のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

さらに深い真実(覚醒する宇宙)

2016-06-25 | 5次元宇宙に生きる(神)

(大三千世界の図・・・仏教の宇宙論、京の禅僧家近慧純師よりいただいたもの たぶん木版)

 

なぜかはっきりした根拠はありませんし、知識も皆無。私には文字も判読できませんが、五次元宇宙を連想させてくれます。何よりこの絵の情熱にまず驚かされます。この三千世界を板に彫り上げたと思うと感動します。

師によればこれは仏教の宇宙論だそうです。五次元宇宙をイメージするとこんな絵になるのかもしれません。お前は絵描だろ?自分で描けば?といわれそうですが、正直なはなし私には到底及ばない能力です。脱帽です。

人は真理を求めます。この恐ろしいほどの熱意はどこから来るのでしょうか。

自分に振り返って見てみれば、私の動機は単純です。しあわせになりたい。ただそれだけなのですから。

この世で一番価値のあるもの、それがしあわせだと思うから、そのしあわせを味わいたい。金や名誉では補えないしあわせ。愛さえ超えるしあわせ。そんな究極のしあわせはあるのか。しあわせになりたいというこの思いは、板に刻する大三千世界の情熱に匹敵するのでしょうか。

ただ私は、それこそが、人の生きる意味であってほしいと願うばかりです。

 

 

ところで、絵に描くことはできませんが、ことばで三千世界の図のようなものを書いています。(たまごを立てる(3)) 心の成長過程を表したものです。

その部分を再掲しますと、

 

創世記 宇宙空間をまるごと殻の中に取り込んで、真実のたまごが生まれます。

萌芽期 たまごは、母体の中で人のかたちをつくり始め、その中で成熟していきます。

誕生期 やがて私が生まれます。疑うことも知らず、私とたまごはまだ一つのものでした。

形成期 知識を持つようになると、私はたまごを忘れ、知識の上に人格を形成します。

迷走期 知識の光にたまごは完全に見えなくなります。その存在を考えることもなく、富と見た目の幸せをを得ようとするあまり、苦悩が蔓延するようになります。

光明期 苦悩の闇が、再び私にたまごの存在を気付かせてくれます。たまごの中にある至福に気付くのです。

求心期 存在に気付いた私は、たまごを追い求めます。捕まえ、握りしめ、たまごを壊すことさえあります。悟りの世界に気付きながら、悟りを得られない時期です。

開花期 至福と苦悩の螺旋を登りながら、たまごは知識で触ってはダメだという理解に達します。「たまご」の意味をはじめて知ります。

入門期 たまごと、知識の分別が出来ると、ようやく、心の中でたまご立てが実践できるようになります。たまごを支える指が、知性そのものだと理解できたものだけが出来る実践です。

成熟期 たまごが指に寄りかかるのは苦悩です。苦悩から逃げないで押し返し、たまごが自立する位置を探っていく。苦悩はどの時期にも生まれますが、この時期になると苦悩はたまごを自立させるためのシグナルであったことがよくわかります。

覚醒期 コトンと、腑に落ちる音がして、見事にたまごが立ちます。そっと手をはなし見守ります。私は、創世記のたまごと再会します。知性はそこに光をあてるだけの役割だったことに気付きます。私はたまごのありのままの姿を照らし出す光だったことに初めて気付くのです。

帰還期: 気付きを知ることで、頭脳を抱えたまま宇宙に帰還します。創世記のたまごは無明の中にいますが、帰還した私は、覚醒するたまごに成長しているのです。その時初めて気付きます。思考こそ覚醒の道程だったのだと。

える思考は、覚醒する前の夢のようなものだったのかもしれません。


今回。帰還期 を付け加えました。これはそれ以後の私たちの旅の中で見えてきた新たな心の風景だからです。

五次元の概念をから世界を見ることによって、私たちは「気付き」の正体を知りました。

「気付き」とは宇宙空間の波動であり、それはまさに真実の「私」だったのです。

では、この「気付き」とどう付き合っていけばいいのか。私たちの旅はまだ続きそうです。


--------------------------------------------------------

 

