心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

信楽に行ってきました 2

2019年12月27日 | 旅行

信楽に行ってきました。窯元散策路を歩く前に、紫香楽宮跡に立ち寄りました。

信楽には、現在も「内裏野(だいりの)」「宮町」「鍛冶屋敷(かじやしき)」などの地名が残っています。内裏野地区からは宮殿跡、宮町地区からは大寺院跡、鍛治屋敷地区からは大型の銅製品を鋳造した工房の跡が出土しています。

 

奈良時代は、日本の国としての形が作られていった時期ですが、政治体制はまだまだ確立せず、天皇を助けて政治の実権を握る人物も次々と入れ替わっていきました。○○の乱、△△の変などの権力者が命を狙われる事件も度々起きています。

奈良時代の中頃に即位した聖武天皇は、仏教に深く帰依し、全国に国分寺を建て、東大寺に大仏を建立したことで知られていますが、10年間に平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京を経てまた平城京に戻るという遷都をめまぐるしく繰り返しました。

その理由は、はっきりとはわかっていません。

紫香楽宮の大極殿があったとされる場所は、周りを低い山に360°ぐるりと囲まれた小盆地でした。

向こうの山からこちらの山まで1kmほど。よくこんな所を見つけたなぁと思うほどの隠れ家的な土地でした。

発掘調査で大きな建物群の跡や木製の納税札などが出土して、都として機能していたことがわかっていますが、大きな川もなく、人の移動や物の運搬が不便で、天皇とともに移り住んだ人々の飲み水にも困ったのではないかと思います。

平城京に比べると余りに小さく、不便で、3年ほどで平城京にもどることになります。

なぜ紫香楽宮に遷都したのか。実際にその場に立ってみると、聖武天皇が敵対勢力の不穏な動きを恐れて、「安全な」場所に一時移ったのではないかと感じました。

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信楽に行ってきました 1

2019年12月26日 | 旅行

先日、お休みをいただいて信楽に行って来ました。

信楽といえば、たぬきです。近年はさびれてきていたそうですが、
NHK朝ドラ「スカーレット」の放送で、賑わいを取り戻しているようです。


「窯元散歩道」をゆっくり歩きました。古い登り窯や穴窯、時代を感じる製陶工場、煉瓦煙突、道端に積まれた火鉢や狸。作業場を改築したギャラリーには意欲的で魅力的な作品。
のんびりできました。

窯元散策路の陶器製の道標

道ばたに積まれた絵付け火鉢

雰囲気のある路地

立派な登り窯

陶器を焼く小部屋がいくつも

 

のぞくと陶器がぎっしり

古い作業場を改装したおしゃれなギャラリー

朝ドラのロケに使われた工場

 

スカーレット展も開催中でした。

こんなのもありました。

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出雲大社に行ってきました 4

2019年09月23日 | 旅行

出雲大社から西へ1kmほど、稲佐の浜に出ます。

ここは神無月になると全国から神々が上陸してくるところといわれています。

国譲りや国引きの神話の舞台でもあります。

浜は西を向いて開けていて、海の向こうは朝鮮半島です。

稲佐の浜から北西に5~6km、島根半島の西端が日御碕(ひのみさき)です。

真っ白な出雲日御碕灯台。明治36年(1903)に設置されて、高さ43.65m、海面から灯塔の頭上までは63.30mと、日本一の高さを誇るそうです。

いまなお現役です。

サスペンスドラマで追い詰められた犯人が自供しそうな断崖でした。

日御碕のすぐそばに、りっぱな社殿の日御碕神社が建っています。

天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神としています。

日本の長い歴史の中で、明治以降は太平洋側を中心として近代化、工業化が進み、日本の玄関口は東京を中心とした太平洋側というイメージになりましたが、それ以前の長い間は(2000年以上になると思います)、日本海側が内日本、太平洋側が外日本と呼ばれ、大陸との交流や国内の船による人と物の流れは、日本海側が中心でした。

出雲は古代日本の中心地として栄えていたんだと改めて感じました。

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出雲大社に行ってきました 3

2019年09月22日 | 旅行

スサノオノミコトが出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、その尾から剣が出てきました。

「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です。

(写真はイメージです。wikipediaから)

天叢雲剣は、天上界の天照大神に献上され、天孫降臨の際、ニニギノミコトに託されて地上に降り、以降代々の天皇のしるしの一つとされました。

崇神天皇の時代に形代(かたしろ)が作られ、形代は宮中に、実物は伊勢神宮に納められました。

ヤマトタケルが東征の際、伊勢神宮のヤマトヒメから託され、携えて出かけます。駿河国で敵が野に火をかけ焼き殺そうとしましたが、ヤマトタケルは天叢雲剣で草を薙ぎ払い、向い火を放って難を逃れました。そこから草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになったと言います。

