『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

○演劇案内:『狂人なおもて往生をとぐ』(陰湿集団)

2016年02月06日 00時04分03秒 | ○福岡の演劇案内

  The Tempest 劇評を終えてひといき

 昨日、ようやく待望の『The Tempest』の「演劇評」【上・中・下】を終えました。当初は、1回で軽く流す感じで書き始めたところ、次々に感動シーンや、気になっていたことが頭の中を巡り始め、何と5日間3回も綴る結果となりました。

 しかも、「上」と「中」は、2月1日と2日の連続です。昨年の大晦日と翌日元日という、2年にまたがった「2日連続」はありましたが、同じ年、それも同月内での2日連続は初めてです。

 それだけ、『The Tempest』が、筆者の“書く意欲を刺激した”ということです。しかも、7か月前もの「舞台」でした。優れた舞台がいかに、余韻を残してくれるかということでしょう。それにしても、もう一回は観たい……。いや、みなさんに観せてあげたい……と。

      ★

 さて、今回の案内舞台は、清水邦夫脚本作品を、山本貴久君が演出するようです。『狂人なおもて往生をとぐ』とは、一般的には「親鸞聖人」の言葉と言われる《善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや》から来ているようです(※註1)。

 なかなか含蓄のある言葉です。ネタばれとなってはいけないので、これから先は、Silence……。大学受験生の頃、本来の勉強はあまりしないで、こういうものや倉田百三の『愛と認識との出発』、そして『出家とその弟子』(※註2)などを読んでいました。

 特に『出家とその弟子』は「歎異抄」(※註3)とともに、仏教系の大学に入った上の妹と、何回が議論したことがあります。この時代、本当に多くの学生が読んでいたように思います。

 インターネットもメールも、もちろん携帯電話もスマホも、そしてtwitterもlineもない時代でした。筆者は東京での学生生活において、テレビもラジオもオーディもない中、ひたすら安く手に入る「文庫本」や「新書本」に明け暮れていました。あとは囲碁でした。

 「読書」は、若いうちにある程度その習慣を身につけなければ、年を取ってからでは無理と言われています。本当にそう思います。特に「演劇」をするような若いみなさんは、世界的に「名作」といわれる「文学作品」をできるだけ多く読んでください。

 一日に何回もtwitterやLimeをする時間があれば……。高い志を持った感性豊かな人は、そういう作品を読みたくてうずうずしているのではないでしょうか。

 筆者は、昨年の12月17日より、とうとう「テレビ」そのものを見なくなりました。コードを抜いて、床においてあります。DVDを観るときだけにしています。もう10年以上、民放の「テレビドラマ」は見ていません(友人や知人宅で一緒に見ることはありますが)。

 わずかにNHKの一部の「ドラマ(大河ドラマももう12年見ていません)や「Eテレ」だけは見ていたのですが、それも当分は見ないことにしました。ベッキ―ちゃんの件も、smapの件もネットニュースで充分でした。それにしても『ゲスの極み』が「バンド」名だったとは……。今回、初めて知りました。

  後悔のないよう、本当に読みたい本だけを、残りの人生の中で再確認のために読んでみたいと思っています。それに、もちろん「優れた舞台」です。ことに“高い精神性”の「小劇場」の舞台です。

 え? もう“高い精神性”は飽きた? 実は、筆者もそうなんです。それで今回は特に、“高邁な精神” や “高雅な精神世界” ということに。

 

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       陰湿集団  第4回本公演   

 『狂人なおもて往生をとぐ

   ●脚本/清水邦夫

  ●演出/山本貴久

  トルコ風呂で始まる “家族ゲーム“。そこにいた5人が家族を演じる。ゲームにはルールが必要だ。次第に何かがずれだして、彼らの過去があらわになっていく。

  僕が長男だ。

 私が長女ね。

 一家心中でござい。

 次は誰がパパをやる?

