。
 それは、「喫茶ルーム」での支払いの際、「ネクタイピン」がないことに気付いたからという。やむなくフロントで鍵を借りて部屋に向かったところ、ルーム(ベッド)メイクの担当女性が部屋に入ろうとしていたようだ。そのときふと“社員が宿泊した部屋”が気になり、ひととおり見せてもらったとのことだった。

 S常務は二番目、三番目と部屋の案内を続けた。最初の部屋ほどではないにしても、乱雑な様子に変わりはなかった。四番目と五番目は、女子社員が使った部屋だった。

 ――本来、男子が入るべきではないのでしょうが……。
 そう言いながらもS常務は、淡々とした表情で部屋に入って行く。その動作はどことなく手慣れた感じを与えた。ホテルの関係者と言っても通用するほどだ。

 年配の女子社員が泊まった部屋は、跡片付けも掃除もある程度なされていた。だが若手主体の部屋には、その形跡はほとんどなかった。のみならず、化粧品の混じった複雑な匂いが漂っていた。

 S常務は、部屋の隅の「ゴミ入れ」まで進んだ。傍にいた筆者は、おのずとその中を覗き込む形となった。……いくつものサンプル化粧品の空き箱。日用雑貨品の案内チラシに割引券。スナック菓子の空の袋。そしてストッキングが入っていたと思える包装紙。それに加えて、“お化粧”の際に使ったとみられるコットンやティッシュの類(たぐい)……そのときの鮮やかな口紅の色が、今も筆者の脳裏から離れない……。

 S常務は黙々とそれらを拾い上げ、傍(かたわ)らのビニール袋に詰め始めた。三氏と筆者の四人は、常務の一挙手一投足をただ眺めているだけだった。といってそれは、“怠慢”を意味するものではなかった。儀式を司る“神職”のような常務の行為に、手伝うことはおろか、声をかけることすらできなかったのだ。それほど、常務の所作には近寄りがたい“風格”と“威厳”が備わっていた。

 ――ロビーに、“うちの社員”いてへんか? 
 社長と専務に向かって、ようやく会長が口を開いた。専務がうなずいて1階のホールに向かったものの、すぐに戻って来た。社員は一人も残ってはいなかった。

                ★  ★  ★

 ――誰か一人でも片付けよったら、あとに続いたはずやのに……。
 ロビーに戻った時、会長が呟いた。『誰か一人』という言葉に、口惜しさを滲んでいた。
 ひと呼吸おいた会長はしばらく俯いたまま、懸命に言葉を探しているように見えた。そして再び顔を上げたとき、神妙な面持ちで常務の方に向き直った。

 ――今度の研修は、わしら三人のためやったんやな……。
 思いもよらない言葉だった。だが社長と専務が、ほんの少しうなずいたような気がした。

 ――この何年か、ずっと何か足りんような気がしてな……。
 会長は小さく微笑み、S常務に視線を送りながらそう言った。その柔らかい表情には、常務に対する“ねぎらい”と“謝罪”の気持ちが含まれているように感じられた。

 しかし、常務は何事もなかったかのように淡々と耳を傾け、そして微笑むだけだった。
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・社員教育の果てに(下―2) 

2010年06月06日 17時46分20秒 | ■世事抄論
 
 ――ほな、ぼちぼち……。
 喫茶ルームに入って二十分ほど経過しただろうか。初めてまともに口を開いた会長が、S常務を促した。うなずいた常務は、背筋を真っ直ぐに伸ばした独特の姿勢で立ち上がり、レジでの会計をすませた。そして三兄弟の前に歩み寄り、『すぐに戻ってまいります』と言って席を外した。

 “すぐに”と言った割には、S常務の帰りは遅かった。言葉にこそ出さないものの、三兄弟の表情に多少苛立ちのようなものが感じられた。ことに何度も腕時計に目をやる専務は、講師(筆者)の手前、何とか気持を落ち着かせようとしているのがよく判った。

