のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

心を見つめながら制作三昧

2016-09-25 | 私の絵画論

 

線を引く

大作にとりついて一週間になる

線を引く

ただそれだけを繰り返していると

心だけが見えてくる

目に入るのは

ふすま2枚分のキャンバス

鉛筆の線が、粉を落として、その粒子さえ宇宙に見える

特殊空間のなかで 

シャー芯の音だけが現実に引き留めてくれる

心は

単純なエネルギーとなって

その音の周りを遊んでいる

苦悩と喜びが

手をつないで

踊り始める

ひとつのエネルギーなのだ

その光景は微笑ましい

私は

キャンバスの音とともに

心のお遊戯をそっと眺める

息をひそめて

自由に飛び交う空なるエネルギーを見つめる

白いキャンバスが黒い鉛筆に置き換わっていく

その道程を

蝶となった心のエネルギーが

舞いながらついてくる

時が消え

私は空になる

 

体力の限界が

覚醒の渚となるまで

 

 

 

 

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馬鹿なことを続ける勧め2

2016-09-24 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

(box(1合升)による作品)


先日の記事にいただいたコメント。

もったいないので抜粋して転載させていただきました


「”ばかなこと”を続けることは、可能性を探し続けるということでしょうか・・・。
だとすれば、どんなにつまらないことでもそこに意味があり、あらゆる可能性を秘めているということになりますね。」(からくさん)


馬鳴き鹿鳴き一瞬無限大馬鹿道まっしぐら
乱舞素粒子流星群と共に
馬鹿を極めま^す^!」(真鹿子さん)


「 自分にとって何でも無い事、苦労にならないことが…それができない人には、決して越えられない偉人に見える。」(人生の素人さん)

 

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こんなコメントを頂くと、勇気を頂きますし、ひとりではないという、大きなつながりを感じて胸が熱くなります。まずは御礼申し上げます。

そして教訓を頂きました。

人には無限の可能性がある。からくさんの言葉に、私は自分の原点に光をあてられたような風景を見ました。そこには中学時代の師のことばがありました。

「一生可能性の追求を忘れるな。」

長じて、それは絵画の方向に向かいましたが、試行錯誤の中で、どんなばからしい、些細なことの中にも可能性が潜んでいることに気付きました。

馬鹿なことから可能性を見つけるのは、自分に疑いを持たず受け入れることできたときに起こりました。

自分に疑いを持たず受け入れて生きていく。

その姿勢は真鹿子さんの言葉の中にありました。

自分の理解できる言葉で、たとえそれが誰にもわからない宇宙語であっても自分の真心から理解できる世界で馬鹿を貫く。自分の正しいと思うことを生きる覚悟。私にはそう伝わりました。

なんてすばらしい表明ではありませんか。

しかし、そこに至るまでに、私は半世紀近く、苦悩を味わいました。

その構図を人生の素人さんの言葉が、寸分たがわない形で表してくれました。

自分が出来ることより、出来ないことに心を痛め、

啄木の歌のように、人がみな、我より偉く見える日々が、どれだけ自分を傷つけてきたか。

そのことを心から理解できたのは、

自分の出来る馬鹿と巡り合ってからでした。

馬鹿というのは、ひと様からどう見られようが、自分の心の中で、けっして自分に嘘をついていない心情を大切にして生きていくことだと知ったのです。

人は出来ることをやればいい。

どんな些細なことでも、それは、大げさに言えば神から与えられた能力。

その可能性を追求して一生を終える人生ほど崇高なものはないのです。

「人のやらないことをしなさい」

これはこれまでの私の人生で出会った、最後の師から頂いたことば、

具体美術協会の根本理念です。

それも馬鹿とつながります。

人がみな、我より偉く見える日々には、人の真似をして生きようとする生き方が見えますが、神が私に与えたものは、けっしてそんな意味のない生き方をするためではない。

つまり、誰もやっていないことをやるように定められているのです。

だから神は、そこに最大の褒美を用意している。

己に嘘をつかない生き方をして行き着く場所に、その褒美があるのです。

己に嘘をつかないで、聞こえてくる心の声にしたがって生きていく。

そんな思いを頂きました。

皆様、本当にありがとうございました。

心より御礼申し上げます。

 

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ばかなことを続ける薦め

2016-09-22 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

毎朝歩いて浜まで行き、草引きをして帰ってくる。

たったこれだけのことだが、

5年目に入ってくると、いつの間にか生活の中心になってくる。

これだけは確信を持って言える

自分と出会える、もっとも有効な方法だと。

歩くだけでいい。

ゴミ拾いだけでいい。

写筆でも、折り紙でも、詩でも、空想でも。

ひとつのことをやり続けなくても、その日思いついたことをひとつやるというのでもいい。

単純で、どうっていうこともないことの積み重ね。

誰に命令されるのではない

自然に自分の中から生まれてくる思いを形に現わす。

趣味と呼ばれる一切のもの

癖でもいい。それを意識して、自分の宝物にするのだ。

 

(こんなもの、一文の足しにもならない、ばからしい、恥ずかしい、めんどくさい、)

まずこんな言葉の試練がやってくる

必ずだ。

本当の自分と出会う旅をはじめると、真っ先に超える試練はそれだ。

やることはただ一つ、その試練を越えることだ。

そしていつか、越える試練の意味がわかる時が来る。

必ず来る。

そしてそその時、その癖(趣味)が自分を測る指針となっていることに気付く。

それは、自分と出会ったときに起こる。

必ず起こる。

年齢は関係ない。

80歳からでも始められる。

自分探しに年はない。

 

出来ないことは見なくていい

自分のできる

どんな些細なことでも

続けるとそこに可能性が広がる。

きっとだ。

 

自分を見つけるということは

日常にまみれた泥の中から

きらりとひかる砂金を手にすることと同じくらい貴重なこと

 

自分と出会うという事は

100年の恋を成就させること。

 

今から始めませんか。

 

はじめるということは

心に杭を打ち込むこと

 

続けるということは

根を張る意志のこと。

 

続くということは

そこに自分と出会う道があるということ。

 

その先にある至福は

神からの贈り物だ。

 

どうでもいい、ばかなことを、

誰がなんといっても、続けてみません^か^

 

 

 

 

 

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心の旅 スズランの舟

2016-09-20 | 心の旅

(心の旅  キャンバスに鉛筆 F 8号)

 

こころが染渡るスズランの舟

遠く離れたあなたのもとに

どうしても

行きたいのだけれど

私にあるのは

この小さな 白い花ばかり

 

こころが解けいるような緑の河

遠く離れたあなたのもとに

どうしても

届けたいのだけれど

私にあるのは

この小さな 淡い夢ばかり

 

こころが砕けるような岩肌の壁

遠く離れたあなたのもとに

どうしても

伝えたいのだけれど

私にあるのは

このはかない 声音ばかり

 

ああ

あなたよ

それでも私は

あなたの島を横目に映しながら

毎日毎日を歩むしかないのだ

しおれそうな

スズランの鉢に

胸潤ませて

水をやる

 

あなたは

笑っているに違いない

しおれるだけで

遠ざかりゆく私の心を

カラマツのように

笑っているに違いない

 

だがあなたよ

その笑い声が

私を導くのだ

その吐息が

私を動かすのだ

その気配が

私の生きる糧となる

 

やがて

しおれたスズランが

白い花を落とし

水面に揺れるとき

 

私はスズランの船頭となって

ゆりかごのように

波を渡る

 

そしてわたしは気付くだろう

揺れるあなたの胸の中に抱かれながら

この波が

私の生まれる前から

一刻でさえ

離れることなく

私を抱き守り続けてきたことを

 

私は

偉大なる赤子となって

あなたの胸に

顔をうずめる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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吾は空なり

2016-09-19 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

(ルビンの壺)

 

「吾は空なり 」

この達観は、私たちの認識の仕組みからも導かれる。

 

認識とは、認識する対象を背景の中に浮かび上がらせる能力のことです。

あるものを認識するということは、その周りのものを背景として無化するわけです。

花を見ると、その周りのものは背景となって、私には単なる空間のように思えるわけですね。

空間のように思われるというのは、花を認識している私にとって、まわりは意識していても問題外であって、無に等しいという訳です。

例を造ってみました。

この図から何が認識されるでしょうか。

緑の面は、黒い線の背景になっていますね。この時私たちはこの不連続の線を認識しているわけですね。

では次はどうでしょう。

背景と思っていた緑が、片方オレンジに。

すると認識は二つの色面に向かいます。(なんだろう?)右か左か、どちらが背景なのかわかりません。認識は左右に揺れ動きますが、中央の線は認識から外れますね。背景がどちらであれ、この線は対象と背景の境界線となってしまったのです。

ではこれは?

オレンジの面にもう一本線が入りました。とたんに認識は、オレンジの面に向かいます。緑は背景となって、それ以上認識の触手をむけませんね。(岩がひび割れている?)

