のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

展覧会情報 Gallery Relic 

2017-03-26 | 展覧会

五月にお世話になる Gallery Relic ですが、現在開催中の展覧会を見てきました。

 (月・火は休廊です)

 

白壁が印象的なギャラリーです。

 

おしゃれな入り口

中に入ると、1階フロア―が展示スペースになっています。

感度のいい4人の作品が並んでいます。

     

 

 

 

 

 

そして2階に上がると

カフェバー 落ち着いた空間です。

 

5月3日からは

私たち ナウイズム二人展

 

 

よろしくお願いいたします。

 

Gallery Lelic

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心の方程式 物質から心へ(7)

2017-03-25 | 五次元宇宙に生きる(物質)

(CGによる心のデッサン 画)

 

認識というのは、私たちが知るすべてのものをさします。

 

詳しく言い直しますと、

論理的なことはもちろん、感覚やイメージ、予感や、不思議まで、およそ感じられ、想像され、意識される、一切のものがその対称となります。つまり目覚めて眠るまでの生活のすべて。

その中から認識するものを、自分との関係で理解していくのが認識ということになります。

 

たとえば、「パン」はよきものとして認識しますし、「ヘドロ」などは嫌なものとして認識します。「石ころ」は普通のもの、「未確認物体」は分からないものというように、常にそのものを自分の思いと共に認識しているということを押さえておいてください。

 私たちの認識は、コンピューターのように機械的に認証しているのではありませんね。

ですから、当然認識を記憶して知識としていく場合でも、コンピューターと違うのは、その知識にはすべて、(良い/悪い/普通/不明)という自分の評価がくっついている訳です。

その段階ですでに私たちは、認識と知識の個別性を見ておかなくてはなりません。同じものを認識しても、その認識は人によってみな違いますし、知識もまた同じことが言えるでしょう。

だからこそ、コミュニケーションの重要性が必要なのですね。

 

ところで。そのことを念頭に置きながら、前回の続きを旅することにしましょう。

この表でしたね。

宇宙意識から認識が芽を出すドラマをみてきましたが、今回はこの認識が知識となっていく様子を見ていきましょう。

 

 

それを表にまとめたのがこれです。

 左に認識、右に知識という柱を立てて、成長していく関係を示したものです。

 

その根本には意識があります。自己意識ですね。

意識は生まれたばかりの身体を内側から照らしだし、生命のリズムを「快・不快」という色付けで見始めます。この色付けは何度も繰り返されることによって、経験が蓄積され、記憶として残るようになるでしょう。それが知識の始まりだと思うのです。

一方、感覚は外界からの刺激を受けて、未分化だった外の世界を少しづつ分化させていきます。

何の区別もなくただ「これ」という認識で見ていた世界から、特定のものが区分され、世界から切り離して認識する力を身に付けて行きます。

「有る」という認識が生まれるのですね。

有無の理解が生まれると、記憶の働きによって、物の動きを認識するようになります。つまり空間や時間を意識できるようになるわけです。

物が動くということは、空間と時間の中で行われることですから、そのことに無意識であっても、動くという認識の中にすでに空間と時間の認識があるのです。

 

やがて赤ん坊は母親をまつようになります。それは身体的「快・不快」から精神的「快・不快」が生まれた証拠でもあるのです。

母を、身体的「快」を与えてくれる存在という意記憶が、母を見るだけで「快」を連想させてくれるようになるのですね。そして母親を「快」と認めるようになる。

それは「不快」の場合も同じことがいえます。

 

つまり、実際の「快・不快」だけを感じていた時代から、

まだそれは起こっていないのに、記憶の力によって、母を見るだけで「快」を思い出したり、不安を与えた者に「不快」を覚えるようになる。

つまりそれが精神的「快・不快」という訳です。

 

この精神的「快・不快」は生まれた瞬間から成長しはじめます。

認識と記憶が互いに関係しあって大きくなっていくのに伴って、精神的「快・不快」は際限なく膨らんでいきます。

 

それはさらに、「何?」という問いかけが生まれることでと爆発的に拡がります。

知識は、学習=経験という手法を手に入れることで自己増殖して行く訳ですね。

 

この精神的「快・不快」は、もともと身体的「快・不快」から生まれたものなのに、やがてそれを忘れて、精神的「快」だけを求めようと動きはじめます。そこに人間の苦悩が生まれてくるのです。

 

身体的「快・不快」いのちの営みに応じて現れます。

しかし。精神的「快・不快」は、もともと記憶の働きで生まれたものですから、実体はありませんね。実体がないから、不快を快に変えることもできる。

当然のように、人は「不快」を嫌がり「快」だけを追い求めるようになりますし、

麻薬のように、自分の身体を害しても「快」を追い求めるということさえ起こるのですね。

 

このように、成長した精神的「快・不快」は、未熟さのために様々な苦悩を生みだすことになったのです。

 

人間はそこから成長しなければなりません。

苦悩から逃れる方法は宗教などいろいろあると思いますが、それらのものに共通に流れている方向性を私は感じます。

その方向性は、生まれた瞬間に向っているということです。

 

その意味で、

五次元(スケール思考)は、この生まれた瞬間を貫いて宇宙につながる世界をイメージすることが出来る概念ですから、

人間が次のステップに成長するための道具となりうる。そう思うのです。

 

時間を手に入れた人間は欲しいものを手に入れようと働いた。

スケールを手にいれた人間は、欲しいものはすでに手の中にあることを知るのです。

 

 

 

 

 

 

 

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心の方程式 物質から心へ(6)

2017-03-24 | 五次元宇宙に生きる(物質)

(CGによる心のデッサン 知)

 

前回の記事を、図で示してみましょう。

すべての根底には、宇宙(空間と物質)の世界があります。

そこから人は自分を確立していく。そのドラマのシナリオです。

 

その概要は上の図のように、宇宙意識を己の身体にとりこんで自己意識の領域が出来ます。この身体のことですね。

宇宙にできた泡のような存在です。

この自己意識は、完全に閉じているのではなく、不完全に外界と交渉を持っている。これが呼吸や食など、いのちの運動を保証しているのですね。

この自己意識の表層に感覚があって、外界と交渉を持ちます。視覚や聴覚のことです。

やがて、この自己意識と感覚が知性「何?」と結びついて大きな認識世界をつくりあげる。そこに精神的「快・不快」があるわけです。

 

下の図は意識と認識を並立して自己意識から認識が生まれていく過程を図示したものです。

 

