のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

ナウイズム 二人展 ネット上プレ開催

2017-04-26 | 展覧会

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間﨑さんより作品画像が送られてきました。

ネットによる

 プレ ナウイズム二人展 間﨑学&北籔和 です。

 

今回の展示作品ではない作品もありますが、二人のナウイズム

そのリズムを感じて頂けたら幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人の制作は順調に?進んでおります。

 

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感性と思考

2017-04-25 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

4月に入って、中村二柄先生の美術論を取り上げました。美術界の東洋と西洋の差異を研究された著作を読み解いて行くうちに行き着いた私たちの結論は、4月18日の記事のとおりです。

まずその記事にサッと目を通して頂ければと思います。(初めての方は、4月8日~18日の連載をお読み頂ければ入りやすいと思います)

その上で、その後の私の体験を一人旅通信として紹介したいと思います。

つまり、思考と感性の統合の実際を、体験として通信いたします。

 

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(ナウイズムの瞑想 五次元)4月18日記事

 

中村二柄「東西美術史」から、それを自分の心の問題に引き受けて考えると、思考と感性の統合ということに行き当たる。

そう前回書きました。

 

それに対するコメントもいただきましたので、この思考と感性の統合という考え方について私なりの考えを書いてみたいと思います。

 

ところで、感性とはなんでしょうか。

私はこう考えます。

上の五次元の図で、スケールの軸に沿って連なる世界は、今この瞬間に同時に存在している極大から極小の世界です。

同時に存在しているというのは、たとえば右手と左手のように、この身体の一部として存在して今、せっせとキーボードをたたいています。全体の中の一部分だというとこです。

つまり、このスケールの軸は、全体であり、今この瞬間の私は、その全体の一部だと理解できるわけですね。

 

そうすると、この全体が、宇宙空間の中で生きていることになります。

 

もう一度いいますが、この極小の世界から極大に向かう物資の連鎖は、

一つのいきものなのですね。

感性とは、この一つのいきものの全体から生まれているものなのです。

 

そして思考は、

上の図の中央にヒトの場所がありますが分かりますか。

このヒトのスケールから横に時間軸が伸びて、ヒトの時間が生まれ、そのスケールに構築された頭脳が働いて思考が生まれていると考えられるわけですね。

 

つまり思考は、全体の中の一部に流れる時間に左右されているのです。

そして感性は、全体から生まれるものであり、当然いのちの声と言っていいものですね。

 

そう考えますと、

感性が苦しむことは無いのです。

苦悩はどんなものであれ、頭脳がかかわっていると私は思うのです。

 

感性は、生きることを考えている。

正しい命の方向を美しいと感じ、おのれのいる場所と理解している。

 

だから苦悩が生まれたら、感性に聴けばいいのです。

それが瞑想という一つの形だと思うのです。

 

瞑想して全体に入っていけば、おのずと、苦悩している思考の姿が見えてきます。

思考のどこが行き詰って苦悩を生みだしているのかが見えてくる。

 

それが感性と思考の、正しい統合として表れる。

つまり、思考が正しく生まれるように、感性の声をきくと言えばいいでしょうか。

 

常に全体を意識する。

それはスケール軸を瞑想してつかめます。

 

苦悩が生まれたら、瞑想して感性の声をきく

するとつまずいている思考の姿が見えてくる。

つまずいた思考から、感性が喜ぶ思考を見出したら、それは愛だというのも、

あながち間違いではないと思います。

そんなイメージを持てば、

思考と感性の統合ということが理解しやすいかもしれません。

 

ナウイズムというのは、

この全体を意識し、そこから自分を考えるということでもあるのです。

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わたしと私

(体験をもとに 一人旅通信)

 

チュンと鋭い声が私を目覚めさせた

チュッ、チュッ、チュッ さらに声が広がっていく

わたしはまどろみの階段を登って、次第に鮮明な意識を感じ始める

朝が来たのだ

目覚め

薄く目を開けると柔らかな光がまつ毛の間からやってくる

チュン、チッチッチッチ、

鳥だ

私ははっきり目覚める

それは思考と共に始まる

 

チュン、チッチッチッチ、

それは寝床の中で、確かにわたし自身だった

まどろみはわたし一つだった

 

 

チュン、チッチッチッチ、

それが鳥になった

思考が働いて、

まどろみのわたし、一つだったわたしから鳥をつくり出した

それが思考の最初の作用なのだ

 

一つだったわたしは鳥と二つになった

鳥と私になった

 

わたしは、まだ見てもいない鳥の声をきいて、梢で朝餉を探す鳥を思い浮かべる

それは私ではない

思考はそう宣言する

 

日が登り

目覚めた思考は私をつくり始める

それはわたしから、次々と私ではないものを切り離していく

雲、山、川、母、父、友、敵、

 

最後に残った私

何てちっぽけなんだろう

 

これが私

何てさみしいのだろう

 

目覚めと共に

わたしから切り抜かれた私は奔走する

さみしさを紛らわせるために

地位と名誉を求め、友を求め、愛するものを求め

 

得た喜びと

失った悲しみを

切抜きの私は往復する

 

もう一度

わたしに帰る

その時まで

 

 

 

一人旅通信では

私と、わたし。思考と感性の風景を随時掲載していきます。

思考と感性の統合とは可能なのか

それはどんな形なのか、一緒に見ていきましょう。

 

 

 

 

 

 

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松浦由美子のシャンソン百物語 Vol.99

2017-04-24 | 日記

 

松浦由美子さんのシャンソン百物語、

100回続けたら本物が現れるという、日本の怪談スタイルを意識して初めたソロコンサートということですが、今回でナント99回目を迎えるといいます。

100回目は一体何が現れるのでしょうと、本人のトーク。

きっと、本物が現れるのではと私はカウンターの中で思っておりました。

 

お手伝いで、カウンターに入って、一日マスターと照明係。コーヒーもなかなか様になってきました。

 コーヒポットの背景に、本番前のリハーサル

ガットネロは、松浦さんのご厚意で、

私の作品の常設展示を10年も続けていただいています。

ありがたいことに、年中のしてんてん個展の、シャンソン喫茶室です。

 

本番、

 曲目
パリの空の下で、十字架、マリー・Aの思い出、マリー・サンダースのバラード、アコーディオン弾き、一本の鉛筆(など)ヨイトマケの唄

語るようなシャンソン。

ピアフを愛し、美輪明宏を歌う松浦さんの歌声に、今日はなぜか涙が出てしまいました。

やはり99回。

100回目は本物が出てくる。

 

