心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

一宮空襲から70年になります。

2015年07月28日 | 平和の祈り

戦争という過ちを二度と繰り返さないことが、犠牲者の一番の供養です。

今日7月28日は、一宮市が2度めの空襲を受け、市街地の80%が灰燼に帰し、700名余りの罪のない一般市民が犠牲になった日です。

朝6時、大乗公園にある空襲殉難碑前で、法華経読誦、唱題し、供養いたしました。

 一宮は、昭和20年7月、二回にわたり大きな空襲を受けました。12日深夜から翌日未明にかけて、葉栗・西成地区と今伊勢地区が空襲を受け、さらに28日午後10時頃には、B29約260機が市上空に侵入し、油脂焼夷弾の波状攻撃を行いました。市内全域はまたたく間に火の海と化し、うめき苦しむ声がこだまし、さながら生き地獄のような光景が瞬時にして出現したのでした。攻撃は翌午前二時頃まで繰り返され、その火は三日三晩燃え続けたといいます。

 二回の空襲により、市内全戸の83%にあたる10468戸が焼け、市人口の71%にあたる2万1千27名が焼け出されました。死者727名を出し、市街地の80%が灰塵に帰したのです。


 市内の大乗公園には、一宮空襲殉難慰霊碑があり、次のような文が刻まれています。

【表】祈【裏】こゝ空爆の被爆の中心地をえらび昭和二十年七月十二日と七月二十八日の二回の大空襲によつて尊い犠牲となられた罪なき市民の御霊七百余程の安らかなごめい福をお祈りし平和をまもるためにこの碑を建立する 昭和三十三年七月二十八日  一宮市長

 昭和20年7月28日夜の空襲で心證寺もすべて焼き尽くされ、当時の住職は、奥様、五人のお子さんとともに、境内にあった防空壕の中で亡くなりました。現在、当山境内には、住職はじめご家族七人を一緒にお納めする墓があり、今朝はその墓前でも読経し、供養をいたしました。

 

 今年で戦後70年を迎えます。この碑文にあるように、戦争が終わって私たちは、戦争という過ちを二度と繰り返さない、平和な世の中を築いていくと誓いました。しかし、時代が過ぎるとともにだんだんとその誓いを忘れ去ってしまう人も現れるようになりました。


 昭和21年に制定された日本国憲法を読むと、前文にまずこう書いてあります。
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」


「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように」この憲法を定めたのだということが真っ先に書いてあります。
 再び戦争を起こさないこと、それが私たちの一番の願いであり、戦争で犠牲になった方々の霊をお慰めする一番の方法だと思います。

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おいでん花火

2015年07月27日 | 日記

豊田市のおいでん祭り花火大会に行ってきました。

とにかくすごい花火大会でした。視界の全てが花火でうめつくされて、もうこれ以上、やめてくれ~と言いたくなるほど。

人出も、ものすごくて、さすがに豊田は活気があると実感しました。

おいでん祭りのキャッチフレーズは「We Love とよた」。故郷を遠く離れ全国各地から仕事で豊田に集まってきた人たちが、「豊田に来た選択は間違っていなかった」と現在の自己を肯定できる催しです。

 

当山のある一宮にも昭和30年、40年代には全国から毛織物の仕事につく人々が集まっていました。多くは女工さんと呼ばれた若い女性たちでした。

その女工さんたちと織姫を重ねあわせた七夕祭りが、すごい賑わいだったころにわたしはこども時代を過ごしました。

一宮にもう女工さんは、いなくなりました。織物工場もほとんど残っていません。七夕祭りは全く寂しくなってしまいました。

一宮に地域の誇りと郷土愛を取り戻す、市民がひとつになれる、大人も夢中になれる祭りがあればなあと思います。

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盂蘭盆施餓鬼法要

2015年07月23日 | 心證寺

昨日今日と大気が不安定で、雨模様の天気。おかげで、猛暑からは解放されています。

当山では、8月の第一日曜日(今年は8月2日)に、盂蘭盆施餓鬼法要を営んでいます。

それに備えて、塔婆書きにコツコツと励んでいます。

盂蘭盆経というお経の中でお釈迦さまは、餓鬼道におちて苦しんでいる衆生に、食物や水の施しをすること、つまり、貪欲から離れることが仏の道に叶うことだと教えてくださっています。

