『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・万緑や母をいぢめし人を焼く……/細谷喨々:(下)

2014年10月29日 00時05分03秒 | ■俳句・短歌・詩

 師・石川桂郎を看取って  

  二十歳そこそこで石川桂郎門下生となった喨々。急速に実力を備えていったようだ。

 前掲句集『桜桃』によれば、喨々は昭和46年5月、毎日新聞俳句欄の特別企画 《師弟競詠》 において、師・石川桂郎とともに登場している。まだ学生であり、いかに師が弟子の才能と将来性を認めていたかが判る。

   それから4年後の1975年(昭和50)、師・桂郎は食道癌により「聖路加国際病院」に入院する。同病院の勤務医師となっていた喨々は、そこで師の最期を看取ることとなる。『桜桃』には、「桂郎先生」との「前書き」で三句を載せている。

  立冬の息吹き込みて胸薄く  

   ただでさえ痩躯の師の肉体は、“胸薄く” と言わざるをえないほど痩せ衰えていたのだろう。本句はまさに “死の直前” であり、11月6日、師は “不帰の客” となった。 翌年、「桂郎先生臨終の部屋にて」の「前書き」により、次の句がある。 

    あの日よりいくつ死のあり暦果つ

        ☆

   医師として “いのち” を “生業(なりわい)” としながらも、他方では文学的創作の “客体” と捉える喨々。医師とりわけ小児科医師として、必然、病床の子の日常やその死を看取った作品は多い。次の句には「前書き」として、在宅死した女児の名がある。句集『二日』より(以下、同じ)。

   撫子や死を告げる息ととのへて

   「撫子(なでしこ)」は、周知のように「秋の七草」の一つ。しかし筆者は、師・桂郎が常々強く唱えた 《てめえの面(つら)のある句》 をいっそう感じさせる次のような作品が好きだ。

 蛍火の明滅脈を診るごとく

 原爆忌長針揺れてから動く

 どれほどの鬱ならやまひ花茗荷

 手洗ひつ着ぶくれの子の嘘を聞く 

  手にひたと刃物のなじむ近松忌

 本所には床屋の友や大花火

        ☆

   医師にとって、「俳句」を通して “人間を描く” と言う行為は、我々の想像を超えるエネルギーを発散させるのかもしれない。言い換えれば、“喜怒哀楽 ”という人間感情を遥かに凌駕したレベルで、“生身の肉体” や “人間の尊厳” を見つめているに違いない。ことにそれが “人間の生き死に” ということであればなおさらといえないだろうか。

 

   それを如実に感じさせる作品が、『桜桃』に収められている。「祖母火葬」との前書きがある。 

  万緑や母をいぢめし人を焼く

   『万緑(ばんりょく)』とは、“夏の盛りに深く拡がる草木の緑”。「万緑の中や吾子(あこ)の歯生え染むる」という中村草田男の句を、一度は眼にされたことだろう。

    “いぢめた” のが「医師の妻」なら、“いぢめられた” のも「医師の妻」。「細谷家」は、祖父、父そして本人と「医師」が続いている。

 『母をいぢめし人を焼く』。この表現は “医師” でなければ出て来ないような気がする。これほど最少かつ端的に “死者の弔い” を表現した言葉があるだろうか。

   『祖母を焼く』ではなく、〝突き放した〟ように『人を焼く』としたところも凄い。いや見事だ。“いのち” を〝生業(なりわい)〟とする者しか “言い切る” ことはできないだろう。

 「前書き」にしても、普通なら『祖母を荼毘に――』くらいはありそうなものを、こちらも最少かつ端的に『祖母火葬』と言い切っている。

  “人間”、“医師”、そして “俳人” という “観点” を “三位一体論” になぞらえるなら、この句はその最右翼と言ってよいだろう。

        ☆

   「小児科医」として知られる喨々。本名、細谷亮太(りょうた)。仄聞するところによると、今年4月に「聖路加国際病院」の「小児総合医療センター長」の職を辞し、祖父より続く実家「細谷醫院」の「医院長」に就いたようだ。

 

         ★   ★   ★

 細谷喨々(ほそや・りょうりょう) 1948(昭和23)年1月2日、山形県生まれ。1968年、石川桂郎主宰『風土』入会。‘70年、同人。石川桂郎没後、『風土』を去る。2003年、俳誌『件』創刊に参加、同人。句集に『桜桃』、『二日』。東北大学医学部卒。元・聖路加国際病院副院長。現在、細谷醫院(山形県)・医院長。本名、亮太。医師として『小児病棟の四季』他、子育て、そして生命の尊さ等を提起した著作は多い。

 

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・朝寒や粥の台なす三国志/細谷喨々:(上)

2014年10月26日 00時00分40秒 | ■俳句・短歌・詩

 

  朝寒や粥の台なす三国志   細谷喨々 

  ほそや・りょうりょう。句集『桜桃』(昭和62年刊)より。昭和45年作ということは、作者はまだ「東北大学医学部」の学生のはずだ。学校のある仙台に下宿していたのだろうか。

   『朝寒』(あさざむ)とは、秋も深くなった頃の〝朝の寒さ〟をいう。昼間はある程度温度が上がるだけに、〝朝の肌寒さ〟 はひときわ強く感じられる。筆者にとっては、寝床から抜け出すのがそろそろ億劫になり始める時節でもある。

 「朝粥」は、作者自らが炊いたものだろうか。それとも、下宿の小母さんか誰かによるものだろうか。だが筆者好みの〝句の広がり〟からすれば、作者自身が炊いたとしたい。その方が、句に深みが増す。

   ……と言えば、次のような「反論」が出るかも知れない。いや、むしろ「下宿の小母さん」に炊いて貰ったとした方が、〝物語が広がる〟のではと。

   確かにこの場面は〝作者独り〟よりも、「作者」と「小母さん」という二人の方が〝“物語性〟が高まり、〝短編小説〟的な味わいが出るかもしれない。しかし本来、「俳句」は意図的に〝物語を成すもの〟でもない。

       ☆

  それよりも、注目すべきは『三国志』の存在にある。この場合の『三国志』は、「歴史書」としてのそれではなく、『三国志演義』を下敷きとした〝日本版の歴史小説〟といったものだろう。そうでなければ、『三国志』の「」は「」としたはずだ。

