のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

二つは一つ  宇宙今空間円相螺旋を  永遠に歩いて行く

2017-01-22 | 心の旅

二つは一つ 宇宙今空間円相螺旋を 永遠に歩いて行く 

真鹿子 まかこ)&(のしてんてん)

 

写真は 鹿子草 カノコソウ 


真鹿子(まかこ)さんは宇宙の詩人

森羅万象、極大極微今宇宙真理を、ご自分を楽器にして奏で続ける。

今を生きる宮沢賢治と、ひそかに思っている私ですが、今回、とてもうれしいことが実現いたしました。

偶然か必然か分かりませんが、明らかに二人の間に計画的な意図はありませんでした。それはとても自然に生まれたのです。

まかこさんの詩に触れて、自然に出てきた私のうた。まかこさんの心をたどっただけのものでしたが、あとで気付くことの多い連歌となったのです。

 

そして、これはどうしても、皆様に読んでいただきたいという思いが、そのずっと後から生まれてきたのです。

まかこさんにお願いして、当ブログにも、掲載させていただくことになりました。

 

まかこ&のしてんてんコラボレーション 連歌

 

----------------------------------------------------------

(二つは一つ  宇宙今空間円相螺旋を  永遠に歩いて行く)




わたしは小さくなる

限りなく見えなくなる方向

素粒子方向に向かって

自分でもいつもの自分と変わらない自分に

見えるかもしれないけれど

行雲流水万物変化は否めない

やがて変化も顕著になるので

それはそれでよい

わたしは小さくなる

限りなく無い方向に

わたしさえも無い方向に向かって

今空間を歩いて行く

宇宙と一体である

宇宙今空間未知領域円相螺旋を

極微極小永遠体となって

どこまでも

永遠に歩いて行く



真鹿(まかこ)



わたしは大きくなる

かぎりなく大きな見えない世界

銀河のつどう海にむかって

この身はいつまでも

思う心に無常の波は押し寄せる

よきかな よきかな

わたしは大きくなる

限りなく1なる世界を求めて

わたしでさえ、1なるもののピースのように

今この空を見つめる

1なるもの この宇宙の血肉となる

わたしの未知領域を

極大無限に向けて

いつまでも

永遠の広がりの中に進んで行く



(のしてんてん)

 

 

 

わたしは大きくなる

かぎりなく大きな見えない世界

銀河のつどう海にむかって

この身はいつまでも

思う心に無常の波は押し寄せる

よきかな よきかな

わたしは大きくなる

限りなく1なる世界を求めて

わたしでさえ、1なるもののピースのように

今この空を見つめる

1なるもの この宇宙の血肉となる

わたしの未知領域を

極大無限に向けて

いつまでも

永遠の広がりの中に進んで行く


わたしは小さくなる

限りなく見えなくなる方向

素粒子方向に向かって

自分でもいつもの自分と変わらない自分に

見えるかもしれないけれど

行雲流水万物変化は否めない

やがて変化も顕著になるので

それはそれでよい

わたしは小さくなる

限りなく無い方向に

わたしさえも無い方向に向かって

今空間を歩いて行く

宇宙と一体である

宇宙今空間未知領域円相螺旋を

極微極小永遠体となって

どこまでも

永遠に歩いて行く





とわに続くスケールの旅

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ナウイズム旗揚げ展に向けて(13)

2017-01-21 | ナウイズム(実在主義)

2016年、はるひ美術館での個展の話しを頂いてから、展示の構想を考えておりました。基本的には、出来のいい受賞作品と、他人の評価を考えず制作した、これまでの組作品「現世」と「浄土」を並べるというスタイルが頭から離れませんでした。美術館の壁面から考えると、組作品がもう一組並べられるスペースがあります。それをどうする?というのが残された課題だったのです。

 

ところが、ある日、わが師松田豐の仏壇に手を合わせて報告し、しばらく奥様と展示の話しをしていましたところ、

「この組作品をばらばらにしないで引っ付けたら?」と言葉を頂いたのです。

その言葉に、私の頭が反応しました。それは瞬間だったのですが、

その時、組作品「ナウイズムの夢」が突然完成したのです。

もちろん、その時はまだ、3番目の16枚組作品は影も形もありませんでしたが、

心は「 あ!」と叫んでいたのです。

「あ」は生まれ出る最初の母音。(昨日のコメントに引きずられているゎ 苦笑)

 

組作品は人の評価を意識しないで描いた、いわば自分の歴史。だとすれば今この作品の流れをそのまま受け止めて、ナウイズムとして昇華させるチャンスではないのか。

そう思い至りますと、この時期に展示の機会を与えてくださったはるひ美術館に感謝の思いが膨らみますし、何よりそこは組作品「ナウイズムの夢」を展示するためにつくられたかのようなぴったり空間であることに気付かされたのです。

新たな組作品「五次元宇宙」はまだ一枚も出来ていませんし、構図も全く白紙状態でしたが、

この瞬間にできたと思いました。展覧会まで半年ありません。

不安も焦りもない高揚感。

作品よりもこの心を伝えたい。金銀名誉でない本当の価値がここにある。そう叫びたい思いで鉛筆を動かし始めたのです。

 

第一作 4枚組作品「宇宙」

私の思い描く宇宙。それはスケールの軸を永遠に旅します。同じ風景が螺旋をえがくように何度も現れてきます。太陽であり素粒子である宇宙。しかもその空間はどこまで行って一つにつながっているのです。限りなく小さな世界に足を踏み入れても、その微細な素粒子を包む空間が1なる極大世界を約束してくれているのです。

