心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

鬼子母神様のお札

2016年12月30日 | 心證寺

今年も残すところあと一日となりました。

お寺では、大掃除をしたり、新年の準備をしたり、とても慌ただしく時間が過ぎていきます。

心證寺では、新年1月3日に鬼子母神様のご祈祷会をしています。

今日はその鬼子母神様のお札に心を込めてお名前と祈願趣をお書入れいたしました。

家内安全、身体健全、病気平癒、学業成就などを祈願します。

 

鬼子母神様は、法華経を信じる者の守護神です。

法華経陀羅尼品(だらにほん)第二十六で、鬼子母神様は、娘の十羅刹女(じゅうらせつにょ)とともにお釈迦様の前に進み出て、法華経の行者を守護しましょうと約束し、陀羅尼を唱えます。その陀羅尼に従わず、法華経を説く者を悩ますならば、頭を七つにたたき割るという恐ろしい誓いを立てました。


当山にお祀りする鬼子母神様は、古くから伝わる木像で、衣紋などは金線で描かれています。鬼のような恐ろしさの中に、全ての者を守る強さと優しさを秘めた表情をしていらっしゃいます。

鬼子母神像は、ご祈祷会の折りにご開帳します。脇にかけてある仏絵を載せました。どうぞご参詣のうえ、お姿を拝してください。


祈祷をする修法師(しゅほっし)は、中山法華経寺に寒中百箇日(十一月一日~二月十日)こもっての荒行を終えています。朝三時の一番水から夜十一時まで三時間おきに一日七回水をかぶって身を清め、堂内にこもって読経三昧、食事は朝夕一杯ずつの水粥のみという厳しい修行です。寒さ、睡眠不足、空腹、足の痛み、疲労などで意識がもうろうとする極限状態の中で自己を見つめ直し、それまでの己の罪障を払います。まさに死ぬよりも苦しいところから自力で立ち上がり、諸天善神のご加護を受けながら、自己を厳しく鍛え直す修行です。


尊神祭で修法師が手に持っているのが木剣(ぼっけん)です。文字通り木でできた剣です。珠の大きな数珠とともに握り、カンカンという大きな音を立て九字を切り、魔怨、邪気を払います。


修法師が首から提げているのは撰経と言います。日蓮聖人がお選びになった法華経の要文を修法師みずからが荒行中に写経したもので、その経巻で頭や、肩、背中を打つことで、法華経の功徳が祈祷を受ける人の体にしみこみ、一年間の健康、安全、息災を祈ります。


鬼子母神様は、子どもの守り神でもあります。お正月は、お子様、お孫様とご一緒に心證寺にお参り下さい。 

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年賀状の写真

2016年12月26日 | 日記

今年も残り少なくなりました。

そろそろ年賀状を出さなくちゃと思ってます。

毎年、お寺関係の年賀状、お寺関係ではない社交上の年賀状、プライベートな年賀状と3種類作っています。

プライベートバージョンは、子どもが生まれて以来ずっと家族全員の写真だったのですが、子どもたちがみな独り立ちして昨年は夫婦ふたりだけの写真になりました。

今年(平成29年正月用)は、ついに人間は姿を消し、今年飼い始めた愛犬の写真となりました。よくあるパターンだと我ながら思います。

(ここからは、ただの飼い犬自慢です。)

平成28年2月生まれ。3月にブリーダーさんのお宅で撮った写真です。こんなに小さかった。

生後50日経った4月、道中、桜の花が満開の中を迎えに行き、さくらと名付けました。ころころ。

ゴールデンウィーク、初めて首輪をしました。

6月、ワクチン接種も終わり、公園デビュー。

8月、暑い夏も元気に乗り越えました。

11月、6月の写真と同じ公園。こんなに大きくなりました。

12月、年賀状に使った写真。ずいぶん落ち着いてきました。

 子犬を育てていて、外出時の安全を守るため、他の人や犬とうまくコミュニケーションをとるため、食の安全や健康を守るためなど、きちんとしつけをすることがその子の将来のためになることは、人の子どもと同じだなあとつくづく思いました。

また、信頼関係が増すほどに飼い主に甘えたり、頼ったり、すねたり、喜んだり、いろいろな表情を見せてくれます。

ボール、りんご、おやつ、散歩、おしっこ、ダメ、よしなどのことばも理解するようになりました。

大切に育てていこうと思っています。


ポケモンGOと八正道

2016年12月12日 | 仏教全般

 

このごろ休日になると、うちの寺の門前にスマホの画面を見ながらやってきて、しばし立ち止まり、画面をこすって、ふたたび画面を見ながら立ち去っていく人をよく見かけます。

歩いている人もあるし、自転車の人もあります。若い人よりも結構なおとなが多くて、親子連れの時もあります。早朝、犬の散歩をしているときに見かけることもあるし、日が暮れてから画面の青白い光を顔に映しながら歩いていることもあります。たいていは、かなりの距離を歩くつもりで、それなりのいでたちをしています。

