心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

小さなお葬式

2020年06月28日 | 仏教全般

今日、本堂で小さなお葬式を営みました。

ご家族だけの参列でしたが、いい式を営んでいただけたと涙を流されました。

故人は、夫に先立たれ、介護が必要な状態になり、遠方に嫁いだひとり娘さんの元に行かれ、その地でお亡くなりになりました。

急なことで、現地で火葬だけ済まされ、生まれ育ったこの地で改めて葬儀を行い、この地で眠りました。

故人は、私も長くお世話になった方でした。いろんなことを思い出しながら、経を読み、引導をお与えし、回向しました。

コロナウィルスの影響下、新しい生活様式が求められています。葬儀や供養も行えなかったりしますが、小さくて質素な形でも、心を込めて営みたいものです。

葬儀社の商業ベースに乗せられる必要はありません。旅立つ方のこの世に残した思い、残された者の感謝や別れの気持ち、葬儀という儀式を行うことで、それらの思いを昇華させることができると思います。

小さな葬儀、考えてみてください。

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今年もお盆の季節がやってきました。

2019年08月12日 | 仏教全般

今年もお盆の季節がやってきました。

お盆はかつて旧暦の7月15日前後に行われていました。
明治になって暦が新暦に変わると、農作業のサイクルや昔ながらの季節感を大事にして、ひと月遅れの8月15日前後に行うようになりました。

お盆休みも全国的に8月15日を中心として、ふるさとに帰省して墓に参り、仏壇にお盆のお供えをして手を合わせる人が多いと思います。東京を中心として、新暦の7月15日前後にお盆の飾りをしてご先祖様をお迎えする地域もあります。

この地域(愛知県一宮市)では、やはり月遅れのお盆が主流です。8月13日の夕方に迎え火を焚いてご先祖様をお迎えし、15日(16日のところも多いです)の夕方に送り火を焚いて送ります。

盆提灯は、ご先祖様が迷わず我が家に戻ってこられるようにとの目印といわれ、縁側の軒下につるす地域もありますが、この地方では走馬燈のように模様が回転するタイプのものを一対盆棚の両脇に置きます。

お盆の飾り方、お供えなどは、かつてはその家ごとに代々伝えられたものがあったようですが、近年は核家族化も進み、伝えられてきた風習は失われつつあるようです。

もちろん、昔と比べて生活様式が大きく変わり、昔と同じやり方を守るのが難かしくなってきています。今できる形でご先祖様を大切にお迎えできればいいと思います。

私がお参りに伺うお宅で、昔ながらのやり方がある程度守られているところでお許しをいただいて写真を撮らせていただきました。

仏壇の手前にテーブルを置いて、くだもの、やさい、そうめんなどをお供えします。


仏壇の前にテーブルを出して、まこも(真菰を粗く編んだゴザ)を敷き、ご先祖様お一人お一人の食事をお膳か木を薄く削った皿(経木)にのせ、おがらの箸を添えます。箸は奥側、つまり、ご先祖様から見て手前に置きます。

料理は、その家々で代々伝えられています。朝、昼、おやつ、夕の四食お供えする家もあります。そうめん、ぼた餅、団子、白飯、赤飯の他、きゅうり、なす、みょうが、冬瓜、しいたけ、ささぎ、里芋などの酢の物や煮物のおかずを添えます。毎食お精霊さまのために調理してお供えします。

 

毎食はとても作れないので、自分たちが食べるために作った食事の一部を取り出してお供えする家もあります。

お盆にお供えしたものは、かつては精霊流しとして川に流していましたが、現在では、特定のお寺で供養しています。

(市役所の案内等をご覧ください。一宮市の例

8月16日には、全国各地で花火大会が催されます。京都の五山送り火もこの日に行われます。盛大に送り火を焚いて、ご先祖様を供養しているのです。

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今日は彼岸の入りでした。

2017年03月17日 | 仏教全般

今日3月17日は春の彼岸の入りです。春分の日を中心に前後1週間がお彼岸です。

彼岸とは、彼の岸、つまり川の向こう岸のことです。悩み、迷い、苦しみのあるこの世界が川のこちら側で「此岸(しがん)」といいます。悩み、迷い、苦しみから抜け出した仏さまの悟りの世界が彼岸です。此岸から彼岸に渡っていくのが仏道修行です。