 

第二作 4枚組作品「銀河」

素粒子は空間に組織集団をつくり、いのちの糧を生み出します。星は銀河をつくり、スケール宇宙の螺旋を私たちに教えてくれるのです。素粒子から地球。組織から銀河。それらはみな、螺旋を一回りした姿、相似の世界。

 

第三作 4枚組作品「いのち」

組織は円相を結びます。それはいのちのありのままの姿。円相は管になり喰、流、殖、のはじめとなる。中にとりこんだ空間は気となって、意識を生み出す。

円相もまたスケールの軸の中で、永遠に姿を変える。五次元宇宙の形が、ただ一つの空間の中で生かされているのだ。

 

第四作 4枚組作品「真理」

空間の中にいのちを生み出す真理は、空間そのものにある。それはエネルギーとしか言いようのないもの、永遠の振動だ。

その実体は、我々の目にはたわいない一本のひもに過ぎない。

そのあまりにも小さなさりげなさに隠れた真実が無限空間に宇宙を築き上げているのだ。

誰の手にもそのひもは握られている。この世にあって、今この瞬間を感じられるものはすべて、ひもを持って生まれてきた。

何をする必要もない。ただ、気付くだけだ。

それだけでナウイズムの夢は現実のものとなる。

 

 

 

ことばで現わすと、まさにこんな感じで、16枚組作品「五次元宇宙」が完成しました。

「ナウイズムの夢」最後の構想は、

この3組の組作品をシャッフルして、(44+2)枚のピースの無限にある組み合わせから意味を見出す姿と出逢うこと。

最後まで小我を排して大我に任せきること。

このウエブもいいけど、まだ何かがあるはず。

 

知らんけど。

 

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ナウイズム旗揚げ展に向けて(12)

2017-01-20 | ナウイズム(実在主義)
ナウイズムの夢、次なる1/3のパーツは2013年から2014年にかけて描いた作品です。
 
 
心ひかれたお寺の境内に作品を飾りたいと思ったのが始まりでした。
その時の記事がこれです。↓
 ----------------------------------------------------
2013-10-10 | 組作品「浄土」

初夏のころ、毎年何百ものアヤメの鉢が土塀と境内を飾る美しい寺がある。浄光寺という。

アヤメは寺の住職の御内儀が一つの鉢から毎年株分けして育ててきたもので、今や寺を覆い尽くすほどになっている。季節には住民の心を和ませてくれる優しい寺だ。

この寺に絵を飾りたいと思った。

 菖蒲咲く浄光寺 奥は親鸞聖人の像

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ここから、組作品「浄土」をカテゴリーにして、制作過程を連載いたしました。

御住職の厚いおとりなしで、「浄土」展示の展覧会を、奉賛会とするお言葉を頂き、のしてんてん絵画奉賛会に向けて、制作が始まったのです。

その過程は、当ブロブにてリアルタイムで報告いたしました。

80を越す記事になりますが、通して読んでいただければ、「浄土」に託した意味がいくらか共有して頂けるのではと思います。

興味ある方は、時間の許す限り、カテゴリー 組作品「浄土」を、2013/10/10まで遡って頂き、時系列で読んでいただければ幸いです。

 

ここでは、組作品「浄土」を構成する4組のパーツを簡単に紹介いたします。

 

①4枚組作品「門」

浄土に向かう門。

それは真実に生きる覚悟を示す。発心が見せる風景

 

② 4枚組作品「道」

生きるということは道を歩むということ。

その道は未知なる道。同じように見えて、どれ一つ同じ道はない。

 

③ 4枚組作品「苦楽」

人の道は螺旋のように続いて行く。その道は苦楽のでこぼこ道。登ったら降りなければならない。そのことわりを知ったものだけが浄土の光を見る。

 

④ 4枚組作品「輪廻」

延々と繰り返される輪廻の回転運動。それは螺旋だ。

銀河の螺旋、太陽も月も螺旋軌道を動く。

遺伝子の螺旋、素粒子の螺旋

人間の苦悩さえ螺旋をえがく。

それこそが、宇宙に満たされたエネルギーを証明している。

すべてを加えて一つにしたら、そこに浄土が見えてくる。

 

2014年 第1回浄光寺 のしてんてん絵画奉賛会 16枚組作品「浄土」

御住職との対話から始まり、1年がかりで仕上げた作品を、浄光寺本堂に展示いたしました。

 

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ナウイズム旗揚げ展に向けて(11)

2017-01-19 | ナウイズム(実在主義)

2008年第10回全興寺個展(大坂)

10年間続いた全興寺の瞑想絵画展の最終回。たくさんの〇を描きました。

全興寺の庫裏を貸していただいて開催した第1回の展示から始まった個展は、本堂、中庭とめぐり、最後は集会所にまでおよび、全興寺境内の全域で作品と対峙させていただく貴重な場となりました。その締めくくりとして描いた〇です。

この〇は、宇宙を意味し、天体と素粒子が同時に存在しているという実感から生まれたものです。

M120号のキャンバスサイズは、二枚合わせると正方形になりますので、その正方形におおきな〇を描いて、屏風仕立てで床に立てたものです。

 

その後、この〇は「月」のイメージも重なって、12枚描こうと心が決まって制作を続けます。その作品は1年後、毎日新聞後援の「あなたへ」=現代美術へのいざない・堺展へと発展しました。

 