お盆には、ご先祖様の霊が家々に帰ってくる。これは、日本の風習です。迎え火をたいて迎え、精霊棚を設けてごちそうを用意し3日間ともに過ごし、送り火や、精霊流しでお送りする。

仏教は、日本の風土に見事に溶け合って、日本独自の形となりました。素晴らしいことだと思います。

私たちは、太陽や雨、他の動植物などの自然の恵みの中で、それぞれがつながり合って生き、また、仏さまはじめ諸天善神、ご先祖様、家族、親類、地域の人々とつながり、支えあい、助けあって生きています。

お盆は、そのことを確かめ合ういい機会だと思います。子どもたちにも伝えていきたいものです。

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梅雨明け

2015年07月20日 | 自然の営み

今日、梅雨明け。朝から真っ青な空、太陽が遠慮なく照りつけ、室内の温度計も35度に。

庭では、サルスベリがいっぱい花をつけています。

漢字で書くと「百日紅」。夏が終わるまで、それこそ3ヶ月位咲き続けます。

9月終盤まで、いよいよ本格的な夏の到来です。

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木曽川町黒田と善光寺如来

2015年07月05日 | 尾張の歴史

一宮市木曽川町黒田地区は、鎌倉、室町時代は鎌倉街道、江戸時代は岐阜街道の宿駅として賑わいました。

黒田地区に、信濃善光寺にまつわる旧跡があります。

善光寺如来御旧跡とあります。

背後には、一宮市教育委員会の立てた説明板も。添えられた図は「尾張名所図会」中のものです。

信濃の善光寺の開祖、本田善光が摂津から信濃に善光寺如来をお運びする途中、この地に宿ったとき、如来様が善光の労をねぎらい、善光を背負って空を飛び、一気に信濃まで飛んでいったという伝承があるのだそうです。

すぐ近くの寺には、善光寺如来のご分身が奉安されているそうです。

6月20日付で書いた北方宝江の渡し場跡にも善光寺如来出張所の石柱が立っていました。

 

仏教が日本に伝来した今から1500年ほど前、仏教を受容するか否かで物部氏と蘇我氏が争い、百済からもたらされた仏像を物部氏が難波江に捨ててしまいました。それを本田善光が拾い上げて信濃国に持ち帰ったのが、善光寺の始まりとされています。

善光寺は宗派に属していません。華厳だ、天台だ、真言だと新しく分派した教えが伝わる以前に、とにかく「仏教」として日本にもたらされているので、どこの宗派にも属さないわけです。

善光寺如来は、阿弥陀様とされていますが、法隆寺などに伝わっている同時期に百済からもたらされた仏像を見てみると、お釈迦さまであるように思います。(私見ですが。)絶対秘仏として、1500年間、だれも見たことがないので、本当はどうなのでしょう。

東京国立博物館ブログ「善光寺本尊について考える」

 

ところで、信濃国には、古代、いろいろなものが飛んでいっています。

まず、戸隠山。

天照大御神が、高天ヶ原の天岩戸に隠れたとき、天手力雄命(たじからをのみこと)が、その岩戸をここまで投げ飛ばし、世に光を取り戻したのだそうです。

次に諏訪大社。

出雲の神、大国主命が天照大御神のヤマトに国を譲るか否か決めかねて、二人の息子に聞きます。

一人目の息子言代主(コトシロヌシ)は国を譲るべきだと答えますが、すぐに死んでしまいます。(ヤマトに殺されたのでしょうか)

もう一人の息子・武御名方(タケミナカタ)は、国譲りに反対し、天照大御神の使者タケミカヅチに戦いを挑みますが、力くらべに負けて、東国へ逃げます。逃げた先が、信濃の諏訪湖のほとり。それが諏訪大社の始まりとされています。

そして、物部氏に排斥され、信濃まで飛んできた善光寺如来。

信濃国は、古代、ヤマト政権の力が及ばないところだったのでしょうか。

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