内心そんなことを想った一日でした。

 

壁にかかった自分の作品をカウンターごしに見ながら、シャンソンを聴いていると、ふと今、自分のアトリエにいて、絵を描いているような錯覚を覚える瞬間があったりして、なんとなく、歌と絵の創作意欲が交わる交差点にいるような気分も味あわせていただきました。

 

積み上げる

百物語

99

百話を語る

五次元宇宙

 

(のしてんてん)

 

 

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地元自慢

2017-04-23 | 日記

 

今、旬の地元自慢をひとつ。

 

どこにでもあるふじ祭りのようですが、ここ泉南のふじは、ちょっとすごいのです。

何がすごいのかというと、

ポスターの住所で地図検索するとこんな画像を見ることが出来ます。大きな屋敷の屋根があって、画面下にL字型の緑が分かりますね。

これ、たった一本のふじの木なのです。

 

 

まず、ここは中庭です。

まさに今、ふじの花盛り。今年は開花が一週間遅れて、花祭りも会期を延長するそうです。

手前の小さなふじはこどもです。その周囲に咲くふじが話題の藤棚。

 

 

毎年、35000以上の花房をつけると書いています。

 

さっそくその大きさを体感してもらいましょう。

これがふじの根元。人間の胴体より太くて、抱きついても手がまわりません。毎年誰かが抱きついています。パワーがもらえるとか。

 

 

見上げていくと、何か縄文の模様のような幹が暑苦しいほどの生命力を感じさせてくれます。軒を壊しそうです。しめ縄がエプロンのようで、お尻の方から見ている感じですね。

 

さらに見上げますと、ふじ独特の蔓枝が怨念をこめたようなねじり方をして左右に枝をのばしていきます、中央にはいわくありげなまる。

 

左に伸びる枝をおっていくとメイン通り。左右の建物から何本も桟を渡し、完全なふじの屋根が出来ている。およそ幅6メートル奥行30メートル。まだまだ伸びています。

今年は花が遅く、花房がまだ下に垂れ下がっていませんが。満開になるとこんな感じ。

 

 

 

さて根元に戻って、右手に行くと、

屋敷の外壁と軒の間に花房が垂れ、

屋敷二軒分の屋根を覆っている。

これ一本のふじの木なのです。

数年前まで、屋根に昇って展望を楽しめました。

屋根から見る風景は、ふじの海といったところ。

あまりに見学客が増えたので、近年、屋上の展望はやっていません。

 

花の香りを吸い込んで、五次元瞑想をしていますと、

まるで天国にいるような気分です。

 

脳みそに

釘打ち込める

紫房垂れ

五次元宇宙

香る陽射しに

 

のしてんてん

 

 

 

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アートフェスティバル KG+ KYOTO に行ってきました

2017-04-22 | 展覧会

京都タワー:実は京都の瓦を波に見立てて、海を照らす灯台をイメージしたもの。海のない京都の街を照らす発想だそうだが、当の京都人はこれをローソクを模した塔と思っている人が多いいそうな。

 

AG+はKYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭と連携し、同時期に開催している。各地でサテライト会場があって、写真家のアートフェスティバル。


廃校になった淳風小学校校舎の会場を覗いてきました。


上二点は、日光写真の原理で作品をつくり続けているこだわりの作品。(北山恵子)

日光だけを使って感光させる。仕上がりはその日のお日さま次第、そこに自然とのつながりを意識するという。

他に、

など、教室の方に目が行く作品もありましたが、私が気に入った作品はこれ

好きというのは、どうも自分の感覚に近いからだと気付きましたが、印象に残る作品でした。

 

帰り道、見事なボタン桜に引きつけられ、

立ち寄った公園の芝、

幼稚園の遠足なのか、弁当を食べ終えてお遊戯らしい。草原の宴の跡。

 

どこからか、シャボン玉も飛んできた。

 

ベンチにすわって、コンビニ弁当を頂きました。

 

 

 

 

 

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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (12)

2017-04-21 | 展覧会

石切の風景 間﨑 学   

 

間﨑さんの絵を一言でいえば、精緻でリアルな風景画。

もちろんこんな言葉だけでは足りませんが、その細部にわたって意識が澄み渡っているのです。

この絵は、前回の二人展で展示した小品。はがき大の作品ですが、

思わずかってしまいました。 

私の所蔵作品です。

 

間﨑さんのナウイズムは、今この時、この場所を愛すること。

本人がじかにそんな話をするわけではありませんが、絵に接すると分かります。

 

石切の中腹に居を構え、その場所の瞬間を絵にしていくのです。

その風景にこだわる姿に不純なものはありません。

風景を描く絵画コンクールで何度も受賞を重ねているのもうなずけます。

 

私の驚く精緻さは、

 この絵を見て頂けば分かります。

125㎝×65㎝、

ご覧になっているPCの画面によっては、実物より大きく表示されているかも分かりませんが、葉っぱの落たケヤキの枝の一本は、髪の毛より細いでしょう。

その枝の形に迷いはありません。

二柄先生の言葉を借りて言えば、心の思いがそのまま線になって現れている。書に近い描写のように思えます。

菜の花もその一輪一輪が見えるようです。

 

一転してこんな絵もあります。

石切から見た大阪平野の夕暮れ 中央は阿倍野ハルカス

光の一点一点を描き分けたような絵を見ていると、自分の心が、温かい粒子となって漂って行く気がします。

 

外の風景を内側に引きこんでいく作品に魅力を感じます。

 

私の作品との対比は、作風の内外に及んで、面白い対話となる

そんな気がいたします。

 

 

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皿洗い つかの間の戯れ

2017-04-20 | 日記

上の写真ですが、さて何のことか分かります^か^

 

台所の洗い場の一風景なのですが、昨日のことです。

 

話しは飛んで、ドライアイス。

冷凍食品を買ったら、袋に入れてくれますね。あれ、持ち帰ったらみなさんどうしてます?

