前回の続きです。
中尊寺に行ってきました。
金色堂を参拝したあと、さらに奥へ行くと、芭蕉翁の句碑がありました。
「五月雨の降り残してや光堂」
芭蕉が訪れたとき、奥州藤原氏によって中尊寺が建立されてすでに600年が経っていました。戦乱と権力者の栄枯盛衰の波の中、中尊寺の諸堂は荒廃が進み、ほとんど姿をとどめない中で、光堂だけは鎌倉時代に作られた木造の鞘堂に守られて、かろうじてその姿をとどめていました。
芭蕉が中尊寺を訪れたのはちょうど梅雨の季節。よく残っていてくれたという感激をこの句に込めました。
芭蕉翁の銅像も立っていました。
平泉は、奥の細道の旅で「最も奧」になります。このあと芭蕉は奥羽山脈を越えて日本海側、出羽国へ向かいます。
中尊寺をあとに、毛越寺(もうつうじ)に向かいました。
「もうつうじ」なら「毛通寺」と書くんじゃないの?と思うかもしれませんが、
毛越寺と書いて「もうおつじ」と言ったのが変化して「もうつうじ」となったのだそうです。
毛越寺は奥州藤原氏二代の基衡(もとひら)が建立しました。創建当時の建物は何も残っていませんが、広大な庭園が当時の姿に復元されています。
仏の世界を地上に表現したと伝わる浄土庭園。本当に広い広い庭園です。ゆっくりですが、ぐるりと一周するのに一時間かかりました。
最後に、高館(たかだち)の義経堂に登りました。
ここは、頼朝に追われた義経が奥州藤原氏を頼って身を寄せていた屋敷跡で、義経最期の地となった場所です。
義経の像を祀った祠がありました。
芭蕉句碑です。
「夏草や兵どもが夢の跡」
芭蕉は奥州藤原氏が滅んだ500年後ここを訪れ、人の世のはかなさを詠みました。
高館からの眺め。芭蕉はこう記しています。
「まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。 」
芭蕉の見たとおりの景色が目の前にありました。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり
と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。」
人の営みは、はかなく消えていきますが、自然は悠久です。
それは、現代も芭蕉の時代も杜甫の時代も変わりません。
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