心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

島文楽を見に行きました

2019年05月27日 | 尾張の歴史

島文楽は、一宮市の葉栗地区、島村に江戸時代から伝わる文楽(人形浄瑠璃)です。

こんな人形を使います。

島文楽保存会には、信長時代の人形が60体ほど伝えられているそうです。

人形は1体を三人で操り、唄と台詞を担当する太夫と三味線が息を合わせ物語を進行させます。

演目は「壺坂霊験記」観音さまの力によって、お互いを思いやる夫婦が救われるお話でした。

(くわしいストーリーは壺阪寺の縁起をご覧ください。)

会場は妙興寺本坊。一宮きっての古刹です。

こんな立派な玄関から上がりました。

文楽は客殿で演じられました。その客殿の前は立派な石庭。

とても暑い一日でしたが、熱の入った演技と静かな妙興寺の境内に心が豊かになりました。

心證寺も皆様に楽しんでいただけるよう頑張りたいと思います。

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九品地公園の石碑

2018年05月10日 | 尾張の歴史

一宮市文京1丁目、九品地公園の南東、宮西公民館の脇に、下のような石碑が立っています。

前から気になっていたのですが、上の方のカメレオンみたいな装飾は何でしょう?

拡大すると、こんな感じです。なんでしょう?

ところが、最近、よく似たものを見かけました。

滋賀県に観峰館という書道関係の博物館があります。そこに、中国の古典的な石碑のレプリカがいくつか建ててあります。

その中の一つです。上のカメレオンのような所に「九成宮醴泉銘」とあります。

書道を学ぶとき、唐代の楷書の手本として「九成宮醴泉銘」を習ったという人も多いと思います。

その「九成宮醴泉銘」のレプリカです。本物は中国の西安郊外にあります。

さて、カメレオンみたいな装飾はいったい何なのでしょうか?

調べてみました。

螭(ち)という龍の仲間の想像上の動物のようです。二匹の龍がしっぽを絡め、頭を下にして向かい合っています。

中国の古典的な石碑は亀を台座にして、上部に螭を飾るのが一つの決まり事だったようです。

上部の飾りは螭首(ちしゅ)と言うそうです。

 

さて、九品地公園の石碑ですが、「九成宮醴泉銘」などの中国の古い石碑をまねて作ったようです。

碑文を読んでみると、「一宮耕地整理記念碑」とあり、大正から昭和の初めにかけて、農地、用水、道路を整備し一宮発展の基礎を作ったことが書かれています。裏面には、事業に協力した人々の名前が刻まれています。

建立は昭和15年11月。太平洋戦争に向かおうという頃です。国威発揚の意味もあったのかもしれません。

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一宮市栄町の七面堂

2016年12月04日 | 尾張の歴史

一宮市栄町に七面堂があります。七面堂とは、日蓮宗総本山身延山の西にある七面山に棲まわれて法華経行者を守護してくださる七面天女を祀っているお堂です。

入り口は通りに面していますが、ここから入ることはできません。

民家の庭に回って入ります。

この七面堂は昭和29年に建てられたそうです。一宮は空襲で焼け野原となりましたが、戦後の復興はめざましく、繊維の町として活気にあふれていました。町の有志で七面講が結成され、七面山から七面天女の尊像を頂戴し、七面堂が建立されました。

町が復興し、経済的に潤っていく中でも神仏に感謝報恩を忘れず、自分の心を磨いていこうとする姿勢は、今、忘れられようとしています。

その時の記念写真です。以来67年、写っている方々は、ほとんどがお亡くなりになり、七面講は自然消滅してしまいました。

七面堂は移築され、この写真に写っている最も若い女性(といっても今は80歳を越えていらっしゃいますが)が管理してくださっています。

中に入ると、今でも立派なお堂です。

心を込めて読経いたしました。

管理されている方はご高齢で、いつまでお守りができるかわからないと心配されていました。

七面講を立ち上げた方々のお気持ちを受け継いで、守っていかなくてはと思いました。

七面山敬慎院

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苅安賀の俳人 幽松庵可卜居士

2016年11月12日 | 尾張の歴史

苅安賀の蓮照寺で先日、本堂落慶法要がありました。本堂の落慶にあわせて、境内の庭も整備されました。その一角に地元の俳人の句碑が建っています。
句碑には

幽松庵可卜居士 
生死銘 何者ぞ鏡の中の呼子鳥(よぶこどり)
辞世  かりた夢返す夜鳴きや郭公(ほととぎす)