ヤマトタケルは、尾張国の宮簀媛(ミヤズヒメ)と結婚し、草薙剣は尾張国に渡ります。尾張氏は草薙剣を祀り、それが熱田神宮となり現在もご神体として祀られています。

尾張氏は、ヤマト朝廷成立の頃から、有力な豪族として、何人もの姫が天皇の后となり、朝廷と外戚関係を結び、朝廷の要職に就く人材を輩出し、東国平定の前線基地としての役割も担っていたようです。

時代が下って壬申の乱では、大海人皇子を全面的に支援し、天武天皇誕生に重要な役割を果たしています。

さらに時代が下って、源頼朝の母は熱田大宮司の娘で頼朝は熱田で生まれています。

先進の製鉄技術を持った出雲国で作られた天叢雲剣は、ヤマト国に渡り、長い時を経て、ヤマト国から尾張氏に渡ったのでしょうか。

そこには古代日本統一に向けたドラマがあるように思います。

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出雲大社に行ってきました 2

2019年09月17日 | 旅行

出雲大社に祀られているのは、大国主命(おおくにぬしのみこと)。

出雲には、弥生時代の中ごろから強力な王国があったと考えられるそうです。

たたら製鉄を行い、朝鮮半島とも交流し、九州北部から北陸(越の国)に到る日本海側を中心に、中国地方や信濃を含めた広大な地域を支配する王国だったようです。

古事記や日本書紀にある国譲りの神話は有名です。大国主命が、天照大神が遣わした天穂日命(あめのほひのみこと)に出雲の支配権を譲る代わりに、空高く届く立派な宮を造営させて祀らせたのが出雲大社の始まりと言います。

天穂日命の子孫は、代々出雲大社の祭祀を行い、出雲国造家として現在まで続いています。天皇家と並んで日本でもっとも長く続く家系だそうです。

国譲りは、ヤマト王国が出雲王国を吸収合併したような形だったと想像されますが、すんなり成就したわけではなく、反対勢力あり、武力衝突ありの長い年月を経た末の国譲りだったようです。大国主命の子の一人、建御名方(たけみなかた)は最後まで抵抗し信濃の諏訪まで逃げてその地でヤマトと講和し、諏訪大社の祭神として祀られています。

諏訪は、ヤマトの権力が届かないところだったようです。

続きます。

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出雲大社に行ってきました 1

2019年09月14日 | 旅行

出雲大社は、古くから「出雲のおおやしろ」と言われ、まさに、大きな社(やしろ)だったそうです。

古文書、絵図などでは、高さ16丈(48m)の巨大神殿がそびえ、千木には雲がたなびいていたと表現されています。

大げさな伝説とも思われていましたが、近年、遷宮の工事に伴って太さ1.3mの杉の柱を三本束ねた直径3mもある柱が出土しました。

しかも9本も。そして、その配置が出雲大社の宮司千家国造家に古くから伝わる本殿設計図とぴたりと一致したそうです。

高さ48mの巨大神殿は実在した、そう言えそうです。48m。現代で言うと15階建てのビルに相当します。

それはさておき、現在の出雲大社で巨大と言えば、この大きな注連縄です。

でもこれは、本殿ではなく、神楽殿という建物にあります。真下に立って写真を撮っている人と比べてみてください。

縄の太さは1.2mくらいありそうです。

こちらが拝殿。ここの注連縄はやや小ぶりですが、それでも十分に立派。

この拝殿の奥、垣根に囲まれた中にご本殿があります。現在のご本殿は高さ24m。

お祀りされているのは、大国主命(おおくにぬしのみこと)。その話は、次回。

続きます。

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足立美術館に行ってきました。

2019年09月09日 | 旅行

足立美術館は、島根県出身の実業家、足立全康氏が昭和45年に開館した美術館です。

北大路魯山人、竹内栖鳳、上村松園など数多くの日本美術がコレクションされ、特に横山大観のコレクションは日本一です。

日本美術も素晴らしいですが、庭園の美しさはこの美術館を世界的に有名にし、私が訪れたときも半分くらいは外国からのお客様でした。

カリフォルニアから来たという老夫婦に声を掛けられ、お互いに写真を取り合ったりしました。そのとき、「Where from?どこから来たの?」と聞かれ、「日本人です」と答えましたが、私の英語にはどんななまりがあったのでしょう。