 ↓2009年 「あなたへ」=現代美術へのいざない・堺展 

床に御座を敷き、座って鑑賞していただく趣向で、面白い展示となりました。

 

前ふりが長くなってしまいましたが、この作品と前年の組作品「人間」が合体して、最終的に組作品「現世」となったのです。

 

 ↓2009年 現代美術10人展 海岸通りギャラリーCASO

人間の世界。そこは〇の中にあり、〇の外にある。禅問答のようですが、私の世界観がやっと一つのまとまりとして見えてきた組作品に成長してくれたのです。

〇の作品を二つに割って、その間に「人間」を配することで、ようやく納得の絵が出来たと言えます。

 

この作品は何度か巡回しました。

 ↓2009年 「21世紀絵画・手の仕事展」 御幸地下ギャラリー

(東京丸の内)で、14人の作家による展覧会でした。

             

 ↓2011年 歌と朗読によるコンサート「茶色の朝Ⅲ」

 シャンソン歌手松浦由美子さん(ガットネロ)の公演。舞台絵画として組作品「現世」を使っていただきました。のしてんてん絵画の初舞台です。 (兵庫県芸術文化センターにて)

 

これが、組作品「ナウイズムの夢」の1/3のパーツとなる組作品「現世」の履歴です。

次回、さらに1/3のパーツ組作品「浄土」を紹介します。

 

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はるひ美術館による北籔和展(ナウイズムの夢)開催します

2017/2/8~2/26

  

 

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ナウイズム旗揚げ展に向けて(10)

2017-01-18 | ナウイズム(実在主義)

2007年、第1回ギャラリーアートズペース東山個展の案内状

 

京都ギャラリー賛の紹介で、その翌年から、アートスペース東山で個展を開催させていただくことになりました。

大きなギャラリーで、より大きな作品展示が可能となりました。

そこで、昨年の4枚組作品「人間」をさらに深めて、12枚組の作品に仕上げる構想が生まれ、1年をその作品制作に没頭しました

 

↓この作品は、第1作目の作品を光が内側から照らす情景を意識して描いたものです。

人の間と書く人間の在り方をただ感じるままに描いたものですが、そこにある光は、人と人の間を照らすものと、人の内側を照らす次元があるという気付きも生まれてきました。

しいて言えば第2作目のこの組作品は「人間・内なる光」ということになります。

 

 

 ↓そしてこれが第3作目の組作品「弧としての人間」です。

人間は、一人では成り立たない。

しかしそれにも拘わらず孤独を感じる私たちは何なのでしょうか。

そんなことを想いながら制作した4点組作品です。

 

 

 ↓作品を展示したアートスペース東山の壁面です。

 

 

 ↓2008年 るーぶる愛知川 個展風景

展示の組み合わせはその時の気分によって変わります。

 

 

 

はるひ美術館による北籔和展(ナウイズムの夢)

2017/2/8~2/26

  

 

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ナウイズム旗揚げ展に向けて(9)

2017-01-17 | ナウイズム(実在主義)

2006年、ギャラリー賛(京都)個展のために制作。

 

人間とは何かという問いかけをテーマにした作品。

当時は「ナウイズムの夢」のような構想は微塵もありませんでした。

人は何故苦悩を生みだすのか。そんな思いだけで作品を創っておりました。暗中模索。ただ感じるままに描いていたように思います。

 

 

「のしてんてん系宇宙論」を本気で読んでいただいた当時、京都教育大の名誉教授で、貴重なアドバイスをして頂いた先生。その中村二柄先生の紹介で、毎年個展発表の場を頂いたギャラリー賛。懐かしい風景です。

すでに十数年前に、京都画壇に惜しまれながら他界されましたが、その第一回賛展にいただいた先生の賛辞は忘れられません。

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この作家はおそらく60、70年代のミニマルやコンセプショシュナルに触発されて、
そこから出発したのであろう。
しかし彼の作品には、それら千例とは本質を異にするものが現われている。
何よりも、これらのフォルムは無機的機械的ではなく、その反対に有機的バイオ
モ―フィックである。
その上先例を見ない明暗の効果。ここには座禅の宇宙論的な世界観照がある。
これらの作品は、喧噪にみちた現世代にあって、あたかも維摩居士の寡黙如雷
あるいは良寛禅師の天上大風のような、音のないシンフォニーである

中村二柄

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下は当時の個展会場。

小さなギャラリーでしたが、とても暖かいオーナーさんで、包み込むように育ててくれた恩人です。

6年間お世話になり、この展示がその6回目。この年、ギャラリー賛は閉廊となってしまいました。

テーマ「人間」。S30号4枚に対称を意識して描いたものです。

画面の短冊のようなオブジェは、箱虫となづけた人型の原型。最小限の要素だけを残してすべてを捨てた人間の姿。そこに見えない心が形になって見てくると信じておりました。

 

なぜ箱虫かと言いますと、私の作品の出発は箱だったのですが、・・・・

これ↓ F100号に鉛筆で描き始めた作品です

 ここから、箱は人の心を表すという直観で、当時は箱ばかり描いておりました。上記の短冊の形は、この箱から切り取ってできたもので、それで箱虫と名付けたわけです。

  虫のように見えるでしょ??うか

 

そんなエピソードを交えて、組作品「ナウイズムの夢」の4作1テーマの作品制作が始まったわけです。

 

 

 

 

はるひ美術館による北籔和展(ナウイズムの夢)

2017/2/8~2/26

  

 

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ナウイズム旗揚げ展に向けて(8)