 

私はどうしても、そのまま捨てるのがもったいなくて、つい遊んでしまいます。

と言ってもやるのはいつも、水の中に入れて、煙を発生させて喜んでいるだけなのですが・・・。

ドライアイスの煙は重くて、地を這いますので、水槽の中でやると、水槽に煙が充満して、洗い物の皿や茶碗などが、まるで霧に隠れた廃墟のように見えるのです。

霧の中に手を入れて、洗い物をすると、新鮮なドラマが始まります。

 

で、昨日も、ドライアイスのかけらがあったもので、洗い物のコップに水を入れて霧発生装置をつくって機嫌よく洗い物をしていたわけです。

 

ところが気が付いたら、こんな写真の風景が出現、拡散するはずの煙がシャボン玉の中に閉じ込められて、水槽の中の霧はすっかり消えてしまったのです。

シャボン玉の中で、煙が生き物のように動いています。

 

しばらく何のことか分かりませんでした。丸いものがなんだか得体のしれないキノコのようにも思えました。それがコップの上に出来たシャボン玉とわかるまで時間がかかりましたし、するとまた次のなぜ?が生まれてきます。

そのうちに、洗い桶から洗剤が飛んで、コップに入ったのだろうと得心しまして、皿洗いはそっちのけにしてカメラを取に走り、撮影したのが冒頭の写真です。

 

そして、

水槽から取り上げ横からの撮影。このワクワク感、分かってもらえるでしょうか。

 

そのうち、大きなシャボン玉がはじけ、何度も煙を吐き出す光景をながめているうちに、泡が小さく、細かくなってこんな泡がぶくぶくコップから盛り上がってあふれてきます。

 

ドライアイスが消えるまで、つい遊んでしましました。

こんな動画も撮りましたので、見てください。面白いです^よ^

 

https://youtu.be/MOOcDUfFIFA (ドライアイスのシャボン玉)

 

 

そんなわけで偶然でしたが、新しい遊びかたを発見しました。

 

●コップに水を入れ、洗剤を数滴たらしてドライアイスを入れる。

ここのところ、数滴か一滴か、大球をつくる加減までは研究不足。どなたか受け継いで^く^だ^さ^い^な^

 

とにかく是非、子供にやって見せてあげてください。

目を輝かせて喜びます^よ^

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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (11)

2017-04-19 | 展覧会
 
ナウイズム2人展オープンまで、もあと2週間あまりとなりました。今回は、気軽に買っていただけるよう、小品(名刺~はがき大の)作品を制作中です。
間﨑氏とのナウイズム競演、そろそろ具体的な形が見えてきました。
 
 
 
 
ところで、
 
とてもうれしいお便りをいただきました。「東西美術史」に関する記事の件です。
 
美術に憧憬の深いハル先生からのもので、私などは、よく教示を賜る先生です。
 
 
今回の「東西美術史」論を始めるにあたって、私なりに無謀感を感じておりました関係で、問題点があれば強く指摘していただきたいという思いがありまして、ハル先生に批判的な目で読んでいただきたく、お願いしておりました。
 
と申しますのも、こうした学問の世界を知らない私が、知らないゆえに二柄先生によきことをしていない。どこかに落とし穴がないかという思いがありましたし、その心を裏返せば、私の考えはどれ程の価値があるのかという思いでもありました。
 
その思いを託したいという気持ちで、ぶしつけなお願いをした訳です。
 
 
 
そんな経緯がありまして、
ありがたいことに、先生から、論の終結を見計らって、批評を寄せていただいたのです。
 
とてもありがたく、合掌して御礼申し上げます。
 
そして、先生の了解を得たうえで、ここに紹介させていただきます。
 
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ごぶさたしています。
ブログ拝読しました。
東西美術の違いを止揚する丁寧な論理に感心しました。
また普段知ることのない作り手の心の中をのぞかせていただいたことも興味深いことでした。
五次元論による東西美術の統一は参考となりました。
私がなぜ北藪さんの作品に魅かれると同時に井上有一や森田子龍の作品に魅力を感じるのかを説明してくれました。
労作完成おめでとうございます。
次の展開を楽しみにしています。
 
(ハル)
 
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ハル先生の評は、かつて二柄先生から頂いた「のしてんてん系宇宙」に対する評と同じくらいありがたい言葉でした。
 
二柄先生が、師ガントナー教授の西洋美術論研究から、それを乗り越え、東洋の絵画を発見して、根源現成と名付ける。「東西美術史」には、そんな学術的ドラマばかりではなく、哲学・宗教をとりこむ人間探究に対する潔さがあります。
 
私はそこに強く魅かれ、人としての在り方を学ばせて頂いたと思っています。
 
東西の論理は、まさにその二柄先生の受け売りだったのですが、
 
 
その世界に本当に近づきたいという思いが生まれた時、
 
ただひたすら作り手の立場から近づく以外に方法はないと気付かされたのです。
 
 
ハル先生の評は、その私の道筋にOKを出していただいた。そう思えることが何よりうれしいことです。
 
あらためて御礼申し上げます。
 
 
そして次なる展開とは何なのか、あらためて考えてみたいと思います。
 
 
皆様、
お付き合いいただきまして
 
ありがとうございました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (10)

2017-04-18 | 展覧会

(ナウイズムの瞑想 五次元)

 

中村二柄「東西美術史」から、それを自分の心の問題に引き受けて考えると、思考と感性の統合ということに行き当たる。

そう前回書きました。

 

それに対するコメントもいただきましたので、この思考と感性の統合という考え方について私なりの考えを書いてみたいと思います。

 

ところで、感性とはなんでしょうか。

私はこう考えます。

上の五次元の図で、スケールの軸に沿って連なる世界は、今この瞬間に同時に存在している極大から極小の世界です。

同時に存在しているというのは、たとえば右手と左手のように、この身体の一部として存在して今、せっせとキーボードをたたいています。全体の中の一部分だというとこです。

つまり、このスケールの軸は、全体であり、今この瞬間の私は、その全体の一部だと理解できるわけですね。

 

そうすると、この全体が、宇宙空間の中で生きていることになります。

 

もう一度いいますが、この極小の世界から極大に向かう物資の連鎖は、

一つのいきものなのですね。

感性とは、この一つのいきものの全体から生まれているものなのです。

 

そして思考は、

上の図の中央にヒトの場所がありますが分かりますか。

このヒトのスケールから横に時間軸が伸びて、ヒトの時間が生まれ、そのスケールに構築された頭脳が働いて思考が生まれていると考えられるわけですね。

 

つまり思考は、全体の中の一部に流れる時間に左右されているのです。

そして感性は、全体から生まれるものであり、当然いのちの声と言っていいものですね。

 

そう考えますと、

感性が苦しむことは無いのです。

苦悩はどんなものであれ、頭脳がかかわっていると私は思うのです。

 

感性は、生きることを考えている。

正しい命の方向を美しいと感じ、おのれのいる場所と理解している。

 

