心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

時が止まったままです

2020年04月18日 | 平和の祈り

新型肺炎の勢いがおさまりを見せません。

人と会うのを8割減らすことが必要と言われます。

心證寺でも5月3日に永代経法要、5月8日に一宮市仏教会の花まつり(お釈迦様の生誕をお祝いする法要)を予定しています。

法要を営み、お経を上げ、供養はしますが、一部を除いて一般の方のお参りはない形で行います。

扉を開け、風通しをよくし、短時間外から手を合わせていただくことはできると思います。

ソメイヨシノが枝にまだ花をつけています。暖冬で冷え込みがなく、一斉開花のスイッチが入らなかったためと思いますが、時が止まったままのように感じます。

早く終息して世の中が動き出してほしいですが、今はひっそり息を潜めているしかないです。

 

 


令和の時代に(現代日本のモアイ像)

2019年08月09日 | 平和の祈り

 令和とは、「うるわしく和す」という意味だそうです。令和の考案者として有力視されている国文学者・中西進さんは、「令和の典拠である万葉集の『梅の花の歌の序』は、九州の大宰府に役人ら32人が集まって開かれた梅花の宴の説明文です。誰か一人が歌を詠んでいるのではなく、32人が歌を通して集い、心を通じ合わせている姿。その和がいいと思います。」と述べています。一人一人が大切にされ、一人一人が力を合わせて良い社会を作っていきたいものです。

 今の日本を見ると、高齢者が増え、働く年代の若者が減って、農業工業の生産力は下がり、このままでは医療費や年金、介護のしくみが立ち行かなるでしょう。外国人の労働者をどんどん受け入れると言っていますが、一時的な安価な労働力と考えているだけで、外国人も社会の一員として地域社会に溶け込み、教育や福祉を受け、一緒に暮らしていこうという考えの人は少ないようです。女性が働いたり子育てしやすい環境もなかなか整いません。

 20年後、30年後には現在の社会のしくみが破綻してしまうことは確実です。しかし、多くの人は目の前の利益を守ることに一生懸命です。このままではいけないと気づいていながらも、大きな力で回り続けている現在の社会のしくみを変えていこうという思想は、権力側に立つ人々には持ちにくいようです。


 太平洋にイースター島という島があります。モアイ像で有名です。かつては全島が森林に覆われ、豊かな資源に恵まれ高度な文明が繁栄していたのですが、森林資源を使い果たしてしまうと、木造漁船の建造ができず漁業ができなくなり、森林の保水力がなくなって肥沃な土壌が雨で流出し農業もふるわなくなり、深刻な食糧不足に陥りました。部族間に争いが起こり、人口が激減し文明は衰え、その後、渡来したヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病によって文明は完全に失われてしまいました。(奴隷狩りで多数の島民が連れ去られたという説もあります。)

 島には製作途中のモアイ像が何体も放置されています。森林資源を使い果たす最後の最後までモアイ像は製作されていたようです。モアイ像製作の足場、運搬のソリ、コロ、ロープなどに森林資源を大量に使います。このままモアイ像を作り続けたら、森はなくなってしまうと気づいていた人はいたはずです。しかし、伝統的な社会のしくみを変えることはできなかったのです。

 このモアイ像にあたる巨大なプロジェクトは、現代の日本にもたくさんあります。原発、諫早湾の潮受け堤防、長良川河口堰、日本各地の巨大ダム、イージスアショア・・・

 自分たちの頑張りが国家を動かしていると自覚している人の立場では、今の社会のしくみをそのまま回し続けることが今を生きていくために正しいことなのでしょう。しかし、一人一人の暮らしの目線から見ると、今、変えなければ将来必ず行き詰まることがはっきり見えてきます。

 仏さまの慈悲はだれにも平等に注がれます。だれにも仏性があり、等しくに仏になれるます。一人一人の人間は、男も女も、年寄りも若者も、日本人も外国人も、障害のある人もない人も、しっかりした人もだらしない人も等しく大切にされ、一人一人がその人なりにメンバーの一人となれるような社会でありつづけてほしいと思います。  