図の下から上に向かって成長していきますが。左下の囲みが自己意識を表しています。

閉じた相関性と書いているのは、身体を造る素粒子同士は互いに関係を持って引きあい、その力で身体を保っているという意味です。

この閉じた相関性のもっとも安定した核意識を中心にして、いのちのリズムが生まれます。そのゆらぎを「快・不快」という色で受け留める認識の種がそこにあるのですね。

この色付けが、認識の最初の風景と言えるでしょう。

「これ」という形で、一切が未分化のまま、存在感だけがある。芽吹く前の認識の姿と考えることが出来るのです。

 

そこに感覚が形成されていきます。(図の中段にある囲み)

生まれたばかりの自己意識を、満たされた意識と考えると、感覚は外界から刺激を受けて波紋を広げていく破られた意識と考えることが出来ます。

外からの刺激で揺れる意識、これが認識の種に力を与えます。いわば蒔かれた種に与える水のような働きをしてくれるのです。

 

目が明いた赤ん坊に、柔らかな光があたる。闇の中に現れた光芒に身体的「快・不快」とは違う色を感じますよね。

冷えた体が母親の胸の温かさを体験する。その柔らかさ、まどろみ。

排泄物の不快に、柔らかい布をあてがわれる体験、空腹と授乳。

そんな育みから受ける体験を通して、赤ん坊は「これ」という風景から母親を「有る」という認識で見るようになるのですね。

種が頭をもたげて、地面から顔を出すのです。

「有る」という認識は、未分化の世界を区分しはじめます。手に触れるものを何でも体感しようとします。赤ん坊がなんでも口に入れようとするのは、食べようという意志より、そうして世界を体験しているのではないかと私には思えます。

あるいは、理解するという原型が食べるということなのも知れません。

 

いずれにしても、未分化の世界を、様々な感覚の刺激が、赤ん坊の「有る」という認識世界をひろげてゆくのです。

 

ではこの「有る」という認識が、「何?」という問いかけに成長するのはどんなタイミングなのでしょうか。

 

そこに私は、自我の種が動き出す瞬間を観るのです。

 

育みを受けて人は「有る」という認識で世界を見始めます。母を認めた赤ん坊は、あるときふと、母を待つ意識を自分と感じるのでしょう。それが何なのかは分からないが、その感じは、母を見つけたときの感情といないときの不安感の落差として知るようになるでしょう。

そのような経験から、赤ん坊は母を待つ意識を定着するようになります。それが自我の種となっていくのではないでしょうか。

その種が、母を通してやってくるもの、たとえば母乳から離乳食に切り替えられるとき、それを「何?」という問いかけとして認識するようになる。

自我の種が双葉になる瞬間ですね。

 

「何?」が芽を出すと、自我は爆発的に成長します。認識は認識を生み、言葉の世界が赤ん坊を人へと成長させるのです。

 

表の右上、認識の囲みの中に、私空間と書いていますが、認識の世界は、自我の中に生み出されたまさに私的空間なのですね。

 

この私空間については、機会があればお話ししますが、一言では言い尽くせません。

要は私たちが今、この瞬間に思い描いているこの自分と世界のことなのです。それはまさにこの認識の力が生み出した世界であって、真実から映し出された映像のような世界なのです。

 

人はこうして大人になっていくのだと思うのです。

 

 

次回は、この認識が知識となって蓄積され、私たちの今をつくり出してきた風景を見ていくことにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

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心の方程式 物質から心へ(5)

2017-03-23 | 五次元宇宙に生きる(物質)

(CGによる心のデッサン 宝)

 

身体的「快・不快」から、精神的「快・不快」が生まれる過程とはどんなものなのでしょうか。

それを知るために、認識に焦点を当てて、その風景を見ていくことにしましょう。

 

① ここにコップがある。

これを見て、私たちはここにコップがあると言います。

つまりこの物体を、コップと認識している訳ですね。

この、コップという認識について考えてみましょうか。

 

私たちはどうしてコップという認識が出来るようになったのでしょうか?

何もしないで、コップという認識が自然に生まれるということはあり得ませんね。

「ここにコップがある」という認識は、「コップ」という言葉を知らなければできませんよね。

 

では「コップ」という言葉はどこから来たのか。

自分の中から勝手にやってくることはけっしてありませんから、答えは明白です。それは必ず他者からやってきますね。これを「教えと育み」と言いましょう。

つまり私たちは他者の「教え・育み」を受けて、初めてこの物がコップという名であることを知るのですね。つまり学習するということですね。

そこで初めて、私たちはこの物をコップと認識する知識を得るわけです。

 

 

 

 では、コップという言葉を知らない者が、このコップを見ると、どんな認識を示すのでしょうか。

② ここに丸い筒のようなものがある

コップという言葉を知らない者が、示す認識は、名前がわからないために、形状を見たまま認識して、ここに丸い筒のようなものがあると言うでしょう。

 

この認識には、「丸い」「筒」という言葉を知識として持っていることを示しています。

形状を表す抽象言語。これもまた、学習によって得た知識であることは明白ですね。コップという言葉を知らないために、知っている言葉で言い表した訳です。

つまり認識は知識の度合いによって変わってくるわけですね。

 

 

 

では、さらにこの認識から抽象言語を抜き取ったら、丸や筒という言葉も知らない者が認識したらどうなるでしょう。

 

 ③ ここに何かがある

「コップ」も「抽象言語」も知らないに者は、それを言い表す言葉がないのは分かりますよね。

 同じコップを見ている。しかしそれが何なのかわからない。そこにあることばが「何?」なのですね。

私はこの「何?」が知性(知識)の始まりではないかと思うのです。

つまり人は、「何?」という知性が芽生えることによって、他者から膨大な知識を習得するようになる。それが下の図です。

 

 

 

さらに遡って、「何?」という問いかけもない者がコップを見たらどうでしょう。

④ 「有る」

「何?」という問いかけのない者にとっては、言葉自体が知識としてあるわけではありませんね。

しかし、そこにものが有ることは認識できるわけです。コップがどんな役に立つのかそれは経験上理解するかもしれませんが、認識はそれ以上膨らむことはないでしょう。

しかし、見落としてならないのは、そこに有無の認識があるということです。この者にとっては、コップとその背景の区分が出来ているということです。

背景から、コップを認識して見ることが出来る。つまりコップを手に取ろうとすることも出来る訳ですね。

 

 

ではさらに、この者から、「有る」という知識も取り去ったらどうなるでしょうか。

⑤ 「これ」

「有無」を知らない者が、コップを見た場合どうなるか。この場合、コップさえ見ることは出来ません。

この者にとって、眼に映る風景は、見えるものすべてに対して「これ」という認識しかありません。

なぜなら、この者にとっての風景は、すべてが未分化のまま一つのものとして認識するしかないからです。コップとその背景は、つながった一つのもの、見たままの光景をただ「これ」という認識で見ているだけの状態だと考えられるのです。

