のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

Art Expo Osaka に参加します

2016-05-27 | 展覧会

 

 一か月後ですが、システマギャラリー主催のArt Expo Osakaに出品する作品をもっか制作中です。

 同展は、システマ主宰の石田克企画の国際展です。驚くべきは、この国際展は、天才的な画才と、商才を兼ね備えた彼が、既存の画壇を相手にせず、全く独自の方法で世界に問いかけ続けていく過程の中で、集まってきた海外30名、国内30名の交流展だということです。

 どんな作品が集まるのか、私も知りませんが、石田克氏の目を通して集まった作品であることは確かで、そこにワクワク感があるのです。

 おかげで、挑戦的な気持ちで絵が描けます。

 会期中の開廊時間が、曜日によって違いますので、下記案内状を注意の上、是非ご来場ください。アウトローたちの国際展です。

 

 

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信じることと体験のはざま(6)

2016-05-26 | 5次元宇宙に生きる(神)

(毎日花の数が増えてきます。今八分咲き)

 

 

先日の記事のコメントを意識しながら、私が見ているイメージの世界をもう少し書いてみます。

この記事は、これを読んで下さる方々と一緒に、心の世界を、旅するという想定で書いています。心の風景を見ているのですね。

風景を前にして、私たちはわかるわからないという判断をしながら見るでしょうか。

様々な風景があります。絶景もあれば、荒れ果てた風景もあります。良い風景も悪い風景も私たちはそれを論理で受け止める(受容)するわけではありませんね。

その姿勢を思い出してほしいのです。私たちは風景を感性で受容しているのです。

私たちは論理的に生きているように見えますが、実はそれ以上に、自分がつくり出した心の風景を、己の感性で見て心をつくりだしています。

自分の中に生まれてくる感情を、すべて理詰めで自分に説明する人はいないでしょう。

だからこういうことです。

この心の旅を、知性で満足させようとしたら、その風景は見えてきません。

大事なことは、あなたの感性で見るということなのです。

ここにあるメッセージは、私の思考から生まれたものであって、それ以上でも以下でもありません。それを受け取ったあなたが、言っていることを理解しようと考えるというのでは真逆の効果しかありません。

理屈から解放されて、自分自身の感性気付くこと。それが私自身の目標ですし、この旅に同行してくださる方々の目標になってほしい。私はただそれだけを願っています。

五次元を意識するようになって、そう思うようになったのです。

前回の話は、知性の虚構性から解放されて、真実の中に入っていきたいという思いの中から私の中に生まれてきたイメージです。それをなるべく正確になるように言葉にしたものです。

分からないと思った人は通り過ぎて行くでしょう。

しかし、分からないと立ち止まってくれる方は、きっと自分の中にある感性に興味を持たれている人ではないかと思うのです。

自分の感性を目覚めさせる。

そう望む人にとって、答は一つしかありません。つまり自分の中にしかそれはないのです。

この心の旅に同行していただいている方に、私が言えることは、是非、五次元を感性で とらえていただきたいということです。そして一番重要なことは、そこで感じられる自分との違い(違和感)を大切にしてほしいということなのです。自分との違いを感じたら、それがあなたの本物の感性である可能性が一番高いわけです。目を向けるべきはそこなのですね。

もちろん同感していただくことまでも否定してほしいと言っているわけではありません。同感する部分も、違和感の部分も、それは間違いなくあなた自身の心(感性)だと言いたいのです。

間違っても、5次元をどこかの宗教の教義のようなまねごとだとは思わないでください。主人公は常に、どこに行っても、あなた自身なのですから。

 

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信じることと体験のはざま(5)

2016-05-25 | 5次元宇宙に生きる(神)

(ドクダミの小宇宙)

 

五次元宇宙、心の旅を続けながら、毎日その風景を楽しんでいます。

そのイメージの世界を書いてみる気になりました。

布団に入ってから、その世界は広がってきました。はっきりとそれは心の中に見えるのです。

それは、たとえば地球を包む青い大気の膜のように、境界の不確かな柔らかい線がどこまでも広がっています。

気を転じると、その膜は胎児を包む羊膜に変わりました。半透明の穏やかな明かりに包まれ、私はその中の一つ一つの細胞の広がりとなって、雲が留まったままうごめくように、心と共振するようです。

何が起こっているのか、分かっているのです。知らないのに分かっている。不思議な感覚が私をその境界線まで連れていってくれます。

何故でしょうか、私は外に出ようとしています。膜を超えようとしているのです。その膜はこの上もなく繊細で、息をするだけでユラユラと質を変えてしまいます。見つめるだけで消えてゆきます。