庭園をいかに美しく見せるかにさまざまな工夫が凝らされ、上の写真のように衝立として庭園を眺めるようなしつらえもあります。

他にも掛け軸、額縁などの趣向もありました。

日本庭園の造園技法の一つに、借景があります。

上の写真では、奧の雲がかかって霞んでいる山は、庭園の外の自然の風景です。

あたかも足立美術館の庭園とひと続きで無限の奥行きがあるかのように見せています。

足立美術館は、写真で見たり、テレビので取り上げられたりして知っていましたが、実際行ってみると、この借景は本当にすばらしい。

行く前は、足立美術館は山懐に抱かれるように存在しているのかと思っていましたが、行ってみると意外に開けた場所にあり、敷地のすぐ外は幹線道路で、その向こうには田畑や民家があり、向こうの山まではかなり離れていました。

そんな現実をすべて見せないようにして理想の自然が構築されていると思いました。

ただ一つ、注文をつけると、足立美術館の庭園は中に入ることができない。多くの伝統的な日本庭園は、池泉回遊式で庭園の中を巡ることで、自然と一体となりながら、歩くにつれて変化する風景と趣向を楽しむものですが、ここは離れたところから眺めるだけの気高い美術品でした。

枯れ葉一枚も落ちていないほど手入れが行き届きすぎて、隙がなく、侘びとか無常とか滅びの美とかを感じることができないのは残念でした。(二つ目の注文になってしまいましたね。)

でも、一度は見ておきたいすばらしい庭園でした。

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和歌山城に行きました

2018年12月15日 | 旅行

和歌山城に行ってきました。

戦国時代の和歌山は、戦国大名ではなく、雑賀衆(さいかしゅう)と呼ばれる人々が農業、漁業、林業、海運業などを営みながら、自治を行なっていました。雑賀衆は鉄砲の技術に優れ、戦国大名に対抗できるほどの力を持っていましたが、戦国時代の末期に秀吉に滅ぼされました。

和歌山を手に入れた秀吉は、弟の秀長に命じて虎伏山に城を築かせました。これが和歌山城の始まりです。

秀吉時代の和歌山城の石垣は、地元でとれる紀州青石をそのまま積み上げてあります。いわゆる野面積みです。

関ヶ原の戦い後、家康に仕えていた浅野幸長が和歌山城主となります。浅野氏は連立式天守を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営し、大手門を岡口門から一の橋の方面に移し、本町通りを大手筋として城下町を整備したそうです。

このころの石垣は、石垣表面に出る石の角を削って整形し、表面の隙間を少なくした打ち込みハギです。

浅野幸長は、心證寺のある尾張国一宮の浅野城を居城としていたことがあり、その跡は現在浅野公園として整備されています。

尾張国からは何人もの大名が生まれています。秀吉について行ったら、大名になってしまったというところでしょうか。

大坂の陣の後、徳川家康の10男頼宣が入り、「御三家」紀州藩が成立します。この時代は、二の丸を西に広げ、砂の丸・南の丸を新たに造成しました。この頃の石垣は、石全体を方形に整えてぴったりと密着させて積み上げる切り込みハギです。

さて、

田口門から天守を望みます。

田口門は、豊臣時代には大手門だったそうです。

田口門を振り返ったところ。

天守からの眺望。紀ノ川が和歌浦に注いでいます。

和歌山城のある虎伏山は、標高約50m。結構な高さです。

和歌山城は、紀ノ川の河口部、いわゆる三角州にある平城と思っていたので、意外です。

と、天守閣に登り、眺望を楽しんでいたとき、大音響で「てんてんてん鞠、てん手まり・・」のメロディーが流れはじめました。

展望台から下を見ると天守閣の屋根にスピーカーが三つ四つ付いていて、そこから大音響で流されているのでした。

びっくりしました。展望室内に説明板があり、午前9時、正午、午後3時、5時、9時の1日5回、「鞠と殿様」のメロディーを流しているそうです。

今時珍しいというか、・・・

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醒ヶ井宿

2018年10月18日 | 旅行

醒ヶ井宿を歩きました。

醒ヶ井(さめがい)宿は、中山道の61番目(京からは9番目)の宿場で、現在の滋賀県米原市にあります。京を発って近江盆地の田園地帯を進み、そろそろ美濃との国境の山道にさしかかるという辺りです。