「これ」を認識と呼べるかどうかは別っとして、

この者が体験している風景は、厳密に言えば、網膜に映った光の映像を、自己意識が「快・不快」に色付けしながら眺めているということです。

つまり、コップ(外界)を見ているというより、自分の内側にある身体的「快・不快」を見ているに過ぎない存在ということになるわけです。

言うまでもなく、この者とは、生まれたばかりの赤ん坊ということです。

 

この①~⑤の流れを逆から見れば、人が物質から心を生み出していく道筋が見えてくるのではないでしょうか。

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心の方程式 物質から心へ(4)

2017-03-22 | 五次元宇宙に生きる(物質)

(CGによる心のデッサン)

 

 

心とは何か、

それをあれこれ考えてしまうと収拾がつかなくなるかもしれませんので、

とりあえず、私たちは次のように考えて話を進めましょう。

 

つまり、心とは、身体から生まれる感覚と感性、および体験と知識の総体だと。

喜怒哀楽は感性に属し、様々な社会認識は知識に属する。

物質に対する概念として、心を考えてみたいのです。

 

ところで、心の根幹にあるもの、それは認識ですね。

どんなものであれ、それを心の中に出現させるものは認識です。

ですから、逆に言えば、認識しないもの、出来ないものは、たとえそこに何かが存在していても私たちの心には現れてこない。つまり「ない」のですね。

 

また一方で、実在しないもの、想像によって生み出されたものであっても、意識に昇るすべてのものは、私たちの認識である訳です。

 

得体の知れない不安や恐れもまた、認識ですし、予感や、予兆といった心理的な要素、感情にたるまで、私たちのなかに生まれる一切のものは認識の対象となるのです。

 

そしてその認識が私たちの心を色付けていく。

 

喜怒哀楽の現れは、まさにその認識に基づいていますね。

喜怒哀楽には原因がある。その原因となるのが認識に他ならないわけです。

 

誰かに服を破られたという事実があったとしましょう。

この時、

これで新しいものを買ってもらえるという認識に至れば 「喜」となり、

無理やり破られたと認識すれば 「弩」

古くなっていたからと思えば 「哀」

こんな服にこだわらなくてもと思い至れば 「楽」

 

というように、認識はその根幹にあって心を決定付けているのです。ものごとはすべて考え様という訳です。

 

 

では、この認識はどのようにして生まれるのか、下の図を見てください。

最も単純な、心の構造は、自・他の二つから成り立っているということですね。

そして自分に対する認識は、意識に照らし出されたものに向けられますし、

他分に対しては、光に照らし出されたものが認識の対象となっているという説明がこの図で示している意味なのです。

 

この図で示した意識とは、言うまでもなく、自分の体内を照らし出す意識、つまり自己意識に他なりません。

 

この自己意識に照らし出された、身体的「快・不快」を私たちは自分の体感として認識するわけですね。

 

眠い、速い、暗い、眩しい、重い、暑い・・・・

私たちの日常に起こるすべての感覚は、身体的「快・不快」を照らし出す自己意識が働いて認識しているのです。

 

この内面に起こるドラマは、自己意識という閉ざされた空間の中で認識される、まさに個人的体験というほかはありません。

このシルエットを自分だと思えば内面が見え、自己意識を認識しますが、

シルエットを他人と思えば、私たちはその外面を照らす光を使って認識するほかはありませんね。その内面はただ推し量るほかないことになります。

 

認識とはこの意味で、完全に閉ざされた自己空間の中から出ることはありませんし、他から誰かの認識が直接やってくることもない訳ですから、認識は永遠に孤独であるということをまず知らなければならないわけですね。

 

これは万人に等しく与えられた現実であり、私たちが物質存在であるということの宿命と言わざるをえません。

 

余談ですが、自分は孤独だと嘆いている諸子に一言、

孤独は当たり前で、万人のもの。だから孤独を嘆くあなたは全くの一人前です。立派な私たちの仲間。

有意義な孤独との付き合い方を

一緒に学ぼうではありません^か^。^

 

 

さて、このように、認識は心の根幹にあるわけですが、その認識の特性は何か分かりますか?

 

認識には、評価がついてくるということです。

「よい」「わるい」「普通」「わからない」・・・この評価が認識によって心の色が変わる原因なのですね。

冒頭で紹介した、服破られ事件で生まれる様々な心の色は、認識した事実を評価している現れです。

 

このことは、あとでゆっくり話すこともありますので、これ以上いいませんが、

いいたいのは、この認識の生み出す評価の最も原初的なものが、身体的「快・不快」だという訳なのです。

 

この部分で認識は物質とつながっているということを強調したいのですね。

やがて人は成長して、この身体的「快・不快」から精神的「快・不快」を生み出し、物質とは縁の切れた世界をつくりあげますが、

そこに生まれる苦悩に対して、私たちは回帰して癒される場を見失ってはならないということを真っ先に示したかったわけです。

 

心は認識を通して、物質=実在から、様々な偶像を生み出します。

その必要性を認めながら、しかしその反作用で生まれる苦悩を、私たちは時間の概念がつくる四次元の世界に見ないわけにはいかないのです。

 

次回、この精神的「快・不不快」が生み出す認識の世界に旅立つことにしましょう。

どんな風景が見えてくるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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心の方程式 物質から心へ(3)

2017-03-21 | 五次元宇宙に生きる(物質)

銀河宇宙ワタシハイツモシンピヲカンジル

 

サッカーボールの宇宙モデルが示すように、この世界は、空間に物資が浮かんでいる。

これは、何度も取り上げていますが、私たちそのものも例外ではないのですね。

 

私たちの実感は、この現実世界でそんな馬鹿なことないということになりますね。

実際、この地上で浮かぶことは出来ませんし、窓から飛び降りたら、それは自殺行為です。

 

しかし私たちの認識は、文明の発達とともに地上という小さな領域を超えて、宇宙を視野に入れました。その視野から見ると、私たちは地上にいながら、空間に浮かんでいることを知るのです。

地上に立っていると思うのは、実は地球の重力が私たちを引きつけているだけだったという理解は、天動説が信じられていた時代には考えられないことだったでしょう。

 

私たちは立っているのではなく、釘が磁石に引き寄せられるように、地球に引きつけられているのです。そう思って。地球の裏側の人の姿を想像すると、ユーモラスにさえ思います。

 

当然、足と地面の接点は、ミクロのスケールで見れば地球の素粒子と、ヒトの素粒子の間に宇宙に匹敵する空間がありますし、私たちの身体そのものが、ミクロ宇宙に浮かぶ人型素粒子銀河なのですね。

