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■名古屋と鰻櫃まぶし

2024-06-09 | ●北條語録

■■■■■■■■■名古屋と鰻櫃まぶし■■■■■■■■■
(名古屋城)

北條俊彦
・経営コンサルタント・前、タイ住友電工社長

■■「名古屋と鰻櫃まぶし
🔵名古屋には定年退職後、なかなか訪れる機会がなかったが、
このGWは家内と名古屋で休暇を取
ることにした。往路は近鉄
特急ヒノトリで移動した
のだが、家内はいたくヒノトリが気に
入ったようだ。

                  (近鉄特急ヒノトリ 撮影)
私の名古屋時代は1992年から始まった。紙一枚(辞令)で
広島支店から中部支社豊田支店へ
異動となり、以来、名古屋市
守山区大森、千種
区東山通で、延べ4年間を家族と共に過ごす
こと
になる。
初めての名古屋、守山区大森台は自然に恵まれた閑静な住宅街
であり、近くには大森寺(だいしん
じ)や金城学院大学がある。
大森寺は尾張家二代徳川光友の生母の菩提を弔う尾州御寺(びし
ゅうみてら)の一つである。
金城学院大学はお嬢さま学校とし
て有名な女子
大学で、椙山女学園大学、愛知淑徳大学と共に
古屋の名門三女子大(SSK)と呼ばれ(幼稚園
)中学から大学
まで進んだ学生は【純金】と呼ばれ
椙山女学園の【一本椙】と
同じく、名古屋の男子
学生垂涎の的である。

1983年東京デイズニーランドが開業,そして1980年代後
半はバブル景気が到来、当時
の世相は享楽的、且つ,退廃的な風
潮が見ら
れたが,一般市民の生活様式は健康的でレジャーや余暇
を楽しむことに 重点を置いていた
ように思える。女子大生はお
しゃれに楽しく生
きることを素直に肯定し青春を謳歌している。
アイドルでもない女子大生が主役のエンターテイメントも増え、
【女子大生というブランド】が
各メデイアを彩る。
日本中に女子大生ブーム
が起きたのはこの時代である。

🔵タイ駐在、本社勤務を経て2005年に再び、豊田支店勤務
となるが,家内の『タイだと行く
けど名古屋は行かない』宣告に
新任部長も
肩なしで単身知立市に住むことになった。(笑)

                 (名古屋嬢、出典:サカエ新聞)

女子大生ブームは去っていたが、若いギャル達のフアッションや
ヘアスタイルが新たな話題
となっていた。彼女達は【名古屋嬢】
と呼ばれ,
その個性溢れるフアッションやヘアスタイルは、大都
市名古屋で一際栄え, 彼女達独特の
価値観・文化・マインドを表
現していた。
名古屋嬢】は 2000年初めに出現, 2005
年の愛知万博でその名は全国に広まっている。

知立は三河國二宮の門前町として始まる
倉時代に鎌倉往還の宿駅八橋が置かれ,江戸時代は東海道の宿
場町池鯉鮒宿として栄
えている。知立神社には 東海道を行き交
う多く
の旅人が蝮除けのご利益を求めて参詣したと聞く。
冗談の様な話だが、知立では鰻の蒲焼をマムシと言うらしい。
大阪のマムシと意味が違って、昔,
知立では蝮の蒲焼が食されて
いた名残だそうだ。
また,八橋の無量壽寺は杜若の名勝で知られ、
業平の愛人杜若姫の供養塔や能『井筒』の故事に倣う“ひともと
ススキ”が今も残されている。