初めての方へご案内。この物語は、皆様とともに心の旅をするという想定で進めています。 お時間がありましたら、カテゴリー5次元宇宙に生きる(空間) から初めて、5次元宇宙に生きる(心)、そしてこの5次元宇宙に生きる(神) へと読み進めて頂ければ幸いです。::)

 

 


 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

さらに深い真実(3)

2016-06-24 | 5次元宇宙に生きる(神)

(前回の続きです。::初めての方へご案内。この物語は、皆様とともに心の旅をするという想定で進めています。 お時間がありましたら、カテゴリー5次元宇宙に生きる(空間) から初めて、5次元宇宙に生きる(心)、そしてこの5次元宇宙に生きる(神) へと読み進めて頂ければ幸いです。::)



認識は、思考と気付きという相反する二つの要素から成り立っています。思考による虚構の空間と、それを見つめる実在の目。

この時、虚構の空間が「私」であり、実在の側にある目を「神」だという考え方を私はとりません。
 
そう考えることは、「私」と「神」の間に歩いては渡れない溝をつくってしまうからです。そればかりか、「私」を、仮の存在であるとか、迷う子羊というような考えを導いてしましますし、何よりそれでは、いつまでたっても実在の持っている至福を味わうことが出来ないことになるのです。
 
つまり、思考が見せる「私」は虚構の「私」であり、それを見つめているものこそ実在する「私」というふうに考えたいのです。簡単に言えば、スクリーンに写っている自分と、それを見ている自分という関係と同じと言えるでしょう。
 
幸いこの問題は、虚構と真実が癒着したまま一つになっていますね。それは実際のところ、このセットが一つの存在だという証しだと思うのです。
 
そう考えると、当然「私」の正体は実在にある。私を見つめている目を持っている実在こそ「私」なのだということが出来るでしょう。同時に、虚構の「私」も重要な働きをしているわけで、虚構だといってないがしろに出来るものではないでしょう。この問題はさらに深く、別の機会に考えてみたいと思います。
 
仮に実在が神だというなら、「私」は神であるというだけであって、そこに特に大きな意味があるわけではありません。実際、この心の旅の中でも、時に応じて神という言葉も使いますし、その方が理解しやすいこともありますので、ことばにとらわれないことが肝要です。
 
それより、このように5次元宇宙の概念から世界を見ると、世にいう幽体離脱も論理的に説明することが出来るのが面白いところです。
 
それは、実在の目を幽体という言葉で置き換えるだけでいいわけです。実在の目に軸足を移して、これが「私」だと意識できたとき、私たちは自分の思考を見下ろしている体験を持つことが出来るのです。
 
その時、「私」の背後に感じる実在は、私の身体ではなく、宇宙空間そのものなのです。全宇宙の物質を浮かべているただ一つしかない空間が「私」の身体であり、それこそが実在であるという理解は至福を伴います。それはおそらく、満たされた空間エネルギーの波動なのでしょう。
 
これは5次元の概念が見せてくれる、もっとも深い存在の姿といえるのです。
 
 


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

さらに深い真実(2)

2016-06-23 | 5次元宇宙に生きる(神)

(前回の続きです。::初めての方へご案内。この物語は、皆様とともに心の旅をするという想定で進めています。 お時間がありましたら、カテゴリー5次元宇宙に生きる(空間) から初めて、5次元宇宙に生きる(心)、そしてこの5次元宇宙に生きる(神) へと読み進めて頂ければ幸いです。::)


さて前回、「私」を見つめる存在のことを言いました。それは、米朝落語で聴いた、闇夜にへたを付けたような巨大ななすびの噺をネタにして、宇宙空間に目玉を付けたらどうなるかと考えたのがきっかけでした。

私たちは、生まれてからこの方ずっと、自分のことを「これが私だ」と思い続けてきました。それに疑問をはさむ余地さえありませんでした。

しかし、その自分をよく観察してみれば、実は「考えている自分と」と「その自分を見ているもの」という二つの存在があるといことに気付かされるのです。

よく考えてみてください。思考(たとえばパンを焼きたいと思うことなど)はどこまで行っても虚構です。それを実行にうつして真実らしく見えるだけなのですね。つまり思考は虚構ゆえに自由に様々な発想を可能にしているのです。

