心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

迫間不動から各務原アルプスへ

2019年03月09日 | 仏像巡り

各務原市と関市の境に通称「各務原アルプス」があります。

標高は350m程ですが、いくつものピークをアップダウンしながら見晴らしのよい尾根が縦走できて、歩きごたえのあるところからそう呼ばれています。

今回は迫間不動尊(さまふどうそん)から北コースの尾根に上がり、反時計回りに歩いて各務野自然遺産の森に下りて、迫間不動尊にもどるやさしいコースを歩きました。

迫間不動尊です。車を迫間不動尊の駐車場に置き、農産物直売所でみかんを買って車に積んで再びスタートしました。

鳥居をくぐり、両脇に不動明王やお地蔵さま、観音さまなどがたくさん並んでいる中、階段をどんどん登っていきます。

本堂にお詣りしてさらに奥の院を目指して登ります。谷の最奥部に滝があり、その脇に岩窟があります。奥の院はその岩窟の中です。

迫間不動尊は古くからの山岳信仰の霊場だったようです。山を歩き、滝に打たれ、岩窟の中で祈る。いまも厳かで霊的な空気が充満しています。

奥の院脇から斜面を直登すると、尾根に出ます。

八方不動の社があります。

鞍馬天狗も祀られています。

尾根からは素晴らしい眺望

右が御岳、左は乗鞍。

ピークを三つほど越して振り返ったところです。

各務野自然遺産の森に出て、東海自然歩道を登り返して迫間不動尊に戻りました。

穏やかな冬晴れの一日でした。

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各務原おがせ池の八大竜王

2019年03月04日 | 仏像巡り

各務原市に「おがせ池」という池があります。

農業用のため池のようですが、いつ作られたのか、はっきりせず、奈良時代に一夜にしてできたという言い伝えもあります。池の水は涸れることがないそうです。

大蛇が棲む、龍神が棲む、龍宮の入り口などいくつもの伝承があるそうです。

この池に「八代龍王総本殿」があります。

拝殿の向こうは池。池の中に建てられた祠を拝む形になっています。

八大龍王は法華経に登場します。

法華経の序品、お釈迦様が霊鷲山で法華経をお説きになろうとされたとき、数え切れないほど多くの聴衆がお釈迦様を囲んでいました。

高い悟りの境地に至り人々を教え導いている何万の菩薩たち。煩悩を離れ迷いを去った何万の阿羅漢たち。法華経を守護する八部衆が数え切れないほど多くの弟子や一族を率いて集まっていました。

八部衆というのは、天、龍、夜叉、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩睺羅伽(まごらが)のことです。

天部には、梵天、帝釈天、四天王などがいらっしゃり、それぞれが何万もの天子を連れていました。

乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆は、それぞれ四人の王が数千の従者を連れていました。

そして、八大龍王とは、難陀(なんだ)龍王、跋難陀(ばつなんだ)龍王、娑伽羅(しゃから)龍王、和脩吉(わしゅきつ)龍王、徳叉迦(とくしゃか)龍王、阿那婆達多(あなばだった)龍王、摩那斯(まなし)龍王、優鉢羅(うはっら)龍王のことです。それぞれが数千の従者と一緒にお釈迦様の説法を聴きに集まっていました。

 

