『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・伊都キャンパス冬景色/九大演劇部テント小屋公演:上

2011年11月24日 12時21分18秒 | ●演劇鑑賞

 

 11月20日(日)、ほぼ2年ぶりに九州大学の「大学祭」に参加した。筆者の目的はただ一つ。同大演劇部の「テント小屋公演」を観るためだった。昨年は参加できなかっただけに、今年はどうしてもとの気持ちが強かった。

 「テント小屋」の会場となった「場所」は、福岡市民もまだあまり馴染みがない。それもそのはず。都心から遥か彼方の「伊都キャンパス」と呼ばれる超郊外……。3年前までは、筆者の自宅(梅光園)から歩いて5分の所にキャンパスがあったというのに。それだけに、あまりにも違いすぎる「距離」とキャンパス全体の「スケール」の大きさに、とまどうばかりだ。

 敷地面積は275ha(2,750,000平方メートル)あり、「福岡ドーム」40個分という。にわかには想像できない広さだ。現在の筆者のアパート(和白)からキャンパスまでの距離は、片道34.4km。車があればこその距離とはいえ、遠いことに変わりはない。

   ☆   ☆   ☆

 この都心からの「アクセス」の不自由さを、演劇の「幕間」に『津軽海峡冬景色』の替歌でN嬢(?)が嘆いていた。歌詞の内容は憶えていないが、イメージは鮮明に伝わっていた……。

 ……確かに「象牙の塔」の建物以外、周囲には何もない「バス停」――。果てしなく広がる冬空の夕べ。夜の帳(とばり)に包まれ始める四辺――。木枯らし吹きすさぶその一角で、ひたすらバスを待ち続けるうら若き女性……。

 まさに寞寞(ばくばく)たる風の音だけが聞こえてきそうだ。それを『伊都キャンパス冬景色』として、「アイロニカルな笑い」に替える学生諸君のエネルギーが素晴らしいし、また頼もしい。いやひょっとして、現代の若者特有の“諦観”……なのだろうか。いやいや、そうではあるまい。

 ともあれ、≪知の拠点≫と言われる広大なこのキャンパスは、“創造性”に充ちている。イマジネーションを刺激し、いろいろな可能性を秘めてもいるようだ。何処に行くにも100m単位で歩くのだが、少しも苦にならない。敷地全体があまりにも広いため、建物相互のつながりや建物そのものに、不思議な安堵感や親近感を覚える。それが“距離感”をグンと和らげているような気がする。というより、“距離そのもの”を楽しみに替えるかのようだ。「建築物」のZONINGにとっても、重要なテーマといえるのかもしれない。

 しかし最大の魅力は、周りの自然に抱かれる感覚だろう。それが、総てのものを快く受け入れようとする感性を育むのかもしれない。それに加え、調和のとれた建物群やモールなどの空間の演出も心憎い。環境工学そして人間工学的にも、緻密な配慮がなされている。

 ≪知の拠点≫とは、産学共同を縦糸に、あらゆる学問の英知を横糸として結集された≪人間の焦点≫でもあるのだろう。

    ☆   ☆   ☆

 さて、今年は次の「4作品」が用意されていた。

 1.「リリーファイター」(作・演出:岡田 力)

 2.「境界線上の彼女」(作・演出:野口恵美)

 3.「Riddle Room」(作・演出:浜地泰造)

 4.「あはれと思へ」(作・演出:大園和登)

 筆者は「4」以外の3作品を観ることができた。「4本すべて」を観ることができると想って最終ステージまでいたのだが、結果として「作品3」を2回観たことになる。しかし、それはそれでよかったと想う。1回目と2回目との微妙な演技の違いがあり、これはこれで面白かった。だが2回観たとはいえ、正直言って判りづらい作品だった。テント小屋の「広さの限界(?)」を感じさせたのかもしれない。この件については、次に触れてみたい。

 これまでと今年との、大きな違いがあった。それは、一昨年までは「1時間に1本」の「演目」であり、その時間も30~40分程度だった。そのため、例年6本はあったように想う。一番多い年で、7本あったように記憶しているのだが……。 

 しかし、今年は「4本」のみ。その公演も「1時間30分に1本」と、間隔が90分になっている。それもそのはず、今回観た3作品は、いずれも50~60分物だった。それでも少しも退屈しなかったのは、内容的にもバージョンアップしていたからだ。