一方気付きは、実在です。パンを焼こうと思っている思考の実際の動きを見守っている力といえばいいでしょうか。頭の中で虚構が動いている現実を見つめる目、それは実在そのものですね。この目(気づき)がなければ、虚構である思考はこの世に存在することなどありえないわけですね。

つまり、虚構と実在、この相反するものが一つであるはずはないわけなのです。それは異なる二つの存在からやって来ていると考えるのが自然でしょう。

一方は頭脳の働きから生まれる思考であり、他方は実在の目というわけです

つまり、「知る」という行為は、私たちの頭脳の働きに加えて、その働きを眺めている存在が必要だということなのです。それが気付きなのですね。

長いあいだそれを見逃してきたのは、この思考と気付きをひとつのものと考えてしまった私たちの思い込みがあったからです。この思考と気付きの癒着から解放されると、私たちはいよいよ、虚構の世界から実在の世界に足を踏み入れることが出来るようになります。

図のように、私を見つめる目があるとすると、その目の後ろに必ず実在がある。

その実在こそ、本当の自分だと考えられるのです。

この実在の方に軸足を置くと、私たちは自分で、自分を見ている自分を体験します。その自分を見つめる目の背後にあるものは宇宙そのものであり、それこそが私たちの本質だと言えましょう。

己を超越して実在にはいるという考えをどこかで聞いたことがありますが、それを言い直せば、思考に置いた軸足を気付きの方に移すといういうことなのです。

是非この気づきの目を体験してみてください。この目は自分のすべてを丸ごと見つめています。この見つめるものこそ、私の正体だと考えられるのです。

実在の目を想像すれば、私たちはたやすく実在に入ることが出来ます。たった一歩足を踏みこみ、実在の目を体感して、その目を通して思考する自分をながめればいいのです。

この気づきの世界を、次回もう少し詳しく見ることにしましょう

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

さらに深い真実

2016-06-22 | 5次元宇宙に生きる(神)

(のしてんてん心の風景 F50)

 

桂米朝の落語で、忘れられない噺があります。

それは、噺の前のまくらに語られた短いながら肝をつぶすような大きなな話でした。詳細は私の創作です(正確に覚えていませんので・・・)

正月の夢に大きななすびの夢を見てね。

それはめでたい。で、それは牛ほどの大きさかい?

いやいやそんなものではたりん。

なら、クジラほどのなすびだね。

とんでもない、もっともっとおおきなものさ。

何、ではこの地球ほどの・・・

いやいや、ほれ、闇夜があるだろう。

町中が真っ暗になるあの闇夜のことかえ?

そうさね、あの闇夜にへたを付けたようななすびだよ。 (覚えているのはここだけ)

 

 

闇夜にへたを付けたようななすびとはよく言ったもので感心するばかりです。これ以上大きなものはないかもせれません。

ところで、私たちは、このナスのはなしと同じノリで、5次元宇宙の空間に目を付けたような大きなヒトの存在をイメージすることが出来ます。

そんな巨大なヒトを思い浮かべることが出来たら、私たちは案外簡単に己の真実に悟ることが出来るのでないかと思うのです。

私たちは図のように世界を見る目を持っていますね。このとき「私」というのは、この目のついている肉体と、その内観だというのは常識ですよね。世界を認識して、思いめぐらす「私」の存在は、この目の背後に軸足をおろしていることを疑うものはいないでしょう。

 ところで、私たちが観ているこの世界は頭脳がつくり出した幻想なのだという話は何度も繰り返してきました。では、どこにも私たちが触れられる真実はないのでしょうか。

しかし揺るがない真実は、まさにこの瞬間、ここにあったのです。それは自分自身に対する気付きなのです。

私たちは毎日、なにがしかの考えが頭に浮かんで、なにがしかのことで気を使いますね。

でもその時注意して見てください。「私」になにがしかの考えが浮かんだというのは、頭の働きなのですが、それだけではコンピューターの思考と同じなのです。つまり大事なことは、頭が考えたことに、気付いている存在があるという事実です。