伊勢物語で在原業平東下りの折、「かきつばたの歌枕で和歌
を詠んだのが,
『唐衣 きつつなれにし つましあればはるばるき
ぬる 旅をしぞ思ふ』である。


             写真(伊勢物語と杜若 出典:日本文化財センター)
🔵さて,今回の休暇第一の目的は【鰻ひつまぶしであり, 少
し【鰻】の話をさせて頂きたい。
ニホンウナギは, 2014年に国際事前保護連合(IUCN)から
絶滅危惧種の指定を受けており、
養殖用のシラスウナギの漁獲
量が激減しており、
将来、日本で鰻が我々の口に入らなくなる
ことも
十分にあり得るのだそうだ。

さて、ニホンウナギ(学名:Anguilla japonica)は,海洋にて産
卵,孵化した稚魚は汽水域から淡
の河川で成長する。湖沼や河川
で約10年
かけて成長,  やがて成熟したニホンウナギは降海,
本から2千キロ離れた産卵場所まで回遊する。
そして, ニホンウ
ナギの産卵場所が、グアム島やマリアナ
諸島の西側沖 マリアナ
海嶺のスルガ海山付近
であることが, 2006年2月に魚類学者
の 塚本
勝己氏研究チームによって突き止められている。
また,孵化後2日目の仔魚の採集にも成功し遺伝子調査の結果ニ
ホンウナギであることも確
認された。
その後、水産庁と水産総合研究センターによる調査チームが,水
深2,000メートル以上はある
西マリアナ海嶺南部海域におい
て成熟したニホ
ンウナギやオオウナギの捕獲と 天然卵の採集に
世界で初めて成功し、産卵から孵化迄のメカニズムを解明して
いる。

                      (写真)ニホンウナギ 出典:日本経済新聞)
完全養殖とは、人工授精卵を孵化させその仔魚を育て成熟させ
て次の世代を誕生させることであ
るが、2010年に水産研究・
教育機構が世界で
初めて成功し、後に北海道大学や近畿大学で
次々に成功している。
しかし, ニホンウナギに関する謎はまだまだ多いそうで, 今後更
なる研究とその成果により完全養殖の
商業化につなげて頂きた
い。

🔵ところで、日本人はいつから鰻を食べるようになったのか
恐らく日本における鰻の歴史は約5,000年前の縄文時代にま
で遡るらしい。数カ所の貝塚か
ら人の食した形跡のある 骨が発
見されており,
縄文時代から鰻は習慣的に食べられていたと考え
られる。

奈良時代の『万葉集』には, 鰻を食べていたと分かる和歌も載
せられている。
痩人(やせひと)をあざける歌二首
・『痩す痩すも  生けらば在らむを   はたやはたむなぎを捕ると 
    川に流るな』

・『石麻呂に 吾(あれ)もの申す 夏やせによしといふ物そ 
  むなぎ取り食(め)せ
(大伴家持)

海外では古代ギリシャに、紀元前431年に鰻を食していたと
の記録文献が残っている。以後その
食文化は、ローマに継承さ
れ、現代イタリアで鰻は
滋養強壮効果のある食材として広くイ
タリア人に
愛されている。

🔵現代日本でも土用の丑の日には鰻を食べ英気を養う人が多い
が,土用とは立春・立夏・立秋・
立冬直前の18日間を指し,丑の
日とは日にち
を十二支で数えた時丑に該当する日のことであり、
土用の期間内の“丑の日“ということになる。

古来,「うの付く食べ物」を食べると縁起が良いと云われ、うの
付く食べ物を食べて無病息災を願う
習わしとして、丑の日にう
の付く鰻を食べるのは
まさにうってつけであったようだ。
土用の丑】については、江戸時代鰻屋の主人が 夏場の売上を
上げるため 平賀源内に相談した
ところ、源内が『土用の丑の日
はうなぎの日』と張
り紙をしてはどうかと提案したことに 始ま
るとの逸話
があるが、その真偽の程は不明である。

鰻が蒲焼として食べられるようになったのが室町時代からと云
われ, 鰻を筒切りにして串に刺して焼
いており, その姿が「蒲の
穂」に似ていたことから
蒲焼と呼ばれるようになったらしい。
本格的に鰻が食べ物として定着し始めたのが江戸時代に入って
から。江戸の干拓工事によって
できた湿地に鰻が繁殖するよう
になり、栄養価の
高く滋養がつく安価な食物として労働者の間
広まっている。
池波正太郎の鬼平シリーズ「泥鰌の和助始末に喜田川という
鰻屋が登場するが、長谷川平蔵
の食した鰻の蒲焼とは筒切り、
背開、腹開のいず
れであったのだろうか?

