心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

高月観音の里ふるさと祭り 7

2016年10月31日 | 仏像巡り

高月観音の里ふるさと祭りに出掛けました。

理覚院観音堂を参拝したあと、高月駅の近く、浄光寺に向かいました。

途中の田園風景。黄金色の稲穂が頭を垂れ、本当にいい秋の一日でした。

集落の中に入ると、外壁に焼き杉を使った家が目立ちました。

杉板の表面だけを炭化させ、腐食しにくくしてあります。以前テレビで見たことがありますが、実物は初めて見ました。

他にも、玄関周りがベンガラで塗られていたり、伝統的な工法の住宅が多く、古くからの文化が大切にされている土地柄がよくわかりました。

浄光寺は、住宅街の奥にありました。

やはり、日吉神社の境内にありました。左が神社の拝殿。右が浄光寺。同じ敷地内に、公民館もありました。まさに、村の人たちが集まる場所に観音堂があるわけです。集落の人が交代で観音堂の当番をしているそうです。

観音堂の厨子の中に仏さまはいらっしゃいます。

中央が十一面観音さま。鮮やかに彩色されています。

向かって右が薬師さま。左手に薬壺を持っています。

左は阿弥陀さま。両手に親指と人差し指で輪を作る来迎印を結んでいます。

3体とも室町時代の作だそうです。戦国時代、浅井と織田の戦でここにあった寺院が焼けてしまいましたが、仏像だけは村人たちの手で大切に守られ、今日まで伝えられているのだそうです。

続きます。

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高月観音の里ふるさと祭り 6

2016年10月28日 | 仏像巡り

高月観音の里ふるさと祭りに行ってきました。

円満寺の十一面観音を拝観したあと、己高山理覚院の観音堂に行きました。

この観音堂には、西国三十三観音、板東三十三観音、秩父三十四観音の計百体の観音さまがずらりと並んでいらっしゃいます。

百体観音像は、江戸時代に造られたそうです。交通不便な時代にあって、ここにいながら西国、板東、秩父の霊場巡りができるよう整備されたのでしょう。

お堂の壁面にびっしり観音さまが並んでいます。

西国三十三観音が祀られているところは、このあたりでも多いのですが、板東や秩父の三十三観音がそろっているのは初めて見ました。

板東三十三観音です。十八番下野国中禅寺などと書かれています。日光の中禅寺のことです。

中には、変わったお姿の観音さまもありました。少し紹介します。

第八番 相模国 星谷寺 聖観音が船に乗って、船には太鼓が乗っています。

どんないわれがあるのでしょうか。

十一番 武蔵国 長楽寺 聖観音が踊っているかのようです。

頂に雲がかかる高い山を見上げているのでしょうか。

千手観音が蓮の花に乗り、二人の人間に支えられています。

秩父三十二番 武蔵国 法性寺 この方も船に乗っていらっしゃいます。

この観音さまは何に乗っていらっしゃるのでしょう。

長い竿のようなものを持ていらっしゃいます。自ら舟(のような乗り物)を操っていらっしゃるのでしょうか。

千手観音が白象に乗っていらっしゃる。白象は普賢菩薩の乗り物のはずなのに。

この方は、ドラゴンに乗る?

如意輪観音が、これまたドラゴンに乗る?蹄のついた足があるようです。

 

どうして、観音さまがいろいろな乗り物に乗っていらっしゃるのか、今まで板東や秩父の観音さまには縁がなく、わかりません。

観音さまが遠い遠い吾妻の国に行かれるには、それなりのドラマがあったのでしょうか。

続きます。

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高月観音の里ふるさと祭り 5

2016年10月25日 | 仏像巡り

高月観音の里ふるさと祭りに行ってきました。

保延寺阿弥陀堂の次は、保延寺観音堂に行きました。

観音堂は阿弥陀堂の西、歩いてすぐにところにありました。

村の人々に守られた小さな祠でした。

千手観音です。

いただいたパンフレットには、戦国時代に長谷寺から頂戴したと書かれてありました。

続いて円満寺に参拝しました。

円満寺は日吉神社の境内にあります。

日吉神社の総本社は、比叡山の麓、大津市坂本にある日吉大社です。日吉は、昔は「ひえ」と読まれていました。古事記にもその名が見えます。「ひえの山」は、平安京の鬼門にあたり、平安遷都後は、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになりました。

