心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

津島天王川公園の藤を見に行きました 2

2015年04月29日 | 仏像巡り

先日、津島天王川公園の藤を見に行きました。津島神社に参拝したあと、門前の古い町並みを歩きました。

津島は、江戸時代には、津島天王社の門前町として賑わいました。伊勢参宮の折に併せて参拝する人も多かったといいます。津島川湊は佐屋街道沿いにありました。佐屋街道は、東海道を熱田から桑名まで七里の渡しで渡るのを避けて、陸路を通る人が多く、交通量が多かったそうです。商業も盛んで、信長の頃は、津島は、尾張で一番大きな町だったともいわれています。空襲で焼かれていないので、古い町並みがよく残っています。

麹屋がありました。塩麹ブームの影響か、人だかりがしていました。

こんな、いい感じの呉服店も。

「かくれ狸」と言うのだそうです。

薬師堂です。古い町らしく、あちらこちらに神様仏様が祀られて大切にされています。

扁額に六地蔵尊とあります。

奥を見ると、

木造の六角灯籠が礼拝の対象のようです。

近づいてよく見ると

六角灯籠の角ごとに木造のお地蔵様が立っていらっしゃいました。こういう形のものは、初めて見ました。

毎日の暮らしの中に人々の祈りが生きている、それが当たり前の姿だと思いました。

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津島天王川公園の藤を見に行きました

2015年04月26日 | 尾張の歴史

愛知県津島市の天王川公園の藤を見に行きました。天王川公園は津島神社の南にあります。

公園の南側に大きな大きな藤棚があります。九尺藤という房の長い長い藤の上半分ほど花開いていました。一番の見頃は5月になってからかなと思います。

津島神社は、明治に神仏分離令が出るまでは津島牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と言われ、牛頭天王をお祀りしていました。

牛頭天王は、インドのバラモン教の神が、お釈迦さまの教えに触れて仏教の守護神となった神さまのお一人です。

津島は、古くから東海道の重要な川湊で、織田信長がその経済力と地理的重要性に着目し、津島天王社を氏神としました。豊臣、徳川も庇護し、江戸時代は大くの参拝者で賑わっていたということです。牛頭天王は、疫病から守ってくださる神さまだそうです。

明治になって、神仏分離令が出され須佐之男命を祭神としました。

津島神社は、今でも全国に3,000社ある天王社の総本社です。

旧暦の6月14日に行われる夏祭りは、天王祭と言われ、何艘ものまきわら船が天王川に浮かび、国の重要無形民族文化財になっています。(今は、7月最終土曜に行われます)

楼門は、豊臣秀吉の寄進。他に、南門は豊臣秀頼、社殿は尾張徳川家の寄進。いずれも重要文化財です。

門前の大銀杏。樹齢600年といいますから、信長の頃にもすでに大木だったわけです。

天王川公園は、かつて川湊があった天王川が大きな池となって残ったところです。

この写真は、かつて堤防だったところです。

徳川時代になって、木曽川の尾張藩側に頑丈な御囲堤が造られ、木曽川の氾濫はなくなりましたが、幾筋にも枝分かれしていた流れには水が来なくなりました。天王川も水位が下がり、津島川湊より上流部分は、江戸時代はじめ頃には埋め立てられました。

明治になり木曽三川分流工事が終わると、天王川や合流していた佐屋川は完全に廃川となりました。旧河道は埋め立てられ天王川公園の池だけが残されたわけです。

現在、この辺りには、かつて堤防だったと思われる道が幾筋か残っています。

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一宮市今伊勢町石刀神社の石刀祭り。

2015年04月24日 | 尾張の歴史

先週の日曜日、たまたま通りかかったら、石刀(いわと)神社でお祭が行われていました。

石刀まつりといって、三台の山車が出ていました。

徳川家康が関ヶ原の戦いに出陣するとき、この神社に陣を敷き、社殿をずいぶんと傷めてしまったそうです。

関ヶ原の勝利後、家康が感謝を込めて社殿を再建したそうです。

その再建を祝って始まったと言われています。

山車にはくっきりと徳川の葵紋が。

 からくり人形が、観衆を楽しませます。

引き馬も何頭か登場しました。かつては、参道を走ったそうです。

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法隆寺に行ってきました 4

2015年04月22日 | 仏像巡り

法隆寺にお参りしたあと、信貴山の朝護孫子寺に行きました。

まず、出迎えてくれたのが、

大きな張り子の虎です。

この写真、こうしてブログを書いている時に、朝護孫子寺のHPを見てみたら、トップの写真と全く同じでした。

決して真似して撮ったわけではないですよ。

今から1400年前、聖徳太子が、物部守屋と戦うため、河内国稲村城へ向かう途中、この山で戦勝の祈願をしたところ、天空遥かに毘沙門天王が姿を表し、必勝の秘法を授かったそうです。その日が寅年、寅の日、寅の刻であったことから、聖徳太子が毘沙門天の像を刻み、お堂を建て、「信ずべし貴ぶべき山」と名付けたことがこの寺の始まりといいます。