彼岸は、インド、中国にはなく、日本でうまれた仏教の行事です。
厳しい冬が終わって、草木が新しく芽吹き始める春の彼岸。暑さが去って収穫のときを迎える秋の彼岸。自然のとともに生き、自然に感謝してきた日本人らしい仏教行事だと思います。

当山の木蓮も今日開花しました。昨年の記事を見ると、2月28日に同じような写真を載せています。

(2016年2月28日の記事)

今年は寒いですね。

お彼岸のころには、太陽が真東から昇り、真西に沈み、1日の昼と夜の長さが同じです。「暑さ寒さも彼岸まで」といって気候もちょうどいい頃合いを迎えます。それがお釈迦さまの説かれた「中道」の教えに適っているといいます。極端な苦行でもなく、安逸をむさぼるのでもなく、仏道修行は、毎日毎日同じリズムで何年も継続していくうちに実っていくものだと思います。

お彼岸には、お寺にお参りして、お経を読んだり、僧侶の話を聞いたりして心を磨き、仏道修行に励むとともに、自然の恵みとご先祖様のご恩に感謝しましょう。

心證寺でもお彼岸の中日、3月20日彼岸会施餓鬼法要を営みます。江南市昭蓮寺石黒友大上人のお説教もあります。手作りのおはぎも召し上がっていただきます。

どうぞ皆さまおそろいでご参詣ください。

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大須観音の大須文庫

2017年03月15日 | 仏教全般

名古屋の大須観音です。

観音さまと下町風情に溢れる門前の商店街が名古屋の人々に親しまれています。東京で言えば浅草のような感じです。

この大須観音には、現存最古の古写本で国宝に指定されている『古事記』をはじめとして国宝4件、重要文化財37件、総数1万5千冊を越える古い書物があり、「大須文庫」と呼ばれています。


仏教、神道はもちろん、歴史、漢詩文などさまざまなジャンルの書物があり、日本最古、世界唯一という書物も多く含まれているそうです。
寺院の蔵書としては、日本で3本の指に入るほどの質と量です。

大須観音が創建されたのは、鎌倉時代末、後醍醐天皇の時代です。もとは現在の岐阜県羽島市にあったそうです。江戸時代のはじめ、名古屋の城下を整備するにあたって、現在地に移されたのだといいます。

かつて大須観音があったあたりは、現在も大須という地名で、そこにも「北野山 宝生院 真福寺」が建っています。

かつての大須観音は寺領が一万石を越える大寺院で、多くの僧侶が学び、国内外の数多くの書籍を意欲的に書き写し、学問に励んできました。創建された当時は尾張国でしたが、大雨で木曽川の流路が変わり、尾張と美濃の国境が変更されたため、秀吉の時代に美濃国に入れられました。大須という名が示すとおり、木曽三川に囲まれた大きな中州で、たびたび大洪水に見舞われまてきましたが、文庫の書物は大切に守り通されてきました。

さすがに戦国時代末期には、戦乱と度重なる洪水で荒廃していたそうですが、徳川家康が大須文庫の散逸を心配し、現在地に移転したのだそうです。

名古屋空襲で大須観音は焼かれてしまいましたが、大須文庫だけは大切に保管され、消失を免れました。

書物は、大切な知の遺産です。何百年にわたる多くの人々のなんとしてもこの書物を残したいという強い熱意によって今に伝えられてきました。これからも大切に受け継いでいきたいものです。

 


ポケモンGOと八正道

2016年12月12日 | 仏教全般

 

このごろ休日になると、うちの寺の門前にスマホの画面を見ながらやってきて、しばし立ち止まり、画面をこすって、ふたたび画面を見ながら立ち去っていく人をよく見かけます。

歩いている人もあるし、自転車の人もあります。若い人よりも結構なおとなが多くて、親子連れの時もあります。早朝、犬の散歩をしているときに見かけることもあるし、日が暮れてから画面の青白い光を顔に映しながら歩いていることもあります。たいていは、かなりの距離を歩くつもりで、それなりのいでたちをしています。

その人たちに共通することは、画面しか見ていないという点です。

木々の紅葉に目を留めるわけでも、鳥のさえずる方向に目をやるわけでも、家ごとに違う屋根組みを見上げるわけでも、路傍の仏に手を合わせるわけでもなく、ただひたすら画面を見ています。画面に映された街並みの中を歩いています。

