『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・『ゴルゴ13』のプロファイル(中篇)

2010年07月24日 17時41分07秒 | □愛読書及び文学談義

 
 『ゴルゴ13』の〝名前の由来〟については、もちろん知っていた。しかし、〝明確に記述された〟ものがあればそれをこのブログに採り入れようと思い、コンビニにおいて文庫本の『ゴルゴ13』を拾い読みしようとした。何と最初に手にした巻を開いたそのページに、まさに求めようとしていた〝くだり〟を見つけて驚いた。以下はその「くだり」だ(原文のまま)。


 『……囚人たちはこの男にゴルゴ13という名前をつけた……。13は男の番号が1214号であったことからきていると思うが、ゴルゴとは何を意味しているものかわからん!! 主を裏切ってイバラの冠をかぶせ、ゴルゴダの丘で十字架にかけた13番目の男ということかもしれんな……。われわれの社会では不吉とされ、いみきらわれている13という数字に何かピッタリくる感じの男だ!!』(『ビック・セイフ作戦』1968.11)。 ※アンダーラインは筆者。

 『ゴルゴ13』が囚人として過ごしたのは「西ドイツ」の刑務所だった。彼が入所した理由は、「飾り窓」で有名なハンブルグ(ドイツ)において、後ろから忍びよろうとしたstreet girlを殴った上、飾り窓の用心棒(?)たちをも殴り倒した暴行傷害にあったようだ。そのstreet girlは、窓から外を眺めているゴルゴ13に、遊び心でこっそり近づこうとしていたにすぎない。
 
 だがゴルゴ13は、背後から音もなく接近されることを極度に嫌う。言うまでもなく自分に対する攻撃意思を感じるからだが、このようないわば〝沈黙の接近者〟に対し、ゴルゴ13は相手が誰であっても条件反射的に反撃態勢を取っている。そしてこの「エピソード」を表すシーンは、繰り返し出て来る。

 公式の「プロファイル(profile)」でも明らかなように、彼は『デューク東郷』と〝自称〟し、『ゴルゴ13』は〝通称〟となっている。『ゴルゴ』とは、イエス・キリストの処刑場となった「ゴルゴダの丘」から来ており、「ゴルゴダ」とは「されこうべ(しゃれこうべ)」すなわち「髑髏(どくろ)」を意味する。
 つまり「ゴルゴダの丘」とは、「されこうべ(髑髏)」の形に似た丘ということになる(マタイ福音書27章33節他)。なお〝主〟とは「イエス・キリスト」をさす。

 レオナルド・ダ・ヴィンチによる壁画『最後の晩餐』――。この壁画は、イエスが『この中に私を裏切る者がいる』として、ユダを指弾する瞬間をテーマとしている。その結果、ユダは晩餐会場から立ち去るわけだが、イエスとユダを除く11人の「使徒」を合わせると12人となる。ユダはまさに「最後の晩餐会場」から外れた唯一の人物であり、その意味において、『13番目の男』となるのだろう。

 ところである程度「聖書」に親しんでいる方には、アンダーラインの『主を裏切ってイバラの冠をかぶせ ゴルゴダの丘で十字架にかけた13番目の男』の部分は、曖昧な表現といえる。確かに主を裏切ったのは「イスカリオテのユダ」であり、彼は銀貨30枚でイエスをユダヤの指導者に売り渡した。

 だがその後反省し、銀貨を神殿に投げつけて投身自殺を図っている。ユダの〝裏切り〟は、イエスの茨(いばら)の冠や十字架刑への〝きっかけ〟になったにすぎず、ユダが茨の冠を被せたわけでもなければ、十字架にかけた一人でもない。

 筆者は『ゴルゴ13』という「スナイパー」が、「イスカリオテのユダ」に由来するとは思いたくない。なぜなら冷酷なまでの沈着さをもって黙々と仕事をこなす超A級スナイパーは、〝謎めいた生い立ちの持主〟であり、超人的な技術と精神力を持った〝不死身〟であって欲しい。

 その方が、「sniper(狙撃者)」そして「executioner(死刑執行人)」としての〝宿命〟を担い続ける人物に相応しいと思うのだが……。

 「ゴルゴダの丘」での「イエスの死」は、はるか以前より〝預言されたもの〟だった。ということは、『ゴルゴ13』も、偉大な何かの力によって〝宿命づけられた存在〟としてこの世に生まれ落ちたのだろうか……。