ひとつの考えばかりではありません。感じや想い、自分の中に起こっているすべてのことがらに気付いている存在。

「えっ?私?」というときに思い浮かべる「私」というのは、そう思っていることに気付いている存在があるから分かることなのですね。気付きがなかったら、「私」は永遠に自分にも誰にも知られないで終わります。

つまり私たちが、自分の存在を認識できるのは、私を見つめる目があるおかげなのです。

その存在に分かりやすく目球を付けてみると、上の図のような感じで私たちを見つめている存在をイメージすることが出来るでしょう。

さて本題はここからです。

次回、この深い真実の意味を、私なりに書いてみたいと思います。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Art Expo Osaka に参加します

2016-06-21 | 展覧会

 

 いよいよ、システマギャラリー主催のArt Expo Osakaが始まります。飾り付けも終わりました。 出品作品はこちら

    

 同展は、システマ主宰の石田克企画の国際展です。驚くべきは、この国際展は、天才的な画才と、商才を兼ね備えた彼が、既存の画壇を相手にせず、全く独自の方法で世界に問いかけ続けていく過程の中で、集まってきた海外30名、国内30名の交流展だということです。

 どんな作品が集まるのか、私も知りませんが、石田克氏の目を通して集まった作品であることは確かで、そこにワクワク感があるのです。

 おかげで、挑戦的な気持ちで絵が描けます。

 会期中の開廊時間が、曜日によって違いますので、下記案内状を注意の上、是非ご来場ください。アウトローたちの国際展です。

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Art Expo Osaka 開催します

2016-06-20 | 展覧会

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

たまごを立てる(私の正体)

2016-06-20 | 5次元宇宙に生きる(神)

(のしてんてん「彼方へ」 F30号)

 

随分前の作品ですが、ちょっとした思い入れがあります。

心の奥の奥を求めて、描き続けていました。鉛筆の闇は、私の心を受け入れてくれる深さがあると感じて、突き進んでいた時代です。

しかしある時期から限界が見えてきました。描いても描いても、その深さに達しない。そのもどかしさが引き金でした。

実際、鉛筆の闇と言っても、キャンバスに鉛筆を埋め尽くせば、それ以上はないわけで、鉛筆に頼ればおのずと限界はくるものです。

その奥に行きたい。

そんな思いが高じてある日、仕上げた作品の奥を求めてキャンバスを切り裂きました。

けっしてヒステリックではありませんでしたが、自分の制御ができないまま、考えたことを実行にうつしたというのが一番真実に近いと思います。

その時私は、キャンバスを切っている自分の姿を見下ろしているような感覚の中にいました。まるで他人事のようにそれを見ていたような気がします。

しばらく傲然としたまま、私は作品と向かい合っていました。

これは作品なのか、放棄したごみなのか。そんな考えも頭の隅にありましたが、何より自分のしでかした意外さに驚いていたのでしょう。

 

やがて興奮が冷めると、これはフォンタナの真似ごとだと思い至り、結局お蔵入りにしたものです。

  (キャンバスを切る フォンタナの作品)

 

 長いあいだ忘れていました。

それが最近になって、「たまごを立てる」という一連の記事を書いている最中に私の目に飛び込んできたのです。

フォンタナの真似ごとと考えて忘れていた自分の作品ですが、再び目にしてこれはたまごを立てることではないのかと思えたのです。

真実を求めて、キャンバスの上に絵を描きます。しかし描いても描いても、けっして真実に至ることはありません。どこまで行ってもそれはキャンバスの上に描いた絵なのですから。

では真実はどこに?

キャンバスを切ることで、絵という真実に似せかけたトリックが破られます。結局それを見破ることが真実なのですね。

たまごを立てるということは、キャンバスを切ることと同じだったのです。

それはフォンタナの真似ではないという思いにもつながりました。

キャンバスを切るということは、絵はつくられた幻想だという気付きなのです。

それはつまり私たちが自分自身と思っている意識と繋がります。苦悩や心配事の一切は、頭脳が描き出した幻想、キャンバスと同じなのです。幻想を切り裂いたら、その向こうに自立したたまごが現われる。

