ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

東北大震災の〝閖上の記憶〟

2019年11月22日 | 俳句

 今朝もまたウレシイ電話が…宇部市芸術祭の俳句に入選しましたと。すると、今度は夜にもまた電話が…エエッ、一体何人入選したの?とビックリです。これはもう行ってからのお楽しみですね。まあ、何はともあれメデタイこと。

 午後からはフラダンスへ。その出かける前に少し心が暗くなって滅入ることがありました。実は身支度するのに洗面所へ行ってみると、守宮(やもり)の赤ちゃんが死んでいたんです。これは先日、お風呂に入ったとき、洗い場にお湯を流すと、スーッと黒い影が…アレッ、蜘蛛?いや、コオロギかしら?と思って、よくみるとカワイイ守宮の赤ちゃんでした。死んでるの?とちょっと触ってみると、頭をもたげてこっちを見ています…確かにそんな気がしたんです!

〝やもくん?いややもちゃんかしら。どこからでてきたの?〟と聞いても、もちろん答えるわけナイデスワネ。きっと寒くなってここは温かいからいいと思っているんだと、そのままにしておきました。翌朝息子が〝守宮の子飼ってるんか?〟と聞くので、〝いいや、まだ生きてた?〟と聞くと〝うん、動いてたよ〟と。それで安心していました。

 最初見つけたとき、一瞬外に逃がしてあげようかと思ったのですが、まだ小さいんだし外の方が危ないかもと…それが却ってアダになったようです。守宮の子は浴室を出てから外に出るドアの前で息絶えていたんです。きっと外へ出ようと思ったんでしょうに…。

 この守宮の子の生と死に私が手を貸したような気がして、あのとき外に出してやっていたら、もしかしたら死なずに済んだかも…と。その時ふと志賀直哉の『城崎まで』のいもりの場面を思い出していました。なぜこんなこと、今書くかって?と、思うでしょう。

 実は先日の〝東北の名湯 3日間〟の旅で、「閖上(ゆりあげ)の記憶」を訪れたことと重なったからなんです。この旅は、まだ行ったことのない日本三景の一つ〝松島〟と〝五色沼〟を見ることにあったんですが、それ以上に心惹かれたのは、この「閖上の記憶」を訪問すると書いてあったからなんです。

 2日目の朝、ホテルを出発して東北大震災の被災地・閖上地区を語り部の方の案内でめぐり、嘗ての震災がどんなものであったかをこの目でしっかり見て、体感することだったんです。

 この「閖上の記憶」とは、認定NPO法人地球のステージが運営する津波復興祈念資料館です。閖上とは、宮城県名取市の名取川の傍で、5,000人以上の方々が住んでいた町だったのですが、2011年3月11日の東日本大震災によって今は全て更地になっていました。

 この資料館が出来たきっかけはというと、閖上中学校の犠牲者14名の遺族会が慰霊碑を中学校敷地内に建てたのですが、周りには何もなく野ざらし状態であったので、2012年4月22日、認定NPO法人「地球のステージ」と日本国際民間協力会(NICCO/ニッコー)が協力して、慰霊碑近くの更地に「閖上の記憶」を建てたのです。

 「閖上の記憶」という名称の由来は、次のように書かれていました。

 自分たちが確かにそこに生きてきた「記憶」、そして津波によって多くのものを失った「記憶」、 それは感情を伴って心の中で大きな場所を占めています。 しかし、そこに乱れがあると人はなかなか立ち上がれず、そこから前に進めません。 記憶と感情を整理し、心の中に少しでも平穏を取り戻すことで未来へ向けた意欲が出てきます。 この世に二度と行けなくなってしまった場所があって良いはずはなく、 二度と語れなくなってしまった話があって良いはずがありません。 自分の記憶や感情に向き合い、その人にとって大切な「記憶」を整理するための場所として「閖上の記憶」という名称としました。

  ここでは先ず震災当日の映像を見せて頂き、その後実際に震災に遭われた語り部の方の話を聞き、さらに外に移動して、近くにある日和山や慰霊塔などを案内して頂き、見学しました。辺り一面更地で本当になにもありません。中にぽつんと見えたのが日和山で山上には神社もあったのですが、いまは仮のお社がありました。でもこの山に避難したとしても今回は全部呑み込まれてしまったんですよ。
 
 
 
 
 
 その時の語り部の方のことば…〝なぜ自分だけで逃げずに、周りの人に声を掛けて一緒に避難しなかったのか。1時間以上の余裕があったんだから説得すれば300人は助けられたはずなのに…、クヤシイ!〟と。それでその記憶を忘れないために語り部になったのだと…切々と語られる真実には胸が痛くなりました。次に慰霊碑に行くと、同じ名字の人が10人、15人と並んで刻まれているのを見れば、それは家族であったり、親戚であったりと、…あの震災さえなければ今もみんな元気に生きているはずなのに…この衝撃は義母の実家の墓を見たオドロキと同じ、更には沖縄の摩文仁の丘の戦没者名が刻まれている〝平和の礎〟を見たときの胸が潰れるような思いに通じるものでした。この下の写真の大きな碑には嘗ての津波の被害が書かれているのですが、それは3メートルのものだったと。
 また、なぜ今回のようにこの地区が壊滅状態になったかというと、みんな津波はここには来ない…来るのは三陸海岸の方だけだからと、だれも警報が鳴っても逃げようとせずに、そのため逃げ遅れて亡くなった人ばかりなんです、と語り部の方が悔しそうに…、せっかくの碑があってもみんなが忘れていたから、それが生かされずに…だから今度はしっかりと伝えていきたいと、語られました。
 
 
 
 
 

 日和山の被災前と被災後の写真です。石の鳥居が根元から折られています。

 この松の木の横に伸びた枝のところまで、約10メートルの津波がきたんですって。

 この慰霊碑の白い塔の高さが今回の津波の高さだそうで、手前には現天皇・皇后両陛下が皇太子・皇太子妃の時に慰問に来られてお詠みになった歌碑が建っています。こんなに晴れた日に、眩しいくらい…。震災からもう8年以上は過ぎたのに、ここではやっと道路が出来た状態で…家々が建って昔の写真のようになるのはいつのことでしょうか。〝ガンバッテ下さい〟と祈るほかできませんでした。

 ここの活動継続のため、寄付金を募ったりボランティアグループで作られたものを販売していましたので、私もここに来た記念と寄付のため、ストラップを二つ買いました。一つは自分の記憶のため、もう一つは娘か息子へと思って…。帰ってからその閖上の話をしてあげて、このストラップいる?と息子に聞くと、うん、貰うよと言ってくれました…アリガトウ!

 人の生死には時々紙一重のところがあります。右に行くか左に行くかと…これは自分で選択するしかないのですが、そういう時にもし関わることがあるとすれば、私は絶対生の方へ関わりたいと思います。だから、守宮の子にも生の方へ手を貸してあげたかったあ~。ごめんね。許して!合掌。

 

コメント (2)
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