   ☆   ☆   ☆

 それにしても11月の下旬はさすがに寒い。「こごえそうなカモメ」同然の一昨年の大反省から、今年は「ウインドブレーカー」に身を固め、出店の「若鶏の焼鳥」と「うどん」、それにビタミンCたっぷりの1個30円の「山川ミカン」5個で体内を装備した。 

 おかげで、筆者にとっての≪伊都キャンパス・冬景色≫は、「泣けとばかりに、風の音に胸を揺すられる」こともなく、楽しいそして充実した半日となった。(続く) 

 

 ☆☆☆☆☆☆☆

 追悼  本稿を演劇好きの同志Yさんへ捧げる  


・女身が紡ぎ出すヴァイオリン――寺井尚子の魅力:1

2011年11月19日 16時48分59秒 | ●JAZZに親しむ

  

 “人馬一体”という言葉がある。今日ほとんど聞かれなくなったが、「馬」とその「乗り手」との“渾然一体”となった“さま”を表現している。「乗り手」が「馬」を御しているというより、「乗り手」が「馬」に、「馬」が「乗り手」になったかのような状態を言うのかも知れない。“異体同心”とはこのようなことだろうか。

 「ヴァイオリニスト・寺井尚子」が演奏する「試聴動画」を観るたびに、そして聴くたびに、この言葉が頭をよぎるようになった。その結果、いつしか自然に“人器一体”という言葉が浮かんでいた。

 言うまでもなく「器」は「ヴァイオリン(楽器)」を指している。「寺井尚子」と「ヴァイオリン」という“異体”が、“同心”を表わしながら“渾然一体”となっていく……。そういうイメージと言ってよいのかもしれない。

  ……と、本ブログの当初の「書き出し」はそうなっていた。だがなぜかそれから先がピタリと止まり、まったく書けなくなってしまった。なぜだろう。なぜ書けなくなったのだろう。なぜ続きが出て来ないのだろうか。その“煩悶”は実にひと月以上も続いた。

 そして数日前より、ようやく「一つの想い」、いや或る“イメージ”が見え始めていた。

 それは、「寺井尚子」と「ヴァイオリン」とは、“一体とか一体ではないというレベルを超えた”、それこそ“半人半馬”のあの『ケンタウルス』に通じるものではないだろうか。そう想うと、少しは“ストンと腑に落ちた”ような気がした。“煩悶”も、わずかだが消えていた。

       ☆   ☆   ☆

 寺井尚子の「演奏スタイル」やその際の「衣装やヘアスタイル」には、彼女にしかない“感覚や感性”が滲み出ている。

 まず演奏時に見せるその「衣装」は、「黒」を基調とした“シンプル”なものであり、とりたてて“凝(こ)った”ものではない。「ヘアスタイル」にしても、長い髪をそのまま垂らしたり、ときにはごく普通にアップしたりと、特にこだわった様子はなさそうだ。クラッシック界をはじめ、多くの「女流ヴァイオリニスト」が、「整えられたヘアスタイル」に「華やかなドレス」を纏(まと)うのとは対照的と言える。

 例えて言えば、何処にでもある「ブティック」のママが、ちょっとそこまで買物に出かけるような雰囲気すら感じさせる。それに「演奏スタイル」、すなわち演奏時の「身のこなし」は“自然”であり、ことさら“魅せよう”とはしていない。そのようなことには頓着しないのであり、また事実、演奏に没我する彼女の姿に誰もがそう感じるはずだ。

 イントロのピアノやベースが始まっても、少なくとも「ヴァイオリン」を「肩に当てる」までは、「ふだん」すなわち「日常生活の表情」をしている……と想う。ときには、「その直前まで、女友達と他愛もない話をしていたかのようなリラックスした表情」を見せる。無論、「演奏を離れた彼女」を知らない筆者に、真実を知る術はないのだが……。

       ☆   ☆   ☆

 だが一旦「ヴァイオリン」を「肩」に乗せ、「弦」に「弓」に当てた瞬間、その表情は一変する。一瞬にして「ヴァイオリニスト」の姿を見せ始め、それに即した身体のうねりに、自由奔放な四肢の連動に、腕の振りに、弦の上を玄妙に這いまわる指先に、その心に、その魂に、そして「その世界」に没入して行く。

 生身の女性が、“総身を傾けてヴァイオリンを弾き放つ”。いや、寺井尚子が“ヴァイオリンを弾いている”のではない。「ヴァイオリン」と「その弦」、そして「その胴」とが、「寺井尚子」の左手の指を、右手と左手を、腕を肩を、そして全身を全霊を通して、かつて「神」が「彼女ひとり」のみに解き放った「音」をたぐり寄せようとしている……かのようだ。

