心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

高月観音の里

2015年09月26日 | 仏像巡り

滋賀県湖北地方の木之本町、高月町(今は合併して長浜市になっています)には、古い仏像がたくさん守り継がれています。

そのほとんどが、寺院ではなくて、村の観音堂などで村人たちの手によってに大切に守られてきたものです。

近江国の北東に己高山(こだかみやま)という山があります。この山は奈良時代以前から山岳信仰の場として栄え、役行者、行基、泰澄などが修行したと伝えられています。奈良、平安、鎌倉時代には大伽藍の寺院が数多くあったといいます。

それらの大寺院は時代の推移とともに次々と無住あるいは廃寺となってしまいました。しかし、それらの寺院に残された仏像は、宗派の枠を越えて、村々で守られてきました。戦国時代、姉川の戦い、賤ヶ岳の戦いなどで、この地方はしばしば戦場となりましたが、村人たちは、仏像を地中に埋めるなどして守ったといいます。現在、己高山山頂付近には、奈良時代に行基が開き、平安時代に最澄が天台密教の聖地として再興したと伝えられる鶏足寺(けいそくじ)の跡が残っています。

さて、先日、高月観音巡りに行ってきました。まず訪ねたのは、己高山ふもとにある「己高閣・世代閣」です。己高山の寺院に残された貴重な仏像や寺宝が安置されており、鶏足寺の十一面観音立像や法華寺の薬師如来立像など、国指定の重要文化財や県の重要文化財が多数収蔵されています。(仏像は禁撮影なので写真がありません。以下同じです。)

続いて、鶏足寺、石道寺と拝観し、高月駅近くの高月観音を拝観しました。

電話をすると、お堂の管理をしている方が、自転車でやってきて、お堂の鍵を開けてくださいました。

ここだけは、写真撮影OKでした。

立派な十一面千手観音様です。

こんなにすぐ近くで拝観できます。京都や奈良ではありえないことです。他のお堂でもすぐ近く、触れることができるくらい間近に拝むことができます。

続いて、渡岸寺観音堂、高月観音の里資料館、西野薬師観音堂、正妙寺と拝観し帰路につきました。

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秋季彼岸法要

2015年09月23日 | 心證寺

きょうは、秋彼岸のお中日です。心證寺では、毎年秋季彼岸法要を営んでいます。

秋のお彼岸らしく、穏やかな日和でした。

お彼岸は、仏教の行事ですが、日本独自の行事のようです。

春秋の年二回、昼夜の長さがちょうど同じになり、太陽が真東から昇り真西に沈むところが、お釈迦さまがお悟りになった「中道(ちゅうどう)」に通ずると言われています。中道とは、極端な難行苦行でもなく、安易、安逸に流れるのでもなく、どちらからも離れ、とらわれること偏ることなく、あるがままに、心静かに、ものごとを見ることによって悟りに至ろうとする方法です。

法要では、法華経を読誦し、お釈迦様はじめ諸天善神に感謝報恩の気持ちを捧げ、参詣者ご先祖の供養、併せて参詣者の家内安全、身体健全、諸難解決、諸願成就などを祈りました。

法要後、当山の若き副住職による高座説教が行われました。

彼岸とは、向こう岸、つまり悟りの世界のことで、悟りに至る方法として、お釈迦さまは六波羅蜜をお説きになったという話のあと、日蓮聖人のご生涯を独特の節回しと所作で説き聞かせる「クリ弁」を披露しました。日蓮聖人が鎌倉幕府によって捕らえられ、市中を引き回されたあと、龍ノ口刑場へと連れて行かれる場面を演じました。クリ弁は、落語や講談の元になったとも言われています。