2017-01-16 | ナウイズム(実在主義)

展示会場のミニチュア、完成しました。

 

展示作品もほぼ固まってきましたので、

段ボールで作った会場の壁を白に塗って、

作品のミニチュアを貼りつけてみました。

 

どうでもいいことなのですが、2月6日~7日の飾り付けで、同じ場所から撮影した写真と比べてみたいと、幼稚な遊び心を躍らしています。

 

組作品「ナウイズムの夢」

44+2枚のピースを並べ、その組み合わせから気に入った作品を探す。

こんなウエブが見つかりました。

(クリックして拡大出来ます)

一枚一枚を作品として成り立つレベルで仕上げていますが、それを組み合わせて新しい作品の姿を探る。

この中に最高の一枚があるはず。

しかしそれを発見するために計画は立たない。事前の知識も、想像力も役に立たない。それは神のみぞ知る偶然の出会いしかないというのは、まさにナウイズム を象徴する作品になったと今は思っています。

問題は、良き出会いがあるかどうか。

今を見つめて描き続けた各ピース作品に、こんなウエブがあったというのはうれしいことですが、まだまだあきらめず、探してみたいと思います。

 

ナウイズム旗揚げ展に向けて、その宣伝も兼ねて、

何日かに渡り、展示作品を紹介していきたいと思っています。

 

まず最初は、この組作品「ナウイズムの夢」

各ピースは1枚の独立した作品ですが、それを4枚組み合わせて一つのテーマを表現する形で制作したものです。全体で16のテーマで成り立っている組作品ということになります。

これは実際の展示では見えてきませんので、

次回から制作順に、テーマに沿った作品を見ていただきたいと思います。

 

ご期待ください。

 

 

 

 

 

 

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吾は空なり、新たな道(未知) 10

2017-01-15 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

空間に向かう新たなる道を求めて、未知なる世界を探索する旅。

いかがでしたでしょうか。

しっかりと、上手にご案内できなかったことは心残りですが、いよいよ私たちは出発地点に戻ってまいりました。

気分の悪くなった方はおられませんでしたか。

 

スケール号の窓をご覧ください。すでに終着駅到着です。己に対する執着駅。

私たちはここから出発して、そして戻ってまいりました^よ^。

 

今回の旅のご案内で、私自身が気付いたことがありました。

 

それはまさにこの「執着」ということばが見せてくれる風景です。

 

「この私は、執着のかたまりだという事実」を、風景にして目に焼き付けることが出来たというのが成果と言えばうなずけるかもしれません。

 

私がアッと思いましたのは、

「執着」という言葉を、ぼんやり眺めていた目に老眼鏡をかけたような気分で、その細部がよく見えるようになった。その執着の風景でした。

 

その風景とは、

「執着」が時間を作りり出しているということです。

ナウイズムを提唱するとき、「時間は実在ではない。」と申しましたが、

それもそのはず。「時間」はこの実在の執着が鍬をふるって、せっせとつくり出していたのですから。

 

考えてみてください。

過去→現在→未来

実在は、この身。

成功しようが失敗ししようが、口に入れたおかきの一欠けの味そのもの。

その瞬間、私たちはその味を体験していますし、その体験に過去や未来はありませんね。

そしてもし、

私のいう意識の地平を手に入れて自由に宇宙を旅しはじめたら、その旅にも過去や未来はないのです。

意識の地平は実在そのもの、その大きさは宇宙そのものですから。

(ここ分かりにくいでしょうね。しかし分かろうとしてはいませんそれが執着なのですから。分かる必要はないという理解が大切です。何かを感じればそれで十分です)

つまり、実在には過去も未来も存在しない。

 

存在しないから生み出すのです。

実在の執着がせっせと時間を生み出している。その風景を眺めてきました。

 

時間を悪者のように言っていると感じたら、それは誤りです。

私はその時間に愛情を持っているのです。

執着が人間そのものであるように、そこからうみだされた時間も人間そのものですから、この愛すべき時間とどう付き合っていくのか。

これが人間の永遠のテーマだと思うのです。

 

今回の旅の終着駅は、もとに戻った杜子春の立っている風景と言ってもいいでしょう。

 

「吾は空なり」

そのふくれて浮き上がったバルーンをつなぎ止めている糸。

それを切る必要はない。

その糸をのばせばいいのです。

 

人間は苦悩を抱えます。

しかしその苦悩を無理やり切りとる必要はない。

糸をのばして大きな視野で苦悩をながめる智慧さえ身に付けたら、私たちは苦悩と共に楽しくやっていけるのです。

 

すると自然に執着は落ちていく。

私はそのことを信じてもいいと思うようになりました。

幽体離脱など望む必要もないのです。

 

ありがとうございました。

寒波が来ております。

暖かくして、足元に気を付けてタラップを降りてくださいませ。

又の乗船をお待ちしております。

 

 

 

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吾は空なり、新たな道(未知) 9

2017-01-14 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

食禅について、先日の続きです。

幽体離脱体験は何だったのか。その答えを求めて、意識の地平を見つけました。

「吾は空なり」

そこから導かれる、空間エネルギーの広がり。そのエネルギーは、極小から極大に至るスケールの世界に様々な異質の世界を創ります。そのままでは互いに認識不可能な世界ですが、たった一つの共通点があったのです。

それはエネルギー波の中心。

振動するエネルギーの中心にあるゼロ地点。これこそ意識の地平であり、私たちが異質の世界を旅する道となるのではないかと思われるのです。

そこで、私の幽体離脱体験も、意識の地平を越えたためと推論したわけです。

 