 そのことを「寺井尚子」を基点に言い換えるとき、≪女身がその全生命をかけて音を紡ぎ出している≫ということになるのだろう。筆者には、そのような「感覚」や「イマジネーション」が脳裏を駆け巡っている。

 ……と、ここまで綴ってはみたものの、やはりまだ……“ストンと腑に落ちてはいない”……ことに気付かされた。

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  ●寺井尚子試聴動画:『Thinking of You』(彼女自身による作・編曲)


  ※この曲の後に、ピアニストの松岡直也氏との1分30秒ほどの「トーク」があり、作曲の“いきさつ”を彼女自身が語っています。 

 


・くれなゐの色をみてゐる寒さかな   細見綾子

2011年11月13日 02時52分09秒 | ■俳句・短歌・詩

 

 くれなゐの色を見てゐる寒さかな  細見綾子 
 
 これはまた何と “シュール” な視点だろうか。……正確に表現するなら、何と言う “シュルレアリスム” の世界だろうか。
 「くれなゐ」と具体的な「色彩名」を示したとはいえ、特定の「或る物」を指しているわけではない。仮にこのとき、作者が「或る物」に視線を走らせていたにしても、その視線の先に「形有る物」は一切存在しなかっただろう。
 
 ただ「くれなゐ」という “観念” または “意識” が、記憶の片隅に漂っていたにすぎない。具象として存在するものの属性をすべてそぎ落としたとき、「くれなゐ」という「色彩」だけが残ってしまった……。そのような“嘆息”さえ聞こえてくる。
 
        ☆  ☆  ☆
 
 ひとくちに「くれない(紅)」と言っても、その濃淡は無限の段階を持っている。「くれなゐ」本来のもっともピュアな「鮮紅」をはじめ、紅薄き「淡紅」、そして沈み込んだ「暗紅」などだろうか。
 
 「くれなゐ」にかぎらず、およそ「色彩」なるものには、繊細かつ膨大なグラデーションが可能だ。そのため、作者の見た「くれなゐ」と読者の感じた「くれなゐ」との間には、必然、色相のギャップが生まれる。
 というより作者は、万人共有の“感覚世界”すなわち “現実現象” を拒否することによって、“他者が入り込むことのできない独自のくれなゐの世界”を描きたかったのではないだろうか。
 
 同じ作者の――、
 
  寒卵二つ置きたり相寄らず
 
 を想い浮かべたとき、そんな気がしてならなかった。
 
       ☆   ☆   ☆
 
  実はこの句に出会ったのは、俳句を始めてすぐの頃だった。もう三十数年前のことになる。句を目にした途端、一瞬にして幼い頃の記憶が甦った。
 
 それは二つの「夜の火事」だった。はじめの火事は、4、5歳の頃であり、夏も終わりに近かった。帰りの電車の中から見たものだが、まさに「紅蓮(ぐれん)の炎」であり、今にも火の粉が飛んで来そうな気がして怖かったことを憶えている。
 
 もう一つは真冬の「遠火事」であり、おそらく小学二年生の頃ではなかっただろうか。母は入院中であり、父は何日も不在だった。両親に代わって身の周りの世話をしてくれていたのは、祖父(母の父親)であり、祖母(母の継母)だった。
 
 その祖母の着物の袖を握りしめるようにして見ていた。あまりにも寒く、背中を震わせながらも、しっかりとその光景に見入っていたようだ。子供心に、「見届けなければ」と自らに言い聞かせるかのような気持だった。
 このときは遠く離れていたため、それほどの恐れはなかった。だがそれから何年もの間は、例え「真夏の火事」であっても《寒い》という感覚だけが強く残った。 
 
 無論、掲出の句がそのような《感覚世界の寒さ》を超えたものであることは言うまでもない。
 
     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆ 
 
 ◇細見綾子  俳人。1907-1997。兵庫県生まれ。日本女子大学国文科卒業後結婚するも夫は病没。郷里で肋膜(ろくまく)炎の発症を契機に、医師の勧めで作句開始。1929年(昭和4)より松根青々に師事。1946年、沢木欣一主宰の俳誌『風』の創刊に参加。翌年、主宰と結婚。
 