   ご承知のように、この『三国志演義』には武将、文官、皇帝、皇族、后妃、宦官その他総勢1200人近い人物が登場する。その膨大な人物の中から、よく知られるような劉備項羽関羽張飛、そして諸葛孔明(諸葛亮)や曹操といった人物が、活き活きと語られている。

  作者もその中から、特定の「人物」に青年としての夢と憧れを託していたのかもしれない。それは誰であったろうか。……そういうことが自然に思い浮ぶのも、『三国志』に登場する膨大な人間と、そのドラマティックな 〝生き死の諸相〟というものだろう。 

   そうなれば、このときの「」は、作者自らが作ったものとしたい。すなわち作者は、たった一つしかない小さな鍋を使ってなんとか「」を炊き上げた……。ひょっとしたら、下宿から一人用の「土鍋」でも借りたのかもしれない。そのように〝想像が膨らむ〟ことも、この句の魅力の一つだ。

   ともあれ、作者が自分一人で炊き上げることによって、〝粥の台〟も、その〝台〟となった『三国志』もぐんと生きて来る。何といっても〝たった一人の青年〟と〝膨大な人間群像〟という対比が、この青年の〝孤独さや非力感〟を際立たせ、つましい〝学生一人居〟の〝生きざま〟を巧みに描き出している。

 それが結果として、〝三国志に繰り広げられる夥しい人間の生死〟を鮮明に浮かび上がらせたとも言える。(続く)

 

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・『桜刀ーさくらがたなー』/舞台表現の原点に期待……

2014年10月21日 00時01分01秒 | ○福岡の演劇案内

  

  今回の紹介「作品」は、『六月の綻び』の作・演出を手掛けた森聡太郎氏のもの。演出も同氏であり、助演は『六月の綻び』の〈弟〉役を務めた山本貴久氏です。その森氏より、『六月の綻び』鑑賞についてのお礼メールを受信しました。 ※下線・太字は筆者。一部抜粋。

  森氏は――、

   『この作品を通して主な目標としていた「普遍的な共感」ということが、達成できていたのかなと、大変嬉しく思いました。……まさに、本作品は「家族」という概念とその疑念についての「投げかけ」でした。実は、本公演のアンケートの欄には『あなたにとって、「家族」とはなんですか?」という欄があり、お客様方に沢山の意見を頂きました。

  作品中に、私個人としての家族に対する哲学(答え?というのでしょうか)も書いてはいたのですが、アンケートや花雅美さんのブログを通して得られたものは、やはりそれを私個人の哲学を超えたものばかりでした

   まさに私の方が勉強させて頂いたと、公演後から常々感じておりました。同時に、ある意味で、私もようやく「表現者」というものの一人になれたのではないかと感じつつ、今後もせめて脚本だけでも書き続けていきたいなと思っております。』 

 

  それに対する筆者の返信は――、

  『……「家族」というものは、百人百様ですね。人それぞれであり、優劣の問題ではありません。私のような人生経験の豊富な方が、つまりは失敗経験の多い方が、それだけいろいろな哲学や理想や対策を持っているということでしょう。

   それでも貴兄の言葉にあるように「家族」とは、まさに「普遍的な共感」の対象です。人は本来、他人に「共感」したいと思っているように思います。共感できる部分を探しているのかもしれません。 

 

  森氏による、さらなる優れた「脚本」を期待したいと思います。

 

 

  舞台「音響」に配慮を

 

  ただ一つ気になったことは、『六月の綻び』の「音響」すなわち「BGM」が “大きかった” ことでしょうか。素晴らしい「台詞」の妨げになることは、避けて欲しいものです。

 

  テレビドラマをあまり観ない筆者は、代わりに映画のDVDを年間120~150本観ています。それでも、ただの一度もその「BGM」をうるさいと思ったことはありません。つい1週間前も、『市民ケーン』と『欲望という名の電車』を観ました。それぞれ10回ほど観たようです。

 

   「映画」も「舞台」も、「台詞」が正確に聞こえ、役者の声が、そしてその声を通した「メッセージ」がきちんと伝わって初めて意味があります。掲出の2本は「舞台感覚」の作品であり、「演劇」をする人に薦めています。

 

   「BGM」のためだけではなく、「演技」及び「台詞」の “間” の取り方、「声」の抑揚、俳優同士の視線のやり取り、微妙な立ち位置など、昨今のTVドラマでは味わうことのできないカットやシーンの連続です。

       ★   ★   ★ 



  海峡演劇祭2014参加作品


 【桜刀ーさくらがたなー】

 

◇作・演出/森聡太郎 

◇助演/山本貴之


 〈あらすじ〉

――男は鬼を求めて、鬼は刀を求めて、刀は桜をもとめた――

――戦争は人を喰って、涙は人を斬って、死体は砂となって散った―― 

桜の下で眠っていた一匹の鬼と一片の涙。

その桜と男たちは九百年の時を経て、 ようやく約束の春を迎えるのだ。

 

◇公演日時  ※開場は開演の30分前

 2014年111日(土) 12:00~   16:30~         

          2日(日)  11:00~   15:00~

◇公演場所

 ◆関門海峡ミュージアム ※地図もあります。

  海峡ドラマシップ 多目的ホール

  福岡県北九州市門司区西海岸1-3-3
  Tel: 093-331-6700  Fax: 093-331-6702

  ※JR門司港駅より徒歩5分

◇観劇料金

 ・前売り:1500円 ・当日:1800円 

 ・学生:1000円(要学生証提示)

 ※「前売り券」をお買い求めの際は、併せて「お席」を「ご予約」ください。「ご予約」がなされていない場合は、「前売り券」をお持ちでも「お席」の確保ができなくなります。 

 ◆九州大学演劇部―公演情報

 

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・最小限のナレーション/NHKラジオ『音の風景』

2014年10月17日 00時02分02秒 | □Sound・Speech

 