また、鰻重と鰻丼が定番であるが、鰻重と鰻丼の違いは器のみ
で、どちらもご飯の熱で蒸されることで
鰻がより柔らかくほか
ほかになる美味しい食べ方で
ある。江戸時代後期、江戸は日本
橋堺町で芝居
の金方、大久保今助が芝居小屋で売り始めたこと
が起源と言われる。

🔵ところで、名古屋で有名なのが『鰻ひつまぶし』で、熱田神
宮前にある熱田蓬莱軒が元祖とされるが、
少し,熱田神宮につい
てのお話。その創祀は,三
種の神器の一つ『草薙神剣(くさなぎ
のみつるぎ)』
の鎮座に始まる。日本武尊が 伊吹の神との戦い
後、能褒野(のぼの)で亡くなられ,妃宮簀媛命(みやすひめ
のみこと)が 尊の神剣を熱田の地にお祀
りになったのがはじま
りである。

『また我が朝のその始め、人皇十二代景行天皇詔(みことのり)
の御名をば日本武(やまとたけ)と
申ししが、東夷の退治の名を
受け・・・・・・・・・・』

関西学院時代の演能曲【小鍛冶】のクセの部分が懐かしく 思い
出されるが、・・・・・

大鳥居を抜け、閑静な楠木の森に漂う神聖な空気に厳かな霊気
を感じつつ本宮に。千木と鰹
木の特徴的な本宮に 熱田大神(天
照大神)が
鎮座されているのであろう、実に男性的で荘厳な
明造りである。

名古屋に延べ6年も滞在しながら、一度も参宮できていなかっ
たことは正に汗顔の至り

   
    (写真)熱田神宮本宮信長塀)          (写真)熱田神宮本宮大鳥居)


                        (写真)熱田神宮本宮)

           (写真)熱田神宮本宮)
🔵話を『ひつまぶし』に戻す。名の由来は木のお櫃に入れられ
た鰻めしをまぶして食べることから『ひ
つまぶし』と言う 名前
がついた。
熱田蓬莱軒は,  明治6年鈴木甚藏が創業した料理屋
で、細かくきざんだ鰻ご飯にだし汁をかけ
て出したところ 好評
であったことから『ひつまぶし』
という料理を誕生させている。


         (写真)鰻櫃まぶし“ひつまぶし登河那古野本店”
今回、我々は【ひつまぶし登河那古野本店】を予約、鰻櫃まぶし
を堪能させて頂いた。
古民家を改修した趣のある店構えであった。
後継
者不足で鰻の蒲焼き職人はベトナム人の青年が、継承してい
たが、実に、美味しかった。

・『鰻の皮の焼き加減でその食感と味が決まる
・『鰻と
わさびの相性の良さ』
を改めて痛感する。
地方によって、鰻は色々な調理法で食べられ
ている。
そのあたりは皆さんよくご承知だと思うので鰻について
ここらで筆を置かせて頂き、引き続き、家内と名古屋飯グルメを
楽しむことにしたい。

🔵(追伸)翌日,矢場とんでは「味噌カツ」,山本屋本店大門本店
で「味噌煮込みうどん」を戴きました。
名古屋飯は癖になる味、ご馳走様でした。


    (写真)山本屋本店大門本店)        (写真)山本屋本店大門本店味噌煮込みうどん)


          (写真)大須昔の矢場とん)           (写真)矢場とん味噌カツ)

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