 


・『ゴルゴ13』のプロファイル(前篇)

2010年07月17日 15時35分37秒 | □愛読書及び文学談義


 青年期より、劇画『ゴルゴ13(サーティーン)』(さいとうたかを氏)の読者だ。入手可能な漫画や劇画の中では、一、二に好きな作品といえる。筆者が大学に入学した1968年(昭和43年)、この作品は「ビッグコミック」の〝一話完結〟として始まった(※2週にまたがる大作もあった)。

 ついでに言えば、前年の1967年に「少年マガジン」で連載が始まった作品がある。一つが赤塚不二夫氏の『天才バガボン』であり、もう一つが水木しげる氏の『ゲゲゲの鬼太郎』だった。同誌は翌年、高森朝雄氏原作の『明日のジョー』(画:ちばてつや氏)もスタートする。

 ちなみに高森朝雄とは、『巨人の星』(画:川崎のぼる氏)の原作者である梶原一騎氏のもう一つのペンネーム。「スポーツ根性もの」といわれる〝スポコン漫画〟は、彼が先鞭をつけたと言われている。筆者もいつしか、『明日のジョー』は欠かさず眼を通すようになっていた。

 ともあれ、学生時代は「漫画(劇画)雑誌」を買う経済的な余裕などなかったし、またその必要もなかった。当時は100%外食のため、雑誌のほとんどを食堂で読むことができた。
 
 私と〈ゴルゴ13〉とが出会った時代は、世に言う〝70年安保の前哨戦〟と言われた年だった。学生による東大・安田講堂の占拠事件は、翌1971年の東大入試の中止へと発展した。国内では「三億円の強奪事件」や「金嬉老事件」が世間を騒がせ、世界的には「プラハの春(チェコの民主化開始)」「ソンミ村大虐殺」の年であり、キング牧師と米国司法長官ロバート・ケネディが暗殺された年でもあった。

 ――1968年のある日、神田駿河台の大学傍の食堂で昼食していた。急に外が騒がしくなり、あれよと言う間に機動隊と学生の衝突に巻き込まれてしまった。数人の機動隊員が食堂内に駆け込み、食堂から出ないようにと厳しい口調で告げた。ややあって学生が投げた火炎瓶の割れる音が聞こえ、燃え上がる幾筋もの炎が食堂のガラス越しに見えた……。

 『ゴルゴ13』については、50歳代に入った頃から「単行本」となったものを購入して読むようになった。といっても、年に数冊にすぎず、作品のほとんどは以前に発表されたものだった。ゴルゴはある意味では、筆者の〝青年期へのタイムスリップ願望〟を満たしてくれるのかもしれない。

 職業を「スナイパー(sniper)」(狙撃者)とするゴルゴ13。早い話「殺し屋(hitman)」ということだが、殺された人間の「犯罪性向」や「依頼者側の倫理と論理」とを考えれば、それなりに納得させられるものがある。

 筆者がゴルゴ13に惹かれる最大の理由は、彼なりの〝確立された哲学〟を感じるからだろう。依頼された仕事を確実にこなすスナイパーとして、特定のイデオロギーや宗教は持っていないと考えられている。そのため東西冷戦時代の枢軸関係者からも、〝もっとも信頼できるスナイパー〟とされている。

 その〝信頼〟の第一は、ゴルゴ13が、特定の国家イデオロギーを持たず、そのための忠誠心や愛国心に拘束されないということにある。

 第二は、特定の宗教信仰者でないため、狙撃対象が特定の宗教関係者であっても、対立する宗教宗派からの報復が起こり得ないとの確証もあったのだろう。無論、「狙撃の正確さ」や「依頼者の秘密」を守り抜く〝完璧主義〟が、クライアントの信頼をいっそう高めているのは確かだ。

 もっとも彼自身の立場から考えても、〝どちらの陣営〟にも偏らず、依頼された狙撃対象を確実にヒットすることこそ、ゴルゴ13自身の〝もっとも安全な生命の保障〟となっているのかもしれない。実際、彼を利用する立場の〝東西政治体制の関係者〟が、どのような国際関係の緊張下にあっても後顧の憂いなく利用できるスナイパーとして、彼を〝泳がせている〟と語ったように記憶している……。