 《 リスナーのみなさんを音だけの世界にお連れします。
 想像をかきたて、記憶を呼び覚まし、心を潤す音の数々。
 音響デザイナーが録音機をかつぎ現場に飛び出し、最小限のナレーションで構成する5分間の音の旅をお楽しみ下さい。
 きっと「音に耳を傾ける楽しさ」を味わっていただけます。》

      ☆

  上記は、「NHKラジオ第2」の『音の風景』という番組案内のメッセージ。“5分間のサウンドトリップ” をキャッチコピーとするこの番組は、「再放送」を含め毎日3回、すなわち日曜から土曜まで欠かさず放送されている(※註1)。「FM」でも毎日1回放送されるため、日・金曜を除けば「一日に計4回」というもの。わずか「5分間の番組」とはいえ、いかに力を入れているかが判る(※註2)。

  “最小限のナレーション” というフレーズが、この「番組」の総てを物語る。その「ナレーション」は、中川緑をはじめ、岩槻里子阿部陽子北郷三穂子大沼ひろみの各アナウンサーが担当している。

 さすがにNHKの女性アナウンサー。声だけでなく、各人の「コメント」もなかなか味わい深い(※筆者において一部、省略)。

 

  ◎中川緑(2014年)/『ナレーションもまた「音」のひとつ。それぞれの「音の風景」と響きあうような語りを。』

  ◎岩槻里子(2013年)/『気ぜわしい日常から、まったく違った空間へと誘ってくれる「音の風景」。5分間の旅があっという間に。』

  ◎阿部陽子(2012年)/『「風景」を紡ぎます。雲雀が舞う真っ青な空、澄んだ水が光るせせらぎ、フクロウの声が響く夜の森……脳裏に浮かぶ映像の、ささやかなお手伝いを。』

  ◎北郷三穂子(2011年)/『お届けする「音」が、「風景」を織り成してくれるようナレーションは額縁のような役割をしているのかなと思っています。』

  ◎大沼ひろみ(2010年)/『聴けば聴くほど味わい深い『音の風景』の"風景"をお楽しみください。』

 

  「名前」の後の西暦年は、ナレーションの担当年。巻末紹介の「音の風景一覧」では、2014年~2008年の「放送内容」が紹介されている。しかし、「試聴」(1分程度)」できるのは、2014年~2010年までの5年分だけのようだ(※註3)。

            ☆

 『音の風景』の素晴らしさは、僅かな “音” によって引き出される “その場の情景” の鮮やかさだ。しかもその “情景” の基本は、リスナー自身の “経験と感性に裏付けられたイメージ” によって創り上げることにある。

 そこに、“音に姿を変えた一瞬の滝や川の流れ、雨の気配、鳥や虫や動物の鳴き声、そして粛々と生きる人間の営み” が紛れもなく息づいている。

  まさしく、“生きとし生けるもの” の貴さであり、その持つ “命の切なさ” というものだろうか。だがそれは同時に “逞しい生命力の迸り” でもある。

 ぜひ『5分間のサウンドトリップ』にお出かけあれ。 “不思議な時間” の中に迷い込んだような気がして来る。無論、とても心地よいものだ。

   「試聴」もお勧めしたい。わずか1分程度の “時間” だが、ときに “瞬間” のように感じることもあれば、一つの物語を紡ぎ出しえたような “豊かなときの隔たり” を感じることもある。

           ★

 個人的に好きな「音」となれば、小川というまでには行かない “小さな水の流れ” だ。「水」そのものの素朴な「音」と、その音に限りなく近づいている「人の気配や息遣い」が伝わって来る。

   その次となれば、「波打ち際の海水の引き具合い」だろうか。遠くの方で、「波と戯れるはだしの子供たちの声」があれば申し分ない。それに、「木々や草花に触れる風音」も捨てがたい。「有るがままの天地自然が創り出す造形」であり、“音を超えた音” とでも言うべきだろうか。

   しかし、実はもっとも好きな「音」は、「ひたむきに生きる人間の営み」であり、「日本人らしいごく平凡な生活の音」だ。それが「水の流れや風を背景」としたものであればなおいい。方言が飛び交う「朝市」などには、すぐにもその場に入って行きたい衝動にかられる。      

            ☆

  こういう番組を制作する “クリエーターとしてのNHK” には、心からの尊敬と賞賛の気持が湧いてくる。その秀逸な企画コンセプトや編集のセンスには、民放の追随を許さない圧倒的な “絶対差” を感じるからだ。

            ★ 

 1996年、当時の「環境庁」(現・環境省)は、「全国各地の人々が地域のシンボルとして大切にし、将来に残していきたいと願っている音の聞こえる環境(音風景)」として一般から公募した。それを「日本の音風景検討会」の選定審査により、『日本の音風景百選』として、100件が選定されている。

 

 ◆音の風景とは/NHKラジオ『音の風景』 の番組案内

 ◆『音の風景』の番組表(1週間単位)

  ◆NHKラジオ『音の風景』2014年

  ◆NHKラジオ『音の風景』2013年

  ◆NHKラジオ『音の風景』2012年

  ◆NHKラジオ『音の風景』2011年

  ◆日本の音風景百選(wikipedia)

        ★   ★   ★

  ※註1 「金曜日」は、2回。

  ※註2 「ラジオ第1」での放送があることも。

  ※註3 夕方4時20分の「再放送分」は、上記2008年以前のものもあり、昨日は『もぐさ屋さん――滋賀』。ナレーターは『軍師 官兵衛』でお馴染みの「広瀬修子」アナウンサー。

 

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・豊かな詩情と抒情/『六月の綻び』(下-6)[最終回]

2014年10月12日 00時00分00秒 | ●演劇鑑賞

 

  “現実”を直視した“寓意性”

   「登場人物」に固有の名前を付けず、〈兄・弟・妹〉と抽象的な呼称にとどめたのも、“寓意性” を意識してのことでしょう

   しかし、寓意性や「現代の寓意(アレゴリー)」、そして「哲学的な解釈」と言っても、この「物語」そして「舞台」は極めて “現実的” であり、また “写実的” です。〈〉は、「舞台」上において何度も “暴力” を振ったり、振われたり”、もちろん三人揃って “食事” もしています。