と刻んであります。


この句碑については、安永8年(1779)に書かれた尾張藩の地誌『蓬洲旧勝録』にも書かれています。

幽松庵可卜は、本名関戸藤次郎、正徳元年(1711)苅安賀の旧家関戸家に生まれました。名古屋在住の芭蕉の門人、澤露川に俳諧を学んでいます。

当時の名古屋には芭蕉の門人が数多くいて、芭蕉は「野ざらし紀行」の旅の途中、名古屋に滞在し、門人らとともに句会を開きました。その時の作品が芭蕉七部集の第1集「冬の日」という句集になりました。「冬の日」は、ことばの遊戯でしかなかった旧来の俳諧を芸術にまで引き揚げた記念すべき句集で、名古屋は蕉風発祥の地といわれています。

苅安賀村にも、俳句や漢詩を好む人々が多く、可卜の他にも、井上八雷、木村蓬莱などの名が残っています。可卜は明和2年(1765)没しましたが、俳句だけでなく、漢詩や和歌も残っています。

また、蓮照寺に隣接する国照寺に墓があり、孝貞女として尾張藩主から褒美を賜ったことで知られる朝野三輪(あさのみわ)もこの時代の人です。三輪は可卜に俳諧を習い、数句が残されています。

蓮照寺の旧本堂が建立されたのは、宝暦6年(1756年)。境内に句碑が残るのは、可卜らが旧本堂建立に大きく関わったからかもしれません。

(この文を書くにあたって、市橋鐸麿編、一宮高等女学校校友会発行『朝野三輪女』(大正13年)を参考にしました。国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。)

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浅井星洲筆塚の新聞記事

2016年03月16日 | 尾張の歴史

3月12日付中日新聞尾張版に、大和西小学校にある浅井星洲筆塚に説明板が設置されたという記事が掲載されました。

浅井星洲は、江戸時代末の画家で、心證寺の創設者、浅井氏の末裔です。

詳しいことは、心證寺ウエブページの「心證寺と苅安賀城をご覧ください。

 

その記事に心證寺のことが書かれてあり、何件か問い合わせをいただきました。

今日、大和西小学校を訪ねて、教頭先生のご案内で筆塚の案内板を見せていただきました。

説明文の最後のところ、心證寺について書いてあります。教頭先生にお聞きしたところ、心證寺のウェブページの記述を参考にされたとのこと。

恥ずかしいような、嬉しいような。でも、「この地は、苅安賀の中央に建てられた心證寺境内でした」という部分は、やや正確さを欠くと思い、教頭先生にその旨お伝えしました。

心證寺があった場所は、現在、東海北陸自動車道および西尾張中央道になっています。筆塚も平成10年頃までは、小学校の東門の脇にありました。高速道路の工事にともなって、大和西小学校は、校地の東側を一部削られることになり、講堂や校舎も全部建て替えられました。その際、筆塚も校庭の西側に移転しました。説明板の建っている「この地」は、心證寺の境内であったわけではないのです。

しかし、こんなすばらしい説明板が立てられ、多くの子どもたちが心證寺という寺があるということを知るようになると思うと、いい加減な活動はできないなと気の引き締まる思いです。

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長隆寺の阿弥陀三尊像と中島宮

2015年10月25日 | 尾張の歴史

一宮市萩原町中島に長隆寺という寺があります。鎌倉時代、その地に住した中島氏によって創建されました。現在は、無住の寺となり、荒れ果てていますが、本尊は一宮博物館に寄託され、拝観することができます。

両脇侍の高さが約180cm。ちょうど人の身長ほど。中央の阿弥陀様は立ち上がったらもっと大きいでしょう。

一宮にこんな立派な仏像があるなんて。知りませんでした。

現在の長隆寺の荒廃ぶりを見ると、よくまあ、盗まれず、壊されず現在まで無事に伝えられたものだと驚きです。

長隆寺を建てた中島氏は、嵯峨源氏の末裔で平安時代末に尾張国中島郡に土着し、その地名から中島氏と呼ばれました。一宮博物館に隣接する妙興寺を創建したのも、中島氏です。織田信長によって尾張が統一されたときに、所領を奪われ、尾張を去りました。居城は、長隆寺のすぐそばに中島城址として残っています。