もちろん、すれ違う人やそこで生活する人に、ほほえみかけたり会釈したりすることはありません。

ためしに、わたしはうちの門前に立っていた人の周りをその人をじろじろ見ながらぐるりと一回りしてみました。その人は、全くわたしに視線を向けることなく、画面をこすり続け、それが終わると何ごともなく立ち去っていきました。

うちのお寺の宝塔が「ポケストップ」とやらになっているらしく、ポケモンGOというスマホゲームをやりながらたどり着くようです。宝塔は礼拝の対象で、いつも花を供えてあります。手を合わせて祈りを捧げる場所なのですが、ポケモンGOをしている人で拝んでいく人はありません。

ポケモンGOは、室内にこもって熱中するゲームとは違って、外に出て、自分の足で歩き、ポケモンを探すうちに、いままで知らなかった町を歩き、新しい出会いや発見がある画期的なゲームだと思っていました。

しかし、実際は違うようです。ゲームをしている人は、仮想空間を歩いている。現実社会にいるのに、現実を見ていません。


わたしは、古い町並みを歩いたり、古い仏さまのいらっしゃる田舎の村里を歩いたりするのが好きです。

その土地の風土に合った家々、季節ごとの木々の色、そこに住む人々の営み。いろいろなものに目が行きます。目に見えるものだけでなく、頬をなでる風の感じ、土の匂い、花の匂い、水音、鳥や虫の声、五感を総動員してすべてを感じ取ろうとします。土地の人に会えば、その方たちの暮らしの場にお邪魔させてもらっているとの気持ちで頭を下げ、こんにちはと声をかけます。

人は、現実の社会の中でさまざまな人と関係し合って存在しているのに、ポケモンGOをしている人は、自分ひとりだけで仮想空間にいるつもりでいる。現実社会の中にいるのに、心は仮想空間の中にある。わたしにはとても違和感があります。

 

お釈迦さまは悟りを開かれてまず初めに八正道をお説きになりました。その第一が「正見」。物事を偏りのない正しい目で見ることです。

スマホゲームというフィルターを通すと、自分に都合のよいものしか目に入らなくなる、現実社会にありながら見えなくなる、これはとても恐ろしいことです。

この世界ですべてのものごとは互いに影響を及ぼし合い、つながり合っています。他と関係なしに独立して存在するものなどはありません。

お釈迦さまはそれを「諸法無我」とお教えになりました。自分という存在すら単独に存在するものではなく、互いの関係のなかで生かされている存在にすぎないのです。

また、私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりです。それを「一切皆苦」とお教えになりました。

スイッチを入れたり切ったり、リセットしたり。現実はゲームのように自分の都合で思い通りにできるものではありません。思い通りにできるからこそゲームは楽しいのでしょうが、しかし、それが現実社会と重ねられているというのは、よくないことだと思います。

自動車運転中にポケモンGOをして、現実社会にたしかに存在している歩行者が目に入らず、ひき殺してしまうという悲惨な出来事が起きています。

人は、この社会の中でお互いに関わり合って生きているのに、自分自身に都合のよいものしか目に入らなくなる。お釈迦さまの教えの八正道とは、かけ離れた生き方です。戒めていきたいです。