   三人は “生身の身体” を持ち、“家の中の限られた食べ物で空腹を凌ぎ”、“家事を分担” し、“バスタオル” を共用し、“激しく罵倒” することもあれば “赦す” こともあったのです。

   “六月の雨” に降り込められ、その激しい雨音や雷鳴に感情や意識を弄ばれながらも必死に“生き”、《内なる家族》の中で “葛藤” し、“生命を終え”、あるいは《外なる社会》に “同化” や “救済” を求めたのです。

   ときには “常識では考えられないものを食べた” ことでしょう。しかし作者は、下手をすれば “残忍かつ猟奇的でおぞましい” と見られがちなこの「家族」を、“実存主義” 的雰囲気の漂う “洗練された台詞” で包んでいます。以下はその一例です。

 

:「わたしはお兄ちゃんを食べない。もうお互い食べ合うことなどしなくていい……。だって……わたしたちは、家族じゃないもん……。」(妹★3[下‐4])

 

   ということは、“家族” であれば “食べ合うこともある” ということになるのでしょうか。この意味するところをお考えください。本作の「基本テーマ」に大きく近づくことができるでしょう。

 

:「……家族が僕の心を食べて、僕は家族の身体を食べたのです。…(中略)…ここに残った僕は何なんでしょうか? 僕の身体には、いま家族の血が流れています。僕たちは文字通り、形を超えた家族となったのです。これは多分、とても幸せなことなんです。」(弟★5[下‐4])

 

   この一節は、本作の「究極的なテーマ」へと到る最大のメッセージと言えるでしょう。他の「台詞」ことに「」や「」と比較しながら、“作者の意図” に迫って欲しいと思います。

 

:「ここから出してください。もう誰もいないんです。もう食べるものがないんです。……助けてください。誰か僕を見つけてください。」(弟★6[下‐4])

 

   以上「A・B・C」は、 “哲学的” には “不条理性” を、“社会学的” には《内なる家族》と《外なる社会》との “軋轢” に起因する “人間疎外” の一面を示唆しています。「共通ワード」は “食べる” であり、この言葉が意味する “寓意性” と “現実性” について、それぞれの “現実” をもとにお考えください。

       ☆

 

  豊かな詩情と抒情

   作者は以上にとどまらず、以下のような “詩情そして抒情豊かな表現” も用いています。

 

:「……梅雨は、雨が降ってできたんだから。……[]は……やっぱり桜? 定番。私は葉桜。桜は眼に悪い。眼が悪くなって、世界がどんどん見えなくなって来る。」(妹★2[下‐4])

:「そしてまた[梅雨]がやって来る。……雨は止んじゃいけない。止んじゃうと、それ以上の音が聞こえちゃうから人の動く音……。」(同上)

 

   『桜は眼に悪い。眼が悪くなって、世界がどんどん見えなくなって来る。』とは、“消失した父” を含めた《内なる家族》の “破綻” に到ったプロセスを象徴的に示しています。それにしても、『桜は眼に悪い』とは大胆であり、また繊細です。

   次のフレーズは、『雨は止んじゃいけない。止んじゃうと、それ以上の音が聞こえちゃうから。人の動く音……。』

   何と言う “詩情”、そして “抒情” でしょうか。作者の非凡な才能がよく表われています。本作において、筆者が一番惹かれた一節です。 “詩情” や “抒情” を感じさせるだけでなく、“消失” 直前の〈妹〉が、自らの “心情” を吐露するものでもあり、胸に迫るものがあります。

   そのため、この「場面」は少しドラスティック(drastic)に、しかしスタティック(static)に… …ゆっくりと……「筆者が勝手に想い描いた》」(※後述)をちょっと “開け”て「雨音」を確かめ…… “窓を閉めた後” で……静かに、呟くように語る……というのが筆者のイメージなのですが。

       ☆

 

   「窓」を使った「雨音」を

   そこで、《》について、少し触れたいと思います。

   今回、筆者が一番気になったのは、「Aバージョン」(DVD前半)の「舞台背景」、ことに「腰高窓」の存在でした。これはおそらく、「大学キャンパス倉庫」壁面の “実際の窓” でしょう。しかし、「アルミサッシ枠の窓」というのは、“あまりにも日常的、現実的” であり、多分に “寓意性” を損なうものです。

   以前、何かの機会に述べたことがあります。「観客」にとって “実際に眼に見え、耳に聞こえるもの” は、その総てが “舞台演出すなわち舞台進行上の意味ある実体” であると。

   そのため筆者は、「雨音」のより効果的な表現として、「この窓」の “開閉” が行われ、その瞬間、「雨音」がいっそう強く聞こえたり、逆に弱く聞こえたり……というシーンを期待していました。

   そうなれば、本作「タイトル名」の『六月』もぐんと迫って来たでしょう。また「雨音」の “オノマトペ” に興じる〈妹〉の台詞も、いっそう活き活きとしたでしょう。何よりも、 “消失する” 直前の〈妹〉が、「」で語った言葉も、遥かに深い意味を持ったと思われます。

   この期待は、舞台が進むにつれていっそう高まって来ました。なぜなら、舞台のど真ん中に位置する「この窓」の意味は、“効果的な雨音の演出” に留まらず、《内なる家族》と《外なる社会》を繋ぐ “象徴的な存在” と考えられたからです。それは同時に、この「物語」の「テーマ」の根幹を成すものでもあったのです。

   そのため、今述べたような “窓の演出” がないというのであれば、“見えないように” 覆って欲しいものでした。

   とはいえ、筆者の本音は、「舞台美術」によって “寓意性を感じさせる窓” を別に作り、先ほど述べた「雨音」の演出がなされることでした。無論、それに伴う役者の演技や台詞回しも……。

        ☆

 

   オマージュとしての『動物園物語』

   最後に、今回の3人の役者について、簡単に触れましょう。

   〈〉役の「棟久 綾志郎」氏は、作・演出の「森 聡太郎」氏とはコンビでの活動が顕著のようです。昨年、筆者が観たエドワード・オールビー作の『動物園物語』では、演出と〈ピーター〉役であり、〈ジェリー〉役は氏でした。