私の正体は、幻想を切り裂いた風景を見ているということになります。

日々の生活をおくっている自分がいる。

このとき真実は、自分ドラマの主人公を演じている自分を見つめている目の存在です。

たとえ主人公を演じている自分が真実だとしても、それを見つめる目がなければ自分は永遠に闇の中なのです。

それは5次元の考え方でいえば、空間であり、意識=神 ということになります。

イメージしてください。

主人公を演じている自分に意識を据える場合と、

その主人公を見ているに意識を据える場合の違いを。

一方は自我の視点であり、

他方はそれを見ているの持ち主、神という実在です。

 

そのに意識を寄せると、その背後に私たちは神の存在を意識することが出来ます。

自我を見つめているもの、それこそ真実であり、宇宙の1なる存在としてある、(空間=意識=神)と言えるのではないでしょうか。

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

たまごを立てる(うれしかったこと)

2016-06-18 | 5次元宇宙に生きる(神)

(新作 3号キャンバスに鉛筆)

 

私が提唱する五次元宇宙の概略は、カテゴリー「5次元宇宙に生きる(空間)」で33回にわたり紹介させてもらいました。そのことで、とてもうれしいメッセージを頂きました。

それは、今回のたまご立ての話を締めくくってくれる内容でした。

 

メッセージを頂いた方を仮にTさんと呼ばせてもらいます。

Tさんは、私と同じ無所属の絵描きさんで、偶然私たちはある展覧会場で出会いました。

Tさんの絵を観て、なんとなく魅かれ、何度か見るうちに同類のにおいを感じ取ったと言えばいいでしょうか、全く垣根を感じさせない人でした。

絵かきというものは大概(私も含めてですが)胸張り症候群で、うるさいほど「私は!」を連発するか、胸をそらして付け入る隙を見せないものですが、Tさんは違いました。

常にこうべを垂れて、自分の作品はまだまだという人で、しかし作品は静かですが激しい情熱を感じさせるもので、Tさんを大先輩と思うようになりました。

そのうち、Tさんから「のしてんてん系宇宙論」が欲しいと云うことで、お送りしたのです。

驚いたことにTさんは1週間ほどで読破され、その感想を送ってくれた次第。次の一節が私の心に沁みたのです。

「ずっと自分の存在を追求してきて、行き詰っていたのですが、私の見続けてきたのは「0」、つまり無の世界を得ようと突き進んできたというのがよく分かりました。五次元宇宙は「0」と「1」の間にある世界という説明に感銘しました。私が行き詰ったのは「0」しか見ていなかったからだとはっきり分かったのです。私は「1」を見つけました。」

5次元宇宙はスケールの概念から世界を見た心の存在論です。自分の存在を無限に小さなスケールで見ていくと限りなく「0」に近づくのがわかります。しかし逆に大きなスケールになって世界を見れば、無数の原子はひとつになって私をつくっており、無数の星は一つの銀河になるというように、限りなく「1」に近づく世界なのです。

つまり私たちは「0」と「1」の間に存在しているわけです。

Tさんの追求は「0」向って一直線だった。その方向は禅の世界のイメージが強く、実際Tさんのさんの作品もそんな世界を感じさせてくれます。しかし進めば進むほど、自分が消えていくことにTさんは気付いたのです。

「1」に気付きました。Tさんは言います。絵が変わっていく実感がうれしいと。

「1」とは己そのもの、個性のあり方を現わしています。その時私にも気付きがありました。

私の心に浮かんだたまごが自立するイメージは、まさに5次元宇宙の「1」の表象だったのだと。

自分とは何か。それは無である。その理解は実は人間存在の片面だけの風景だったのです。私たちの実体は無、空間そのものに集約されていきます。それは一方で正しい答だったのですが、相変わらずやってくる苦悩は、その方向だけでは決して救われないということでしょう。

私たちは無であると同時に、1なる存在なのです。たまごが立つ姿は、まさに1なる己の姿に他なりません。無を原動力にして、ひとつの自然として立つ。

それこそが、5次元宇宙に生きる私たちの姿だったと、私もまた、Tさんに教えられました。

ありがとうございます。

コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

絵かきのしあわせ

2016-06-17 | 展覧会

(盛りをすぎたといえ、雨に紫陽花、いうことなし)

 

