心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

谷汲山の紅葉

2016年11月26日 | 仏像巡り

岐阜県揖斐郡にある谷汲山(たにぐみさん)華厳寺(けごんじ)に行きました。

西国三十三所観音霊場の第三十三番札所、つまり、結願・満願の寺として知られています。


平安時代の初め、奥州出身のある人が、京の都で霊木を用いて十一面観音を彫り、奥州へお移ししようとすると、途中で観音さまは自ら歩き出したそうです。美濃赤坂にさしかかった時、観音さまは「私は、遠く奥州の地には行かぬ。これより北へ五里の山中に結縁の地があり、そこで衆生を済度しようと思う。」とおっしゃると、北に向かって歩き出し、谷汲の地で歩みを止めたといいます。

そこでその人は山中に庵を結び、そこに住む修行僧と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて観音さまをお祀りしたのが谷汲山華厳寺の起こりだそうです。

ちょうど紅葉が美しい時期でした。

総門をくぐると、左右にお店の並んだ参道が10丁(約1100m)続きます。

仁王門が見えてきました。

仁王門をくぐると、さらに参道が続きます。

参道の両脇には、塔頭寺院や十王堂、地蔵堂、羅漢堂、吒枳尼(ダキニ)天(豊川稲荷)などのお堂が並んでます。

この石段を登ると、本堂です。

ご本尊は、十一面観音さまです。絶対秘仏で写真も公開されていないそうです。

本堂の奥には、笈摺堂(おいずるどう)と呼ばれるお堂がありました。西国三十三所巡礼を満願した人たちが、巡礼中に使った笈摺や杖、笠などを奉納するお堂です。お堂からあふれんばかりにびっしりと奉納されていました。笈摺とは、巡礼中に着る袢纏のような白衣のことです。

参拝のあとは、紅葉のうつくしい境内を散策しながら元来た道を戻りました。

(本文で使用した写真は2013年撮影です)

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清水の海長寺に行ってきました。

2016年11月20日 | 日蓮宗

静岡市清水区の海長寺に行ってきました。日蓮宗の本山の一つです。

海長寺は、もとは平安時代初期の仁寿2年(852年)に創建された峨岳寺という天台宗のお寺でした。鎌倉時代の文永9年(1272年)に日位上人がこの地を訪れたとき、当時の山主が日蓮聖人の法門に感銘して弟子となり、寺号も海上寺と改めたのだそうです。海長寺となったのは、江戸時代のことです。

海長寺では、徳川の葵の御紋を使うことを許されています。家康が武田家家臣に追われ、海長寺に逃げ込み、椿の茂みに身を隠したそうです。武田の臣が家康を差し出せと強く迫っても当時の住職は屈することなく、おかげで家康はあやうく難を逃れることができたのだそうです。

 

この寺にあるお釈迦様の像は、峨岳寺と称していた頃に海中より出現したものと言われています。お体には今も牡蠣殻が附着しているそうです。貫首の入山式以外には御開帳されることはありませんが、昨年秋、貫主様が交替した折にはご開帳されました。

本堂脇には天満大自在天神のお堂があります。天神様菅原道真公の木像が祀られていますが、これも海中出現と伝えられています。

海中出現とは、思うに、駿河湾に面したこの近辺では、津波の被害が何度もあり、寺院の堂宇ことごとく波にさらわれ、仏像が浜に打ち上げられることが何度もあったのだと想像されます。そのようにして浜に打ち上げられた仏さまを地元の方が拾い上げ、お寺に持ってきて供養しているのではないかと思います。

この海長寺に長男が10月20日から山務員としてお世話になっています。

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十六夜スーパームーン

2016年11月15日 | 自然の営み

月は、地球の周りを楕円の軌道で回ってるそうで、回りながら近づいたり、遠ざかったりします。

今、月がちょうど地球に近づいていて、しかも満月のころで、明るさ普段の30%UPなのだそうです。

ここのところ2~3日、雲が多かったり、雨だったりして、きれいにお月さまを見ることができなかったのですが、今日はきれいに見ることができました。満月を少し過ぎていましたが、なるほど、明るさも大きさも普段よりずっとUPでした。

 

夜空をひとり静かに見上げていると、人はあれこれもの思いをします。

  月見れば 千々にものこそ 悲しけれ 我が身一つの 秋にはあらねど

これは、平安時代の歌人大江千里の歌。

  天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

これは、奈良時代の安倍仲麿の歌。遣唐使として中国に渡りましたが、帰国がかなわず、現地で没しました。中国にあって夜空の月を見ながら、今見ているこの月は、故郷奈良の三笠の山に見た同じ月なのだと歌っています。時間と空間を超えて、同じ一つの月を見ているんだという思い、多くの人が抱くのではないでしょうか。