たくさんの方にご聴聞いただき、ありがとうございました。

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赤沢自然休養林を歩きました。

2015年09月22日 | 自然の営み

今秋のシルバーウイークは5連休。23日に秋の彼岸法要があり、その準備もあるのですが、一日くらいはのんびりしようと赤沢自然休養林を歩きに行きました。

中央高速が渋滞したり流れたりで、予定より1時間以上かかっての到着となりましたが、いいところでした。

渓流にそって、緩やかな遊歩道が作られています。ほとんどが木道になっていてとても歩きやすいです。

ひのき、ねずこ、あすなろなどの針葉樹と、秋が深まれば美しく紅葉しそうな落葉樹の混じった森を木漏れ日を浴びながら歩きます。

トロッコ列車も並行して走っています。30分ほど歩くと終点の駅に着きました。しっかり歩きたい人には、物足りない距離です。

復路は、アップダウンのある山中を歩くコースをとりました。

こんな感じのコースです。

ひのきの人工林です。切り倒された古い切り株もあります。

昭和60年に伊勢神宮のご神木として切り出した切り株が保存されていました。屋根をかけないで、自然に返るようにようにした方がいいのにと感じました。

こんなキノコもあちこちに生えていました。

帰り道、木の鳥居を見つけました。姫宮神社とあります。脇には案内板があり、源平の時代、平家討伐の命を出して挙兵し、平家に討たれた以仁王(もちひとおう)の姫宮がここまで逃げてきたものの、平家の追っ手にかかり、渕に身を投げて命を絶ち、その姫宮を祀ったとありました。こんなところまで逃げてきても、追っ手はやってくるんだと思うと、恐ろしいですね。この姫宮の兄にあたる北陸宮(ほくろくのみや)は、越前国に逃げ、木曾義仲に庇護されます。義仲は北陸宮を奉じて平家討伐の兵を挙げ、平家滅亡はここから始まっていきます。

ここまで逃げてきた姫宮を木曾義仲はどうして守ってくれなかったのだろうと思って、調べてみたところ、義仲の本拠は、現在、木曽と呼ばれている地方ではなくて、同じ信濃でも、もっと北方の日本海に近いところだったようです。知りませんでした。

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尾張西部檀信徒協議会護法大会が開催されました。

2015年09月15日 | 日蓮宗

去る9月12日(土)、尾張西部檀信徒協議会護法大会が開催されました。

会場となった妙泰寺です。

大阪府から村尾泰孝上人をお招きして、「お釈迦さまの言いたかったこと」と題して法話をしていただきました。

この日9月12日は、日蓮聖人が相州龍ノ口(たつのくち・現在の藤沢市片瀬)であやうく斬首されそうになった日で、龍ノ口法難と言います。

『立正安国論』を著し鎌倉幕府を諌めた日蓮聖人を幕府は、幕府や諸宗を批判したとして逮捕、鎌倉市中を引き回したうえ、当時幕府の処刑場であった龍ノ口の土牢に閉じ込めます。十二日の月が沈み、辺りが真っ暗な闇に包まれた9月13日子丑の刻(午前2時頃)、日蓮聖人を土牢から引き出し、斬首しようとします。そのとき、空に光るものが現れて、処刑役人は目が眩み、その場に倒れ伏し、兵士たちは恐れおののき、刑は執行できなくなりました。幕府は、斬首の代わりとして、生きて帰る者はいないと言われた佐渡流罪に処します。

龍ノ口斬首は、これまでの松葉が谷ご草庵焼き討ちや小松原での襲撃のような暗殺ではなく、幕府が公式に日蓮上人をなきものにしようとして取った処置でした。空に現れた光るものの正体や真偽については、色々な見方があります。しかし、幕府が一旦は斬首を決定し、実行に移したにもかかわらず、土壇場になって命令を撤回したことは歴史的事実のようです。そうなるのには、どんな力が働いたのでしょうか。

