会場ステージの上部には、『飛騨美濃合併140周年』の文字が誇らしげに飾られています。
黄緑と緑の2つの山のマークが仲良く肩を組んで重なっています。
今から350年前、飛騨と美濃を拠点にし、遠く北海道から奈良まで修行し、人々に仏像を彫り与えた修験者であり僧であった円空。
ここ岐阜県では、人々は親しみを込めて、「円空さん」と呼びます。
壇上に立つ講師は、東京国立博物館学芸企画部企画課長の浅見龍介さん。
岐阜県博物館(関市百年公園内)で開かれている特別展「東海地方の円空仏 ~その造形と足跡をたどる~」の記念講演会「円空と日本の風土」が、3日前の10月23日(日)に開かれました。
開口一番、東京からここ美濃の地に来るにあたって何を着ていくかを悩んだ時、その答は“木をイメージする茶色のスーツ”だったと聴衆を和ませます。
『専門の仏師ではないのに、なぜたくさん造ったのか?』
『彫った神仏像には、どういう意味があったのか?』
を、キーとして話は進みます。
『円空は、普通にはあまり見かけない像を彫っている。老人の体に蛇がとぐろを巻いている“宇賀神”が、豊かな実りを祈る神。水害を防ぐ、逆に干ばつを防ぐ“善女竜王”。そして、“秋葉権現”が火伏の神。』
『円空が生きた時代、大雨による大洪水、干ばつによる飢饉、そして大火。人々の生活は困窮を極め、疫病がはやることもあり、死が身近にあった。人々の暮らしは、今の我々には想像できないくらい厳しいものであったでしょう。』
『一方、春の訪れや実りの秋を迎える人々の心は、うきうきと楽しいものであったでしょう。』
『円空は、仏像を彫って、彫った仏像を人々に渡して、人々の心の支えとした。』
『村で生活している人々の切実な祈りが、円空仏には込められている。』
『人々の生活に、円空が何を考え人々とどう接したのかに思いをめぐらせると、円空仏も違って見えてくる。』
黄緑と緑の2つの山のマークが仲良く肩を組んで重なっています。
今から350年前、飛騨と美濃を拠点にし、遠く北海道から奈良まで修行し、人々に仏像を彫り与えた修験者であり僧であった円空。
ここ岐阜県では、人々は親しみを込めて、「円空さん」と呼びます。
壇上に立つ講師は、東京国立博物館学芸企画部企画課長の浅見龍介さん。
岐阜県博物館(関市百年公園内)で開かれている特別展「東海地方の円空仏 ~その造形と足跡をたどる~」の記念講演会「円空と日本の風土」が、3日前の10月23日(日)に開かれました。
開口一番、東京からここ美濃の地に来るにあたって何を着ていくかを悩んだ時、その答は“木をイメージする茶色のスーツ”だったと聴衆を和ませます。
『専門の仏師ではないのに、なぜたくさん造ったのか?』
『彫った神仏像には、どういう意味があったのか?』
を、キーとして話は進みます。
『円空は、普通にはあまり見かけない像を彫っている。老人の体に蛇がとぐろを巻いている“宇賀神”が、豊かな実りを祈る神。水害を防ぐ、逆に干ばつを防ぐ“善女竜王”。そして、“秋葉権現”が火伏の神。』
『円空が生きた時代、大雨による大洪水、干ばつによる飢饉、そして大火。人々の生活は困窮を極め、疫病がはやることもあり、死が身近にあった。人々の暮らしは、今の我々には想像できないくらい厳しいものであったでしょう。』
『一方、春の訪れや実りの秋を迎える人々の心は、うきうきと楽しいものであったでしょう。』
『円空は、仏像を彫って、彫った仏像を人々に渡して、人々の心の支えとした。』
『村で生活している人々の切実な祈りが、円空仏には込められている。』
『人々の生活に、円空が何を考え人々とどう接したのかに思いをめぐらせると、円空仏も違って見えてくる。』