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出羽三山 4

2016年09月15日 | 仏教全般

羽黒山、月山、湯殿山と出羽三山に詣でました。

足を伸ばして、山寺に参拝しました。芭蕉の「閑かさや岩に染み入る蝉の声」の句が詠まれたことで有名です。

山寺は通称で、正式には宝珠山立石寺(ほうじゅさん りっしゃくじ)と言います。天台宗の寺院です。

いちばん麓に本堂があって、根本中堂と言います。

そこから、ひたすら石段を上がっていきます。

かつてはこの岩場を駆け巡って山岳修行が行われていたようです。

現在でも修行の場となっているようで、「これより先は修行の場所につき、危険ですので一般客の登山を禁じます」の立て札があるところも。

参道の途中、いたるところに、十一面観音、馬頭観音、地蔵菩薩、不動明王など古い石仏が祀られています。

ずいぶん登ってきました。岩の上に立つ開山堂。立石寺を開かれた慈覚大師の御堂です。このほかにも多くのお堂や支院が岩山の上に立てられています。

登ること1時間。参道の終点、奥の院に着きました。釈迦如来と多宝如来の両尊を御本尊とするので「如法堂」と呼ばれています。

釈迦如来と多宝如来の両尊を御本尊とするのは、法華経に基づいています。

自我偈を奉読して、下山しました。

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出羽三山 3

2016年09月13日 | 仏教全般

出羽三山を訪れています。羽黒山、月山の次は、湯殿山に向かいました。

月山から湯殿山に向かう田園地帯。北海道のような雄大さです。

湯殿山の大鳥居。

人間と比べてください。その大きさがわかります。

湯殿山本宮の入り口です。ここから先は、禁撮影。この奥で「ご神体」に間近に触れることができるのですが、そのご神体については、写真撮影が禁止されているだけでなく、昔から「語るなかれ、聞くなかれ」と言って、どんなものであったのか、人に言ってはいけないことになっています。

ですから、このブログでも書くことはできません。昔から多くの人に大切にされてきたことは尊重しなければなりません。

その夜は、湯田川温泉に泊まりました。こぢんまりとしていますが、昔ながらの風情の残った温泉地でした。

外湯を楽しむこともできました。観光客よりも地元の人が多く、毎日の生活の中に温泉があるという感じでした。

湯田川温泉HP

その温泉街に、由豆佐売(ゆずさめ)神社という神社がありました。

ここで、映画「たそがれ清兵衛」の村祭りのシーンを撮影したのだそうです。

藤沢周平は、山形県の出身。作品の舞台としてしばしば登場する「海坂藩」は藤沢周平の出身地鶴岡をモデルにしていると言います。

また、師範学校卒業後すぐ湯田川温泉の中学校で教鞭を執っていたそうです。

杉木立の奥に苔むした石段。その上に神社の社があります。映画で見るよりも狭く感じました。

続きます。

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出羽三山 2

2016年09月11日 | 仏教全般

前回の続きです。

羽黒山門前の宿坊に泊まって、翌朝、月山を目指しましたが、あいにくの雨。

車で8合目の弥陀ヶ原まで上がり、湿原の木道を歩きますが、ごらんのような視界。

山頂まで2時間30分とあります。残念でしたが、安全を考えて引き返すことにしました。

8合目にある月山中の宮にお参りしました。

狛犬ではなく、ウサギがお出迎え。さすがは月の山です。

ここにも、数多くの五輪塔や石仏がありました。

視界は悪かったのですが、足下にはかわいい花が咲いていました。

お花畑が広がっています。

高原の湿原にあるこのような小さな池を池溏(ちとう)と言います。

立山にも、同じ名の弥陀ヶ原というところがありますが、そこにも池溏がたくさんあります。

車で下りる途中、古い参詣の道を見つけました。3合目でした。苔むしていましたが、草に覆われていないところを見ると、今でもこの道を登って頂上を目指する人があるということなのでしょう。

次は湯殿山を目指します。

続きます。

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出羽三山

2016年09月09日 | 仏教全般

山形県にある羽黒山、月山、湯殿山を出羽三山と言い、古くから山岳信仰を中心に神仏混交の霊場として信仰を集めてきました。

その出羽三山に行ってきました。

県営名古屋空港から飛行機で1時間。山形空港に着きました。

はじめに訪れたのは、羽黒山。出羽三山を参詣するには、順序があって、羽黒山、月山、湯殿山の順に回るのだそうです。

参道入り口に立つ鳥居です。

羽黒山頂にある出羽三山神社まで、杉並木が続きます。1時間の登りです。

国宝五重塔です。出羽三山も今では神社になっていますが、明治までは、仏さまも神さまもどちらも大切にされていました。

明治政府が天皇家の祖先を神として崇拝させる国家神道を推し進めるために、神仏分離、廃仏毀釈などの政策が行われました。

日本人の自然な宗教観とは、かけ離れたものです。

参道脇には、こんな石碑も。「奉書写妙法蓮華経一字一石供養」と刻まれています。

戸隠奥の院参道にも同じものがありました。(戸隠山に行ってきました)

さらに参道を登って行きます。

登ること一時間、頂上の出羽三山神社が見えてきました。

拝殿はたいへん大きな建物でした。もとは羽黒山寂光寺というお寺だったそうです。

今は、羽黒山、月山、湯殿山それぞれの神さまをお祀りしています。

大きな釣り鐘もありました。

麓に下り、この日は羽黒山門前の宿坊に泊まりました。

(つづく)