 ◇シュルレアリスム(surrealisme)  「シュルレエル」(仏: surréel: 超現実)と「イスム」(仏: -isme:主義)からなる用語。「超現実主義」と訳される。決して「非現実主義」ではなく、「現実つまり通常の感覚世界」を超えた「日常性の中の現存感覚」とでも言うべきものではないかと思う。日本語としては一般的に「シュール」と略した言い方がなされている。  


・若い女性の“囲碁ブーム”?:後

2011年11月07日 01時28分58秒 | ■囲碁・将棋

  

 「囲碁」は厳粛な“勝負”であり、その“一手”の持つ意味は大きい。実力が拮抗している相手との対局は、“一手打つ”ごとに形勢が入れ替わるほどの微妙な局面を生み出す。その“スリル”と“緊迫感”こそ、囲碁のもう一つの魅力でもある。

       ☆   ☆   ☆

 昭和43年(1968年)当時、母校の「囲碁部」では、各クラスごとに部内の「リーグ戦」が行われていた。まず「対外試合」に出場する5、6人からなる「選手リーグ」があり、彼等はいずれもアマチュア5段以上の猛者だった。

 その下に、A級、B級、C級そしてD級までの「クラス」があったように想う。(※註1)。ちなみにこの年、母校は「関東リーグ」を制し、各地方ブロックの優勝大学による全国大会も制覇した。

 習いたての筆者は、無論、一番下の「D級」だった。それでも2年生になる頃には、「碁会所」の2、3段と互角の勝負をしていた。

 「リーグ戦」はどの「クラス」も10局闘い、記憶では6勝以上で「昇級(昇段)」、4勝以下は「降級(降段)」という規則になっていたようだ。そのため、各クラス「リーグ戦」の対局はまさに「真剣勝負」であり、一局に3時間以上を費やすことも珍しくなかった。

 対局後は一局を振り返りながら並べ直すわけだが、熱が入るとこれが1時間では終わらないのが常だった。

       ☆   ☆   ☆

 そういう、「格式」や「作法」に基づいて「囲碁」を学び、また「真剣勝負」を心がけて来た筆者には、「飲酒をしながら碁を打つ」ことなど、想像もつかない。

 「囲碁」は本来、「十九路盤」(交点の目数=361)を使用する。しかし現在、「初心者」用として「九路盤」(交点の目数=81)や「十三路盤」(交点の目=169)がある。当然「十九路盤」に比べて、「勝負時間」も「手数」もかなり短くなるようだ。

 何と言っても、「九路盤」の「マス目」は、「オセロゲーム」の「マス目」とまったく同じ64。どうもこの「オセロ」感覚が「九路盤」に乗り移り、その気軽な「ゲーム感覚」が広がっていったのではないだろうか。……と、ひとり筆者は想うのだが……。

 ……とここまで綴って来たとき、ようやくフリーペーパー『碁的』(goteki)の「名称」の意味が判りかけてきた。まさに≪碁≫であって、≪碁≫そのものではないという意味なのだろう。

 あくまでも、≪……≫と、“ちょっとそれっぽいけれど……”といったニュアンスなのだろうか……。

       ☆   ☆   ☆

 「そうなの? な~んだァ! それでいいんだァ! 格式とか作法とか、難しく考えなくったっていいんだ!」 

 「要するに、“的(teki)”なのね。 また“的(teki)”で、いいってわけね」

 「そうそう。今度のユウキ君との対局のとき、このネイル見せちゃおうかな~」

 「かおり。その前にツバサ君に「定石」教えて貰いな」 

 「ユミね、今度ナオト君と9路番の早碁やるんだ! 彼、フルーティなチュウハイがいいんだって」

 「え! 酔ったら……ヤバイじゃん!」

 「大丈夫だよ。あっと言う間に終わるから。酔う暇なんてあるわけないさ」  

       ★   ★   ★  

 ――あれ? どうなさったの? 何だか落ち込んでいる様子ね。 え? 何ですって? 「碁会所」に行きたいけれど……もし、対局相手が女の子で、その中指にネイルアートがあったらどうしょうかですって? 彼女たちが一手打つたびに、中指のネイルがチラチラと見えるから気が散る……。何? それよりも、囲碁の神聖さが損なわれることが問題……。それをどう説教するか……ってわけなのね。 

 大丈夫よ。そういうのを“取り越し苦労”って言うの。だって、彼女たちがあなたと「対局」するなんて、太陽が西から上ることがあっても絶対にないと想うの!  (了)   