妙興寺です。室町時代の創建。後光厳天皇の勅願所。現在も広大な寺域を領し、臨済宗の道場として、多くの雲水たちが修行に励んでいます。

 

現在の一宮市、稲沢市一帯と木曽川対岸の羽島郡の一部(木曽川の流路が変わったためです)は、かつて中島郡と呼ばれていました。その昔、倭姫(ヤマトヒメ)が天照大神をお祀りすべき土地を探して諸国をめぐり、近江、美濃を経て尾張国中島宮に3ヶ月滞在し、その後伊勢に向かい、桑名を経て現在の伊勢神宮の地にたどり着いたと「倭姫命世記」にはあります。

長隆寺近くの中島廃寺跡からは、奈良時代の瓦が出土しています。

倭姫が滞在した中島宮は、一宮市今伊勢町の酒見神社であるとの説が有力ですが、一宮市萩原町中島が中島郡の中心だったことがあったかもしれません。

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木曽川町黒田と善光寺如来

2015年07月05日 | 尾張の歴史

一宮市木曽川町黒田地区は、鎌倉、室町時代は鎌倉街道、江戸時代は岐阜街道の宿駅として賑わいました。

黒田地区に、信濃善光寺にまつわる旧跡があります。

善光寺如来御旧跡とあります。

背後には、一宮市教育委員会の立てた説明板も。添えられた図は「尾張名所図会」中のものです。

信濃の善光寺の開祖、本田善光が摂津から信濃に善光寺如来をお運びする途中、この地に宿ったとき、如来様が善光の労をねぎらい、善光を背負って空を飛び、一気に信濃まで飛んでいったという伝承があるのだそうです。

すぐ近くの寺には、善光寺如来のご分身が奉安されているそうです。

6月20日付で書いた北方宝江の渡し場跡にも善光寺如来出張所の石柱が立っていました。

 

仏教が日本に伝来した今から1500年ほど前、仏教を受容するか否かで物部氏と蘇我氏が争い、百済からもたらされた仏像を物部氏が難波江に捨ててしまいました。それを本田善光が拾い上げて信濃国に持ち帰ったのが、善光寺の始まりとされています。

善光寺は宗派に属していません。華厳だ、天台だ、真言だと新しく分派した教えが伝わる以前に、とにかく「仏教」として日本にもたらされているので、どこの宗派にも属さないわけです。

善光寺如来は、阿弥陀様とされていますが、法隆寺などに伝わっている同時期に百済からもたらされた仏像を見てみると、お釈迦さまであるように思います。(私見ですが。)絶対秘仏として、1500年間、だれも見たことがないので、本当はどうなのでしょう。

東京国立博物館ブログ「善光寺本尊について考える」

 

ところで、信濃国には、古代、いろいろなものが飛んでいっています。

まず、戸隠山。

天照大御神が、高天ヶ原の天岩戸に隠れたとき、天手力雄命(たじからをのみこと)が、その岩戸をここまで投げ飛ばし、世に光を取り戻したのだそうです。

次に諏訪大社。

出雲の神、大国主命が天照大御神のヤマトに国を譲るか否か決めかねて、二人の息子に聞きます。

一人目の息子言代主(コトシロヌシ)は国を譲るべきだと答えますが、すぐに死んでしまいます。(ヤマトに殺されたのでしょうか)

もう一人の息子・武御名方(タケミナカタ)は、国譲りに反対し、天照大御神の使者タケミカヅチに戦いを挑みますが、力くらべに負けて、東国へ逃げます。逃げた先が、信濃の諏訪湖のほとり。それが諏訪大社の始まりとされています。

そして、物部氏に排斥され、信濃まで飛んできた善光寺如来。

信濃国は、古代、ヤマト政権の力が及ばないところだったのでしょうか。

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名鉄尾西線にかつて木曽川橋駅がありました

2015年06月20日 | 尾張の歴史

名鉄尾西線の一宮駅と終点玉ノ井駅間は、2両編成の電車一本だけが5.6kmを折り返し運転されていて、とても中途半端な感じがするのですが、かつては、玉ノ井駅から北へ、里小牧を通り、木曽川橋へ。そして貨物線だけは木曽川川港駅まで伸びていたそうです。

