心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

長瀧白山神社と長瀧寺 2

2017年10月28日 | 仏像巡り

長瀧白山神社に来ています。

同じ境内に長瀧寺があります。天台宗の寺院になっています。

長瀧寺も白山神社も元は一つでした。白山を神としてあがめ、仏の姿を思い描き、山中で修行しました。

白山神社に宝物館があります。

釈迦如来座像。向かって右は普賢菩薩、左は文殊菩薩。(写真はパンフレットから)

とてもきれいな仏さまです。

四天王像もありました。彩色がとてもよく残っていました。

(宝物館のチケットを写真に撮りました。)

白山には山頂の堂塔にも多くの仏像があったようです。

明治の神仏分離にともない多くは廃棄されてしまいましたが、一部の仏像は山から下ろされ、下山仏として加賀側の麓の村で大切に守られています。

 

長瀧白山神社から石徹白に向かう山中に阿弥陀ヶ滝があります。

白山を開山した泰澄が発見し、長滝と名づけたそうです。現在の白山長瀧の地名の由来ですね。

戦国時代に長滝寺の僧が長滝の近くの洞窟で修業していたところ、目の前に阿弥陀如来が現れ、阿弥陀ヶ滝と呼ばれるようになったそうです。

白山は、美濃からも加賀からも越前からも真っ白に雪をかぶった姿を見ることができます。白山を源として、手取川(石川県)、九頭竜川(福井県)、長良川(岐阜県)、庄川(富山県)の4つの大河が流れています。

白山の水は、稲作を営むふもとの人々には命の水でした。人々は山を仰いで自然と手を合わせてきました。

その神聖な山懐に身を置き、自然の偉大さを感じ、自然と一体となり、神仏の領域に近づこうとした人々が山で修行を始めました。

日本人にとってとても自然な信仰のあり方だと思います。

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長瀧白山神社と長瀧寺 1

2017年10月26日 | 仏像巡り

今年は白山開山1300年。

白山には、美濃から、越前から、加賀からの三つの登拝の道がありました。

美濃からの道は今の国道156号に重なります。

等間隔に真新しい灯籠が建てられています。

長瀧白山神社の駐車場にはこんな石碑も。

ということで、長瀧白山神社に行ってきました。

白山長瀧寺も同じ境内にあります。

参道の両側には塔中寺院の跡がいくつも残っています。

その中の一つ。拾った石を持ったまま、息を止めて祠を三回まわると健康になれるそうです。

神社の拝殿が見えてきました。

大きな拝殿です。

江戸時代までは仏さまと神さまの両方をお祀りする大きな大きな寺院だったようです。

拝殿に神職の装束を見につけた立ち居振る舞いの美しい女性がいらっしゃって、いろいろとお話をしてくださり牛王宝印を押してくださいました。

あとで立ち寄った白山文化博物館でお聞きすると、長瀧白山神社の社家で、およそ千二百五十年前から代々神主として奉仕されている若宮家の奥様

だったようです。

白山長瀧神社近くにある若宮家。若宮修古館という博物館も併設しています。

つづく。

 


石徹白の白山中居神社と石徹白の大杉 2

2017年10月14日 | 仏像巡り

(前回からのつづき)

石徹白の白山中居神社を訪ねています。

白山中居神社に「磐境(いわさか)」がありました。

社を建立して神様をお祭りするようになる以前の古代において、神様が天から降りてこられて、鎮座していらっしゃる石やその聖域を磐境とか岩倉、磐座と呼んだようです。

白山の神様がここに降りてこられたのでしょうか。

心證寺がある愛知県一宮市近辺でも、真清田神社や国府宮神社、その名も岩倉の新溝神社などに岩倉があるそうです。

 

白山中居神社をあとにして、石徹白の大杉に向かいました。

片側は崖、もう片側は川、路面はわき水でびしゃびしゃ、落石ごろごろ、車がすれ違えない細い林道を20分ほど進んでいくと白山登山口にたどり着きました。

ここから白山の登山道が始まります。白山までは14時間だそうです。

石徹白の大杉までは、石段になっています。

気持ちのいいブナの自然林を登っていきます。

尾根にたどり着くと、大きな杉が何本も現れました。これまでと明らかに植生が違います。

人の手で植えられたものだと思います。

歩くこと10分。石徹白の大杉にたどり着きました。

樹齢1800年。幹周り14m。幹は途中で折れてしまっていますが、堂々たる巨木でした。

続きます。

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石徹白の白山中居神社と石徹白の大杉。

2017年10月09日 | 仏像巡り

今年は、白山開山1300年だそうです。

泰澄という越前に生まれた僧が、奈良時代の養老元年(717)、白山に登り、頂上で祈ると池から九頭竜が姿を現し、十一面観音に姿を変えたと伝えられています。

美濃白鳥の白山長滝神社に伝わる白山曼荼羅の一部です。(パンフレットを写真に撮りました)