   この舞台の〈ピーター〉役はとても優れており、棟久氏自身によく合っていたのではないでしょうか。“条理の世界”に生きる “ごく普通の常識人” であり、本来は “穏やかで理性的な人間” でした。その “アクも嫌みもない凡庸な役” をよく演じていたと思います。

   その意味において、今回の〈〉役は、前記の〈ピーター〉役とは対照的な役まわりでした。熱演であり、優れた演技でしたが、筆者的にはもう一段ギヤアップして、おそらく暴力的と思われる “亡き父親” を感じさせて欲しかったのですが……。ひょっとして、棟久氏の “地” は〈ピーター〉に近いのかも。

   〈〉役の「山本 貴久」氏も、意欲的な演劇活動をしています。最近では『蒲田行進曲』の演出が印象的でした。しかし、今回の演技は “等身大” でもあり、 “自然体” の演技、そして台詞回しと思います。願わくば、「モノローグ」に今一つ工夫が加わると、人物の深みがいっそう増したのでは……。 

   〈〉役の「武藤 悠未」嬢。彼女については、実はまったく知りません。九州大学演劇部の「公演記録」にも名前はなく、筆者にとっては謎の女優ということになります。それでも、よく声の通る好演でした。彼女も “等身大” の〈妹〉役を “自然体” で演じていました。次が楽しみです。

        ☆

 

  再演を期待したい秀作

   それにしても、今回の「物語」に一貫して流れていたのは、 “不条理性” であり “人間疎外” でした。この基本テーマは、前述のように、今回の作・演出の森氏と、〈兄〉役の棟久氏が共演した『動物園物語』の「テーマ」でもありました。

   その意味において、今回の『六月の綻び』は、まるで『動物園物語』の“消化不良”を、今一度 “反芻” することによって解消しようとでもするかのように……。そういう意志を垣間見たような気がします。

   そのため筆者には、今回の〈兄〉役を〈ジェリー〉に、〈弟〉役を〈ピーター〉として感じることがたびたびあり、『動物園物語』の舞台が何度も脳裡に甦ってもいたのです。 

        ☆

   今回、筆者が計8回にも渡って採りあげたのは、ひとえに本作が優れている証左です。本作は、これまで筆者が観た「学生脚本の秀作」として、確実に三本の指に数えられるでしょう。いや、それ以上かも知れません。

   そういう作品に出合えたことをあらためて幸せに思います。併せて、この秀作を生みだした森聡太郎氏をはじめ、キャスト及びスタッフ各位に敬意を表し、本稿の締めといたします。……本作の「再演」をひそかに祈りながら……。[了]

 

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・現実と寓意の狭間で/『六月の綻び』(下-5)

2014年10月09日 00時00分29秒 | ●演劇鑑賞

 

  『……今は私自身生きる自信さえ喪失しかけておりますが、私の命をもってお詫びしても償うことはできないものと捉え……』(※註1)

 

  この一節は、今年7月26日に起きた「佐世保市女子高1年生殺人事件」加害者の父親が、事件後一週間ほどしてマスコミに発表したものの一部です。この方は10月5日、ご承知のように自ら命を……。

   それにしても、「実の父親」さえ殺そうとした少女。際立って優秀なその父や母のもとに生を享け、豊かな生活に支えられていた少女。猫の解剖に飽き足らず、“人間を殺したい” と想い続けていたという少女……。

  今回の『六月の綻び』を鑑賞するにあたり、筆者の脳裏には、たえず《この殺人事件が渦巻いていました。 のみならず、繰り返される「子殺し」「親殺し」そして「配偶者殺し」という「家族間殺人」も、同様に脳裏を駆け巡っていたのです。

   このことは、《家族とは何か?》というプリミティブ(原初的)な「問題提起」から、「人間」は “逃れることができない” ……いや、決して “逃れてはならない” と、厳しく突き付けられているような気がします。

   同様に、夫婦とは? 親子とは? 兄弟姉妹とは? ……自我(自分)とは? 他我(他者)とは? 生きるとは? 死ぬとは? 愛するとは? そして、自由とは? 自由意思とは? 正義(義)とは? 秩序とは? 正義や秩序の保持や回復とは? さらに、“人が人を殺(あや)めるとは?” ……という “哲学的” な「基本命題」についても、たえず振り返るよう戒められているのかもしれません。  

       ☆ 

  ……行きすぎた暴力に対する自衛や憎悪とはいえ、“なぜかくも親、子、兄弟姉妹や配偶者を殺害できるのか?”。  あるいは「家族間」を含め、“人が人を殺めるということが、なぜかくも安易に繰り返されるのか?”。  

   人間にとって、“血のつながり(肉親)” というもっとも強い絆で結ばれた「親子の間」でさえ、“互いの生命を奪い合う” という “人間の業の深さ” ……。これは一体どこから来るのでしょうか? 無論、誰も答えることができません。それだけに、人間がそのような “自由意思” をいつでも行使できるという “身近な選択の忌まわしさ” を、嫌と言うほど思い知らされます。

       ☆

   今回採り上げた『六月の綻び』も、以上のような「問題提起」や「基本命題」を含んでいることは確かです。しかし、言うまでもなく、これらの「問題提起」や「基本命題」は、簡単に “論破” できるものではありませんし、またその必要もないと思います。というより、そのような解決を図るべきではないのでしょう。

   なぜならこのような「問題提起」や「基本命題」は、各人の感性・意識、価値観、人生観や世界観、そして生命観や倫理道徳観といったものに大きく左右されるからです。筆者のような個人が、このような「ブログ」において、「結論めいた考えを披歴する」ことは言うに及ばず、滔々と論じることさえ憚られます。

       ☆

   では本作における作者の基本的な狙い”は、何だったのでしょうか。それは、本シリーズ[中]の「演出の言葉」に隠されているようです。以下は「その一文」です。もう一度、じっくりご覧ください(※下線・太字とも筆者)。

 

