心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

衆人愛敬

2016年01月30日 | 法華経

先日、ある方の書かれた文章を読んでいると、「衆人愛敬は世阿弥の言葉で、・・・」という一節に出会いました。

あれっ?と思って、インターネット検索してみると、出るわ、出るわ。能楽の世界では「衆人愛敬は世阿弥の言葉」ということになっていて、インターネット記事のみならず、書籍になっていたり、大学の先生が論文を書いていたり。

もちろん、世阿弥は「風姿花伝」の中で「衆人愛敬」という言葉を用いて、立派な役者というのは、身分の高い一部の人だけに支持されるのではなく、広くさまざまな人々に愛されるようでなければならないと言っています。

しかし、「衆人愛敬」という言葉は、法華経の観世音菩薩普門品(観音経)に出てくる言葉です。

観阿弥、世阿弥、音阿弥と三代が「観世音」を名乗った流派ですので、観音様の信仰があり、観音経をよく理解していたことは想像に難くないところだと思います。

奈良時代から室町時代頃まで、日本の文化を担ってきた人々は、仏教をよく理解していました。ことさら学ぶまでもなく、仏教を理解していることがあたりまえで、生活の中で仏の教えを自然と身につけていたのだと思います。

ところが、現代の「文化人」には、残念ながら仏教の理解が乏しい人が多いように思います。

学校で学ぶ「古典」の教材も、ことさら仏教の要素を除いたものしか扱いません。

建築、彫刻、絵画、文学、思想。どの分野においても、日本の文化を理解する上で、仏教の知識を欠くことはできません。

仏の教えをもっともっと広めること。われわれ現代の僧侶に求められていることだと思います。 


広島平和公園のさまざまな慰霊碑

2016年01月19日 | 平和の祈り

昨年3月に続いて、広島平和記念公園に行きました。

原爆死没者慰霊碑。まずここで手を合わせ、過ちは2度と繰り返しません、と祈りました。

平和記念公園とその近辺には、さまざまな慰霊碑があります。今回はそれを丹念に回り、手を合わせました。それぞれの慰霊碑にそれぞれの悲しい物語が付随しています。

平和記念公園の北の方、平和の鐘の西側にある原爆供養塔です。ストゥーパのような土盛です。

爆心地に近いこの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれ、荼毘にふされたといいます。土盛の中には、身元の分からない遺骨約7万柱が収められています。供養塔の前は広場になっていて、毎年8月6日にはさまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれているそうです。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑です。原爆供養塔の南側にあります。

強制連行や徴用によって多くの朝鮮半島の人々が日本で働かされ、広島で2万人を超える方々が原爆の犠牲になったといいます。

平和の観音像です。韓国人慰霊碑の南、平和公園内を横切る道沿いにあります。

現在の平和公園一帯は、江戸時代からの繁華街で中島本町と呼ばれていました。現在、平和公園内を東西に横切る道路は、かつて京都と下関を結んだ西国街道で、通り沿いには銀行、呉服店、映画館などが立ち並んでいたそうです。しかし、原爆投下によって町は一瞬にして廃墟となり、住民のほとんどが犠牲になったといいます。この観音像は、奇跡的に生き残った住民の方と有志の方が、建立したということです。

広島二中原爆慰霊碑です。本川沿い、本川橋を少し下ったところにあります。

中島本町で建物疎開作業に従事していた広島二中の生徒と職員は、本川河岸に整列して訓示中に被爆し、ほとんどが即死、その多くは遺骨の判別も、拾い集めもできない状況だったといいます。慰霊碑の背面に犠牲となった350名余の生徒、職員の名前が刻まれています。

広島市商・造船工業学校慰霊碑です。本川沿い、二中の慰霊碑を少し下ったところにあります。

爆心地から500m、材木町(町は全滅し、現在は平和祈念公園の一部となっている)で建物疎開作業に出動していた200名余の生徒、職員全員が亡くなりました。爆心地に近く、遺骨もほとんど不明、わずかに弁当箱や焼け残った衣類が落ちているだけでした。
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑です。