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アンコールワットへのみち展

2016年06月20日 | 仏教全般

「アンコールワットのみち」展に行ってきました。(仏像神像の画像は名古屋市博物館のHPよりお借りしました)

9世紀ごろから15世紀ごろにかけてカンボジアの内陸部にアンコール王朝が栄えます。

その最盛期、12世紀くらいにアンコールワット寺院は造営されたそうです。

この展覧会は、「アンコールワットへのみち」と題されて、アンコール王朝成立以前の石像も数多く展示されていました。

会場は、名古屋市博物館。

アンコールワットは、ヒンドゥー教の寺院として建設されたそうですが、王様の代が変わると仏教寺院に作り替えられたり、またヒンドゥー教寺院に戻されたりしたそうです。

ヒンドゥー教は、多神教でたくさんの神々が存在します。また仏教に取り込まれたヒンドゥー教の神もあります。

ブラフマーです。四つの顔と四本の腕を持ちます。世界を創造した神とされています。仏教では梵天といいます。

お釈迦様が悟りを開いたとき、ブラフマーが悟りの内容をぜひ人々に教え聞かせてほしいと強く願い、お釈迦様は説法を始めたといいます。

「ナーガ上の釈迦」 ナーガとは、蛇の姿をした神で水辺に住み、雨を降らせたり、干ばつを引き起こしたり天候をつかさどるといいます。

お釈迦様が悟りをお開きになるとき、ナーガが守護したといいます。この像はその姿を現しています。

ナーガは仏典が漢訳されるとき「竜」と訳されました。天候をつかさどり、水辺に住んで霊力を持つ、まさに竜ですね。

法華経には八大竜王や天竜八部衆として登場します。八部衆の多くは、ヒンドゥー教の神が仏教に取り入れられた(インド古来の神が釈迦に帰依するようになった)ものです。

プラジュナーパーラミターという女神です。豊かな胸に口角の上がったほほえみ。髪を高く結い上げています。

頭上に化仏があるのは、日本の菩薩像と同じです。

「プラジュナーパーラミター」、漢字で書くと「般若波羅蜜多」。「知恵によって悟りの境地に至る」という意味ですが、この女神と大乗仏教がどうつながっているのでしょうか。残念ながら私は不勉強でよく知りません。

アンコールワット寺院が造立されたのは12世紀頃、日本でいえば平安時代にあたります。同時代のものでありながら、両者の仏像神像はずいぶん違っています。顔の表情とか、体つきとか、髪の結い上げ方とか、アンコールワットの仏像神像は、生身の人間に近く、日本の仏像は、人間とはちがう理想的、象徴的なお姿をしていると思います。

もとは同じ種であっても、根付いた土地によって、違う色の花が咲く。それでいいと思います。日本の仏教も日本に根付き、日本古来の信仰と結びついて日本ならではの仏教文化となっています。

ヒンドゥーということばは、インドとか、インダスとかと同語源で、ヨーロッパ人から見たインダス川の東側の地域を指した言葉です。現在のインドだけでなく、東南アジア、東アジア全体を指すこともあります。世界史で「東インド会社」というのを習った記憶があります。オランダの東インド会社は日本にもやってきて、当時鎖国していた日本の唯一の貿易相手でした。日本も東インドだったわけです。

ヒンドゥー教という宗教も、幅の広い緩やかなくくりの中にあります。お釈迦様以前のバラモン教も、お釈迦様の教えも広い意味でのヒンドゥー教に含まれることもあります。

ガネーシャ。破壊の神シヴァの息子です。あるとき、父シヴァが誤解から激怒し、ガネーシャの首を切って投げ捨ててしまいます。あとで息子だったと知ったシヴァが首を探しますが、見つけることができず、通りかかった象の首を切って取り付けたのでこの姿になったといいます。日本の仏教では、歓喜天として信仰されています。

ガネーシャの父シヴァは仏教では、大自在天といわれます。妻のパールヴァティーとともに、降三世明王に踏みつけられています。

(東寺の降三世明王)

