信楽に行ってきました。窯元散策路を歩く前に、紫香楽宮跡に立ち寄りました。
信楽には、現在も「内裏野(だいりの)」「宮町」「鍛冶屋敷(かじやしき)」などの地名が残っています。内裏野地区からは宮殿跡、宮町地区からは大寺院跡、鍛治屋敷地区からは大型の銅製品を鋳造した工房の跡が出土しています。
奈良時代は、日本の国としての形が作られていった時期ですが、政治体制はまだまだ確立せず、天皇を助けて政治の実権を握る人物も次々と入れ替わっていきました。○○の乱、△△の変などの権力者が命を狙われる事件も度々起きています。
奈良時代の中頃に即位した聖武天皇は、仏教に深く帰依し、全国に国分寺を建て、東大寺に大仏を建立したことで知られていますが、10年間に平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京を経てまた平城京に戻るという遷都をめまぐるしく繰り返しました。
その理由は、はっきりとはわかっていません。
紫香楽宮の大極殿があったとされる場所は、周りを低い山に360°ぐるりと囲まれた小盆地でした。
向こうの山からこちらの山まで1kmほど。よくこんな所を見つけたなぁと思うほどの隠れ家的な土地でした。
発掘調査で大きな建物群の跡や木製の納税札などが出土して、都として機能していたことがわかっていますが、大きな川もなく、人の移動や物の運搬が不便で、天皇とともに移り住んだ人々の飲み水にも困ったのではないかと思います。
平城京に比べると余りに小さく、不便で、3年ほどで平城京にもどることになります。
なぜ紫香楽宮に遷都したのか。実際にその場に立ってみると、聖武天皇が敵対勢力の不穏な動きを恐れて、「安全な」場所に一時移ったのではないかと感じました。