心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

関ヶ原 2

2016年09月27日 | 旅行

前回の続きです。

関ヶ原に出掛けました。下は、私が書いてみた関ヶ原合戦の陣立て図です。

 

美濃赤坂に陣を敷いていた徳川家康が東山道を西進し、石田三成の居城佐和山を攻める動きを見せました。

それを察知した石田三成は夜陰に紛れて大垣城を抜け出て、伊勢街道を通って、先回りして関ヶ原に陣を敷き、西進してくる徳川家康の軍勢を待ち受ける体制を整えました。三成は、街道の狭くなったところ、しかも、街道から少し山すそを登った小高い場所に陣を敷きました。家康を迎え撃つには、最適の陣を敷いたわけです。
しかし、結果は東軍の大勝利。人間のすることに絶対ということは、ないのでしょう。

小早川秀秋が寝返ったことで、東軍の勝利が決したと言われますが、小早川が陣を敷いた松尾山を駆け下りると、西軍の背後に出て、挟み撃ちする形になります。西軍が大混乱に陥ったことがよくわかります。

家康がなかなか動こうとしない小早川の陣に向かって大砲を撃ちかけたといいますが、家康が陣を敷いた場所から見える松尾山は、ずいぶん離れていて、大砲の弾は届かなかった、届いたとしても狙った場所を正確に打ち抜くことはできなかっただろうと思いました。脅しだったんですね。

毛利秀元が陣を敷いた南宮山は、関ヶ原とは標高差が400m近くあり、関ヶ原から見上げると、こんなところから下りてきて臨機に参戦することはとても無理だったと実感できます。ということは、毛利は最初から様子見を決め込んでいたということなのでしょう。もし、毛利が南宮山を駆け下り、東軍の背後を突いたら、東軍は圧倒的不利になっただろうと思われます。家康は、毛利が参戦する恐れは全くないと踏んでいたからこそ、陣を前進させることができたのでしょう。

家康は開戦時、桃配山(ももくばりやま)に陣を敷きます。桃配山は、壬申の乱の折、大海人皇子がここに陣を敷き、名産の桃を全兵士に配ったところ士気が上がり、勝利したことからその名があります。家康はその故事にならったわけです。

関ヶ原駅前の観光センターでおもしろいお土産が売られていました。

うどんつゆの味がここ関ヶ原を境に東西で違うのだそうです。日清どん兵衛も東日本と西日本で違うスープの商品を販売しているのだそうです。

買ったのはカレーうどんでしたが、普通のうどんも東西セットで売られていました。

食べてみると、なるほど全然違いました。関西は昆布や鰹を効かせたダシが全面に出た味。関東は濃厚なうまみを感じる味。

私は、関ヶ原以東の愛知県民です。食べ慣れていたのは「東軍」の商品でした。

 

関ヶ原と言っても、合戦のあった当時、何もない原野だったわけではありません。宿駅があり、田畑があり、村があり、家々があり、生活があったわけです。そこに東西合わせて20万とも言われる軍勢がなだれ込んできて、田畑も家々も生活も踏みにじって行ってしまいました。しかもあとには、おびただしい数の死骸と負傷して動けない兵士が残されました。

昔も今も、戦争はあってほしくないものです。

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関ヶ原

2016年09月26日 | 旅行

関ヶ原に行ってきました。
今まで、関ヶ原を通過したことはありましたが、立ち止まってゆっくり歩いてみたのは初めてです。


はじめに、関ケ原町歴史民俗資料館に行ってみました。

関ヶ原の戦いについてジオラマや映像、合戦図屏風などでわかりやすく解説されていました。

資料館を出て、周りを歩いてみました。
資料館のすぐとなりに、徳川家康最後陣跡がありました。

現地に立って、山や川、野原、街道などの地形を実際にこの目で見てみると、書物や陣立図などではわからなかったものがありありと見えてきます。まさに百聞は一見に如かずです。

 

関ヶ原は、周りを山に囲まれ、東西に東山道(中山道)が通り、南西には伊勢街道が延び、北西には北国街道が延びる交通の要衝にあります。古代、壬申の乱でも大海人皇子がここを固めて軍勢を立て直し勝利したと言われています。壬申の乱後は、畿内を守る重要な地点として不破の関が置かれました。
現代の地図と重ね合わせると、東山道はJR東海道本線、国道21号と重なり、伊勢街道は牧田川に沿って南宮山の南縁をまわる名神高速道路と国道365号、北国街道は伊吹山の山麓を通る国道365号と重なります。