私たちが実感できる意識の地平は感覚にあります。それは、それぞれの感覚(五感)のゼロ地点だと考えられますから、意識をむければ、自分を創っている感覚を通じて、己の姿を感得することが出来るでしょう。

視覚の地平は、闇と光のはざまにありますし

聴覚の地平は、まさに除夜の鐘に象徴される。音の消失点です。

嗅覚の地平は、香り。香を炊くと揺れる香りの中で自然にその地平に誘われます。

味覚の地平は、先日紹介した食禅によって体験出来ますし、

触覚の地平は、湯船の中にあるでしょう。痛みは地平を見るチャンス。痛みのある場所を眺め、その消え入る地点を意識すると、そこに地平が見えてきます。

目を瞑って自分の手を自分の顔に近づけてみてください。触れる直前に触覚の目覚めがわかるはず、慣れてくれば触覚の地平は、己の姿をしていることが見えてくるのです。

他にも体感がありますし、第六感などは、意識の地平そのものだという理解に至るでしょう。

 

その中で、味覚のかかわりは、もっとも実際的な、身体感覚を伴う体験を与えてくれます。湯船は素晴らしい至福感を与えてくれますが意識が全身に及んで、地平を見失いやすいのです。

その点味覚は、至福感が限定されて、お手軽という訳です。

 

さて私ごとです。食禅が気に入って、3日続けています。

意識の地平にであうと、「吾は空なり」の思いが軽くなるのです。

体感的に言いますと、空なる私が人型に膨らんで、風船のように浮き上がります。

素晴らしいのは、この膨らんだ風船の中身です。

混乱が納まると、全身のエネルギーがシンクロしはじめます、混乱して、めいめいに動いていた波動が、意識の地平を整え始めるのです。髪の毛を梳くように、意識の地平線のもつれがきれいにそろいます。私のエネルギーが一つの大きなエネルギー波となって、指の先までふるえるのが分かります。小刻みに震えるしあわせの波が全身にある空間を喜ばせるのです。

しかし外に飛んでいけない。

糸につながれているのです。

その正体は見えています。

私の意識を身体に引き留めている糸、それは不安の種、苦悩の種、恐れの種なのです。

苦悩や不安になる前のエネルギーの淀み、それこそが己に対する執着に他なりません。

執着とは苦悩です。不安、恐れ、妬み、恨み、忌避、ありとああらゆる負の要素をまとめて風呂敷に包んだようなもの。それを束ねたものが執着そのものなのです。

それが切れたら、自然に意識はとびたちます。

 

私の幽体離脱の体験は、なにかの具合でその糸が切れたのだと、今はよく分かります。

 

では意識的にその糸を切ることは出来るのでしょうか。

 

 

 

 

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吾は空なり、新たな道(未知) 8

2017-01-13 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

ぐうたら瞑想法 またの名を食禅

今回の旅で発見した、一番有益な体験ではないかと思います。

 

どうして発見したのかから話を始めますと、先日の↓この話しからなのです

「吾は空なり」という達観は、己の本質がエネルギーだということを納得させてくれました。そしてこのエネルギーは、意識の地平で一直線につながっていて、私たちは宇宙と一体だと。そう理解したのでした。

 

では、この意識の地平(エネルギーのゼロ地点)をどう認識するのか。

どうすれば意識の地平にであえるのか。

そう思った時、私は除夜の鐘を思い出したのです。それは自然にやってきました。

鐘の音に耳をかたむけ、その音の消え入る地点を探る。その消えた瞬間こそ意識の地平ではないのかと思い至ったわけです。おやつ(揚げせんべい)を食べながら。


まあ、ぐうたらしながら、考えていたわけですが、この時、口に中にも除夜の鐘があることに気付いたのです。私はそれを食禅と名付けました。

それを紹介しましょう(紹介するに足りる代物です)

 

用意するもの大きめの揚げせんべい1枚。

それを30分かけて食べる。それだけです。

寝転がっても、正座しても、ほおづえついても、かまいません。ぐうたら生活を楽しむ心があれば心構えも充分。

ただ一つだけ必要なものは、口の中で除夜の鐘をきくという強い意識です。

さっそく一口。

 

あっ、奥さん、奥さん、

いつものようにそんなに急いで食べたらいけません^よ^

 

ここが修行の勘所。

ひとかけらの揚げせんを、ゆっくりかんで、しっかり味わうのです。

舌の付け根あたりが一番深く味に反応して喜んでいる。その喜びは全身に広がりますね。私はその広がりゆくさまを波動と呼んでいるんです。味覚が体を喜びに変えるのです。この喜びも私には波動と思えます。

呑込まないで、自然に口の中から消えて無くなるまで、

味覚に意識を集中させます。

 

さあ、ここからが除夜の鐘です。

味覚が徐々に薄れていきます。その様子を眺めつづけるのです。

揚げせんのかすかな香り、

口の中にあるかすかな気配。

それをどこまで追っていけるのか。挑戦してみてください。

無と思えるところまで来てもあきらめずに、かすかな気配も見逃さない心意気で意識を集めてください。

さすがに、もう味はないと思ったら、

ゆっくり次の一かけを口に入れます。

すると、今まで感じたことのないような、揚げせんの味が、あたかも梵鐘を打ち鳴らした時のように口に広がります。

意識を集中すると、世界はまるで違ったように思えるものです。

揚げせん1枚を食べつくすまで、なんども口に中で味覚の変化を楽しみます。

 

