心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

水のいのち

2014年12月27日 | 法華経

「水のいのち」という合唱組曲があります。合唱をやっていた人ならほとんどの人が歌った経験があるくらいポピュラーな曲です。
私も学生の頃、作曲者自身の指揮で歌ったことがあります。

その第一楽章
高野喜久夫作詞 高田三郎作曲
「雨」

降りしきれ雨よ
降りしきれ
すべて
立ちすくむものの上に
また
横たわるものの上に


降りしきれ雨よ
降りしきれ
すべて
許しあうものの上に
また
許しあえぬものの上に


降りしきれ雨よ
わけへだてなく
涸れた井戸
踏まれた芝生
こと切れた梢
なお ふみ耐える根に


降りしきれ
そして 立ちかえらせよ
井戸を井戸に
庭を庭に
木立を木立に
土を土に


おお すべてを
そのものに
そのもののてに


文字だけでなく、曲付きの方が心に届くと思うので、youtubeで検索して、聞いてみてください。
なぜこんなことを書いたのかというと、「これって法華経の薬草喩品だー。」と最近気付いたんです。学生の頃は全然気づかなかった。

作詞者の高野喜久夫さんが、法華経と縁があったかどうかは、今となっては知るすべがありませんが、法華経の教えは、長い年月のうちに日本人の心に自然としみこんで、根を張り葉を広げ、ここにも一つの花を咲かせたのでしょう。

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不思議な天井

2014年12月24日 | 心證寺

本堂内陣の格天井。メンテナンス用に、隅の一枚だけ外せるようになっている。

その一枚が大きくずれていたので、きちんと直したのが先月はじめ。

昨日気付くと、また大きくずれている。

泥棒が入った形跡はない。

天井裏に何か棲んでいるような音はしない。

じゃあ、何が通る道なの?サンタクロース?

本堂の仏さまがお出かけに?

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掲示板開設

2014年12月23日 | 心證寺

「掲示板、新設しました。」と書くとWEB上のことと思うかもしれませんが、

屋外の壁面に取り付けるポスターなどを貼る板のことです。

山門脇にもあるけれど、本堂裏の方が少しでも人通りが多いので、そちらにも新設。

材料費約2000円。手作り。

 

お寺は、お檀家さんとの強い結びつきと信頼関係があって、成り立っている。

それだけに、ともすると、閉鎖された空間になりがち。

これまで 仏教に縁がなかった人でも、お寺の行事を通じて、仏さまとのご縁を結ぶことができたらと思っています。

通りすがりにふと目が行く、行ってみようと思う。何かに導かれてのことかもしれません。

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新年祈祷会

2014年12月21日 | 心證寺

心證寺では、毎年1月3日午後、当山に古くから伝わる木造鬼子母尊神立像を開帳して、新年祈祷会を厳修しております。

鬼子母神は自分の子どもたちを育てるために他人の子をさらって食べさせる悪鬼でしたが、お釈迦様の教えを受け、改心して、すべての子どもたち、お釈迦様の教えを信じるすべての人達を守ることを誓い、法華経の守護神となりました。

修法師が木剣を振って、邪気を切り裂きます。修法師は、寒中百日に及ぶ大荒行を成満しています。荒行中は、一日七回の水行と萬巻の読経。

経筒で身体をたたき、邪気を追い出します。経筒の中には、修法師が大荒行中に自ら書き写した法華経が納めてあります。

一年の健康、安全、無事、学業成就などを祈ります。みなさまでお参りください。

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12月の大雪

2014年12月18日 | 法華経

12月の大雪。9年ぶりとか。20cmくらい積もりました。

 

法華経に、雨という文字は48回使われています。「雨」そのものだったり、「ふらす」と読んだり。

観音偈に「雲雷鼓掣電し 雹(あられ)を降らし大雨をそそがんに」とありますが、雹(あられ)は雷雨とともに降る「ひょう」のことです。

 

法華経に「雪」という文字は出てきません。「氷」も出てきません。北インドでお生まれになったお釈迦さまは、雪が降るのをご覧になったことがないのかもしれません。

日本に伝わってきた仏教。雪。氷。冬の厳しさと仏道修行。日本人の精神性によく合っています。

 

ヒマラヤ山脈の輝く雪峰をお釈迦さまは、ご覧になったのでしょうか。

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苅安賀追分の観音さま

2014年12月14日 | 路傍の仏

12日のブログに載せた「尾張名所図会」苅安賀全図のEの地点。

現在の国道155号と巡見街道が分岐するところになります。

その三角形の土地にお御堂があって、観音さまがいらっしゃいます。

中を拝見させていただくと、

十一面観音さまでした。蓮のつぼみの水瓶を手に、座っていらっしゃいます。光背に十七番と書いてあります。

西国三十三観音霊場の十七番は、京都の六波羅蜜寺。十一面観音が御本尊です。

お御堂の正面、屋根のすぐ下に扇形の額のようなものが上げてあります。

十七番  おもくとも いつつのつみは よもあらじ ろくはらどうへ まいるみなれば

      (重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば)