日蓮宗でも、毘沙門天の縁日は、寅の日です。

信貴山では、あちこちに寅が出現します。

石の虎親子。

金の狛犬ならぬ狛寅。

寅の胎内くぐり。四国八十八所のお砂踏みになっています。

こんな大きなお地蔵様も出現します。隣の三階建の塔と比べてください。

さすが大阪文化圏。まるでテーマパークです。

本堂の舞台からは奈良盆地が一望出来ました。

本堂には、毘沙門天。妙法蓮華経陀羅尼品第二十六の毘沙門天の陀羅尼をお唱えしました。

普段拝めるのは、本尊毘沙門天の御前立で、奥に『中秘仏』、さらに奥に『奥秘仏』が納められているそうです。

本堂下は、戒壇巡りになっていて、錠前を触ってくると、如意宝珠に触れたと同じ功徳が与えられると言い伝えられています。

霊宝館で信貴山絵巻を拝見し、帰路につきました。

法隆寺のあとに行ったのですが、法隆寺の厳かで落ち着いた清々しい感じと、現世利益にどっぷりと浸かった感じの朝護孫子寺と好対象のおもしろいお寺でした。 


法隆寺に行ってきました 3

2015年04月21日 | 仏像巡り

法隆寺の西院伽藍を出て、夢殿のある東院伽藍、隣接する中宮寺で国宝菩薩半跏思惟像を拝んだあと、斑鳩の里を歩いて北方の法輪寺、法起寺に行きました。

田園風景の中を10分ほど歩くと、塔が見えてきます。上は、法起寺。

こちらは法輪寺。

道中には、こんな石仏群も。

こちらは法起寺。奥が講堂。右が三重塔。現存最古の三重塔といわれています。

仏像は、収蔵庫に収められていて、ガラス越しに外から拝むことしかできず、その点は残念でした。

こちらは法輪寺の三重塔。昭和19年に落雷で焼失してしまったそうですが、先代住職はじめ多くの方の努力で、昭和50年に再建されました。

講堂には、飛鳥時代や平安時代の大きな木造仏が何体も安置され、参拝者の少ない中、手を触れられるほど間近で拝むことができました。特に十一面観音立像は4メートル近い堂々としたお姿でした。

 


法隆寺に行ってきました 2

2015年04月20日 | 仏像巡り

法隆寺の参道の左右には、塔頭寺院が並んでいます。

石畳がきれいに掃き清められ、すがすがしい雰囲気です。

境内には、金堂、塔、講堂などの建物だけでなく、僧侶が修行や生活した部屋も残っています。

こんな石塔もありました。二人の仏さまが並んでいます。法華経に出てくる宝塔でしょうか。

1400年も前に建立された寺院がよくもまあ、こんなにしっかり残っているものだと感心しました。

平城京にあった寺院は、戦火で何度も焼かれてしまっているのに、斑鳩にあったことが幸いしたのでしょうか。

次回に続きます。


法隆寺に行ってきました

2015年04月19日 | 仏像巡り

世界最古の木造建築、法隆寺に行ってきました。(先月のことですが。)

日本でもっとも古い時期のお寺で、古い仏像もあります。

松並木の参道を歩きます

松並木の先に、南大門が現れます。

 

南大門をくぐると、おなじみの景色。1400年の歴史を持つ寺院。大変清々しい雰囲気が漂います。

中門と向こうに見える五重塔。中門には、最古の仁王像さまがにらみを効かせています。

世界最古の木造建築、金堂と五重塔。この2つが横並びの伽藍配置は、日本の仏教寺院で最も古い形と言われます。仏舎利を安置した塔が仏像を祀った金堂と同等の礼拝の対象だったことを意味します。塔は、時代が下がると、塔は、寺のシンボル的存在になり、だんだんと礼拝の中心から離れていきます。

金堂には、飛鳥時代の釈迦三尊像などの金銅仏や、最古の四天王像が祀られています。平安時代以降の日本的な木造仏とは趣の違う大陸風のお姿です。

五重塔の1層目は、東西南北の扉が開いています。そこから中を覗くと、それぞれの面にお釈迦さまの物語の4場面が塑像群で描かれています。

とても1200年も前に作られたとは思えない、リアルな迫力ある造形です。

(残念ですが、仏像等の撮影はできないので、ご紹介できません)