醒ヶ井という地名の由来は、古事記や日本書紀のヤマトタケルの伝承にあります。


ヤマトタケルが伊吹山の神と戦って傷つき、毒にやられ高熱を出し、意識も途切れ途切れになって山を下りました。気がつくと、清水のもとに力尽き座り込んでいました。そこに湧く清水をごくごく飲むと気力体力を回復して、また歩き始めたという話です。この話から「居醒泉」(いさめがい)と呼ばれるようになったと言います。

国道21号線と名神高速道路の間に中山道が旧道として残っています。

醒ヶ井の宿場は、「居醒の清水」を源とする地蔵川の流れに沿って街並みが続いています。

川に沿って歩いて行くと、「居醒の清水」に行き着きます。

「居醒の清水」からは、まさに滾々と清水が湧き出ています。山裾の岩の割れ目からどんどん水が湧いてきて、何もないところから一気に川幅3mほどの川が出現して、ふしぎです。

飲んでみると、とても軟らかくておいしい水でした。

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太陽の塔

2018年06月03日 | 旅行

先日、大阪府の北部地域に行く用ができて、待ち時間もあったので、万博記念公園の「太陽の塔」を見てきました。

ここに来たのは、大阪万博以来、といっても大阪万博の時、私は7~8歳だったのでほとんど記憶がありません。

高速道路を通過しながら横目に見たことはありましたが、実際に行ってみると、とても巨大で圧倒的な存在感でした。

となりは、高さ日本一のエキスポシティーの観覧車。存在感では太陽の塔は負けていません。

お寺の五重塔が仏教のシンボルとして人々の崇拝対象となっていたのと同じように、太陽の塔も人を惹きつけずにはおかないオーラを放っています。この塔があるだけで、万博記念公園に来る価値があります。ここにいるだけで太陽の塔からパワーがもらえそうな気がします。

後ろ姿。大きな大きなたくましい人間(または、巨大な生き物)が腕を広げて何でも受け止めてくれるような感じです。

背中には、「黒い太陽」。過去の象徴だそうです。

正面は、現在を象徴する「太陽の顔」

そしてこれが、輝く未来の象徴「黄金の顔」。

太陽の塔が建てられたのは50年前。万博当時、最先端の科学技術と言われていたものが数多く展示されていましたが、それらは、あっという間に古くなってしまいました。

しかし、太陽の塔は時が経つほど、見る人に与えるインパクトは大きくなっているように思います。

太陽の塔を作った岡本太郎の目には、人類の普遍的な価値が見えていたに違いありません。

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桑名の六華苑 3

2017年10月01日 | 旅行

(前回の続き)

桑名の六華苑に来ています。

ふたたび洋館へ。

二階のバルコニーから芝生の庭園が望めます。

庭園に回ってみました。

洋館の前は芝生になっていて西洋風。

ぐるりと回ってみると池泉回遊式庭園になっています。

敷地の北西隅にはお稲荷さんの社。

六華苑を出て、揖斐川の堤に上がってみると見えたのは、長良川河口堰。巨大な人工物が川の流れをせき止め、干満に伴う潮の流れ、生き物の行き来を遮り、命の豊かさを奪ってしまいました。

七里の渡し跡。ここから宮(熱田神宮)まで、東海道は海上を行きました。

桑名は東海道で西国から東国に出る重要な場所。家康は関ヶ原の戦い後、まだ大阪に豊臣秀頼がいる頃、この地を徳川四天王の一人本多忠勝の領地としました。同様に中山道から東国に出る要地の彦根には、やはり徳川四天王の一人井伊直政を置きました。

復元された桑名城の蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)の上に月が出ていました。

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桑名の六華苑 2

2017年09月28日 | 旅行

前回の続きです。


桑名の六華苑に来ています。

洋館から棟続きになっている和館に行きました。

長い廊下

書院。質素ですが、上質で、すがすがしい作りです。

電灯のかさ。おしゃれ。

長押の釘隠し。菊と桐。

欄間の透かし彫り。ここにも桐と菊。

縁側からは美しい庭園が見え、涼しい風が入ってきます。

廊下の突き当たりに置かれていた屏風。秋と春の歌2首が書かれていました。

天のはら ふりさけみれば かすがなるみかさの やまにいでし月 かも
ひさかたのひかりの どけきはるのひに しず心なく 花のちる らん

(屏風歌の改行に合わせて切ってみました。)

