心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

桑名の六華苑 2

2017年09月28日 | 旅行

前回の続きです。


桑名の六華苑に来ています。

洋館から棟続きになっている和館に行きました。

長い廊下

書院。質素ですが、上質で、すがすがしい作りです。

電灯のかさ。おしゃれ。

長押の釘隠し。菊と桐。

欄間の透かし彫り。ここにも桐と菊。

縁側からは美しい庭園が見え、涼しい風が入ってきます。

廊下の突き当たりに置かれていた屏風。秋と春の歌2首が書かれていました。

天のはら ふりさけみれば かすがなるみかさの やまにいでし月 かも
ひさかたのひかりの どけきはるのひに しず心なく 花のちる らん

(屏風歌の改行に合わせて切ってみました。)

続きます。

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桑名の六華苑 1

2017年09月26日 | 旅行

桑名にある六華苑に行きました。

六華苑は桑名市の揖斐川沿い、七里の渡し跡の近くにあります。明治維新後、実業家として大きな財を成した諸戸清六の2代目が大正2年に建てた大きなお屋敷です。

4階建ての塔を持つ洋館と数寄屋造りの和館が接して建ち、庭園も芝生の西洋庭園と池泉回遊式庭園を併せ持っています。

洋館は鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計になるそうです。


門をくぐって中に入ると、まず4階建ての水色の塔が目に入ってきます。

隣には日本建築の玄関があります。

洋館の玄関です。

中に入って玄関ホール

洋室には古い調度品も置かれています。大切な客をもてなしたようです。

階段の手すり。

模様ガラス

ランプシェード

シャンデリア。

贅沢ではないけれど、細かなところまで品良くおしゃれにできています。

続きます。

 


秋のお彼岸

2017年09月23日 | 心證寺

今日は秋彼岸の中日。

お墓参りをし、お寺にお詣りし、おはぎを食べます。

私は、ものごころついた頃からずっと毎年そうしてきました。

近年は、そういう生活習慣のない人が多くなってきたようです。

今日は、一宮市内の中学校では運動会が行われました。

お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、妹や弟、家族総出で運動会に出かけた家庭も多かったでしょう。

 

国民の祝日に関する法律には、「秋分の日 祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」とあります。

こどもの運動会となれば、お寺参りやお墓参りが後回しにされてしまうことも、さもありなんですが、

運動会を秋分の日に持ってくるのは、法律の趣旨に反すると思います。

 

さて、当山も毎年恒例の彼岸法要を厳修しました。

副住職のお説教もありました。「縁」の不思議さについて、自分の体験を元にお話させていただきました。

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中尊寺に行ってきました 3

2017年09月16日 | 旅行

前回の続きです。

中尊寺に行ってきました。

金色堂を参拝したあと、さらに奥へ行くと、芭蕉翁の句碑がありました。

「五月雨の降り残してや光堂」

芭蕉が訪れたとき、奥州藤原氏によって中尊寺が建立されてすでに600年が経っていました。戦乱と権力者の栄枯盛衰の波の中、中尊寺の諸堂は荒廃が進み、ほとんど姿をとどめない中で、光堂だけは鎌倉時代に作られた木造の鞘堂に守られて、かろうじてその姿をとどめていました。

芭蕉が中尊寺を訪れたのはちょうど梅雨の季節。よく残っていてくれたという感激をこの句に込めました。

芭蕉翁の銅像も立っていました。

平泉は、奥の細道の旅で「最も奧」になります。このあと芭蕉は奥羽山脈を越えて日本海側、出羽国へ向かいます。

 