 狂人なおもて往生をとぐ

 -昔、僕達は愛した。

 

 [キャスト]

 白居真知、長野真結、丸尾行雅(以上、「陰湿集団」)

 竹ノ内晴奈、成清花菜、馬場修平

 [黒衣]

 山本貴久、谷口陽菜実

日時/2016年227日()、28日(

     共に12時、17時開演

会場リノベーションミュージアム冷泉荘 B棟1階

    ☝クリック!   (福岡市博多区上川端町9-35)

【アクセス】

福岡市営地下鉄中洲川端駅5番出口より徒歩5分

西鉄バス川端町博多座前徒歩5分

冷泉公園と川端商店街の間の細い路地に入る

※駐車場はありません。

http://www.reizensou.com/access/

料金:前売1,000円、当日1,200

■詳細:http://insitusyudan.blog.fc2.com/blog-entry-273.html?sp

  [ご予約・お問い合わせ]

  insitusyudan@gmail.com

  090-4482-6976(谷口)

 ※ご予約の際は「お名前、ご来場日・時間、枚数」をお送りください。

  みなさまのご来場、お待ちしております!

  ◆「陰湿集団」Twitter

  ◆「陰湿集団」公式ホームページ

 

     お 詫 び と 訂 正   

   1月26日のピーターパン・シンドローム』の演劇評の中で、「陰湿集団」の主宰を「山本貴久」君としていましたが、正しくは「白居真知」君でした。

 今回、筆者も同劇団が今月1日よりスタートした「公式ホームページ」で知りました。訂正かたがた、関係各位に対し心よりお詫びを申しあげます。

 こういうきちんとした「ホームページ」で、いつでも必要な情報が入手できるというのは、とてもよいことであり、必要不可欠なものと思います。

 このホームページには、「劇団員」の紹介がきちんとしてあります。ご覧ください。

  花雅美 秀理

 

 ※註1  法然」の言葉とする説もあります。

 ※註2  倉田百三の戯曲。「親鸞」と息子の「善鸞」それに唯円」等が出てきます。

 ※註3 親鸞の弟子の「唯円」の作と言われています。

 


●演劇鑑賞:『The Tempest』(福岡女学院大学・岩井ゼミ):下

2016年02月05日 00時40分53秒 | ●演劇鑑賞

 

 若い女優だけの難しさと課題

  最後に今後の課題として、次の点が残ったと言えるでしょう。

  それは「一人二役」の俳優が四人いたことについて――。

 四人各自の「」または「」役の区別が、演劇に不慣れな一般の人々には判りにくかったかも知れません。なにしろ俳優」すべてが、「同世代の若き女子大生のみということですから。

  つまりは、「」と「世代」と「身分・地位」の違いを、どうやって観客に判って貰うかという問題です。「衣装」を変えたり、「立位置」を工夫したり、さらには「立ち居振る舞い」の違いを際立たせる演出といっても限界があるでしょう。

 無論、「舞台背景」や「小道具、それに、お得意の「照明」や「音響」の繊細なプランや操作といっても、やはりそれだけでは容易に解決できない問題です。

 もちろん、「岩井ゼミ」を中心とするこの舞台の「キャスト&スタッフ」は、「芸術学部演劇科」ではなく、あくまでも「人文学部表現学科」の学生ですから、いろいろな意味においも、どこかで“一線を画す”必要があると思います。

 つまりは、「演劇舞台」の表現を唯一最大の専門にしている訳ではないということです。そう考えると、以上のハンデを百も承知の上で挑戦をしていることになり、それだけですでに凄いことをやっていると筆者は思いjます。

 それだからこそ「欲が深い筆者」は、それをあえて承知の上で、この「ゼミ」そして「学校」に、秘かに期待するものがあるのかもしれません。

       ☆

  「シェークスピア」の戯曲は、どれもかなりの数の「人物」が登場します。しかも、身分や地位や職業の違いは実にさまざまであり、王様も王女様も、聖職者も殺人者も。老いも若きも、子供も若い娘も、女も男も。善人も悪党も。非情な人間も慈悲深い人間も。富んだ人も貧しい人も。と、どのキャラクターも個性に富み、存在感を持った人物として描かれています。