認識は単純なものより複雑なものの方に流れていって、9割の人は緑を無視するわけです。

ではもう一つ。

右端も緑にすると、認識はさらにはっきりと、緑を背景にして中央に走る道を認めます。

この認識がたどってきた道のりを考えてみてください。認識は真実を求めているのではなく、まとまりを求めているのです、頭の中に描き出せる塊を求め続けています。

ルビンの壺をご覧ください。

ものは動き、複雑で、塊として観ることが出来る。認識の格好の対象となるわけですね。

我々人間が、この認識の働きによって、この肉体に注目して、そのまわりの空間を無視しているのは、まさにこの認識が働いている証しと言えるでしょう。

しかし、ひとつの理解が、認識を変えます。

理解をを変えれば、空間に認識が向かうのです。するとそこに、今まで見たことのない世界が見えてきます。光が去った夜空のように、満天の星が意識の中に戻ってきて、空間を認識する人格が生まれるわけです。

私たちが「在る」と思っている世界は、すべて認識による世界だと理解すれば、この認識の転換は画期的な成長となるわけです。

昨日ある禅僧様と話をする機会がありました。

その方の話しで心に残った言葉があります。

座禅を組んで、座っていると、突然世界がひっくり返るようなイメージがやってくる。するとつぎにやってくるのが、黄金の光。座りながらしばらくその黄金の光に包まれている。という体験談でした。

「ひっくり返るというのは、まわりがさかさまに見えるのですか?」

「そうではなく、もっと内側から」

「では袋を裏返すような」

「そんな感じですな」

私にはそんな経験はありませんが、私の直観が肌を熱くさせました。

袋を裏返すような感覚。それは認識が裏返る。物に対する認識が空間に切り変わった瞬間ではないのか。

「吾は空なり」

私の立っている場所は、まだ知識の段階ですが、その空に遊ぶことは、新しい絵画の上でできそうな気配があります。

 

 

 

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五次元の考え方(4)

2016-09-18 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

(生まれるとき  キャンバスに鉛筆 s 0号)

ここに描かれた世界は、地球なのか素粒子の上なのか。誰にもわからないし、分かる必要もない

 

 

「のしてんてん系宇宙」より抜粋

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        4、極大の世界

 

  私達(ヒト)が住んでいるこの場から、今度は極大に向かって、「私」を出発させてみよう。そこに現れてくる世界は一体どんな姿を私達に見せてくれるだろうか。

  「私」が大きくなって地球と同じスケールになると、地球は青いボールのように見える。

  その「私」がさらに拡大すると、太陽系の全体が、あたかも原子の構造を暗示するような動きをしているのが見え、やがてその太陽系は、たくさんの星の群れの中に紛れ、その星の群れそのものがレンズのような形をした銀河系として統合されて行く。

  銀河系はゆったりと運動して、一個の細胞のような固体に見えるだろう。

  黒い点の集まりが、実は人間の姿であったという新聞写真の例を持ち出すまでもなく、拡大した「私」にとっては、銀河系はもはや一個の細胞としか見えないのだ。

  止まる事なく拡大を続ける「私」の目に映るその細胞はやがて他の無数の細胞と結合して溶け込み、一つの組織を形成して行く。いつしか「私」は、その組織を大地のように踏み締めているだろう。「私」が立っている大地のような組織は、普段の人間の目からは、まさに大宇宙としか映らない最大の宇宙空間なのである。

  「私」はさらに拡大する。組織は切れ目なく続いてより物質的になり、さらに大きくなるにつれて、組織のきめは細かく見えるようになる。そして一つの個体としての姿を現し始める。

  テレビに映し出された荒野のような風景が、カメラを引くと人肌に見え、やがてそれは人であったと分かるように、「私」の前に、やがて一個の個体が立ち現れてくる。その個体は、一つの生態系をもって存在している。すなわち、生物的個体であると考えたい。

  私達が見上げて様々な思いを巡らす天空は、実は一個の巨大な生物の体内であったのだ。

  この巨大な一個の生物的個体を、私は「神人(かみひと)」と呼ぶことにしたい。

  ここで私は、第二の仮説を立てよう。

  すなわち、一つの銀河は一つの細胞的な存在であり、その銀河の集合体が組織・器官を構成し、その結合が巨大な生物的個体をつくる。簡単に言えば、地球を一素粒子として身体を構成する巨大な生物体が存在する。これが神人である。

  
第二の仮説    地球を一素粒子として身体を構成する  神人が存在する。

                         

  神人の場から見上げる空には、また、天体の運行している宇宙が果てしなく広がっている。

  「私」の足元には大地があり山河は青く広がっているだろう。そしてその光景の中に神人の姿が観察されるだろう。

  そこから更に「私」は拡大を続ける。

  神人の立っている大地がその全貌を見せ始め、それに伴って神人は大地の光景に溶け込み、やがて大地は一個の天体(地球)となって「私」の前に現れるだろう。この時、神人はすでにこの天体に付着する細菌のような存在となっている。

  神人の存在する天体(地球)はやがて銀河の中に姿を消し、更にその銀河は他の無数の銀河と共に組織体を造り、「私」がより拡大を続ければ、そこに再び第二の神人が姿を現すだろう。この第二の神人が天体に同化し、やがてまた第三の神人が現れ、こうして次々と神人は「私」に現前する。 

 
このように、のしてんてん系宇宙は際限無く続いて行くのである。

  その構造は、前段で見たように螺旋を描いてつながっている。

(6図) 

 

  私達のいるスケールの場を出発して極大に向かって行く、のしてんてん系の連鎖は、6図でも明らかなように次のようなつながりを示す。   

       

  すなわち、私達の場→地球の場→銀河の場→大宇宙の場→神人の場→地球の場→・・→第二の神人の場→・・

  このように限りなく拡大を続け、それぞれの場を一巡りして神人の場に行き着き、更に一巡して、第二の神人に至る。こうして次々と神人は現れて来る螺旋構造をもつのである。

  私達の住む世界を特に、「ヒトの場」と言う事にすると、のしてんてん系宇宙はヒトの場から極小の方向に螺旋を描きながら連続して行く。そこには素人が幾重にも存在している。

  また一方では、極大に向かうスケールの場が螺旋を形づくっている。そしてそこには神人が存在する。

  結局全体を見れば、のしてんてん系宇宙はヒトの場を中心にして、

極大と極小の双方に限りなく続く螺旋構造をしているという事ができるだろう。


                      5、二つの仮説

 

  私達は、自在にスケールを変えることの出来る「私」を観察者として、のしてんてん系宇宙を眺めて来た。

  そしてその際に、二つの仮説を立てた。

  その一つは素人の存在であり、今一つは神人の存在である。

  繰り返して言えば、素人は私達の身体をつくっている最小単位である素粒子の上に生存しているのであった。当然、この素人の身体を構成している最小単位の(素粒子)の上にも第二の素人が存在するのである。

  また神人は、私達が生きているこの地球を、最小単位として自らの身体を構成している巨大な生き物である。神人からさらにスケールを大きくした第二、第三の神人の存在は言うまでもないことであろう。

  この二つの仮説はのしてんてん系宇宙の無限螺旋に対して、重要な意味を与えることになるだろう。なぜなら、のしてんてん系宇宙についての私達の考察は、物の存在についてよりも、心の存在についての論に重きをおくものであるからである。

  この二つの仮説から引き起こされる人間としての存在のイメージは次のように描き出すことが出来る。

  私達の意識がつくり上げている現在の場には、地球という大地がある。この地上に私達人間は何十億もの人口を有している。

  この無数の人間たちの一人一人の中にはまた、何十億もの素人が生存しているのである。そのまた素人の中にも、何十億もの第二の素人が世界をつくって、それぞれの生活をもっているのである。

  のしてんてん系宇宙は、私達の中で際限無く「0」に近づき、素人達の世界が何層にも続いて行くのである。

  その一方で、私達の存在する地球を自らの体の一部分に取り込んで存在する神人がいる。

  その神人はまた、何十億もの数をもって世界をつくり上げているのである。さらに、これら神人の世界を一つにして、第二の神人が存在し、限りなく「1」に近づきながら、さらに大きな神人の存在する世界が紙面を積み重ねるように層を成してのしてんてん系宇宙を形成しているのである。

  神人の中に人間がおり、人間の中に素人が生きている。このイメージは、これからの私達の、のしてんてん系宇宙論にとって、重要な役割を果たすことになるであろう。


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このスケールの軸が第五番目の次元ということになります。

3次元+時間+スケール=五次元という訳です。

このうち、3次元は私たちに空間と物質の存在する場所をイメージさせてくれる概念であり、一言で言えば物と存在の次元ということが出来ます。

それに対して、時間は変化をイメージさせてくれる次元であり、スケールは実在の大きさを意識させてくれる次元と言えます。この二つの次元は、3次元に対して、心の次元と呼ぶことも出来ると思います。

スケールの次元は、記述の通り、無限に小さくなる世界と、無限に大きくなる世界を、現わしていますが、これに対応する理念を数学の上で探してみますと。無限分割という言葉が当てはまります。

ゼノンの逆説は有名ですが、たとえばアキレスと亀。

「亀は決してアキレスに追い着かれない。なぜなら、アキレスは、亀に追いつく前に、亀が逃げ始めた地点に着かなければならい。その時亀はいくらかでも先に進んでいるから、アキレスはその場所まで行かねばならな。しかしその間に亀は先に進んでいるから、亀はは永遠にアキレス追いつかれないという議論です。

