■■■■■■■■■■大局着眼,着足小局■■■■■■■■■■
松本光弘
筑波大学名誉教授・元 日本サッカー協会理事 ・元 筑波大学蹴球部監督
■■新春の雪
●今日は新春7日、七草の日である。
一昨日の赤羽スポーツの森公園サッカー場での今年のシニアサッカー
の初蹴りは寒かった。それでも80人近い常連が集まってきた。60歳以
上のシニアであれば誰でもワンコインで参加できるこの集団は和やか
である。5、6人のミドルの女性も参加している。今年も元気に楽しく
健やかにみんなでシニアサッカーが楽しめそうである。!
そして昨日、新しい年となり いろいろやり残していた雑用を済ませる
ため車で街に出た。正午までには30分以上まだ時間があった車のフロ
ントガラスに何か白いものが当たってきた。雪だ。
それもガラスに当たっても水滴にならないほど細かく小さな固い雪の
結晶。アッというまにワイパーをかけなくてはならないほどの 本降り
にあった。こんな粉雪が茨城県の筑波の地で降るとは珍しい。私はと
っさにこの雪はスキーに最適な雪質であることを感じ取った。
■■青春の想い出
●スキーと言えば、今も克明に思いだされるのが、青春時代のオース
トリア、スキー留学のことである。私が東京教育大学体育学部に入学
したのは1960年春だった。ローマオリンピックの年である。残念なが
ら私が専門としていたサッカー競技は予選で韓国に敗れ、次回の 東京
大会にもかかわらず出場できなかった。
🔵(デットマール・クラマー コーチ)
日本サッカー協会の幹部は、日本で初の外国人コーチの招聘を決断し、
西ドイツからデットマール・クラマー氏を招聘した。私が大学1年生の
秋のこと。彼の指導の素晴らしさに魅せられ 本場のサッカーに接した
いという気持ちが私の心の底にいつも燻っていた。
東京オリンピックでの日本サッカーは、クラマー氏の指導や 協会努力
が功を奏し、強豪国アルゼンチンを破るなどし、8位入賞を果たした。
次回のメキシコ大会では銅メダルを獲得するまでになった。
●そんな中、1971年私のごく親しい友人が西ドイツのケルン体育大学
に留学する事になった。私もできる事なら本場西ドイツで勉強したい。
当時勤務していた福島大学に半年間のヨーロッパ研修を願い出た。
多方面にわたっての迷惑は重々理解しながらも、研修で得られるであろ
う本場の情報は何にも代えがたい。周囲の方々の理解が得られ、パンア
メリカンの南回りの空路でフランクフルトに向かった。
福島は冬期間グラウンドが使用できない。そのため冬季はスキーが中心
的野外スポーツとなる。私もSAJの指導員資格を取得していた。そのこ
ともあり、上司の教授が「せっかくヨーロッパに行くならスキーも勉強
して来い」との指示を受けた。
幸い私の大学の先輩である母校の先生がオーストリア国立スキー学校校
長ステファン・クルッケンハウザー教授に手紙を書いてくれ、受入許可
の返事をもらった。
●クルッケンハイザー教授
丁度このシーズンがクルッケンハイザー教授の校長としての最後の退職
前年であった。波を意味するベーレンテクニックを発表した直後で、今
は当たり前になっている「沈み込み」、あるいは「抱え込み」「抜重と
力強い伸ばし押し出し」が大変新鮮に感じられた。
●3週間の国立スキー学校滞在中は、いろいろな思い出があった。中で
も向かいのホテルの支配人が大変親切にしてくれた。いつも「ススムス
ギヤマ」を知っているか、彼は素晴らしいヤツだ、これが口癖であった。
その頃、杉山進先生についてはスキー雑誌等で名前を知る程度であった。
(注:杉山進氏とはオーストリア国家検定スキー教師合格日本人第1号
●オーストラリア国立スキー学校)
●教授とインストラクターと私達)
⚫︎主任講師エディ・ハウイス氏 ●インストラクター・フランツ・ランター氏
●ホテルのマネージャー ●岩手大・伊藤章一氏(左)私(中央)
サンクリストフを後にしてキッツシュタインホルンを回り、ケルンに帰り
私のスキー研修は終わった。
バルーガのケーブルの頂上駅からのいきなりの深雪、今思い出しても良く
ぞ降りたものだと緊張する。