 これこそが「シェークスピア演劇」の特徴であり、魅力でもあるわけです。しかもそれらの「登場人物」は、この現代世界において、さまざまな形を変えて営々と生き続けています。だからこそ少しも古びることなく、その時代、その民族の共通認識として、共感を呼び、感動をもたらすことになるのでしょう。

  この舞台を観た直後、筆者は新潮文庫により『あらしThe Tempest)』(訳:福田恒存)を読んだわけですが(※おそらく、20数年ぶりでしょう)、今回、独自に「台詞」や「舞台進行」をアレンジしたことは賢明な選択でした。

  誰の翻訳を元にしたのかは解かりませんが、とても “聞きやすい言い回し”に直し、また、ある程度シーンを “カット” したことがよかったと思います。

 

   演出家の言葉

  当日プログラムの演出の言葉に、共感しました。

 人は、誰しも何らかのしがらみの中で生きているのではないでしょうか。大学生である私たちもそれぞれに悩みやストレスを抱え日々過ごしています。そこから救われる方法は人によって異なりますが、『こんな世の中でも、素晴らしいことはたくさんある。人間は、愛は、やはり美しい』と思える瞬間が一度は訪れるはずだと私は信じています。その瞬間を、少しでも表現できれば嬉しい限りです。

  読者の多くが、筆者と同じように“共感”することでしょう。ここに、あの突出した演技や歌やダンス、そして優れた感性とイマジネーションとクリエイティビティを遺憾なく発揮した岡崎嬢の、もう一つの顔があるようです。等身大の、何処にでもいる「一人の女子大生」であり、「一人の若い女性」です。

 人は誰しも日々の迷いや苦悩の中で、精いっぱい生きて行くことを宿命づけられているのでしょう。それこそが“人間であるとして”。

  思うに、晴らしいことは、きっと一度のみならず二度、三度、そして四度五度、いえそれ以上、何度でも訪れるのかもしれません。そして、その瞬間、瞬間において、人との出会いという素晴らしいときが、そして、それに伴う愛というものがあるのでしょう。要は、訪れたその何でもない瞬間を、自分がどのように受取るかにかかっていると思います。

  筆者なりに、今回の舞台に込められたものを理解するとき、それは「演出家」のいう “人間は、愛は、やはり美しいと思える瞬間” であり、その瞬間を、真に愛ある、そして美しいと思える人間の心というものかもしれません。そのきわめて人間的な表現として、この舞台においては、“赦し” があり、“祈り” があると思うのですが。もちろん、それを導き出しのは、シェークスピアの中に流れる Christianiy というものでしょう

 福岡女学院というmission school なればこその、 spiritual need のなせる業……筆者はそう受け止めています。

 以上に関連して、実はこの舞台の「案内チラシ」が素晴らしセンスとメッセージでした。ある会場で貰った中に、A4判の表面に、縦二行の文字が筆者の目に飛び込んだ来たのです。

  《我々人間は夢と同じもので織り成されている。

   はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ。》

 もうこれだけで、即、観に行こうと決めました。筆者の乏しい知識でも、何となくシェークスピアっぽいかなと思いつつ、チラシ下の横書き文字が「福岡女学院大学12期岩井ゼミ卒業公演」となっていたため、やっぱりと思いました。そして裏面を見ると、『The Tempest』、原作:William Shakespeare ……。

 「シェークスピア」だったと、ほっとしつつも、哀しいかな Tempest? ……今度は英単語健忘症に悩まされ、何とも出てこない……。こんなのあったのかよ……。しかし、かすかな記憶の底に、「temp.」=「気温(温度)」との認識あり。それでもう一度「表面」に戻ってよく見ると、何やら「星座表」らしきものと、「天体図」が見えるではないか! よっしゃあ! それで筆者の脳は、Tempest を「嵐」と読み取ったのです。やったぜ! 

