昨年3月に続いて、広島平和記念公園に行きました。
原爆死没者慰霊碑。まずここで手を合わせ、過ちは2度と繰り返しません、と祈りました。
平和記念公園とその近辺には、さまざまな慰霊碑があります。今回はそれを丹念に回り、手を合わせました。それぞれの慰霊碑にそれぞれの悲しい物語が付随しています。
平和記念公園の北の方、平和の鐘の西側にある原爆供養塔です。ストゥーパのような土盛です。
爆心地に近いこの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれ、荼毘にふされたといいます。土盛の中には、身元の分からない遺骨約7万柱が収められています。供養塔の前は広場になっていて、毎年8月6日にはさまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれているそうです。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑です。原爆供養塔の南側にあります。
強制連行や徴用によって多くの朝鮮半島の人々が日本で働かされ、広島で2万人を超える方々が原爆の犠牲になったといいます。
平和の観音像です。韓国人慰霊碑の南、平和公園内を横切る道沿いにあります。
現在の平和公園一帯は、江戸時代からの繁華街で中島本町と呼ばれていました。現在、平和公園内を東西に横切る道路は、かつて京都と下関を結んだ西国街道で、通り沿いには銀行、呉服店、映画館などが立ち並んでいたそうです。しかし、原爆投下によって町は一瞬にして廃墟となり、住民のほとんどが犠牲になったといいます。この観音像は、奇跡的に生き残った住民の方と有志の方が、建立したということです。
広島二中原爆慰霊碑です。本川沿い、本川橋を少し下ったところにあります。
中島本町で建物疎開作業に従事していた広島二中の生徒と職員は、本川河岸に整列して訓示中に被爆し、ほとんどが即死、その多くは遺骨の判別も、拾い集めもできない状況だったといいます。慰霊碑の背面に犠牲となった350名余の生徒、職員の名前が刻まれています。
広島市商・造船工業学校慰霊碑です。本川沿い、二中の慰霊碑を少し下ったところにあります。
爆心地から500m、材木町(町は全滅し、現在は平和祈念公園の一部となっている)で建物疎開作業に出動していた200名余の生徒、職員全員が亡くなりました。爆心地に近く、遺骨もほとんど不明、わずかに弁当箱や焼け残った衣類が落ちているだけでした。
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑です。
「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」
正田篠枝(しょうだしのえ)さんの短歌が刻まれています。原爆の劫火の中で、教師を頼りながら死んでいった児童・生徒と、彼らを気遣いながら死んでいった教師の無念さを表現しています。
国民学校は今の小学校です。国民学校の子ども約2000人、教師約200人が原爆の犠牲になったといいます。
この他にも紹介しきれないほど多くの子どもたちや、さまざまな仕事に携わっていた人たちの慰霊碑があります。
一人ひとりは、皆、明日の平和を信じて、ひたむきに誠実にその日その日を懸命に生きていました。それをすべて1発の爆弾が一瞬にして奪ってしまいました。過ちは二度と繰り返さないようにしなければなりません。
さて、今回広島を訪れたのは、大学時代に属していた男声合唱団の55周年記念演奏会があったからです。
私もステージに立ちました。
夜のレセプションも大盛況。懐かしい時を過ごしました。
平和が続くことは、ありがたいです。