御詠歌でした。

そのお御堂の脇に古い道標。

右 名古屋 左 一ノ宮 浅井

側面には、弘化4(1847)年2月 異国船が各地の海岸に現れ、攘夷か開国かで国が揺れていた頃です。

かつては、道の南側にあったといいます。

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苅安賀城と心證寺5

2014年12月12日 | 尾張の歴史

12月8日に「尾張名所図会」の苅安賀全図を載せましたが、画像が小さくて、よく見えないので大きな画像のリンクを貼ります。

苅安賀全図

「尾張名所図会」は、天保12(1841)年刊なので、苅安賀城廃城から200年以上経っています。

 

Aが苅安賀城址です。Bが浅井氏墓。Cが心證寺。Dが今もそのまま残る日蓮宗苅安賀三ケ寺(西から国照寺、蓮照寺、妙栄寺)

Eは追分。東へ行くと一宮。南へ行くと妙興寺を経て名古屋。

150年前の絵図ですが、終戦直後、米軍が撮った航空写真と比べると、ほとんど変化はありません。

その後の、高度成長、農村部の都市化で大きく変貌しました。

続きは後日。

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*公開当初天保12年の西暦表示を誤って記しており、教えていただきました。ありがとうございました。(27/2/6)



苅安賀城と心證寺4

2014年12月10日 | 尾張の歴史

一昨日の続きです。

関ヶ原の戦いが終わり、戦乱の世に幕が引かれると、苅安賀城は役割を終え、廃城となります。

城主であった浅井田宮丸の母は、豊後佐伯藩の初代藩主となった毛利高政の妹(娘との説もある)ということで、尾張藩主徳川義直により扶持を与えられ、村人から「かりやすか殿」と敬われ、苅安賀で生涯を全うしたといいます。

尾張徳川家は、苅安賀に別邸を持ち、鷹狩りに訪れていた記録があります。

「かりやすか殿」は、養子を迎え、浅井家は存続します。子孫は代々、浅井七左衛門を名乗り、心證寺を創建した浅井七左衛門正貞は、3代目にあたります。

「尾張志」 天保5(1844)年

江戸時代の資料としては、大変読みやすい字です。

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苅安賀城と心證寺3

2014年12月08日 | 尾張の歴史

昨日の続きです。

天正12(1584)年3月、尾張領主織田信雄は、浅井田宮丸、津川義冬、岡田重孝の三家老が秀吉と内通したと疑い、信雄が当時居城としていた伊勢長島城に3家老を呼び出し、謀殺してしまいます。これが秀吉の策略だったと知ると、信雄は激怒し、家康に助力を求め秀吉と対決します。これが発端となり「小牧、長久手の戦い」が始まります。
苅安賀城は、田宮丸殺害と同時に信雄の命を受けた森勘解由の軍に攻め込まれ、落城。森勘解由はそのまま苅安賀城に入ります。家康は美濃の秀吉軍に備え、美濃西部に最も近い苅安賀城の普請を命じています。
秀吉と家康が、唯一直接対戦した小牧長久手の戦いは、双方大きな痛手を避けたまま、半年後に和睦します。

小牧長久手の合戦関連年表(小牧市ホームページ)

苅安賀全図 「尾張名所図会」  天保12(1851)年刊 

左ページ中央やや左に「古城址」、その右上に「浅井氏墓」。心證寺は右ページ中央に書かれています。

 

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苅安賀城と心證寺2

2014年12月07日 | 尾張の歴史

 12月5日「苅安賀城と心證寺1」の続きです

 浅井新八郎は天正9(1581)年に亡くなり、十六歳の長男、田宮丸が跡を継ぎ、織田信忠(信長の長男)に仕えます。田宮丸というのは幼名で、「長時」という名があったようですが、まだ若かったため、いろいろな歴史資料には浅井田宮丸と記されています。天正10(1582)年「本能寺の変」で主君の信忠が信長とともに討ち死にします。清須会議の結果、信長の二男、信雄(映画「清須会議」では妻夫木聡が演じました)が尾張領主となり、田宮丸は織田家家老として信雄に仕えることとなります。

続きはまた、後日

  