現実にはアキレスは簡単に亀に追いついてしまうでしょうから、これは時間を無視した議論ということになりますが、まさにここにスケールの軸の存在が言い表されています。

時間軸とスケール軸の座標を思い浮かべてみれば、この逆説は座標の原点を通って伸びていくスケールの軸を言い表したものだったと分かるのです。

スケールの軸に沿った数学は、(1+1=2、1-1=0)ではなく、(1+1=1、1ー1=1)という数式が成り立つ世界ではないかと思われます。


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五次元の考え方(3)

2016-09-17 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

(心の光 キャンバスに鉛筆 S 0号)

 

 

「のしてんてん系宇宙」より抜粋 

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  3、極小の世界

 

  [私」が縮小してアリになると、アリそのものは大きな犬のように見えるだろう。 

  「私」の足元に広がる大地は巨大な岩が ゴロゴロ転がっている荒野に見え、その荒野の上に立っている人間は、雲をつく高さに見えるだろう。

  その代わり、人間には目をこらしても見えないような砂粒が、「私」にはこぶし程の大きさをした石ころに見えるのである。

  「私」のスケールを更に小さくしてみよう。

  「私」が細菌と同じスケールになると、「私」はもはや人間の姿を認めることは出来ない。

  その代わりに、人体の組織が大地のように足元に広がり、細胞が整然と並んだ水田のような風景として眼前に現れるだろう。その水田の上を、様々な形態をした細菌や抗体がうごめいている。

  その「私」が、更に原子のスケールにまで縮小すると、組織や細胞などもその視界からは完全に姿を消し、「私」は原子の中に埋まるような形で、自身の姿を見ることになるだろう。原子は広い空間の中で、寄り添ったり離れたりしながら、疎密を繰り返して世界を構成しているのだ。

  「私」が素粒子のスケールになると、「私」はもはや、素粒子が天体のように運動する宇宙空間に浮かんでいるばかりである。

 あたかも、太陽の回りを惑星が公転運動を繰り返すように、電子と名付けられた素粒子が、原子核を中心に回転運動を、繰り返しているのだ。

 さて、私達はここから更に「私」のスケールを縮めて行くことにしよう。

  素粒子のスケールから離れて「私」が更に小さくなると、「私」は素粒子のうえに立っている一個の生物として存在することになるだろう。

  「私」の足元には素粒子の大地が広がり、あたかも地球上の光景のような山河の世界が「私」を包んでいる。その頭上には果てしない大空が広がっているだろう。

  私達にとっては、人間の極微な一部分と言う認識でしかない素粒子も、「私」=観察者にとっては、地球と同じ天体に外ならないのである。そしてその大地には、「私」と同じような生物が群れをなして生存しているかもしれない。

  私達の地球が、この広大な宇宙の中で微妙なバランスを保つことによって、生命を存在させているように、人間の内部の果てしなく広がる素粒子の大宇宙においても、生命の存在すべき諸条件を満たした星が必ず見つかるだろう

  私は、この素粒子を母なる地球として生存している生物を、「素人(もとひと)」と呼びたい。

  素人なる生命体がいかなる形態をし、どのような生態を持っているのか、それは分からないし、またこの論の目的ではない。

  ここではただ、私達と同じような生物的固体が存在するという事のみが必要であり、また重要なのである。

  そこで私は、素粒子を地球に見立てたとき、その地上には人間と同じ形態を持つ素人が存在するという第一の仮説を立てることにする。

 

   第一の仮説    素粒子の上には素人が生存する。

 

 さて、「私」は更に縮小を続ける事ができる。

  すると、もはや素人でさえその姿を認めることができず、「私」の足元には素人の肌の組織が大地のように見えてくるであろう。

  こうして「私」が縮小を続けて行けば、やがて組織を構成する細胞が目の当たりになり、やがて細胞を形成している高分子の群れがあたかも銀河のように見え始め、その一部に太陽系のような原子が現れ、更にその中の一つである素粒子が地球のように拡大されて行くのを、「私」はつぶさに観察することが出来るのである。

  そして「私」はまたしてもそこに、第二の素人の存在を確認するであろう。                       

  「私」はこうして限りなく縮小を続ける事が出来る。その度に「私」の視野に現れてくる光景は、組織→細胞→素粒子 と変化して、第三の素人、に至る。

  同じ周期を繰り返しながら素人は、際限なく縮小する「私」の目の前に立ち現れてくるのである。

  結局、この極小に向かう世界は限りなくスケールの場を縮めながら、私たちの場を出発して、組織の場→細胞の場→素粒子織の場→  素人の場→組織の場→・・・・・と言うように、螺旋を描きながら続けられる無限連鎖であると言うことが出来るのだ。

  5図は、この無限に続く螺旋構造を示したものであるが、このとき、螺旋の流れの方向に下がって行く垂線がN軸と言うことになる。

つまり、この螺旋こそ、のしてんてん系なのである。

  それにしても、私達が見て来た世界は、のしてんてん系宇宙のまだ半分でしかない。

  私達はさらにもう半分の、のしてんてん系宇宙を見ておかなければならないだろう。その残りの半分とはすでに明らかなように、限りなく拡大して行く世界である。

 

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スケール号の冒険の舞台となった記述です。

スケールの概念というのは、自分のからだの大きさを変えることで見えてくる世界認識を支えてくれるものです。

たとえば時間の概念は、自分が過去に行ったり未来に行ったりしたと想像したときに見えてくる世界認識をつくりだしてくれます。それとまったく同じはたらきをしているのです。

時間にしても、スケールにしても、現実は今この時だけであって、未来や過去、極大や極小という世界は、全て想像の産物です。

私たちが世界を感じ、見ているのは、時間やスケールの概念を使って観る想像力なのです。

つまり何を言いたいのかといえば、スケールの概念は、時間の概念とまったく同じ属性を持った世界を認識するための概念だということです。

素粒子の上には素人が生存すという仮説は、よくまことしやかに語られるエイリアンがいるいないというような議論とは全く違います。

遭ったことも見たこともありません。純粋に理論上の仮説です。時間の概念でいう未来人と同じ感性から生まれたことばだと理解してください。

スケールの螺旋がイメージ出来たら、それがスケールの概念です。このイメージは、時間のイメージと十文字に交わります。

時間軸とスケール軸の交差する座標を思い描くことが出来るようになるのです。

これは人類の著しい進歩となります。

時間の上を直線に動くことしかできなかった人間が、横にも動けることに気付くということですしし、さらに言えば、

時間と空間のつくる平面の世界しか知らなかった人間が、上下にも動いて行けることを知るということです。

四次元から五次元に意識改革した人類は、計り知れない幸を手に入れることが出来る。

五次元にはそんな可能性が秘められていいるのです。

 

 

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五次元の考え方(2)

2016-09-16 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

(黒い星 キャンバスに鉛筆  P0)

 

「のしてんてん系宇宙」の第一章を見直したい。

前回に続き、何回かに分けて、第一章のしてんてん系宇宙を見ていくことにしたい。

第一章は、タイトル通り、五次元の概念から見えてくる宇宙の構造を述べた部分であり、のしてんてん系宇宙のイメージを得るために設けた章です。

 

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   第二節 のしてんてん系

 

                  1、のしてんてん系の無限

 

 のしてんてん系の無限はスケール(大きさ)の中に存在する。

 一言で言えば、のしてんてん系の世界は、限りなく小さな場から限りなく大きな場まで、間断無く続いて行く無限のスケールの系なのである。

 誤解してならないのは、スケールの系と言っても、物自体が大きくなったり小さくなったりする世界ではないということである。 このスケールの系を正しく理解するためには、観察者とその対象の持つスケール的な関係を、見なければならない。

 例えば観察者が12のスケールになると、その対象は2倍の大きさに見える。更に観察者が14のスケールに縮んでしまうと、見ている対象は4倍の大きさに見えるはずである。こうして観察者が限りなく小さくなって行けば、逆に対象は限りなく大きくなって行くであろう。あるいは反対に観察者が大きなスケールとなれば、当然対象は小さく見えるようになるのである。

 このそれぞれの観察者の大きさをスケールの場と言うのであって、このようなそれぞれの大きさの連なりをスケールの系と呼ぶのである。

  のしてんてん系はまさにこのスケールの系がつくり出す世界なのである。

 また、のしてんてん系を数学の概念から言えば、「0」と「1」の間に存在する無限連鎖であるとも言う事が出来る。しかしこの事については、もう少し後で述べることにして、私達はまず、のしてんてん系について具体的な事象を見ながら考えて行くことにしよう。

 

              2、のしてんてん系の観察

 

 空に一点の黒い染みのように見えたものが、黒雲のようになり、やがてそれが鳥の大群であると分かる。

 あるいは、新聞紙面に印刷された写真、例えばそこに人物の姿が写っている。しかし、これを拡大鏡で見ると、人物の姿は認められず、単なる黒い点の集まりのように見える。

  これらの事象は、視野の大小によって、同じものでも見え方を変えるということを示している。

 先の新聞写真の例をもう一度取り上げてみよう。

 この写真を拡大鏡で大きくして見る代わりに、「私」=観察者自身が小さくなったと考えるとどう見えるだろうか。

 例えばアリと同じ大きさにになって新聞紙の上を歩き回っているとしよう。この時、縮小した「私」=観察者が目にする新聞写真はやはり、人物を認めることが出来ず、ただ単なる黒い点の集まりとしか見えないであろう。