慣れて来たら、味覚の消え入る瞬間からなお続いている感覚に気付くようになります。

その感覚に意識をむけたままにしておきますと、

次の一かけを口に入れることを忘れて、その味のない味覚を感じている自分に気付きます。

とてもいい感じで、味のない味覚を感じたら、その感覚を全身に広げていきます。体が喜んでいるときの波動を感じる事が出来るのではないでしょうか。

私たちは、このように味のない味覚を意識することが出来るのです。

そして気付いてほしいのは、

この味のない味覚こそ、感覚の地平だということを。

私たちのナチュラル姿がそこにあります。

 

一かけを口に入れた味わいが、少しづつ消えていき、

やがて味のない味覚にたどりつく。その変化をなんども何度もながめてください。

鐘が打たれて響くように

味覚は味わいによって響いている。その自分の姿を意識するのです。

 

私たちの五感はすべて、そのような装置なのです。

この食禅が

五感すべての、意識の地平を見るきっかけになるでしょう。

それは五感の中で、味覚が一番分かりやすいと思えるからです。

味覚は口という、身体の内部に起こる感覚ですから、体感により近いと言えるのかもしれません。

 

私の経験では、30分~50分で食べつくしました。

ちょうど昼休み

ぐうたら時間に食禅はいかがですか。

 

食前に食禅して食膳に座るか

食膳に座ってから食禅にするか

悩みは尽きませ^ん^

 

 

 

 

 

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吾は空なり、新たな道(未知) 8

2017-01-12 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

先日の続きですが、

私の体験した幽体離脱の現象を、納得できたのはつい最近のことです。

この記事を書きながら、行き当たった答えを書いてみたいと思います。まさに私の一人旅通信であり、私の実在以外に何の根拠もありません。

そのことは先に申し上げておきます。

 

「吾は空なり」それは見る眼を物質から空間に向けることだと何度も書きました。

つまり、意識を空間に向けると、私たちの認識する風景は一変します。

私の本質はは素粒子の間にある空間だと思うと、私の身体は自分の肉体を突き抜けて、宇宙のかなたまで広がります。

この認識が幽体離脱体験とどうかかわるのか。

 

そのカギは、エネルギーです。

空間を見る眼は、自分をピンクの領域だと見ます。白い空間の中に存在する、強い空間のかたまりですね。

ピンクの空間を自己意識、白い空間を宇宙意識と呼びました。

ピンクの空間は、見上げる大宇宙に匹敵する素粒子集団を一つにつなぎ止める強い力を持っていて、そのおかげで宇宙意識の中で自己意識空間を保っていられる訳です。

 

これをエネルギー波で表現したら次の図になります。

五次元の概念で見ると宇宙は、極小宇宙と極大宇宙が同時に存在している。それは何度も繰り返して話していることですが、

その五次元宇宙を認識すると、ピンクの空間(自己意識)は私を創っている空間であり、白い空間は、神ひとを創っている空間でした。神ひとの身体は、私の身体の10の22自乗倍の大きさなのです。(この際細かなことはどうでもいいのですが、とにかく見ることのできない大きさです)

 

図の①は、その関係をイメージしかものです。

ピンクの空間のエネルギー波は、自己意識にある波形をしており、それを取り巻く白い空間は宇宙意識の巨大な波となるわけです。自己意識を、神ひとのレベルまで拡大した波が包んでいる訳ですね。

あるいは、認識不可能な長波空間に、ギュッと身を引き締めた短波空間が生まれていると言えますね。

 

図②は、宇宙意識のエネルギーを、自己意識の大きさ(私たちが認識できる大きさ)にした図です。

宇宙エネルギーを私たちのスケールで見ると、こんな見え方になるだろうと想像できる図です。

波は長い周期のまま、自己意識と同じ大きささ(波の高さ)で伝わります。その波はほとんど波の中心線にへばりつくような形になるはずですね。

 

さて、この波の中心線。

私はこれを意識の地平と呼びます。エネルギー的には0地点であり、そこから+-のふり幅で振動する波。

空間はこの波で満たされているのですね。

 

私たちは自己意識の支配を受けてこの身体に生まれ、そのいのちを頂いているのですが、逆から言うとそこから逃れられないわけですね。

私たちの棲む世界と宇宙意識の世界は、その境界線に極端なエネルギーの差異の壁によって区切られている訳です。

 

しかし波の図をよく見てください。

スケールの違いが、確かに差異を創り出していますが、変わらないものがあるのに気づきませんか?

 

そうです。意識の地平。エネルギーの0地点です。

意識の地平はどこまで行っても、たった一本の線でつながっています。

これこそが空間の心臓部なのです。

 

エネルギー波はスケールの影響を受けて。変化しますが、この地平は変わらないのです。

 

さあ、もうなにが言いたいのか分かりますね。

私の幽体離脱体験は、偶然私の意識が、ごまんとある欲、あるいは己に対する執着から離れて、エネルギーの0地点に入ったからだと思えるのです。

意識の地平に立つと、私たちはその瞬間、宇宙空間のど真ん中にいることになります。

 

私が自分の姿を上から眺めた意識は、おそらくその地点に立ってなお、いくらかの執着がうまい具合に残っていて、自分を客観視した体験だったのかもしれません。

あるいは、コップ「チーン」体験は、意識の地平で、描こうという意欲がコップという意識だけを残していた結果だと考えることも出来ます。

 