 やっとS常務が戻ってきた。遅れたことを筆者や三兄弟一人一人に詫びながらも、おもむろに言葉を続けた。

 ――お三方に見ていただきたいものがあります。先生もお付き合いください……。

 そう言って、常務は先導するような形で前を歩き始めた。事態がまだよく飲み込めていない三氏は、互いの顔を見合わせながらもとにかくソファから立ち上がった。

 S常務は、ある部屋の前で止まった。三氏を振り返り、その部屋が社員達の寝泊りしていた一室であることを告げた。ドアに向かって軽く一礼をした常務の手には、鍵が握られていた。その鍵を、大切な蔵の扉を開けるかのように差し込んだ。そして三氏と筆者の方に向き直り、『どうぞ』といって入室を促した。“何が始まるのだろうか”……その想いが頭をよぎった次の瞬間、異臭が少し鼻をついた。

 それは煙草やビール、それに酒のツマミなどが入り混じった臭いだった。八畳の二間続きの部屋は、窓が少し開けられていた。にもかかわらず、風がないために淀んだ室気が滞っていた。三兄弟の誰かが“ウーッ”という、呟きとも感嘆ともつかない声を発したのを今でも憶えている。

 S常務は窓に近づき、機敏な動作で素早く開け放った。布団は、一組を除いた五、六組がすべて敷かれたまま。その上に脱ぎ棄てられた浴衣やバスタオル、それに枕が散乱していた。二つに折られたままの座布団が、何組もそのままになっている。昨夜、他の部屋からの“ビジター(社員)”が、枕か肘かけ代わりに使ったのだろう。それに加え、煙草の吸殻で溢れた灰皿が、座卓の上と敷きっぱなしの布団の間に一つずつあった。しかも布団や畳のところどころに、こぼれた灰を無造作に拭い去った跡が見えた。

 いろいろなものが眼に飛び込んで来た。……赤鉛筆で印がつけられた競馬や競輪の新聞。男性向けのピンクスポット案内。何冊もの漫画雑誌や成人雑誌。不動産物件のチラシや情報紙等々。それらが乱雑に放置され、灰皿代わりのビールの空缶が、あちこちに置かれていた。異臭の元凶は、缶ビールの残りに浸った煙草だった。

 ――この部屋に、中堅・ベテラン諸君を中心に十数人が集まっていたようです。
 S常務の声が、三氏に聞こえていたどうか定かではない。三氏は、常務と筆者に聞こえないほどの声で何やら囁き合っていたようだ。その表情には困惑と失望が感じられ、自信に満ちた先ほどまでの表情は、微塵もなかった。
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・社員教育の果てに(下―1) 

2010年06月02日 20時53分44秒 | ■世事抄論
 
 その夜、研修会場のホテルに帰館するはずの社長は、他所(よそ)での「夕食会」の後、二次会、三次会と流れて行ったようだ。

 翌朝。筆者は、ようやく姿を見せた専務と会長をS常務から紹介された。長男の会長は多少温和しい印象を受けた。だが三男の専務は、一見して“やり手”という雰囲気があった。営業部門の最高責任者であり、なかなかの饒舌家だ。メインバンクから送り込まれた常務に対しては、どことなく冷ややかな態度だった。

 午後三時きっかり、すべての研修が終わった。社員たちは、それぞれの営業所に向けて帰り支度を始めた。これから「終業」時間まで、平常通りの業務をするという。専務は誇らしげにそう言いながら、次の煙草に火をつけた。それにしても、三兄弟ともかなりのヘビースモーカーだった。

 三兄弟にS常務、そして筆者の五人は、ホテルロビーの「喫茶ルーム」に入った。筆者に対するお礼と労いという意味のようだ。とはいえ専務は、多くの営業マンが、この時期の研修にあまりいい顔をしなかったのではと常務に語りかけた。無論、その言葉は、今回の研修を企画した常務に対する“ジャブ”を意味していた。

 専務の言葉に社長が続いた。筆者に顔を向けながら、
 ――せんせ(先生)。うちの営業連中は変わりもんで。自衛隊の幹部候補生からエリート商社マン、一流校の教師や弁護士レベルの男たち……。おもろいし、それなりに(数字は)あげよりますわ。何やらかすかようわからんゆうんが、ええんと違いますか。好きなようにしたらええ……それがうちの伝統ですわ……。

 正確な関西弁の再現はできないが、要するに中心となる営業マンは“型通りの教育”を凌駕したレベルにあると言いたかったのだろう。専務や社長の話しぶりから、三兄弟が昨日の研修の感想を“彼ら”から聞いていたのがよく判った。