天台宗を日本に伝えた最澄が、ひえの山に延暦寺を築くと、天台宗の広まりとともに、日吉社も全国に広まるようになりました。

円満寺は、現在では無住ですが、かつては天台宗に属していたそうです。

ご本尊は、江戸時代に作られた観音さま。とてもきれいなお姿でした。

続きます。

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高月観音の里ふるさと祭り 4

2016年10月23日 | 仏像巡り

高月観音ふるさと祭りに出掛けました。

雨森観音寺を訪ねました。観音寺のある雨森地区は、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の出身地です。

雨森芳洲は、江戸時代の儒学者。中国語、朝鮮語に堪能で、幕府の通訳として日本と朝鮮の交流に活躍した人だそうです。今でいう大使館員のような役目で李氏朝鮮時代の釜山に滞在していたこともあったそうです。

地元では大人気のようで、こんな看板も。

雨森観音寺門前の東屋で昼食をいただきました。高月駅で売られていた戦国焼き味噌おにぎりです。

加藤清正、福島正則など賤ヶ岳の七本槍と言われた武将のイラストが書かれています。

腹ごしらえがのあと、雨森集落のすぐ北、保延寺集落の阿弥陀堂に行きました。

阿弥陀堂は、白山神社の境内にありました。手前が阿弥陀堂。奥が白山神社の拝殿。

この地域には、奈良、平安時代に大きなお寺がいくつもあったそうです。時代が下り、ほとんどの寺は荒廃してしまいましたが、残された仏像は、村々に観音堂や阿弥陀堂が建てられ、地域の人たちの手で守られてきました。観音堂などのお堂は、多くは村々を守る神社内に建てられています。神さまも仏さまも私たちを守ってくださる存在として、一緒に大切にしてこられました。昨年のブログに少し詳しく書きましたので、そちらもご覧ください。

2015年9月26日の記事

保延寺阿弥陀堂の仏さま。三体とも阿弥陀さまです。中央と向かって右のお像が手を膝の上で組んだ定印、左のお像が右手を上げて左手を下げ、指で輪を作る来迎印を結んでいます。

保延寺というのは、寺の名前ではなく、地名です。しかし、この地には古代、「花寺」という大きな寺があったといわれ、白鳳時代の寺院瓦などが出土しています。己高山(こだかみやま)縁起には、最澄が己高山を再興したときに、自ら彫刻した仏像のひとつとして「保延寺阿弥陀」と印されているそうです。

1000年前からこの地には、保延寺という阿弥陀さまを祀る寺があったのかもしれません。

続きます。

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高月観音の里ふるさと祭り 3

2016年10月21日 | 仏像巡り

高月観音ふるさと祭りに出掛けました。

柏原阿弥陀堂の拝観を終えて、雨森(あめのもり)集落に向かいました。

高時川の堤防道路を歩きました。明るく青い空、柔らかな日差し、秋らしい本当にいい日でした。

この植物は、何かわかりますか?