 


・人間は山と蟻の中間?(下):生と死と

2010年07月10日 15時01分19秒 | □愛読書及び文学談義

   

 一人の敵は多すぎ、

 百人の友は少なすぎる。 ――ホピ族の格言


 少年時代に観た「西部劇」映画には、必ずといってよいほど「インディアン」が登場した。だが彼らは西部の開拓を推し進める白人の敵として描かれていた。

 白人を脅かす存在であるため、ライフル銃によって斃された。撃たれたインディアンが、馬上から激しく崩れ落ちるさまが脳裏に焼き付いている。

 映画の中では、後にインディアンもライフル銃を手に入れたようだ。実際には新大陸の発見以来、白人達がインディアンの既得権と生命を脅かしたのだが、少年時代はそのようなことを知る由もなかった。

 団塊世代前後の方は、「アパッチ」や「スー」、それに「シャイアン」と言ったインディアン部族の名前をご記憶かもしれない。

 ひとびとのこころに真の平和が宿るまで、
 国と国との間に平和はやってこない。 ――スー族の格言

              ☆

  死は存在しない。
 生きる世界が変わるだけだ。 ――ドゥワミッシュ族の格言

 死により 私は生まれる。 ――ホビ族の格言

 
 これらの格言に似た“死生観”は、洋の東西を問わずさまざま民族において語られて来た。

 しかし、高度に発展した(…と思っている)医療技術に生きる現代人にとって、“死は存在しない” や “死により生まれる” などの表現には、すんなりと “入っていけない” のかもしれない。

  “死” を “異なった世界における『生』” と位置づけるドゥワミッシュ族。彼らにとって、現象として眼の前に横たわる “死んだ姿(=死体)” は、どのように位置づけられ、また考えられるのだろうか。

 また “死” をひとつの “誕生” と考えるホビ族にとって、“死” を起点とする “その前後の世界” は、どのような “つながり” があるというのだろうか。

 ……と想いながら本原稿を閉じようとしたそのとき、何気なくテレビのスイッチを入れた。

   NHKにおいて、「葬儀」に関する番組をやっていた。終わりの部分をほんのちょっと覘いた程度だが、番組のタイトルともなった『直葬』(ちょくそう)という言葉は、今回初めて知った。

 この葬儀方法は「お通夜」もしないまま、遺体をそのまま「火葬場」に直行させて荼毘にに付すようだ。全国的に増加の傾向にあり、『直葬』専門の葬儀屋もあるという。

 “現世” とか “来世” とか、それ以前の “生” や “死” というものの捉え方自体が大きく変わろうとしているのかもしれない。というより、何やら “そっちの方” が “本来の捉え方” に近いのでは……とふと想ってしまった。

                          ☆

 グロス・ベントレ族の「伝説」として、以下の話が紹介されている。

 ――地球を創った「創造主」は、男と女を創り終わると、「動物」と「」を集めて相談した。

 『さてと、この世をどんな仕組みにしたものか。これからお前たちはどんどん殖えていくが、死んでしまったらどうしたい? 死んだままがよいか、それとも生き返りたいか?』 

 「」が、『生命はこんな風がいい』と「野牛の骨」を湖に投げ込んでみせた。骨はいったん消えてから水面に浮かんできた。「死ぬけれど、また生き返るのがよい」というわけだ。

 すると「」が反論した。『そうしたら地球はすぐにいっぱいになってしまって、食べ物が足りなくなる。死んだら終りにした方が、生きている間の喜びや楽しみが増える。その後は新しい世代に任せるのがよい』と言って岩を湖に投げ込んだ。岩は沈んだきり戻ってはこなかった。

 それを見ていた「創造主」は、『それでは生命は、岩のようになるべし』と決めた――。   

 “人は山と蟻の中間だ”という意味がやっと判りかけたような気がする……。
             

               ☆

 
 まっすぐにしゃべれば、光線のようにこころに届く。 ――アパッチ族の格言 [了]


                                                      
                                      
     