龍王は海底や湖底の宮殿に住んでいます。水を自在に操り、雲を呼び雨を降らせます。

おがせ池にも龍神様が棲んでいるのでしょうか。

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紀三井寺を参拝しました2

2018年12月11日 | 仏像巡り

紀三井寺を参拝しました。続きです。

階段を登り切ると、右手にまだ新しい鉄筋コンクリート造りの建物が見えてきます。

仏殿といい、2008年に落慶法要が行われました。

内部には千手観音が安置されています。

高さ12m、木造の寄木造りの仏像としては日本で一番大きいそうです。

本堂です。額に救世殿とあります。観音さまは世界を救うのです。

ご本尊は秘仏十一面観音です。

伽藍からは和歌の浦が一望できます。素晴らしい眺望でした。

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紀三井寺を参拝しました。

2018年12月10日 | 仏像巡り

紀三井寺を参拝しました。

紀三井寺は和歌山市にある観音さまを本尊とするお寺です。

西国三十三観音霊場の二番札所にもなっています。

創建は奈良時代。唐から来られた為光上人がこの地に千手観音を感得されて仏像を彫り、堂宇を建立されたのだそうです。

境内には三つの霊泉が湧き、そこから紀州の三つの井戸の寺、紀三井寺と呼ばれるようになりました。正式には紀三井山金剛宝寺護国院といいます。

重要文化財の山門をくぐると目の前に現れるのは、立ちはだかる壁の如き石段。231段あるそうです。

石段の両側には塔頭寺院が立ち並んでいます。

城壁のような石垣が組まれています。

この地に産出する紀州青石(緑泥片岩)が使われています。

和歌山城や紀州東照宮にも使われているそうです。

薄く剥がれやすいため、横長の石を組んで石垣が作られています。

緑泥片岩の地層は、中央構造線に沿って伊予から伊勢まで続いているそうです。

石段を登り切って正面に現れるのが六角堂。

西国三十三観音霊場の観音さまが祀られているそうです。

つづく

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石清水八幡宮に行きました 2

2018年07月05日 | 仏像巡り

石清水八幡宮に行ってきました。

麓からはケーブルカーで上がります。

高低差82m。乗車時間は3分。あっという間です。

ケーブルカー終点近くの展望台からの眺望。京都方面を望みます。

南総門です。

総本社。国宝です。

本社の背後にもたくさんの社がありました。

帰りは歩いて山を下りることにしました。

ケーブルカーの駅は本殿の後ろ側にありました。歩いて下りるには表参道を下ります。

両側に燈籠の立つ表参道がまっすぐに伸びています。男山の山頂は結構広いことがわかります。

表参道の脇にはかつてたくさんの塔頭寺院が並んでいたそうです。

高く積まれた立派な石垣が残っています。

参道脇にこんなに多くの寺院が並んでいるなら、かの仁和寺の法師もそのまま流れに従って参拝していれば自然と山頂の八幡宮に行き着いていたのにと思いました。

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石清水八幡宮に行きました 1

2018年06月21日 | 仏像巡り

徒然草に仁和寺(にんなじ)の法師が石清水八幡宮に参拝する有名な話があります。

こんな話です。すこしふくらませて書きます。

仁和寺は京都の御室(おむろ)にある大きな寺院で大勢の僧侶が生活を共にしながら修行に励んでいます。その中の一人のお坊さん、何十年もの間、ひとすじに修行に打ち込んできました。気づいてみると、もう老年です。死ぬ前に一度、あの有名な石清水八幡宮に参拝したい。そう思い立ったお坊さんは、たった一人、歩いて参拝に出かけます。

(あれ、お坊さんがどうして神社に?と思う方があるかもしれませんが、日本人はずっと神様も仏さまも区別なく尊いものとして崇拝してきました。明治の神仏分離が人為的なものだったのです。)

「たった一人、歩いてお詣りした」と兼好法師が書いているところが、この話のポイントです。石清水八幡宮は京の南西、桂川、宇治川、木津川が合流するあたりにあります。京の人たちは、集団で船に乗り、わいわい騒ぎながら川を下り、さながらバスツアーのように観光気分で石清水八幡宮に参拝するのが普通でした。しかし、このお坊さんは「物見遊山ではない。純粋に信仰のために行くのだ。」とたった一人、歩いて参拝に出かけたのでした。しかし、このかたくなさが失敗を招きます。

石清水八幡宮は、男山というそれほど高くない(ふもとからの高低差は100mくらい)山の山頂の平らな部分にあります。ふもとにも、参道にもたくさんの摂社や寺院が並んでいます。このお坊さんは石清水八幡宮のふもとに着き、極楽寺と高良社だけを拝んで満足して帰ってしまいます。

お寺に帰って周囲の人に満足げに語ります。「長年の願いを果たすことができた。聞いていたよりもずっとずっとありがたい所だった。しかし、他の参拝者たちはこぞって山に登っていた。何があるのだろうとは思ったが、神様にお詣りすることこそが本来の目的なのだから山までは見てこなかった。」ときっぱりと言い切ったのでした。もちろん、その山の上こそが石清水八幡宮だったのです。

兼好法師は出家したお坊さんです。しかし、交友関係も広くなかなか柔軟な考えの持ち主だったようです。そんなにかたくなにならず、仲間ともっと楽しくお参りすればよかったのに。兼好法師はそんなニュアンスで書いています。