いかにしてこの意識の地平、エネルギーの0地点に気付くか

この辺りの話しは次回。

 

実は茶の間でおやつを食べながら出来るぐうたら瞑想法に巡り合ったのです。

 

 

 

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吾は空なり、新たな道(未知) 7

2017-01-11 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 

幽体離脱の体験

こう書くと、なにか得体のしれないオカルト話と思われますので、長いあいだ封印していた体験です。

先に言っておきますが、「幽体離脱」の意味をネットなどで調べて、学習しないでください^ね^

知識は不要です。

というより、巷の知識に左右されるのは危険ですし、私たち自身にとってそれは微塵も真実ではありません。真実は、常に私たち自身の中にありますから、分からないことがあったら、いつでも自分の中を探してください。外の情報は参考資料にすぎません。

とはいえ、私の体験は幽体離脱ということば以外に適当な言葉がありません。こんな話です。

 

私はキャンバスの上に鉛筆の線を引くという単純作業で絵を描きます。すると、鉛筆の芯がキャンバスの上を滑る音が意外に大きいのです。

ラジオを聴きながら作業することが多いいのですが、線を引いているときは、音のためにラジオは聞き取れないほどの音がします。

当然その音は、手の動きにあわせて、単調なリズムで延々と続くわけです。

ガリガリがりがり、ガリガリがりがり、ガリガリがりがり、・・・こんな感じです。

描きながら、大体は絵のイメージを追ったり、最悪は今日のおかずは、なんて考えが浮かんでおりますが、

あるとき、そんな考えが止まったことがあったのです。無思考状態だったと思います。気付いたら私は、自分をななめ上から眺めているのです。

自分の頭のてっぺんが見えて、キャンバスに向かって手を動かしている。何の不思議もなく私はその光景をながめていた。その光景を今も覚えています。

 

そしてもう一つこんな体験もありました。

鉛筆画修行中でしたが、これはスケッチブックにコップを描いていた時です。

ただひたすら、コップの表面をえんぴつで辿っていく。そんな感覚で描いておりました。背景の黒い空間を描きこんでおりましたところ、手の力が余って、鉛筆が止まらず、コップの縁から内側に行ってしまったのです。

その瞬間でしたが、私の頭に、「チーン」という、瀬戸物を箸でたたいたような音が聞こえたのです。ハッとして手を止めましたら、鉛筆の芯が、コップの縁に少し喰い込んでいたのです。

 

なんどもあった経験ではありませんが、ずっと心に残ったままです。

 

 

不思議な体験でしたが、ふと思ったのです。

これは、「吾は空なり」という考えから説明がつくのではないかと。

今なら、不思議で止まっていた体験の中に入っていけるような気がするのです。

 

 

 

 

 

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ナウイズム旗揚げ展に向けて(7)エピソード

2017-01-10 | ナウイズム(実在主義)

2015年清須市第8回はるひ絵画トリエンナーレ「優秀賞」

 

この作品をよく目に焼き付けておいてください。

この作品が、私のとんまなドジのために、明晰なはるひ美術館学芸員さんとの間で、とんでもないエピソードを生み出しまして、一日、そのドラマの主人公を演じておりました。

 

今回、ナウイズム旗揚げ展が開催できることになったきっかけとなった作品で、同展を開催する美術館側の唯一の条件が、受賞作品を展示するということでした。

 

で、先日、学芸員さんが、わざわざアトリエまで最終打ち合わせに来ていただいた様子はお伝えしました。

あの日、私は作品のプレゼンの意味もあって、アトリエに作品を展示して学芸員さんをお迎えしたのです。

こんな感じで、100号大作を中心に、並べまして、反対側にはこれ、美術館に展示予定の受賞作品を掛けたのでした。

この写真ではわからないのですが、箱の中に積もった砂の山に、一匹のてんとう虫を描いています。

 

拡大すると分かりますね。

 

ところで、この作品が受賞作品ですと言って見ていただいたところ、真っ先にこのてんとう虫に目が行きまして、

「あれ?こんなところにてんとう虫がいましたっけ?」

と首をかしげました。

そこで私は、なぜここにてんとう虫が必要だったのかを熱弁しまして、その日は学芸員さんも納得されて、帰られました。

 

エピソードはそこから始まったのです。

 

「こちらの作品写真にはどう見てもてんとう虫はいない。」

後日、メールを頂きまして、美術館で撮影した作品にはてんとう虫はいないと言ってきたのです。

私も嫌な予感が走りました。

で、翌日、私は変な胸騒ぎをかかえたまま、自分の作品の調査にかかりました。どこかに記憶の混乱があるのか、てんとう虫は消えたのか・・・私に描きくわえた記憶は一切ないのです。

しかし、別の作品(同じテーマで何枚も描いていますので)には描きこんだ記憶がありまして、そのあたりがエイリアンに襲撃されたようなミステリー。

 

私がこれだと思い込んで掛けた作品は50号の大きさ。

そう思ったとき、はるひの作品、50号だった??という疑問が生まれました。

もしや、私ははるひの作品集を引っ張り出し確認。

それが表題の写真なのですが、大きさは100号だった!!