・人間は山と蟻の中間?(中)…パワーアニマル

2010年07月03日 21時30分33秒 | □愛読書及び文学談義

 動物への畏敬

 インディアン部族の共通点は、動物に対する畏敬の念が強いということだ。彼らの “導き役” となる動物は『パワー・アニマル』と呼ばれ、守護神的な働きがあるとされている。

 その動物は人によって異なり、必ずしも一種類とは限らない。無論、「ペット」などといったカテゴリーに収まるものではない。

 馬やコヨーテ、それに山猫や鷲などについて、彼らは “何と何の中間” と考えているのだろうか。いやおそらく、まったく異なった発想による “位置づけ” をしているように思えるのだが……。 

 どんな動物も、
 あなたよりずっと多くを知っている。 ――ネズパース族の格言

 動物にもタブーはある。 ――中西部の部族に伝わる格言

 “タブー”が、「動物」にもあるとはまいった。だが逆に動物のタブーを否定するのは、人間の傲慢さというものだろう。ふと我が家の近くに屯(たむろ)する運動不足の猫どもを思い 浮かべた。ちょっと惚(とぼ)けたその表情が、呼びかけている……。

 ――なんで、そう上から目線で断定するん?    


 慎ましく食べ、慎んでしゃべる。
 そして誰も傷つけない。 ――ホビ族の格言 

    
 過去を忘れ、こころから怒りを消し去れ。
 どんな強い人間も
 そんな重荷に耐え続けることはできない。 ――チェロキー族の格言
   

 感謝する理由がみつからなければ、
 落度はあなた自身にある。 ――ミンカス族の格言

 何でもない一日一日の日常生活の中に、“世界” や “人生” のすべてが含まれているような気がする。それ以上でも、それ以下でもない……という “確認” こそが、インディアンの原初的な “アイデンティティ” なのかもしれない。

 だが「文明社会」の現代人と言われる我々はどうだろう……。
 いっそう複雑化する国家、経済社会、行政、そして企業組織等の “器”。その中で足掻いているのかもしれない。

 しかも、それらの “器” に貼られた機構、制度、法体系そして先例といった “ラベル” は、いっそう精緻に細分化されていく。“人間そのものが自然の一部である” という “最大のラベル” を塗りつぶしながら……。

 ひとりの子供を育てるには、  
 村中の努力が必要だ。 ――オマハ族の格言

  私ごとだが、五歳くらいまで父の実家の八畳一間に、親子五人が住んでいた。  

 その家には、「退役軍人」(海軍)祖父と祖母。それに、父の実妹である「独身の叔母」が三人。さらに、父の弟(十人兄弟の末っ子で大学生)。

  隣家のおばさんに、駄菓子屋のおばさん。斜め向かいにいた大工の棟梁。すぐそばのお風呂屋のおばさんにおじさん。そして、セーラー服のお姉さんに物売りのおじさんたち。

 傘の修繕にノコの目立て、包丁研ぎに竿竹屋のおじさん。全身真っ黒の煙突掃除屋さんもいた。進駐軍の兵隊さんも、ジープに乗ってときどき姿を見せた。

  それらの人々にいろいろなことを教えてもらい、また可愛がられた。見たこともない絵本やお菓子も貰った。それらの品物の感触や、大人たちの声の調子や表情などは、今でもよく憶えている。

 私の前を歩くな、私が従うとは限らない。
 私の後を歩くな、私が導くとは限らない。
 私と共に歩け、私たちはひとつなのだから。 ――ソーク族の格言

 

        
         ★★★ 何と何の中間? ★★★

 ――ねえ? あたくしって “何と何の中間” かしら? ……え? “銀河” と “バラ” の “中間” ですって? 

  ……それって、あたくしの「イマジネーション」ってこと? 良いのか悪いのか。……まあ、いいわ。だったら、“銀河の彼方” にして。それに “バラ” よりも “百合” の方がいいわ。

  バラはすてきだけど、一歩間違うととんでもないキャラクターへと進んでいきそうだもの。でも……やっぱりここは単に “花” がいいのかも。だったら、いっそのこと “花びら” にしようかな……。

 “銀河の彼方と花びらの中間”……。でもこれって、何だか存在がとっても希薄に感じない……。あたくしって、そういうイメージなのかしら? 

  ねえ? 聞いてる? ね~え? あれっ? 眠ちゃったの?