「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」
正田篠枝(しょうだしのえ)さんの短歌が刻まれています。原爆の劫火の中で、教師を頼りながら死んでいった児童・生徒と、彼らを気遣いながら死んでいった教師の無念さを表現しています。
 国民学校は今の小学校です。国民学校の子ども約2000人、教師約200人が原爆の犠牲になったといいます。
 
この他にも紹介しきれないほど多くの子どもたちや、さまざまな仕事に携わっていた人たちの慰霊碑があります。
一人ひとりは、皆、明日の平和を信じて、ひたむきに誠実にその日その日を懸命に生きていました。それをすべて1発の爆弾が一瞬にして奪ってしまいました。過ちは二度と繰り返さないようにしなければなりません。
 
さて、今回広島を訪れたのは、大学時代に属していた男声合唱団の55周年記念演奏会があったからです。
私もステージに立ちました。
夜のレセプションも大盛況。懐かしい時を過ごしました。
平和が続くことは、ありがたいです。

春の足音 梅が開花しました。

2016年01月17日 | 自然の営み

今年は例年になく暖かで、昨日散歩に出て、公園の梅林で紅梅のつぼみが少し膨らんでいました。

白梅より、紅梅の方が早く膨らむのかなと思っていたところ、

白梅が一輪だけ開いているのを見つけてしまいました。

確実に春は近づいています。けれど、明日から寒くなって大雪になるところもあるそうです。

雪も雨も、自然の巡りなのですから、人の思惑通りというわけにはいかないものですね。

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高澤観音に行ってきました 2 (高澤古道)

2016年01月13日 | 仏像巡り

高澤観音の本堂裏から高沢山、大仏山、本城山へと登山道が伸びています。

林の中、明るい尾根道を歩きます。

見晴らしのいいところもあります。

所々に観音様が立っていらっしゃいます。

最初に見つけた観音様には「30番近江竹生島」と刻んでありました。

次が「29番若狭国松尾寺」とあります。西国三十三所巡りで、滝沢観音が終着点になっているようです。

順に辿って行けば1番まで遡れる!と思って歩いていきましたが、23番のところで登山道は分岐して、観音様の道は下へ、登山道は上へと分かれ、わたしは、かねてからの予定どおり大仏山方面の登山道に進みました。

大仏山の頂上ややに下少し開けたところがあり、一枚の石に中央に立山大権現、右に富士山大権現、左に白山大権現と刻まれたものが祀られていました。山岳信仰の名残であろう思いますが、今でも注連縄が取り替えられ、供物が置かれています。

先きほどの石仏の道は、どこかに「始まり」があって、1番の観音様が立っていらっしゃるはずです。

山歩きを終え、高澤観音に戻ってから、車で山の反対側に行ってみました。

下之保集落から県道80号を西へ、見坂峠を少し下ったところにありました。

高澤古道の入り口です。早速入ってみました。入ってすぐ、飯尾宗祇の歌碑があります。

更に進むと、ありました。観音様です。しかし、1番ではありませんでした。14番です。ということは、始まりは、この峠を更に下ったところということになります。この日の旅は、ここまで。

後日インターネットで調べてみると、ちゃんと1番から13番の石仏がどこにあるか調べている先人がいらっしゃいました。

峠の下、1番の観音様は樋ケ洞(ひがほら)という集落のさらに下、口野々という集落から始まっているそうです。昔、美濃市や郡上方面からは見坂峠を登り、尾根伝いに高澤観音に行ったようです。

高澤古道の三十三観音石仏すべてに、「為◯◯◯◯信女菩提 文化9年9月 願主 口野々◯◯氏」と刻まれています。願主のご子孫がいまでもその集落に住んでおられるそうです。