だから苦悩が生まれたら、感性に聴けばいいのです。

それが瞑想という一つの形だと思うのです。

 

瞑想して全体に入っていけば、おのずと、苦悩している思考の姿が見えてきます。

思考のどこが行き詰って苦悩を生みだしているのかが見えてくる。

 

それが感性と思考の、正しい統合として表れる。

つまり、思考が正しく生まれるように、感性の声をきくと言えばいいでしょうか。

 

常に全体を意識する。

それはスケール軸を瞑想してつかめます。

 

苦悩が生まれたら、瞑想して感性の声をきく

するとつまずいている思考の姿が見えてくる。

つまずいた思考から、感性が喜ぶ思考を見出したら、それは愛だというのも、

あながち間違いではないと思います。

そんなイメージを持てば、

思考と感性の統合ということが理解しやすいかもしれません。

 

ナウイズムというのは、

この全体を意識し、そこから自分を考えるということでもあるのです。

 

 

 

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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (9)

2017-04-17 | 展覧会

2017年4月15日の虹

二柄論をやっとの思いで書きあげて、ふと窓を見ると、外はいつの間にか春雨。

気分転換にベランダに出てびっくりしました。目の前に見事な虹がかかっているではありませんか。

ものごとはつい自分の都合の良いように解釈しがちですが、私としては、論理的にようやく東西の統合に折り合いをつけたその刹那の出来事ですので、それはまさに架け橋のように見えました。

よく見ると二重橋。

二柄先生の橋の上に、五次元橋がうっすらと見えている。二柄先先生からのプレゼントだと本気で思いました。

電線が残念ですが、今まで見たことがないような、見事な虹でした。

十数分で消えてしまいましたので、この時間に区切りが来なかったら見過ごしていたでしょう^ね^

 

 

一週間あまり、

私の敬愛する中村二柄先生の「東西美術史」を通り抜けてまいりました。

もちろんこの本は、西洋哲学と東洋思想をも紐解きながら構築された美術論であり、心に喰い込んで来る真実を解き明かした至宝だと私は思っております。

そんな論書に、私ごとき美術家が私見をさしはさむのは無謀かと思いましたが、晩年の数年間だけのお付き合いでした先生のお顔は、私の中で笑顔のままです。

 

喜んでおられるかは分かりませんが、笑って許してくれていることだけは確信出来るのです。

 

思えば、

着想から20年かけて書き上げた「のしてんてん系宇宙」

五次元宇宙の書ですが、

血気はやって、何人もの評論家に本書を紹介して、一読頂きたい旨の手紙を発送したことがあります。

その時、二柄先生おひとりだけ、興味を持っていただいて、読んでいただくことになりました。

一番最初の読者であり、そして唯一の理解者でもありました。

「矛盾はない」

先生がお住まいの京都に呼ばれて、初めてお会いしたとき、そう評していただいた言葉を今も忘れることが出来ません。

「このままではなかなか理解されないから、子供でも分かる童話を書きなさい」

そんなアドバイスのおかげで「スケール号の冒険」が生まれました。

 

そう言えば、先生に読んでもらっていなかったことに、今さらながら気付きました。

 

天国の先生に、今回の考察に「スケール号の冒険」を添えて、捧げたいと思います。

 

 

さて、今回の「東西美術史」の旅は、私にとりましては、かなり骨にこたえる労力となりました。

しかしそのおかげで、今まで全く見えなかったことが、見えてきたのです。

それはありがたいことですが、何より不思議なことでした。

 

なぜこんな無謀を思いついたのか、その経緯を思い出すことが出来ません。先が全く見えなかったのに、不安はありましたが、やめようと思ったことはありませんでした。

明日の記事は明日出て来る。なんとなくそう思って、創作の方に支障をきたすこともありませんでした。

何より、一日一日を書き終わって、「えっ、そうなの」と驚くばかりでした。

 

何より、私の提唱する五次元が、これほど見事に符合するなど思いもよらないことでした。

しかし、間違いなくそれは二柄先生の言葉に裏打ちされているのです。互いに知ることもなく、出来上がったそれどれの本が、こんなに重なっているという発見は、今、まさにこの時に起こったのです。

 

 

これらの絵は、二柄先生の理論に添わせようと描いた作品です。

こんな絵もありました。2009年の作品です。文字のような形は、即興で描いた筆の跡です。

西洋と東洋をどうすれば統合できるのか、それを形で理解しようとしていた時代だと、今になって思います。

 

そして今、結論として言えることは、

東西の統合とは、世界のことを言っているのではないということです。

東西世界の統合は結果として起こることであって、私たちが直に見て、感じているこの世界は当の私たち自身がつくり出している心の世界なのです。

 

つまり、ややこしい言い回しになりましたが、こういうことを言いたいのです。

東西の統合というのは、

私たち自身の、頭脳と感性の統合だと。

 

総じて、頭脳の働きは時間軸の中で行われます。

そして感性はスケール軸から生まれてくる。

そしてその統合とは、まさに五次元そのものだという訳です。

 

 

上の図は、時間とスケール軸の交わる原点(現在)を、人の中心(丹田)に持ってくると想定した図です。

スケール軸は、丹田を通って、無限に小さな世界に続いており、頭に向かって、極大の世界に広がっていく。

赤い渦巻はスケール軸の螺旋です。今この瞬間 心の風景 8 で紹介した五次元のイメージする風景と考えてください。

時間軸は、そのスケール軸に対応して、無限に存在しており、その感覚を正しく持つことが出来れば、私たちは簡単にカゲロウの時間や銀河の時間に生きることが出来るようになる。

心の中の東西の統合は、

このような心の広がりを実現させてくれるのです。

 

それはあたかも。

線の上だけを世界と思っている一次元の生きものが

もう一つの次元を得ることで、突然平面の上を自由に動ける生物になるような、

そんな進化と同等の意識を持つことが出来るようになる訳です。

 

スケールの概念を得ることで、時間とスケールの平面を自由に行き来できる生きものに進化する。

それが五次元の描く心の世界なのです。

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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (8)

2017-04-16 | 展覧会

森田子龍 「道」

制約や拘束のない自由はない。それを避け、そこから逃げ出すのではなく、その矛盾対立の中で苦しみぬく。その極限において内からはじけ、底が抜けて、内と外とを分けていた枠組みが抜け落ちる。内もなく外もなく、内外一つになる(森田)

