心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

オバマ大統領が広島を訪問しました。

2016年05月28日 | 平和の祈り

オバマ大統領が広島を訪問しました。

オバマ大統領は、就任直後の2009年プラハで演説し、核兵器のない世界を目指す決意を表明しました。

そして、任期を終えようとしている今、広島を訪れて、あらためて核保有国こそが核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはならないと演説しました。

自分の信念を貫き、広島訪問を実現したことは、大変勇気ある行動だと思います。

 

オバマ大統領は、演説の中でこう述べています。

「だからこそわれわれはこの地に来た。この街の中心に立ち、爆弾が投下されたときの瞬間について考えることを自らに強いる。惨禍を目にした子供たちの恐怖を感じることを自らに課す。

That is why we come to this place. We stand here in the middle of this city and force ourselves to imagine the moment the bomb fell. We force ourselves to feel the dread of children confused by what they see.」

私が、この演説を素晴らしいと思うのは、オバマ氏が戦争がもたらす一人一人の人間の痛み、苦しみに思いを巡らそうとしている点です。

戦争を遂行する立場にある為政者は、戦争の「大義」にのみ目を向けてしまいます。ミサイルを発射したり爆弾を投下したりする兵士は、自分の行為によって、どんな悲惨な光景が広がるのか、考えないようにしています。戦争は悲惨で苦しく痛ましく救いようのない行為だと、当事者こそが一番よく知っているからこそ、敢えて目を背け、思い巡らさないようにしていないと、戦争遂行はできないのです。

 米国大統領が爆心地に立ち、71年前に起こったことに思いを巡らす。世界を導くべき地位にいる人物が、人の痛み苦しみに思いを巡らす。

儒教では仁といい、仏教では慈悲といいます。素晴らしいと思います。

 

「思いを巡らす」英文では「imagine」です。John Lennonが45年も前に「世界は一つになれる」と歌ったことを思い出しました。

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三河国八橋のかきつばた 3

2016年05月26日 | 日記

八橋図と言ってまず思い浮かぶのは

尾形光琳の「八ッ橋図屏風」(江戸時代)でしょう。

同じく尾形光琳の「八橋蒔絵硯箱」もよく知られています。

これは鈴木春信の浮世絵。(江戸時代)

これは前にも載せましたが、東京国立博物館が所蔵する「伊勢物語絵巻」。江戸時代の作品です。

これも前に載せましたが、京都銘菓西尾の八ッ橋、明治時代の包装紙。

ご存じ花札の図柄。

 

こうして並べてみると、八橋とかきつばたのイメージは、どれも同じであることがわかります。このイメージはいつごろ成立したのでしょうか。

 

伊勢物語ができて100年ほど後の一人の少女が、常陸国から京へ上る旅の様子を日記に記しています。有名な「更級日記」がそれです。

そこには「やつはしは名のみして、はしの方もなく、なにの見所もなし。」とあります。

さらに250年ほど後、鎌倉時代の中ごろ、一人の女性が尼となった晩年に善光寺や伊勢を詣でる途中、八橋に立ち寄っています。「とはずがたり」という日記です。

「八橋といふところに着きたれども、水行く川もなし。橋も見えぬさへ、友なきここちして

  われはなほ蜘蛛手にものを思へどもその八橋は跡だにもなし」

  

他にも、鎌倉・室町時代の旅日記で八橋のことが記されているものはいくつかありますが、どれも、「かの有名な八橋を一度この目で見てみたいと思ってやってきたが、橋も花も何もなくて、がっかりした」というものばかりです。

三河八橋の無量寿寺のかきつばた園は、江戸時代末期に作られたものだそうです。上の写真の庭園は、平成になって整備されたものです。

つまり、本家本元の三河八橋のかきつばた園も、「八橋とかきつばたのイメージ」に倣って、後世に作られたものということになります。

「八橋とかきつばた」のイメージは、江戸時代には、しっかり固定したものとなっています。いつごろ、だれが描いたのでしょうか。

現存する室町以前の「伊勢物語絵巻」に八橋の部分が残っていれば、どんな風に描かれているか、見てみたいものです。

どなたかご存じの方があれば、お教えください。

私が訪ねた当日、無量寿寺では、在原業平の法要が営まれていました。観音経を読誦していたので、一緒にお唱えしました。

(つづく)

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三河国八橋のかきつばた 2

2016年05月25日 | 日記

かきつばた園のある無量寿寺あたりは、八橋町という地名です。

旧鎌倉街道が通っています。

京都と鎌倉を結ぶ重要な街道として多くの旅人が行き来しました。
江戸時代になると、東海道が鳴海から岡崎へ行くのに都合のよい2kmほど西のルートを通るようになり、池鯉鮒(知立)に宿場ができます。


鎌倉街道を無量寿寺から10分ほど西へ歩くと、[在原寺」があります。

在原業平を弔うために建立したといわれています。

 