 

  演劇の素晴らしさを堪能  

 今回の舞台は、観劇から7月近くも経過しているにも関わらず、“これはといういくつもの場面” が鮮やかに甦って来ます。そして、そうした、いくつもの “鮮やかな瞬間の記憶” があったからこそ、何としてもこの感動を留めたいと “想い続けることができた” と思います。

 これからも、この「舞台」については、機会あるごとに “想い続ける” でしょう。この原稿を綴っているこの瞬間においても同じ気持ちです。

 筆者の正味14年の学生演劇公演歴において、この『The Tempest』は、「学生演劇」のさらなる可能性と高い精神性を、さらに強く印象付けてくれた作品です。 (了)

 

        ★   ★   ★

 『The Tempest』 

 ■原作/William Shakespeare

 ■作/岩井ゼミ

 ■演出/岡崎沙良

 

  キャストスタッフ】  

 大塚愛理ミランダセバスチャン):宣伝美術

 岡崎沙良エアリエル

 藏園千佳アントーニオ):小道具

 橋本美咲アロンゾー&トリンキュロー):宣伝美術・メイク・衣装

 畑島香里ゴンザーロー):制作

 濱畑里歩ファーディナンドステファノー):衣装

 本山真帆ブロスベローキャリバン):舞台監督

 【スタッフ】  

 ■照明鮫島強志高尾美悠藤木沙織早良夢華

      只松未友希、佐々木春乃当間琴子 

 ■音響黒木真里奈末永名安莉太田千智 

 ■全体補佐柳川千尋  ■会計福川由理

       ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

 

 最後に、「岩井ゼミ」の岩井眞實教授をはじめこの舞台公演に携わったすべての「キャスト」及び「スタッフ」各位に対し、感動的な舞台を創造されたことに感謝と敬意を表します。

 あわせて、この舞台が持つ高い芸術性と、各位の真摯な研究や学習が、いっそう地域社会の人々に伝えられて行くことを心から願うものです。

 花雅美 秀理

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●演劇鑑賞:『The Tempest』(福岡女学院大学・岩井ゼミ):中

2016年02月02日 19時55分40秒 | ●演劇鑑賞

 

 繊細な感性による音のグラデーション

 もう少し「照明」と「音響」に触れてみましょう。筆者がこの両者を“プロ的”すなわち通常の「大学演劇部」等※註1)との感性及び技術上の“”と感じるのは、次のような「シーン」です。

 この舞台では、〈エアリエル〉という妖精がたびたび出て来ます。この妖精は、みんなには見えない形で登場するわけですが※註2)、その際の「照明」の“処理”をはじめ、「音楽(BGM)」の「選曲」に「音量」の“絞り込み”、“イン・アウト(音の出し・入れ)”、“強弱”のタイミングが素晴らしいのです。

 その中を巧みな演技の役者が、素晴らしい声と歌と踊りで華麗に、そしてリズミカルに登場したり、退場したり、また飛んだり跳ねたり、舞ったりいているわけです。

 もう一つの例として、役者が台詞を喋っているさなか、低い声の役者が、しみじみと語っているとき、そのバックに高音の音楽(メロディ)を、非常に絞った音量によって “かすかにかぶせて” いるのです。もちろん、ほかのときとは明らかに違う、繊細な感じの音量の絞り込みです。無論、どのような曲のどの部分のメロディを流すかも重要です。

 後述するミラノ公〈ブロスベロー〉役の本山真帆嬢の声でした。無論、他の劇団や演劇部でもやっているでしょう。しかし、こういう繊細さは、記憶にありません。このようなシーンが効果を持つのは、何度も言うように、開演前のBGMを極力抑えることや、劇中音楽の選曲や音量が巧みにコントロールされているからです。

 その上で、大きいから小さいまでの音のグラデーションを、一瞬一瞬のシーン(情景)や役者(その置かれた立場や心理、意識)、そして台詞に併せてオペレーションしているからでしょう。 

 つまりは、ぎりぎりまで“余計な音楽や音量やイン”を抑えながら、“最高の音楽である役者の声” をいかに魅力あるものとするかでしょう。

 そのためにも、音楽のメロディを、抜群のタイミングで “出し入れ” しながら微妙な “強弱” を調整し、それと同時に「照明」とコラボしていく……。

 前回述べた「開演前の落ち付いた静かな音量の音楽(BGM)」に、今述べた劇中における素晴らしい「照明」と「音響」と優美で繊細な「アイディア(プランニング)」と「オペレーション(操作)」のコラボレーションということです。