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平成の終わりに思う

2018年12月30日 | 平和の祈り

平成という時代が終わろうとしています。

明治、大正、昭和と戦争がある時代が続きましたが、平成にはありませんでした。ありがたいことです。

 今上天皇は、戦没者慰霊のため、沖縄に11回、さらに、硫黄島、サイパン、パラオ、フィリピンも訪問されました。昨夏の平成最後の戦没者追悼式では、「戦後の長きに渡る平和な歳月に思いをいたしつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民とともに、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」とのお言葉を述べられています。

 また、陛下は現人神(あらひとがみ)としての天皇ではなく、象徴天皇として、どうあるべきかをいつもお考えになられていました。「 人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」と退位のお気持ちを述べられたお言葉の中でおっしゃっています。

 明治以降日本は常に発展、成長を願い進んできました。文明開化、富国強兵、殖産興業。植民地支配。その結果、先の大戦では本当に大きな犠牲を払いました。戦後の高度成長、経済発展の時代は昭和とともに終わりました。これからは人口減少、高齢化。地方の衰退。外国人との共栄。ロボットやAIが働き、人の働き場所が変わっていく時代が来ます。

それは、お金では買えない幸せを求める時代です。大きく強く経済的に豊かになることではない、身近な小さな幸せ。

毎日、仏さまや家族、友人、周りの人、多くの人を支え、支えられながら感謝して生きる。そんな時代が来ると思います。

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宮澤賢治「永訣の朝」と法華経 2

2018年02月17日 | 平和の祈り

宮澤賢治は法華経を熱心に信仰していました。法華経の理解なしに賢治の文学をほんとうに理解することはできないと思います。
毎日法華経を読んでいる者の視点から、「永訣の朝」を読んで、気づいたことを書いてみたいと思います。

その第2回です。

「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまっすぐにすすんでいくから」

 ああとし子
 死ぬといふいまごろになって
 わたくしをいっしゃうあかるくするために
 こんなさっぱりした雪のひとわんを
 おまへはわたくしにたのんだのだ
 ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
 わたくしもまっすぐにすすんでいくから

妹に頼まれたあめゆきを取ろうと庭に出て、目の前の光景が法華経の精神そのものであることに賢治は改めて気づかされます。(第一回に書きました。)このことを妹に感謝し、自分も正しい教えに基づいて生きていこうと心を新たにします。

正しい教えとは、賢治の場合、法華経のことでした。では、法華経に基づいて生きるとは、どんな生き方なのでしょうか?

それは、自分だけでなく、人の幸せを考えて生きること、人を敬うこと、人を感謝することです。

法華経には、数多くの菩薩が登場します。菩薩は自ら道を求めて常に精進するとともに、すべての命あるものを救おうと手をさしのべます。すべての命あるものを、等しく仏になる種を持ったものとして、敬います。

妹に「あめゆじゅとてちてけんじゃ」(あめゆきを取ってきてください。)と頼まれた賢治は、
「まがったてっぽうだまのやうに」くらいみぞれのなかに飛び出していきます。
妹の頼みをなんとしてもかなえてやりたいという賢治の強い思いが「まがったてっぽうだまのように」という表現に表れています。

また、妹トシが「あめゆきを取ってきてください」と頼んだのは、「わたくしをいっしょうあかるくするため」つまり、他人を幸せにするためだと気がつき、感謝しています。

兄も妹も、法華経の教えにそった生き方をしたいとの思いが、「永訣の朝」からは感じられます。

続きます

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映画「この世界の片隅に」を見ました。

2017年02月06日 | 平和の祈り

映画「この世界の片隅に」を遅ればせながら見てきました。

いい映画との評判をよく耳にするし、キネマ旬報の年間第1位に選ばれたし、これは見ておかなくてはと思って見に行きました。

戦争の悲惨さ、愚かさ、冷酷さを描く映画だけれど、主人公はじめ、その日その日をけなげに明るく、時には笑い合って生きようとする人々に救われる映画だと聞いていました。

その通りでした。
しかし、やっぱり見ていてつらい映画でした。それは、どう描いても戦争という現実がつらい、そこから目を背けることができなかったからです。

(ここから先は、いわゆるネタバレになります。)

 