 中村二柄監修「現代の書芸術ー墨象の世界」より


私の絵は、墨象とは対称的な作風を持つ。いわゆる西洋絵画に端を発しています。

森田子龍と同じタイトル「道」 

こうして比較してみても。東洋西洋の感しきりというところですね。

この絵を描く過程は、

発案⇒構想⇒下絵⇒鉛筆による描線⇒仕上げ⇒完成となります。


ちなみに森田子龍の場合は二柄先生風に言えば、

発案⇒無自我⇒(筆墨=完成)ということになる訳です。


ところで、わたくしごとですが、これまでの経験から、漠然と分かっていることがありました。

それはこんなことです。

構想の段階で、作品は実は心の中で出来上がっています。

その完成された世界に向かって作品を描き進めるのですが、何のトラブルもなく描き進めて完成した作品も少なくありません。

しかし決まってそんな絵は、駄作なのです。

駄作かそうでないかを判断するのはもちろん自分の感性なのですが、いい作品は、いつまでも作品の空間の中に自分がいて心地よいわけです。

ところが悪い作品は、どこにも自分の居場所がないのです。形だけの薄っぺらさを感じて、ギリギリと胸が痛くなります。

この判断は、自分で説明しようもありませんが、自然に起こる心の現象ですね。

良し悪しの判断、それは自分が安らかにいることが出来るかどうか、あるいは心に波紋を呼びながら、離れられない引力があるかどうか、そのような基準で起こっている心の現象のように思えます。人を好きになるのも同じような心の働きだと思いますが、このような心の現象を私は感性と呼びます。


話しが飛びましたが、「何の障害もなく最初の構想が実現した私の絵は、駄作である」という法則めいたものをなんとなく感じてきたわけです。

そんな折、私に修羅の絵がやってきたのです。

発案と同時に、頭の中に完成図が浮かびます、それは今までにない空間の表現でした。その空間にひもが一本横たわっている。それだけで宇宙の根源が画面の中に現れる。その空間の中で、私は至福感さえ覚えておりました。あくまで頭の中だけの話しです。

構想は自然に生まれ、私はその空間の中でいつまでも遊ぶことが出来たのです。下絵は、その心をさらに興奮させ、その時私は完ぺきな作品の中にいて、あとはそれを現実のものにするだけだったわけです。

鉛筆を動かすのは、一歩一歩その目標に近づくことでもありました。ところが、作品が9割を過ぎ、ほぼ完成に近づいたとき、反逆が起こりました。

私の至福の空間は、突然干からびた空間に変わったのです。画力不足と言えばそれまでなのですが、想定していた空間が生まれない。絵を見て「良し」と感じられなくなったのです。

そんなはずではないと頭は考え、何度も絵を見直しますが、そんな頭脳の操作など役に立つものではありません。私の感性が勝手にやって来て「否」を唱える。それだけで私の世界は簡単に崩壊するのです。

手元にナイフがあったら切り裂いていたかも知れない激情に駆られて、その時私は、筆やら布巾やら、手当たり次第でキャンバスに殴り掛かって、絵をめちゃめちゃにしたのでした。まるで子供の癇癪です。

激情がおさまって、メチャメチャになった絵を見たとき、その瓦礫の一部に目が引きつけられました。感性が「良し」という部分があったのです。

どう言えばいいのか、つまりチャップリンの映画の、戦後にたたずんでみる虹のような感覚と言えば近いでしょうか。

どこに向かって進んだらいいのか分からない、闇の中で、感性だけが導いてくれるような感じでした。具体的には「良し」という声だけに従って闇の中を進むというそんなイメージです。

私は半ば泣きながら、感性が「良し」という方向だけを見つめて進み始めました。

そしてトンネルを抜けたとき、私は初めて自分が描きたかったものがわかったのです。それは目の前にありました。

その時、ただ「これだ」という意識しかありませんでしたが、はっきり分かったのは、頭のつくり出した風景を飛び越してそれはあるということでした。

頭が「良し」というものと

感性が「良し」というものは明らかに違うのです。

その時、私は漠然と感じていた、「頭に描いた構図を100%実現したら駄作」という法則の意味をようやくつかんだと思いました。

するとにわかに、二柄先生の美術論が浮かんできて、私の五次元宇宙と結びついたのです。

私の実感する、

頭で描くということは、それは自我を主体にして描く西洋絵画の手法であり、感性のささやきに従って描く事が、東洋絵画の手法だと理解したとき、

同時に私は、二柄先生の美術論に小さな誤謬を見つけました。

その経緯は ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (5) で書いた通りです。

すると、その発見が、二柄先生と深く交わる入り口となったのです。


すべてのものの優位に立つもの、それは感性だということ。

作品に現れる精神性は、根源現成の代名詞ではなく、

それは実は、根源現成たる感性の発露であったわけです。


発案⇒無自我⇒(筆墨=完成)という東洋絵画の手法、特に書において顕著である筆墨の即自性は、確かに根源から現れる絵に違いありませんが、しかしそれでもなお、それを「良し」とする感性がなければ作品とはならないのですね。

もしそうでなければ、墨を塗った足で歩いた鳥の足跡が最高の美術品となってしまうでしょう。

結局のところ、芸術とは人間の感性の表明である訳です。

感性を高めていくことで、人間は真実に近づく。真実とは根源であり、その根源に達した感性が作品となって現成する。なかんずくそれが人間の精神性として現れるということなのですね。

するとそこには、西洋も東洋もない、一人の人間(感性)があるばかりなのです。

芸術は本来、人間と自然との統一である

(中村二柄:東西美術史 岩崎美術社 P586 14)

この二柄先生のことばを引用すれば、西洋は人間、東洋は自然という大まかな分類として見ることが出来ます。

感性とは、まさに人間の根源から湧き上がってくるものであり、その根源こそ自然の中核である訳ですから、つまり芸術は感性によって一つになる。

その姿は、自然としての人間。あるいはその覚醒なのです。


それは次の表とも重なります。

これは私が考案した思考地図(のしてんてん系宇宙論)ですが、感性とは、この地図を「無」から「覚醒」に向かって進化していく過程の中で現れてくる心の声であり、それはまた、根源現成に向けて成長していくものなのです。

(この表の説明はあえていたしません。ただ漠然と、人としての進化とそこに現れる感性の成長を視覚的に感じて頂ければ幸いです)



 











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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (7)

2017-04-14 | 展覧会

 

 

「東西美術史」では、東洋絵画と西洋絵画の決定的な違いがその主体にあるといいます。

東洋の、無としての主体に対して、西洋の主体は自我を越えない。

そしてその違いは、画風の上に端的に現れてくるわけですね。

 