 一方は見る対象を拡大して観察したものであり、他方は、見る者自身が縮小して対象を観察したのであるが、双方の見え方は、まったく同じであると言えよう

 顕微鏡はみる対象を拡大して観察する装置である。

普通では見ることの出来ないものを、人間の認識出来るスケールにまで拡大して、微細な世界を見るのである。

 私は学生時代の顕微鏡を覗いた新鮮な感動をいまだ覚えている。何げなく見ていた木や草の葉っぱが、びっしりと小さな細胞の部屋で埋め尽くされているのを見て、私は小さな別世界に神秘的な夢を抱いたものだった。

  電子顕微鏡はさらにその小さな細胞の中に、もっと微細な原子の世界がある事を突き止めた。その原子はまた、素粒子という小さな粒で構成されている事を、現在の科学は証明しているのである。

 このように科学は、機械の力を利用して様々な未知の世界に自らの領域を広げているのである。

 私達が行おうとしている、のしてんてん系宇宙の観察も、実はこれとよく似ている。

 しかし私達が電子顕微鏡などの機械を使う訳ではない。私達は人間に与えられた空想の力によって、そのままでは見ることの出来ない、のしてんてん系宇宙を、観察しようというのである。その方法は観察者である「私」を設定することから始まる。

  [私」=観察者は、自由に自分の大きさを変えられる空想の力を持っている。空想の中で[私」は自由に体のスケール(大きさ)を変えながら、のしてんてん系宇宙のスケールの世界を見て行くのである。

  この想像は空想には違いないが、例えばアリというスケールを持つ生物が存在していることは紛れもない事実であり、私達がそのアリを通して見える世界を想像するのは単なる絵空事ではないのである。

  そしてその想像は、決して根拠のないものではなく、顕微鏡でとらえる虚像と意味的に何ら変わるところはないと思えるのである。  いずれにしても、観察者は、自分の立っているスケールの場からでしかものを見ることが出来ないのであり、見えないものに対しては、何らかの方法で自分の立っているスケールの場と、その対象の持つスケールの場のギャップを埋めなければならないのである。

  見えないものには二つの形がある。言うまでもなく一つは小さ過ぎて見えないものであり、他の一つは大き過ぎて見えない世界である。

  この二つの世界を観察するために、私達は早速、「私」=観察者のスケールを操りながら、のしてんてん系宇宙の中に入って行くことにしよう。


---------------------------------------------------------

玉ねぎが無限に大きくなってい行くという空想は、頭の中で簡単に描き出すことが出来る。

ここでいうスケールというのはこの玉ねぎの皮の大きさのことを言っていると考えていい。

上の皮は、下の皮よりも大きい。

もし上の皮と下の皮が同じもの(相似)だとすれば、違っているのは大きさ(スケール)だけになる。

皮を無限に重ねていけば、玉ねぎは無限に大きくなり、皮を無限にむいて行けば世界は無限に小さくなる。

玉ねぎを無限にむいて行けるはずはないが、玉ねぎは理論をわかりやすくするためのたとえ。

この、「無限に玉ねぎはむけない」という考えをクリア出来たら、五次元の概念を簡単に理解できるようになるのだ。

ここで伸縮自在のスケール号が登場する。

玉ねぎをむいて行く。小さくなってこれ以上むけない。手のひらに米粒のようになった玉ねぎが乗っている。この時自分が縮んだらどうなるか。てのひらの玉ねぎがどんどん大きくなっていくのを見ることが出来るだろう。

普通サイズの玉ねぎ。またむき始める。小さくなったらまた、自分のからだを縮める。この空想は無限に繰りかえすことが出来る。

つまり私たちは無限に自分のからだを縮めて世界を観察するという想像力を持っているのだ。

これは認識論的には革命的な発想だと私は考える。

認識主体(私)の大きさは不変というイメージを覆す。変動する認識主体(私)を手に入れることになるのである。

私たちは自分の大きさを、普遍のものと思っている。しかしよく考えてみれば大きさというものは実に不確実であり、私たちは己の大きさをいかなるものをもってしても証明することはできない。しかしこれはまた別の機会に書きましょう。

私たちが住む世界(四次元空間)を平面として考えると、この一枚の玉ねぎの皮が今私たちが認識しているこの世界ということになる。

一枚の皮が、今私たちが認識している世界。認識主体(私)を基準にして見ている世界なのである。

下の皮は、小さなスケールの(私)が見ている世界。そして無限に小さな世界は存在する。

上の皮は、大きなスケールの(私)が見ている世界。そして無限に大きな世界は存在する。

そして一番重要なことは、

これらはひとつの玉ねぎだということ。

スケール軸が見せてくれる無限の世界は、同時に存在する一つの宇宙なのだということなのだ。

 

 


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五次元の考え方

2016-09-15 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

   (のしてんてん宇宙  キャンバスに鉛筆 サイズSM)

のしてんてん系宇宙(五次元)を再考してみる。

ヌーソロジーに触れて、どこまで理解できるのかわからないのですが、少なくとも、自分の中から生まれてきた世界観がどこまで今の自分を造ってきたのか知りたくなったのです。それがなければ、新たな空間科学に接する資格はない。真っ先にそう思わされました。

 

以下は、「のしてんてん系宇宙」の冒頭ページからの引用です。

----------------------------------------------------

          

1    

   時間は遠い過去から未来に向かって続いていく切れ目のない流れであり、空間は間断なく私達の存在の場を満たしている。

  ある時間のある場所に、「がいるその前にテーブルがあってそのすぐ隣にがいる。「は椅子に腰を下ろし親しげに会話を交わしている テーブルにはコーヒーカップが並んでいるだろう

  
次の日にはは電車の中で居眠りをし 同じ時間には飛行機の中にいる

  このことを図に示すと、下の図のようになる   

    

 この図を仮に時空平面と呼ぼう。  この場合、場所を表す軸は、空間を直線上に対応させていると考えればいいだろう    

 このように 私達の居場所は 時間と空間によって正確に示すことができる                             

 このことは 私達が同時に二か所以上の場所には存在できないということからも明らかである

  また 逆に一つの時間と場所には ただ一つのものが存在するのであるから この地上のすべてのものは時間と場所(空間)とによって存在の位置を表すことができるのである

  場所とは 平面だけでなく 立体的な三次元の広がりを持つ空間の中にあるのである この空間は私達の住む地球だけに止まらず 地球を含む宇宙からさらに遠く無限の広がりを持っている

  時間は 現在を中心にして 過去と未来が無限に連なっている あたかも過去から未来に向かって 現在という列車が進行しているようなものである しかも過去には始まりがなく未来にも終わりのない時間という無限のレールの上を現在という列車は止まる事なく走り続けていると言っていいだろう

  この無限の空間と 無限の時間連鎖によって 大宇宙のすべての物の存在を示すことが出来ると考えられ その意味で時間と空間は世界の総体を指し示す器であると言うことが出来るのである

  私達はこのことを時空と呼び習わしている

  この自然界の中で 時空は確かに万物の存在する世界であるように思われる 事実 科学は著しい早さで時空に対する認識を広めつつあるように思われるのである

  人間は今 100 億光年のかなたにある銀河さえ観測する事が出来るという このことは 100億年という空間の広がりのみならず100億年の過去を私達は見ていると言うことでもある

  こうして人間は 時空という無限の広がりを少しずつ解き明かそうとしている 人間の作った機械が宇宙空間を飛び交い 人間自身さえもすでに地球を飛び出して 自らの眼で地球全体の姿を見 宇宙を新たな角度から眺め始めたのである

  科学の眼は 時空の広がりと 時空が存在する仕組みに向けられている やがて人間は宇宙を自らの生活の空間として取り入れて行くことが出来るかもしれない

  私達はこのように科学が発達する中で 時空こそが宇宙の総体を示す世界であると考えて来た そして科学は世界を解き明かす唯一の方法であると言うことを疑う者はまずいないといっていいだろう

  しかし私は 実のところ科学の対象とするこの時空が 全宇宙のわずかな一部分に過ぎないと言うことを主張したいのである

  以下 私はこの時空を含む所の さらに大きな宇宙について考えを進めてみたい

  まずこの宇宙を のしてんてん系宇宙と名付ける事から始めよう

 

                    2  もう一つの無限

 

  時空の世界は二つの無限の系である時間と空間で表すことが出来る これは前段で示したように 時空平面として理解することが出来るという事でもある

  そうすると 仮に時間の系をX軸で表し 空間の系をY軸で示せば このX軸とY軸による座標面が時空の世界ということになるだろう

  この時空の世界を自らの一部分として保有する大きな世界があるとするなら このX軸とY軸の座標面に対して 第三の軸(N軸)の存在を示さなければならない  

結論から先に言えば この時空平面はX軸とY軸が時空という無限の系であるのと同じように 一つの無限系である      

  この無限系を私はのしてんてん系と名付けたのである                     

  のしてんてん系宇宙とは、このN軸である「のしてんてん系」を柱とする宇宙であり、これは3図で示したように時空平面が何層にも積み重ねられた宇宙である。

 

