宮澤賢治は法華経を熱心に信仰していました。法華経の理解なしに賢治の文学をほんとうに理解することはできないと思います。
毎日法華経を読んでいる者の視点から、「永訣の朝」を読んで、気づいたことを書いてみたいと思います。
その第2回です。
「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまっすぐにすすんでいくから」
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
妹に頼まれたあめゆきを取ろうと庭に出て、目の前の光景が法華経の精神そのものであることに賢治は改めて気づかされます。(第一回に書きました。)このことを妹に感謝し、自分も正しい教えに基づいて生きていこうと心を新たにします。
正しい教えとは、賢治の場合、法華経のことでした。では、法華経に基づいて生きるとは、どんな生き方なのでしょうか?
それは、自分だけでなく、人の幸せを考えて生きること、人を敬うこと、人を感謝することです。
法華経には、数多くの菩薩が登場します。菩薩は自ら道を求めて常に精進するとともに、すべての命あるものを救おうと手をさしのべます。すべての命あるものを、等しく仏になる種を持ったものとして、敬います。
妹に「あめゆじゅとてちてけんじゃ」(あめゆきを取ってきてください。)と頼まれた賢治は、
「まがったてっぽうだまのやうに」くらいみぞれのなかに飛び出していきます。
妹の頼みをなんとしてもかなえてやりたいという賢治の強い思いが「まがったてっぽうだまのように」という表現に表れています。
また、妹トシが「あめゆきを取ってきてください」と頼んだのは、「わたくしをいっしょうあかるくするため」つまり、他人を幸せにするためだと気がつき、感謝しています。
兄も妹も、法華経の教えにそった生き方をしたいとの思いが、「永訣の朝」からは感じられます。
続きます