  [A]:僕は外の世界僕の価値観人間性を手に入れたつもりなのに、家族の中では「家族の中の僕」でいなければなりません。だって、僕たちは「家族」なんです。》

   [B]:《来年からは社会人となります。結婚子供のことも現実味を帯びてきて、いつかはみなと同じように新しい家族を築くんだろうなぁ、》

        ☆

   以上の[A]を筆者なりに解釈すれば――。 

   “限定された世界観や価値観” の《内なる家族》によって守られて来た「家族の一人」が、《外なる社会》を覘き見た後に《内なる家族》へと戻って来たとき、否応なく《外なる社会の持つ世界観や価値観の多様性や可能性》を突き付けられた。 

   ……ということでしょう。それでも《内なる家族》にいるかぎりは、その世界観や価値観に “拘束される” という “不自由さ” も避けられません。

   とはいえ、たとえ “不自由” ではあっても、その “学習効果” が正常に機能すれば問題はないのでしょう。しかし、著しい “齟齬” や “混乱” を来たすとなれば、ただでは済まないことに……。

 

   思うに、《内なる家族》とは、「子供」を《外なる社会》の「構成員」(学生や社員)として送り出すための「生産の場」であり、また《外なる社会》とは、その「構成員」(社員や学生)を《さらに高次の「外なる社会」》の「構成員」(市民や国民)として送り出すための「再生産の場」と言えるでしょう。

   無論、「生産・再生産された構成員」は、いつの日にか「新しい内なる家族」の「生産」のために “フィードバック” されるわけですが……。

 

   [B]は、本シリーズ[下‐3]の〈兄 ★1〉の「台詞」の根幹をなしているようです。以下の一節は、〈兄〉が〈弟〉と〈妹〉の二人に、包丁を突き付けて声高に罵る場面です。

 

   《この家から出れば、自分で金稼いで、結婚して、子供産んで、新しい家族作ってさ。お前らの苦しみなんて笑い話にできただろ? 俺は幸せになれたんだよ! お前らが余計なことをしなければさ。殴られてばよかったんだよ。》

 

   以上、〈〉の〈弟・妹〉二人に対する憤りの “前提” は、《内なる家族》の “崩壊” でした。中心的な存在であった〈〉そして〈〉の “消失(死去)” によって、正確に言えば、“消失(死去)”に到ったプロセスに問題があったがために、《前の家族》は “崩壊” すなわち “破綻” したのです。つまりは、“大いなる綻び” を見せたというわけです。問題は、なぜ “破綻” したのかと言うことになるのですが……。

   《前の家族》が “破綻” した後、〈〉〈〉〈〉は、何とか三人だけの《新しい家族》を創ろうと試みました。しかし……。

   そしてその後、〈〉と〈〉に “拒絶” された〈〉が、 “消える” ことになるのです。

   さらには、その〈〉も、[下-4]の「妹 ★3」において、

 

   『「わたしはお兄ちゃんを食べない。もうお互い食べ合うことなどしなくていい……。だって……わたしたちは、家族じゃないもん……。」 』

 

   という「謎めいた言葉」を残して “消えた” のです。あとには、〈〉がたった “一人残った”。いえ、“残された” のです。

       ☆   ☆

 

   さて、物語の紹介は「前回(下-4)」で終了しています。お気づきのように、これまでの6回分は、多少「台詞」を紹介し、これといった役者の動きも採りあげたつもりです。ことに「下-2」以降の3回分では極力「台詞」を再現するとともに、舞台の “雰囲気” を伝えることに努めました。

   その「理由」は、筆者の個人的な鑑賞をできるだけ避けながら、実際にこの「舞台を観ていない人」にも一緒に “考えて欲しい” と思ったからです。実際にこの「舞台を観た人」には、再度 “考える機会” になればとの気持もありました。

        ☆

   これまでの「6回分」をご覧になれば、この物語の筋や展開について、かなり理解されたことでしょう。

   筆者は、本作が目指そうとした「テーマをつぎのように捉えています。それを “哲学的” に言えば――、

   “人間の究極のエゴイズムを、家族というコミュニティの中でどこまで純化できるか。”

   ということでしょうか。少し言い方を変えるなら――、

   “自我の絶対的な確立は、どのような他我の同化や否定をもたらすのか?

   ……でしょうか。

   筆者があえて “哲学的” と言ったのは、本作に「テーマ」を組み込んだ作者自身が、「観客」そして「受け手」に “哲学的” な “解釈” を求めていると筆者が感じたからです。

   もし、“哲学的” ではなく、“現実的” な “解釈” を求めるとなれば、本作の「テーマ」は、“残忍で猟奇的でおぞましい” ものとなりかねないのです。“家族とは何か?” や “自我の確立とは?”、また “「内なる家族」と「外なる社会」とは?” どころではなくなるのです。

   作者はあくまでも、極めて “現代的な寓意(アレゴリー)” として、数々の “伏線” と “問題提起” と “基本命題” とを「観客そして、結果として本ブログ「読者に投げかけながら、各自の解釈に委ねたのでしょう。そうでなければ、「現実的な家族殺人」として、「罪と罰」云々どころか、「カニバリズム(cannibalism)」にまで言及せざるをえなくなるからです。無論、それは作者の本意ではないと思います。(続く)

            ★

 ※註1 掲出の言葉のあとは、 『特にご遺族様に対しては、そのご心情を十二分に配慮しつつ、適切な時期・方法において、謝罪・補償等、私の力の及ぶ限り誠意ある対応をしていく所存です。』 となっています。

 その「誠意ある対応」は、おそらく “志半ば” に終わったことでしょう。愛すべき自分の娘が、常軌を逸した方法で “人を殺めた” という事実に、弁護士であるこの父親は、何を想い、何を憂い、何を後悔し、そして、どれほど慟哭したことでしょうか。 黙祷。

         ★   ★   ★

 

  「お知らせ」

   この『六月の綻び』に関する「鑑賞」は、前回、予告しておりましたように、今回を「最終回」としていました。

   しかし、「最終稿」が予想以上に長くなり、今回分だけでは収まりきれなくなりました。筆者は、本作に賭けた作者の強い、そして熱い思いを重く受け留め、安直な「終稿」で纏めることを避けたいと思うに到りました。多少の課題が残ったとはいえ、本作がそれだけ優れた作品である証左です。

   次回が正真正銘の「最終回」となります。以上、お詫びかたがたお知らせいたします。

  2014年10月9日 午前零時  

  花雅美 秀理  kagami shuri 

 