映画は、子ども時代の主人公が広島市内の繁華街にお使いに行くところから始まります。

「中島本町に行ってくる。」というセリフがあり、商店が建ち並び、多くの人で賑わう町のようすが描かれます。川の向こうにはドーム屋根の産業奨励館の大きな建物も見えます。

BGMは「悲しくて悲しくてとてもやりきれない。」と歌っています。

産業奨励館は今の原爆ドーム。中島本町は今の平和記念公園。中島本町は、西国街道沿いにあって当時中国地方一の賑わいを見せた町でした。

しかし、一発の原爆で町はこの地上から消え失せました。建物も人も生活も一瞬で蒸発してしまいました。本当に何も残りませんでした。住む人も復興する人も消えてしまいました。住む人のなくなったこの場所は、今、広大な平和記念公園になっています。

冒頭のシーン、明るく賑やかな場面なのですが、つらい結末が待ち受けていることがわかっているだけに、悲しくて悲しくてやりきれない気持ちになりました。BGMもそっとそのことを暗示しています。

 

主人公のすずは、子どもの頃から絵を描くのが大好きで得意でした。絵を描くことはすずをつらい現実から救ってくれました。

しかし、嫁ぎ先の呉の空襲で時限式爆弾がすぐそばで炸裂し右手を失ってしまいます。かろうじて一命は取り留めたのですが、もう絵を描くことはできなくなりました。

それよりももっとつらいのは、その右手で握っていたのが、姪っ子晴美の手だったことでした。晴美は即死でした。もし、繋いでいたのが左手だったなら、下駄を脱ぎ捨てて裸足で逃げていたら、道端の板塀の向こうにとっさに隠れていたら・・・。悔やんでも悔やんでも、もうどうすることもできません。自分が代わりに死んでいたかった。すずは自分を責めました。

晴美は、夫周作の姉径子の娘でした。

径子は広島の時計店に嫁ぎ、夫婦で店を切り盛りします。息子と娘が生まれますが、好き合って結婚した夫は病死、建物疎開で店は強制的に取り壊され、下関に移住することになります。姑との折り合いも悪く、径子は離縁して実家に戻ってきます。息子は跡継ぎということで下関に連れて行かれてしまい、娘の晴美だけを連れて帰りました。

しかし、その晴美も上で書いたように空襲で死んでしまいます。

径子は、愛する夫、二人で営んできた時計店、息子、そして、娘の晴美と大切にしていたものすべてを失ってしまいます。

 

すずは、晴美を死なせてしまった罪悪感と、右手を失い、激しくなる空襲の中、婚家の足手まといにしかならないとの思いから、広島の実家に帰ろうとします。いよいよ出て行こうとしたその日、径子にかけられたことばで婚家に残ることを決心しますが、まさにその日、広島に原爆が投下され、すずは命拾いをします。

しかし、その原爆ですずの母も父も妹も亡くなってしまいます。兄は既に戦死していました。すずも、この戦争で多くを失ってしまいました。

 

この戦争で何百万という人々が命を落としました。すずも径子も命があったという点では幸いだったというべきかもしれませんが、彼女たちが味わった悲しさ過酷さは、現代の私たちの想像を超えたものだったに違いありません。

戦争の悲惨さ、愚かしさを直接的に描くのではなく、世界の片隅で、希望と笑いを忘れず、一日一日をひたむきに、懸命に生きる人々の姿を描いたこの映画は、私たちに生きることの素晴らしさと平和のありがたさを教えてくれます。

それとともに、同じ過ちは繰り返してはいけないとあらためて思いました。

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かつて私が広島平和記念公園について書いた記事

 


熱田神宮 神々の宝物展

2017年01月24日 | 平和の祈り

熱田神宮に行ってきました。

1月も二十日過ぎでしたが、たいした人出でした。さすがは熱田神宮です。

宝物館では「日本の聖地~神々の宝物」展が開催されていました。それが見たくて出掛けたようなものです。

展示の目玉は、平家納経とそれが収められている箱です。

箱は、金銀荘雲竜文(きんぎんそううんりゅうもん)銅製経箱といって、漆塗りの木工品のように見えますが、銅を鍛造したものだそうです。箱の表面には雲と八体の龍が金と銀を使って浮き彫りにされています。