仏道修行を積んだ人の中には、残念ながら自分こそがだれよりも立派になっていると思い、人を見下すような態度になる人があります。

お釈迦様はこういう態度を我慢(強い自我意識から起こる慢心)とか増上慢(まだ悟りを得ていないのに、悟ったと思って高ぶること)などと言って戒めになられました。

この仁和寺の法師の心に我慢や増上慢はなかったのでしょうか。

 つづきます。

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猿投神社の千手観音 3

2018年04月27日 | 仏像巡り

猿投神社の千手観音が修復されて、豊田市郷土資料館で公開されていると聞いて行ってきました。

その足で猿投神社にも参拝しました。(前回のブログ)

今回修復された十一面観音立像は、猿投神社境内外の山中観音堂に秘仏本尊として安置されていたそうです。

猿投神社の奧、山を少し入ると観音堂はありました。

建物は、室町時代のものだそうで、中尊寺の金色堂のように鞘堂で覆われています。

猿投山は、古くから山岳信仰、巨石信仰のあった山で、猿投神社の神宮寺として白鳳寺という大寺院があり、最盛期には16坊を有していたそうです。

今回修復された十一面観音立像も平安時代の仏像とみられています。

観音堂のすぐそばに、大悲殿東昌寺というお寺がありました。

境内にたくさんの石の仏さまがいらっしゃいました。

どんな仏さまでしょうか。

これは新しい感じ。

猿投山の歴史を静かに見守ってこられたのかもしれません。

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猿投神社の千手観音 2

2018年04月19日 | 仏像巡り

猿投神社の千手観音が修復されて、豊田市郷土資料館で公開されていると聞いて、行ってきました。(前回のブログ)

その足で猿投神社にも参拝しました。

猿投神社は、猿投山の麓に本社があり、山中に東の宮、西の宮があるそうです。

最初に見えてきたのは、黄色い大きな鳥居。

鳥居をくぐり、石橋を渡り、総門をくぐると杉並木の参道が続いています。

こんな立派な杉の木もありました。

参道の先に今度は茶色い鳥居。その向こうが拝殿です。

祭神は、大碓尊(おおうすのみこと)。景行天皇の子、日本武尊の双子の兄です。

大碓尊は、猿投山の山中で毒蛇にかまれてなくなったとされ、猿投神社西の宮近くに墓所があり、宮内庁により管理されています。

猿投という地名は、景行天皇が伊勢国に行かれたとき、飼っていた猿が悪さをしたため、伊勢湾に投げ捨てたのだそうです。その猿が逃げてこもったのがこの山だったので、猿投山と言うようになったとか。

中門脇には、親子ざるの彫刻が。

左鎌の絵馬が数多く奉納されていました。

大碓尊が左利きで、左鎌を使ってこの地方を開拓したことにちなんでいるとか。

職場の安全祈願のために、トヨタ系の会社が左鎌の絵馬を自作して、部署ごとに奉納しているようでした。

つづく

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猿投神社の千手観音

2018年04月17日 | 仏像巡り

猿投神社の千手観音が修復されて、豊田市郷土資料館で公開されていると聞いて、行ってきました。

猿投神社の山中観音堂で守り継がれてきた仏さまで、普段は絶対秘仏としてお姿を見ることができません。

修復が完了したのを機に、今回だけ特別に公開されました。

(写真は朝日新聞から)

カヤの一木づくりでお顔やおなかがややふっくらしています。

身長は約170cmでほぼ等身大です。

木肌が美しく、痛みも少なく、とてもきれいな仏さまでした。

ポスターは修復前の写真を使っています。

黒っぽく汚れて、木肌の上に何か塗られているようにも見えます。

写真では見にくいですが、目には白、口には赤の色が差してあります。

昔の人なりの大切にしたいとの思いの現れでしょう。

腕の付き方も違います。全部斜め上を指しています。翼のようです。

修復後のものは、きれいに放射状になっています。

光背や持物も整えられたようです。

博物館だけでなく、猿投神社にも行かねばと思い、行ってきました。

つづく

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岐阜大仏

2018年02月03日 | 仏像巡り

岐阜市の金華山の麓、岐阜公園の近くに「岐阜大仏」があるそうです。

行ってきました。

岐阜公園前の通りを少し南に歩くと、見えてきました。3階建ての大仏殿です。

お城の天守閣のよう。お寺っぽくない。

正面にまわりました。「千と千尋」に出てきた銭湯のようでもありますね。

大仏とご対面。高さ14m。奈良の大仏より1m低いだけです。鎌倉大仏は11m。岐阜大仏の方が大きい!!!