 ――せやけど、常務の言う外部講師の教育も大事や思いますわ。身内だけではマンネリ化しますよって……。
 専務はそう言いながらも、S常務を本気で立てる気持などないように思われた。あくまでも講師(筆者)に対する社交辞令であり、講師要請の窓口となった常務に、多少は配慮しているというポーズをとったにすぎない。その証拠に、“社員研修”は、あくまでも“企業利益の健全な処分”の一つであると言ってのけた。

 筆者にとって、三兄弟の言動はどうでもよかった。厭味のジャブをとばされているS常務が気がかりだった。だが常務は顔色一つ変えることはなかった。淡々とした対処を見せ、ときには笑みを浮かべながらひたすら聞き役に徹している。“泰然自若”とはこのことを言うのだろうか。役者としての三兄弟、いや筆者を含めた四人との“格”の違いは、もはや疑いようもなかった。

 だが、その“格の違い”を真に悟るまでには、次の“一幕”を待たなければならなかった。
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・社員教育の果てに(中―2)

2010年05月29日 20時44分06秒 | ■世事抄論

 S常務は、言葉を丁寧に選びながら話を続けた。
 ――この会社に来て一週間ほど経った日、私は「営業会議」に参加しました。その後、数台の車に分乗して仲介物件を見に行きましたが、そのとき違和感を覚えたことがいくつかあります。

 第一に、何人もの営業担当者の言葉に、“過信”があるように思いました。今の時代、よほどの物件でないかぎり、右から左に売れていくようです。“努力して売る”という姿勢は必要なく、“勝手に売れていく”のでしょう。良し悪しはともかく、時代の流れがそうであることを謙虚に認め、売主・買主双方に対する感謝の気持ちをもっと持たなければいけません。“売ってやっている”など、とんでもないと思います。

 第二に、「物件」を評価する場合、言葉の選択に“配慮”が足りないと思いました。まるで「売れている物件」は「善」、そうでない物件は「悪」であるかのようなニュアンスでした。“ボロ物件”とか“どうしようもない物件”とか。絶対に慎まなければならないと思います。

 第三に、営業担当者の車があまりにも“煙草臭い”ことでした。個人所有の車はやむを得ないかもしれません。しかし、少なくとも「会社の車輛」はすべて禁煙とすべきです。「喫煙者」は、「非喫煙者」が、どれほど煙草によって健康を害され、また不快な思いをさせられているかを真摯に受け止めるべきです。

 以上の三点。もう気付いたはずです。今日、先生がおっしゃった「優しい上品な営業マン」の真逆のケースです。そして、ここではっきりと言いますが、ほとんどの営業担当諸君の実態ではないでしょうか。しかし、これは個々の営業マンの問題ではなく、会社全体として取り組まなければならないと思います。

 その意味において、今日の最後の先生の締めの言葉がとても印象的でした――。

 『“お客様第一主義”は、結局、“我が社ご都合主義”に堕ちていくしかありません。会社人間は誰しも、考えることは同じです。会社(我が社)が存続するために、何はともあれ“お客様”を大切にしなければ。そうでないと、振り向いてはもらえない。

 こう言う“欺瞞”が消えないかぎり、企業としての真の成長も繁栄もないでしょう。……社員にとっては、自社すなわち「我が社」はかけがえのない存在です。しかし、世間一般の人々にとって、「我が社」などどうでもいいのです。つまり、なくなったところで、誰も困らない”のです。……ここから出発しなければなりません』

 “我が社はなくとも誰も困らない”。何と言う衝撃的な言葉でしょうか。これはまさに、現在の“我が社”を象徴しているように思います。にもかかわらず、社員の多くは“我が社”を中心に、世間や物件が動いていると錯覚してはいないでしょうか。我が社”は、そして“わが社の人々”は、お客様に“振り向いてもらう以前”のレベルのような気がします。

 筆者は、自分がレクチャーした内容であることも忘れて、S常務の捉え方の深さに感動していた。社員たちも息をのむ感じでS常務の口元をひたすら見詰め、私が口を開く場面はほとんどなかった。

 いつの間にか日付が変わっていた。S常務の話が終ったとき、張り詰めていたものが少し緩んだように感じられた。だが他の部屋の談笑や歌声、それに酒盛りの様子は、いっときも鎮まることはなかった。
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・社員教育の果てに(中―1)