私はスバルを思い起こしました。

夜空のスバルを見るには、眼をまっすぐに向けてはいけない。視線をずらして、眼の縁に見えるスバルを見なければあのひしゃくのかたちが見えないのです。

私はスバルを見るように、境界線の膜を見ました。意識しないで意識する。そんな心もちです。すると、私の包まれている膜のその内側が見えたのです。胎児を浮かべている羊水と同じ空間がそこにありました。

今ぼんやりと、私が見ているスバルは、思考エネルギーそのものだったのです。膜の中で、眠るように沸騰しているエネルギーの空間です。

出ようとすると、眠っているエネルギーが反応して私にまとわりつきます。

私は知っていました。どうすればいいのかを、勝手に知っていたのです。

私は息をひそめ、そのエネルギーを身につけたまま身体をを大きく広げたのです。身をゆだねて、ただやってくるエネルギーのはざまを眺めていました。

エネルギーのうごめく空間。その漆黒の闇に落ち込むように身を投じたとき、私は膜の外にいたのです。

漆黒のはずが、私はお花畑の中にいるのです。心が解けるような感じが全身の喜びと一つになる。

気が付いたら朝になっていました。

あれはなんだったのか。

心の風景は、まだまだ未知の世界を見せてくれるようです。

 

 

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信じることと体験のはざま(4)

2016-05-24 | 5次元宇宙に生きる(神)

(ドクダミの群生、なぜか癒されます)

 

 

 昨日、慧純師(臨済宗僧侶)が作品を出品すると聞いて、出かけてきました。

難波駅から御堂筋、道頓堀川を越えてすぐ。SMBCコンシューマーファイナンスKKが運営する無料イベントスペースで作家18人が作品展示。

こんな場所知らなかった(無料で貸してくれるのですって!)

  

 師の作品は、水墨で古代人が描いた洞窟壁画を模写したというものでした。実は、私の思いはその絵よりも、慧純師御本人にありました。

 で、御本人が来られるという初日にお伺いしたわけです。おかげで会場で2時間近くお話を聞かせていただきました。師は地球外生命(エイリアン)に興味を持たれていて、様々な海外情報を分析されている。本気で語られるその心に感銘いたしました。

僧侶仲間でも、まともに向き合ってくれないと笑う師の心に、真摯な何が働いているのか、感じてみたかったのです。

私が真っ先に感じたのは、師の純粋な思いでした。大多数が眉唾ものと敬遠されるようなことに対して、自然体で己の思いを語るということは、そう出来ることではありません。エイリアンにさんを付けて話される師のお話に思わず引き込まれてしまいました。

宇宙を理解しようとする。ただそれだけがあって、他の既成概念にこだわらない。禅の心の実際を見せていただきました。そんな気がしてなりません。

ほとんど私は、自分の思いを話せませんでしたが、とても幸福を感じました。そこには私の心を安らかにさせてくれる気が確かに流れているのです。

これは体験でしか味わえない、まさに気の質といえばいいのでしょうか。

私は、信仰と体験という思いを、少しだけ口にしました。

師は信仰と信心は違う。信心は大切ですと言われた。心を信じる事がなければ、あなたは存在しないという意味なのかもしれません。

病気とは心が信じられない状態をいうのです。

深い言葉だと思いました。

心をのしてんてんと題して、絵を描き続けてきた。それはそれでいいのだよと、言ってくれているような、ありがたい時間を共有させていただきました。

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

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信じることと体験のはざま(3)

2016-05-21 | 5次元宇宙に生きる(神)

(ミニバラ、背景は芝桜の葉ですから、手に乗る大きさというのがわかるでしょうか)

 

真実というものは、体験そのものの中にしかありません。

それ以外に思い描く真実と言うものは、100%想像の世界であって、結果それは信じるか信じないかの問題となるわけです。体験でないものはすべて真実ではない。100%空想の産物です。 

一方、体験は真実のど真ん中にいるということです。

言い方を変えれば、人は皆、だれでも例外なく、真実のど真ん中を抱えているのです。私たちは皆、この空間の中で独自の場所を占めていますね。

自分の身体を意識してください。この身体は空間の中に存在しています。あなたがいるこの位置にはあなたしかいません。そしてあなたが存在するすべての条件が満たされて、あなただけのためにあるのです。

あなたがこの世に存在するために必要なものがすべてこの空間の中に取り揃えられていて、不足するものは何一つないわけです。

これが真実のど真ん中です。あなたにはあなたの、私には私の真実があって、そのど真ん中は、皆一人ひとりのためのものなのです。つまり私があなたのど真ん中を体験することはできないし、あなたは私の真実をどうこうすることもできない。