 

日蓮宗の各寺院では、法華経を上のような箱に収めています。

経箱の中には、法華経の一部八巻二十八品が収められています。

 

平家納経を納めた箱は、重箱のように四段になっていて、各段に8巻くらいずつ、合計33巻が収められているようです。

数年前のNHK大河ドラマ「平清盛」では、劇中で平家納経を制作する場面があり、そのための小道具としてこの経箱のレプリカが制作され使われたそうです。

この展覧会のポスターにも、この経箱の上面に描かれた龍と多宝塔が使われていました。

展覧会では、平家納経のうち、妙法蓮華経勧持品第十三と妙法蓮華経薬王菩薩本事品第二十三が展示されていました。

薬王菩薩本事品の見返り部分には、阿弥陀如来を見上げる女性が描かれていますが、よく見るとその絵の中に「此命終」「即」「生」「安楽世界」などの文字が書き込まれています。

 

薬王菩薩本事品には


 若(も)し如来の滅後の後五百歳の中に、若し女人あって是(こ)の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終(みょうじゅう)して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞(いにょう)せる住処(じゅうしょ)に往(ゆ)いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。

(もし、仏さまがお隠れになった後の世に生まれた女人が、この法華経を聞いて教えのとおり修行すれば、命が終わるとすぐに安楽世界の阿弥陀仏のもとに行き、多くの仏たちに取り囲まれて、蓮の花の上に生まれ変わるだろう。)

と説かれている部分があります。

その「於此命終 即往安楽世界 阿弥陀仏」の文字が書き込まれているのです。

女性は成仏できないとされていた時代に、法華経だけは女人成仏を説き(もちろん女人だけでなく、すべての人が仏になれると説かれています)、多くの人に信奉されました。人々は競うように法華経を書写し、美しく飾り立て、神社に奉納しました。

平家納経も、平清盛が平家一門の繁栄を祈願して厳島神社に奉納されたものです。書き込まれた文字には、当時の人々の切実な願いが込められています。

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今日は一宮空襲のあった日です。

2016年07月28日 | 平和の祈り

今日7月28日は、一宮市が2度めの空襲を受け、市街地の80%が灰燼に帰し、700名余りの罪のない一般市民が犠牲になった日です。

一宮市内大乗公園にある戦没者慰霊碑前で、早朝6時、読経供養してきました。

一面の蝉時雨でしたが、蝉の声に自分の読経の声が溶け込んで、包み込まれるような気持ちで読経することができました。

一宮空襲について、詳しいことは昨年書きました。27年7月28日のブログ

戦争の悲惨さ、むごたらしさを人々が忘れ、昨年よりもさらに、戦争の危機が近づいてきているように思います。

世界のどこの国でも、人が殺し合うようなできごとは、あってほしくありません。

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オバマ大統領が広島を訪問しました。

2016年05月28日 | 平和の祈り

オバマ大統領が広島を訪問しました。

オバマ大統領は、就任直後の2009年プラハで演説し、核兵器のない世界を目指す決意を表明しました。

そして、任期を終えようとしている今、広島を訪れて、あらためて核保有国こそが核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはならないと演説しました。

自分の信念を貫き、広島訪問を実現したことは、大変勇気ある行動だと思います。

 

オバマ大統領は、演説の中でこう述べています。

「だからこそわれわれはこの地に来た。この街の中心に立ち、爆弾が投下されたときの瞬間について考えることを自らに強いる。惨禍を目にした子供たちの恐怖を感じることを自らに課す。

That is why we come to this place. We stand here in the middle of this city and force ourselves to imagine the moment the bomb fell. We force ourselves to feel the dread of children confused by what they see.」

私が、この演説を素晴らしいと思うのは、オバマ氏が戦争がもたらす一人一人の人間の痛み、苦しみに思いを巡らそうとしている点です。

戦争を遂行する立場にある為政者は、戦争の「大義」にのみ目を向けてしまいます。ミサイルを発射したり爆弾を投下したりする兵士は、自分の行為によって、どんな悲惨な光景が広がるのか、考えないようにしています。戦争は悲惨で苦しく痛ましく救いようのない行為だと、当事者こそが一番よく知っているからこそ、敢えて目を背け、思い巡らさないようにしていないと、戦争遂行はできないのです。

