心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

第26回杉戸寄席が開催されました。

2017年12月25日 | 日記

12月23日、近くの銭湯、杉戸浴場で第26回の杉戸寄席が開催されました。

寄席は、銭湯の脱衣所で行われます。

折しも12月23日は先代のご主人のご命日だそうです。先代が亡くなって、若女将が後を継ぎ10年。杉戸寄席も回を重ねて26回。町の銭湯として多くの人が集う場所になりたいとの思いから、若女将は杉戸寄席を始め、さまざまなイベントに一生懸命取り組んでいらっしゃいます。その間、多くの人との出会いがあり、助けられて今日まで来られたと涙ぐんでいました。

Koharu亭たいちろう、けいじろうの兄弟も出演。こちらはお兄ちゃんのたいちろう君。今日は絶好調でした。

弟のけいじろう君。最初に見たときは小学生低学年のかわいい男の子だったのに、ずいぶん大きくなりました。

けいじろう君は高校受検のためしばらく高座をお休みだそうです。

一回り大きくなって戻ってくるのを楽しみにしています。

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南山城(みなみやましろ)の仏像巡り 6

2017年12月17日 | 仏像巡り

京都府の南部、奈良県と接するあたり、海住山寺、現光寺、大智寺、神童寺に続いて寿宝寺などの南山城の古いお寺をまわって、仏さまを拝んできました。

海住山寺のある三上山のふもとは、木津川が大きく湾曲し、台地状の地形が広がっています。

百人一首にある

みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ

の歌に詠まれている、みかの原がこのあたりと言われています。

(「恭仁宮跡復元図」京都府教育委員会のHPより)

奈良時代の中頃、天然痘が流行したり、九州で反乱があったりして、聖武天皇は奈良の都からこの地にお移りになります。

恭仁宮(くにのみや)と言います。

後ろは山、前は木津川。奈良盆地や京都盆地に比べると広さは10分の1もないでしょうか。しかも、木津川をかなり逆上った奥まったところなので、攻め込まれることをかなり警戒しての遷都かなあと感じます。

東西60m、南北30m、高さ1mを超える土壇が残っています。発掘調査により大極殿跡と推定されています。

天皇が恭仁宮に住まわれたのは2年間。次いで信楽宮(しがらきのみや)に移られたり、難波宮(なにわのみや)に移られたりして、またもとの平城京に戻られます。その間5年。

(木津川市発行のパンフレットより)

奈良時代は、日本という国が形作られた時代です。大規模な都が作られ、律令が整備され、古事記、日本書紀、万葉集が編纂され、世界の進んだ文化を取り入れ、仏教が隆盛し、大寺院が造営され、シルクロードの終点として遠くインドや西域の国々とも交流がありました。

日本の青年期ともいえる時代の中程に、5年間に4回も都が移らなければならなかったのはどうしてなのでしょうか?

権力争いなのか、疫病なのか、外敵への備えなのか、水運なのか、水不足なのか、わからないことがいっぱいあって、調べてみるのが楽しくなりそうです。

恭仁宮跡は国分寺として再利用されたそうです。

こんなに立派な柱の礎石がいくつも残っていました。

七重塔が立っていたそうです。

南山城(みなみやましろ)の旅の報告は今日でおしまいです。

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南山城(みなみやましろ)の仏像巡り 5

2017年12月11日 | 仏像巡り

京都府の南部、奈良県と接するあたり南山城の古いお寺をまわって、仏さまを拝んできました。

海住山寺、現光寺、大智寺、神童寺に続いて寿宝寺を訪ねました。

こちらも事前にお電話でお願いして、拝観させていただきました。

到着すると、市街地にあるお寺で、本堂は平成9年に建て替えられていて、町中にある普通の寺院という趣でした。

重要文化財の千手観音さまを始め、古い仏さまが収蔵庫で守られています。

町中の普通のお寺に重要文化財の仏像があり、住職の家族だけでお守りしていくのは、とても大変なことだと想像されます。

対応してくださったのは、住職の奥様でした。

収蔵庫の鍵を開け、ていねいな説明をして、私のぶしつけな質問にも答えてくださいました。

千手観音さま。(パンフレットより)平安時代の作。像高180cm。本当に腕が千本あるそうです。

とってもきれいな仏さまでした。

日の光の下では目を開けてこちらを見つめ、月の光の下では目を閉じて静かに物思うようすを、扉を閉めたり、照明を変えたりして再現してくださいました。

収蔵庫には、他にも降三世明王、金剛夜叉明王が祀られています。

近くの神社の神宮寺にあったものを廃仏毀釈で廃寺になったときに村の人たちがこちらにお連れして、以来お守りしているのだそうです。

寿宝寺は慶雲元年(704年)の創建だそうです。奈良時代、 この地に宿駅が置かれ人の往来が多く、古くは七堂伽藍を備えた大寺院だったそうです。

帰り際に門の脇を見ると、子供用の小さな自転車がありました。住職のお子さんのものと思われました。

日々の法務をこなし、突然の拝観者にも対応し、重要文化財をお守りする。頑張ってくださいと心の中でつぶやきました。

つづく

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南山城(みなみやましろ)の仏像巡り 4

2017年12月03日 | 仏像巡り

京都府の南部、奈良県と接するあたり南山城の古いお寺をまわって、仏さまを拝んできました。

海住山寺(かいじゅうせんじ)、現光寺、大智寺に続いて神童寺(じんどうじ)を訪ねました。

秘仏特別開扉の時期は終わっていましたが、思い切ってお寺に電話したところ、拝ませていただけるとのことでした。

木津川沿いから、小さな川に沿った曲がりくねった道を車で進むこと10分、小さな集落にたどり着きました。

集落の集会所に車を止め、徒歩で階段を登ると重要文化財の本堂が現れました。

室町時代の建物だそうです。

本堂のご本尊は蔵王権現。(パンフレットより)

青いお顔の、大きな仏さまでした。

このお寺は、聖徳太子の創建とも、役行者が修行したとも伝えられています。

山号は北吉野山。吉野山の金峯山寺を中心とした山岳信仰が伝わり、修験者の信仰の拠点となっていたそうで、往事は26ものお堂が立ち並んでいたそうです。

本堂ではご住職自らが仏さまの解説をしてくださいました。

本堂の裏手、石段を登り切ったところに収蔵庫があり、ご住職が鍵を開けてくださり、中の仏さまを拝むことができました。

中には、平安時代の仏さま10体ほどが収められていました。

中でも、天に向かって矢を射る天弓愛染や螺髪(らほつ)で板光背という不思議なお姿の波切白不動尊は他に例を見ないとこれもまた、ご住職自ら説明してくださいました。

つづく

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