無を主体とする東洋の水墨画では、描かないで描く(余白)の絵画がありますが、

長谷川等伯 松林図屏風

 

西洋では、自我が1から100まで、自分で描こうとする訳です。自分以外の力を認めず。力でねじ伏せていく絵画という印象が強く残ります。そしてその土壌が、驚嘆すべき天才を生んだのも事実ですね。

レンブラントの自画像ですが、等伯の絵に比べると、いかに精緻な描写が敷き詰められている事か。

 

二柄先生が指摘される、この東西の差異は五次元の座標から見ればどうなるでしょうか。

 西洋の絵画は、図を見て明らかなように、今というスケールに留まったまま、時間軸の上を動いて行くのです。

描きたい対象が生まれ、構図を定め、下描きをして、思い描いた対象に向かって制作をして行く。作者の意識は完全に時間軸の上に注がれ、自己を顧みることはありません。つまり現在にある己の本性を見るのではなく、ひたすら対象の完成である未来を見据えている訳ですね。

一方、東洋の絵画は、等伯の絵からも分かるように、彼の目は内面に向かっています。松を描くのではなく、空間をに漂う霧。それは今、ここにある感性の赴くままに筆を握っている訳であり、過去を意識して未来に向かのではなく、今を描いているのです。そこに現れる余白はそれを充分に物語っていますね。

つまり東洋の画家は、座標軸の現在に留まったまま、意識をスケール軸に向けて、己という全体を感じようとしている訳です。無我の境地は、まさにこのスケール軸を丸ごと体感しているということですね。

すると、さらに言えば、西洋絵画は、他者を描こうとしている。つまり時間軸の絵画であり、

東洋絵画は、己を描こうとしている。つまりスケール軸絵画ということが出来る訳です。

 

東西が真に一つの世界として成立すること、同時に「世界の中の日本」が実現すること、そのために課せられるのは、この根本矛盾を回避することでも排除することでもなく、それを引き受けることである。根本矛盾の底にはたらく深い愛に目覚め、それにうながされて、いかに絶望的であれ致命的であれ、この歴史的現実そのものへ身を投げ入れることである。(中村二柄「東西美術史」P206 10~13)

 

どうですか、

この二柄先生の表明に、東西の統合の構図がはっきりと示されているのがわかるでしょうか。

そして東西の統合が、私たち人類に何をもたらしてくれるのかという問いも含めて、私たちは今ようやく理解できるところまできたのです。

どういうことでしょうか。

二柄先生によれば、その統合は、矛盾を回避することでも排除することでもない。すべてを引き受ける愛に目覚めよというのです。

実のところ、

その表明に対して、五次元は明確に視覚化した形で東西の統合を認識化できるのです。

すなわち、それが、時間(x軸)とスケール(y軸)の座標平面なのです。つまり上の図の平面全体が、東西の統合を意味するものなのです。

 

西洋絵画に対しては、常に今・この瞬間にある己を意識することであり。

東洋絵画に対しては、今ある己の時間性を知ることですね。

 

つまり、x軸とy軸の心の平面を意識することで、今ある自分を実在として認識し、時間の概念を使って他を見ることが出来る。そしてそこには根本矛盾の底にはたらく深い愛があるという訳です。

たとえば瞑想してスケールの軸に身をおくと、時間から解放され、実在のただ中にあって、至福を得る。しかしその至福にまみれたままスケール軸を離れなければ、それは我欲となる。

この実在の至福は、人のために向けられて初めて、新たな次元の時間軸を得るのです。

我を忘れ、我を空ずる、その空をも空ずること、己の底へ抜けて己を無にし、その無にさえもとらわれない (中村二柄 P604 13~14)

 

今・この瞬間、己がいる場所を二つの軸から見たとき、心は時間軸を超越し、スケール軸からも解放されて、自由に心の平面を移動することが出来る訳です。そしてこの心の平面こそ、二柄先生の、いわゆる深い愛に他ならないのです。

 

さてまた、私の体験からの話の余裕がなくなりました。

 

さらに次回に延期いたします。

 

 

 

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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (6)

2017-04-13 | 展覧会

修羅場(2017年1月27日)の記事に書いた作品です

この時私は制作の半ばで、作品の構想が完全に崩れ去り、心が闇の中に投げ込まれたような経験をしました。感性が計画した目標を、その感性が自己否定したのです。どこに行ったらいいのか分からない闇の中の混乱でした。その時私の感性はNO!を叫び続ける、まさに修羅場だったのです。

 

 

 

「根源現成と五次元」

この二つは実は密接な関係を持っているのです。

前回、「東西美術史」の論旨の中に、ただ一点の誤謬があることを指摘いたしましたが、根源現成の思想はそんなことで揺らぐことはありません。この根源現成は芸術の世界から見事に五次元宇宙を視野に収めているのです。

 

 

まず「東西美術史」からの引用です。

これは、東洋における美術家の主体とは何かという問題を論じた部分です。つまり美術家はどういう状態で絵を描いているのかということです。↓

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美術家の主体は、東洋にあっては、対象すなわち客体を造形し形成する造形主体ではなくなく、主客の対立を絶する根源的主体である。「無相なる自己」「無的主体」である。他に対する自ではなく、自他不二なるもの、二なき一である。自他・内外・物心・生死の別なく、主客未分以前「有無の分・未分すらなく、有無とさえいえない根源」(柳宗悦)である。己を忘れ、己を脱けて、自己の根源へ深められ、絶対的なもの・普遍的なものへ高められて、もはや自我のない、深位の、あるいは高次の自己である。万物万象の、万有の根源へ、絶対無へ立ち帰った自己である。独創的・天才的な個性ではなく、自己自身の根底へ、無へ立帰った本来の自己である。

この「無なる我」はしかし、どこにもないのである。ないからこそ無である。自我の対象でないから意識の対象にならず、対自にならず、言説を絶するもの、説明することができないものである。主観的にも客観的にも、どこにも捉えることができないものである。ただ主体的に「随所に主となる」とき、いたるところに自得される。その意味では、どこにでもあるものである。

これは禅宗における絶対主体道であり、浄土宗における他力本願でもある。仏教それ自体の本旨であろう。

(中村二柄:東西美術史 岩崎美術社 P467 2~13)

 ----------------------------------------------------------------

 