人間の身体を作っている基本的な原素は炭素だそうです。

呼吸によって酸素を取り込み、二酸化炭素を排出する。身体の内外を結ぶ新陳代謝の根幹にある元素だと言えば、だれもが納得できることだと思います。

その炭素Cは、見事なサッカーボールをつくるそうです。

  有機化学美術館 にある サッカーボール分子・バックミンスターフラーレン にもその図が紹介されています。

 この炭素分子が集まってヒト型銀河をつくり、酸素分子をとりこみながらエネルギーを生み出していのちの営みを繰り返しているわけですね。

 

ここで、当ブログの記事(物質から心へ)につながるわけですが、そこで積み木に例えて、物質がいのちを生み出し、やがて心に向かう構図を描きました。

 

あらためて、その積み木を、炭素のサッカーボールに置き換えてイメージしていただけたらと思います。

 

さて、この(物質から心へ)で書きました記事の中で、いのちが生まれるメカニズムの柱として考えたのが、組み立てられた身体の不安定性でした。

常時酸素を供給しなければ維持できない飽和状態の構造物。これがいのちの物質的な側面なのですが、このシーソーのようなエネルギーのバランス運動が、「快・不快」として色付けられることで、こころの芽生えを見ることが出来ると言いたかったのです。

 

しかし、

この「快・不快」は、まだ身体という物質から離れることはありません。

心が私たち人間のものとなるには、ここから成長しなければならないのです。

 

つまり、

いのちを維持しようとして生まれる「快・不快」を身体的「快・不快」と呼ぶなら、

心とは結局、身体的「快・不快」が精神的「快・不快」に成長して行く風景を見ていかねばならないということなのです。

 

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心の方程式 物質から心へ(2)

2017-03-20 | 五次元宇宙に生きる(物質)

 

ところで、サッカーボールの続きです。

サッカーボールは、見てのとおり、五角形と六角形でできた球体ですね。

 

この五角形と六角形の各辺を交わるまでのばして行くと、星型が出来ますね。これが二つの星型、いわゆる五芒星、六芒星というものです。

 

五角形から出来る五芒星は一筆書きが出来る形で知れれていますし、

六芒星は二つの三角形が重なってできた形ですね。

 

あらためて、下記サイトを見て頂ければ、この形の歴史と、特殊性は分かって頂けると思います。

【魔法】六芒星と五芒星の意味を探求する

 

そこから得られるイメージは次のとおりでした。

つまり、

五角形は、五次元宇宙の物質の在り方を表しているということ、

この宇宙モデルは、いわば、物質を説明する形なのですね。

これを五角形=物質といたしましょう。

 

すると、六角形は空間を説明する形だということが出来るのです。

それは、この六角形が宇宙の根源をイメージさせてくれる、相対性を含んでいるからです。この相対性は、物理学でいう超相対性につながって行くように思われ、それは振動するひも理論の出現で、私のような凡人にでも、空間から物質が生まれていく様子をイメージさせてくれる訳です。

つまり六角形=空間ということです。

 

 

そこで、サッカーボールをもう一度見ていただくと、

五角形と、六角形の配列に、あらためて気づかされることがあるのです。

つまりこういうことです。

物質である五角形をご覧ください。

この五角形=物質に隣接する形は、すべて六角形=空間であることが分かりますね。

つまり、空間に浮かんでいる訳です。

 

そして六角形はどうでしょう。

一つおきに各辺は、五角形と六角形につながっていますね。

つまり、六角形は、五角形を包み込みながら、自らは互いにつながって一つの存在となっている、これが空間なのですね。

 

サッカーボールはその意味で、とてもよい、五次元宇宙の立体モデルなのです。

 

五角形の宇宙モデルで作った、正十二面体です。

ここにに現れてくる円形の白地が分かりますか。

観方によっては、大小さまざまな円が、五角形を取り囲むように見えますね。

つまり、この白地が、六芒星に相当すると考えられるというわけです。

 

単なるモデル上の話しですが、宇宙の不思議を形にして理解したような気分になりますね。

正しいとは言いません。

 

このモデルが絶対だと考えた瞬間に、私たちは真実を逃すことになりますから、念のために言っておきますが、

これは私たちの、心とは何かという探索に必要な宇宙の一つのイメージとして理解していただきたいと思うのです。

 

 

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心の方程式 物質から心へ(1)

2017-03-19 | 五次元宇宙に生きる(物質)

2012年個展 Waa Concept(キャンバス・サッカーボール・鉛筆)

 

 

せん先日の記事で、自閑さんから頂きました言葉が忘れられません。

「心の方程式」

 

「物質から心へ」をテーマに書こうとしていた矢先のことでしたが、仕切り直して、あらためてここから初めてみたいと思います。

 

表題の展示風景は、2012年の個展ですが、言うまでもなく宇宙を表現した組作品です。

この作品には、ある偶然がありました。

子供が小学生時代にやっていたサッカーボールが、創作熱に浮されている最中に出てきたのです。

何のためらいもなく、ボールに下地を施し、サッカーボールを絵にとりこみました。それがこんな作品になったのですね。

 

ところが最近、このサッカーボールが、心の中に再びやってきました。

今度は実体のない、単なるイメージとしてですが、

 

その発端は、私の考案した五次元宇宙のモデルを公開したときでした。

物質とは何か(8)

この正五角形を見て、

まかこさんから、五芒星・六芒星 を指摘して頂きました。

そして教えていただいた雪の結晶の不思議な六角形。

そんな経緯から、次のようなサイトを知り、ました。

【魔法】六芒星と五芒星の意味を探求す

 

要するに、

六芒星は▽と△を重ねた形であり、これは宇宙の根源を表した形として理解できるというものでした。

そして、五芒星は、五次元宇宙の、物質の配列を表した、私の宇宙イメージであり、上記サイトによれば、阿部清明の陰陽道にもつながるという。

 

さて、サッカーボールに戻りますが、ご覧ください。

この見事な五芒星と六芒星の結合。

 

宇宙の根源である、六芒星の形と、宇宙の成り立ちを表す五芒星が結合知ると球体になるのです。

 

そして心。

 

「私」を中心に広がる心の世界を思い描けばどうですか。

「私」から一番遠い場所にある点を思い描いて行くと、それはどんな形になります?