 米国大統領が爆心地に立ち、71年前に起こったことに思いを巡らす。世界を導くべき地位にいる人物が、人の痛み苦しみに思いを巡らす。

儒教では仁といい、仏教では慈悲といいます。素晴らしいと思います。

 

「思いを巡らす」英文では「imagine」です。John Lennonが45年も前に「世界は一つになれる」と歌ったことを思い出しました。

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広島平和公園のさまざまな慰霊碑

2016年01月19日 | 平和の祈り

昨年3月に続いて、広島平和記念公園に行きました。

原爆死没者慰霊碑。まずここで手を合わせ、過ちは2度と繰り返しません、と祈りました。

平和記念公園とその近辺には、さまざまな慰霊碑があります。今回はそれを丹念に回り、手を合わせました。それぞれの慰霊碑にそれぞれの悲しい物語が付随しています。

平和記念公園の北の方、平和の鐘の西側にある原爆供養塔です。ストゥーパのような土盛です。

爆心地に近いこの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれ、荼毘にふされたといいます。土盛の中には、身元の分からない遺骨約7万柱が収められています。供養塔の前は広場になっていて、毎年8月6日にはさまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれているそうです。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑です。原爆供養塔の南側にあります。

強制連行や徴用によって多くの朝鮮半島の人々が日本で働かされ、広島で2万人を超える方々が原爆の犠牲になったといいます。

平和の観音像です。韓国人慰霊碑の南、平和公園内を横切る道沿いにあります。

現在の平和公園一帯は、江戸時代からの繁華街で中島本町と呼ばれていました。現在、平和公園内を東西に横切る道路は、かつて京都と下関を結んだ西国街道で、通り沿いには銀行、呉服店、映画館などが立ち並んでいたそうです。しかし、原爆投下によって町は一瞬にして廃墟となり、住民のほとんどが犠牲になったといいます。この観音像は、奇跡的に生き残った住民の方と有志の方が、建立したということです。

広島二中原爆慰霊碑です。本川沿い、本川橋を少し下ったところにあります。

中島本町で建物疎開作業に従事していた広島二中の生徒と職員は、本川河岸に整列して訓示中に被爆し、ほとんどが即死、その多くは遺骨の判別も、拾い集めもできない状況だったといいます。慰霊碑の背面に犠牲となった350名余の生徒、職員の名前が刻まれています。

広島市商・造船工業学校慰霊碑です。本川沿い、二中の慰霊碑を少し下ったところにあります。

爆心地から500m、材木町(町は全滅し、現在は平和祈念公園の一部となっている)で建物疎開作業に出動していた200名余の生徒、職員全員が亡くなりました。爆心地に近く、遺骨もほとんど不明、わずかに弁当箱や焼け残った衣類が落ちているだけでした。
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑です。

「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」
正田篠枝(しょうだしのえ)さんの短歌が刻まれています。原爆の劫火の中で、教師を頼りながら死んでいった児童・生徒と、彼らを気遣いながら死んでいった教師の無念さを表現しています。
 国民学校は今の小学校です。国民学校の子ども約2000人、教師約200人が原爆の犠牲になったといいます。
 
この他にも紹介しきれないほど多くの子どもたちや、さまざまな仕事に携わっていた人たちの慰霊碑があります。
一人ひとりは、皆、明日の平和を信じて、ひたむきに誠実にその日その日を懸命に生きていました。それをすべて1発の爆弾が一瞬にして奪ってしまいました。過ちは二度と繰り返さないようにしなければなりません。
 
さて、今回広島を訪れたのは、大学時代に属していた男声合唱団の55周年記念演奏会があったからです。
私もステージに立ちました。
夜のレセプションも大盛況。懐かしい時を過ごしました。
平和が続くことは、ありがたいです。