上は、自分なりに書いてみた関ヶ原の図です。

つづきます。

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秋のお彼岸

2016年09月25日 | 心證寺

9月22日は、秋のお彼岸の中日、当山でも秋季彼岸法要を営みました。

春秋の年二回、昼夜の長さがちょうど同じになり、太陽が真東から昇り真西に沈むところが、お釈迦さまがお悟りになった「中道(ちゅうどう)」に通ずると言われています。中道とは、極端な難行苦行でもなく、安易、安逸に流れるのでもなく、どちらからも離れ、とらわれること偏ることなく、あるがままに、心静かに、ものごとを見ることによって悟りに至ろうとする方法です。

法要後は、昨年に引き続き、当山の若き副住職による高座説教が行われました。

法華経に登場する常不軽菩薩が、すべての人の心には、仏になる種「仏性」があるから、すべての人を敬いますといって、道で出会う人すべてに合掌、礼拝した話と宮沢賢治の雨ニモマケズのデクノボーの話から、謙虚に誠実に他人を敬って生きることで釈迦さまの教えに近づくことができるという話のあと、日蓮聖人のご生涯を独特の節回しと所作で説き聞かせる「クリ弁」を披露しました。日蓮聖人が鎌倉幕府によって召し捕らえられる場面を演じました。その場面のあと日蓮聖人は、市中を引き回された、龍ノ口刑場へと連れて行かれることになります。

クリ弁は、落語や講談の元になったとも言われています。

たくさんの方にご聴聞いただき、ありがとうございました。

私たちが、お釈迦さまの説かれた教えに近づくための方法として、「三毒」から離れることがあります。「三毒」とは、瞋(しん)・貪(どん)・痴(ち)、すなわち、いかり・むさぼり・愚痴(おろか)のことです。

我が身を振り返らず、他人の非だけに目が行き、受け入れることを知らず、腹が立って腹が立ってどうしようもない怒りの心、金がほしい、物がほしい、人の上に立ちたいなど、きりのない欲望、正しいことと間違ったこのの見分けのつかない、自分中心にしかものごとを見られない愚かな心。この三つに心を支配されていては、幸せにはなれません。

9月21日に近鉄奈良線・東花園駅(大阪府東大阪市)で、他の駅で起きた人身事故による電車の遅延に対して、多数の乗客に囲まれ、詰め寄られた26歳の車掌が線路に飛び降り、制服の上着と制帽を脱ぎ捨て「アー、もう死にたい。こんなの嫌や。死なせてくれ」と叫びながら線路上を走り、高架から7.6メートル下の地面に飛び降りたという事件があったそうです。

職務を放棄して線路上に下り、さらに高架から飛び降りるという行為は、大事故につながりかねない、たいへん危険で、多くの人に迷惑がかかる行為ですが、26歳というと私の息子のような年です。お客様の前に立つ者は、だれでも会社全体を背負っているとはいえ、鉄道の遅れはその若い社員には、全く非のないことです。反論できず頭を下げるしかない立場にある相手に、苦情、クレームをぶつける客は、自分の都合しか視野に入っていないのではないでしょうか。

まさに、お釈迦さまが戒められた三毒(他人の非だけに目が行き、受け入れることを知らず、腹が立って腹が立ってどうしようもない怒りの心、自分の思い通りにならないと我慢できない心、自分中心にしかものごとを見られない愚かな心)に冒されていると思います。

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尾張西部檀信徒協議会護法大会

2016年09月19日 | 日蓮宗

先日、尾張西部檀信徒協議会護法大会が開催されました。尾張西部地域の日蓮宗寺院の檀信徒が集まって、それぞれの信仰を再確認しようという集まりです。

会場は、一宮市丹陽町九日市場の妙法寺。

写真右側の石柱には、「関西小松原 御法難霊像奉安地」とあります。

小松原法難の地(現在の千葉県)で刻まれた日蓮聖人の尊像が、長い年月を経て、現在はこのお寺で大切に守られています。

年に一度、小松原法難会(11月11日)の折にご開帳されます。

日蓮聖人の御生涯 日蓮宗ポータルサイト

護法大会が開催された本堂。立ち見の人もあります。

法要の後、香川県妙応寺御山主高岡完匡上人のお説教がありました。

「大曼荼羅ご本尊を渇仰恋慕する」という題でしたが、苦しみと喜び、災いと幸い、善と悪は表裏一体、どちらか一方だけが存在するのではなく、楽があれば苦がある、生があれば死がある、どちらか一方にとらわれず、苦を忌避せず、楽を手放す勇気を持てば、人生は少しずつ違った様相を呈してくるというお話でした。