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・「効果音」に憧れた小学生

2014年10月04日 00時00分39秒 | □Sound・Speech

 

 イメージ喚起力を養った「ラジオ・ドラマ」

   「テレビ」なるものが、町内のお金持ちの家庭にやっと1台あるかどうかという時代の話――。1950年代半ば頃(昭和31年~33年)であり、少年(筆者)が小学3年から5年生の頃だった。

   当時、少年の第一の楽しみは、何と言っても「読書」。第二は「ラジオ番組」を聴くことであり、ことに「ラジオ・ドラマ」だった。当然、それは “” すなわち「ナレーション」「出演者(配役)の声」、「BGM」、そして「効果音」だけの世界を意味した。

  少年が特に興味を抱いたのは「効果音」であり、“音” だけで表現される “物語の世界” だった。言い換えると、“音” だけを頼りに自分自身の映像想像)の世界を創り出す” ことを意味した。まさしく “世界にたった一つの物語” であり、その展開を自由に操る楽しみ、そして喜びと言える。何といっても、果てしない空想の空間に浸る喜びは格別のものがあった。

       ☆

   少年にとって、「ラジオ・ドラマ」の中で特に印象深いもの――。それは今でも少しも色褪せてはいない。

   「大いなる憧れの未来都市」……その街の様相も建物も奇妙な服装の人々も、そして空間を自由自在に移動する乗り物も、総て少年の頭の中で勝手に映像化され、また創り替えられた。空間をピ・ピュン、ペヒュル、ピ・ピュン、ペヒュルと飛び交う不思議な乗り物の音はとても心地よかった。

   「宇宙空間」の “静寂” ……そこに放たれた「タイムマシン」の “スタート音” ……ブシュ~ン! ブシュ・ブシュ・ブシュ・ブシュ!……その後の沈黙がとても長く感じられた。何も見えない漆黒の闇に、少年は輝く銀色のロケットを描き出し、それをどんなものよりも速いスピードで飛ばし続けた。“未来 から “現在” 、“現在” から “過去” へと、時間を逆に進むことができるという発想に、どれだけ少年は驚き、また感動したことだろうか。

   「別れを告げに来た優しい宇宙人」……自分の星に帰るために宇宙人が乗り込んだ「宇宙船」。その扉を完全に閉ざし終えた音……ヒュワァ……グゥアイン……パシュ……それは二度と会うことができないことを意味していた。少年は涙が止まらず、音の記憶だけはあるものの、どのようなイメージを創り上げていたのか、これだけはよく想い出せない。ただ悲しみに包まれていただけのような気がする。その後もしばらくの間は、このときのことを想い出しては涙した……。

   イマジネーションの拡がりは、無論、以上に留まらなかった。「怪人二十面相」に「明智小五郎」、「少年探偵団」に「小林少年」……。謎めいた物語の展開やスリリングなシーンの連続は、少年のイマジネーションをいやが上にも高め、いっそう空想力を強化して行った。

   真っ暗やみの中、小さな蝋燭を頼りに地階へと降りて行く足音……幾重にも響きながら遠ざかり、そしてまた大きく聞こえ始める……ようやく辿り着いたその男が、何百年も鎖されていた扉をこじ開ける音……ギュー ギー ギコーッという不気味な鈍い音をたてて、ゆっくりと開き始める扉……開いた先に蝋燭の灯を高く掲げた男の驚愕の叫び声が……。この時ばかりは、予想されていたとはいえ、本当に怖かった。

   スリル満点であり、「効果音」によって「情景」を表現する「ラジオ・ドラマ」の素晴らしさにますます引き込まれて行った。そのため本来臆病な少年は、スリリングなドラマが夕方以降にある場合はあえて電気を消し、自らを恐怖の中においた。“怖いもの見たさ” というが、少年にとっては “怖いもの聞きたさ” だった。

      ☆

  あれから60年――。現在、「舞台演劇」に親しむ少年すなわち筆者は、こと「効果音」や「BGM」については、ことのほか愛着をもっている。「効果音」は、ちょっと小さく短いくらいがちょうどいいようだ。

   最近観た舞台で感心した「効果音」は、九州大学演劇部の『カノン』冒頭だろうか。「弓矢」が飛び交う音が非常にクリアであり、高い中空を鋭く突きぬけて行く感じがとてもよく出ていた。この「効果音」のために、その直後の役者たちの戦いにリズムと躍動感が生まれ、見事な “つかみ” となっていた。

  なおこの『カノン』の幕が開く前の「カノン」の曲も、とても抑制されたボリュームのため、効果音や台詞回しが、いっそう印象的に残っている。「BGM」も、ちょっと小さく短いくらいがちょうどいい。

  やはり、「効果音」は、一にも二にもクリアすなわち鮮明であること。まずはここから始まる。筆者はときどき、海岸の波打ち際を散歩することがある。ただ散歩するのはもったいないので、ときどきICレコーダーで「打ち寄せる波」を「録音」している。

   自分で気に入った「波の効果音」ができたときは、夜中に聞き流すことがある。その「音」が鮮明であればあるほど、脳裏に甦る潮騒も潮の香も沈みかけた夕陽も、同じように鮮やかだ。この密かな楽しみは、もう何回になるだろうか。そろそろ、他の「効果音」をと考え始めてもいる。

 

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・形を超えた家族/『六月の綻び』(下‐4)

2014年10月01日 00時01分31秒 | ●演劇鑑賞

 

――前回の最後の後、沈黙が流れる。

  〈弟〉は、〈妹〉に『ピザを10回言う』よう迫る。嫌がる〈妹〉に何とか10回『ピザ』と言わせる。

弟「ピザって、月に何回言う?」

妹「月に? ほとんど言わないよ。注文したら、たくさん言うけど。」

弟「じゃ、年に何回言う?」

妹「やっぱり、ほとんど言わない。注文したら……10回くらい……。」

弟「なのに、お前は今、10回もピザって言葉を言ったんだよ。」

 黙って頷(うなづ)く〈妹〉。

弟「僕たちはね、注文なんてできない。食べていいのはね。ここにある食べ物だけ。なのにね、ピザと言う言葉を10回も言ったんだよ。僕たちはさ、外に出てはいけない。触れてもいけない。見てもいけない。なのにね、《》の言葉を何回も言ったんだよ。……いやな気持になるだろう。」