今年こそ世界が平和な一年でありますように

2016年01月01日 | 平和の祈り

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

年末に大掃除、お供えをし、新しい年を迎える準備をしました。

天蓋などの荘厳(飾り)、燭台、香炉、前机や経机、床、畳、ガラス戸などあらゆる物を拭い、磨きます。

心の垢を落とし、清め、磨くことに繋がる行いであるように思いながら磨きます。

1年の無事に感謝し、翌年の無事を祈って、餅、野菜、果物、昆布、清酒などの海山の幸をお供えをします。

大晦日には、除夜の鐘をつくのですが、(残念ながら当山には戦時中に供出して以来、ありません)人の煩悩の数だけ、つまり、百八ツついて、少しでも心を清らかにして新年を迎えようということです。 

煩悩の中でも、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の3つは、三毒と呼んでいます。人の心の中にあって、誰もがとらわれやすく、また、消し去るのが難しいものです。貪は「むさぼり」。心の中に欲望が次から次から湧いてくることです。瞋は「怒り、憎しみ」。怒りは他人に対して湧いてくるものですが、怒りの湧いてくる源は、自分の心の中にあります。癡は「おろか」。自分中心のものの見方しかできず、他人の立場、他人の心情、世の中の道理などを理解できないで苦しむことです。

こうして考えると、苦しみは自分の心から湧いてくるものなんだと思います。仏さまに手を合わせて、感謝し、己を振り返り、心を磨く。これに勝る幸せへの道はないと思います。

世界には、欲望、憎しみ、愚行蛮行が絶えません。今年こそ平和な一年でありますように。

1月3日午後1時より、新年祈祷会を勤修します。当山に伝わる鬼子母神様をご開帳して、修法師による祈祷とお札の授与があります。ご家族お揃いでどうぞご参詣ください。

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イスラム教とキリスト教の対立に日本が首を突っ込む必要はありません。

2015年11月15日 | 平和の祈り

パリで大規模なテロがありました。恐ろしい出来事です。

オランド仏大統領はISによる犯行と断定しました。

オバマ米大統領は「全人類と普遍的価値への攻撃だ」と言い、

安倍首相は「いかなる理由があろうともテロは許されない。断固、非難する。フランスをはじめ国際社会と連携していく。」と言いました。

オバマ氏も安倍氏も「全人類が普遍的な価値を共有する国際社会(善)」と「人類の平和を脅かす過激派テロ組織(悪)」という図式で捉えようとしています。そう捉えることで、過去に目を向けることなく、現在のテロという行為だけを非難することができるからです。

ものごとは、多面的に捉えなければなりません。

世界には、さまざまな人々が住み、さまざまな宗教や価値観、生き方、暮らし方があります。20世紀以降アメリカやヨーロッパで発展した政治や経済のしくみ、あるいは生活様式が、日本も含め世界の多くの国々に広がってはいますが、人類全体の普遍的価値とは言えないはずです。アメリカやヨーロッパとは違う、世界中のいろいろな宗教や価値観、生き方、暮らし方が尊重されていいはずです。

また、現在があるのは、過去のさまざまな出来事があったからです。

アメリカやヨーロッパの人々にとっては、価値や意義のあること(善)であっても、世界中のいろいろな人々にとっては許しがたい、絶対的な悪でしかなかった出来事が数多くありました。アメリカ大陸の先住民を殺して土地を奪い取ったこと、アフリカ大陸の人々1000万人以上をアメリカに運び奴隷としたこと、アフリカ、アジアの国々を植民地支配したこと、まだまだ多くの例をあげることもできますが、これらの出来事は、その時代においては、ヨーロッパ人にとっては価値や意義のあることとしてとらえられていました。日本に原爆を投下し無差別大量殺戮を行ったことが、歴史的意義のあることだという考えは今でもアメリカ人の中にあります。

イスラム圏の人々にとって、古くは十字軍、近くは、第一次大戦での英の三枚舌外交、イスラエル建国、もう少し近くではイラク戦争。許しがたい出来事であったはずです。

武力攻撃に対して武力で対抗する。いつまでたっても終わりはありません。

安倍首相には「いかなる理由があろうともテロは許されない。断固、非難する。それと同様に、いかなる理由があろうとも空爆は許されない。フランスをはじめ国際社会に平和的解決を訴えていく。」と言って欲しいものです。

 