安永8(1779)年に書かれた「蓬州旧勝録」

愛知県図書館のサイトでPDFで見ることができる。

心證寺について書かれているページ

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木蓮の蕾

2014年12月06日 | 心證寺

当山には、白木蓮があるのですが、このところの冷え込みでみるみる葉が散って、枝に残っているのはあとわずか。

葉が散ると、枝先には、来春ひらく蕾が。

きょうは、初雪も降りました。ひと冬、寒さに耐えて、春、まっ白な花をたくさんつけてくれます。

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苅安賀城と心證寺1

2014年12月05日 | 尾張の歴史

12月3日の続きで、苅安賀城の話です。

 
 苅安賀城は、尾張平野の中央に位置し、浅井新八郎政貞(政高、高政などと書いた資料もあります)が永禄四(1561)年に築いた城です。桶狭間の戦いの一年後のことです。新八郎は近江の出身で、小谷城主浅井長政(お市の方が嫁いだ先)の従弟にあたります。(織田信長の父信秀の頃からの家臣とする資料もあります)

また、山内一豊も母方の従弟の子にあたり、永禄二年(1559)の岩倉城落城後、一豊は一時苅安賀城に身を寄せていたと言います。

新八郎は織田信長に仕え、「近江箕輪城攻め」、「比叡山攻め」、「長島攻め」などで活躍しました。信長が長男の信忠に家督を譲ると、尾張領主となった信忠に仕え、新八郎は織田家の家老となり一万三千石を拝領します。

豊後佐伯藩の初代藩主となる毛利高政の妹お亀殿と結婚し、少なくとも2男1女をもうけています。

毛利高政は、元は森高政(勘八)と言い、苅安賀の隣、花井方村の出身といわれます。秀吉毛利攻めの途中、本能寺の変が起こり、和睦の条件として森高政が毛利家に人質として入ります。高政は毛利輝元に気に入られ、森姓を毛利と名乗ることを許されたといいます。

この続きは、また後日。

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拓本2

2014年12月03日 | 心證寺

11月23日のブログで、当山境内の石塔の拓本をとったお話しをしました。

今日は、その続き。

一番左の一枚が石塔の左面で、心證寺創建の由来が書かれていました。

読めなくなっている字もありましたが、そこには、おおよそ

浅井七左衛門平正貞は、父の心證院宗孚日解居士、母の成等院妙孚日悟大姉の菩提を弔うために、尾州苅安賀村に一寺を創建し、成等山心證寺と名付けた。殊に田畑二反を寄進し、寺の財産とした。浅井氏並びに従者はこの寺の壇越である。寺の住職は祈願と回向を怠ってはいけない。

と書いてあります。浅井七左衛門正貞という人は、尾張織田家の家老を務めた苅安賀城主浅井政貞の五代後裔です。

苅安賀城と浅井氏のことは、次回以降。

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日蓮聖人の曼荼羅

2014年12月02日 | 日蓮宗

  

おととい、きのう、法華説相図と法華曼荼羅のことを書きました。

きょうは、日蓮聖人のお曼荼羅です。

日蓮聖人は、佐渡流罪中、あばらなお堂の中で一心に法華経を読誦なされているとき、お釈迦さまはじめ無数の仏さまと神さまが姿を現し、ご自身のまわりを囲むように守ってくださっていることを感じ取られました。そのようすを文字で書き表したのが、日蓮聖人の大曼荼羅です。

(臨滅度時本尊 鎌倉・妙本寺蔵 画像はウィキペディアから)

中央に光を放って世界を照らすお釈迦さまの教え、すなわち妙法蓮華経。周りには、釈迦如来、多宝如来はじめ、多くの仏さま神さま。四隅には四天王。中央下には、仏さまに囲まれ、座っていらっしゃる日蓮大聖人ご自身。

わたしたちが、いつもお釈迦さまはじめ、たくさんの仏さま、神さまに守られていることを表しています。

日蓮宗では、このお曼荼羅を御本尊として拝んでいます。

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法華曼荼羅と宝塔

2014年12月01日 | 仏教全般

昨日のブログで長谷寺の法華説相図のことを書きました。

今日は、曼荼羅の話。

密教では、仏さまの世界を、曼荼羅という絵で表します。金剛界曼荼羅や胎蔵界曼荼羅はよく知られていますが、このお釈迦さまが法華経をお説きになる場面を描いた法華曼荼羅という絵曼荼羅もあります。

(法華曼荼羅 (恵什・永厳 著 『図像抄』より) 画像はウィキペディアから)

中央に宝塔が描かれ、釈迦如来と多宝如来が並んで座り、周りを多くの仏さま、神さまが取り囲んでいます。

この法華経に出て来る多宝如来の塔は、多宝塔として、各地の寺院に建立されています。

お釈迦さまがご入滅になると、遺骨はストゥーパに祀られました。ストゥーパはインド、中国を経て日本に伝わり、日本の風土にあったものに姿を変えました。五重塔や多宝塔、五輪塔、石塔、木製の卒塔婆もすべてストゥーパ、つまりお釈迦さまそのものです。

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