一番遠いところにある点。

それが無数に広がると、それは球体ですね。

 

これはけっして偶然の一致ではないと私は思います。

 

心は明らかに、この宇宙と密接に関係を持っている。

もっと言えば、

心とは宇宙そのものという私の直観。

 

それを形で示してくれるサッカーボールに出逢った喜び。

これはすべて、

私の思考に付き合って下さる方々の発案のたまものであり、

そこにこそ、サッカーボールのような心の結合を感じるのです。

 

皆様と共に、心の方程式を探す旅に出ていくことにいたしましょう。

引き続きよろしくお願いいたします。

 

 

 

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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 

2017-03-18 | 展覧会

案内状が出来ました。

 

ナウイズム:

今、この瞬間こそ真実と思い定め、創作の糧とする運動です。

 

 

地図(拡大)

 

 

ナウイズム(実在主義)宣言

 

地上のすべての人々に、人間の尊厳と希望を。

 

我々は、長いあいだ時間に縛られた認識世界に生きてきた。

四次元(時間思考)は歴史を理解し、人々を未来に向わせ、知識の探求と富の追及に意欲をかきたてる。

 

しかし反面、四次元は様々な代償を人々に求めてきた。その代償は、万人に対して等しく振り分けられるように仕組まれている。

心の中でそれは起こる。苦悩がそれだ。

時間は、心が今に留まることを許さない。

過去を悔い、未来に不安と希望をかきたて人々を走らせる。その舞台から降りようとするものは落伍者とみなされる。

 

今や、この時間思考から自由になり、今を生きるということを学ばなければならない。

 

それは真実に気付き真実と共にあるということ。

我々は呼吸し、脈打つこの身体と共にあって、宇宙と共存している。この事実に感謝してそれを受け入れることなのだ。そこには落伍者は一人もいない。

 

我々はみな、独自に持っている能力を有効に使うことが出来る。その能力は一人ひとり違っており、その違いこそ最大の価値だと認めなければならない。

我々はすべて、自分自身であることで社会に貢献し、その役割を果たす。それは今を生きるものにしかできないことなのだ。

 

我々の精神的支柱は五次元である。

五次元は四次元を否定するものではない。

むしろ時間思考の利点を認めつつ、その落とし穴から身を守るための思想となるのである。

主従関係をはっきりさせねばならない。すなわち、主は五次元であり、四次元は従として必要な時に用いる。

いうまでもなく四次元は時間思考であり、五次元はスケール思考だ。

スケールの概念は、今この瞬間に、全宇宙を認識する方法だ。己の実在が、無限の宇宙とつながっていることを教えてくれるのだ。

人はそこから、自分は無限大であり、宇宙そのものであるという理解に至る。スケールの概念はミクロとマクロが同時に存在する宇宙の姿を理解させてくれる。それは「今」そのものの姿なのである。

 

時間の概念から見る人間は、一人ひとりが宇宙から切り離されている。なぜなら、人は時間のラインに乗って生きていかねばならないからだ。

そこでは未来と過去は重要な判断基準となるだろう。

しかし未来も過去も、実在ではない。空想の存在だ。

空想の存在に身を置き続けることで、我々は実在である「今」を軽んじ、忘れさせられている。そして空想の自分の死を恐れ始める。

それが時間思考のつくり出す我々の姿だ。

 

我々はこの四次元の意識から離れ、生まれた瞬間に戻る。

産声から始まるいのちの奇跡。それは全宇宙の力がかかわっている実在であり、永遠に存在するものなのだ。実在は今、この瞬間にしかない。

スケール思考はそれを正しく見せてくれるよき道具となるのである。

 

我らは叡智を集めて、五次元の道をひらく。

様々な芸術が、今この時を生きる人の姿を提案する。

平凡な生活の中で、一本の描線、一枚の紙、一個のジャガイモから、今この時を学ぶ。今立っているこの場所から、五次元の意識は生まれる。

それは、人々を苦悩から解放する。

 

スケール思考とは、スケールの概念で見る世界を実在と定める方法だ。

 

我々は宣言する。

四次元から意識を解放し、五次元と共に人間性を回復する。 と。

 

この瞬間から、

今を意識した生き方を選択しよう。

今この時にしか存在しない、この命を見つめて生きる心を定めよう。

憎しみは過去から来る。怖れは未来から来る。そして愛は今にしか存在しない。

 

常に、今この時を意識して生きる。それがナウイズム(実在主義)だ。

 

           間﨑学&北籔和 

 

 

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コメントに触発されて 心の方程式

2017-03-17 | 五次元宇宙に生きる(物質)

 

 

先日、Xさんから、とても深い質問を受けて、お答えする記事を書きましたが、そこにいただいたコメントには、言下に励ましの心を感じましてありがたく、心温まる思いをいたしました。御礼申し上げます。

そして何より、真摯に疑問を呈していただきましたXさんに対して、あらためて御礼申し上げます。私自身、そのことで再確認することがたくさんありましたし、とりわけ、当然と思っている事に対しては意識を向けない自分がいることに気付かせて頂きました。

 

さて、そんな中、アッと驚く考え方をコメントにして届けていただいたことに、触れないわけにはまいりません。

是非皆様と共有させて下さい。

それは自閑様から頂きました次のようなコメントです。

(全文そのまま掲載します)

-----------------------------------------------------

神の想像への理解(自閑)

神の想像への理解は、物理学者、数学者は神の数式に依って顕れると言うのが宗教
哲学者は、存在への問に因り人の行き方を答を求め神を理解しようと言うのが宗教
宗教学者は、信仰により神の存在と神の想像を理解しようとしている。
では、画家は?
神の想像を表現しようとした時に、その物の本質を知りたいと願う。美しさも神の想像の一部だから。それが宗教
レオナルド・ダ・ヴィンチは、生きた人を美しく描くために、その本質を知るために死体を解剖して教会から迫害された。
所がどんな4つの力の方程式を求めても、心の方程式が無い。次元を増やしても、時間軸を加えても。対称性を解明しても。
と生意気に思っております。
計算式で出来た絵をのしてんてん様の心は、怒りとともに消し去り、心の形を表現したとblogに書かれていましたね。
これからも心の方程式ののしてんてん様の表現を楽しみにしております。

(文字色は私の操作です)

-------------------------------------------------------

このコメントで、「宗教」の言葉が多いので、おや?と思いましたが、読み返して気付きました。

赤色で示した「宗教」は、「信念・心情」、あるいは単に「信じること・信仰」という意味でつかわれていることが分かったのですが、

そのとたん、私は、自閑さんの観ている風景が突然目の前に現れたという感じで引き込まれてしまいました。

自閑さんのコメントを、私の言葉に置き換えさせて頂きますと、

 

神(宇宙)に対する理解の道筋はいくつかある。

 

科学者は、数式(法則)の中に神の意志があると信じ、

哲学者は、存在の理を論理で解明しようと道を探る。

宗教者は、信仰によって神に近づこうとし、

画家(芸術)は神の本質を求めて美を追求する。

 

しかしこの四つの道のどこを探しても、心の本質は見えてこない。

宇宙を論じても、新たな次元(五次元)を見つけても、それはすべて心の中にある問題に過ぎない。

この四つの道には、心の方程式は無いのだと。自閑さんはいいます。

 

