久々にS問題の話。
アンチブログの細分化…これは前ブログで何回書いたかな?
わかりやすい例でいうバリ活とユル活のように、人の立ち位置も感情も様々なので、アンチというくくりだけで、「これがアンチです」と一つに答えを出すのは難しいし、違うと思っている。
そうなるよね?
それを最大公約数にする間口の広い「対話ブログ」のような場もあるけど、せっかくそういう懐の広い場があっても、あくまで「アンチはこれがふつうであって、そうじゃない書き込みは控えてほしい。自分と同じ感覚じゃないと傷つく」みたいな意見が目についたので、私はそれを提唱した。
人はいろいろなのだ。
そういう意見がダメじゃないように、そうじゃない意見もダメじゃない。
そんなことを言ったら、アナタの意見に傷つく人もムカつく人もいるのだ。
不満があるなら自分で作ればいいと思った。
それで私も自身でブログを作ったし、多くの人もそうで、
「この意見に賛同できない人は、どうかまわれ右をして去ってください」と書くブロガーには、私はすごく納得した。
力尽くで、そうは思わない他人まで自分と同じを強制するなら、私は断固ノーを言う。
もし自分がそうなったら、気づいた時点で行動を起こす。
S問題に限らず、義務教育の教科書に載せるとか、同調しないと働く権利を奪うとかを見てると、なぜそうしないのかなと思うけどね。
主義主張は自由であると言う限り、私も、例え自分にとってはトンデモ理論でも、強制して人の主張の場を侮辱して侵害しない限り何も言わないよ。
信教は自由。
むしろそれが、その人にとっての真摯に生きる心の糧のようなものなら、応援したい気持ちは今でも私は強いと思う。
多様な意見があるなら、選べばいいのである。
それをアナタを侮辱したり、選択肢を奪って強制してこない限り、選べばいいだけ。
違うだろうか?
そのメンタルを見よです。
権威と教科書と捏造した歴史と同調圧力。
だいたい世の中ってこのパターンですよね。
基本がわかれば大丈夫。
しかけは単純です。