映画「この世界の片隅に」を遅ればせながら見てきました。
いい映画との評判をよく耳にするし、キネマ旬報の年間第1位に選ばれたし、これは見ておかなくてはと思って見に行きました。
戦争の悲惨さ、愚かさ、冷酷さを描く映画だけれど、主人公はじめ、その日その日をけなげに明るく、時には笑い合って生きようとする人々に救われる映画だと聞いていました。
その通りでした。
しかし、やっぱり見ていてつらい映画でした。それは、どう描いても戦争という現実がつらい、そこから目を背けることができなかったからです。
(ここから先は、いわゆるネタバレになります。)
映画は、子ども時代の主人公が広島市内の繁華街にお使いに行くところから始まります。
「中島本町に行ってくる。」というセリフがあり、商店が建ち並び、多くの人で賑わう町のようすが描かれます。川の向こうにはドーム屋根の産業奨励館の大きな建物も見えます。
BGMは「悲しくて悲しくてとてもやりきれない。」と歌っています。
産業奨励館は今の原爆ドーム。中島本町は今の平和記念公園。中島本町は、西国街道沿いにあって当時中国地方一の賑わいを見せた町でした。
しかし、一発の原爆で町はこの地上から消え失せました。建物も人も生活も一瞬で蒸発してしまいました。本当に何も残りませんでした。住む人も復興する人も消えてしまいました。住む人のなくなったこの場所は、今、広大な平和記念公園になっています。
冒頭のシーン、明るく賑やかな場面なのですが、つらい結末が待ち受けていることがわかっているだけに、悲しくて悲しくてやりきれない気持ちになりました。BGMもそっとそのことを暗示しています。
主人公のすずは、子どもの頃から絵を描くのが大好きで得意でした。絵を描くことはすずをつらい現実から救ってくれました。
しかし、嫁ぎ先の呉の空襲で時限式爆弾がすぐそばで炸裂し右手を失ってしまいます。かろうじて一命は取り留めたのですが、もう絵を描くことはできなくなりました。
それよりももっとつらいのは、その右手で握っていたのが、姪っ子晴美の手だったことでした。晴美は即死でした。もし、繋いでいたのが左手だったなら、下駄を脱ぎ捨てて裸足で逃げていたら、道端の板塀の向こうにとっさに隠れていたら・・・。悔やんでも悔やんでも、もうどうすることもできません。自分が代わりに死んでいたかった。すずは自分を責めました。
晴美は、夫周作の姉径子の娘でした。
径子は広島の時計店に嫁ぎ、夫婦で店を切り盛りします。息子と娘が生まれますが、好き合って結婚した夫は病死、建物疎開で店は強制的に取り壊され、下関に移住することになります。姑との折り合いも悪く、径子は離縁して実家に戻ってきます。息子は跡継ぎということで下関に連れて行かれてしまい、娘の晴美だけを連れて帰りました。
しかし、その晴美も上で書いたように空襲で死んでしまいます。
径子は、愛する夫、二人で営んできた時計店、息子、そして、娘の晴美と大切にしていたものすべてを失ってしまいます。
すずは、晴美を死なせてしまった罪悪感と、右手を失い、激しくなる空襲の中、婚家の足手まといにしかならないとの思いから、広島の実家に帰ろうとします。いよいよ出て行こうとしたその日、径子にかけられたことばで婚家に残ることを決心しますが、まさにその日、広島に原爆が投下され、すずは命拾いをします。
しかし、その原爆ですずの母も父も妹も亡くなってしまいます。兄は既に戦死していました。すずも、この戦争で多くを失ってしまいました。
この戦争で何百万という人々が命を落としました。すずも径子も命があったという点では幸いだったというべきかもしれませんが、彼女たちが味わった悲しさ過酷さは、現代の私たちの想像を超えたものだったに違いありません。
戦争の悲惨さ、愚かしさを直接的に描くのではなく、世界の片隅で、希望と笑いを忘れず、一日一日をひたむきに、懸命に生きる人々の姿を描いたこの映画は、私たちに生きることの素晴らしさと平和のありがたさを教えてくれます。
それとともに、同じ過ちは繰り返してはいけないとあらためて思いました。
心證寺ウエブページ
かつて私が広島平和記念公園について書いた記事