昭和19年に廃線となり、線路の跡地は、現在巾の広い真っ直ぐな道路になっています。

名鉄尾西線は、明治31年に尾西鉄道として開業しました。大正14年に名鉄に吸収されますが、名鉄が名古屋電気鉄道として名古屋市内とその近郊で電車を走らせていたのに対して、尾西鉄道は弥富から木曽川橋まで尾張西部で蒸気機関車を走らせていました。当時の蒸気機関車は、現在も明治村内を走っています。

名鉄名古屋本線の一宮-岐阜間が開通したのは昭和10年で、それまでは、名鉄で一宮から岐阜へ行くには、尾西線で木曽川橋駅まで行き、木曽川橋を徒歩で渡り、対岸の笠松駅からまた電車に乗ったのだそうです。

現在、北方西保育園に立つ看板です。

旧国道22号線の跨線橋。線路跡は道路になっています。

跨線橋の欄干には「名鉄木曽川線跨線橋」のプレートがあります。

跨線橋のすぐ北、北方中島の交差点に馬頭観音が祀られていました。

人馬の往来が多い街道だったのでしょう。

その対角線上には、南無妙法蓮華経の宝塔が。安政3(1856)年の年号がありました。

木曽川の堤防の方へ少し歩くと、宝江渡し跡がありました。

江戸時代、名古屋と岐阜を結ぶ街道の渡し場だったようです。北方には代官所が置かれ、木曽檜をはじめ、多くの物資が木曽川を利用して運ばれていました。

昭和初期まで木曽川港駅があったのは、そのころまで川が物流の動脈だったことの証だと思います。

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名古屋駅から名古屋城まで古い町並みを歩きました 3(那古野神社)

2015年05月30日 | 尾張の歴史

名古屋城の大手門から南へ、熱田まで続く道を本町通りといいます。

円頓寺商店街を東へ行き、堀川を五条橋で渡り、更に東に進み、本町通りと交わる辺りに「那古野神社」はあります。

「なごの」と読まずに、「なごや」と読みます。

江戸時代には名古屋城内三の丸に天王社としてあったそうですが、明治になって名古屋東照宮とともに城外の現在地(藩校明倫堂跡地)に遷されました。歴史は古く、醍醐天皇の御代の創建だそうです。ただし、那古野神社という名前になったのは、明治の終わり頃だそうです。

 

名古屋城外堀の南側は、街の区画が碁盤の目のように整然として、東西も南北も、通りに一本一本名前がついています。呉服町通、伊勢町通、伝馬町通、魚棚通、桑名町通、京町通などなど。

江戸時代の絵図を見ても現在のような区画で、通りの名前もそのままで、住んでいた人の職業とか、出身地に関係があるのでしょうか。

本町通りを南に下り、袋町通りを長者町通の方に折れてすぐ、袋町おしょうでんさんがあります。

真言宗の寺院で、大聖歓喜天を祀っています。

交差する大根は、男女和合のシンボルだとか。

境内には、弘法様、十一面観音様、お地蔵様、お稲荷様、天神様、不動明王、七福神、十二支守り本尊、日本百観音、四国八十八霊場のお砂踏みなど、ありとあらゆる神仏のお堂やほらがあって、さながら神仏習合モールのようでした。

名古屋城の中には入らずに、お堀の周りを巡りました。

乾櫓。清洲城の天守を移したともいわれます。戦火で焼けておらず、重要文化財に指定されています。

堀端にあった弁天様。不動明王とともに祀られていました。

名城公園では、ヒトツバタゴ(一つ葉田子)がきれいに咲いていました。

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名古屋駅から名古屋城まで古い町並みを歩きました 2(四間道)

2015年05月25日 | 尾張の歴史

那古野地区に四間道(しけみち)と言われる通りがあります。

四間道は、元禄13年(1700年)の大火の後、防火のため、道路幅を四間(約7メートル)に広げたので、その名前がついたといわれています。通りに面して町家と土蔵が建ち並んでいますが、建物は通りの反対側が、名古屋城に物資を運ぶ目的で開削された堀川に面して、船から直接物資を運び入れることができるようになっています。