のしてんてん=心

私が絵を描き、思索を続けていることは、まさにこの、心の方程式を求めてやってきたことだったと、電気ショックを受けたように理解しました。

 

私ですら、言葉にして気付きもしなかったことを、それを自閑さんが、見抜いてくださった。

 

ありがたいことです。

 

「心の方程式」

それは物質から始まるのです。

物質から心へ  

の記事を書きはじめた、このタイミングで頂いたこのことばに、えにしを感じます。

 

計算式でできた絵を怒りと共に消し去った後に、私に残ったのは、今この瞬間に、延々と運動を繰り返している呼吸だったのです。

 

失望のどん底で、うずくまっていたこともありました。

その時、全てを失ったと思う絶望の中で、さりげなく細々と身体を打ち続ける脈動に気付いたのですね。

 

いつも最後に返ってくるところがそこにある

漠然とした、存在感

透明の心が、眼をそらすと見えてくる

そんな感じで、私は心と出逢ったのです。

 

 

 

 

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物質とは何か Q&A 2

2017-03-16 | 5次元宇宙に生きる(神)

(かのこそう の ゆりかごうちゅう)

 

Xさんの第2信です。それを「問」と受け止めさせていただき。いただいた言葉から私なりの答えを見つめてみたいと思います。

 

Xさんに、重ねて御礼申し上げます。

 

 

{問}-----------------------------------------------------

ぶしつけな質問に応えていただいたことに感謝します。こういう理解でよろしいですか。

あなたの書かれている内容は、学術的にも、宗教的にも、あるいは哲学的にも、既存のものには根拠はない。

唯一の根拠は、それどれの中にある心だと。

 

私の疑問は、このたいそうな講義は、人をどこに連れて行こうとしているのかという一種の新興宗教的な気持ち悪さだったので、氷解出来ました。

 

                    -X-(要約)

 

 

{答}--------------------------------------------------------

まさに、そのように理解していただければと思います。

 

ただ、根拠がないと申しましても、人類が築き上げてきた文化と全く関係がないと言いうことは出来ませんし、

ある意味、逆の言い方になりますが、

私たちの思考は、この文化を土台にして成り立っている訳ですから、そのすべてを拠り所として成り立っているともいえるわけで、心というものはそこを土壌にしているということはご理解ください。

ですので、もう少し私の思いに近い表現をいたしますと、社会の中で形骸化した思考を根拠にはしないということです。

Xさんのおっしゃる既存とは、そういう意味で使われていると思いますし、危惧されるような特定の形骸を私が密かに持っていて、導こうとしているということはけっしてありません。

むしろそれは逆でありまして、私は心の形骸化が社会現象になることを恐れています。

 

心とは存外弱いもので、いっときの高揚も時が経てば静まり、拠り所を既存の中にみいだし、その殻の内で眠ろうとします。

それは心の自然な流れですが、そこで怖いのは思考停止なのですね。

 

己とは何かという思考が停止すると、形骸の中で自分が見えなくなり、個性が消えます。簡単にテロに走る心は、まさにその最たるものではないでしょうか。

この形骸化を防ぐ方法は一つしかありません。

それは人々がみな、己の心に目覚めることなのです。

 

宗教は、答えを丸ごと与えてくれます。

私がいいたいのは、その丸ごと与えられた答えを、己の心に照らして見るということの大切さなのです。

 

どんな優れた宗教でも、同じことが言えますし、

科学に至っては、日進月歩、昨日の論理は明日には否定されるということもあり得ますね。

哲学にしても、社会の中で決して不動の正義であるわけではありません。

 

これらの文化を形骸化させないのは、

常に己の心に返ること。己の心で思考することだと私は思うのですね。

 

五次元思考は、その意味で、常に己の思考を約束してくれるのです。

なぜなら、スケール思考というのは、己の中心を貫いて宇宙につながるイメージを与えてくれるからです。

そこには己の心から生まれる世界がうごめいています。

自分の呼吸を宇宙の律動と思うことだってできます。

 

そしてそこから生まれてくる思考を己と定めることが出来れば、

私たちは形骸から解放された宇宙と一体になることが出来ると思うのです。

 

個性が尊重される社会。

この健康を保ち続けたいですね。

 

 

 

 

 

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物質とは何か Q&A

2017-03-15 | 五次元宇宙に生きる(物質)

秋のはな カノコソウ

 

手厳しい質問がまいりました。今日はその質問にお答えします。

 

{問}---------------------------------------------------

物質とは何か、物質から心へ等、内容はもっともらしい気がしますが、所々であなたは学者ではない旨の記述をしています。

これは、反論を避けるためとしか思えないのだが、如何?

 

あるいは、それを認めるとして、

ではあなたは、何に基づいて記事を書かれているのか、それがわからなければ、賛同も反論も出来ない、無責任な散文ということになります。

一体あなたは何者ですか? 

                       -X-

 

 

{答}------------------------------------------------------

心にサンドバックを投げ込まれたような質問ですね。

しかしXさんの質問は、まったくその通りでした。公開して論理を書く以上、それは基本中の基本なのでしょう。私にも分かります。

私としては、絵描きによる自己追求という思いをそのまま記述してきたのですが、それは私の勝手な思い込みというものですよね。

その思いに気付かせて頂きまして、ありがとうございました。

まずは御礼申しあげます。

 

まず、学者ではないというとこですが、

これは私の凡人的発想です。

つまり学者の話しということになりますと、専門的に研究された権威から賜るという感じがあって、つい自分の考えを止めて受け留めてしまうというイメージが私にはあるのです。

ですので、私としては、そういう感じて受け取るのではなく、これを契機に自分で考える、思考体験をしていただきたいという思いが一点。

そして私自身が、学問の体系から外れた気軽さで、自己追求しているものだという表明が、二点目です。

 

反論を避けるためと言われれば、半分は否定できません。

と申しますのも、これは学術を論じているのではなく、心を描いているものですので、いわゆる学術的な反論は意味がありませんし、私にはそれに応ずる能力もありません。

私はただ、

心とは何かという己の疑問に対して、出来るだけ論理的に、己に分かるように、己に応えようとしているのです。

 

それはマスターベーションだ。そんなものを人に見せるのか

 

Xさんの反論が聞えるようです。

しかしそこに私の信念があります。

つまり人はみな同じだということです。

 

人は個性を持って生きています。一人ひとり違うのが人だというのも私は受け入れますが、心の深い部分で私たち人は同じだという。信念です。

 

つまり、マスターベーションと言われるかもしれませんが、それを投げかけることで、人の心にも同じ波紋が起こると考えたいのです。

私は自分の心の確信出来たものだけをを、同じと思える人の心の深いところに届けることで、なにがしかの波紋が生まれると信じているのです。

 

それは私が絵描きだということと全く同じ感性からきています。

 

絵を見ていただくことで、心の深いところに訴えかける。

五次元思考は、言葉で、心の深いところに届ける。

 

何を?