 ……中略……

「……僕たちは、『止めて』と言う言葉を使いすぎたからこうなっちゃったんだよ。痛みを我慢するしかなくなったんだよ。言葉を言えなくなって。お互いの身を削いで。終(しま)いには、自分の身を押しつけて来るんだよ! それが家族だろって!」

 俯(うつむ)いた〈弟〉の小さな嗚咽(おえつ)。そして沈黙。

 

弟「……家族じゃなくてもよかったんだよ。」

 〈妹〉は、俯き加減にじっと聞いている。

 〈妹〉が、何か心を決めたかのような改まった表情で〈弟〉に語りかける。

妹 ★1「あのね。あたし、つまらなかったの。……ずっと、つまらなかったの。あたしの“つまらない毎日”は、改修されて行ったの。何か、ぱあっとやろうとすると、結局、ぜんぶ“つまらない毎日”に改修されていったの。きっとさ、あたしの周りには楽しい毎日が流れていたと思うの。でも、そのどれにもうまく対応できなくて。頭がぼんやりして……そしたら、楽しいことも辛いことも苦しいことも悲しいことも嬉しいことも、全部、ぼんやりしてしまってね。……世の中であたしだけが、平べったァ~く、ぺたァって、なっててさ(両手でそのような仕草をする)……。結局、あたしは流されてしまうんだろうなって。すぐ、雨に流されて。すぐ、台風に飛ばされてしまうんだろうなって。」

 ――降り続く雨。

妹 「凄い雨だね。六月は梅雨だから。梅雨は、雨が降ってできたんだから。外ではどれくらい雨が降っているんだろう。梅雨は、ジメジメしててさ、雨が鬱陶しくて嫌な気分。

[]は、スイカの季節。太陽は痛い。スイカの実を食べて、黒い種は吐き出す。種はよく見るとすごくきれい。 []は……なんだろ? 枯れてる。枯れてるんだよ。ただただ枯れてる。焦げてるなのに、みんなそれはきれいという。 []は……何? 何にもない。空気がきれい。透明なのに白い。吐く息は関係ない。朝は白い。お日様は遠くにある。 []は……やっぱり桜? 定番。私は葉桜。桜は眼に悪い。眼が悪くなって、世界がどんどん見えなくなって来る

 そしてまた[梅雨]がやって来る。雨がザーザー降って、ポツポツとはなかなか降ってこない。ときにはガラスをバタバタと叩く。でも雨は止んじゃいけない。止んじゃうと、それ以上の音が聞こえちゃうから人の動く音……。」

 この間、〈弟〉は落ち込んだ様子で俯いたまま、手で顔を覆うように悲しみにくれている。

 ――激しい雨の音。 ――沈黙。

 〈弟〉の方に眼をやる〈妹〉。

 

妹「あのね。こんなに苦しいことはなかったの。哀しいこともなかったの。」

 その口調は強く、

妹「私の平っぺったい毎日が、大きな、形になったの。」

弟「(俯いたまま、涙声でやっと言葉を押し出すように)……ごめん。ごめん……。」

妹 ★3わたしはお兄ちゃんを食べない。もうお互い食べ合うことなどしなくていい……。だって……わたしたちは、家族じゃないもん……。」 

 〈妹〉を見つめる〈弟〉。いっそう激しくなる雨音。

弟「でも僕はさ……」

妹「何? 聞こえない。」

弟「ごめん。お兄ちゃんと呼べなくて、ごめん。」

妹「何て?」

弟「ルール守れなくて、ごめん。」

妹「聞こえない。」

弟「家族になれなくて、ごめん。」

妹「もう一回言って。」

弟「本当の家族になれなくて、ごめん。」

妹「いいよ」

弟「何?」

妹「いいよ。」

弟「聞こえない。」

妹-赦す。

 ――雷鳴と共に、いっそう激しくなる雨。暗転(照明消える)

 ――舞台に、薄暗い照明が入る。

 〈弟〉が《何か》を見つめるように一人立っている。その《何か》の方へと歩み寄る〈弟〉。

 

  前回(下-3)同様、〈(次兄)〉がにある《何か》から「布製の物」を “脱がせ”ています。 いや、“剥ぎ取っている” というべきでしょうか。しかし、観客には〈弟〉の視線の先が“見えない” ため、すぐには “それ” が何であるかは判りません。“脱がせた” ように見えなくはありませんが、やはり “その物”は “剥ぎ取った” とする言い方が適切なのかもしれません。「その物」とは、どうやら「シャツ」のようです。〈〉は今 “剥ぎ取った白いシャツ” をハンガーに掛けようとしています。薄暗い明りでその模様はよく判りませんが、何処となく「妹が着ていた、いくつかの赤い円形が一列に重なり繋がった模様」のような気がします。

 

 ――その薄暗い中、〈弟〉のモノローグが始まる。

弟 「……こうしてぼくはまた一人で肉を食べているんです。硬くなっていくんです。肉だけは……。兄貴と妹は僕の身をギリギリに裂いて、ドロドロになるまでしゃぶって呑み込んで行きました。家族が僕の心を食べて、僕は家族の身体を食べたのです。……そして、ここに残った僕は何なんでしょうか? 僕の身体には、いま家族の血が流れています。僕たちは文字通り、形を超えた家族となったのです。これは多分、とても幸せなことなんです。」

 そう言った後、椅子から転がり落ちる〈弟〉。しかし、急に何かに脅えたかのように床に蹲(うずくま)りながら、泣き叫ぶように声を出す。

弟 ★6「ここから出してください。もう誰もいないんです。もう食べるものがないんです。……助けてください。誰か僕を見つけてください。」

 ――外から家の壁を激しく叩く音。『止めてください』と何回も叫び続ける〈弟〉。

 ――照明が消えても(暗転)、外から家の「壁」を叩き続ける音がしている。

 ――BGMが入る。 終幕―― [続く]

 

 ※次回が「最終回」となります。 

 

 

 

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