次回に続きます。


杉戸寄席 大入りでした

2015年04月11日 | 心證寺

雨が上がって、久しぶりにさわやかな日になりました。

午後、当山で杉戸寄席が開催されました。

初めに、私も高座に上がり、挨拶させていただきました。

杉戸寄席の主催者、杉戸浴場の女将さんです。

昨年も来てくださった引木亭あまたさん。

トリは、KOHARU亭けいじろう君。中学生になりました。

相変わらず、芸達者です。会場は爆笑の渦でした。

(けいじろう君のお母さんのブログ)

また、機会がありましたら、皆さん是非、お越しください。

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大垣市大島堤の桜並木

2015年04月05日 | 自然の営み

岐阜経済大学に車を置かせてもらって、すぐ脇の堤防に上がります。

ここは、かつて、大垣城下を洪水から守っていた輪中堤の一つだそうです。

桜が植えられたのが、昭和53年。そんなに古くはないですが、40年経って、ちょうど今、樹勢がもっとも盛んな時期になりました。

寄せ植えにされたのか、早くに剪定されたのか、幹が低い位置で、3本4本に分かれ、桜のトンネルを歩いているかのようです。頭上は、枝と枝が重なりあって空を覆っています。

少し風が出て、花びらがそれこそ吹雪のように舞って、すばらしくて思わず声が出ました。

 

歩いて行くと、途中に「堤防決壊箇所」と書かれた石柱が2本ありました。

こんな立派な堤防が切れてしまうほどの大水害が明治20年代に、続いて起こったそうです。

明治末になって、膨大な予算で木曽三川の分流工事が行われ、水害は減るようになりました。

しかし、「想定外」の大水害は、いつ来るともかぎりません。こうして、桜を植えて、輪中堤を大切に守っているのだと思いました。

そういえば、昭和51年に、安八町で長良川本流の堤防が決壊するという大水害がありました。桜が植えられたのは、昭和53年です。輪中堤の大切さが見直されたのかもしれません。

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連続テレビ小説マッサン エリー最後の言葉

2015年04月03日 | 仏教全般

   (画像はNHKのHPから)

連続テレビ小説「マッサン」が終了しました。その最終回、エリーの死後、悲しみに暮れて、何もやる気が起きないマッサンが、エリーから「私が死んだら読んでね」と渡された手紙を思い出し、封を切ります。

その手紙の最後は、こう結ばれていました。

「一日に一度、夜寝る前に、私のことを思い出してください。そして、おやすみと言ってください。そしたら、私もおやすみなさいと言って眠ります。マッサンには見えないかもしれないけど、私はいつもマッサンのそばにいます。だから寂しがらないでね。ありがとう。おおきに。」

人は死んだらどうなるのでしょう?

目には見えないけど、いつもそばにいて、残された大切な人を見守っているのでしょうか?

きっと、そうですね。

仏さまも、見えないけれど、いつもそばにいて、見守ってくださいます。

亡くなった方や、仏さまにも、毎日、花や水やお供え物をして、言葉をかけることは、とても自然なことですね。

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138タワーパークの桜

2015年04月01日 | 自然の営み

一宮市の北部、岐阜県境になっている木曽川の堤防です。

明治時代に植えられた桜並木が見事に咲きました。

ここの桜は、染井吉野ではなくて、山桜、江戸彼岸、しだれ桜など何種類もあり、枝ぶりや花の色、花びらの大きさに個性があり、咲く時期も微妙にずれ、風情があります。樹齢百年以上の大木も数多くあります。

昭和2年に名勝と天然記念物に同時指定されました。もっと立派で華やかな桜並木は全国にいくつもあるでしょうが、染井吉野以外の多種類の桜を混ぜ植えにして、ここまで立派に育っている桜並木はないということで、指定されました。

桜並木があるのは、江戸時代に築かれた「御囲堤(おかこいづつみ)」の上です。現在では、御囲堤の内側にもう一つ堤防が築かれ、御囲堤と新しい堤防の間は木曽三川公園になっています。

138タワーパークのシンボルタワーです。「いちのみや」の語呂合わせで、高さ138メートル。

138タワーパークに、いちだんと立派な桜があります。

この辺りは、公園として整備される前は、一宮市の水源地として、手を付けられずにあった雑木林でした。

公園になっても、雑木林だったころ自生していた樹木がそのまま生かされています。

この桜もその一つ。いつか、名前のつくよううな銘木に育ってほしいものです。

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