答えは、荻(オギ)です。

薄(ススキ)はこちら。本当によく似ています。先日、中日新聞の写真付き記事も荻をススキと間違えていて、翌日訂正記事が載りました。

いちばんの違いは、ススキは株立ちするという点です。

河畔の竹藪には、こんな立て札が。

奈良東大寺のお水取りに使う籠松明の竹は、ここで採っていたんですね。

雨森集落に入ると、家々の脇には、水路が整備され、透き通ったきれいな水が勢いよく流れていました。流れているのは、山のわき水のようです。

今でも野菜や食器を洗ったり、洗濯に使っているのではと思いました。

水車も回っていました。ただ、何かのために働いてるようすはなく、景観用のようです。

雨森(あめのもり)というのは、天から神さまが降りてきた場所、天の降り(あめのおり)が語源だそうです。

雨森観音寺です。奈良時代に最澄が創建し、一時は広大な伽藍を誇ったそうですが、今はこのお堂だけが残っています。

所々に、往時を偲ばせる石組みや礎石が残されていました。

ご本尊の千手観音です。明治24年、このお堂を再建したとき、比叡山から賜ったのだそうです。

続きます。

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高月観音ふるさと祭り 2

2016年10月18日 | 仏像巡り

高月観音ふるさと祭りに出掛けました。

渡岸寺観音堂の次に訪れたのは、柏原阿弥陀堂です。

渡岸寺観音堂のある集落の中を歩いていると、家々の屋根のずっと上、何本ものこんもりと茂った木立が見えてきました。きっとあそこだと思って行ってみると、はたしてその通り。八幡神社の境内に阿弥陀堂はありました。

中央の厨子にいらっしゃるのが阿弥陀さま。

左の厨子には、

薬師如来と日光・月光菩薩。

薬師十二神将も普段は厨子の中にいらっしゃっるのですが、この日は別の台の上にいらっしゃいました。

広い場所に出て、のびのびしていらっしゃるようです。

八幡社の入り口には、大きな大きな欅の木が。樹齢800年以上、幹周り9m。野神と呼ばれています。

まるで、トトロの木のようです。(トトロの木は、楠ですが)

毎年8月16日には、野上祭りが行われているそうです。

続きます。

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高月観音の里ふるさと祭り 1

2016年10月17日 | 仏像巡り

滋賀県高月町(今は長浜市の一部です)の観音の里ふるさと祭りに行ってきました。

例年は8月第一日曜の開催で、僧侶繁忙期のため、行くことができなかったのですが、今年は10月16日(日)の開催で、この機会を逃す手はないと行ってきました。

JR高月駅前に車を停め、巡回バスも出ていたのですが、気持ちのいい秋晴れの日で、徒歩で巡ることにしました。

まず、渡岸寺観音堂に向かいました。

ここには、日本に7体しかない国宝の観音様がいらっしゃいます。

行ってびっくり。すごい人でした。

まるで、お祭り、というか、観音まつりなのでお祭りなのですが、屋台が出て縁日状態にびっくり。

観音堂です。ここには、阿弥陀さまがいらっしゃって、観音さまは、となりの収蔵庫にいらっしゃいました。

(観音さまの写真を撮ることはできませんでした。写真はこちらのサイトをご覧ください。わかりやすいと思います。)

観音さまの周囲360°ぐるっと巡ることができ、すぐ近く、触れることができるくらい間近に拝むことができます。(もちろん触れてはいけません)。

京都や奈良ではありえないことです。

つづいて、柏原阿弥陀堂に向かいました。(つづく)

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骨董市の掛軸

2016年10月08日 | 日記

先月、名古屋骨董祭で掛け軸を一本買いました。

水辺に蘆と蓮。そこに集う白鷺、かわせみなどが明るく軽快な筆さばきで描かれています。

いい物を見つけたなあと喜んでいます。

作者は、暘谷山人とあります。

左上には、この絵を描いたいきさつが書いてあるようです。

「大正丙辰五年(1916)秋 機動演習の旅に従いて、遠州浜名郡松倉郷の下位氏に宿す。主人、余の画を求む。よりて、帰り来たりて武事の余暇にこの図を写して贈る。丙辰初冬暘谷山人。」と読むのでしょうか。

調べてみました。暘谷山人とは、川村暘谷(ようこく)という文人画家のようです。 明治15年東京に生まれ、昭和30年に没しています。それ以上のことはわかりませんでした。

大正5年は、今からちょうど100年前。第一次世界大戦のただ中でした。作者は30代の半ば。軍事演習に参加しています。どんな立場で参加していたのでしょうか。下位氏という個人宅に宿泊しているので、一兵卒というわけではなかったようです。画を描いてほしいと頼まれているからには、絵かきとして名が知られていたのでしょうか。