この時スキーバカンスでホテルに長期滞在している人が大勢いた。その中
の何人かが私をいつもホテルのレストランに呼び出してくれた。
●リザ・リンドレさん
中でもリザとビル(リンドレイ)夫妻は格別親しく付き合う仲になった。
帰国してからも手紙のやり取りをし 1989年8月渡米の折、彼らが住んで
いたニューヨークのマンハッタンの自宅を訪問し、久しぶりの再会を果
たした。ロックフェラービルが真ん前に見える素晴らしい住居であった。
その後、ビルが亡くなり、リザは生まれ故郷のウイーンに帰った。
1997年12月欧州視察でスキポール空港からレンタカーでブタペストまで
行った際、ウイーンのリザの自宅を2日にわたって訪ねたが留守であった。
仕方なく持参した土産と伝言をドアに吊るし、ウイーンを後にすることと
なった。運命のいたずらか帰国したらリザからのクリスマスカードが自宅
に届いていた。
ウイーン郊外のリヒテンシュタインというところの養老院に入居したとの
ことだった。このわずかな時間差のすれ違いが非常に無念であった。
●そんな中、私の家内が日頃フォークダンスをやっていて 翌年の1998年
11月、ウイーンを中心にオーストリア、スロバキア、ハンガリーにダンス
の旅に行くので同行してほしいとの申し出を受けた。
日頃サッカー指導で家を留守にし、苦労を掛けている事もあり同行する事
にした。今度こそ若い時にお世話になったリザに会ってお礼を云おうと前
年のクリスマスカードを地元の人に電車の乗継等を訪ねながらやっとたど
り着いた施設であった。
「エリザベス・リンドレイさんは2週間前に亡くなりました」これが対応し
てくれた施設の係の人の 私へのすまなそうな通告であった。あまりの残念
さにその後彼女がどのようになったか等詳しく尋ねることもできず、ただ
ウイーンへの帰路につくほかなかった。
これで「私のオーストリアでの青春の思い出も終わったな」 そんな感じで、
古い大きなお城がそびえるリヒテンシュタインの雨にけむる緑豊かな坂道
を駅に向かって歩いた記憶がよみがえる。
●奥志賀
私が杉山進先生を奥志賀にお訪ねしたのは1990年2月末、シーハイムに一
晩泊めて頂いた。それからはクルッケンハウザー教授を共通のスキーの師
としお付き合いしていただいている。
金沢大学のスキー実習、東京女子大学のスキー実習と志賀高原でスキー実
習をするたびに、奥志賀に足をのばしシーハイムを訪ねることにしてきた。
久しぶりに杉山進先生の元気なお姿に接し心が和むとともに、また奥志賀
に往きたいとの前向きな想いが心に湧いた事を今も覚えている。
■■冬季五輪に馳せる想い
●あれから数えて既に22年が経つ。
いま私の外出衣の胸に鮮やかな虹色を更に濃くしたSDG‘s(国連の持続
可能な開発目標)のバッジが着いている。これは このブログの編集者であ
る山田さんから昨年春贈られたものである。
私の原風景は植木の街埼玉県の旧、安行村である。緑や自然には敏感であ
ると自認している。
もうすぐ冬季オリンピックが隣の国、中国の北京で開催される。政治的ボ
イコットとかパンデミックの中での開催といろいろの課題が山積している。
冬季オリンピックと環境問題では、なんといっても私にとって思い出深い
のは長野オリンピック開催時に問題になった長野県八方尾根の第2ケルン、
第3ケルンと続く神々しさをも感じさせる自然環境をダウンヒル競技のた
め環境破壊を余儀なくされたことである。
しかし現在のように複合的に全世界が入り組んだ問題を抱えては純粋主義
を最重要要素としてスポーツや諸問題を語ることはナンセンスと心得る事
も必要のようである。
“バランス“ この言葉を最大の優先順位に置き世界地図に眼を向け(国際
関係),自分たちの日常の生活(コロナ禍対策)に着手することとしたい。
まさに「大局着眼,着手小局」,私の得意とするスポーツ(サッカーとスキー)
の世界では「大局着眼、着足小局」いずれにしろ、大局と小局が大切に
思えてならない。
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