共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はサン=サーンスの誕生日〜若き日の力作《ピアノ五重奏曲イ短調》

2022年10月09日 13時33分31秒 | 音楽
今日は朝から雲が空を一面に覆い尽くす、ちょっと暗めの一日となりました。気温は23℃くらいまで上がったものの、風が冷たいのでそこまでの暖かさは感じません。

ところで、今日10月9日はサン=サーンスの誕生日です。



シャルル・カミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)はフランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト、指揮者です。広く知られた作品としては

《序奏とロンド・カプリチオーソ》(1863年)
ピアノ協奏曲第2番(1868年)
チェロ協奏曲第1番(1872年)
《死の舞踏》(1874年)
歌劇《サムソンとデリラ》(1877年)
ヴァイオリン協奏曲第3番(1880年)
交響曲第3番《オルガン付き》(1886年)
《動物の謝肉祭》(1886年)

などが挙げられます。

サン=サーンスはわずか10歳でコンサート・デビューを果たすなど類い稀な才能を持って生まれ、パリ音楽院で学んだ後、はじめはパリのサン=メリ教会、その後フランス第二帝政下の公的な教会であったマドレーヌ寺院の教会オルガニストを勤めました。20年を経てオルガニストの職を退いた後は、フリーランスのピアニスト、指揮者として成功を収め、ヨーロッパと南北アメリカで人気を博しました。

若い頃のサン=サーンスは、当時最先端の音楽であったシューマンやリスト、ヴァーグナーに熱狂していましたが、サン=サーンス自身の楽曲は概して従来からの古典的な伝統の範囲に留まっています。音楽史を専門とする学者でもあったサン=サーンスは過去のフランスの作曲家が作り出した構造に傾倒し続けましたが、このことによって晩年には印象主義音楽や音列主義音楽の次世代作曲家たちとの間に軋轢を生むことになりました。

サン=サーンスは教職にも就いていましたが、実際に教壇に立ったのはパリのニデルメイエール音楽学校で教えた1度きりで、その期間は5年に満たないものでしたが、このことはフランス音楽の発展に大きな役割を果たしました。サン=サーンスの門下からはガブリエル・フォーレ(1845〜1924)が巣立っていて、そのフォーレにモーリス・ラヴェル(1875〜1937)らが教えを乞うていますが、この両名はいずれも彼らが天才と崇めたサン=サーンスの影響を色濃く受けています。

そんなサン=サーンスの作品から、今日は《ピアノ五重奏曲イ短調》をご紹介しようと思います。《ピアノ五重奏曲イ短調》作品14は、サン=サーンスが20歳の1855年に完成させた作品です。

この作品はサン=サーンスが、2つ以上の楽章で共通の主題や旋律、その他の主題的要素を登場させることによって楽曲全体の統一を図る手法である『循環形式』を採用した最初の作品です。ピアノパートはヴィルトゥオーソ風の技巧を凝らして書かれていて、曲中でしばしば協奏曲のように弦楽合奏と対置されますが、曲が進むにつれて弦楽が主導権を持つ場面が増えていき、ピアノは協調的な役割を演じていくことになります。

この曲は1854年から1855年にかけて作曲されましたが、楽譜の出版は完成から10年後の1865年のことでした。その際には第3楽章と第4楽章にコントラバスをオプションで追加した版も出版していて、サン=サーンス自身も演奏しています。

そんなわけで、サン=サーンスの誕生日の今日は《ピアノ五重奏曲イ短調》をお聴きいただきたいと思います。様々な名曲を世に送り出したサン=サーンスの、若き日の意欲作を御堪能ください。



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