ただ主体的に「随所に主となる」とき、いたるところに自得される。その意味では、どこにでもあるものである。

この記述を五次元に照らしてみたとき、それはまさにスケールの各場に主体は存在しうるといっているのと同じことなのです。

もちろん二柄先生が想定されている風景の中には、スケールの概念が具体的に意識されてはいなかったかもしれませんが、意識するしないにかかわらず、その概念は存在しており、無化した主体を思い描いた時点でおのずと現れ出ているのだと、私は思います。

主体が無化して宇宙と一体になったとき、その主体は自分の立っているスケールを越えて、あらゆるスケールの主となる。つまり私たちは神ひとの視点からでも、素ひとの視点からでも、あるいは素粒子や太陽の視点からでも、それぞれのスケールの主となって世界を見ることが出来る。

つまり、主体とはまさに五次元のスケールの軸そのものであるということを暗示しているわけです。

実際、私の考えから言えば、五次元の五つの次元は、物質と心という二本柱からなっており、物質を存在させる三次元に、心の次元である時間とスケールの次元を加えた世界観なのです。

物質の世界は空間ですね。空間は3つの方向(次元)によって規定されます無限の広がりなのです。そして物質は、極大から極小に至るすべてのものがこの空間の中に浮かんでいるわけなのですね。

つまりそれは、こういうことになるのです。

つまり、実在とは三次元でこと足りていると。

 

この三次元に対して、人間の心がそれを様々な風景として眺める。その際に使う道具が二つの概念。すなわち時間の次元とスケールの次元というわけです。

時間とスケールは心の中に下図のような座標を作ります。

 

このうち時間の次元は周知のとこですし、物質の次元に時間を加えた四次元は20世紀に入って完全に定着した概念といえます。図で言えば、両手をひろげた左右、過去と未来そしてその中心にある現在。その各所から眺めた風景が四次元の世界という訳ですね。「東西美術史」の中でも、キュピズムに時間の概念を取り入れた絵画が紹介されています。

 

しかしそれだけでは、東洋の美術にある根源現成には達し得ない事を二柄先生ははっきり言明しているわけです。

なぜなら、キュピズム絵画の主体が眺めている風景は、現在の己のスケールに留まったままの風景であり、その意味で自我の求めに従っただけの絵だという訳です。

根源現成とは時間を越えたところにあって、しかも無なる主体の中ではじめて実現できると論じるわけですが、その記述を無理なく受け止めることが出来るものが、スケールの次元なのですね。

それは上の図の縦の軸です。時間軸の現在で交わり、極大~極小に向かうスケールの軸なのです。スケール軸は現在という実在の世界から動きません。動かないというよりも、実在=根源として、宇宙の存在のその中心を貫いている、まさに宇宙生命の根源なのです。

スケールの次元は、いまだ社会に認知されておりませんが、実際には私たちの感覚の中に存在しています。例えば、ガリバー旅行記や、映画ミクロの決死圏など、スケールの感覚は文化として根付いています。

スケールの次元は、けっして一個人の単なる思い付きではなく、人間の心を構成する重要な柱なのです。

つまり心の次元は、時間の次元とスケールの次元をx軸とy軸とする座標として理解できる二次元平面なのです。

時間を越えた心の次元、あるいは無なる主体とは、まさにこのスケールの次元を垂直に移動して世界を眺めているというわけなのです。

実際、スケールの次元は、数年来すでに私たちが何度も見てきましたように、空間を唯一無二の存在だと認識させてくれる概念ですから、それは二柄先生のイメージされる世界と100%重なると思えます。

それこそが根源現成の正体といえるのです。

結局のところ、

二柄先生の提唱する美術の主体とは、まさに五次元宇宙のスケール軸そのものなのですね。

 

ところで、冒頭私の作品と制作過程の体験を書きましたが、今回それに触れながら私の結論を書く余裕がなくなりました。それは次回に。

 

 

 

 

 

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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (5)

2017-04-12 | 展覧会

 

 

これは2000年、二柄先生に紹介していただいた、京都のギャラリーでの個展のDMですが、そこに賛辞を寄せていただいたものです。

もちろん、根源現成とまではいきませんが、その方向に向かっていることを認めていただいた内容で喜んだことを覚えています。

ところが今、先生の「東西美術史」を読みながら、私にはその溝を越えられないのではないかという疑問が沸き起こってきたのです。

なぜなら、私の制作方法はまさに先生の云う西洋絵画そのものと言っていいからです。下図を描き、鉛筆一本とはいえ、描き進むうちに修正もしますし、ことによったら部分的に描きなおすことさえします。まさに書の筆墨とは対照的な、つまり西洋絵画なのです。

しかし私はそれでも先生の所に行きたい。道はどこかにあるはずです。

 

「東西美術史」では、東西の統合を呼びかけながらも、現実に展開したのは、墨象芸術と西洋の抽象芸術が、戦後最接近をしたものの、数年で挫折した事実でした。

その後の墨象の動向を追いながら、結局「東西美術史」は芸術論として、東西の統合を果たすことが出来なかった。そのあとがきを読みながら、さどかし心残りではなかったかと思わざるを得ませんでした。

 

二柄先生の、根源現成の学説は、前回みましたように、書における特性に着想を得たものでした。

つまり、あらかじめスケッチして段階を踏みながら描くことが出来ない、一回きりの描線、そのスタイルに根源現成の表れを見たわけです。

そしてそれを(感性的なものを超える精神的なもの)と結論付けるのです。

すると私の絵はどうなるのでしょうか。

私の実感としては、二柄先生の提唱される根源現成の理論は私の精神的な支柱であり、その方向に一抹の迷いもありません。だとすれば、どこかにボタンのかけ違いがあるはずです。それは何なのでしょう。

 

それを知りたくて、ここまで書きながら考えを進めてまいりました。そしてようやく一つの光明を見たのです。

それが論者と作者の目の差異でした。視点の違いが引き起こした、たった一点の錯誤が、この論文にあったのです。

 

端的に言って、二柄先生(美学者)に見えなくて、私(作者)に見えた風景は、書の作品の背後にある反故紙の山です。

 

確かに書は、作品としてそのものだけを見る限り、あらかじめスケッチして描くことができない一回きりの描線、であることは間違いのない事なのですが、作者はその作品を世に出す前に、自分の気に入る作品が出来るまで何枚も同じものを書きます。そして作品以外は反故紙として捨てるわけですね。

