心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

天竜八部衆とヒンドゥー教

2016年06月28日 | 法華経

前回の記事「アンコールワットへのみち展」で、仏教とヒンドゥー教のことを少し書きました。

今日は、八部衆について、もう少し詳しく(できれば、わかりやすく)書こうと思います。

教王護国寺(三十三間堂)の迦楼羅(かるら)像です。ヒンドゥー教の神、ガルーダと同起源と考えられます。

仏教には、ヒンドゥー教(バラモン教)と同起源の神々がたくさん出てきます。どうしてでしょうか。

お釈迦さまの時代、インド地方(当時インドという概念はなかったですが、便宜的に)には、すでに独自の宗教観があり、さまざまな神様の存在が信じられていました。(そのころの宗教をバラモン教と呼んでいます。現在のヒンドゥー教につながっています。)

お釈迦さまが悟りを開かれ、各地でさまざまな説法をなさっているとき、お釈迦さまの弟子や信徒をはじめ、じつに多くの者たちが聴聞していました。その中には人ではないもの、つまり動物や鬼神の姿で、時には人に災いを招くような不思議な力を持ったインド古来の神々も交じっていました。

お釈迦さまが法華経をお説きになっているとき、つねに聴聞していた神々は、

天・・・梵天(ブラフマー)、帝釈天(インドラ)、四天王、自在天など

竜・・・ヒンドゥー教では、ナーガという蛇神。法華経には、八人の竜王が登場します。

夜叉(やしゃ)・・・バラモン教ではヤクシャ。人を食らうこともある鬼神です。

乾闥婆(けんだつば)・・・ガンダルバ。半神半獣で美しい音楽を奏でます。

阿修羅(あしゅら)・・・アスラ。生命生気の善神。

迦楼羅(かるら)・・・ガルーダ。人の体に嘴、翼、爪を持つ。

緊那羅(きんなら)・・・キンナラ。音楽神。

摩睺羅伽(まごらが)・・・マホーラガ。大蛇の神。

の8種類です。その者たちを天竜八部衆と呼んでいます。

八部衆は、8人(8頭)ではなく、たとえば、迦楼羅(かるら)には、大威徳迦楼羅王、大身迦楼羅王、大満迦楼羅王、如意迦楼羅王の4人の王があり、それぞれがまた数千人の家来を連れて来ていたので、聴聞していた者の数は、膨大なものでした。

法華経の中には、この八部衆がそろってお釈迦さまの説法を聴聞している場面が10回ほど出てきます。

インド古来の神々は、お釈迦さまの説法を聞き、心からお釈迦樣に従い、これからはお釈迦さまの身をお守りしましょうと誓います。つまり、仏教の守り神となったのです。

仏教以前のインド古来の宗教を、バラモン(祭司階級)中心の宗教という意味で、バラモン教と呼んでいますが、広く大衆を救う教えである仏教が生まれ、盛んになってくると、バラモン教は、土着の信仰も取り入れた民衆宗教へと形を変えていきます。多くの神々が存在し、さまざまな信仰形態を持つヒンドゥー教が生まれていくのです。

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アンコールワットへのみち展

2016年06月20日 | 仏教全般

「アンコールワットのみち」展に行ってきました。(仏像神像の画像は名古屋市博物館のHPよりお借りしました)

9世紀ごろから15世紀ごろにかけてカンボジアの内陸部にアンコール王朝が栄えます。

その最盛期、12世紀くらいにアンコールワット寺院は造営されたそうです。

この展覧会は、「アンコールワットへのみち」と題されて、アンコール王朝成立以前の石像も数多く展示されていました。

会場は、名古屋市博物館。

アンコールワットは、ヒンドゥー教の寺院として建設されたそうですが、王様の代が変わると仏教寺院に作り替えられたり、またヒンドゥー教寺院に戻されたりしたそうです。

ヒンドゥー教は、多神教でたくさんの神々が存在します。また仏教に取り込まれたヒンドゥー教の神もあります。

ブラフマーです。四つの顔と四本の腕を持ちます。世界を創造した神とされています。仏教では梵天といいます。

お釈迦様が悟りを開いたとき、ブラフマーが悟りの内容をぜひ人々に教え聞かせてほしいと強く願い、お釈迦様は説法を始めたといいます。

「ナーガ上の釈迦」 ナーガとは、蛇の姿をした神で水辺に住み、雨を降らせたり、干ばつを引き起こしたり天候をつかさどるといいます。

お釈迦様が悟りをお開きになるとき、ナーガが守護したといいます。この像はその姿を現しています。

ナーガは仏典が漢訳されるとき「竜」と訳されました。天候をつかさどり、水辺に住んで霊力を持つ、まさに竜ですね。

法華経には八大竜王や天竜八部衆として登場します。八部衆の多くは、ヒンドゥー教の神が仏教に取り入れられた(インド古来の神が釈迦に帰依するようになった)ものです。

プラジュナーパーラミターという女神です。豊かな胸に口角の上がったほほえみ。髪を高く結い上げています。

頭上に化仏があるのは、日本の菩薩像と同じです。

「プラジュナーパーラミター」、漢字で書くと「般若波羅蜜多」。「知恵によって悟りの境地に至る」という意味ですが、この女神と大乗仏教がどうつながっているのでしょうか。残念ながら私は不勉強でよく知りません。