真実を知るということは、皆が己のど真ん中を体験する以外に方法はないということなのです。

そんな中で、五次元宇宙の概念は、この真実のど真ん中を無限に深く見ることが出来、さらに無限に広がる宇宙空間として理解させてくれる道具となるわけですね。

それは4次元の概念では出来ない、つまり4次元(時間)を超えた概念なのです。

人がこの真実のど真ん中にいることに気付いたら、五次元は人類の常識になるでしょう。なぜなら五次元は、時間を超越した存在の内側を実在の宇宙として理解させてくれるからです。そしてその理解は、私たちの個としての閉塞感や孤独感からも解放してくれるでしょう。

人間が一人ひとり尊いのは、だれもがこの宇宙空間の中に、己だけの真実を持っているからだと私は思います。

そしてこの、真実のど真ん中に身を置いて、感じるままにものをつくり、技巧を磨き、身体を操れば、まさにそこには様々な分野の達人が生まれると私は思うのです。

それは様々な達人の残したことばを検証すれば分かることです。

真実からしか本物は生まれない。

信じることで満足している限り、永遠に人は自分を生きることが出来ないと言えるのです。

 

 

 

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信じることと体験のはざま(2)

2016-05-20 | 5次元宇宙に生きる(神)

(十薬 ドクダミが咲きはじめました)

 

信じるということは、そこに知性が働いているということですね。

知性は物事を己の頭脳で理解しようとします。

当然理解を超えるものごとにであったり、先の見えない事柄に対して、プラス思考が働くとそこに信じるという行為が生まれるわけです。

逆にマイナス思考が動けば、不安や恐れが先立ち、自己否定や逃避が心を支配します。

信じるという行為は、崇高な人格をつくりあげる条件になるかもしれませんが、それはけっして人間の終着駅ではないのです。

知性の安定した姿と言えますが、けっして知性を超えるものではありません。

学生時代、夏休みを利用して友人と二人で南アルプスに登った事があります。山ふところが深いだけに、苦労して山頂に立つのは格別の気分です。

ところがその日天候が最悪で、雨のテントを出て、赤石岳を目指そうと歩きはじめましたが、まさに山頂を目前にして、風が強くなり、雨が霧になって、私たちは前に進めなくなりました。

尾根に立っていられず、しゃがみこんで木の根にしがみつかなければ飛ばされてしまいます。

友人はしばらく立ちすくみ見えない山頂を睨み据えていましたが、

「ヤブさん帰るぞ」そう言って道を反転したのです。

その一言が、私たちを救ってくれました。その日台風が南アルプを直撃しました。それを知ったのは自力で下山てからでした。ふもとの小屋から、山頂付近を飛ぶヘリコプターが見えましたし、山道の橋がすべて流されたという話も耳に飛び込んできました。何人かが滑落したというニュースも聞きました。

あの時の友人の姿を今も忘れません。

あと数百メートルからの撤退でしたが。彼の判断はその時、完全に知性を超えていたのです。彼は「勇気ある撤退だ」と言いましたが、全身を打つ雨と風。そして視界を奪うガスの中に立ち尽くして、感じたのだと思います。知性を超えて、山を感じ、空気を意識していたに違いありません。そして自然に生まれてくる思考に従った。それは私にも同じでした。

あの時成功を信じて進んでいたら、その一瞬の遅れが、下山ルートを奪われ、滑落するかヘリコプターのお世話になっていたでしょう。

知性はこんな場合、迷うしかないのです。行けば成功するかもしれない。その思いはどこまで行っても消えません。金鉱堀りが、あと数センチ掘れば金脈に行き当たるかもしれないと思うのと同じことです。

そればかりか、知性は、今までの苦労を引きあいに出してきます。ここで引き返したら今までの苦労はどうなる。弱虫と笑われるぞ。出てくるマイナス思考を力ずくで抑え込もうとします。

友人の立ち尽くす姿は、その迷いであり、「ヤブさん帰るぞ」は、まさにその知性の悪循環を断ち切った瞬間の、確信の声だったわけですね。

知性を超えて、今体験している心を受け入れる。それはどんなものにも共通する人間の心のあり方だと思うのです。

人間が神とともにある思考といえばいいかもしれません。

知性は一つの輪をつくって人間を囲い込んでいると想像すればわかりやすいでしょうか。

自分という限られた存在をつくりだしている知性の輪に、風穴をあける。するとそこから宇宙の真理が流れ込んで来る。誰もがその能力と権利を持っているのです。

 