続きます。

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桑名の六華苑 1

2017年09月26日 | 旅行

桑名にある六華苑に行きました。

六華苑は桑名市の揖斐川沿い、七里の渡し跡の近くにあります。明治維新後、実業家として大きな財を成した諸戸清六の2代目が大正2年に建てた大きなお屋敷です。

4階建ての塔を持つ洋館と数寄屋造りの和館が接して建ち、庭園も芝生の西洋庭園と池泉回遊式庭園を併せ持っています。

洋館は鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計になるそうです。


門をくぐって中に入ると、まず4階建ての水色の塔が目に入ってきます。

隣には日本建築の玄関があります。

洋館の玄関です。

中に入って玄関ホール

洋室には古い調度品も置かれています。大切な客をもてなしたようです。

階段の手すり。

模様ガラス

ランプシェード

シャンデリア。

贅沢ではないけれど、細かなところまで品良くおしゃれにできています。

続きます。

 


中尊寺に行ってきました 3

2017年09月16日 | 旅行

前回の続きです。

中尊寺に行ってきました。

金色堂を参拝したあと、さらに奥へ行くと、芭蕉翁の句碑がありました。

「五月雨の降り残してや光堂」

芭蕉が訪れたとき、奥州藤原氏によって中尊寺が建立されてすでに600年が経っていました。戦乱と権力者の栄枯盛衰の波の中、中尊寺の諸堂は荒廃が進み、ほとんど姿をとどめない中で、光堂だけは鎌倉時代に作られた木造の鞘堂に守られて、かろうじてその姿をとどめていました。

芭蕉が中尊寺を訪れたのはちょうど梅雨の季節。よく残っていてくれたという感激をこの句に込めました。

芭蕉翁の銅像も立っていました。

平泉は、奥の細道の旅で「最も奧」になります。このあと芭蕉は奥羽山脈を越えて日本海側、出羽国へ向かいます。

 

中尊寺をあとに、毛越寺(もうつうじ)に向かいました。

「もうつうじ」なら「毛通寺」と書くんじゃないの?と思うかもしれませんが、

毛越寺と書いて「もうおつじ」と言ったのが変化して「もうつうじ」となったのだそうです。

毛越寺は奥州藤原氏二代の基衡(もとひら)が建立しました。創建当時の建物は何も残っていませんが、広大な庭園が当時の姿に復元されています。


仏の世界を地上に表現したと伝わる浄土庭園。本当に広い広い庭園です。ゆっくりですが、ぐるりと一周するのに一時間かかりました。

最後に、高館(たかだち)の義経堂に登りました。

ここは、頼朝に追われた義経が奥州藤原氏を頼って身を寄せていた屋敷跡で、義経最期の地となった場所です。

義経の像を祀った祠がありました。

芭蕉句碑です。

「夏草や兵どもが夢の跡」

芭蕉は奥州藤原氏が滅んだ500年後ここを訪れ、人の世のはかなさを詠みました。

高館からの眺め。芭蕉はこう記しています。

「まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。 」

芭蕉の見たとおりの景色が目の前にありました。

 「国破れて山河あり、城春にして草青みたり

と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。」

人の営みは、はかなく消えていきますが、自然は悠久です。

それは、現代も芭蕉の時代も杜甫の時代も変わりません。

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中尊寺に行ってきました 2

2017年09月11日 | 旅行

前回の続きです。

奥州平泉の中尊寺に行ってきました。

本堂の奥にも諸堂が続きます。

大日堂

弥陀堂

弁天堂

そして金色堂にたどり着きました。

金色堂です。(写真は中尊寺HPから)

金色堂は、平安時代、奥州藤原氏初代清衡によって建てられました。

全体に漆に塗られ、金箔が貼られ、夜光貝を用いた螺鈿が施され、象牙や宝石によって飾られています。

これほどきらびやかな建物は他にはありません。

須弥檀の真ん中に阿弥陀如来、両脇に観音菩薩と勢至菩薩、前面左右に持国天、増長天、背後に左右三体ずつの六地蔵。仏さまの並びは金色堂独自のものです。

須弥壇は中央、右、左の三段からなり、それぞれに同様の並びで三組の仏さまが祀られています。

須弥壇の基壇部分、鳳凰の絵が描かれている部分に初代清衡、二代基衡、三代秀衡の亡骸が金色の棺に納められ、今も安置されているそうです。

 

中尊寺は、平安時代、東北地方で続いた戦乱で亡くなった人々を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土を建設するという奥州藤原氏初代清衡の思いによって建立されました。

清衡はまず、一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立します。この伽藍建立は『法華経見宝塔品』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したものでした。

清衡はお釈迦さまがお説きになった法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。
清衡は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べています。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができるというのです。お釈迦さまに直に頭を撫でていただけるという言葉も法華経にしばしば書かれている言葉です。 (この一節は、中尊寺HPの記述を要約して引用しました。)

続きます。

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