 筆者は、この「舞台」によって、「観客」にとっても、どのような心づもりで「音楽」や「効果音」を聴き、かつそこからどのように自分のイメージに “繋げていく” のか、あるいは “膨らませていく” のかということの本質を学び取ったような気がしました。

       ☆

 その他では、余計なものが一切ない、シンプルな舞台美術(背景)も素敵でした。シンプルであるからこそ、観客それぞれのイマジネーションを心地よく刺激し、またそのクリエイティビティを広げて行くのです。

  それに加えて、余計なデザインや色調を排除した白っぽい衣装の一体感も、『あゆみ』のときと同じように、イマジネーションを膨らませるものでした。とはいえ、キャラクターがそれぞれかなり異なるため、「舞台」に不慣れな人々には解かりにくかったかもしれません。この件は、次回触れたいと思います。

 

 岡崎、本山両嬢の存在感  

 では、「役者陣」(女優陣)をみて行きましょう。

  何と言ってもミュージカル・スター並みの熱演をした岡崎沙良嬢を挙げなければなりません。彼女は、筆者の正味14年に及ぶ「学生演劇歴」の中でも、ひときわ輝く役者の一人であり、女優です。先ほど述べたように、演技、台詞回し、歌、ダンスといったすべての面で、とても一介の「女子大生」とは思えない役者ぶりであり、ミュージカル女優でした。

 その存在感は半端ではありません。筆者のような、ミュージカルやダンス等に疎い者でも、彼女の抜きん出た役者そしてミュージカル女優としてのセンスは、凄いものがあると直感しました。そういう持って生まれた才能を感じさせるとともに、歌やダンスについて、専門的なトレーニングを積み重ねているような印象を受けました。

  彼女が演出した『あゆみ』も、今回、演出・出演の『The Tempest』も、いずれもミュージカル仕立てのものであり、彼女の魅力を遺憾なく発揮したと言えるでしょう。

 ところで、まもなく開演の『NINE』は、ミュージカルですね。この際、筆者も「ミュージカル」の勉強を「生の舞台」を通してして学んでみたいと思います。まだ「チェット」もあるかもしれません。興味がある方はどうぞ(巻末)(※註3)。

       ☆

 次は、ミラノ公〈ブロスベロー〉と〈キャリバン〉(※註4)の「二役」を演じた本山真帆嬢――。この「二役」を演じ分けた力量は見事です。この舞台の「二役」は、何度も同じ場にいるとの設定のため、必然、連続して登場したり、その場で “早変わり的に二役” を演じるというものでした。その “掛け合い” は大変難しいものでしたが、それをうまくやり通したと思います。

 ことに声の使い分けがうまいため、最初は「別の役者」と思ったくらいです。それほど、巧みに演じ分けたということです。ことに〈ブロスベロー〉としての彼女の声は秀逸でした。

 この役の声を、目を瞑って聴けば、誰もが「中年の男性役者」と思うでしょう。それくらい、巧みな発声でした。しかも、それが無理した「作り声」ではなく、自然に出していた……いえ、出ていただけに、観客はすんなりとその役を受け止めることができたと思います。

 筆者は、後日、実際に彼女に会ってその「肉声」を聴いただけに、役者としての発声の見事さに、あらためてびっくりしました。ごく普通の、ちょっとナイーブな感じの、うら若き女子大生の声だったからです。 

 この本山嬢の声は、しっかり、しかしソフトにお腹の底から響き渡る声であり、この役の特徴を声だけでもよく表現していたと思います。そしてこの声の魅力は、空気の妖精〈エアリエル〉の岡崎嬢との絡みにおいて、その本領を遺憾なく発揮したのです。

 器楽に例えれば、「クラシックベース」のような彼女のミラノ公〈ブロスベロー〉の声が、岡崎嬢の「ピアノ」の高音部のように弾む妖精〈エアリエル〉の声と相まって、独自のハーモニーを創り出していたようです。つまりは、それだけマッチしていたということでしょう。