遠州浜名郡松倉郷は、現在の浜松市南区倉松町。
浜名湖の東、遠州灘に面した地域で国道1号が通っています。

インターネットの電話帳を見てみると、松倉町には、現在も下位さんがたくさん住んでいらっしゃるようです。

一本の掛け軸ですが、いろんなことに思いを巡らせることができて、おもしろいです。

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不破の関 3

2016年10月03日 | 旅行

不破の関跡に行ってきました。

古典文学作品を読んでいると、「関の藤川」「不破の関屋の板廂」がいわゆる歌枕として、しばしば登場します。登場する古典文学作品をいくつか挙げています。(前回の続きです)

『なぐさみ草』(1418年頃)

正徹作。正徹は、室町時代の歌人で僧侶。古典文学の研究者でもありました。『なぐさみ草』は、正徹が尾張の黒田(現一宮市木曽川町)や萱津(現あま市甚目寺町)に滞在して、『源氏物語』の講義などをした折の旅日記です。

 関の藤川朝渡りしつつ、不破の関に着きぬ。
   昔だに荒れぬと聞きし宿ながらいかで住むらむ不破の関守

正徹の肖像と和歌です。

 しらさぎの雲井はるかに飛きへておのが羽こぼすゆきのあけぼの

 

『覧富士記』(1432年頃)
堯孝作。堯孝も室町時代の歌人で僧侶。将軍足利義教の富士見物に随行したときの記録です。

 不破の関過ぎ侍りしに、守るとしもなき関の扉、苔のみ深くて、なかなか見所あり。
   戸鎖しをば幾世忘れてかくばかり苔のみ閉づる不破の関屋ぞ

 

『野ざらし紀行』(1684年頃)
芭蕉の有名な紀行文です。江戸を発ち、伊勢神宮、故郷伊賀上野、吉野に西行の足跡を訪ね、近江路から不破関を通って、大垣に友人の木因(ぼくいん)を訪ねています。

大和より山城を経て、近江路に入て美濃に至る。今須、山中を過ぎて、いにしへ常盤の塚有り。伊勢の守武がいひける、義朝殿に似たる秋風とは、いづれの処か似たりけん。我も又、
  義朝の心に似たりあきの風
不破
  秋風や藪も畠も不破の関

与謝蕪村筆「野ざらし紀行図屏風」。

 

不破の関守跡の屋敷の庭園にさまざまな歌碑句碑があり、芭蕉のこの句もありました。

不破の関跡から3kmほど東、桃配山の麓に中山道の松並木が残っているところがありました。

1000年以上の歴史を感じることができた不破の関址。おもしろかったです。

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不破の関 2

2016年10月02日 | 旅行

不破の関址を訪ねました。(前回の続きです)

 

不破の関跡には、関守を代々受け継いできた三輪家の屋敷が今もあります。

古典文学作品を読んでいると、「関の藤川」「不破の関屋の板廂」がいわゆる歌枕として、しばしば登場します。

はじまりは、鎌倉時代の初めに詠まれた藤原良経の歌だと思います。

 人住まぬ 不破の関屋の 板廂(いたびさし) 荒れにしのちは ただ秋の風

この歌は、建仁元年(1201年)の和歌所歌合の折に読まれ、新古今和歌集に収められています。

不破の関は、平安遷都直前の789年に廃止されました。壬申の乱から時が移り、巨大な軍事基地を置いておく必要がなくなったのでしょう。また、費用負担も大きかったのでしょう。

廃止後は、関守だけが常駐し、天皇崩御などの緊急事態の際に、固関使(こげんし)が遣わされて、関を封鎖したといいます。この習慣は、形式化していくのですが、江戸時代末まで1000年以上も続いたというから驚きです。日本人は、ひたすら先例を守り通す文化を持つのだと感心します。


それはさておき、この歌が詠まれたのは、不破の関が廃止されて400年ほど経ってからです。詠み手の藤原良経が不破の関跡を訪れたことはなかったと思われますが、だれも住まず、時を経て次第に朽ち果て荒廃していく関屋に、もの寂しい秋をイメージしてこの歌を詠んだのでしょう。