久しぶりに画材屋さんによった。ドアを開けると、キャンバスの匂いやら、油のにおいが頭脳を喜ばせる。

宝島に迷い込んだように、心が浮き立つ。何を買うという目的もないのに、棚の商品を見るたびに手招きしているように思う。

しあわせです。私の心を言い表す言葉はほかに見当たりません。だからきっと幸せなんだろうと、ぼーっと感じながら棚を見て回ります。

そんな中で、いきなり心に飛び込んできたクリアな感覚。目がひらくというのはこのことかもしれません。確かに目から先に近づいて思わず手に取ったものがあります。

それがこのキャンバス。  サイズは0号、手に乗る小さなものです。

私の手がける通常のキャンバスの大きさの最小はサムホール。これはそれよりも小さい。

「かわいい」見た瞬間にそう思いました。 手のひらに乗るサイズで、セットで買い込んできました。

この中に、あれも描きたい、これも描きたい。

至福の瞬間です。

今の私は、それだけで満足です。

私にとって、9月の小品展(シャンソン喫茶ガットネロでの小品展)はすでにこの至福から始まっています。

今までになかった感覚で個展が開ける。

のしてんてんの新しい世界が、このキャンバスからスタートします。

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

シャンソン喫茶ガットネロで小品展開催します

2016-06-16 | 展覧会

近鉄「大阪上本町」駅、地下鉄「谷町九丁目」駅(11号出口から徒歩3分))

 

シャンソン歌手松浦由美子さん主宰の喫茶ガットネロは、若手ピアニストや、コーラス、シャンソンなど、アーチィストたちの行きかう交差点のような場所です。2007年からのしてんてん絵画とのジョイントが開始され、ちょうど10年目となります。その様子は

シャンソン喫茶ガットネロジョイント展  ガットネロHP

でご覧ください。10年に及ぶ音楽とのしてんてんのジョイントです。

10年目の今年、2日間だけの小品展をすることになりました。

のしてんてん絵画は、音楽とよくなじむと好評ですが、それは鉛筆一本だけで描くモノトーンの精神世界が音楽と似ているからなのかと勝手に思っています。

今回そんなことも意識しながら、私の現在の到達点を表現する世界を小品に込めて展示いたしますので、お立ち寄りください。

コーヒーでも飲みながら、ゆっくりのしてんてんの世界を楽しんでいただけます。気に入った作品があれば、買っていただくことも出来ます。

今、じっくりと、絵を描いております。

 

コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

たまごを立てる(ミイラ取りがミイラになる)

2016-06-14 | 5次元宇宙に生きる(神)

(ここまでする意味はありませんが、究極のたまご立て)

 

話の内容から脱線して、つい、たまご立てそのものに興じてここまで来ました。

理論的には接地面にあるたまごの殻の、3つの凸が乗るだけの面積があればたまごは立ちます。つまり釘の上にも立つわけです。

そう思うと、どうにも止まりません。

釘を探し、固定するための木片を探し、釘の頭の凸凹をやすりで平らにし、と、思考は動きはじめます。目標ができるとそんな風に動くのですね。

このエネルギーは、どうやら私が絵を描こうとする意志と同じところからやってくるようです。

苦悩を中心に見てきた心ですが、能動的に何かをやろうとする心の動きにも、人為的ではない力が働いているのだろうと、思ってしまいました。

たまごの話は、前回で完結と思っていましたので、これは番外ですが、自分のことながらその心の動きが面白くて、紹介しました。

まさにミイラ取りがミイラになった話です。

それにしても、そんな思いでやり始めた釘にたまご立て、なかなか頭の中のようにサッとは行きませんでした。

釘の頭の面積が狭いため、たまごのセンターを探すことから始めなくてはならない。これが難しかったのです。偶然成功して、カメラを向けたら撮影前に落下、何度も失敗して、割れたたまごは無理やりたまごかけご飯にして昼食。

そしてやっとこの通り。息をするのもはばかられる中撮影成功。

 

コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

たまごを立てる(5)

2016-06-13 | 5次元宇宙に生きる(神)

(自作の絵を背景にして、たまごを立ててみました)

 