中尊寺をあとに、毛越寺(もうつうじ)に向かいました。

「もうつうじ」なら「毛通寺」と書くんじゃないの?と思うかもしれませんが、

毛越寺と書いて「もうおつじ」と言ったのが変化して「もうつうじ」となったのだそうです。

毛越寺は奥州藤原氏二代の基衡(もとひら)が建立しました。創建当時の建物は何も残っていませんが、広大な庭園が当時の姿に復元されています。


仏の世界を地上に表現したと伝わる浄土庭園。本当に広い広い庭園です。ゆっくりですが、ぐるりと一周するのに一時間かかりました。

最後に、高館(たかだち)の義経堂に登りました。

ここは、頼朝に追われた義経が奥州藤原氏を頼って身を寄せていた屋敷跡で、義経最期の地となった場所です。

義経の像を祀った祠がありました。

芭蕉句碑です。

「夏草や兵どもが夢の跡」

芭蕉は奥州藤原氏が滅んだ500年後ここを訪れ、人の世のはかなさを詠みました。

高館からの眺め。芭蕉はこう記しています。

「まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。 」

芭蕉の見たとおりの景色が目の前にありました。

 「国破れて山河あり、城春にして草青みたり

と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。」

人の営みは、はかなく消えていきますが、自然は悠久です。

それは、現代も芭蕉の時代も杜甫の時代も変わりません。

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中尊寺に行ってきました 2

2017年09月11日 | 旅行

前回の続きです。

奥州平泉の中尊寺に行ってきました。

本堂の奥にも諸堂が続きます。

大日堂

弥陀堂

弁天堂

そして金色堂にたどり着きました。

金色堂です。(写真は中尊寺HPから)

金色堂は、平安時代、奥州藤原氏初代清衡によって建てられました。

全体に漆に塗られ、金箔が貼られ、夜光貝を用いた螺鈿が施され、象牙や宝石によって飾られています。

これほどきらびやかな建物は他にはありません。

須弥檀の真ん中に阿弥陀如来、両脇に観音菩薩と勢至菩薩、前面左右に持国天、増長天、背後に左右三体ずつの六地蔵。仏さまの並びは金色堂独自のものです。

須弥壇は中央、右、左の三段からなり、それぞれに同様の並びで三組の仏さまが祀られています。

須弥壇の基壇部分、鳳凰の絵が描かれている部分に初代清衡、二代基衡、三代秀衡の亡骸が金色の棺に納められ、今も安置されているそうです。

 

中尊寺は、平安時代、東北地方で続いた戦乱で亡くなった人々を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土を建設するという奥州藤原氏初代清衡の思いによって建立されました。

清衡はまず、一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立します。この伽藍建立は『法華経見宝塔品』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したものでした。

清衡はお釈迦さまがお説きになった法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。
清衡は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べています。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができるというのです。お釈迦さまに直に頭を撫でていただけるという言葉も法華経にしばしば書かれている言葉です。 (この一節は、中尊寺HPの記述を要約して引用しました。)

続きます。

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中尊寺に行ってきました 1

2017年09月08日 | 旅行

岩手県平泉にある中尊寺に行ってきました。


平安時代、東北地方では奥州藤原氏が三代100年にわたって栄華を極めていました。砂金の産出や北宋などとの貿易で得た富、駿馬と強大な武力、中央との巧みな外交によって京都の朝廷からほぼ独立した形で独自の高い文化を花開かせていました。


中尊寺の金色堂は奥州藤原氏の栄華を今に伝えています。

中尊寺は平安時代のはじめ、第三世天台座主の慈覚大師円仁によって開かれました。円仁は東国の生まれで、山形の立石寺、松島の瑞巌寺など東日本の500以上の寺を開山したと伝えられています。

中尊寺は、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代の藤原清衡によって大規模な堂塔の造営が行われました。

 

さて、中尊寺をお詣りしましょう。


 
参道は月見坂と呼ばれます。勾配の緩やかな坂道が500mほど続いています。江戸時代、伊達藩によって植えられた杉並木が森閑とした雰囲気を作っています。

月見坂を登っていくと最初に現れるのが、弁慶堂です。将軍地蔵を祀っています。弁慶の木像を安置しているので弁慶堂の名があります。

月見坂を登り切り、総門が見えてきました。

地蔵堂、薬師堂、観音堂を過ぎると大きな本堂が姿を現しました。

明治期の建物です。

ご本尊は丈六のお釈迦さま。

さらに登っていくと、

峰の薬師堂です。薬師三尊がお祀りされていました。

病気を治し苦痛を除く御利益があり、特に眼病に絶大な功徳があるそうです。

続きます。

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