前回の続きです。
関ヶ原に出掛けました。下は、私が書いてみた関ヶ原合戦の陣立て図です。
美濃赤坂に陣を敷いていた徳川家康が東山道を西進し、石田三成の居城佐和山を攻める動きを見せました。
それを察知した石田三成は夜陰に紛れて大垣城を抜け出て、伊勢街道を通って、先回りして関ヶ原に陣を敷き、西進してくる徳川家康の軍勢を待ち受ける体制を整えました。三成は、街道の狭くなったところ、しかも、街道から少し山すそを登った小高い場所に陣を敷きました。家康を迎え撃つには、最適の陣を敷いたわけです。
しかし、結果は東軍の大勝利。人間のすることに絶対ということは、ないのでしょう。
小早川秀秋が寝返ったことで、東軍の勝利が決したと言われますが、小早川が陣を敷いた松尾山を駆け下りると、西軍の背後に出て、挟み撃ちする形になります。西軍が大混乱に陥ったことがよくわかります。
家康がなかなか動こうとしない小早川の陣に向かって大砲を撃ちかけたといいますが、家康が陣を敷いた場所から見える松尾山は、ずいぶん離れていて、大砲の弾は届かなかった、届いたとしても狙った場所を正確に打ち抜くことはできなかっただろうと思いました。脅しだったんですね。
毛利秀元が陣を敷いた南宮山は、関ヶ原とは標高差が400m近くあり、関ヶ原から見上げると、こんなところから下りてきて臨機に参戦することはとても無理だったと実感できます。ということは、毛利は最初から様子見を決め込んでいたということなのでしょう。もし、毛利が南宮山を駆け下り、東軍の背後を突いたら、東軍は圧倒的不利になっただろうと思われます。家康は、毛利が参戦する恐れは全くないと踏んでいたからこそ、陣を前進させることができたのでしょう。
家康は開戦時、桃配山(ももくばりやま)に陣を敷きます。桃配山は、壬申の乱の折、大海人皇子がここに陣を敷き、名産の桃を全兵士に配ったところ士気が上がり、勝利したことからその名があります。家康はその故事にならったわけです。
関ヶ原駅前の観光センターでおもしろいお土産が売られていました。
うどんつゆの味がここ関ヶ原を境に東西で違うのだそうです。日清どん兵衛も東日本と西日本で違うスープの商品を販売しているのだそうです。
買ったのはカレーうどんでしたが、普通のうどんも東西セットで売られていました。
食べてみると、なるほど全然違いました。関西は昆布や鰹を効かせたダシが全面に出た味。関東は濃厚なうまみを感じる味。
私は、関ヶ原以東の愛知県民です。食べ慣れていたのは「東軍」の商品でした。
関ヶ原と言っても、合戦のあった当時、何もない原野だったわけではありません。宿駅があり、田畑があり、村があり、家々があり、生活があったわけです。そこに東西合わせて20万とも言われる軍勢がなだれ込んできて、田畑も家々も生活も踏みにじって行ってしまいました。しかもあとには、おびただしい数の死骸と負傷して動けない兵士が残されました。
昔も今も、戦争はあってほしくないものです。