アンコールワット寺院が造立されたのは12世紀頃、日本でいえば平安時代にあたります。同時代のものでありながら、両者の仏像神像はずいぶん違っています。顔の表情とか、体つきとか、髪の結い上げ方とか、アンコールワットの仏像神像は、生身の人間に近く、日本の仏像は、人間とはちがう理想的、象徴的なお姿をしていると思います。

もとは同じ種であっても、根付いた土地によって、違う色の花が咲く。それでいいと思います。日本の仏教も日本に根付き、日本古来の信仰と結びついて日本ならではの仏教文化となっています。

ヒンドゥーということばは、インドとか、インダスとかと同語源で、ヨーロッパ人から見たインダス川の東側の地域を指した言葉です。現在のインドだけでなく、東南アジア、東アジア全体を指すこともあります。世界史で「東インド会社」というのを習った記憶があります。オランダの東インド会社は日本にもやってきて、当時鎖国していた日本の唯一の貿易相手でした。日本も東インドだったわけです。

ヒンドゥー教という宗教も、幅の広い緩やかなくくりの中にあります。お釈迦様以前のバラモン教も、お釈迦様の教えも広い意味でのヒンドゥー教に含まれることもあります。

ガネーシャ。破壊の神シヴァの息子です。あるとき、父シヴァが誤解から激怒し、ガネーシャの首を切って投げ捨ててしまいます。あとで息子だったと知ったシヴァが首を探しますが、見つけることができず、通りかかった象の首を切って取り付けたのでこの姿になったといいます。日本の仏教では、歓喜天として信仰されています。

ガネーシャの父シヴァは仏教では、大自在天といわれます。妻のパールヴァティーとともに、降三世明王に踏みつけられています。

(東寺の降三世明王)

密教の教えでは、降三世明王は、大日如来に遣わされて、バラモン教の神を降伏させ、仏教に改心させたといいます。

シヴァ神は、仏教では大自在天、または大黒天(暗黒の大王)と呼ばれています。

大黒天は、日本に来ると大国主(おおくにぬし)と結びつき、米俵に乗り頭巾をかぶった姿の大黒天となり、独自の信仰を集めています。

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谷川俊太郎の講演会

2016年06月11日 | 日記

先日、詩人の谷川俊太郎の講演会に行ってきました。

何かと不安の多い今日この頃、「安らぐということ」という演題でした。

会場は愛知県立大学。

この講演会のために、「とんでもないこと」という新しい詩を書いてくれていました。

講演会と名付けられていましたが、谷川俊太郎さんが一人でお話になるのではなく、愛知県立大学国文学科の教授と対談形式で行われました。

これは、「ことばは、対話。一方通行は苦手」という谷川さんのご希望によるものです。

お釈迦様もさまざまな教えをお説きになるとき、弟子たちとの対話によってお説きになっていますね。

 

谷川さんには、ひらがなばかりの詩も多いのですが、それは、ひらがな=やまとことばは、くらしに根付いた体から自然に出てくるものだからだそうです

谷川さんの詩を読んでいると、作られているのは一つの入れ物で、読む人がその中に入って自分なりのストーリーを展開できる、そういう作品だと思います。

だからこそ、多くの人が自分自身のこととして共感できるのだと思います。

 

また、詩の中にでてくる「私」「僕」は決して自分自身のことではなく、自分から離れたフィクションなのだそうです。一つの物事を自分一人の目ではなく、自己をさまざまに分裂させ、多様な立場、視点から多元的にとらえようとしているとのことでした。

一人の神がいて、一つの真実がある、そういう西洋の考え方とは相容れない詩人だと思いました。

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愛犬の公園デビュー

2016年06月05日 | 日記

愛犬の「さくら」です。2月生まれ、4月初めにうちにやってきて、ふた月が経ちました。順調に大きくなって、ワクチン接種も済んで、今日初めて公園に連れ出しました。

午前中は雨でしたが、午後は青空が広がり、さわやかなお散歩日和となりました。

行き先は、光明寺公園。木曽川の堤防に沿って、芝生が広がっています。

さくらにとっては、鳥の声も、花に集まる虫も、ジョギングする人も、サイクリングの自転車も初めてのものばかり。すべてが目新しく、気が散ってあまり散歩のしつけにはなりませんでしたが、とても喜んでくれて、お出掛けが嫌いになることはなさそうで、まあいいかという感じです。