 

己がしあわせを感じるもの。

本物の幸せと思うものをです。

 

ですので、Xさんの後段の質問ですが、

私の一連の記事は、学術体系に基づいているのではなく、もっぱら、私自身の自己探求によって見えてくる風景の記述だと言えば、ご理解頂けるでしょうか。

 

ですから、反論や賛同ということではなく、Xさん自身の心の風景を私は共有したいのです。

どうか、私のこの記述(風景)に接して頂いたこのご縁に、Xさんご自身のお心がどんなふうに共振しているのかを観察していただきたいのです。

そしてできればそれを皆様と共に共有させていただいて、ともに心のさらに深いところに進んでいきたいと願うのです。

 

私の論理に惑わされす、それが何に基づいていて正しいのか過っているのかという思いを巡らす前に、Xさんの心が何を感じ、どんな風景を見ているのかを検証していただきたいのですね。

そして、それだけが、私の記事の中にある真実なのです。

 

繰り返しになりますが、

真実は私の書いた文字にあるのではありません。それによって広がったXさん自身の心の波紋です。

それが共振か、反発か、Xさんにしかわからない心の真実ですし、人はみなそれどれの心にある、その真実にしたがって生きていくしかない。

その先に至福があると私などは信じている訳ですね。

 

質問に答えられたのかどうか、心もとないのですが、私の正直な思いです。

 

その上で、お前は何者かという問いにお答えしますと、

 

私はおそらくXさんと同じ、ヒトという他はありません。

どこかで、私は探求者と答えた覚えもありますが、

同じ意味です。

 

 

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物質から心へ

2017-03-14 | 五次元宇宙に生きる(物質)

 

物質とは何かから少し間があきましたが、ここから私たちは心に向かって視点を変えていきたいと思います。

 

私たちの身体は、確かに物質からできている。これは疑いようもない事実ですね。

しかしそれで私たちが満足できるはずがありません。

 

なぜなら私たちの日常は、ほとんど心によって動いているからです。

そして心は、物質とは言い難い。これも疑いようもない事実ですよね。

 

心は物質ではない。

すると私たちの今までの考え方からすれば、心は空間に属するということになります。

 

単純に考えればこういうことになります。

 

つまり、

空間から物質が生まれ、素粒子が互いに引きあって集団をつくる。

空間に素粒子の人型銀河が出来上がる。

素粒子を一個の積み木に例えれば、いくつもの積み木が構造物をつくり、いのちが生まれ、これ以上積み上げられない物質の限界にヒトが出現した。

しかし物質は高度になれば、逆に不安定度が高くなる。

鉱物などは、永久に安定して変化しないのに対して、ヒトは、数分間呼吸出来ないだけで崩壊してしまう。

いのちは、この不安定性から来る新陳代謝だと考えられます。

 

さらに進む物質の進化は、脳をつくり出します。

高度に進化した脳は、物質の制約からさらにステップを上げて、エネルギーそのものを加工できるようになる。

 

身体の生理的現象は、物が物を変化させるに留まるのに対して、

身体の心理現象は、頭脳という物質が空間を変化させ、空間が空間を連動させると考えられます。


物質は最終的に頭脳をつくり出すことで、空間を加工する力を得るようになった。それが心の根源だと私は考えます。

 

空間とはエネルギーですから、

人間は頭脳を得ることで、己のいのち、つまり身体の生態系に生まれる命のリズムや変遷を、エネルギーの色として理解できるようになった。それが身体に生まれる「快・不快」なのです。

つまり、

「快」とは、いのちを保存する方向に生まれるエネルギーです。

これは宇宙と共鳴する身体エネルギーともいえ、自己意識が宇宙意とシンクロする状態と言えます。

 

「不快」は、逆にいのちを破壊する方向に生まれるエネルギーと考えられます。つまり「快」とは真逆の、自己意識と宇宙意識の対立、混乱と言えるでしょう。

いのちは、宇宙との共生を至福とする運動であり、「快・不快」はその道しるべとなっているのですね。

 

至福に至れば、私たちは物質と空間を対立概念で観ることはなくなり、まさにそこに、色即是空の世界が実現するわけです。

思考によって、私たちは初めて、自己意識と宇宙意識の壁を越える。

 

しかし無論これは今だ、訪れているわけではありません。

その線路に乗って、今物質は、初めていのちを与えられた訳です。

 

「快・不快」はそのための最初の第一歩ということなのですね。

するとたとえば呼吸を例にとればこんなふうに説明できます。

① 体内に酸素を取り入れる。するとこれは、身体にとって「快」のエネルギーに他なりませんね。

②炭素と反応して新しい力が生まれますが、
出来た二酸化炭素は体を阻害するため、それは身体にとって「不快」エネルギーとなるわけです。
 
③必然的にその二酸化炭素を排出する運動が起こります。言うまでもなくそれは「快」感として色分けされますね。
 
④しかし今度は、身体が酸素を要求します。それは体内の酸素不足という「不快」感が頭脳に働きかけるからなのでしょう。
 
こうして、再び①の運動が起こり、④に至って①に返る。「快・不快」のエネルギーが交互に現れることで命がつながって行く。
 
この身体的「快・不快」が物質から離れて、心をつくる根源となっていくのですね。

 

さらに、「快・不快」から生と死のメカニズムを考えると、

 

図のように、

体内に起こる「快・不快」は、眠りによって癒されますが、目覚めて活動しはじめると、「快・不快」のふり幅が大きくなっていくと考えられますね。いのちのシーソーが大きく揺れ動くようになる訳ですね。

 つまり、命の不安定性が一日の活動で最大になり、それを眠りで癒すというリズムを繰り返しながら生きていくわけです。

この生命活動を、私たち人間は、「快・不快」のエネルギーという形で認識し、これをベースにして心をつくりあげていくのです。これがいわゆる思考とつながって行くのですね。

 

目を閉じて、身体に起こる快不快を体験してください。

呼吸がその最も顕著な例です。

というより、私たちは最も身近に、それこそ呼吸それ自身として生きており、「快・不快」の色を見て生きているのです。

呼吸こそ、物質の最先端。不安定性の中で、宇宙とシンクロしようとしている赤裸々な姿なのですね。

 

当然、死は、生態系そのものの崩壊ですから、身体は安定した物質に変わり、当然そこには、たとえ自己意識はあっても「快・不快」は現れないことになります。

 

 

 

 

 

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ある発明家の話し (再掲)

2017-03-13 | ナウイズム(実在主義)

(画像は日経産業新聞より)