 

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ジョイント「心と心」(3)-2

2016-05-18 | のしてんてん絵画を知っていただくために

(落葉する葉っぱたち・・・)

 

昔、職場の上司で、プロ級の蝶収集家がいました。Nさんといいます。

二人しかいない係りで、Nさんがつまり私の上司、係長というわけです。

そのNさんは、きっと私は死ぬまで忘れられないだろうと思うほどの変わり者でした。

蝶の収集はプロ級ですが、驚いたのは幼虫から育てていくのです。生きものですから、世話をしなければなりません。Nさんは蝶の幼虫(毛虫)を職場に持ち込み、休み時間には餌のスミレや楠の葉っぱを採ってきて古いものと取り換えてやります。

Nさんの秘密を知って2日目に私はその弟子となりました。

その日からツマグロヒョウモンの飼育です。(仕事はやった上での話ですよ。Nさんは立派な仕事人でしたから)

 幼虫はこんな姿  

毎日スミレの葉っぱを取り換えてやり、世話をしていると何日かしてさなぎになります。ツマグロヒョウモンのさなぎは世界一美しいと思いました。銀色のメタリックなブローチをいくつもつけているのです。写真ではよくわかりませんが、職場の誰もが感動していました。

  

その間に幼虫が箱から這い出して、部屋のあちこちに出没すり騒ぎも引き起こし、私たちの係りはほんの少し白い目で見られていいるのを肌で感じながら、さなぎの銀飾りに胸を張り、そしてついに成虫の姿を見たとき、私たちの係りは英雄でした。

 

 そんなNさんの弟子になって、何年か経ちました。そのうちにNさんは私を連れて、国蝶オオムラサキの幼虫採取のため山に入るようになりました。

 

オオムラサキのことは知っていましたが、まさか本物に出会えるとは思っていませんでした。しかしNさんの行くところ、エノキの大木の周りに、バサバサと音が立つように思えるほど大きな オオムラサキが飛んでいるではありませんか。そして私たちは、エノキの枯葉の下にいるオオムラサキの幼虫を探し始めました。

ナントもかわいい幼虫を見つけると、もう私は小学生でした。

その日から職場では、エノキの葉っぱがかかせません。思いがけないことに、街中でも注意してみれば、山にしかないと思っていたエノキが何本も身近で見つかるのです。

私たちは何度も山に入りました。エノキの青い葉は幼虫の食事となります。そして秋には落葉した枯葉が幼虫のゆりかごとなるのです。枯葉の裏に身を引っ付けて寒い冬を越すします。その姿を想像するだけで、自然の営みに胸打たれます。

その時Nさんが教えてくれた落葉樹の数々。

今回のジョイントで懐かしく思い出してしまいました。

木枯らしの、私の思い入れは、ここからきているようです。

いいジョイント「心と心」となりますよう。むっちゃんさんにもエールを送ります。

 

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ジョイント「心と心」(3)

2016-05-17 | のしてんてん絵画を知っていただくために

(久しぶりの連鶴。A4のアートチラシで母鶴が2羽の子鶴を連れて行く姿を折りました。)

 

今、水面下ではジョイント「心と心」(3)が進んでいます。

物書きと絵かきの対決という軽いノリが本気になって、火がついたように作品をつくり始めました。水面下だったのが、互いに自分の退路を断つ気構えで、ジョイント「心と心」(3)を紹介します。

 

ことの発端は、のしてんてん絵画奉賛会からでした。

 

「奉賛会、楽しみにしております。もし、私の試行錯誤に北藪和画伯の心が動いた…のなら。

ジョイント『心と心』を、お願いしたいな…そんなことも思うこの頃です。宿題を持って行きたいと思っています。」

当ブログにこんなコメントが飛び込んできました。

むっちやんさんからの果たし状(じょうだんの構え)に私はこう応えました。


待ってるぞ、武蔵。 

てな感じで、手に汗が・・・・・ 

楽しみと、こわいのと、とにかく宿題をむかえうつ準備しておきましょう。


さて、奉賛会当日、むっちゃんさんが、オープン間もなくやってこられました。準備不足の私はむっちゃんさんに会場の留守番を頼んで忘れ物を取りに行くあわてぶり。待ってるぞ、武蔵どころではありません。

うろたえる私に、振り下ろされたむっちゃんさんの一の太刀は、10本もの新作童話(カウント・ダウン|水なわとび|スーパーラッキー|木枯らしの誇り|ドールハウス|カオルは鏡の中へ・・・|百葉箱の中の影|引き鬼|大丈夫だよ|三太の泉)

今の私が書ける、この形(4~6年生向きの童話)は…良いにつけ悪いにつけ、書ききった、かな?