重い重い石仏を背負って、峠を登り、ある女性(おそらく母親でしょう)の菩提を一心に願って、一体一体建立していったというのは、大変な信仰心だとつくづく思いました。

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高澤観音に行って来ました 1

2016年01月06日 | 仏像巡り

高澤観音に行ってきました。岐阜県関市、合併前は武儀郡武儀町。

岐阜県下最古の寺といわれ、5世紀、当地の豪族が近郷に危害を及ぼす龍神を退散させ、祠を建立したのが始まりといいます。

でも、5世紀って、仏教公伝より、100年も前ですよね。日本古来の土着の信仰と伝来した仏教が融合し、発展してきたのだと思います。

本堂の裏は岩屋になっていて、往古は修験者が修行していたのだろうと思われます。

現在は、清水が湧き出ていて、霊水とされています。

山岳信仰が基になった寺院らしく、岩屋に張り付くように本堂が立てられています。

舞台造りの柱の組み方が京都清水寺に似ていることから、美濃清水と呼ばれているそうです。

多宝塔は国の重要文化財。北条政子が寄進したと伝えられています。

国中が干ばつに苦しんでいた時、北条政子の夢に龍神が現れ、「日龍峯寺の池に法華経を書写して供養して投げ入れれば、大雨がたちまち降るだろう」と告げた。北条政子がその通りにしたところ、たちまちに雨が降り、五穀が実り、人々は救われた。その御礼に北条政子が荒廃していた七堂伽藍を再興したとのこと。真言宗の寺院ですが、法華経の功徳は、すばらしい。

その後の戦乱で荒廃し、現在残っている建物のほとんどは江戸時代のものだそうです。

麓には立派な仁王門が。仁王様は、残念ながらかなり傷んでいました。

立派な寺院ですが、あちらこちら傷みが目立ちました。本堂では、今日は住職は留守にしていますと、ご住職のお母様が受付に座っていらっしゃいました。境内地が広く、建物も多くて、経済的にも人的にも維持管理が難しくなって来ているように思いました。

本堂で観音経を読み、少し多めにお賽銭を奉納してきました。

鐘楼に上がって鐘をつくことができました。今年一年、世界が平和でありますようにとの祈りをこめてつきました。

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暖かな新年、河津桜がもう咲いていました。

2016年01月05日 | 日記

暖かなお正月でした。

1月3日に尊神祭祈祷会を無事終え、片付けも終えて、翌4日の午後、暖かさに誘われ近くの公園に散歩に出かけました。

今年は暖かいのでもう紅梅が満開だと思って近づいて見ると、

梅ではなく、桜のようです。プレートを見ると、河津桜でした。

しかし、いくら河津桜でも、温暖な伊豆半島でさえ、見頃を迎えるのは例年2月だというのに、いくら何でも早すぎます。

心配になるほど、暖かな正月です。

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今年こそ世界が平和な一年でありますように

2016年01月01日 | 平和の祈り

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

年末に大掃除、お供えをし、新しい年を迎える準備をしました。

天蓋などの荘厳(飾り)、燭台、香炉、前机や経机、床、畳、ガラス戸などあらゆる物を拭い、磨きます。

心の垢を落とし、清め、磨くことに繋がる行いであるように思いながら磨きます。

1年の無事に感謝し、翌年の無事を祈って、餅、野菜、果物、昆布、清酒などの海山の幸をお供えをします。

大晦日には、除夜の鐘をつくのですが、(残念ながら当山には戦時中に供出して以来、ありません)人の煩悩の数だけ、つまり、百八ツついて、少しでも心を清らかにして新年を迎えようということです。 

煩悩の中でも、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の3つは、三毒と呼んでいます。人の心の中にあって、誰もがとらわれやすく、また、消し去るのが難しいものです。貪は「むさぼり」。心の中に欲望が次から次から湧いてくることです。瞋は「怒り、憎しみ」。怒りは他人に対して湧いてくるものですが、怒りの湧いてくる源は、自分の心の中にあります。癡は「おろか」。自分中心のものの見方しかできず、他人の立場、他人の心情、世の中の道理などを理解できないで苦しむことです。

こうして考えると、苦しみは自分の心から湧いてくるものなんだと思います。仏さまに手を合わせて、感謝し、己を振り返り、心を磨く。これに勝る幸せへの道はないと思います。

世界には、欲望、憎しみ、愚行蛮行が絶えません。今年こそ平和な一年でありますように。

1月3日午後1時より、新年祈祷会を勤修します。当山に伝わる鬼子母神様をご開帳して、修法師による祈祷とお札の授与があります。ご家族お揃いでどうぞご参詣ください。

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