共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はクレメンティの誕生日〜ソナチネアルバムの定番曲《ソナチネ ハ長調Op.36-1》

2022年01月23日 14時41分41秒 | 音楽
今日も寒さが堪える一日となりました。夕方からは天気予報アプリに雪マークもついているくらいで、正に寒中らしい寒さが続いています。

ところで今日1月23日は、ソナチネアルバムでお馴染みの作曲家クレメンティの誕生日です。



ムツィオ・クレメンティ(1752〜1832)はイタリアで生まれイギリスで没した作曲家、ピアニストです。その他にも教師や楽譜の出版業者、楽器製造業者としても活躍していた人物です。

当時まだ教皇領だったローマで銀細工師の息子として生まれたクレメンティは、父親の方針で幼少期から最善の音楽教育を受け、ソルフェージュ等のレッスンに通っていたといいます。それが功を奏してか13歳という若さでサン・ロレンツォ聖堂のオルガニストとなり、この活動が当時ローマを訪れていたイギリス貴族のピーター・ベックフォード(1740〜1811)の目に留まったことでイギリスに渡ることとなりました。

はじめイギリス南西部のドーセットにいたクレメンティは、その後ロンドンに移って本格的な音楽活動を始めました。その頃のロンドンでは、バッハの末子のヨハン・クリスティアン・バッハ(1735〜1782)が活躍していたこともあってあまり注目はされませんでしたが、次第にクラヴィーア奏者として名を成していくこととなりました。

1780年に演奏旅行のためにヨーロッパ大陸に渡ったクレメンティは、翌年にモーツァルトと一緒に時のオーストリア皇帝ヨーゼフ二世の前で御前演奏を披露しました。この御前演奏の後、モーツァルトが父レオポルトに宛てた手紙でクレメンティのことを執拗に悪し様に罵っていますが、逆に言えばこの御前演奏でのクレメンティの印象が天才モーツァルトにとってインパクトの強いものだったのかも知れません。


その後ロンドンに戻ったクレメンティは1790年に出演した演奏会を最後にピアニストとしてのキャリアに終止符を打ち、以降は指揮者や楽譜出版・楽器製造会社の経営者、教育者として音楽界で活躍しました。特に楽譜出版事業ではベートーヴェンの作品のイギリス国内での版権獲得のために自らベートーヴェンの元を訪ねて、ピアノ協奏曲第5番《皇帝》やピアノソナタ作品78、79の出版に漕ぎ着けています。


クレメンティの教育者としての名声は、1801年に刊行した《ピアノ演奏の手引き》や1817年に刊行した《グラドゥス・アド・パルナッスム》といったピアノ教育のための作品を出版したことで高まりました。クレメンティの教育作品は、現在ではピアノ練習曲集の作者として有名なカール・ツェルニー(1791〜1857)やショパン、リストといった面々が個人的にレッスンで教材として使っていたことなどから、18世紀末から今日に至るまでピアニスト養成のための重要な作品として伝えられてきていることがうかがえます。


私も、十代の頃にはクレメンティのソナチネにお世話になりましたが、その中でも特に印象深いのは、何と言っても《ソナチネ ハ長調 作品36-1》です。この


『♪ド〜ミドソ↓ソ↓、ド〜ミドソ↓ソ↑、ファミレドシドシドレドシラソ…』


というメロディの作品には、恐らくピアノを習っていてバイエル以上に進んだ方なら必ずお世話になっていることでしょう。


あの頃は『とにかく練習しなければならないもの』という認識で、ひたすら指を動かしていました。しかし、そういう義務感から開放された中で改めてこの曲を聴いてみると、シンプルながら古典派のピアノ作品としてよくできていると思います。


そんなわけで、今日はクレメンティの代表作と言っても過言ではない《ソナチネ ハ長調 作品36-1》の演奏動画を転載してみました。幼少期のトラウマだなんて言わないで、一ピアノ作品として耳を傾けてみてください。




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