  今夜鹿州月  今夜 鹿州(ふしゅう)の月
  閨中只獨看  閨中(けいちゅう) 只獨り看るならん
  遙憐小兒女  遙かに憐れむ小兒女の
  未解憶長安  未だ長安を憶(おも)ふを解せざるを 
  香霧雲鬟濕  香霧 雲鬟(うんかん)濕(おお)ひ
  清輝玉臂寒  清輝 玉臂(ぎょくひ)寒からん
  何時倚虚幌  何れの時にか虚幌(きょこう)に倚(よ)りて
  雙照涙痕乾  雙(なら)び照らされて涙痕(るいこん)乾かん

杜甫の月夜(げつや)という詩です。訳あって妻子と離れ離れに暮らす杜甫が、遠く離れても妻は今、同じ月を見ているだろうと歌うロマンティックな詩です。いつか、二人並んで月を見る日が来るのだろうか、来てほしいと結んでいます。

 

法華経にも月は月天子(がってんし)として、よく登場します。

薬王菩薩本事品には、次のようにあります。

「衆星の中に月天子最もこれ第一なるが如く、此の法華経もまたまた是の如し(かくのごとし)。千万億種の諸経法の中において最もこれ照明なり。」

(多くの星々の中でも月が一番明るく夜空を照らすように、法華経はあらゆる経典の中で、最も光り輝くものである。)

また、如来神力品には、

「日月の光明のもろもろの幽冥を除くがごとく、この人世間に行じてよく衆生の闇を滅す」

とあります。

「太陽と月が暗闇を明るく照らすように、法華経を信じ人々を救おうとする菩薩たちは、人々の中にあって、人々をさまざまな苦しみから救う。」

 

Well we all shine on

Like the moon and the stars and the sun

(みんな輝いている。月や太陽や星のように。)

ジョンレノンの「インスタントカーマ」という歌です。 

ジョンレノンは、如来神力品を知っていたのでしょうか。

 

夜空に明るく輝く月、昔からどの国でも、ひとはさまざまな思いで眺めたのでしょう。

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苅安賀の俳人 幽松庵可卜居士

2016年11月12日 | 尾張の歴史

苅安賀の蓮照寺で先日、本堂落慶法要がありました。本堂の落慶にあわせて、境内の庭も整備されました。その一角に地元の俳人の句碑が建っています。
句碑には

幽松庵可卜居士 
生死銘 何者ぞ鏡の中の呼子鳥(よぶこどり)
辞世  かりた夢返す夜鳴きや郭公(ほととぎす)

と刻んであります。


この句碑については、安永8年(1779)に書かれた尾張藩の地誌『蓬洲旧勝録』にも書かれています。

幽松庵可卜は、本名関戸藤次郎、正徳元年(1711)苅安賀の旧家関戸家に生まれました。名古屋在住の芭蕉の門人、澤露川に俳諧を学んでいます。

当時の名古屋には芭蕉の門人が数多くいて、芭蕉は「野ざらし紀行」の旅の途中、名古屋に滞在し、門人らとともに句会を開きました。その時の作品が芭蕉七部集の第1集「冬の日」という句集になりました。「冬の日」は、ことばの遊戯でしかなかった旧来の俳諧を芸術にまで引き揚げた記念すべき句集で、名古屋は蕉風発祥の地といわれています。

苅安賀村にも、俳句や漢詩を好む人々が多く、可卜の他にも、井上八雷、木村蓬莱などの名が残っています。可卜は明和2年(1765)没しましたが、俳句だけでなく、漢詩や和歌も残っています。

また、蓮照寺に隣接する国照寺に墓があり、孝貞女として尾張藩主から褒美を賜ったことで知られる朝野三輪(あさのみわ)もこの時代の人です。三輪は可卜に俳諧を習い、数句が残されています。

蓮照寺の旧本堂が建立されたのは、宝暦6年(1756年)。境内に句碑が残るのは、可卜らが旧本堂建立に大きく関わったからかもしれません。

(この文を書くにあたって、市橋鐸麿編、一宮高等女学校校友会発行『朝野三輪女』(大正13年)を参考にしました。国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。)

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苅安賀の蓮照寺で本堂落慶法要がありました。

2016年11月09日 | 日蓮宗

10月30日、苅安賀の蓮照寺で本堂落慶法要がありました。

一宮市の苅安賀には、日蓮宗の寺院が3ヶ寺並んであります。実は、心證寺も明治29年までは、その並びのいちばん西にありました。江戸時代の「尾張名所図会」などには4ヶ寺が並んでいるところが描かれています。心證寺ウエブページ「苅安賀と心證寺」