むっちゃんさんはもっか、物書き修行中。表現のふり幅を開拓すべく、童話に挑戦。小学校高学年向けの童話に仕上げています。

一気に読ませていただき、その中の「木枯らしの誇り」に絵心を動かされました。

風の子が嫌われ役の木枯らしとして生きる羽目になり、悩みながらもそこに価値を見出していくというお話。その風がのしてんてんを駆け抜けました。

で、私の必殺技、コメント返し

木枯らしって、マイナスイメージが大きいですが、そこにほとんどプラスイメージの誇りが引っ付くと、面白いことが起こる。 

真っ先にタイトルが気に入りましたよ。もちろん中身も。 触発されました。描きたいものが動き出しました


心の空間を目指すのしてんてん絵画は、どうしても深く静かな空間に向かう傾向があるのですが、そこに投げかけられた「風」は、動きの中に見落としているものはないのかいと言っているようです。

むっちゃんさんは、さらに表現幅を広げようと、「こがらしのほこり」とすべてひらがなにして小学校低学年に心を届ける童話に挑戦すると言い出した。

期間は約一か月。

「こがらしのほこり」と題する童話と絵画。

そのジョイント公開は実現するでしょうか。

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信じることと体験のはざま

2016-05-16 | 5次元宇宙に生きる(神)

(どうしたわけか、庭にラベンダーがよく育つ。一年中花があって、刈り取らないとはびこるのが過ぎたる幸いです)

 

朝、浜まで歩きながら考えた。

信じる事(信仰)と、体験(実践)の間にはどれほどの距離があるのだろうか、と。

 

人はまず、いのちを体現してこの世に生まれます。何かを信じなくてはよりどころを失うというようなことはどこにもありませんね。赤ん坊はあるがままにその命を生きているのです。

その命を支えているのは母ですね。母は赤ん坊のよりどころを無償の愛で 与え育むわけです。

赤ちゃんが、あるがままの姿で生きられるのは、母の愛があるからだと言えますね。

子供は成長していきます。それはいずれ庇護の外に出て、自ら生きることを意味します。

その時、子供はあるがままの姿では生きられないことに気付きはじめます。叱られたり、褒められたりして、自分の場所を学習していくわけですね。そこに信じる行為が目覚めるのです。

どうしたら自分の居場所で、安心していられるのか。その意識は、あるがままに生きる世界とは全く違った、知性の目覚めを呼びおこします。

信仰よりも、もっと原始的な知性のよりどころとして、信じる事が子供の心に芽生えます。知性が見せてくれる世界、それを成り立たせているものは、まさに知性に対する疑いを知らぬ信仰なのです。子供にとって、認識することは疑いようもない世界と見えるでしょう。

しかし大人に成長する頃には、この認識世界がすべてでないことに気付きます。それを教えてくれるのが、思い通りにいかない人生の苦悩であることは言うまでもありませんね。

救いを求めて、人はようやく宗教に出合います。認識に対する無条件の信仰が、神という存在に対する信仰に変化するのです。

苦悩を生み出す認識の世界から解放してくれる神。それは知性を超えた神域の存在に対する信仰ですね。

その神域に自ら立っているわけではない。信仰とは、疑いようもなく信じるその世界を自分のよりどころとして生きることだということは分かりますよね。人は信じることで世界を納得するのです。

こうして見てくると、面白いことがわかります。

つまり人間は、生まれたままの姿で人生のスタート地点に立ちながら、その立ち位置を忘れてしまって、いつの間にか、自分にないものの存在を信じることで、自分の居場所をつくりあげてきた。その信仰は、信じる対象を変遷させながらも、一貫した人間の習性と言えるかもしれません。知性であれ、理論であれ、あるいは神であれ、それは信仰という人間性の現われなのですね。

そうすると、私たちが成長して、最後に行き着く所はどこなのかということがほのかに見えてきます。

つまり、見失ったままになっている自分の姿に、再び気付くということですね。

あるがままの自分は、今もここにいます。知性がほったらかしにしてきた生まれたままのこのいのちに、知性そのものが気付くということ。

それが人間としての、最後の成長する姿と言っていいでしょう。

それは信仰から真実に至る最後の行程なのです。

人間が一生かかっても、得なければならない答が、生まれたままのこの姿の中にすべて含まれていいるということです。

信じると、体験との間には、これだけの道程が用意されているということですね。

 