右手はOKサインのような印を結んでいますが、お釈迦様(釈迦如来座像)だそうです。左手は手のひらを伏せて膝の上に乗せています。

胎内には薬師如来が収められているそうです。

作られたのは江戸時代の終わり頃。このお寺の第11代住職、惟中和尚が、相次ぐ大地震や大飢饉に心を痛め、これらの災害で亡くなった人々の菩提のために大仏建立を発願し、諸国を托鉢してまわりますが、志半ばにお亡くなりになります。その志を12代住職、肯宗和尚が受け継ぎ、あわせて38年かけて大仏は完成したのだそうです。

大仏様を横から見た断面図です。この仏さまは、太さ1.8mのイチョウの大木を心柱として、木材で骨組をつくり、竹をかごのように編んで仏さまの形を作った上に粘土を置き、お経の書かれた紙(経巻)を貼り、漆を塗り、金箔を貼って作られています。

内部は空洞なのだそうです。

高校時代に作った体育祭のマスコットみたいで、手作り感があって身近な仏さまという感じがとってもいいです。

大仏殿内部の壁面には五百羅漢像が置かれています。観客席から大仏様の活躍を応援しているかのよう。

羅漢さんの上にも彩色された彫り物が。インドの仏教説話の場面を表現しているそうです。

岐阜大仏から伊奈波神社に向かう途中、

仏壇店の屋上に金ぴかの観音さまが・・・

川原町を歩いていると、

庚申堂の看板が・・・

入ってみると、そのとおりお堂がありました。

賽銭箱の奧に何か立っています。

近寄ってみると、三猿でした。

江戸時代に庚申信仰が盛んになるのですが、60日に一度の庚申の日は、庚申待ちといって、人々が集まって、飲食や談笑しながら寝ずに夜を明かしました。

人間の体の中にその人の悪事を監視している「三尸(さんし)の虫」という虫がいて、庚申の夜、人が寝ている間に体から抜け出して、罪状を天帝に告げにいくのだそうです。寝なければ虫は体から抜け出せないので、人々は寝なかったのだとか。

「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿は、「自分たちの悪事を見たり聞いたり、天帝に言ったりしないで」との願いがあるそうです。

人って、100%善行ばかりというわけにはいかないもの。ついつい、ごめんなさい、というときもありますね。

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東京の鬼子母神巡り 3

2018年01月20日 | 仏像巡り

東京へ鬼子母神巡りに出かけました。

雑司ヶ谷、入谷と巡って、池上に向かいました。

上野から京浜東北線に乗り、蒲田で東急池上線に乗り換え、池上で降ります。

池上駅前から左右に店の並ぶ本門寺参道を歩き、霊山橋を渡ると本門寺の寺域に入ります。

左右に塔頭寺院が並ぶ中、参道右側に鬼子母神堂はあります。

意外と歴史は新しく、大正9年に創建されたのだそうです。

本門寺にも参拝しました。

総門をくぐったところ。奧に「此経難持坂(しきょうなんじざか)」の石段が見えます。

江戸時代の初め、加藤清正が本門寺の伽藍を整備した折りに造営されたと言います。

「此経難持」の経文が96文字あるのにちなみ、96段の石積み参道です。

坂を登ると広い境内に出ます。正面が大堂です。昭和20年の空襲で池上は全山焼けてしまい、大堂は昭和39年に鉄筋コンクリートで再建されました。

現在の大堂は間口15間の非常に大きな建物ですが、江戸時代に加藤清正が建てた旧大堂は間口25間の大建築だったそうです。

日蓮聖人の御尊像を安置する祖師堂ですが、建物の大きさから大堂と呼ばれるようになりました。

池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百四十年ほど前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)になった霊跡です。