あるひ、なんとなく見ていたテレビに釘付けになりました。素晴らしい話を紹介しましょう。

 

NHK プロフェッショナル仕事の流儀の番組で、緩まないネジ(画像)を発明した、道脇裕さんの話しです。

 

道脇さんは、履歴には学歴なしと書くそうです。

小学校に入っても、教科書を1週間でやりあげてしまい、学校の授業に意味を感じませんでした。

5年生のころ、「僕は今の教育システムに疑問を感じるので、自分の足で歩むことに決めました」と宣言して、学校を中退してしまったそうです。


その後自力で、自分の中にある疑問を考え続けます。

その中でも、いちばん考えたことが「この世とは何なのか?」という疑問です。自然界とは何か? 宇宙とは何か? 生命とは? 人間とは何か? 社会とは? そして、自分とは一体何なのか。何の説明もなくいきなりこの世に産み出されて、いったい自分は「何のために存在しているのか?」と。


道脇さんは様々な仕事を転々として考え続けました。自分は何のために生きているのか。

定まらない自分に苦悩し、このダメ人間をよくするには何が必要かと考え、リストアップしたら、なんと学習要領と同じだと思ったそうです。

学校のシステムは、人を創るための叡智によってできたものだと、自力で理解したわけです。

さて、それは傍論で、本題は、緩まないネジの発明ですが、

それは不可能と言われていました。

しかし道脇さんは、「不可能と証明されていないのに、不可能というのはおかしい」と言って研究をはじめ、上の図のようなネジを発明しました。

ボルトに左右のネジ山を切るという発想で、右ネジと左ネジの2個のナットを締めるだけで、けっして緩まないネジになるという訳です。


しかしねじ切りが難しい。丁寧に切ろうとゆっくり機械を回す。しかしどうしてもバリが出てきれいにできない。

頭を抱える旋盤業者に道脇さんは言います。

「旋盤を最高速にしてやってください。」

考えたこともないことでした。左右のネジ山を切る作業です。高速なんてとんでもないという訳です。

しかし言われた通りやってみると、うまくいった。業者もびっくりです。


「不可能と思われていることは、その枠の中はやりつくしたということ。だから答えは枠の外にある。」

道脇さんは言います。

新しいものをつくり出そうと、考えるということは、枠の外に答えを求めるということなのでしょう。

道脇さんは、やっと、自分は何のために生まれてきたのか、理解したのでしょう。


なぜ苦しむのか、

「自分のために苦しむのだったら、意味がない。死んだ方がましだ。」

そう思う道脇さんの得た答えは、

「この苦しみは人のためにあるのだ」ということでした。


発明のために頭を使う。人の仕事が便利になるように、どうしたらいいのかと、常に枠の外に答えを求めていく。

道脇さんは言います。

「頭脳は心の道具だ」


心は人の幸せを願う。しあわせに向かって進もうとする。

その時、頭はそのための道具だと言い切る道脇さんを見て、私は思いました。

この人は全身で自分の命を生きようとしている人だと。


人は己のために生きているのではない。

無学歴の道脇さんが自力で導き出した自分の人生に対する答えです。


道脇さんには、小学生の女の子がいます。

自分も発明家になると、お父さんの仕事場にもついて行きます。

手に、紐で釣ったペットボトルをぶら下げています。

ペットボトルには半分水が入っています。女の子の発明なのです。


坂を下りるときなど、これが錘となって転がらないのだそうです。

「今はダメだけど、大きくなったらお父さんを超える発明家になる」


インタビュアに答える女の子を見つめる道脇さんの笑顔と目、

己のために生きているのではないという理解が、

明々と輝き、花咲く瞬間のように見えました。





 

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ギャルリー宮脇 西村一成新作展

2017-03-12 | 展覧会

(ギャルリー宮脇パンフレット)

 

今日は外出の日

京都三条にあるギャルリー宮脇に行ってきました。

長きにわたって、パンフを送り続けていただいている画廊で、その内容は常に作家の内面を深くえぐるような紹介がされていて、面白い。

ただ私の出不精で、ほとんど足を運べていなかったのですが、

今回は私の方が心えぐられるようなパンフが届き、とにかく行かねばという気にさせられたのです。

パンフを見て、私の内に、懐かしい目覚めを感じ、それを確かめたい思いもありました。

それは、私のバイブルでもある、中村二柄先生の、ウルフィグラツィオン(根源現成)こんげんげんじょう を、この作家の絵が思い出させてくれたからです。

まずは画廊の様子です

この絵にまず度肝を抜かれ、

二階にも、私の気をひく作品が何点かありました。

心がほとばしるままに任せる絵

作意よりも、波動

生きること、この存在そのものが芸術という、中村二柄先生の説かれる「根源現成」がこの絵や、最初の(一階の4点)に感じる。

パンフを見て、それを確かめたかったのですが、実際の作品に裏切られることはありませんでした。

西洋絵画のように、作意ある描写ではなく、形象にこだわらない己(根源)がそのまま現れ出る(現成)絵画、

そしてそれは、ナウイズム絵画の本懐でもあるのです。

 

ちょうど画廊のオーナーがおられたので、ナウイズム宣言を手渡しながら、画家について話しを聞いた。

2011年から画廊が育てている作家だそうで、昨年の個展の写真を見せてくれたが、明らかに今回の作品はそれを上回っている。

野獣のように描く。

40代の作家で、名古屋在住ときいて、はるひ美術館がちらりと意識をかすめた。

 

そして私の第二の目的、ナウイズム運動の紹介。

ナント、かつては天文男子だったということで、話が弾み、私の思うことはほぼすでに意識されている様子でした。

 

出来ることなら、ナウイズム運動に参加してもらいたいと、胸に描きながら、次の予定のため画廊を出ました。

 

帰路、寺町商店街の中にあるギャラリーヒルゲートでは、今日までですが、こんな個展。

 

 エッチングの作品だそうで、うねるような描線が魅力的でした。

内面をなぞるような描線、西村一成は爆発でしたが、こちらは磁石に吸い寄せられるような統一感が支配する風景。これも面白かった。

 

そして今日のメインイベント、旧悪友との久しぶりの飲み会。

同世代、ともにしょぼくれた問題を抱えてしばらく精彩のない話でしたが、やがて私の本題、ナウイズム運動をともにやろうと水をひく。

 

学生時代、サルトルを論じ、社会を評した旧友もついに目を覚まし、テーブルを叩いて、もう一度人生を生きようじゃないかと、酒の上の活劇に興じた次第。

 

終わりよければすべてよしと言いますが、

今日の場合、良かったのかと思いつつ、

 

久々に若返った一日で、やっぱりよかったのだと一人、最終(?)電車の中でした。

 

 

 

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