諸天善神のご加護により、日蓮上人は天から与えられた使命を果たすため、今しばらくの寿命を賜ったということだと思います。

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如来秘密神通之力

2015年09月13日 | 日蓮宗

当山で使うの朱印の一つです。

なんと書いてあるかというと

「如来秘密神通之力」と書いてあります。

わたしたち(日蓮宗の僧侶)は「にょーらい ひーみつ じんづう しーりき」と読みます。

「仏さまの不思議なお力」という意味です。

「妙法蓮華経如来寿量品第十六」のはじめの方に出てくる言葉です。

「そなたたちに、今から本当のことを伝えようと思うが、理解して信じることができるか?」とお釈迦さまは、まわりの者達にお聞きになります。

弥勒菩薩をはじめとして、まわりの者達は、「お願いします、お話ください」と申し上げます。同じことが三度繰り返されて、「では、しっかり聞きなさい。仏の不思議な力の話を(而告之言 汝等諦聴 如来秘密 神通之力)」と語り、やっとお釈迦さまはお話を始めます。

そこで、お釈迦さまは、私は釈迦族の王子として生まれ、出家して、悟りを開いた一人の人間ではなく、過去から未来にわたってずっとこの世界にいて、常にすべての命あるものたちを見守り、救う永遠の仏であるということを自ら明かされたのです。

仏さまは、いつも私たちのまわりにいて、見守り救ってくださいます。

「仏さまの不思議なお力を信じるか?」この問いに、「はい」と答えることが、仏教という宗教の入り口だと思います。

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行衣と朱印

2015年09月09日 | 心證寺

日蓮宗では、檀信徒が日蓮宗のお寺に参拝に行くとき、行衣(ぎょうえ)を着て行くことがよくあります。

行衣とは、白い半纏のようなもので、背中に、お曼荼羅が書いてあます。(印刷されたものを購入することが多いですが、檀那寺の住職が書いてくださることもあります。)お寺に参拝したときに、背中の部分に御朱印を押してもらいます。

1番はじめには、檀那寺の朱印をもらいます。住職は日付、お名前、信力増進、身体健全などの祈願文を書きます。左端に手書きしてあるのがそうです。

この行衣の持ち主の方は、昨年の11月に参拝をはじめられて、一年たたないうちに何箇所も回られて、たくさんの朱印を押してもらいました。

今日は、別の方の新しい行衣に日付、お名前、祈願文を書いて、最初の朱印を押させていただきました。

信仰が深まって、諸天善神の加護があるといいですね。

当山で押す朱印です。

なんと書いてあるかわかりますか?

解答は、後日。

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七面山に登りました 4

2015年09月06日 | 日蓮宗

一昨日の続きです。

朝、起床時間の4時半になると、太鼓が鳴らされるとともに、寺男のおじさんが布団を上げに来てくれました。

まだ、身支度ができていなかったので、大いに戸惑いました。

 

朝霧が立ち込めて、残念ながらご来光は拝めませんでした。

七面山敬慎院では、現在、内陣格天井の修復をしています。長年の風雪に傷んでいたものを数百年前の造られた当時の状態に戻すのだそうです。

特別に修復中の内陣に入れていただきました。写真の許可も頂いたので、掲載できます。

黒漆、金箔のほか、緑青、群青などの天然の顔料を使って修復作業がなされています。見事な出来栄えでした。

報恩事業の慶賛金を募っていたので、わずかですが協力させていただきました。

落慶は来春だそうです。

朝勤、朝食のあと、敬慎院を後にして、奥の院に向かいました。

ほとんど高低差のない道を10分ほど歩きました。道の両側は樹林に覆われて厳かな雰囲気です。

七面山奥の院。こちらで参籠(宿泊)することもできます。

奥の院参拝の後、下山しました。

 

信仰のために登るお山は日本中にたくさんありますが、その中で七面山は一番神聖で厳かな山だと改めて感じました。

比叡山、立山雄山、戸隠山、羽黒山、月山などにも登ったことがありますが、観光化、俗化している一面もあります。

多くの人が参拝できることは、それはそれで良いことだと思います。

七面山は、自分の足で4時間山登りをしないと辿りつけないこともあって、観光で参籠する人はほどんどなく、俗世間と切り離された感じがします。

この宗教的な厳粛さを多くの人に体験してほしいと思います。

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七面山に登りました 3

2015年09月04日 | 日蓮宗

きのうの続きです。

46丁目の和光門です。この先は、七面山本社の境内地になります。

49丁目随身門です。門前は広場になっていて、展望が開けています。

この日富士山は、残念ながら雲の中でした。

50丁目、敬慎院に到着。5時間ほどかかりました。

 