たとえ偶然に最初の一枚が作者の気に入ったものだったとしても、その場合は反故紙は出ませんが、なおそこに、作者の感性による選択・決定があったわけです。

つまり西洋であれ東洋であれ、作者は、己の感性で作品を生み出すのであって、精神が造るのではないということです。

「東西美術史」のただ一つの欠点は、書の制作手段が持っている唯一無二の墨筆の画面を、精神の現れと読み解いたことだったのです。それはその部分だけを切り取って見る限り、正しい解釈ではありますが、しかし当の作者の内面はそうではなかった。そこには明確に己を主張する感性としての自己があったのです。

たとえもし精神が描いたとしても、それを作者の感性が愚作と認めれば、その作品はけっして世に出ることはないわけですし、そもそもそれは起こりえないということです。

もし作品が精神の現れだとするなら、この唯一無二の作品を、作者は己を無にし、宇宙と一体になって生み出したということであり。当然そのものの感性を通り越して、作品は自動生成されたとになるわけですね。作者は根源そのものとなって消えるしかない。

芸術家として、それに耐えられるものは一人もいないでしょう。

幸いなことに、書であっても、創作は精神によるのではなく、まさに己の発露たる感性が働いて世に生み出されていたのです。

それはつまり、私が絵を描き進めている状況となんら変わることのない創作過程だといえます。描きながら、自分の気に入る空間を作っていくその行程は、書道のように、進む道筋は違っても、最後に作品として世に出す決定を下す時点で相並ぶ訳ですね。そしてその決定は作者の感性というほかはないのです。

      

 これらの作品、

制作過程や、その方法、道具や行為に、それこそ西洋と東洋の違いの中にさえ、私たちが芸術として認める一切のものは、精神ではなく感性が生み出しているということです。

なぜなら、すべての芸術は、その作者が、意志を持って作品を世に送り出すことなのですから。その時、その作品を「良し」とする主体は、人間たる当の作者以外にないのですね。そしてその作品を「良し」と判断するのはほかでもない作者の感性だという訳です。

もしそれが精神だとしたら、逆に恐ろしい風景が見えてくるでしょう。精神主義はいかなる場合でも、人間が口に出してはならないのです。

もちろん、二柄先生が精神主義を主張している訳ではありません。ただ精神の発露と言っている訳で、それは傾倒に値する言葉なのです。問題は、その道筋の中に、ただ一点、すでに申し上げた、書の特性を精神の現れとする視点が問題を醸し出す訳です。

まさに作者の作者たる証しは、精神ではなく、いのちそのものから生まれ出ている感性以外にはないということですね。

そもそも、精神とは、人を指す言葉ではないのです。精神とはその者に現れる思考の流れに見出される一つの傾向を指す言葉であり、心の状態を表す言葉ですから、それは心そのものではありません。

それゆえに、精神は良い意味で感性の発揚を促しますが、悪い意味では自由なる個性を阻害するわけですね。

つまり、心の本性は精神ではなく、感性なのです。

 

しかし決して、この指摘が、二柄先生の根源現成の理論を貶めるものではありません。

それはかえって、「東西美術史」に描かれた内容を深め、先生の念願であった東西美術の統合を可能にするものなのです。

 

至宝である「東西美術史」が、残念ながら世に広く浸透していない。その原因が私に生まれたような素朴な疑問にあるとするなら、そのとげを抜くだけでいいわけですし、

実際、根源現成の思想は芸術家にとっても、誰にとっても、今だ至宝と言えるものなのです。

 

私の考えでは、この「東西美術史」で描き出された東洋と西洋を統合する思想は五次元思考です。

奇しくも、一つの誤謬から導き出した根源現成の理論は、その意味で五次元になり損ねたのです。

五次元の本懐を見ながら、感性を見落としたために、時間の概念を失い、五次元となるはずの理論が空間とスケールという四次元になってしまったのだと思います。

 

時間の概念を失うと、五次元世界はただ動きを失った存在だけとなってしまい、そこから生まれる理論は理想論に終わってしまうしかないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ついにとらえた実証写真¥

2017-04-11 | 日記

本日(4月11日AM5:30頃)煙の団子出現

 

皆様、覚えておられるでしょうか。先月30日付けの記事です。

煙突の煙の不思議を描いたこれ ↓

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何気なく見ている煙突の煙  (2017年3月30日木曜)

 

散歩道に見える遠景の煙突。

市営のごみ焼却場の煙突。その下には熱を利用した温水プールもある。

 

その煙突から出る煙の話しなのだが。今朝の発見を皆様にも。

 

煙突の煙は、風の強さを目で実感出来る風景の一こま。

 

たとえば、風がある日には

こんな煙があがっているし、

それが強風になるとこうなる。

煙はちぎれるように横に流れることもある

 

ところが2週間前だったが、無風状態の日にこんな煙を見た

煙が上に昇って行かないで、煙突の出口で丸く団子になっているのだ。

空気が重いのだろうか、その日はなんとなく不思議な感じを抱きながらも、濃い空気というのがあるのだろうかと考えてそのままになっていた。

 

ところが今朝の煙突はこんなだった。

まっすぐ天に伸びている。二週間前と同じような無風状態の穏やかな朝だ。

普通これだよなと思ったら、前に見た団子の煙を思い出し、自然に、どこがどう違うのだろうと考え始めたのだ。

 

すると、空に月がないのに気づいた。新月。すると満潮。月の引力?

 

草引きの手を止め、波打ち際まで行くと、確かに潮位が高い。

 

引力でまっすぐ引っ張られている。

二週間前は、引き潮で、つまり月と太陽の引力が打ち消し合ってその力が弱かったのだ。だから煙の団子が出来た。

 

煙の形は、風だけでなく、月の引力と関係してたんだ!!

 

新発見に興奮した朝でした。

 

 月齢カレンダーによる資料。

今日(30日)は月齢2の大潮 二週間前(16日頃)は月齢17.5小潮になっているから、この推測は正しいのじゃないかな

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さて、この記事を書いてから、ひそかに機会をうかがっておりました。

私の推論が正しければ、この時期に現れる筈の、煙の団子。それを予測してカメラ持参で朝の草引きに出かけましたら、見事ヒットしましたよ。

ちなみに今月の月齢カレンダー

11日はなんと満月。小雨模様で曇天でしたが。

これで実証できたと言っていいか^な^

写真はいまいちですが、見事に団子が出来てるでしょ。

本日の煙突、注目してください。

皆様、うまく機会に恵まれましたら、きれいな団子を撮影してくだ^さ^い^ね^

 

 

 

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