2010年05月20日 20時12分05秒 | ■世事抄論
 
 S常務はその場にいた七、八人に、穏やかな口調で語りかけた。
 『仕事に関する話は、部屋でゆっくりやりましょう。先生も話し足りないことがおありのようなので……。30分後に私の部屋でいかがでしょうか?』
 筆者に向けられた表情には笑みがあり、思わずうなずいていた。

 『いいですね。私も参加します』
 そう応えたのはM課長だった。何人かの若手の肩を軽く叩いている。M課長はS常務と一緒に筆者主催の大阪講演会に参加した一人だった。そして筆者を今回の講師として強く推してもいた。

 “一瞬にして”その場は収まり、社員達はそれぞれの席に戻って食事を続けた。

 今振りかえるとき、S常務の“咄嗟(とっさ)”の提案と、それをタイミングよく受け止めたM課長にあらためて感心した。それは常務の温厚な人柄によるものであり、その人柄に全幅の信頼をおく課長の機転だった。

 30分後――。S常務の部屋(本来、社長との相部屋だったようだ)には、懇親会(夕食会)のときとほぼ同じ人数が集まった。だがその半数は新たに加わったメンバーであり、一、二を除けば全員がその年の新卒採用か若手クラスだった。

 『やはり“彼ら”は来ませんでしたね』
 M課長の言葉に、S常務は納得したようにうなずいた。

 “彼ら”とは「中堅・ベテラン」の男子社員であり、筆者に「苦言を呈した社員」もその一人だった。“彼ら”は「売買仲介営業部隊」の中心メンバーであり、大半が“中途採用組”という。

 ……ほぼ十年間、司法試験をめざしていたという三十半ばの社員をはじめ、前職は有名私立中学の社会科教師という社員。そして自衛隊の元幹部候補生や海外勤務を経験した元総合商社マンもいるという。

 それは『バブルの時代』を象徴する不動産業界への“中途参入者”でもあった。“彼ら”は上昇一途の不動産価格同様、引き下がることを知らなかった。“行け行けどんどん”の「営業部隊」であり、関西独自の文化を背景とする“海千山千の兵(つわもの)”と言えた。だがそういう“彼ら”を一人で束ねるM課長の手腕に、S常務も筆者もあらためて感心した。

 S常務は筆者に対してこのたびの謝意とさきほどの社員の非礼を詫びた。そして集まった社員に向かって、次のように語り始めた。

 『銀行マンである私には、不動産仲介の営業活動がどうあるべきかなど、正直言ってわからない。それでも先生が指摘された「優しい上品な営業マン」とは、お客様の側に立つ一人としてよく理解できる。それは一言でいえば、自分に関わる全ての人に“人間そして常識人として、当たり前のことを当たり前に実践できる人”のことだと思う。しかし、このもっとも基本的なことが、残念ながら当社の営業マンことに中堅・ベテラン諸君に一番欠けているように思えてならない』

 次第に真剣さと熱を帯びていくS常務の言葉に、誰もが惹きつけられていった。
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・社員教育の果てに(上)

2010年04月28日 18時30分16秒 | ■世事抄論
 

 以下は、『ラーメンどんぶりとコイン』から半年ほど経過した頃の話。したがって、ほぼ20年前ということになる。関西のある不動産会社から研修講師の依頼を受けた。地元では名の通った会社であり、大阪エリアに3、4店舗を展開していた。典型的な同族経営の会社として、三人の兄弟が会長、社長、そして専務を占めていた。

 三兄弟のうち、取引先との折衝があるという会長と専務は翌日のみの参加となり、研修には社長だけが参加していた。だがその社長も、夕食時には他への会合参加のために退席してしまった。三兄弟は、いずれも50代半ばから60代半ばではなかったろうか。

 筆者を講師にと依頼したのは、常務のS氏であり、氏は銀行から“出向”の取締役だった。後に判ったことだが、メインバンクから“お目付け役”として送り込まれた方のようだ。S常務は筆者主催の講演会(大阪)に社員数人と参加された後、講師をお願いしたいとのお手紙をくださった。