 

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分かりません(むっちゃんさん)

2016-05-15 | 5次元宇宙に生きる(神)

(どんな小さな風景も、精一杯満たされているんだネ)


今日はむっちゃんさんのコメント。ありがとうございました。うまく伝えられるか分かりませんけど、少し書いてみます。


すみません、よくわかりません。『五次元宇宙』の考察、ある程度はついていってる自信?はあるつもりですが、
とある瞬間から、するり、とすり抜けていくような感じがして、わからなくなります。今回のお話もそうです。
そこが今の私の限界、なのかもしれません。何度か読み返し、多分、そうムツカシイことをおっしゃているのではないだろう…という予想はできるのですが。


ある瞬間からするりと抜けていく。とてもいい表現だと思います。そのスッと抜けていくむっちゃんさんの心の瞬間が見えるような気がします。

たぶんムツカシイことを言っているのではない予想。これもきっと正しい受け止め方ではないでしょうか。

ムツカシイというのは、そこに理論があるからで、ムツカシイと感じるのは、そこに理論を探そうとするからなのですね。

その意味で「五次元宇宙」は理論と云えます。むっちゃんさんはそれは理解された。理論がわかったのです。

今私が自分の中でしようとしているのは、積み上げた理論を壊そうとしているのです。無に帰ることが最高の価値だと思えるようになった。すると理論は邪魔になります。

五次元宇宙心の旅は、理論から別れを告げて、無に向かって進み始めたのです。

相変わらず、ことばを使って、今度は、私は無を語り始めました。ムツカシイことなど何もないありのままのことを、ありのままに伝えたいと思うだけなのです。

ある瞬間からするりとすり抜けてわからなくなった。その瞬間はきっと、私が理論を捨てた時と重なるのではないでしょうか。

ある瞬間理論がなくなった。でも頭脳は触手を伸ばして理論を探そうとするのです。ない理論を探すのは難しすぎますね。

「私は呼吸している。」ただそう言っているだけなのに、むっちゃんさんはそこに遠大な理論を探して納得したいと思ってしまう。それが「わからない」「ムツカシイ」という正体なのです。

ありのままの姿をありのままに受け入れる。それは体験です。

理論と体験は本質的に違います。知るために理論は良き案内役になりますが。知った後は体験しかないのです。足ることを知ったら、人はあるがままの命に感謝して、全身全霊で己の存在を体験する。それが宇宙と一つになる意味なのです。

湯船で身体を伸ばしてくつろぎますね。その時あなたの心の中に理論があるでしょうか。湯に揺れているこの身体の至福を理論で説明する必要はあるでしょうか。何かがわかったと納得しなければ、この至福は得られないのでしょうか。

宇宙と自分を意識することが出来るようになった。すると次の段階からは、分かろうとすることが障害になる。本末転倒することになるのです。

むっちゃんさん、限界などありませんよ。限界に思えるのは、自分の心をひとつの輪で閉ざしてしまっているからです。

どこか一か所でもいいですから、閉じた輪を外に向かって開いて御覧なさい。

自分を許し、自分を認める空間が流れ込んできます。

自分を説明する必要などないのだと、気付いたら、あなたの創作は神のしわざとなるのですから。

 

 

 

 

 

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阿弥陀様

2016-05-14 | 5次元宇宙に生きる(神)

(一重の白バラは、コガネムシの寝床)

 

浄光寺(浄土真宗)での奉賛会は、三回目になります今回で終了しました。

 

「浄土」、「阿弥陀」、「現世」とテーマを進めてまいりましたが、このあたりの心の旅は別の機会に譲るとして、実は今回の奉賛会で親鸞の教えに目からうろこが取れた思いをしたのです。