この新たなもう一つの無限の系を得ることによって、私達はまさに世界の全体像を明らかに出来るばかりではなく、そこから新たな一つの人間観と重要な価値観を見いだすのである。 

 いずれにしても、時間の系と空間の系、及びのしてんてん系の、三つの無限系が提示する世界=宇宙は、人間が想像し得る最大の宇宙空間であることに間違いはあるまい。

  では、第三の無限の系として存在するという、のしてんてん系とは一体いかなるものであるのか、次にそのことを述べて行きたいと思う。

 


-------------------------------------------------------

のしてんてん系宇宙の概念が生まれたのはここからだった。

私の理学的な素養は高校止まり。(大学は法学部で、必修の日本国憲法を落第するという大学始まって以来の珍事と言われたエピソード付)

つまりこの頭が簡単に思い浮かべられる宇宙観が必要だった。

この頭が想像できる宇宙のイメージは、三次元。縦横斜めに、無限に広がっていく空間だ。ものが存在する空間のイメージは三次元の概念で頭に思い浮かべることが出来る。

その空間が、時間の流れと共に存在する。

この時間の概念を、図で表す科学的知識はないが、昨日の空間今の空間、そして未来の空間が、時間軸に沿って続いて行く様を空想することは出来る。

四次元は、三次元を時間軸に沿って動かすという思考操作が簡単に出来る。そして何より、私の意識の中に、四次元は常識となって存在していることに気付かされる。

ところがある日、夢の中でもっと広く大きな空間の世界を見た。リアルな夢で、私はそれを忘れないうちに書きとめた。

それが五次元のスケールの軸だったのだ。

イメージでは、四次元より大きな世界が見えている。しかし私のこの頭が理解出来るのは3次元の立体空間だ、それ以上の、空間を思い浮かべる力はない。

そこで私は自分を見た。いつであれ、どこであれ、この瞬間に私はいる。私のいる所を「場所」と考えたのだ。

実際であれ、空想であれ、私は三次元の空間のどこにでも場所を持つことが出来る。空想なら、私は無限に広がる空間のどこにでも飛んで行ける。

すると私の行ける無限にある場所を、一本の直線の上に並べたらいい。

つまり、三次元の空間は、一本の線の上にくまなく置き換えることができる。三次元空間を一本の線で表現できるのだ。そうおもいついた。

すると四次元は、三次元空間の線と、時間の線の交わる平面として、この頭が理解できるようになったのだ。

すると夢に現れた空間は、この四次元の平面が、何枚も重なっていると思い描くことで表現されることが分かった。私の中に広がった空間のイメージが、頭で描くこの五次元の構図でくまなく表現できる。イメージと頭脳がそこで折り合いをつけたのだった。

この四次元空間が積み重なっている図は、実は玉ねぎ皮と同じで、上に行くほど大きな球となっており、下に行くほど小さくなる。この形が五次元宇宙の形で、私の頭でもそれを容易に思い描くことが出来る。

この一枚一枚の四次元平面でできた皮は、みな相似形をしている。五次元宇宙のイメージはここから始まったのだ。

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ガットネロ、小品展その後

2016-09-14 | 展覧会

(大輪の菊  S0号)

 

偶然と必然を蒸し返すわけではありませんが、ひとつの美しい偶然が必然に変わったお話をしたいと思います。

9月3日、4日の二日間、ガットネロでの小品展。

一日目は、テーブルが足らないほどのにぎわいで終えました。ありがたいことです。

そして二日目、9月4日の早朝、恒例の草引きに精を出し、朝日が昇り始めたときでした。真向かいに関空が南北に横たわり、私は東に背を向けてかがんでいた腰を伸ばしました。

何かがしみこんでくるように風景が白っぽく感じられ、関空の南端から海が奥へおぼろとなり、和歌山方面の山影がぼんやり見えておりました。

まわりには散歩する人影もなく、なんとなくいつもと違う雰囲気を肌に感じたのです。

そこに朝日が私の背中からやってきました。

そして見事な虹が西の空いっぱいに描かれたのです。しかも二重のアーチ。

関空の南端から内陸に向って大きなアーチが描かれ、その半円の架け橋が海面に投影されて円となっているのです。

顔を出したばかりの陽光が、私の影をその巨大な円の虹の中心に向かって引き伸ばして行きました。

それは数分のドラマでした。

観客は私一人。贅沢な舞台装置に息をのんで立ち尽くしておりました。

いいことが起こるに違いない。

個展二日目にして最終日の朝のことです。

予感を胸に、扉を開いたガットネロのカウンター。誰も来ません。

前日のにぎわいが嘘のように、閑古鳥の鳴く喫茶室。

そこに一人の男性がやって来てくれました。

彼は東方(奈良)から、五次元に興味を持ってやって来てくれた若者でした。

当ブログの記事を読んでくれていて、他に客のいないテーブルで、私たちは話し合いました。

朝の虹の話をして、きっとそれはこの対話の前触れだったと伝えると、

若者は笑顔でありがとうございますと言ってくれた。

そして彼は、的確に私の核心の絵を選んでくれたし、私本「のしてんてん系宇宙」を手にしてくれました。

 

それからわずか週間ですが、私は彼からたくさんの学びを得ることになったのです。

私たちは毎日通信をはじめ、彼の知識の広さに驚くばかりでした。

そして、私が待ち望んでいた空間の研究への橋渡しをしてくれたのです。

感性からの提言である五次元が、科学と触れる機会を与えてくれたわけです。

 

ヌーソロジーという空間を科学する研究が始まっていたのです。しかも日本人が提唱している、生まれたばかりの科学。

私はまだ、その門を見ただけですし、五次元と交わるところがあるのかどうかも分かりませんが、少なくとも空間に注目する科学があると分かったことが喜ばしいのです。

それを届けてくれた若者に感謝するばかりです。

 

朝の虹体験

会場の閑古鳥

五次元に興味を持った若者

この偶然が必然になったとき、空間の科学に繋がったのです。今日はFの友達申請にOKを頂いた日になりました。

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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禅問答

2016-09-13 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

(のしてんてん系宇宙 より スケールの軸の概念図)

 ----------------------------------------------------

 

問う、いのちとは何か

動くということ

 

動くとはどういうことか

移動することだ。

 

移動するとはどういうことか

ここから別のところに動くということだ

 

ここから別のところに動くとはどういうことか

その間に空間があるということだ

 

空間がなければどうなるのか

動けない

 

ならば空間とは何か

いのちだ

 

いのちとは何か

空間だ

 

答が違うな、いのちとは動くことと言ったではないか

違わない

 

だが空間は動かないぞ・・・・

ものを動かすのだ

 

ではいのちはものではないのか

ものは動かない

 

だが、ものがなければ動きもない。空間だけで何が出来るのだ

ものをつくる

 

何、空間がものをつくるというのか

ものは空間のかたまりだ

 

空間のかたまりは空間ではないのか

そうだ

 

今空間がものをつくると言ったではないか

空間の力が固まってものになる

 

空間が固まるとはどういうことか

強いエネルギーで固まるということだ

 

ものには形があるが、空間にはなかろう

形は強い力と弱い力の境界線なのだ。それがものに見えるだけなのだ

 

形はまぼろしというのか

エネルギーの境界線だ。まぼろしではない

 

形あるものはすべて、境界線というのか

そうだ。

 

しかしその証拠はあるのか

ものには必ず内側と外側がある。それが証拠だ

 

確かに内側と外側のないものはない。しかしその意味するのは何か

内側の力は強く、外側は弱い。形はその境界線に出来る

 

強い力がものになり、弱い力が空間になるということか

その通りだ

 

ならば問う、空間とは何か

全てだ

 

それは孤独ということか

無だ

 

寂しくはないのか

無だ

 

だが寂しい。なぜ寂しいのか

いのちをものと思うからだ

 

空と思うことはできるのか

出来る

 

それなら方法があるはずだ

方法はない

 

方法がなければ探しようがない。絵に描いた餅ということか

探さなければいいのだ

 

もはや動きが取れぬ。質問が見当たらぬぞ

それが答えだ

 

質問がなくなった。それが答えというのか

そうだ

 

だが、なぜなのだ。その核心がわからぬ

質問は外に向かう。だが答えは内にしかない。分かるか

 

外に向かう意識が尽きたら、内に向うしかないということか

さすれば受け入れが始まる

 

この内側を無条件に受け入れよというのか

然り

 

内側には何があるのか

外側がある

 

その外側にも内側があるというのだな

それが無限に続くのだ

 

虫の声が聞こえてきた。

禅問答は果てしなく続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この身体を知る

2016-09-12 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

(五次元の人再び)

素粒子地球には、もとひとがいる。この空想は、先のスケール号の冒険を楽しんで頂いた方にはなじみだと思います。このもとひとの目には、私は、どんなふうに見えているのだろう。具体的な答えを考えてみた。

そのためには、私の棲む世界と、もとひとの棲む世界の大きさの比率を知らなければならない。これは地球と原子の大きさの比較でおおよその比率がわかるということで「のしてんてん系宇宙」に書いた部分を引用してみる。