七面大明神をお祀りした敬慎院の他、七面山を開いた日朗上人を祀るお堂、池大神を祀るお堂など、諸堂が立ち並んでいます。

敬慎院は宿坊になっています。通年で参籠できる宿坊としては日本最高所にあるのではないでしょうか。

標高は2000m近くあって、真冬には零下20度にもなるそうです。

名物になっている大やかんのある囲炉裏の間。

廊下の左右が宿泊室になっています。

食事は、精進で質素。味噌汁が手桶に入ってきます。

明朝起床は4時半。夕勤のあと、9時に床につきました。

続きは、また後日。

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七面山に登りました 2

2015年09月03日 | 日蓮宗

きのうの続きです。

七面山表参道の登り口です。いよいよ登詣で開始です。

杉の大木に囲まれた参道を登ります。

13丁目の肝心坊です。七面山の参道は、登り口の1丁目から敬慎院の50丁目まで、1丁ごとに目印の灯籠が立っています。

20丁目を示す灯籠。まだ新しいです。

元文3年の年号のある古い石柱。

これはもっと古そう。南無妙法蓮華経の下に31丁目とあります。何百年にわたって信仰が連綿と続いている証です。

暗い森に光が差し込んで、神秘的な光景です。七面山登詣は、一歩一歩が修行そのものです。体力的に大変つらいのですが、一歩、また一歩と積み重ねていくことで、必ず頂上に行き着くことができるのです。

23丁目中適坊の休憩所。天井には寄付者の木札がびっしり貼られています。歌舞伎役者、落語家、力士の名もありました。

5時間ほどかけて、やっと46丁目の和光門にたどり着きました。この先はいよいよ七面山本社の境内地です。

続きは、また後日

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七面山に登りました 1

2015年09月02日 | 日蓮宗

七面山に登りました。

七面山は、身延山の西にある標高1982mの山です。

山頂近くに敬慎院というお堂があり、七面天女をお祀りしています。

七面天女には、こんな伝説があります。

ある日、日蓮大聖人が身延の御草庵近くの大きな石の上で、弟子や信徒に法を説いてると、聴衆の中に見慣れない若く美しい女性がいました。人々が不審に思っていたところ、大聖人は「皆に正体を見せてあげなさい」と言って、傍らにあった水差しの水を女性の手のひらに一滴落としました。すると、この美しい女性はたちまち本来の龍の姿を現して、「わたくしは七面山に住む七面天女です。身延山の鬼門をおさえて、お山を護る法華経の護法神として、人々に心の安らぎと満足を与え続けましょう」と言い残して七面山に飛び去っていきました。

敬慎院の後ろには、大きな池が広がっています。

この池には、今でも時折、不思議な波紋が現れるといいます。(敬慎院には、その写真が飾ってありました。)

その七面山に登ってきました。

前日、身延の宿坊に宿を取りました。まず、日蓮聖人の御廟に参拝。

七面山は、この御廟の背後にあたります。

そのあと、本山に上がり、大本堂で自我偈を読誦したのですが、夕方遅い時刻、広い大本堂に他にはだれもいなく、大きなお祖師様はじめ勧請の諸仏諸菩薩と一人で向き合っているような心持ちがして、荘厳な空気にひたることができました。

翌朝、いよいよ七面山へ。

女性として初めて七面山に登り、女人禁制を解いたと言われる養珠院お萬の方(徳川家康の妻の一人で紀州と水戸徳川家藩祖の生母)が身を清めたという白糸の滝でまず、心を清めます。(勝手に滝に打たれることはできません)

参道入口。いよいよ登詣開始です。標準で4~5時間かかるといいます。

続きは後日。

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