 宿泊研修は朝10時から始まり、次の日の午後3時までとなっていた。研修の多くは会社の役員や幹部が講師を務め、ゲスト講師の筆者は、売買・賃貸の営業担当者(20数名。女性5,6人)に「不動産仲介のこころえ」を2時間ほど語った。翌日は朝9時から12時半まで「売買仲介の実務実践」を話すことになっていた。
 
 その日の夕食は、みんな結構アルコールが入ったようだ。翌日も研修があるため、控えるようにとの“お達し”はあったものの、社員はどこまで真剣に聞いていただろうか。そのため男子社員の舌は次第に滑らかになり、典型的な関西人の“ノリ(乗り)”による賑やかしい雰囲気に包まれていった。

 あちこちで今日の感想や日常業務に関する討論が活発に始まり、上司や先輩が部下や後輩を叱咤激励する場面も見られた。だが明らかに励ましの域を超えたものもあり、次第に声が大きくなって来たように感じられた。

 秘かに懸念していたことが現実となった。課長や係長クラスの二、三人が、「特定幹部」の批判を始めたのだ。複数社員の勢いは相剰的に増し、興味本位の社員がいつの間にか一人、二人と話の中に加わっていた。特定幹部の批判は、やがて役員三兄弟の緩やかな批判へと続き、さらに他業者や取引先その他へと際限もなく広がっていった。

 三兄弟がいない今、S常務が最高責任者であり、このままではまずいと思った常務と筆者は、彼等の中に割って入った。ところが、一人の社員が、私の研修内容に苦言を呈し始めた。彼の言い分とは……。

 ……“仲介のこころえ”の話はごく当たり前の内容であり、当社の社員であれば誰もがそのレベルに達していると思う。また先生の持論の「優しい上品な営業マン」では、とてもこの関西の激戦区を勝ち抜くことはできない。それに九州と関西とでは、市場規模も商慣習もかなり異なるため、営業マンの“こころえ”もそれなりに異ならざるをえないのでは……。

 『言ってくれるじゃないの……』。まだ青臭さが残っていた筆者は、そのとき正直言ってカチンと来た。こうまで言われたのは、後にも先にもこのときが初めてだった。だがこのときのS常務とM課長の対応は、“人間関係の処し方”として奥深いものがあった。
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続・新年会の教訓

2010年01月18日 06時35分16秒 | ■世事抄論

 

 第二部の「立食パーティ」が始まった。だが「都心のホテル」とは異なり、コンパニオンの姿などどこにも見当たらない。
 『それでは乾杯の音頭を……』と、司会者が“遅れて駆け付けた”(という)町長を促す。だが注がれたビールのグラスを持っているのは、町長と周辺の数人のみ。その他大勢の参加者は、どこかぎこちない様子で立っている。土地柄だろうか。明らかに個人商店の経営者とおぼしき人や、年配者の姿が目立った。

 各自が手酌と言うわけにもいかない……そう思った私は、やむなく両手にグラスを掴んで周りの数人に渡し、ホスト覚悟でビールを注ぎ始めた。そのとき、いつの間にか横に立っていた女性が私にグラスを勧め、さりげなく男性陣にビールを注ぎ始めた。

 注がれた年配の男性が彼女にビールを注ぎ返し、さっそく名刺を彼女に渡した。渡しながら、『何か看板の仕事があったら』と告げている。彼女はと思って見ていると、ややためらいがちにバッグから名刺を取り出し、『スナックをしております』と小声で彼に渡した。なるほど手慣れているはずだ。だがコンパニオンの代役ではなく、あくまでも商工会の会員という。私も彼女と名刺を交換した。
 
 この交換を機に、私のテーブルにいた六、七人の名刺交換が始まった。……理髪店、花屋、建物の清掃管理会社の幹部、造園業者、個人経営の広告代理店、何屋さんかよくわからないが、建具・家具関係者。広告編集関係の会社。いずれも個人商店感覚の会社であり、零細企業経営者の雰囲気があった。名刺を配る姿がたどたどしく、営業慣れしたところが少しもなかった。それだけに微笑ましく、また好感が持てた。

 そこへ、昨夏の総選挙で落選した元代議士の先生が割って入って来た。彼は何十枚もの名刺を、まるで「トランプ」を配るように手際よく渡していく。その際、周囲に聞こえるような元気な声で、『これからですよ』とメガネの奥に意味ありげな笑みを湛(たた)えている。“街頭では握手、パーティでは名刺”という議員活動の基本を意欲的に貫く姿は、さすがと言うほかはない。