当時好まれた閑寂、寂寥、幽玄といったイメージにぴったりのこの歌は、人々の口にのぼり、風流を好む人の間で、不破の関屋の板廂を知らぬものはないという状況になりました。もちろん現地を見ている人はほとんどありません。

 

鎌倉に幕府が開かれ、京の都と関東との往来が盛んになってくると、不破の関跡を通る人も増えてきます。かの有名な不破の関屋はどうなっているのだろうと多くの人が紀行文に記すようになりました。

以下にいくつか挙げてみます。

『東関紀行』 (1242年頃)

作者は特定できませんが、京都東山に住みながら隠遁生活にあこがれる50歳に近い男性が、鎌倉へ下り、2ヵ月ほど滞在した折の紀行文です。

 かしは原といふ所を立ちて美濃国関山にもかかりぬ。谷川霧の底に音づれ、山風松の梢にしぐれわたりて、日影も見えぬ木の下道、あはれに心ぼそし。越えはてぬれば、不破の関屋なり。萱屋の板廂、年経にけりと見ゆるにも、後京極攝政殿(藤原良経)の、「荒にし後はただ秋の風」と詠ませ給へる歌思ひ出でられて、この上は風情もめぐらしがたければ、いやしき言葉を残さむもなかなかにおぼえて、ここをば空しくうち過ぎぬ。

『十六夜日記』(1279年頃)

阿仏尼の作です。夫藤原為家の死後、領地の相続争いが起こり、わが子のために幕府に訴え出ようと、京から鎌倉へ下った時の旅日記です。出発が10月16日だったところから十六夜日記と呼ばれています。


十八日、美濃の国関の藤川わたるほどに、まづ思ひつづけける。
 わが子ども 君につかへむ ためならで 渡らましやは 関のふぢ川

不破の関屋の板廂は、今も変はらざりけり。
 ひまおほき 不破の関屋は このほどの 時雨も月も いかに漏るらむ

 

『春の深山路』(1281年頃)

飛鳥井雅有作。飛鳥井雅有は鎌倉時代の公家で歌人。鎌倉を活動拠点としており、京と鎌倉の間をしばしば往復しています。その折の紀行文が五つほど現存しており、「春の深山路」もその一つです。


不破の関近くなるままに、藤川の橋渡るとて、先のたび上りし時思ひしことなど、思ひ続けられて、
  今しはと思ひ絶えにし東路にまた行きかよふ関の藤川


不破の関屋を見れば、東宮のいつとなく待ち遠にのみ思したる御即位の時は、この関をも固めこそはし侍らむかしと思へば、涙ぐまる。
  小萱葺く不破の関屋は我見ても久しくなれる板廂かな

続きます。

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不破の関 1

2016年10月01日 | 旅行

飛鳥時代から奈良時代まで、現在の関ヶ原町に不破の関が置かれていました。関ヶ原の地名は、この不破の関から来ています。また、関西、関東ということばも、この不破の関を境目にしていると言われます。
その不破の関跡に行ってきました。

まず訪ねたのは、不破関資料館。発掘調査の出土品やジオラマなどが展示してありました。

発掘調査によると、不破の関は、西は関の藤川に面して天然の要害となし、北東南は460mにもわたる土塁を築いたとても大きな施設であることがわかってきました。土塁跡は、現在も一部が残っています。土塁で囲まれた内側には、いくつもの建物が並び、多くの兵士が駐屯していたと考えられています。不破の関は、東山道を通る人々を改める検問所としての機能の他、東国から侵入してくる反乱軍をここで食い止める巨大な軍事基地としての役割も担っていたと考えられます。

資料館には、学芸員の方がいて、館内だけでなく、施設周辺も案内してくださいました。

中山道が関の藤川(藤古川)に架かる橋を指して説明してくださっているところです。「ここは、河岸段丘になっていて、30mほどの高低差があります。不破の関は、河岸段丘上に築かれていたんです。」まるで、ブラタモリのようでした。

関の藤川です。壬申の乱では、この川を挟んで、大海人皇子軍と大友皇子軍が対峙したといいます。

不破の関跡には、関守を代々受け継いできた三輪家の屋敷が今もあります。

次回に続きます。

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