それは、当ブログ「5次元宇宙に生きる」をテーマにした、一連の心の旅で見えてきた真実をまっすぐに貫くような話だったのです。

奉賛会は寺の法要と同時開催で、会期中に導師の講話もあったのですが、その時こんな話をされました。

回向(えこう)を説明して、阿弥陀様の善行が南無阿弥陀仏という言葉になってあなたに訪れるという内容でした。

南無阿弥陀仏と唱える。するとその言葉、その声が、阿弥陀様そのものだというのです。私はその時背中に電撃が走ったような気がしました。

あなたの声明で声となった阿弥陀様が、あなたを救って下さる。

この時私の心の中で、阿弥陀様と5次元宇宙が完全にイコールで結ばれた気がしたのです。

南無阿弥陀仏という声明は、信じるという次元から、体験する次元に移るための準備がしっかりなされていたということです。

この声が阿弥陀様なら、この呼吸も、この鼓動も、私だと思い込んでいるこの命の一切が阿弥陀様でないわけはありませんね。

呼吸をしますね。それは宇宙との交流であり、阿弥陀の身の内なわけです。

そして死の瞬間を息を引き取ると言いますが、本当に人は死ぬとき、息を吸い込んで、吐く力が果てたまま終わるのだと聞きました。

宇宙の気を受け取り、己の気を戻す。これが呼吸だと考えれば、吐く息は宇宙に対して示す己の自己主張なわけですね。

人はだから、宇宙(阿弥陀)を受け取ったまま、己が消えて宇宙に帰る。そんな死に向かう心の風景が見えてくるのです。

だとすれば、吐く息を宇宙に返すその時に、己ではなく宇宙そのものを意識して気を返す呼吸ができれば、私たちは生きながら阿弥陀を体験することが出来るのではないかと思えるのです。

この3年のお付き合いで、やっと自分なりに親鸞を理解したと言えるようになりました。

それはつまり、その教えの中に、信仰を超えて自らが阿弥陀になりきる道を用意している。その偉大さに気付いたからです。

5次元の概念は、すでに今まで、このように真摯な宗教の中にさりげなくあったのだと思うのです。

 

 

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藤川博正てん拝見いたしました。

2016-05-13 | 日記

(本人いわく、6年目の個展だとか)

 

尊敬する作家のひとり、大先輩で、精神的支柱だと勝手に思っています。

画廊に入ると、壁一杯の作品で埋め尽くされています。これみな新聞紙。

片隅には一抱えもある石。歩いていたら石が呼んでいたそうな。作品にしてほしい。持ち上げてみたら簡単には上がらない。それを持ち帰る人である。全面靴墨をぬって化粧したら石も満足したそうだ。

本人の許しを得て、作品の前に立ってもらった。背景の新聞紙。何年も前の個展で、毎日読んだ新聞を塔のように積み上げた作品に度肝を抜かれた。毎日が流れていくはかない新聞に自分のかかわった痕跡を残す。その行為が大事なのだという。売る、残す、は意識の外。生きるということにだけ興味を持っている作家だ。

この絵は一枚のベニヤ板描かれた作品(部分)

絵の具を神まかせにかきなぐる。その上から輪郭をドローイングしていく。神と己の共同作業だという。己を知り尽くした人のお遊びのようでもある。素晴らしかった。

そのほかこんな作品も、

  

皆、ポスターの裏に描かれている。

死んだら子供がみな燃やすと言っている。本気で笑い飛ばす人だ。

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補足の話(空っぽ)

2016-05-12 | 5次元宇宙に生きる(神)

(紫蘭・・・・名前を知っていると、繋がり方が違う。ことばの秘密まだまだ深いナぁ)

 

 

売れない作家の悩みは、倉庫。

私だけではなく、私の知りうる作家のみなさんのほとんど共通の悩みです。

作品は毎日、生きてる限り生まれてきます。しかし売れませんから身の回りにどんどん溜まるばかりです。

私事ですが、貯まる絵は私の排せつ物で、いわば肥溜めに浸っているようなもの。しかし私の眼には、私の生きた証し、自分の真実が込められているもの。いつか世にでると思い続けます。

 

5次元を意識し、空間を神とイコールで結びつけられるようになったと思いながら、実は私の心にこびりついている思いが、作品倉庫なのです。

作品倉庫は、過去の自分の遺物を集めて、「私」を主張し続けます。

ありがたいことに、最近、具体が見直され、会員だったわが師、松田豊の作品が世界で認められるようになり、倉庫で眠っていた作品が、20年の歳月を経た今、一斉に世に出ていきました。早くに逝ってしまわれたけれど、師は間違いなく、超一流の作家だったのです。

すると、師の作品の横に身を寄せていた私の作品群だけが倉庫に取り残されることになりました。そうなると、私の作品だけそこに居続けるわけにはいきません。

作品をどこに持っていこう・・・・にわかに私は、自分自身の存在に悩まされることになったわけです。

己という我の重さをまともに背負わされたとき、今まで見えていなかった自我の塊を意識させられました。

苦悩が生まれてくる。泉のように湧き出してくる苦悩の源泉です。私にはそう見えるようになりました。5次元が成長させてくれたのです。

私には、自分にやってくる苦悩の一部始終を、ドラマを見るように観ることが出来る、第二の心が生まれたように思います。無輪リアルタイムに苦悩にまみれはしますが、その苦悩の最中に、声が聞こえて来るのです。その声は、いつも、苦悩から逃れる道を教えてくれます。