    月輪            日輪

   大汝峰    大御前峰    別山

  越南知権現  白山妙理権現  別山大行事

白山妙理権現は「しらやまひめ」という女神で、十一面観音さまが姿を変えてこの地に現れと考えれています。

 

さて、奥美濃に石徹白(いとしろ)という地区があります。

現在では郡上市の一部になっていますが、その前は白鳥町、昭和33年までは福井県石徹白村でした。

江戸時代には、越前国でありながら郡上藩の一部とされていました。

他の地区とは違う、特別な土地だったようです。

 

石徹白は平安時代以降、白山信仰の美濃からの登拝口として、「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほど白山に登拝する人々で栄えた土地でした。

近世(明治)まで、神に仕える人が住む村としてどこの藩の支配も受けず、年貢は免除、名字帯刀が許されていたそうです。

江戸時代の藩による農民支配が及ばず、「中世的支配体制」が明治になるまで維持され、独特の文化が形成されました。

石徹白の人々は、夏は宿坊に参詣者を迎え入れ、先達として白山登拝の案内をし、冬は「御師(おし)」として全国各地を巡りお札を配り信仰を広めていました。

 

石徹白村の集落の一番奥に、白山中居(ちゅうきょ)神社があります。

銅製の鳥居です。

鳥居をくぐり、杉の巨木に囲まれた参道を進みます。

宮川という清らかな流れを渡ります。

お社にたどり着きました。

赤い屋根の社は、大宮殿。白山妙理大権現を祀っています。

神社の由緒には、菊理媛(きくりひめ)大神、伊弉諾尊(いざなき)、伊弉冉尊(いざなみ)を祭神としています。

明治以降の国家神道影響下で、天皇家につながりのある神話上の神々に置き換えられたのでしょうか。

御本社は、大宮殿の奧、この急な石段を登ったところです。

雪深い土地なので、御本社は、木製の覆いが掛けられています。

御本社。江戸時代の彫刻が見事です。

白山中居神社をあとにして、石徹白の大杉を見に行きました。

(つづく)

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中秋名月

2017年10月04日 | 自然の営み

今夜は中秋の名月。

本堂の扉を開け放って、すすき、萩と月見団子をお供えしました。

本当の満月は、あさってだとか。

あさってといっても、満月になる瞬間は、あさっての未明だそうで、明日の夜出た月が日付が変わった頃に満月を迎えることになるので、明日の夜の月が一番の満月でしょうか。

月齢と旧暦の日付は、ほぼ一致していますが、月が楕円軌道で地球の周りを回っているので、満月になるのが15日よりも早くなったり遅くなったりするのだそうです。

いずれにしても、今夜の月は青く、冷たく、いかにも清涼、清浄で、こころ洗われる感じがしました。

空の高いところから、どうかわたしたちを見守りくださいと祈りました。

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桑名の六華苑 3

2017年10月01日 | 旅行

(前回の続き)

桑名の六華苑に来ています。

ふたたび洋館へ。

二階のバルコニーから芝生の庭園が望めます。

庭園に回ってみました。

洋館の前は芝生になっていて西洋風。

ぐるりと回ってみると池泉回遊式庭園になっています。

敷地の北西隅にはお稲荷さんの社。

六華苑を出て、揖斐川の堤に上がってみると見えたのは、長良川河口堰。巨大な人工物が川の流れをせき止め、干満に伴う潮の流れ、生き物の行き来を遮り、命の豊かさを奪ってしまいました。

七里の渡し跡。ここから宮(熱田神宮)まで、東海道は海上を行きました。

桑名は東海道で西国から東国に出る重要な場所。家康は関ヶ原の戦い後、まだ大阪に豊臣秀頼がいる頃、この地を徳川四天王の一人本多忠勝の領地としました。同様に中山道から東国に出る要地の彦根には、やはり徳川四天王の一人井伊直政を置きました。

復元された桑名城の蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)の上に月が出ていました。

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