仏教では、仏は一人ではなく、誰もが仏になれます。また、世界は一つではなく、いろいろな世界があります。この曼荼羅のように、いろいろな仏たちがいろいろな世界で調和し、共存しています。

世界がこのような世界であったらと思います。

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宮内庁から玉音放送の原盤が公開されました。

2015年08月04日 | 平和の祈り

今年は戦後70年にあたります。8月1日に宮内庁から、玉音放送の原盤をはじめ、先の大戦関係の貴重な資料が公開されました。

玉音放送用録音原盤

(写真は、宮内庁HPより)

 

宮内庁のHPでは、玉音放送原盤の写真だけでなく、音声や読み上げられた「大東亜戦争終結に関する詔書」の文章も公開されています。

「当庁が管理する先の大戦関係の資料の公表について」宮内庁HP

天皇陛下は、今年の新年にあたり、次のように感想を述べられました。

  「昨年は大雪や大雨,さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ,家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。

 また,東日本大震災からは4度目の冬になり,放射能汚染により,かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時,それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ,地域を守っていくことが,いかに重要かということを感じています。

 本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。

 この1年が,我が国の人々,そして世界の人々にとり,幸せな年となることを心より祈ります。」

 

 「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。」

今、この国を動かしている国会議員や国務大臣こそがこのお言葉を噛み締めてもらいたいものです。

天皇陛下は、戦後50年の折には、硫黄島、長崎、広島、沖縄、東京。60年の折にはサイパン。昨年は、沖縄、長崎、広島。そして、戦後70年にあたる今年4月には、パラオを慰霊のために訪ねられました。たってのご希望でご高齢とご病気をおしてお出掛けになったそうです。頭が下がる思いです。

サイパン島ご出発にあたっての陛下のお言葉の一節です。

「この度,海外の地において,改めて,先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し,遺族の歩んできた苦難の道をしのび,世界の平和を祈りたいと思います。」

天皇陛下が、ご生涯をかけて慰霊の旅を続けられることに、私は、陛下の「二度と戦争を起こしてはいけない」という強いご意志があるように感じます。

「二度と戦争を起こしてはいけない。」私たち国民も、そう思っています。

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一宮空襲から70年になります。

2015年07月28日 | 平和の祈り

戦争という過ちを二度と繰り返さないことが、犠牲者の一番の供養です。

今日7月28日は、一宮市が2度めの空襲を受け、市街地の80%が灰燼に帰し、700名余りの罪のない一般市民が犠牲になった日です。

朝6時、大乗公園にある空襲殉難碑前で、法華経読誦、唱題し、供養いたしました。

 一宮は、昭和20年7月、二回にわたり大きな空襲を受けました。12日深夜から翌日未明にかけて、葉栗・西成地区と今伊勢地区が空襲を受け、さらに28日午後10時頃には、B29約260機が市上空に侵入し、油脂焼夷弾の波状攻撃を行いました。市内全域はまたたく間に火の海と化し、うめき苦しむ声がこだまし、さながら生き地獄のような光景が瞬時にして出現したのでした。攻撃は翌午前二時頃まで繰り返され、その火は三日三晩燃え続けたといいます。

 二回の空襲により、市内全戸の83%にあたる10468戸が焼け、市人口の71%にあたる2万1千27名が焼け出されました。死者727名を出し、市街地の80%が灰塵に帰したのです。


 市内の大乗公園には、一宮空襲殉難慰霊碑があり、次のような文が刻まれています。

【表】祈【裏】こゝ空爆の被爆の中心地をえらび昭和二十年七月十二日と七月二十八日の二回の大空襲によつて尊い犠牲となられた罪なき市民の御霊七百余程の安らかなごめい福をお祈りし平和をまもるためにこの碑を建立する 昭和三十三年七月二十八日  一宮市長

 昭和20年7月28日夜の空襲で心證寺もすべて焼き尽くされ、当時の住職は、奥様、五人のお子さんとともに、境内にあった防空壕の中で亡くなりました。現在、当山境内には、住職はじめご家族七人を一緒にお納めする墓があり、今朝はその墓前でも読経し、供養をいたしました。

 