      ★   ★   ★

 ※註1:記憶に多少曖昧な部分があります。当時の部員の方、教えていただければありがたいのですが。


・若い女性の“囲碁ブーム”?:中

2011年11月03日 20時28分37秒 | ■囲碁・将棋

 

 では「ビシッ」と、いえ「バシ~ッ」と言わせていただきましょうか。 

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 フリーペーパーの『碁的』が、若い女性の“囲碁層”拡大に貢献しようとしている姿勢は評価できる。囲碁の総本山ともいうべき「日本棋院」が、さまざまな形でバックしようとしているのは、同誌の正当性や社会的意義を認めているからだろう。

 「囲碁の合コン」も、それが「囲碁」本来の“伝統や格式”を損なわないものであれば賛成したい。そしてそれが結果として、秩序ある男女交際の“きっかけ”となるのであれば大歓迎だ。

 「囲碁ネイル」にしても、それが仲間内での「対局や集まり」の際のものであれば、反対する理由はないと思う。

           ☆   

 しかし、アルコールを飲みながらの「対局」というのはいかがなものだろうか。言うまでもなくこの場合の「飲酒」は、「自宅や仲間内での対局」に限定したという意味だ。「それ以外の場」であれば、無論、対局中の飲酒など決して赦されるものではない。

 だが、いかに「自宅や仲間内での対局」ではあっても、≪飲酒しながらの打碁≫は慎んで欲しい。仮に対局者同士が「対局中の飲酒」を認め合ったにしてもである。

       ☆   ☆   ☆

 筆者は「囲碁」というものについて、個人的には次のような“想い”があり、また“イメージ”を持っている。

 すなわち、「囲碁」とはまず「棋道」であると。そのため、「ある人々」すなわち「プロ」や「それに準じる人々にとっては、「極めようとするひとつの道」ではないかと思う。また事実、彼らはそのことを前提とした“生き方”や“立ち居振る舞い(=行動)”に徹しているように思われる。

 そのため私達は、彼等の「囲碁理論」や「打碁の姿」(テレビなどで観る碁を打っている様子)に敬意を表するとともに、その「考え方や生きざま」に強い関心を抱くのかもしれない。

 個人的には「碁を打っている姿」が大好きだ。ことに大きなタイトル戦の張り詰めた空気の中、粛然と石を打つ姿や、手を読み耽る様子をうかがい知るとき、そこから醸し出される寂静たる精神性に圧倒される。

 筆者のようなアマチュアにはとても真似のできない世界だが、それだけにいっそう憧れの気持ちは強く、あのような雰囲気で真剣に碁を打つことができたら……と秘かに想うこともある。

 ともあれ、「囲碁」はまた“伝統ある文化”であり、礼儀作法をわきまえた中で行われる「知的な遊戯」といえる。或る意味において、囲碁は「神聖な儀式」と言ってよいのかもしれない。

       ☆   ☆   ☆

 そのように考えまたイメージするのは、“団塊の世代”という筆者の年齢から来るのは確かだ。しかし、実はそれ以上に大きな要因がある。

 それは筆者が正式に『囲碁』を学んだのが、中央大学入学(昭和43年。1968年)と同時に入部した「囲碁部」にあったことだろう。しかも当時の部長は、少年時代に「日本棋院」の「院生」を経験された4年生の石田先輩(下のお名前は、確か「隆」では?)であり、部室や部員にも、どことなく穏やかで落ち着いた雰囲気が漂っていた。

 そのため、体育会系のクラブとは全く異なり、「新入生」に対する先輩たちの言葉づかいや態度はとても丁寧であり、紳士だった。怒鳴られたことや何かを命令されたことなど、ただの一度もなかった。

 ことに入学当時の1968年と言えば、70年安保の前哨戦の年。学生運動各派のアジ演説や小競り合いがあったため、静かで落ち着いた「囲碁部」は、格好の避難所であり、また自分をゆっくり振り返る場でもあった。

 そのような雰囲気の中、「本手」中心の正しい指導碁を打っていただいた。「打碁」は、“礼に始まり、礼に終わる”もの。打ち終わった後は、懇切丁寧な解説があり、とても勉強になった。そのため、定石の本や「打碁集」を購入するようになり、一時期かなり真剣に碁に打ち込んでいた。

 今振り返るとき、もっとも理想的な「囲碁」の学び方をしたと言える。だがそこで「学んだもの」とは、「定石」や「ルール」だけではなかった。より多く学んだものは、「囲碁」なるものが伝統的に背負ってきた「歴史」であり、また「作法であったような気がする。