その人たちに共通することは、画面しか見ていないという点です。

木々の紅葉に目を留めるわけでも、鳥のさえずる方向に目をやるわけでも、家ごとに違う屋根組みを見上げるわけでも、路傍の仏に手を合わせるわけでもなく、ただひたすら画面を見ています。画面に映された街並みの中を歩いています。

もちろん、すれ違う人やそこで生活する人に、ほほえみかけたり会釈したりすることはありません。

ためしに、わたしはうちの門前に立っていた人の周りをその人をじろじろ見ながらぐるりと一回りしてみました。その人は、全くわたしに視線を向けることなく、画面をこすり続け、それが終わると何ごともなく立ち去っていきました。

うちのお寺の宝塔が「ポケストップ」とやらになっているらしく、ポケモンGOというスマホゲームをやりながらたどり着くようです。宝塔は礼拝の対象で、いつも花を供えてあります。手を合わせて祈りを捧げる場所なのですが、ポケモンGOをしている人で拝んでいく人はありません。

ポケモンGOは、室内にこもって熱中するゲームとは違って、外に出て、自分の足で歩き、ポケモンを探すうちに、いままで知らなかった町を歩き、新しい出会いや発見がある画期的なゲームだと思っていました。

しかし、実際は違うようです。ゲームをしている人は、仮想空間を歩いている。現実社会にいるのに、現実を見ていません。


わたしは、古い町並みを歩いたり、古い仏さまのいらっしゃる田舎の村里を歩いたりするのが好きです。

その土地の風土に合った家々、季節ごとの木々の色、そこに住む人々の営み。いろいろなものに目が行きます。目に見えるものだけでなく、頬をなでる風の感じ、土の匂い、花の匂い、水音、鳥や虫の声、五感を総動員してすべてを感じ取ろうとします。土地の人に会えば、その方たちの暮らしの場にお邪魔させてもらっているとの気持ちで頭を下げ、こんにちはと声をかけます。

人は、現実の社会の中でさまざまな人と関係し合って存在しているのに、ポケモンGOをしている人は、自分ひとりだけで仮想空間にいるつもりでいる。現実社会の中にいるのに、心は仮想空間の中にある。わたしにはとても違和感があります。

 

お釈迦さまは悟りを開かれてまず初めに八正道をお説きになりました。その第一が「正見」。物事を偏りのない正しい目で見ることです。

スマホゲームというフィルターを通すと、自分に都合のよいものしか目に入らなくなる、現実社会にありながら見えなくなる、これはとても恐ろしいことです。

この世界ですべてのものごとは互いに影響を及ぼし合い、つながり合っています。他と関係なしに独立して存在するものなどはありません。

お釈迦さまはそれを「諸法無我」とお教えになりました。自分という存在すら単独に存在するものではなく、互いの関係のなかで生かされている存在にすぎないのです。

また、私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりです。それを「一切皆苦」とお教えになりました。

スイッチを入れたり切ったり、リセットしたり。現実はゲームのように自分の都合で思い通りにできるものではありません。思い通りにできるからこそゲームは楽しいのでしょうが、しかし、それが現実社会と重ねられているというのは、よくないことだと思います。

自動車運転中にポケモンGOをして、現実社会にたしかに存在している歩行者が目に入らず、ひき殺してしまうという悲惨な出来事が起きています。

人は、この社会の中でお互いに関わり合って生きているのに、自分自身に都合のよいものしか目に入らなくなる。お釈迦さまの教えの八正道とは、かけ離れた生き方です。戒めていきたいです。

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一宮市栄町の七面堂

2016年12月04日 | 尾張の歴史

一宮市栄町に七面堂があります。七面堂とは、日蓮宗総本山身延山の西にある七面山に棲まわれて法華経行者を守護してくださる七面天女を祀っているお堂です。

入り口は通りに面していますが、ここから入ることはできません。

民家の庭に回って入ります。

この七面堂は昭和29年に建てられたそうです。一宮は空襲で焼け野原となりましたが、戦後の復興はめざましく、繊維の町として活気にあふれていました。町の有志で七面講が結成され、七面山から七面天女の尊像を頂戴し、七面堂が建立されました。

町が復興し、経済的に潤っていく中でも神仏に感謝報恩を忘れず、自分の心を磨いていこうとする姿勢は、今、忘れられようとしています。

その時の記念写真です。以来67年、写っている方々は、ほとんどがお亡くなりになり、七面講は自然消滅してしまいました。

七面堂は移築され、この写真に写っている最も若い女性(といっても今は80歳を越えていらっしゃいますが)が管理してくださっています。

中に入ると、今でも立派なお堂です。

心を込めて読経いたしました。

管理されている方はご高齢で、いつまでお守りができるかわからないと心配されていました。

七面講を立ち上げた方々のお気持ちを受け継いで、守っていかなくてはと思いました。

七面山敬慎院

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