心がけがいいから楽ばかりを体験するのでもなければ、心がけが悪いから苦ばかりを体験するのでもない。人生は、苦と楽、幸と不幸の両方を体験するようになっているとのことでした。

まさにそうですね。私たち日蓮宗の僧侶は「煩悩即菩提 生死即涅槃」という句をしばしば唱えます。天台大師の摩訶止観に基づく言葉のようですが、私は、「煩悩を滅したり、生死を乗り越えたりしないと悟りの境地には達しない」のではなく、「煩悩と菩提」「生死と涅槃」は常に表裏一体に存在し、「煩悩に悩まされるから、悟りを求めようと努力する、生きる苦しみがあるから、心の安らぎを求めようと精進する」という意味だと解釈しています。

中国の古典「史記」や「漢書」にも「禍に因りて福を為す。成敗の転ずるは、たとえばあざなえる縄の如し」「それ禍と福とは、何ぞあざなえる縄に異ならん」などの言葉があります。東アジアには、人生をこのようにとらえる見方があります。

現代の世界には、一方を絶対的な悪と見なして、その悪を滅しない限り、世界の平和は実現しないと考えて、徹底的に「敵(悪)」を滅ぼそうとしている人たちがあります。

それでは、いつまで経っても世界の平和はおとずれないと思います。

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出羽三山 4

2016年09月15日 | 仏教全般

羽黒山、月山、湯殿山と出羽三山に詣でました。

足を伸ばして、山寺に参拝しました。芭蕉の「閑かさや岩に染み入る蝉の声」の句が詠まれたことで有名です。

山寺は通称で、正式には宝珠山立石寺(ほうじゅさん りっしゃくじ)と言います。天台宗の寺院です。

いちばん麓に本堂があって、根本中堂と言います。

そこから、ひたすら石段を上がっていきます。

かつてはこの岩場を駆け巡って山岳修行が行われていたようです。

現在でも修行の場となっているようで、「これより先は修行の場所につき、危険ですので一般客の登山を禁じます」の立て札があるところも。

参道の途中、いたるところに、十一面観音、馬頭観音、地蔵菩薩、不動明王など古い石仏が祀られています。

ずいぶん登ってきました。岩の上に立つ開山堂。立石寺を開かれた慈覚大師の御堂です。このほかにも多くのお堂や支院が岩山の上に立てられています。

登ること1時間。参道の終点、奥の院に着きました。釈迦如来と多宝如来の両尊を御本尊とするので「如法堂」と呼ばれています。

釈迦如来と多宝如来の両尊を御本尊とするのは、法華経に基づいています。

自我偈を奉読して、下山しました。

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出羽三山 3

2016年09月13日 | 仏教全般

出羽三山を訪れています。羽黒山、月山の次は、湯殿山に向かいました。

月山から湯殿山に向かう田園地帯。北海道のような雄大さです。

湯殿山の大鳥居。

人間と比べてください。その大きさがわかります。

湯殿山本宮の入り口です。ここから先は、禁撮影。この奥で「ご神体」に間近に触れることができるのですが、そのご神体については、写真撮影が禁止されているだけでなく、昔から「語るなかれ、聞くなかれ」と言って、どんなものであったのか、人に言ってはいけないことになっています。