 また両者ともに声質がクリアで通りが良いと言うことも、魅力の一つでした。この二人の声の“かけあい”は、ジャズの「インプロヴィゼーション(即興演奏)」を彷彿とさせるものであり、大変リズミカルで印象深いものでした。

  二人の声のハーモニーが、台詞の流れという一曲の “主調” となって、他の役者たちの台詞にメリハリを付けたともいえるのです

 それが結果として、他の5人を巧みに活かしながら、それらのキャストの魅力をいっそう引き出していたと言えるでしょう。

  〈ブロスベロー〉の娘の〈ミランダ〉の大塚愛理嬢が、まずそうだったでしょう。ミラノ公の娘に相応しく、なかなかチャーミングな役回りを的確にこなし、また声もしっかりしていました。最初の段階での大塚嬢と本山嬢の声のハーモニーも魅力の一つでした。

 この王女に対する〈ファーディナンド〉の濱畑里歩嬢も、しっかりした声でした。宝塚的にならず、見ていて自然でよかったと思います。

  〈アントーニオ〉の藏園千佳嬢、〈アロンゾー〉と〈トリンキュロー〉の橋本美咲嬢、それにゴンザーロー〉の畑島香里嬢もなかなかの熱演でした。どの役者も、役作りに相当苦労したと思われます。

 なにしろ、「癖のある男」を演じるのですから。それも「シェークスピア劇」という、いずれも際立った個性の人物です。それを “うら若き女子大生” が演じるのですから……。生半可な努力や考えでは務まらないというわけです。この件も次回にあらためて論じたいと思います。

 

 女子大生らしい一面に共感

 また、今回だけでなく、『あゆみ』のときも感じたのは、「演出家」も「キャスト」も、そして「スタッフ」も、単に若い演劇好きの「女子大生」という枠を越えたところにいるような気がします。つまりは、それだけ高い次元の「演技」や「台詞回し」であり、「音響」や「照明」、さらには「舞台美術」に「衣装」、「小道具」ということでしょう。

 日頃からアイディアやオペレーションに対するクリエイティブな姿勢を保ち続けているという印象でした。要するに浮ついた気持で演劇をしているのではない”という明確な意思表示であり、覚悟を感じました。それが爽やかな印象を強めたような気がします。

 それはやはり、「学問研究」として学んでいるという真摯な姿勢であり、その「成果」を地域社会に還元しながら、学習の進捗と各自の人間性の成長に活かして行こうとする明確な目標があるからでしょう。

 それに何よりも、誠実さや清楚感であったと思います。何と言っても、「学生」であり、「若い女性」であるわけですから。

 

 ※註1 もちろん、「演劇会場」がどこかにもよります。また「大学演劇部」といっても、筆者が知る限り、「九州大学演劇部・伊都キャンパス」や「西南学院大学演劇部」は優れています。それでも、この「演劇会場」でのこの「舞台」の「照明&音響」は、正直言って抜きん出ていました。

 ※註2 ミラノ公のブロスベローには見えるようです。

 ※註3 

  ミュージカル舞台公演のご案内

  クリック! 『NINE 25,6,7

   本ブログの「演劇案内」が出て来ます。    

 

 ※註4 ミラノ公〈ブロスベロー〉に救われ、奴隷のようになっている怪物。

 


●演劇鑑賞:『The Tempest』(福岡女学院大学・岩井ゼミ):上

2016年02月01日 21時26分33秒 | ●演劇鑑賞

 

 演劇鑑賞の魅力と難しさ

  筆者が「演劇鑑賞」を綴りたいとする最大の動機は、 “優れた舞台の感動を、せめて言葉を通して表現したい” との思いにほかなりません。それは同時に、舞台の「表現者」(総てのキャスト&スタッフ)に対する、筆者なりの “賛辞と敬意” を示すことでもあるのです。