初夏らしく、アザミの花がきれいに咲いていました。

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三河国八橋のかきつばた 5

2016年06月04日 | 日記

「三河国八橋のかきつばた」最終章です。

今から1100年前、伊勢物語が書かれて以来、三河国八橋は多くの教養人を魅了し続け、日記、紀行文をはじめ、能、絵画、工芸、織物など様々な分野で定番のモチーフとなりました。

尾形光琳筆八橋図

 

その大元となった「伊勢物語」東下りの段をもう一度見てみます。

 みかはの国八橋といふ所にいたりぬ。

 そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。
 
 その沢のほとりの木の陰におりゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。  

 それを見て、ある人のいはく、「かきつばた、といふ五文字を句の上(かみ)に据(す)ゑて、旅の心を詠め。」といひければ、よめる。

  からごろも(唐衣) きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ

 と詠めりければ、みな人、乾飯の上に涙落としてほとびにけり。

 

八橋の地名の由来が、「川が蜘蛛の足のように流れているので、橋を八つ渡したことから八橋というのだそうだ」と書かれています。

では、在原業平一行が八橋にたどり着いたとき、本当に川が蜘蛛手になって、橋が八つ渡されていたのでしょうか。

伊勢物語よりも、さらに古いとされる「古今和歌集」にも、伊勢物語にある在原業平の歌がすべて収録されています。八橋で詠まれたこの「からころも」の歌にも、物語風の詳細な詞書きがついています。

  三河の国八橋といふ所にいたりけるに、その川のほとりにかきつばたいとおもしろく咲けりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふ五文字を句のかしらにすゑて旅の心をよまむとてよめる

これを見ると、伊勢物語の記述とほとんど違いがないことがわかりますが、「八橋の地名の由来」については、書かれてはいません。

もしかすると、、「川が蜘蛛手になって、橋が八つ渡してあった」というのは、実景ではなくて、伊勢物語が編集されたときに、地名の由来が書き加えられたのかもしれません。

 

「八橋の地名の由来」について、地元には一つの伝説が残っています。 知立市HP「八橋の地名のおこり」

川の流れに二人の子どもを亡くした母親が、観音様のお告げにより、八枚の板を互い違いに渡すことで橋を架けることができ、それ以来、村人も安心して川を渡ることができるようになったという話です。

承和九年(八四二)五月のことといいますから、ちょうど業平の若い頃にあたります。

知立市のHPにあるこの話は、伊勢物語の記述にずいぶん合わせて書いてあるなという印象があり、後世の脚色が多いようにも思いますが、亡くなった二人の子どもの供養塔がある無量寿寺の説明板は,もう少しシンプルなものとなっています。

 

伊勢物語以降、かの名高い八橋をひと目見てみたいと多くの文人墨客が八橋を訪れ、そのようすを日記紀行文に記していますが、橋もなく、かきつばたもなく、がっかりしたというものがほとんどです。

業平は、みやび男、色好みのいちばんはじめ(元祖)として愛されてきました。風雅を好む人々の間で八橋のイメージは膨らんで、ついには、様式化された一つのモチーフとしてさまざまな分野で用いられるようになったのではないでしょうか。

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三河国八橋のかきつばた 4

2016年06月01日 | 日記

八つ橋のモチーフは絵画だけでなく、いろいろなものに描かれています。

茶碗とか

帯とか

京都銘菓の缶とか。

どれもに共通するのは、流水に「く」の字をつなぐように板橋を渡し、丸杭を打ち、橋の両側にかきつばたというものです。

このモチーフを元にして、造られた庭園もあちらこちらにあります。(写真は千葉県佐倉城址公園)

このモチーフが定着するのに一役買ったのは、琳派だと思われますが、それ以前からあったのかどうか、わかりません。

現存する伊勢物語絵巻の最も古いものは,和泉市久保惣記念美術館が所蔵する鎌倉時代のものだそうで、図書館で図鑑を見て調べてみました。

しかし、残念ながら八つ橋の場面は残っていませんでした。

ネットであれこれ調べているうちに、根津美術館で5月15日まで行われていた「国宝 燕子花図屏風展」に室町時代の伊勢物語絵巻が出展されていて、その写真がHPに掲載されているのを見つけました。根津美術館

それを見ると、江戸時代のものとはずいぶん趣を異にしますが、流水に「く」の字に曲がった板橋が架けてあり、両脇にかきつばたが咲いているところが描かれています。

また、國學院大學で平成24年に行われた「物語絵巻の世界 —國學院大學図書館所蔵作品を中心に—」において、上記とは別の室町時代の伊勢物語絵巻が出展されていました。國學院大學

それにもやはり、北斗七星のように連なった板橋が描かれています。

江戸時代以前の伊勢物語絵巻にも、板橋を連ねた八橋図は描かれているようです。

でも、在原業平が訪れた頃の「八橋」は、どのようなものだったのでしょうか。

その考察は、次回に。

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