石垣の上に建つ蔵。こちら側が背面。正面は堀川に面しています。

四間道にある浅間神社。浅間神社は富士山を神さまとして拝みます。

(木花咲耶姫命と結びつけて祀る場合が多いようです)

四間道から脇に入り、路地の突き当りにあったお地蔵様。子安地蔵尊とあります。

堀川に架かる五条橋のたもとにある屋根神様。どこかの屋根にあったものが、遷されたのでしょうか。

戦争で焼かれていない町を歩くと、町のあちこちで神さま仏さまに出会います。花が供えられ、線香の煙がのぼり、人々の日々の祈りの場となっていることがわかります。身近なところに神さまほとけさまがいらっしゃる、本当の姿だと思います。

(つづく)

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名古屋駅から名古屋城まで古い町並みを歩きました 1(那古野)

2015年05月23日 | 尾張の歴史

名古屋駅から名古屋城まで、古い町並みが残っている地区があります。

国際センタービルの北から路地に入ると、「那古野」という地区があります。

現在は「なごの」と読みますが、平安時代からある地名で、古くは「なごや」と読んだそうです。

江戸時代の初め、尾張徳川家の居城が清須からこの地に移されたときに、「名古屋」と表記されるようになったと言います。

その、那古野地区の古い民家。屋根に屋根神様が祀られています。

円頓寺。日蓮宗の寺院です。門前は、円頓寺商店街というアーケードの商店街になっています。

 

商店街にある古道具屋さん。ご主人は、名古屋には、三菱やトヨタなどに外国の偉いお客さんが来るようになったけど、一般の観光客にも、もっと名古屋に来てほしいもんだとおっしゃてました。

「円頓寺銀座街」。寅さん映画に出てきそうな風景です。

 

円頓寺商店街に金毘羅さんがありました。

金毘羅さんといえば、香川県の金刀比羅宮が有名です。金刀比羅宮は、今は神社になっていますが、明治の神仏分離令が出る前は、真言宗の寺院でした。ご本尊の十一面観音は現在、宝物館に収められています。金毘羅さんは仏教の守護神、宮毘羅(グビラ)が、金毘羅大権現として日本に姿を現されたものと言われます。もともとは、ヒンドゥー教のガンジス川の神、グンビーラで、仏教に取り入れられて宮毘羅となり、薬師十二神将にもメンバー入りしています。グンビーラは、ガンジス川のワニを神格化したもので、水運を司る神として日本の船乗りたちの信仰を集めるようになりました。

(続きます)

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津島天王川公園の藤を見に行きました

2015年04月26日 | 尾張の歴史

愛知県津島市の天王川公園の藤を見に行きました。天王川公園は津島神社の南にあります。

公園の南側に大きな大きな藤棚があります。九尺藤という房の長い長い藤の上半分ほど花開いていました。一番の見頃は5月になってからかなと思います。

津島神社は、明治に神仏分離令が出るまでは津島牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と言われ、牛頭天王をお祀りしていました。

牛頭天王は、インドのバラモン教の神が、お釈迦さまの教えに触れて仏教の守護神となった神さまのお一人です。

津島は、古くから東海道の重要な川湊で、織田信長がその経済力と地理的重要性に着目し、津島天王社を氏神としました。豊臣、徳川も庇護し、江戸時代は大くの参拝者で賑わっていたということです。牛頭天王は、疫病から守ってくださる神さまだそうです。

明治になって、神仏分離令が出され須佐之男命を祭神としました。

津島神社は、今でも全国に3,000社ある天王社の総本社です。

旧暦の6月14日に行われる夏祭りは、天王祭と言われ、何艘ものまきわら船が天王川に浮かび、国の重要無形民族文化財になっています。(今は、7月最終土曜に行われます)

楼門は、豊臣秀吉の寄進。他に、南門は豊臣秀頼、社殿は尾張徳川家の寄進。いずれも重要文化財です。

門前の大銀杏。樹齢600年といいますから、信長の頃にもすでに大木だったわけです。

天王川公園は、かつて川湊があった天王川が大きな池となって残ったところです。

この写真は、かつて堤防だったところです。

徳川時代になって、木曽川の尾張藩側に頑丈な御囲堤が造られ、木曽川の氾濫はなくなりましたが、幾筋にも枝分かれしていた流れには水が来なくなりました。天王川も水位が下がり、津島川湊より上流部分は、江戸時代はじめ頃には埋め立てられました。