背景の作品は、2001年に描いたたまごの作品。この時期、たまご立てを考えたことはなかったのですが、15年後にうまく符号したものです。

たまごは、難度を上げて、ペットボトルの上でやってみました。

 宗教でいう明け渡しの実践は、私にはありません。そこでは修行の末、一瞬で悟りを開き、完全な明け渡しが実現するように見えますが、私(凡人)が進む道は、一瞬で己を捨てきることが難しいのです。

現実世界と、悟りの世界を凡人らしく己の足で歩いて行くしかありません。

その意味は、たとえ明け渡しを体験しても、知性が完全に真実に身を任せたことにはならないということです。

必ずまた別の苦悩がやって来るでしょう。知性はいつであれ新たな欲望を生み出すからです。ですが私たちはすでに、その欲望にしがみつかないで手ばなす方法を身に付けました。

苦悩は相変わらずやってくるかもしれませんが、そのたびに私たちは己の中に自立しているたまごに身を任せて、苦悩を握りしめる手を開きさえすればいいのです。

苦悩と明け渡しのドラマを楽しむことが出来るようになれば、私たちは悟りの世界に身を置くのと変わらない境地に遊ぶことが出来るでしょう。

ところで私のたまごの作品を展示した、2001年の個展風景を付録します。

  

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

たまごを立てる(4)

2016-06-12 | 5次元宇宙に生きる(神)

(たまごが立つ緊張感は作品の中にとりこみたいメッセージがある)

 

たまごを立てるのに、四本の指を使いますが、その時常に一本の指が触れているようにすると説明しました。それに対して、それではうまく立てられないのではというご指摘を頂きました。

おっしゃる通りで、6月9日付「たまごを立てる」で記載したその方法の記事は、大雑把すぎたようです。というより、感覚的に書いたいい加減な説明でしたので、訂正します。

正しくは、上の通りです。たまごを立てようとすると、寄りかかってくるたまごを押し返すためには360度、どの方向にも押し返すことが必要です。このためもっとも頻度の高い形は2本の指で押し返すものです。ベクトルを意識しながら2本の指の力加減をして、たまごの立つポイントを徐々に狭めていくのです。

図の赤い矢印は一本の指で押しかえす力、青いのが2本の指を使って押す力です

4本の指は常に必ずたまごが自由に動ける隙間をつくっている事。それだけを注意していれば必ずたまごは立ちます。

 

さて、心も同じです。やってくる苦悩を握りしめないで、見つめます。するとどの方向からきている苦悩なのかが見えてきます。さりげない誰かの一言が原因になっている場合もありますし、もっと根の深い、子供時代の体験につながっていく苦悩かもしれません。

苦悩が来たら、自立するチャンスです。どの方向に心を押せばいいのか教えてくれています。その苦悩の原因を手放すだけでいいのです。

苦悩は、それを自分の力で何とかしなくてはならないと思う心が生み出すエネルギーの淀みなのですね。

無意識に私たちはその部分を握りしめているのです。根が深ければ深いほど、指が喰い込むほど握りしめています。自分を救いたいあまり、自分で何とかしなくてはと思うのは当然です。それが知性なのですから。

苦悩はその部分を教えてくれているのです。たまごを押し返す要領で、その心を押し返します。

この時、押し返すという意味が大切です。押し返すということは、自分に向かってやってくる苦悩の原因を押し返すという意味です。どこに?

そう、神に向かって。もともと神の領域だったものを、握りしめた手から返してやればいいのです。手を広げ、苦悩の原因を神(宇宙)に返してやる。

それこそが明け渡しです。

いつかすべての明け渡しが終われば、心のたまごは自立するのです。

 

 

 

 

コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

たまごを立てる(3)

2016-06-11 | 5次元宇宙に生きる(神)

(テーブルクロスの上、繊維の目があるのでムツカシイ。)

 