  舞台終了後の「感想」において、『素晴らしい舞台でした。また観に来たいと思います』というだけでは、「表現者」に対して礼を失するような気がします。第一それでは、あまりにも芸がなさすぎるというものであり、何よりも筆者自身、大いなるフラストレーションに苛まれるでしょう。

  言い方を変えれば、“優れた舞台”とは、それだけで筆者自身の「鑑賞文」の作成意欲を掻き立てるものといえるのです。何とか「鑑賞文」をまとめることができたとき、新たな発見と次の課題を手にしたような気分になります。それは同時に、多少なりとも筆者自身が自己の成長を感じる瞬間でもあるのです。

 そういう意味において、『The Tempest』のきちんとした「演劇鑑賞」に着手できなかったことは、筆者にとっては何よりも辛いものでした。

 もう半年以上も前になりますが、718日付の本ブログにおいて、「陰湿集団」の『通話する男、森を忘れるな』の「演劇案内」をした際に、78に観た同舞台の感想に簡単に触れ、《後日、きちんとした「演劇鑑賞」を書きたいと思っている》と結んでいました。その感想は、おおむね次のようなものでした。

       ★  

  “総てに洗練された秀逸な舞台だった。(中略)なぜこの「舞台」は、こんなにも感動を与えるのだろうか。なぜこんなにも役者が活き活きと、そして、瑞々しく演じ切ることができるのだろうか。今回は「音響」も「照明」も文句なく、優れたプランニングそしてオペレーションだった。少なくとも、これについては、もう  “プロ級” といってよい。

   何と言っても、「音響」と「照明」と「演技」との、息をのむほどのコラボレーションに圧倒された。今こうして原稿を綴りながらも、そのときの興奮と余韻とが甦って来る。それにしても、「この劇団」は多くの魅力にあふれている。 

        ★ 

  そしてその後、旧臘大晦日の「わが2015年の福岡演劇(学生)を顧みて(総評編):上」においても、「わが最優秀舞台」として、次のような表現を用いて評価していました。

  “総合的な完成度の高さ

 “別次元の芸術性と感動” を余すところなく伝えてくれた作品

  ……とした上で、『このたびのゼミの学生諸君を高いレベルで指導して来られた、岩井 眞實 教授のご尽力』という表現を用い、同教授の優れた指導を、この舞台創造の要因の一つとしていました。

       ★

 「岩井ゼミ」中心の関係「四団体」の相乗力 

 今思うに、「岩井ゼミ」とは、歴とした「大学の専門的な研究機関」であり、「文化的及び言語的表現」を学門研究の対象としながら、その研究及び学習成果の実践の場として、「演劇の舞台」をその一手段とする。……そういうスタンス、そしてニュアンスであると、筆者なりに理解しています。

 したがって、そのような「専門学問研究」機関の「舞台」を、「大学文化サークル・演劇部」の「舞台」と比べること自体、「岩井ゼミ」の関係各位に対して失礼ではないだろうかという気がします。

 逆に「大学の演劇部」から見るとき、そのような高いレベルの専門機関と比較されることは酷な気もします。

 しかし、「大学演劇部」からすれば、無論、相手にとって不足はないわけですから、比較されることは大いなる励みとなるはずです。また是非そういう気持ちで挑戦して欲しいと思います。

 問題は「岩井ゼミ」の関係各位の立場と言うことになるわけですが、そこは、“同じ大学生”あるいは、“ほぼ同世代” の “演劇を愛する仲間” という気持ちで赦していただければと思います。

 要は、「優れた劇団」の「キャスト&スタッフ」同士が、高い次元で競い合い、励まし合い、ときには議論し、競演することが大切なのかもしれません。そういう “切磋琢磨”の中で、さらなる「優れた舞台」の創造を願うものです。

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 息をのむ“演技・照明・音響”の一体化

 さて、舞台の鑑賞ですが、既に述べたように、この「舞台」は優れた「演技」と「台詞回し」と「音響」と「照明」の調和に尽きるでしょう。ことに今回は、「照明」がいっそう素晴らしかったと思います。7名もの「照明スタッフ」というのも頷けます。