----------------------------------------------------------

地 球 半 径 6400km

原子核の大きさ   10-13cm

 
 

 

数値は、 吉村太彦著「宇宙創成と素粒子」 岩波書店による。

 

  上の数値から、地球と原子核の比を算出してみよう。

  もっとも、原子核は素粒子が幾つか集まったものと考えられているから、単体の素粒子と言えばもっと小さいはずである。

  しかしここでは、おおよその数値を得るのが目的であるから、このまま上の表を利用することにしたい。

 

              まず、地球の大きさをPとすると、

 

          P  =  6,400km×2             (地球の直径)

              =  12,800km

              =  12,800,000m

              =  1,280,000,000cm

              =  1,000,000,000cm         (端数整理)

              =  109cm

 

              原子核の大きさをQとすると、

 

          Q  =  10-13cm

 

              原子核と地球の比をもとめると、

 

          Q:P =  10-13cm : 109cm

                 =  1 : 109×1013

                 =  1 : 1022 

 

  よって、この事から、原子核と地球のスケール比は1:1022と言うことになる。

-------------------------------------------------------

素粒子と地球を比較したらもっと大きな差が出るだろうが、そこまで細かく考えない。で、こんな計算をしてみた。

さてこの計算、正しく計算できたかどうか怪しいので、みなさんよかったら検証してみてください。

この数値が正しいとしたら、もとひとの大きさになったスケール号が光速で飛んで、私のてのひら10㎝を移動するのに、一万年かかるということになる。

てのひらは1万光年の宇宙だ。

胸回りを一周するのに100万年かかる。

私の身体は、とんでもない宇宙なのだ。

この宇宙を私は一瞬で見ている、この手、この足。見えない内臓は内観する。

 

思いは星空に向かう。

天空に広がる星。一万光年先で輝いている星が、神人のてのひらの端になる。一万年前に星から発した光が今ようやく私の目に届いている。これが神ひとのてのひらだ。

 

この風景を認識させてくれる概念がスケール軸。五次元。

時間の概念では観ることのできない世界なのだ。

 

 

 

 

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何も言わない喜び (新セリナの物語絵画編)

2016-09-10 | 新セリナの物語...

(ことばのない世界へ   サムホールキャンバスに鉛筆)

解説なしでお楽しみください

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この絵は特に、セリナを意識して描いたものではありません。いわば私の心の中で起こった偶然の絵です。

言うまでもなく、9年前セリナ第一部を書いたときも、この今を意識しようもないことでしたし、第二部を書いた作者が、それを読んだというのもいわば偶然だったと言えるでしょう。

 

話しを広げれば、無限にある宇宙の素粒子を空間が引き寄せ、この身体を造っているのも偶然なわけです。

このブログの、パソコンの画面で、毎日何人もの方々とつながっている。私には見えませんが、たぶんこれも偶然から始まったわけですね。

しかしこれをすべてひっくり返して考えれば、それは必然だったと言えますね。

偶然を必然に変えるものは何か。

それは偶然を受け入れるかどうかなのだというのは、セリナの一節でした。

つまり

偶然を受け入れたら必然になるということです。

 

その究極は己でしょう。

己を受け入れたら、我が身を包む一切のことがらが必然に変わる。

もし、寝過ごして会社に遅れたとしても、それは必然であって、それが自分のために起こったという理由がどこかにある。

それを常に見つけられる人は人生の達人と言えるかもしれません。

 

ここでお会いした皆様の、この偶然の中から、必然が垣間見えますことを心から願っております。

 

偶然を受け入れたら必然になる。

この言葉には、さらに深い意味があります。

それはつまり、

偶然=物であり、必然=空間という構図です。

 

セリナの物語がそこまで広がるのを楽しみにしております。

 

 

 

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新セリナの物語 その後

2016-09-09 | 新セリナの物語...

かわかみれい氏から、二次創作「芹里奈の影」が送られてきた時、正直私はこれをどう受け止めたらいいのかわかりませんでした。

まったく意外の出来事だった訳で、送られてきた文章を文字面を追うのが精いっぱいでした。

ところが、この最後の一節が私の胸に突き刺さってきたのです。

 

この世で一番愛しい女の名前を呼び続けられることを思い付いた、男の狡猾が許せない。」


この一文は、「セリナ」の核心をついており、私の作意とかわかみれい氏の作意の交点のように思われたのです。

それはつまり、創作という孤独の作業。互いに見ることのできない人間の心を生きながら、創作の中で交わる可能性を見せてくれているのかもしれない。

人は永遠に孤独である。

しかしその孤独を受け入れて、孤独を極めることで、人は心を交わらせることが出来るのではないかと云う思いが「新セリナの物語」企画となったわけです。

 

五次元思考は、「吾は空なり」という事実に至ります。

空とは意識であり、空間に存在するエネルギーと考えられます。己を創る意識を自己意識とすれば、自己意識は宇宙意識の中に生まれた泡のような存在であり、その意識を研ぎ澄ませていけば、私たちは己の自己意識と宇宙意識の接点で、理解し合える新たな領域を発見できるかもしれない。

事実、パソコンの普及で、著作権のない不特定多数の人達から生まれたキャラクターもあると聞きます。個人という壁が少しずつ消えていく。そんな時代がやって来ているのです。

 

この新時代を正しく見定めるためには、時間だけの概念では足らない。

空間を主人公にして考えることのできる概念が求められていると思えてなりません。

 

新セリナの物語は、二次創作という手法で、決して新しいものではありませんが、私の言いたいのは、このような試みの中から、意識をつないでゆく経験積まねばならないのではないかと思うのです。

 

意識をつなぐ。

この試みは、様々な芸術の分野で先進的に実験していくことが大事でしょうし、

そこから見えてくる風景を、想像する力を養っていきたいと思うようになりました。

 

いずれにしましても、人は、孤独を強いられた存在だと思いがちです。しかしその孤独の意識を研ぎ澄ますことで一つになる新たな道があるという確信を、「新セリナの物語」から得たと申し上げていいと思います。

 

「新セリナの物語」は第一部でプロローグが終わり、第二部でようやく物語が始まったようです。

第三部はどんな形で誰が生み出すのでしょうか。

 

それは私たち二人の自己意識を越えて、今あなたに引き継がれたのかもしれません^よ^

 

 

 

 

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新セリナの物語 (第二部)  かわかみ れい 著

2016-09-08 | 新セリナの物語...

2007年のセリナの物語(原作)に対し、2016年、女性作家が女の視点から二次創作を行ったものです。男と女の愛の形が立体的に描かれています。はじめて読まれる方は、前篇から読んでいただくことをお勧めします。)

 

新セリナの物語(第二部 芹里奈の影)   かわかみ れい著

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……芹里奈の影が、私を殺す。

 

 娘のセリナは小学生になった。通学帽をかぶり、ピンクのランドセルを背負って毎日元気に学校へ通うようになった。荷物をひとつ下ろしたような、そんな気分だ。
 息子は来年、高校を卒業する。にきびだらけの、学業よりもクラブ活動に熱心な子で、将来一体どうするつもりなのか、聞いてもはぐらかしてばかりいる。が、何はともあれ元気で健康なので、あまり心配していない。
「弘樹はサッカーで進学できないのか?」
夫はのんびり、そんな事を言う。私は苦笑まじりに答える。
「……無理でしょ。そんな実力があるなら、とっくの昔にスカウトが来てるでしょうし」

 

 夫と結婚して八年ばかり。娘のセリナが生まれて、七年。多少のごたごたはあったものの、穏やかな家庭生活を送っていると思う。

 まだ赤ん坊のように幼い息子を連れて前夫の家を出たのが、十四、五年ばかり前。
 前夫は私が離婚届を置いて出ていったのを知ると、唖然としたようだった。怒りや焦りより、不可解さの方が大きかったらしい。その点では少し……今の私は彼に同情する。出て行くその朝まで、私は彼の食事を作り、いってらっしゃいといって素知らぬ顔で見送っていたのだから。まさか妻がその静かな顔の下で、着々と離婚の準備を進めていたとは決して思わなかっただろう。
 前夫は決して、根っから悪い人間ではなかった。でも、私はもう耐えられなかったのだ。
 彼は、少し強引でお天気屋だけど行動力のある、いつも熱を発散して歩いているような感じの人だった。私は彼を、仕事以外ではどこかはっきりしない所のある自分を、ぐいぐい引っ張って行ってくれそうな気がし、頼もしく思っていた。
 結婚して間もなく、彼の強さが実は、子供の怖い物知らずと同じなのだと気が付いた。そして彼は、私を愛しているというよりも、自分にかしずくように尽くしてくれる、母親のように忠実な妻が欲しかっただけなのだ、ということも。
 それでも子供が出来るまでは私も、それはそれなりに彼の個性と思うよう務めてきた。でも……子供が生まれても彼は、やはり子供のままだった。慣れない子育てで疲れている私を、いたわる気は毛頭、無さそうだった。

 

 食事が手抜きだ。
 掃除が行き届いていない。
 身だしなみがなってない、それでも女か。
 子供を泣かせるな、うるさい。

 

