金沢の観光スポット体験レポート その409(No.638)
◇兼六園の石物、石碑、記念碑ほか巡り ②
兼六園には虎石、獅子巖、龍石や多くの石碑、記念碑があるので、
今回は由来などが分からないものも紹介します。季節の花々を巡
りながら確認するのも楽しいものです。
■写真は明治記念之標の日本武尊像2
4)明治紀念之標(めいじきねんのひょう)
千歳台の中央に立つ日本武尊像。左には石川県戦士尽忠碑があ
る。西南戦争で命を落とした石川県兵士400名の慰霊のため、
明治13年(1880)に建立された。両脇の赤松は手向松で、当時、
京都の東西両本願寺の門跡から移植。
日本武尊像は日本で最初の屋外人物の銅像といわれている。銅
像の着物が左前になっているのは古代の女性の服装で、日本武
尊が女の姿をして熊襲を倒したという伝説による。身長は5m50cm、
台石の高さは6m50cmと巨大だが、台石はセメントなどを使わず
に石を積み上げただけのもの。昭和63年(1988)、造りはそのま
まにして全面改修が行われた。その際、銅像に鳥のフンが全く
付いていなかったことから、金沢大学の広瀬幸雄教授が銅像の
成分を分析し、鳥除けの合金を開発。平成15年(2003)にユー
モアと独自性のある研究に贈られるイグ・ノーベル賞を受賞した。
■写真は明治記念之標の日本武尊像
■写真は石川懸戦士盡忠(しんちゅう)碑
5)地蔵堂(じぞうどう)
園のほぼ中央、霞ヶ池前の樹木の陰にある。越前石でつくられ、
間口約70cm、奥行約60cm、高さは約2m。前には石造の花立が据え
られている。両開きの石の扉を開けると、地蔵が2体。1体は江
戸の本郷に加賀藩の屋敷を建てた際、土中から出てきたもの、も
う1体は12代藩主斉広の生母・貞淋院が祀っていた地蔵で、も
とは江戸の刑場、骨原にあったものといわれている。
地蔵堂の場所は、かつてここにあった竹沢御殿で亡くなった斉広
の枕元で、地蔵堂は枕石がわりに建立された。はじめは2棟建て
られていたが、後に1つとなったため、地蔵が2体入っていると
推測される。毎年8月24日には兼六園観光協会によって地蔵祭
が執り行われている。
■写真は地蔵堂
6)芭蕉句碑(ばしょうくひ)
山崎山の北麓にある。別称、翁塚。元禄2年(1689)、松尾芭蕉が奥
の細道行で来沢した際の句「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」
が刻まれている。この句は金沢で披露されているが、『おくのほ
そ道』では金沢から小松に行く途中吟とされている。
句碑は、弘化3年(1846)に金沢の俳人・後藤雪袋が、師である桜
井梅室の書をもって柳陰軒(のちに句空庵。卯辰山中腹の宝泉寺
境内にあった)に建立し、明治16年(1883)に兼六園の現地に移
したものである。雪袋は移設を記念して『秋風集』なる句集を出
版している。
■写真は芭蕉句碑
7)陰陽石(いんようせき)
陰陽石とは、女性を表す陰石と男性のシンボルを象った陽石の一
対で、夫婦や男女の睦まじさを表し、子孫繁栄を祈念するものと
いわれている。日本庭園にはつきものの石。
石碑を挟んで右に陰石、左に陽石。陰石は高さ約69cm、横約60cm、
厚さ約38cmで、全面中央部が縦にへこんでいる。陽石は高さと横
が約35cm、厚さ約24cm。
■写真は鶺鴒島
鶺鴒島にはほかに相生の松と五重の石塔があり、陰陽石は誕生、
相生の松は結婚、五重の石塔は死で、人生の三大儀式を表すとさ
れている。
■写真は陰陽石
(つづく 撮影:2015.7.18 他)