大堂奥左手の大坊坂を下っていくと、日蓮聖人が荼毘に付された場所があり、そこに赤い多宝塔が建っています。江戸時代の木造漆塗り、高さ18m。重要文化財に指定されています。

坂を下りると、大坊 本行寺があります。

大坊 本行寺は、日蓮聖人がご入滅になった池上宗仲邸の仏間の跡に建てられたお堂です。

池上家滞在中、すでに重い病にあった日蓮聖人は、ご入滅になるまでの約1ヶ月間、多くの弟子、信者に法華経や立正安国論をお説きになりました。ご講義の際に聖人が寄りかかっていた柱の一部は、今でも「ご臨終の間」に置かれ、触れることができます。

本門寺に戻り、夕方5時からの夕勤に出て、家路につきました。

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東京の鬼子母神巡り 2

2018年01月15日 | 仏像巡り

東京へ鬼子母神巡りに出かけました。

雑司ヶ谷の鬼子母神から池袋駅方面に歩いてすぐ、法明寺という日蓮宗の寺院がありました。

嵯峨天皇の御代の弘仁元年(西暦810年)真言宗の寺院として開創され、正和元年(1312年)日蓮聖人のお弟子で中老僧の一人、日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めたのだそうです。

現在、鬼子母神堂の管理をしてくださっています。

1月ですが、桜が咲いていました。

お会式桜でしょうか。

日蓮聖人がご入滅された旧暦の10月13日前後に、日蓮宗の寺院ではお会式という行事を行います。お会式桜は、その頃から約6ヶ月もの長期にわたり花を咲かせます。

日蓮聖人がご入滅になったとき、桜が満開になったと伝わっています。

法明寺の本堂の後ろに威光稲荷堂(いこういなりどう)がありました。

お社に行き着くまでに、赤い鳥居のトンネルをくぐりながら、角をぐるぐる3回曲がりました。

 