たまごが自立するのを悟りの終着点だと考えると、たまごの歴史が見えてきます。

こんな感じ。

創世記: 宇宙空間をまるごと殻の中に取り込んで、真実のたまごが生まれます。

萌芽期: たまごは、母体の中で人のかたちをつくり始め、その中で成熟していきます。

誕生期: やがて私が生まれます。疑うことも知らず、私とたまごはまだ一つのものでした。

形成期: 知識を持つようになると、私はたまごを忘れ、知識の上に人格を形成します。

迷走期: 知識の光にたまごは完全に見えなくなります。その存在を考えることもなく、富と見た目の幸せをを得ようとするあまり、苦悩が蔓延するようになります。

光明期: 苦悩の闇が、再び私にたまごの存在を気付かせてくれます。たまごの中にある至福に気付くのです。

求心期: 存在に気付いた私は、たまごを追い求めます。捕まえ、握りしめ、たまごを壊すことさえあります。悟りの世界に気付きながら、悟りを得られない時期です。

開花期: 至福と苦悩の螺旋を登りながら、たまごは知識で触ってはダメだという理解に達します。「たまご」の意味をはじめて知ります。

入門期: たまごと、知識の分別が出来ると、ようやく、心の中でたまご立てが実践できるようになります。たまごを支える指が、知性そのものだと理解できたものだけが出来る実践です。

成熟期: たまごが指に寄りかかるのは苦悩です。苦悩から逃げないで押し返し、たまごが自立する位置を探っていく。苦悩はどの時期にも生まれますが、この時期になると苦悩はたまごを自立させるためのシグナルであったことがよくわかります。

覚醒期: コトンと、腑に落ちる音がして、見事にたまごが立ちます。そっと手をはなし見守ります。私は、創世記のたまごと再会します。知性はそこに光をあてるだけの役割だったことに気付きます。私はたまごのありのままの姿を照らし出す光だったことに初めて気付くのです。

創世記のたまごは無明の中にいます。

光をあてて、たまごの中にある真実の宇宙を自覚する。その美しさと存在の至福を味わうのが私が生まれた理由だと理解するのです。

 

今日はこの辺で、

たまごの至福をともに味わいたいですね。

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

たまごを立てる(2)

2016-06-10 | 5次元宇宙に生きる(神)

(たまご立て、再挑戦。今度は12秒)

 

人が悟りを開くというイメージを描いたらどんな形だろうと思ったら、たまご立てを思いだしました。なんとなくそれが心にしっくりといったのです。

机に乗ったたまごは目に見えない3つの山に支えられて自立しています。

身体の大きさを自由に変えて小さな自分を想像してみたら、どんな風景が見えるでしょうか。テーブルがあって、たまごがそびえ立っています。その山肌はごつごつした岩でおおわれていて、跳びだした3つの山が足になってテーブルと接して立っているのです。その隙間をくぐり抜けることも出来ます。

さて、そんなことよりも、心がこのたまごに似ているのです。

自立しているたまごが悟りを得た姿だと考えると、私たちの日常はまさにこのたまごを立てようとしている姿とよく符合します。

私たちの思考は、平安を得ようとしてくるくる動きます。しかしその思考は、「たまごが」している思考ではないのです。私たちの思考は、たまごを立てようとしている指が懸命に頭を使って働いている結果なのです。

どんなことに対してでも、四苦八苦する私たちの日常の心、それはたまごではなく指の方だったのです。

つまりこういうことです。私たちはどんなに苦悩にまみれても、どんなに己が醜いと嫌悪しても、それは指のことであって、白い卵は誰の心の中にも無傷でその指の中に納まっているのです。

親鸞は悪人が救われないはずはないと言いましたが、どんなに悪に染まった指でも、握っているたまごは唯一無二の真実なのですから、そう考えるとよく理解できるのではないでしょうか。

人は誰でも、神から与えられた真実の卵を持っている。

それなのに苦悩はなぜ生まれるのでしょうか。苦悩とは何なのでしょう。

たまごの中に苦悩はかけらもありませんね。たまごは真実そのものであり、至福そのものだと考えられます。すると苦悩はたまごを握っている手なのだということになります。

苦悩は握りしめられた たまごに生まれるのではなく、握りしめた手の方に現れる。

そう考えると、私たちが悟りに向かって進む道程をとてもわかりやすく、象徴的に理解させてくれるのです。

無心になってたまご立てに挑戦しながら、悟り(心の至福)について考えてみるのもいいかもしれません。

次回、心のたまごを自立させる意識の流れを、たまご立てになぞらえて考えてみましょう。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加