密教の教えでは、降三世明王は、大日如来に遣わされて、バラモン教の神を降伏させ、仏教に改心させたといいます。

シヴァ神は、仏教では大自在天、または大黒天(暗黒の大王)と呼ばれています。

大黒天は、日本に来ると大国主(おおくにぬし)と結びつき、米俵に乗り頭巾をかぶった姿の大黒天となり、独自の信仰を集めています。

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しあわせ、さいわい、幸福

2015年11月08日 | 仏教全般

しあわせ、漢字では「幸せ」と書くことが多いですが、もともとは「仕合せ」と書いたようです。

江戸時代の浄瑠璃や浮世草子などでは、「仕合せ」と書かれています。

源氏物語、枕草子、徒然草などの平安、鎌倉時代の古典には、出てこないことばです。室町時代頃から使われ始めたことばのようです。

「仕合せ」とは、「することが合わさる」、つまり、ある人のすることと、またある人のすることがうまく合わさって、思わぬよい方向に運んでいくこと、よい巡り合わせという意味です。

しあわせというのは、自分一人で手に入れられるものではなく、だれかの助けがあってこそ、もたらされるものなのでしょうね。

ものごとがうまくいくか、行かないか。自分だけがどんなに頑張ってもうまくいかないことがよくあります。そんな時、思いがけないところから助け舟が出て、救われたという経験が、私にもあります。「則ち変化の人を遣わして之が為に衛護と作さん」という章句が法華経法師品にあります。目に見えない不思議な力が働いて、知らない誰かに助けられる、こんなこともあるのかもしれません。

源氏物語の頃は、「幸ひ」が使われていたようです。「幸ひ」はもっと古くは、「さきはひ」で、「さき」は、花が咲くの「咲き」や海の「幸(さち)」、あるいは、「さかえ」などと同語源で、自然の恵みがもたらされること、「はひ」は広がることを言うようです。

「さいわい」は、自然ともたらされるものというのは、いかにも日本人的だなあと思います。人が作り出すものではないんですね。

 

福の神、七福神、福は内、神仏によってもたらされるのは、もっぱら「福」ですね。法華経には、福徳、福寿、宿福なども含めて福という文字は50回以上出てきます。

日本には、「しあわせ」と「さいわい」と「幸福」が同居していて、面白いものです。

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連続テレビ小説マッサン エリー最後の言葉

2015年04月03日 | 仏教全般

   (画像はNHKのHPから)

連続テレビ小説「マッサン」が終了しました。その最終回、エリーの死後、悲しみに暮れて、何もやる気が起きないマッサンが、エリーから「私が死んだら読んでね」と渡された手紙を思い出し、封を切ります。

その手紙の最後は、こう結ばれていました。

「一日に一度、夜寝る前に、私のことを思い出してください。そして、おやすみと言ってください。そしたら、私もおやすみなさいと言って眠ります。マッサンには見えないかもしれないけど、私はいつもマッサンのそばにいます。だから寂しがらないでね。ありがとう。おおきに。」

人は死んだらどうなるのでしょう?

目には見えないけど、いつもそばにいて、残された大切な人を見守っているのでしょうか?

きっと、そうですね。

仏さまも、見えないけれど、いつもそばにいて、見守ってくださいます。

亡くなった方や、仏さまにも、毎日、花や水やお供え物をして、言葉をかけることは、とても自然なことですね。

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法華曼荼羅と宝塔

2014年12月01日 | 仏教全般

昨日のブログで長谷寺の法華説相図のことを書きました。

今日は、曼荼羅の話。

密教では、仏さまの世界を、曼荼羅という絵で表します。金剛界曼荼羅や胎蔵界曼荼羅はよく知られていますが、このお釈迦さまが法華経をお説きになる場面を描いた法華曼荼羅という絵曼荼羅もあります。

(法華曼荼羅 (恵什・永厳 著 『図像抄』より) 画像はウィキペディアから)

中央に宝塔が描かれ、釈迦如来と多宝如来が並んで座り、周りを多くの仏さま、神さまが取り囲んでいます。

この法華経に出て来る多宝如来の塔は、多宝塔として、各地の寺院に建立されています。

お釈迦さまがご入滅になると、遺骨はストゥーパに祀られました。ストゥーパはインド、中国を経て日本に伝わり、日本の風土にあったものに姿を変えました。五重塔や多宝塔、五輪塔、石塔、木製の卒塔婆もすべてストゥーパ、つまりお釈迦さまそのものです。

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