「捨てたらいい。」あれこれ考えあぐねている私の思考の最中に、そんな言葉が静かにやってきました。そんな感じで、第二の心が広がったと言えばいいでしょうか。

あれも、これも、と思っていた重圧が嘘のように消えてなくなりました。

その瞬間、私の心の倉庫は空っぽになったのです。

空っぽになった倉庫に、5次元空間が満ちてくる。

なんとなく、5次元を生きるということは、こういうことなんだと思えるのです。

空っぽ以上に身軽なことはありません。

これなら、今この瞬間を芸術することが出来る。そう思えるのです。

 

 

 

 

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ジョイント「心と心」(2)-2

2016-05-11 | のしてんてん絵画を知っていただくために

(音楽が聞こえるようなムーンロードが描けるか・・・)

 

3月31日付 仲間たち で紹介した牛窓の別荘亭主からの挑戦状。

4月6日付 ジョイント「心と心」 でその制作過程を見ていただきましたが、

 

今回、のしてんてん奉賛会の会期に間に合わせるタイミングで作品を完成させました。

その出来を判定するのは、亭主。

大坂を斜めに横断してやって来てくれた亭主の言葉にドキドキでしたが、見事合格点を頂きました。

「気に入りました。青さがあって、舟が揺れながら音楽を発しているようです。」という評も芳名帳に添え書きされていました。

で、のしてんてん、急に胸を張ってうんちくを言い出す愚か者です。(不合格だったら一言もないくせに)

音楽は難しい課題でした。

どうすれば、どう描けば、なかなか答えに行き着きません。そのうちに思い出したのです。

そういえば、子供の頃、頭の中にたくさん音楽が流れていたことを。

まだ小学校に上がる前だったか、まるで天国から聞こえてくるようなコーラスの歌声が満ちていた、そんな時期のことをはっきり思い出しました。

そのことを 捕捉の話(音楽) で書きました。

そこではっきりわかったのです。つまり、空間を描きこんだらいいんだということです。

本当に空間を描きだすことが出来れば、自然に音楽は流れてくる。そう思えたのです。

5次元を意識して、空間を思い浮かべる。この感覚と、絵のイメージに齟齬がなければ、それが音楽の聞こえる絵だ。そう思えるようになって、一気に絵が進みました。

あとは人を意識させる船をくわえるだけ。

 

それから青色をクリアしなければいけません。

いくつか試作を描き、鉛筆の雰囲気を保ちながら、青のエキスだけを取り出す工夫の思考錯誤です。

暖かい青と冷たい青を微妙に組み合わせて見ると、空間に風が生まれました。

で、やっと、会期前日に完成。気に入ってもらえてよかった。

 

 

 

 

 

 

 

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幸せすぎる奉賛会

2016-05-09 | 展覧会

(浄光寺本堂)

 

朝8時、浄光寺着。あいにくの雨でしたが、シートにくるんで作品搬入しました。

展示作業は、2時間しか取れないので、あらかじめイメージで会場設営を繰り返してこの日、スムーズに展示終了。

今回はガラス戸を壁面にして使う工夫、我ながらうまくいきました。(師 松田豐の奥様から頂いたアイデアです。)

今回は小品も飾りました。

オープンの10時ぎりぎりに完了、直後に一人、新作童話をひっさげて、(2ヶ月足らずで9本も書きあげたほやほやの作品)童話とのコラボ実現しそう。

奈良から、5次元と共鳴する作家。深いところで対話できるしあわせは、表現しようもない。分かり合えるというのは男女関係ない愛のようなものだ。

和歌山から、たぶん私の作品を一番多く持って下さる方、今回はお母さんとなったばかりの姪っ子を連れてきてくださった。

無欲で清楚な、太極拳の令嬢が、御母堂と一緒に、この母にしてこの娘あり。感動して思わず涙する。

牛窓の別荘亭主も雨の中のっそり、ムーンロードの完成作品を見にやって来て頂いた。けなされるかと一抹の不安もありましたが、絶賛していただいて、これもうれしかった。この絵に関しては後日ゆっくり紹介したい。心の旅の大きな節目を与えて頂いたのです。

長年、のしてんてん絵画を見守って頂いている方の、心に染み入ることば、

浄光寺に集まる信徒さんの、真摯な眼差し。

隣人の励まし。

すべてが、心に届いて素晴らしい分かち合い。

ありがとうございました。

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