その苅安賀にある蓮照寺で本堂の落慶法要がありました。

かつての本堂は、宝暦6年(1756年)に建立されたものでした。このあたりの寺院は、明治24年の濃尾大震災でほとんどが倒壊してしまいましたが、蓮照寺の本堂は、倒壊しませんでした。
しかし、老朽化は如何ともしがたく、耐震性の問題もあり、新しく建て直すこととなりました。

木造、寄せ棟屋根を瓦で葺き、かつての本堂の外観を残しています。その上で耐震性やバリアフリー、使い勝手を考慮し、資金の問題もクリアして、今回の落慶法要の運びとなったのです。

本堂前には、真っ白な角塔婆が立てられ、紅白の布が垂れています。この布は、紅白の綱につながり、、紅白の綱はどこにつながっているかというと、

ご本尊日蓮聖人の左手につながっているのです。
角塔婆の紅白の布に触れることによって、日蓮聖人のお手に触れ、ご縁を結ぶことができるのです。
この綱のことを「縁の綱(えんのつな)」と言います。

本堂の建立は、それこそ何百年に一度の大事業です。ご住職を始め、この事業を成功させようとお骨折りくださった方々のご苦労は、たいへんなものだったと思います。住職は、崖から飛び降りるような気持ちだったと振り返っていましたが、私にはとてもまねできないなあと思うと頭が下がります。

蓮照寺のHPにも、落慶法要のようすが何枚もの写真で紹介されています。そちらもご覧ください。

本堂の落慶に合わせて、境内の庭も整備されました。一角に地元の俳人の句碑が建っています。
これについては、また後日。

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宗祖お会式法要を厳修いたしました。

2016年11月05日 | 心證寺

日蓮宗の宗祖日蓮聖人は、弘安5年(1282)9月、病気療養のため9か年棲みなれた身延山を下りられ、常陸の湯に向かう途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の池上宗仲の館で、御入滅になりました。10月13日朝のことです。

日蓮宗の各寺院は、日蓮聖人のご鴻恩に感謝すべく、毎年、お会式法要を営んでいます。10月13日の寺院が多いですが、旧暦の季節に合わせるため、ひと月ほど遅らせて行うところもあります。心證寺では、毎年11月3日に行っています。

法要では、まず、参詣の方たちとともに、法華経を読誦しました。

そのあと、住職が法話をさせていただきました。

日蓮聖人の御生涯、信者の方に残されたお手紙などの話とともに、仕合わせについてお話しいたしました。

以前、ブログに書いたお話が元になっています。(しあわせ、さいわい、幸福)

日蓮聖人が御入滅になったとき、池上のお山の桜は時ならぬ花を咲かせたと言われています。

お会式のときは、本堂内をこのように桜の造花で美しく飾ります。

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高月観音の里ふるさと祭り 8

2016年11月03日 | 仏像巡り

高月観音の里ふるさと祭りについて書いてきました。いよいよ最終回です。

最後に訪れたのは、高月駅のすぐ近く、高月観音堂です。

ここには、とても素晴らしい十一面千手観音がいらっしゃるのですが、今回は、修復中とのことで、拝観できませんでした。

以前、十一面千手観音さまの写真を撮らせていただいたときの記事がありますので、そちらも合わせてご覧ください。高月観音堂の記事

観音さまはいらっしゃいませんでしたが、他の仏さまは何体もお祀りしてありました。

弁財天。

不動明王と地蔵菩薩。他にも、毘沙門天や薬師三尊像もお祀りされていました。

この高月観音堂は、大円寺という寺院の観音堂だそうですが、神高槻神社の鳥居をくぐり、神社の社殿のすぐとなり、同じ境内にあります。

今回観音巡りをした多くの観音堂が神社境内にありました。明治期に無理矢理神仏分離がなされ、神社とともにあった寺院は取り壊され、仏像はうち捨てられなどしたのですが、この地方では、こうして残されていました。ありがたいことです。

うちに帰って、上記の本を購入しました。一昨年、今年と東京芸術大学美術館で「びわ湖・長浜のホトケたち」という展覧会が開催され、この地方の仏像が数多く出展されました。そのときの図録です。

例年、高月観音の里ふるさと祭りは、8月の第一日曜に開催されてきたのですが、今年はその期間、東京芸大でこの展覧会が開催され、多くの仏像が東京に出張中だったため、10月に観音まつりが開催されたわけです。しかし、たいへん気候のいい時期で、来年からもこの時期に開催していただけないかなあと切に思います。

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