やっとミステリーの謎が解けたのです。

 

別の展覧会に描いた作品(50号)を、どこで思い違いをしたのか分かりませんが、はるひの作品と思い続けていたのです。この作品も受賞作品ですので、頭の中で入れ替わってしまったのでしょうか。

思い込みとは恐ろしいもので、少々つじつまの合わないことも、理屈をつけて、思い込みを続けようとします。

学芸員さんの前で、なぜてんとう虫を描いたのか、力説した自分の姿が滑稽です。大きさが全く違う作品を、いったいどうしたら間違えるのだろう。

今なら首をひねるばかりですが、

思い込んだら疑わない自分の頭を目の当たりに体験させていただきました。学芸員さんに感謝です。

学芸員さんがいなかったら、私のこのミステリーは美術館の展示会場まで封印されたままで、大変なことになったはず・・・・・

 

そう思うと学芸員さんに感謝×感謝=感謝の自乗

ありがとうございました。

 

よかった^よ^か^っ^た^。

 

 

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吾は空なり、新たな道(未知) 6

2017-01-09 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

「吾は空なり」

この思いの実証データーはどこまでとれるのか、まさに人体実験中ですが、

今日は少し時間が押していまして、ゆっくりできません。

 

そこで、私が体験したことだけを書きますので、

みなさんでその答えを探ってみてください。

 

「幽体離脱」

「吾は空なり」の認識は、幽体離脱を、オカルト的な発想ではなく、理解できるし、意識的に自分の中でつくり出せるという思いです。

 

後日、旅の仲間とスケール号の窓を眺めながら、幽体離脱の観光旅行をしてみたいと思います。

 

乗船されたい方は、皆様の中にある心のチケット売り場で入場券をお買い求めくださいませ。

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吾は空なり、新たな道(未知) 5

2017-01-08 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

一日空きましたが・・・・

「吾は空なり」

この空(くう)のとらえ方は、今までの積み上げで分かって頂けたでしょうか。

分からないと言われる方には申し訳ないと謝るしかありません。

明らかにこちらの説明不足。下手な解説と伝達能力の低さに原因があるのですから。

 

伝えたい内容は、確かに私の中にあって、正しく伝われば私の至福感はあなたのものになるはずです。

お分けしたいのですが、

ことばの壁がもどかしい。

 

泣き言はここまでにして、

私の身体を造っている素粒子群

ピンク色空間は、私を造っている自己意識空間だと言いましたね。

この空間は、

私の手、私の足、頭、同体・・・・

すべての部位に広がっていて、しかも一つの空間です。

 

こう考えてもいいでしょう。最初にピンクのヒト型空間があって、そこに素粒子をほりこんだ。素粒子同志はくっつかず、ピンク空間に浮かんでいるのです。

 

するとどうですか?

まず、空間に浮かんでいる素粒子(小さな粒)を思い浮かべてみてください。

それができると、その粒が全身に広がっているイメージは簡単に描けると思います。

全身に拡がっている素粒子をあなたは今意識していますね。

その意識を、素粒子と素粒子の間に向けるのです。あなたは素粒子にぶつからないようにどこまでも進んでいけます。その進路を意識するのです。

 

それが、「空」を意識するという意味です。

ないものを意識するのではなく、

素粒子を横目で意識しながら空間を認識します。

 

さあ、ここまでが前説です。

私の体験を語りましょう。

 

こうして、私は自分の空間を隅々まで意識していきました。最初は瞑想して、やがて眼を開けてもイメージは保てます。

 

最も根本的な話をしているのですが、分かって頂けるでしょうか。

素粒子を見るか、その間にある空間を見るか。

変えたのはそれだけです。

 

空を見ると私の意識は一瞬で全身に広がります。

それこそ頭のてっぺんからつま先まで、それが私だという理解が広がります。

手も足も、そんな些末な部位を意識する必要はありません。

空を意識するだけで、それは全身にいきわたります。

当然ですね。空間は一つのものなのですから。

 

この空間の意識こそ自己意識そのものなのです。

空間とはこの意識そのものです。

この意識が、星の数の300万倍 もの素粒子を引き寄せ、私の身体を創っている力のみなもとなのですね。

この意識は人型にたわんで、宇宙空間の中に境界を創り出しているのが分かります。

手を束ねている意識は、その皮膚の外に出ていくことはありません。

空なる私の、この力の及ぶ境界をたどることで、私は自分の大きさを認識するのです。

この認識の仕方は、

肉体を見て己を認識する方法とは全く違うのです。

違いの生まれるきっかけは、もう一度言いますが、「ものを見るか、空間を見るか」の違いだけです。

私は空だと思い定めた瞬間、私はその瞬間に全身を理解します。

ものを引き寄せ身体を創っているエネルギーそのものなのです。

そのエネルギーの波動を感じ取ると、

そのイメージは全身に広がります。

それが喜びの波動だと思えば、指の先まで喜びの波動が素粒子の間で波打っているのが分かります。

私が至福と言い続けてきたものは、まさにこれなのですね。

それは空間の中にあるのです。

 

正月早々、食べ過ぎの不摂生で体調を崩しましたが、

私にとって、またとない人体実験の場となりました。

 

じくじくする胃腸。

それを空間を見る眼に切り替えると、空間のエネルギーがもつれているように思えます。スッと流れる気の道がもつれている。

それが痛みだとよく分かります。

「吾は空なり」

つまり私はこの「空」、この意識なのですから、もつれた意識の中に入っていくだけでいい。髪を梳くように、もつれた意識をほぐす。

空の眼で見た自然治癒力の姿です。

 

痛みは、意識のもつれ、エネルギーの混乱の体感だったわけですね。

そして健やかなエネルギーの波動は至福を体感するわけです。

 

今日はここまでにしましょう。

 

 

 

 

 

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