一宮市木曽川町黒田地区は、鎌倉、室町時代は鎌倉街道、江戸時代は岐阜街道の宿駅として賑わいました。
黒田地区に、信濃善光寺にまつわる旧跡があります。
善光寺如来御旧跡とあります。
背後には、一宮市教育委員会の立てた説明板も。添えられた図は「尾張名所図会」中のものです。
信濃の善光寺の開祖、本田善光が摂津から信濃に善光寺如来をお運びする途中、この地に宿ったとき、如来様が善光の労をねぎらい、善光を背負って空を飛び、一気に信濃まで飛んでいったという伝承があるのだそうです。
すぐ近くの寺には、善光寺如来のご分身が奉安されているそうです。
6月20日付で書いた北方宝江の渡し場跡にも善光寺如来出張所の石柱が立っていました。
仏教が日本に伝来した今から1500年ほど前、仏教を受容するか否かで物部氏と蘇我氏が争い、百済からもたらされた仏像を物部氏が難波江に捨ててしまいました。それを本田善光が拾い上げて信濃国に持ち帰ったのが、善光寺の始まりとされています。
善光寺は宗派に属していません。華厳だ、天台だ、真言だと新しく分派した教えが伝わる以前に、とにかく「仏教」として日本にもたらされているので、どこの宗派にも属さないわけです。
善光寺如来は、阿弥陀様とされていますが、法隆寺などに伝わっている同時期に百済からもたらされた仏像を見てみると、お釈迦さまであるように思います。(私見ですが。)絶対秘仏として、1500年間、だれも見たことがないので、本当はどうなのでしょう。
東京国立博物館ブログ「善光寺本尊について考える」
ところで、信濃国には、古代、いろいろなものが飛んでいっています。
まず、戸隠山。
天照大御神が、高天ヶ原の天岩戸に隠れたとき、天手力雄命(たじからをのみこと)が、その岩戸をここまで投げ飛ばし、世に光を取り戻したのだそうです。
次に諏訪大社。
出雲の神、大国主命が天照大御神のヤマトに国を譲るか否か決めかねて、二人の息子に聞きます。
一人目の息子言代主(コトシロヌシ)は国を譲るべきだと答えますが、すぐに死んでしまいます。(ヤマトに殺されたのでしょうか)
もう一人の息子・武御名方(タケミナカタ)は、国譲りに反対し、天照大御神の使者タケミカヅチに戦いを挑みますが、力くらべに負けて、東国へ逃げます。逃げた先が、信濃の諏訪湖のほとり。それが諏訪大社の始まりとされています。
そして、物部氏に排斥され、信濃まで飛んできた善光寺如来。
信濃国は、古代、ヤマト政権の力が及ばないところだったのでしょうか。
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