 ひとつひとつは大したことではなかった。でもそれが毎日毎日……と積み重なると、大したことになってゆく。出来ていないことばかりを数え上げる夫の顔が、だんだん醜悪に見えてきた。
 ある日突然、私の中で何かが切れた。そして天啓がひらめくようにこう思ったのだ。
『子供は、息子だけで沢山だ』
 その後の行動は早かった。夫は忘れていたかもしれないが……私はこれでも、そこそこ優秀な事務員だったのだ。『総務課長の懐刀』……そんな風にも呼ばれていた。寿退社をかなり惜しまれたものだ、こう見えても。
 やり直そうと何度も彼は言ったが、うまく言いくるめて元の鞘に収まれば、そのうち私もあきらめて昔のように従順になるだろう、と高をくくっているらしいのが透けて見えた。私は頑として応じなかった。しまいに彼は、泣いたり脅したりし始めたが……私の決意が固い事を知り、あきらめた。そんな女だとは思わなかった、と、ぼやくように最後に言って、離婚届に署名をした。

 

 そんな女だとは思わなかった、って……じゃあ一体、どんな女だと思っていたのだろう?後で、そんなことを少し思った。

 

 離婚後、少しは実家に頼ったりしながら、私は働き始めた。小さな商社で経理の事務員を募集していたので応募すると、運よく採用された。決算時など以外には残業もあまりない、シングルマザーには有り難い職場だった。


 今の夫に出会ったのは、勤め始めて二、三年は経った頃……だったと思う。彼が事務所へ、有給休暇の届出用紙か出張手当ての請求用紙か、そんなものを取りに来た時だったと思う。
 その時事務所には、たまたま私しかいなかった。私は用紙を取り出し、彼へ渡した。
「ありがとう」
彼は軽くそう言い、にこっと笑った。片頬にかすかに浮かんだ儚いえくぼが、奇妙に印象に残った。

 別に何てことのない、呼吸のようになめらかなお礼の言葉だった。彼はおそらく誰にでも、気軽にお礼を言うだろうしあの笑顔を見せるだろう。そんな気がした。でも……そのさりげなさが、私の心に残った。思えば前夫は『ありがとう』なんて決して言わない人だった。してもらって当たり前、と、意識するより前から信じ込んでいる、そんな所があった。むしろ、自分の思うように相手が接してくれないとすぐへそを曲げる、わがままな幼児のような所があった。私は常に夫の顔色を観察し、彼が機嫌良くいられるよう心を砕いていた。曲がりなりにも夫に対して愛情があった頃は、それもさほどは苦にならなかったが……、子供の世話に手を取られるようになり、睡眠も十分とれない状況が続くと、赤ん坊でもない、大の男の顔色を常に見て、せっせとお世話しなくてはならないのに疲れてきた。二重三重と疲れが降り積もり……私の中で何かが切れた。そんな気がする。
 片えくぼのその人は、どういう訳かいつも、なんとなく疲れたような雰囲気があった。そつなく仕事をこなしているようだったが、出世しようとか手柄を立てようとか、一切思っていないようだった。淡い影のようにそこにいて、いつの間にかふといなくなる。いなくなったとしても消えるのではなく、まるでたそがれの中の淡い影のように、気が付いたらまた再びそこにいる。そんな感じの、とても不思議な存在感の人だった。

 それとなく、その人のことを調べ始めた。
 私は経理が担当だが、総務や人事の仕事も時には手伝うし、同僚たちから噂話を集めることも出来る。
 彼はバツイチ。恋女房に捨てられるような形で別れたのだ、とか。以来、仕事だけでなく、生きてることそのものに半ば興味をなくしたような雰囲気になったのだ……と。
「なんかさ……幽霊みたいな男だよね」
ズケズケとそんな事を言う者もいた。
(……でも。『ありがとう』も言わない男より、ずっとまし……)
心の中でそんなことを思ったりする。

 彼と親しくなるきっかけは、会社のレクリエーションだった。事務所で初めて会ってから、ずいぶん経っていた。
 当時小学三年生だった息子の弘樹を連れ、私は参加した。私は普段、こういうイベントには余り興味がない。でも今回はバーベキューもするというので、お肉の好きな息子が喜ぶだろうと参加したのだった。
 お肉もらってらっしゃい、と、私は息子を送り出した。息子は当時、いつもなんとなくおどおどしているような、遠慮しているような、そんなところがあった。あの傍若無人な夫の息子とも思えない。おそらく……、私に気性が似たのだろうが。しかし、いつまでもそれではいけないと、私は母親として感じていた。傍若無人なのは論外だが、言うべきことはきちんと言い、するべきことはきちんとし、そして自分のしたいことはためらわずに実行する、そんな人間になってほしかった。
 十歳にもならない息子が、知らない大人たちにまじって自分の食べたいものを取ってくるのは、なかなかハードルが高かろう。でもあえて、私は行かせてみた。もちろん、どうしても取れないのならフォローするつもりだったが。
 お肉から滴る脂で、時々焼き網より高く火があがる。息子は火が怖いのか、少し離れたところで身を堅くしていた。
 その時、さりげなく彼が近付いて来て、流れるようにごく自然に、焼けたお肉や野菜を取って息子へ渡してくれた。嬉しそうに笑ってそれを受け取り、息子が私の方へ駆けてくる。私の方も小走りでそちらへ近付いた。
「……すみません、ありがとうございます」
彼は私を認めると、かすかに笑んで
「……ああ。事務所の……」
と言った。顔は知っているけれど名前は知らない、事務員の人。そんな風に思っているらしい顔だった。
 そのままなんとなく一緒に、私たちは食事をした。息子には珍しく、物怖じせずに彼へ話しかけていた。親切にしてもらったのが嬉しかったのだろうし……子供にはうとましい、男の人にありがちな威圧感……みたいなものが、彼には稀薄だったからかもしれない。
「……ばいばーい」
弘樹はまるで親戚のおじさんに対するような気安さで彼へ手を振り、その日は別れた。
 それからしばらく後のある日、息子が遠慮がちながら、遊園地へ行きたいな、と言い出した。学校の友達が、家族で遊園地へ行ってジェットコースターに乗った、という話を聞き、うらやましくなったらしい。だけど私は正直、絶叫マシンは苦手だ。少し考え……彼に、息子の『一日お父さん』になってやってほしい、と依頼することを思い付いた。
 ジェットコースターに乗せてやってほしい。そんな風に頼んでみた。優しい彼は応じてくれた。その日は一日、はしゃぐ息子を真中に、私と彼は家族のように寄り添って過ごした。少なくとも傍目には、我々は家族に見えただろう。見えた……どころか私自身が、遊園地にいる大半の時間、そんな錯覚の中で過ごしていた。彼と、私と、弘樹。この三人が一緒にいることが、とても自然に思えてならなかった。
自然に思えた……否。それこそが私の願望なのだと、その日初めて、明確に意識した。自分でもたじろぐくらいの、それは強い強い願望なのだ……ということも。

以来私は、彼が私を忘れかける……程度の頻度を見計らい、少しお節介かもしれない、でも、そこまでされると困りますとつっぱねるほども重くない、そんなことをした。軽やかな笑顔をまじえ、作り過ぎたおかずに困ったので余分にお弁当を作りました、良かったらどうぞ……などと言って、使い捨てのランチボックスに詰めたお弁当を渡したりした。
 その度に彼は、少し困ったような、でもまんざら嬉しくもなさそうな、そんな顔で
「ありがとう」
と、くぐもった声で言ってくれた。こういう場合なら誰でも言うであろう、そして彼なら相手が誰であっても言うであろう『ありがとう』だったが、私には、とても貴い宝のひとこと……に思えた。

 そんな時間がゆっくりと過ぎた。彼の顔が、少しづつ変わってくる。彼の中で私の印象が、徐々に徐々に移り変わっていくようだった。

 

 会社で見かける顔見知り。
 頑張ってるシングルマザー。
 時々弁当をくれるお節介なおばさん。
 だけど……嫌い、ではない。惹かれない、といえば嘘になる……。

 

 そんな感じに『ありがとう』と言う半ば伏せた彼の瞳の色が変わってきた。
 ……私に都合のいい思い込みでないのなら。

 その前後、私の両親が再婚の話を持ってくるようになった。老い先短いことを実感し始め、私の今後が改めて心配になってきたようだった。
 前回の結婚が、傍目以上に私にとって辛かったことを理解してくれていた両親は、つまらない再婚ならしない方がましだとよく言っていた。が、両親ともが相前後してちょっとした入院をして以来、急に出戻り娘の行く末が心配になったらしい。今まで私は、息子を言い訳に使ったりしながら適当にはぐらかしてきたのだが……自分の中で、何らかのけじめをつける時が迫っているのを実感していた。
 彼は未だに、別れた奥さんを愛しているらしい。もちろん彼が直接、そんなことなど言う訳ないが、さすがにそれくらいは私にも察せられる。