 眼を転じると、ステージでは抽選が始まっていた。
 ようやくテーブルに眼を注いだ。おせち料理や刺身が目に付いたが、残りはわずかしかない。たっぷりあるのは、「そば」と「うどん」コーナーだけのようだ。だが先ほどの挨拶と来賓紹介でげんなりしていた我が胃袋は、五時を回ったくらいの時間帯を食事時とは感じない。それでも一杯のそばを口にし、煙草の煙から逃れるために会場をあとにしようとした。

 そのとき、『……81番……。81番……81番の方はいらっしゃいませんか?』と大きな声が繰り返されている。はて81番……。頭の片隅にあるような、ないような……と思い、入場の際に渡された『ご縁袋』(5円が入ったポチ袋)に何気なく眼をやった。「81番」が印字してあり、何等かは知らないが、とにかく何かが当たったのだ。このクジ運拙きアラカンに。

 景品はいかにも「何とか平野」の町にふさわしく、地元産の「お米」だった。だが、少し酔いを覚えた五体には、ずっしりと重かった。

        ★   ★   ★

 ――年の初めにお米が当たるなんて、縁起がいいわ。5キロってとこかしら、これ高いのよ。でもとっても美味しいの。地元のJAのものなのね。
 ……ところで、お帰りは? え? タクシーだったの? お米が重たかったから、バスは止めにしたっですって? 

 …………で、そのタクシー代とやらは、おいくらかしら? ……え! そんなに! まあ。それって、お米の2倍の料金のようだわ。……なんて惜しいことを! せっかくの“価値の創造”が“価値の相殺”……以下にになっちゃうなんて……。

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新年会の教訓

2010年01月12日 08時06分57秒 | ■世事抄論

 


 仕事の関係で、或る「町」の「商工会」主催の『新年の集い』に参加した。商工会の事業計画や活動の一端を知る機会になればとの気持ちだった。

 「町」とはいえ人口は5万人に近く、「市」への昇格は時間の問題のようだ。それにしても、開始が「午後3時」という中途半端な時間が気になった。会費制の「会場」が、町で一番大きな「いけす料理店」ということから、アルコールが出ることは確実だったからだ。

 ステージのある宴会場には、140~150人分の椅子が用意されていた。一列目の椅子の背中に、「来賓者」の名前が書かれた紙が貼ってあり、民主党の衆議院議員(欠席)や県議会議員、市議会議員、それに町長(欠席)、商工会会長、同副会長といったお歴々の席があった。ステージ脇には墨蹟鮮やかな達筆の「式次第」が掲示され、開会の辞、会長挨拶、来賓の挨拶、来賓の紹介、祝辞の披露、講演、閉会の辞……と「式次第」のお手本ともいえる文言が並んでいた。

 会は定刻を10分過ぎて始まった。商工会の青年部長が型通りの司会挨拶を行い、同会の副会長が開会の辞を述べた。
 来賓挨拶は地元選出の県議と市議。いずれも用意した挨拶文を読み上げながらのものだった。多少のアレンジがあったとすれば、腰までの高さしかない演壇のため、挨拶文が置けないことを半ば本気でこぼしたことだろうか。

 無論、内容はこれまた判で押したようなものであり、マスコミ等でさんざん聞かされた。「リーマンショック」「百年に一度の不況」「消費の低迷」「政権交代」などの用語を並べたものにすぎなかった。

 やっと来賓挨拶が終わったと思ったら、来賓者の紹介が始まった。欠席した民主党議員の秘書に始まり、先ほど来賓挨拶を行った県議や市議、それに昨夏の総選挙で落選した自民党議員、鮮やかな真紅のスーツで身を固めた恰幅のいい女性市議、町役場の商工部長や教育委員会の委員長、関係外郭団体のトップ、さらには、なぜか自衛隊駐屯基地の幹部と、実に多彩な顔ぶれ。
 名前が呼びあげられるたびに、参加者は会場内に点在する来賓者の声の方向に顔を向けなければならなかった。その数、十五六人ほどだろうか。