法明寺から少し歩くと、そこはもう池袋界隈。賑やかな繁華街になります。

狭い路地が入り組み、静かな住宅地に古い寺院が点在して、昔ながらの風情を残す雑司が谷と副都心池袋が背中合わせにあるのは、いかにも東京だなと感じました。

池袋から山手線に乗り、鶯谷で下り、入谷の鬼子母神に向かいました。

スカイツリーも間近に見える、大都会の一角に入谷の鬼子母神はありました。

上の写真では、道路右側の赤い幟が立っているところです。その奧の六角形の建物は別の寺院です。

入り口です。

鬼子母神堂。新しい建物でした。

「恐れ入谷の鬼子母神」という言葉遊びは、子どもの頃から耳にしていました。

江戸時代、太田蜀山人の狂歌に由来するのだそうです。

そういえば、「あたり前田のクラッカー」も言葉の構造が同じですね。

「てなもんや三度笠」というTVのコメディ番組で藤田まことが決めぜりふみたいに言ってました。

昭和40年頃のこと。

こんな寄付札もあって、江戸の下町だなあと思わせます。

入谷の鬼子母神は、真源寺というお寺で、日蓮宗ではなく、法華宗に属しています。

南無妙法蓮華経と書いていただくご首題をお願いしたら、書いていないとのことで、ご朱印をいただきました。

続きます。

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東京の鬼子母神巡り 1

2018年01月08日 | 仏像巡り

あけましておめでとうございます。

今年もよい年でありますように。

東京へ鬼子母神巡りに出かけました。

この日は快晴。新幹線の車窓から富士山がばっちり見えました。

はじめに向かったのは、雑司ヶ谷の鬼子母神。

山手線大塚駅前から都電に乗って鬼子母神前で降ります。

鬼子母神参道。古いケヤキ並木です。

到着。

この鬼子母神堂は、江戸時代以前に近くの畑から出土した鬼子母神像を里人が祀ったのが始まりといわれています。

境内に庫裏や書院はなく、稲荷堂、大黒堂、妙見堂などもあり神社のような雰囲気です。

境内には日本最古の駄菓子屋といわれる上川口屋があります。

看板には1781年創業とあります。天明元年です。天明の大火とか田沼意次とか、寛政の改革とかよりも前です。

境内で飴を売ったのが始まりといいます。

本殿の前はすごい行列。20分ぐらい並びました。

本殿は、江戸時代初めに広島藩主浅野家の寄進を受けて造立されたもので、重要文化財になっています。

江戸時代の寺社建築らしく、彫り物が見事です。

広島藩主になった浅野家は、一宮の出身。屋敷跡は浅野公園になっています。

つづきます。

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南山城(みなみやましろ)の仏像巡り 6

2017年12月17日 | 仏像巡り

京都府の南部、奈良県と接するあたり、海住山寺、現光寺、大智寺、神童寺に続いて寿宝寺などの南山城の古いお寺をまわって、仏さまを拝んできました。

海住山寺のある三上山のふもとは、木津川が大きく湾曲し、台地状の地形が広がっています。

百人一首にある

みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ

の歌に詠まれている、みかの原がこのあたりと言われています。

(「恭仁宮跡復元図」京都府教育委員会のHPより)

奈良時代の中頃、天然痘が流行したり、九州で反乱があったりして、聖武天皇は奈良の都からこの地にお移りになります。

恭仁宮(くにのみや)と言います。

後ろは山、前は木津川。奈良盆地や京都盆地に比べると広さは10分の1もないでしょうか。しかも、木津川をかなり逆上った奥まったところなので、攻め込まれることをかなり警戒しての遷都かなあと感じます。

東西60m、南北30m、高さ1mを超える土壇が残っています。発掘調査により大極殿跡と推定されています。

天皇が恭仁宮に住まわれたのは2年間。次いで信楽宮(しがらきのみや)に移られたり、難波宮(なにわのみや)に移られたりして、またもとの平城京に戻られます。その間5年。

(木津川市発行のパンフレットより)

奈良時代は、日本という国が形作られた時代です。大規模な都が作られ、律令が整備され、古事記、日本書紀、万葉集が編纂され、世界の進んだ文化を取り入れ、仏教が隆盛し、大寺院が造営され、シルクロードの終点として遠くインドや西域の国々とも交流がありました。

日本の青年期ともいえる時代の中程に、5年間に4回も都が移らなければならなかったのはどうしてなのでしょうか?

権力争いなのか、疫病なのか、外敵への備えなのか、水運なのか、水不足なのか、わからないことがいっぱいあって、調べてみるのが楽しくなりそうです。

恭仁宮跡は国分寺として再利用されたそうです。

こんなに立派な柱の礎石がいくつも残っていました。

七重塔が立っていたそうです。

南山城(みなみやましろ)の旅の報告は今日でおしまいです。

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南山城(みなみやましろ)の仏像巡り 5

2017年12月11日 | 仏像巡り

京都府の南部、奈良県と接するあたり南山城の古いお寺をまわって、仏さまを拝んできました。

海住山寺、現光寺、大智寺、神童寺に続いて寿宝寺を訪ねました。

こちらも事前にお電話でお願いして、拝観させていただきました。

到着すると、市街地にあるお寺で、本堂は平成9年に建て替えられていて、町中にある普通の寺院という趣でした。

重要文化財の千手観音さまを始め、古い仏さまが収蔵庫で守られています。

町中の普通のお寺に重要文化財の仏像があり、住職の家族だけでお守りしていくのは、とても大変なことだと想像されます。

対応してくださったのは、住職の奥様でした。

収蔵庫の鍵を開け、ていねいな説明をして、私のぶしつけな質問にも答えてくださいました。

千手観音さま。(パンフレットより)平安時代の作。像高180cm。本当に腕が千本あるそうです。

とってもきれいな仏さまでした。

日の光の下では目を開けてこちらを見つめ、月の光の下では目を閉じて静かに物思うようすを、扉を閉めたり、照明を変えたりして再現してくださいました。

収蔵庫には、他にも降三世明王、金剛夜叉明王が祀られています。

近くの神社の神宮寺にあったものを廃仏毀釈で廃寺になったときに村の人たちがこちらにお連れして、以来お守りしているのだそうです。

寿宝寺は慶雲元年(704年)の創建だそうです。奈良時代、 この地に宿駅が置かれ人の往来が多く、古くは七堂伽藍を備えた大寺院だったそうです。

帰り際に門の脇を見ると、子供用の小さな自転車がありました。住職のお子さんのものと思われました。

日々の法務をこなし、突然の拝観者にも対応し、重要文化財をお守りする。頑張ってくださいと心の中でつぶやきました。

つづく

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