明治になり木曽三川分流工事が終わると、天王川や合流していた佐屋川は完全に廃川となりました。旧河道は埋め立てられ天王川公園の池だけが残されたわけです。

現在、この辺りには、かつて堤防だったと思われる道が幾筋か残っています。

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一宮市今伊勢町石刀神社の石刀祭り。

2015年04月24日 | 尾張の歴史

先週の日曜日、たまたま通りかかったら、石刀(いわと)神社でお祭が行われていました。

石刀まつりといって、三台の山車が出ていました。

徳川家康が関ヶ原の戦いに出陣するとき、この神社に陣を敷き、社殿をずいぶんと傷めてしまったそうです。

関ヶ原の勝利後、家康が感謝を込めて社殿を再建したそうです。

その再建を祝って始まったと言われています。

山車にはくっきりと徳川の葵紋が。

 からくり人形が、観衆を楽しませます。

引き馬も何頭か登場しました。かつては、参道を走ったそうです。

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苅安賀城と心證寺6

2015年01月06日 | 尾張の歴史

江戸時代、心證寺のあった場所は、苅安賀村の中心でした。寺の門前は広場になっていて、六斎市が開催されたり、高札場になっていたようです。

心證寺には、寺子屋が設けられ、村の子どもたちが学んでいました。

明治6年、学制発布により、心證寺の寺子屋は寧静学校と名前を変え、公立の小学校になります。

(『中島郡政史』及び『愛知県教育史』による。)

 

明治24年、濃尾震災によって心證寺は倒壊します。濃尾平野のほとんどの寺院が倒壊したといいます。

心證寺の大檀越であった浅井氏は、当時東京に転居しており、旧一宮市内に日蓮宗の寺院がなかったことから、心證寺は、現在地、一宮市大宮(旧杉戸町)に移転、再建されます。

心證寺の跡地は、寧静小学校、苅安賀小学校と名前を変え、現在の大和西小学校になっています。昔のことを知る人の話を聞くと、西尾張中央道が建設されるまでは、大和西小学校の講堂脇には墓地や水路が残っていたそうです。

 

東海北陸自動車道の一宮西インターが建設される際に、愛知県埋蔵文化財センターが発掘調査をし、心證寺の寺域を画す堀割の遺構や五輪塔の一部、南無妙法蓮華経と書かれた卒塔婆などが確認されました。

愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第93集 苅安賀遺跡

 

現在、大和西小学校の校庭西側に「浅井星洲筆塚」という石碑が建っています。

浅井星洲は、幕末の絵師で、心證寺を創建した浅井氏の家に生まれ、京で四条派の絵を学び、帰郷しました。尾張藩主に愛賞され、御留筆として許可がなければみだりに描いてもらえなかったといいます。

一宮市博物館所蔵 浅井星洲『瀑布猿之図

かつては、心證寺の境内にあった筆塚ですが、苅安賀時代の心證寺を伝える唯一の名残となっています。

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除夜の鐘

2015年01月01日 | 尾張の歴史

大晦日の夜、あちらこちらから静かに除夜の鐘が聞こえてくると、今年も無事終わりました、来年もいい年でありますようにという気持ちになります。

日本人のこころのふるさとの一つになってますねえ。

でも、心證寺には、梵鐘がないんです。大正時代に刊行された『一宮市史』には、心證寺の梵鐘の銘について記載があるので、かつては梵鐘があったようです。

太平洋戦争時の「金属回収令」で全国の9割の梵鐘が回収され、溶かされてしまったといいます。それでどれだけの弾丸だか何だかが作れたのでしょうか。愚かなことをしてしまったものです。

一宮市の現在、九品地公園になっているところは、戦前、墓地があり、市内の鋳物工場経営者の方が息子さんの供養のため大正時代に寄進した大仏があったそうです。

しかし、戦時中に供出されてしまい失われてしまいました。戦後、名古屋市内で頭部だけが残っているところを発見され、戦争犠牲者を供養する大仏として作り直され、現在は犬山の成田山に奉納されているそうです。

元旦の犬山成田山・大聖寺 - 102:新生大仏

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