鴨東運河と繁茂する水草

2009-09-14 10:34:31 | 琵琶湖疏水
   大津運河と山科疏水の第一疏水は、第二疏水に頼って冬期には水流を止めて水路を清掃するが、鴨東運河は年間稼動を続けている。しかし、疎水は南禅寺舟溜りで比叡・大文字を源流とする白川と合流するが、そのとき大量の白川砂を運んでくるので、この砂を除去するため浚渫船(現在はショベルカー)が稼動し、鴨東運河の風物詩となっている。このとき、水路に繁茂した水草や土砂の除去が行われているようである。しかし、沈降しない土砂の細粒は慶流端・二条端のあたりまで底面を白く染めている。
 この土砂に根を下ろした水草が、地球温暖化の影響もあってか成長を続け、写真に示すように水面から顔を出すようになった。
                             
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 私は古城の堀端を思わせる鴨東運河沿いの散歩道(六勝寺のこみち、疏水のこみち)を往復するのが好きであるが、先輩たちが書き残した昔の鴨東運河を想像しながら歩いている。小説家・菊池寛が短編小説「身投げ救助業」で90余年前(大正5年)の鴨東運河を記述しており、随筆家・松本彰男が単行本「小説琵琶湖疏水」約70年前(昭和10年代)の鴨東運河まわりの生活記録をくわしく記述している。
 当時の鴨東運河の底は自然のままで、水深も一丈(約2.7m)あり、足を取られると危険な場所であった。一面魚類や貝類など水生動物も多く生息していたという。
 これも松本彰男氏の記述であるが、終戦後岡崎地区の公共施設を接収した進駐軍は、運河沿いにあった柳並木を伐採して鉄条網で囲い堤防ぎりぎりにジープが並んだという。桜並木に変わった斜面にも悲しい歴史の一面があったのである。