 このときの「会場」は、専門的な小劇場の「ぽんプラザホール」であり、優れた「照明プラン」や「オペレーション(操作)」がいっそう要求されたはずです。それを見事にこなしたといえるでしょう。筆者もこの劇場には10数回足を運んでおり、ここでの照明の難しさは、門外漢ながらもよく判ります。

 ことにこの舞台の「照明」の素晴らしさを引き立てたものは、やはり「音響」でした。選曲といい、音量といい、もちろんオペレーション(操作)のタイミングといい、つまりは “音に対する繊細な感性と芸術性” とが余すところなく表現されていたのです。

 ことに〈エアリエル〉(空気中に棲む妖精)が、文字通り “妖精として” 軽やかに、そしてリズミカルに踊り跳ねるシーンは、まさにミュージカルであり、岡崎沙良嬢の非常に質の高い演技に、歌に、そしてダンスに、圧倒されていました。

 それをいっそう際立たせたものこそ、秀逸で繊細なプラン&タイミングの「照明」であり、「音響」だったのです。

 〈エアリエル〉が、やや逆光の中で歌い踊りながら、その五体をしなやかにのけぞらせて消えて行くシーンは、まさに “秀美の極み” でした。抜群のタイミングの「照明」と「音響」があってこそのものであり、また役者の「演技」でした。それによって、筆者はこの舞台一番の感動に酔いしれることができたのです。

 そして、こうした “ここぞ” という際の「照明」と「音響」をいっそう魅力的にした最大の貢献者こそ、開演前の“抑制の効いた静かなBGM”であり、“ぐっと控え気味の舞台照明”でした。このような点が、まさにプロ級、いえプロそのものといえるでしょう。

 開演前、BGMの音に敏感な筆者ですら “少し音量が小さいのでは?” と思えるほど、音量を抑えたBGMでした。しかし、その “抑制された音響” だからこそ、舞台が始まった冒頭の “嵐(tempest)” のシーンが、“うるさい音量”にならず、品位と深みを持ったシーン構成となったのです

 開演前のあの「音響」(BGM)こそが、「冒頭シーン」を格段に活かし、劇的効果をいっそう高めたのです。筆者は心の中で、ほんとに『まいりました』と呟いていました。もうこの「冒頭」の段階で、これらの舞台の成功は半ば約束されたといっても過言ではありません。

 開演前のBGMが “静かに流れる” ということは、いやが上にも、開演を待ちわびる観客の心を静かに整え、徐々にその観劇姿勢を高めながら、観客のイマジネーションを優しく刺激しているのです。

  このような華麗かつ繊細な表現は、やはり「岩井ゼミ」生を中心とする「四団体」公演の『あゆみ』(昨年)や、「演劇部」単独の『フローズン・ビーチ』(一昨年)にも確実に活かされていました。

 最近、この「岩井ゼミ」をはじめとする「福岡女学院大学」の「演劇活動」の実態の “謎” が、ようやく筆者にも、少し分かるようになりました。「四団体」とは、「岩井ゼミ」を中心に、「演劇部」「ESS」(英研)そして「クロコブ」という団体(組織体)の合同を意味するようです。

  ちなみに「クロコブ」とは、この団体のTwitterによると、《照明や音響を勉強しながら大学の学生ホールを管理運営する委員会のことで、正式名は「学生ホール管理運営委員会」》と言うようです。

  道理で、『The Tempest』(主催:岩井ゼミ)も『あゆみ』(主催:四団体)も、そして『フローズン・ビーチ』(主催:演劇部)(※註1)も、素晴らしい「照明」そして「音響」だったのです。

 

 ※註1 「演劇部」単独主催となった『フローズン・ビーチ』は、一部の「照明」や「音響」に指摘した点はあったものの、「一大学の演劇部」としては、高いレベルにあったことは確かです。ことに開演前のビートルズの曲が、開演後のステージをいっそう活かし、また意味を深めたのは事実です。

 実はそれ以降、筆者は「ビートルズ」を耳にするたびに、この舞台が甦って来るようになりました。もちろん、女優陣の演技や舞台美術等にしても同じです。