さらに西へ5分ほど行くと、名鉄三河線の踏切をはさんで「業平塚」と「根上がりの松」があります。

「業平塚」には、高さ1mほどの宝篋印塔が建ち、その形式から鎌倉末期頃の建立と推定されます。

「根上りの松」は根が2mほど持ち上がっていることから、そう呼ばれるようになったそうです。

安藤広重の「東海道名所図会」には、この「根上がりの松」と「業平塚」が描かれています。

手前が「根上がり松」、奥が「業平塚」です。現在は、両者の間を名鉄三河線が横切っています。

業平塚のある場所が、愛知県指定の「名勝八橋伝説地」になっています。

在原業平の旅した平安初期には、このあたりは湿地帯だったようですが、現在その面影はありません。

かきつばたも見ることはできませんでした。

用水路、排水路が整備され、豊かな農地が広がっています。

ちょうど「麦秋」といった趣でした。

(つづく) 

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三河国八橋のかきつばた 1

2016年05月23日 | 日記

伊勢物語の東下り(あづまくだり)で名高い、三河国八橋のかきつばたを見に行ってきました。

GWの頃から咲いていたようで、私が行ったときには、残念ながら、もうほとんどの花は終わってしまっていました。でも、こうしてきれいに咲いているところだけを切り取って写真にすれば、それなりに見えますね。

伊勢物語は、1100年ほど前に成立した日本最古の物語です。在原業平(ありわらのなりひら)をモデルに一人の雅(みやび)な男の生涯を描いています。

主人公は、許されぬ恋のため、京を離れ、わずかな従者とともに、あづまの国へと傷心の旅に出ます。途中、三河国八橋に至ります。水の流れが蜘蛛の足のように八筋に分かれ、八つの橋が架けてあるので八橋というのだそうだと聞きます。八橋の沢のほとりで、当時の携帯食「乾飯(かれいい)」を食べます。沢のほとりには、かきつばたが美しく咲いていました。旅の憂さを晴らすため、一行は「かきつばた」の五文字を句の頭に織り込んで、即興で歌を詠もうということになりました。主人公は都に残してきた恋しい女を思って歌を詠みます。

ら衣つつ慣れにししあればるばるきぬるをしぞ思ふ

(五七五七七それぞれの句の頭( 部)が「か・き・つ・は・た」になっています。)

誰もが都を思い出し、その歌に涙しない人はなかったと言います。

(その涙で「乾飯」は、ふやけてしまった(ほとびにけり)というオチがついていますが、私の母は、うどんやラーメンが水分を吸ってのびてしまうことを表すのに、今でも「ほとびる」という言葉を使います。)

かきつばた園は、無量寿寺という寺の境内にあり、かきつばた祭りで賑わっていました。

昔から描かれてきた、橋を八つ渡した様子を再現した庭園もありました。

京都の銘菓「八橋」も売られていました。

ここ八橋にちなんだ名だそうです。

(続きます)

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浅井星洲 猿の図

2016年05月04日 | 心證寺

3月16日付けのブログで、「浅井星洲筆塚」のことを書きました。

浅井星洲筆塚の新聞記事

浅井星洲は、江戸時代末の絵師で苅安賀村(現一宮市)の出身です。

戦国時代に尾張織田家の家老を務めた苅安賀城主浅井新八郎政貞の五代後裔、浅井七左衛門正貞によって心證寺は創建されました。

浅井星洲は、その浅井氏の子孫にあたります。心證寺にゆかりのある絵師です。

一宮博物館収蔵、浅井星洲「瀑布猿乃図」

 

新聞記事とこのHPを見てくださった方から、浅井星洲の猿の絵を譲っていただきました。 

親子の二匹の猿が渓谷を臨む岩の上に腰を下ろしている図です。

 表具がずいぶん傷んでいるので、やり直していただくことにしました。

出来上がってくるのは、半年以上先だとか。楽しみです。

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水の都大垣 芭蕉句碑めぐり 2

2016年05月01日 | 旅行

昨日の続きです。

大垣城のお堀沿いが整備されて「四季の道」という遊歩道になっています。その遊歩道沿いに芭蕉の奥の細道の句碑がいくつも建てられています。

大垣は奥の細道の終点(結びの地)です。芭蕉は、奥の細道の旅の出発前から、大垣を最終目的地にと考えていたそうです。大垣には芭蕉の門人、友人が数多く住み、奥の細道の旅以前にも何度か訪れています。

昨日も載せた写真ですが、奥の細道最初の句「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」の句碑です。

奥の細道、最後の句「蛤(はまぐり)の ふたみに別れ 行く秋ぞ」。

奥の細道の俳句は、「行く春や」で始まり、「行く秋ぞ」で終わっています。はじめから周到に計画された旅だったようです。

「結びの地」には、奥の細道記念館も建てられていました。奥の細道の旅がパネルやジオラマ、古文書などでわかりやすく解説、展示されていました。

たらい船も出て、観光客を楽しませる準備は万端です。

 

さて、大垣は古い町らしく、神仏が身近に祀られていました。

恵比寿大神。右端に写っているのは、江戸時代の道標。北たにぐみ道、右ぎふ、左きょう(京)と書いてあります。

 

八幡社。

貴船神社。水の神様です。

稲荷神社。

古い街道も通っています。

その旧美濃路沿いにある柿羊羹の老舗。

大垣城。戦後の再建で、鉄筋コンクリート造り。少し残念な外観でした。

駅前の商店街はシャッター通り。全国共通の悩み。何とかしたいですね。

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