 今年で戦後70年を迎えます。この碑文にあるように、戦争が終わって私たちは、戦争という過ちを二度と繰り返さない、平和な世の中を築いていくと誓いました。しかし、時代が過ぎるとともにだんだんとその誓いを忘れ去ってしまう人も現れるようになりました。


 昭和21年に制定された日本国憲法を読むと、前文にまずこう書いてあります。
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」


「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」この憲法を定めたのだということが真っ先に書いてあります。
 再び戦争を起こさないこと、それが私たちの一番の願いであり、戦争で犠牲になった方々の霊をお慰めする一番の方法だと思います。

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日本国憲法を改めて読んだ

2015年05月17日 | 平和の祈り

日本国憲法を読み始めると、まずこう書いてあります。

 

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(前文)


「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」この憲法を定めたのだということが真っ先に書いてあります。

 

そして、この憲法の最後(補則の前)には、

 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。(第九十九条)

大臣や国会議員は、この憲法を尊重し擁護する義務があると定めています。

「憲法解釈」の変更によって、憲法の精神をないがしろにすることは、許されないことです。

 

そして、第九条です。

第二章 戦争の放棄
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

国と国のもめごとを解決するために、戦争はもちろん、「われわれと戦っても勝ち目はないぞ」と武器や兵員を動かす姿勢を見せることも放棄すると書いてあります。そのために、戦力は持たない、他国とは戦わないと書いてあります。

これだけはっきり憲法に書いてあるのに、憲法を擁護し尊重すべき大臣や国会議員が、
「憲法解釈」を変えて、国際紛争を解決する手段として、武力を行使し、場合によっては他国と交戦できるようにしようとしています。

 この国の行方は国民が決める、つまり、主権は国民にあるのですから、国際情勢が変化して日本国憲法が想定していない事態が起こるようになったとしたら、憲法改正を国民に問うことが、憲法を尊重することではないでしょうか。

第九章 改正
第九十六条  この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

憲法が定めるように、国民の選んだ国会議員の三分の二が賛成し、国民投票で過半数が得られたのなら、それが民意であり、この国の将来の行方を決めるものとして、尊重すべきことだと思います。

その手続をしないで、憲法を恣意的に解釈して、国民の意を問うことなく国を動かそうとすることは、許されることではないと思います。

もちろん私は、戦争は決してしてはならないと思っています。

また、経済的繁栄をもたらす政府を国民の過半数が支持したとしても、国民の過半数が、戦争を許すことはないと思っています。

日本国憲法

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広島に行きました。

2015年03月30日 | 平和の祈り

広島に行きました。暖かな日ざしで、桜も一気に開き始めました。広島は私が学生時代を過ごした街です。

広島に行くと、必ずここに手を合わせにきます。平和祈念公園の原爆犠牲者慰霊碑です。

 

一瞬にして命を奪われた人、苦しみもだえながら死んでいった人、何十年も苦しみ続けた人、すべて20万以上の人々が、犠牲になりました。

人生の途中で、無残に命を奪われた人たちのことを思うと、涙がこぼれます。

 

この慰霊碑の前に初めて立ったのは、高校生の修学旅行の時でした。大学生のころも何度となく足を運びましたが、目頭が熱くなるようなことはありませんでした。原爆の悲惨さが、知識でしかなかったのかもしれません。

ありがたいことに、私は、こうして50年以上も幸せに暮らしてきました。

人生を振り返ることができる歳になって、若いころと同じ場所に立ち、同じ平和がずっと続いている。自分もこうして無事に人生を歩いて来られた。

私の子どもたちも、そろそろ手を離れて、それぞれの人生がこれから始まろうとしている。ずっとこの平和が続いてほしいと願う。

 

ここに立つことで自分を振り返り、確かめることができる、自分にとってはそんな場所でもあります。

それと同時に、ある程度、人生を歩いてきたことで、人生の途中で、無残に命を奪われた人たちの悲しみが、実感として胸を打つようになったのだと思います。

 

碑文には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と書かれています。

この文には、主語がありません。原爆投下の責任の所在が曖昧になっている、という指摘があるそうです。

戦争には、正義も悪もありません。戦争自体が最も愚かな行為です。

世界中のだれもが、ここに立って二度とこの過ちを繰り返さないという思いを持ってほしいものです。


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