 紹介が終わって、やっと商工会の会長挨拶が始まった。この日、五人目の“明けましておめでとうございます”の言葉を聞く。挨拶終了後、司会者より先ほどの紹介の際に漏れていた来賓の追加紹介が行われる。その後、やっと「閉会の辞」となり、いよいよ「講演」と思いきや、再び紹介漏れの来賓者の紹介があり、司会者が恭しく非礼を詫びた。そして、「講演」が始まった頃には、誰もがぐったりしたように見えた。

 1時間ほどの「講演」は、右脳左脳に関係する話だった。『新しい発想を生み出すためには、従来の習慣から脱しなければならない』ということを、参加者に掌を動かさせて進めた。参加者が唯一ほぐれた表情を見せ、また笑みが零れた。みんなが救われたような顔を見せたため、私はなぜか主催者の気持ちになってほっとした。

 この日、2時間の忍耐の中で学んだことがあった。

 それは商工会会長挨拶の『商工会の運営資金は、国と県からの補助金が6割、会員からの会費が4割』という一言だった。ついでにもう一つ付け加えるなら、これらの商工会活動が、確実に何処かの誰かの“地盤、看板、鞄”の後押しをしているということだ。 (続く)

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・ラーメンどんぶりとコイン

2009年08月12日 18時30分51秒 | ■世事抄論
 

 20数年前になるだろうか。不動産流通関係の経営コンサルタントになって間もない頃、関西のある新興不動産会社を訪問したときの話だ。ときまさにバブルの絶頂期。経営指導と社員教育を依頼したいとのことであり、訪問はその打合せと社長にお会いするのが目的だった。30半ばの社長はたった一人の創業から、わずか5年で30名近い社員を抱えるまでになっていた。

 著名な建築家の設計による完成直後の社屋は、ちょっと派手な感じがしたものの斬新さが際立っていた。4階建ての「打ち放しコンクリート」であり、非コンクリート部分のドアや窓は、ブラウン系統のパステルカラーでまとめられていた。

 敷地の門を入った。ほぼ全面ガラス張りの建物内が素通しに見え、受付に制服姿の二人の女性の姿があった。ガラスの自動ドアが心地よく開き、すっと中に導かれた。受付嬢の制服はなかなかのデザインだった。後で知ったが著名な女性デザイナーのオリジナルという。それなりの女性が着れば、きっと素晴らしく映えたに違いない……と、ちょっと意地悪な想像をしながら、受付嬢に名刺を渡した。

 受付嬢が総務部長を内線で呼んだ。部長は1分近く経ってやっと受話器に出たものの、それから10分以上経過しても現れなかった。30秒もあれば、彼の「デスク」から「受付」まで来ることができたはずと思えたのだが……。

 二人の受付嬢は、筆者のことにはお構いなくただひたすら喋り続けている。訪問者を待たせているとの気遣いもなければ、お茶が運ばれた記憶もない。お待たせして申し訳ありません、というひと言もなかった。

 退屈した私は、フロアの隅にラーメンらしき「どんぶり鉢」を見つけた。3枚か4枚のようだ。正確な数が判らないのは、見ている位置から15、6m離れていたことと、「どんぶり鉢」がきちんと重ねられてなかったからだろう。そのうえ、鉢と鉢の間から使用済みの箸がのぞいている。というより四方八方から突っ込まれていたというのが適切だろうか。

 真新しい建物に惹かれた私は、壁や天井、それに家具や照明器具などを眺めた。どれもが洗練されたデザインや色調であり、またソファやイス、それにテーブルなどもそれなりのグレードのものだった。
 気づいたとき「どんぶり鉢」のある場所へと近づいていた。そしてごく自然に「どんぶり鉢」の中に視線が行った……と思った瞬間、衝撃的なものが眼に入った。

 一番上の「どんぶり鉢」の中に、“10枚ほどの硬貨がそのまま”入っていたのだ。しかも、うっすらと油がにじんだスープの中に、半分浸ったように……。

 何とも言えない感情が込み上げてきた。憤りでも哀しみ、情けなさでも歯がゆさでもなかった。虚脱感に似た疲れが一瞬にして全身をめぐった。喋り続ける二人の受付嬢を視界の端にとらえながら、その場に居合わせた自分を半ば責めるかのように、一切の考えを停止しようとして戸外に出た。

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