ですから、このブログでも書くことはできません。昔から多くの人に大切にされてきたことは尊重しなければなりません。

その夜は、湯田川温泉に泊まりました。こぢんまりとしていますが、昔ながらの風情の残った温泉地でした。

外湯を楽しむこともできました。観光客よりも地元の人が多く、毎日の生活の中に温泉があるという感じでした。

湯田川温泉HP

その温泉街に、由豆佐売(ゆずさめ)神社という神社がありました。

ここで、映画「たそがれ清兵衛」の村祭りのシーンを撮影したのだそうです。

藤沢周平は、山形県の出身。作品の舞台としてしばしば登場する「海坂藩」は藤沢周平の出身地鶴岡をモデルにしていると言います。

また、師範学校卒業後すぐ湯田川温泉の中学校で教鞭を執っていたそうです。

杉木立の奥に苔むした石段。その上に神社の社があります。映画で見るよりも狭く感じました。

続きます。

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出羽三山 2

2016年09月11日 | 仏教全般

前回の続きです。

羽黒山門前の宿坊に泊まって、翌朝、月山を目指しましたが、あいにくの雨。

車で8合目の弥陀ヶ原まで上がり、湿原の木道を歩きますが、ごらんのような視界。

山頂まで2時間30分とあります。残念でしたが、安全を考えて引き返すことにしました。

8合目にある月山中の宮にお参りしました。

狛犬ではなく、ウサギがお出迎え。さすがは月の山です。

ここにも、数多くの五輪塔や石仏がありました。

視界は悪かったのですが、足下にはかわいい花が咲いていました。

お花畑が広がっています。

高原の湿原にあるこのような小さな池を池溏(ちとう)と言います。

立山にも、同じ名の弥陀ヶ原というところがありますが、そこにも池溏がたくさんあります。

車で下りる途中、古い参詣の道を見つけました。3合目でした。苔むしていましたが、草に覆われていないところを見ると、今でもこの道を登って頂上を目指する人があるということなのでしょう。

次は湯殿山を目指します。

続きます。

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出羽三山

2016年09月09日 | 仏教全般

山形県にある羽黒山、月山、湯殿山を出羽三山と言い、古くから山岳信仰を中心に神仏混交の霊場として信仰を集めてきました。

その出羽三山に行ってきました。

県営名古屋空港から飛行機で1時間。山形空港に着きました。

はじめに訪れたのは、羽黒山。出羽三山を参詣するには、順序があって、羽黒山、月山、湯殿山の順に回るのだそうです。

参道入り口に立つ鳥居です。

羽黒山頂にある出羽三山神社まで、杉並木が続きます。1時間の登りです。

国宝五重塔です。出羽三山も今では神社になっていますが、明治までは、仏さまも神さまもどちらも大切にされていました。

明治政府が天皇家の祖先を神として崇拝させる国家神道を推し進めるために、神仏分離、廃仏毀釈などの政策が行われました。

日本人の自然な宗教観とは、かけ離れたものです。

参道脇には、こんな石碑も。「奉書写妙法蓮華経一字一石供養」と刻まれています。

戸隠奥の院参道にも同じものがありました。(戸隠山に行ってきました)

さらに参道を登って行きます。

登ること一時間、頂上の出羽三山神社が見えてきました。

拝殿はたいへん大きな建物でした。もとは羽黒山寂光寺というお寺だったそうです。

今は、羽黒山、月山、湯殿山それぞれの神さまをお祀りしています。

大きな釣り鐘もありました。

麓に下り、この日は羽黒山門前の宿坊に泊まりました。

(つづく)

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日蓮宗の宝塔

2016年09月05日 | 日蓮宗

仏教寺院では、世界中のあちらこちらでさまざまな形の仏塔(ストゥーパ)が建立されています。

仏教と塔については、以前、当山のHPに書きました。「仏教と塔」

 

日蓮宗寺院では、南無妙法蓮華経のお題目を刻んだ石塔を宝塔と呼んで、どの寺院にも建立されています。

 

心證寺の宝塔です。

日蓮宗寺院でなく、街道沿いや村落の中に、宝塔が建立されいる場合もあります。

一宮市木曽川町外割田の村の中に建っている宝塔です。地元の篤信家が建てたものでしょうか。

一宮市北方町宝江のかつて渡し場があったところに通じる街道沿いに建っている宝塔です。

安政3年の年号が刻んであります。

一宮市木曽川町黒田の個人のお屋敷脇にある宝塔です。

享保12年の年号があります。

 一宮市両郷町の巡検街道沿いにある宝塔群です。

地名にもなっている曹洞宗の寺院両郷寺に隣接してあります。

日蓮聖人の六百遠忌(1882年)や五百五十遠忌(文政4年)の年号などが彫ってあります。

昔は、日蓮宗の篤い信者がたくさんいらったのだなあと思います。

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