 一方で『温かい家庭』というものを熱望しているらしいことも察せられる。遊園地で息子の相手をしてくれていた時の彼は、とても満ち足りた表情をしていた。普段なら、今にもたそがれの中へ溶けてしまいそうな、そんな存在感の人なのに……息子と笑い合っている彼は、昼の光の中でしっかり立っていた。真昼の光をかっきり切り取り、ひとりの男・ひとりの人間としてしっかり立っていた。己れの望む場所に今、己れはいる……そんな深い満足が、その立ち姿からほの見える気がした。
 食べ終わったお弁当のお礼を言ってくれる時にもそんな感じがした。ありがとう、おいしかったですという言葉には、社交辞令以上の心が見える気がした。弘樹くんは元気ですか、と聞いてくれる目にも、知り合いの子供を気遣う大人の配慮、以上の親しみがある気がした。彼なら誰にでも、そんな風なのかもしれないが……私の期待を割り引いたとしても、彼の目に、私越しに『家庭』というものの姿を見ている雰囲気があった。
 でも……それだけ。それ以上には彼の心は育たない。このままだといつまでもこのまま。半ば絶望的に私は思った。
 彼の心は動かない。彼の意思も動かない。なら……私が動くしか、ない。拒否されたとしても、それはそれで仕方がなかろう。私は、人生最初で最後の大博打を打つ決意を固めた。

 

 一泊旅行のチケットを予約した。大人二人と子供一人、の計三人分。うち大人一人分の乗車券と特急券を封筒に入れ、お弁当と一緒に彼へ渡した。
「子供が楽しみにしているんです。子供が喜ぶと思って……お願いします」
ちょっとおどけたように手を合わせて笑い、要件だけを言ってきびすを返した。心の中で、弘樹にごめんと謝っていた。弘樹はまだ、この旅行自体を知らないのだから。
 断りたいような断るのもためらわれるような、くぐもった意味不明の声が少し、後ろから聞こえた。が、私は足早にその場から離れた。顔がこわばり、心臓がばくばくと異常に脈打っていた。
(寨は投げられた……そういうことね)
後はすべて彼次第。旅行自体断るのも応じるのも、その旅行の意味をどう解釈するのかも。
(……寨は投げられた……すっごく分の悪い、とんでもない大博打……)
私に勝つ目はほとんどない。宝くじで一等を当てるくらい、分の悪い大博打。……でも。
(宝くじを買わないままだったら。一生、一等は当たらない……)
自分に言い聞かせるように何度も何度も、私は心の中で繰り返した。

 当日。駅のプラットホームに彼は現れた。小さな鞄に、旅行の用意を詰め込んでいた。何かが吹っ切れた……そんな清々しい表情をしていた。
「おじさーん!」
弘樹が嬉しそうに彼に駆け寄る。思いがけない同行者に、すっかりはしゃいでいる。
「……来て下さったんですね」
放心したように私は言った。来て欲しいと熱望していたけれど……実際来てくれるとは、ほとんど思っていなかった。彼はほほ笑み、うなずいた。片頬に浮かんだ淡い影が、泣きたくなるくらい愛しかった。
 遊覧船。グラスボート。どれも初めての弘樹は、ずっとはしゃいでいた。思えば旅行自体、初めて……かもしれない、そう言えば。そんな心の余裕も経済的な余裕もずっと無い、ぎりぎりの暮らしだった。弘樹が妙に気を遣う子に育ったのも当然だろう。可哀相なことをした……前夫と離婚以来初めて、私はそう思った。
「……ねえ。まだ?」
はしゃぎ過ぎて疲れたのか、ホテルまでの道々、弘樹は何度もそう言った。足取りが重い。私たちは何度も立ち止まり、苦笑いしながら弘樹を待つ羽目になった。
「よし、弘樹こい」
不意に彼は言い、弘樹を肩車した。小三になる少年の体重が予想以上に重かったらしく、彼は少しよろめいた。
「お父さんが大変だから、降りなさい、弘樹」
自分でも無意識にそんな言葉が出てきた。一瞬後、あまりの厚かましさに顔から火が出る思いがした。ごめんなさい、と、慌てて彼へ言ったが
「お父さんでいいよな、弘樹」
と、彼は肩の上の弘樹へ言う。
「うん」
弘樹が答える。嬉しくなったのか弘樹は、何かをごまかすように乱暴に彼の髪をつかんだ。
「それじゃ弘樹、お父さんと呼んでみろ」
彼の声に
「お父さん」
と、弘樹ははっきり呼んだ。
「お父さん」
もう一度弘樹がそう呼んだ瞬間、私はたまらなくなった。弘樹越しに、私は後ろから彼に抱きついた。彼は少しよろめいたが、軽い笑い声を立てた。
 何故か薄い涙がにじんできた。くすぐったそうな弘樹の声を聞きながら、私はそっと、涙をぬぐった。
(……生まれてきて、良かった……)
そんな言葉が突然、胸の奥から出てきた。ちょっと驚いた後、私はほほ笑んだ。生まれてきて、良かった。この日の為に私は、ここまで歩いてきたのだ……。

 

 何かの機会に見た、トーク番組のエピソードをふと思い出した。
 有名な二世俳優と子連れで再婚した、とある女優のトークだった。
「最近息子は、お父さんに似てきましたね、ってよく言われるんですけど、息子は前の夫の子なんです。なのに今の主人に似てますねって、みなさんおっしゃるんですよ。ああ、そうか、この子は今の主人の子になる、そういう運命だったんだ……そう思いました」
そんなトークだった。聞いた瞬間、なんて自分に都合のいい女なんだろう、と私は、軽くその女優さんに呆れた。……でも。
(……ごめんなさい。私も自分に都合のいい女でした……)
肩車で先に行く彼と弘樹の後ろ姿は、私には本物の親子以外の何物にも見えなかった。弘樹は彼の息子……なのだ。血の繋がり以上の繋がりを、私は今、ふたりに感じる。
(……ごめんなさい。あなたもきっと、こんな気持ちだったんですね……)
私は心の中で密かに、かつて呆れた女優さんに謝った。

 

 それから私は幸せだった。彼から結婚を申し込まれ、まもなくささやかな式を挙げた。弘樹は、まるで彼が本当の父親であるかのように懐いた。
 やがて私は身ごもった。何もかもが順調で、夢を見ているような気分だった。あまりに幸せ過ぎてバチが当たるのではないかと怖くなるくらいだった。

 

 バチは当たった。とんでもない落とし穴が、バックリと口を開けて待っていたのだ。

 

 ……芹里奈の影が、私を殺す。

 

 それに初めて気付いたのは、娘が生まれてすぐだった。娘の名前の候補は、生まれる前から色々と挙げていたのだが、夫は娘の顔を見た途端、
「セリナにしよう」
と言い出した。
「カタカナでセリナ。可愛いだろう?」
「……可愛い、けど……」
一瞬後、私は硬直した。セリナ……芹里奈。彼の前の奥さんの名前だ。その名を聞いたのは数えるほどだが、私の記憶にしっかりと刻み付けられている。
「……どうした?」
探るように、夫は私の顔を覗き込む。
「それ……前の奥さんの名前じゃないの?」
軽く聞こえるように笑いをまじえて言ったつもりだが、顔がこわばるのはどうしようもなかった。
「……う」
夫はうめいて視線をそらせた。

「……まだ……前の奥さんに未練があるの?」
それは言うべきではないし、聞くべきではない。私の理性が遠くから警告するが、とても止められはしなかった。
 夫は答えなかった。ただ……かすかにうなずいた。私に見せる夫の横顔は、見知らぬ他人のそれのようだった。遠くに焦点が合った彼の目が見つめているのは……黒々とわだかまる、影。私は彼の視線をたどった。そして闇よりも濃いその影を見た。それは彼の、最愛の女性の影。彼の愛は彼女のもの……すさまじい虚しさに、身体中から力が抜けた。
 彼女の影に生気を吸われ、『幽霊みたい』と言われるほど生きる張りを失くしたのだった、そう言えば彼は。彼女の影に囚われ続け、他のパートナーを探すことさえ出来なかったのだった、そう言えば彼は。私と再婚したのも、別に私を愛したからではない。もちろん嫌いではなかろうが……それ以上でもあるまい。私のプッシュに根負けした、その辺りが本音だろう。
(……彼の心は、私にはない……)
最初からわかっていたこと……かもしれない。あえて見ないようにしてきただけだ。
 そもそも彼女はもはや、彼の手には届かない人だ。他の男性と再婚し、幸せに暮らしているらしい……かつて夫自身がそう言っていた。彼女が幸せならそれでいい……寂しそうな遠い目をしていたが、口調は淡々としていて、彼の中である種のけじめがついている、そんな印象を私は持った。
 その言葉・気持ちに嘘はなかろう。夫だって今さら、彼女とよりを戻したいとは思っていないだろう。……が。おそらく彼が、生涯で愛する女性は彼女……芹里奈、唯一人、だ。少なくとも私ではない。そのあまりにむき出しのむごい事実の前に、私は脱力した。努力では埋められない、時間では埋められない、圧倒的な事実を前に、私は、身体の底から脱力した。脱力するしか……なかった。


 ……芹里奈の影が、私を殺す。

 

 半ば押し切られるように、娘の名前はセリナになった。セリナ以外の名を、夫は認めなかった。夫は、他のことでは決して強引な人ではなかったが、この件に関しては頑として譲らない、そんな決意が見えた。無言を貫き、視線をそらし、だけど頑として娘の名前は『セリナ』。それ以外は認めない。そんな決意が見て取れた。
 名前が何であれ、みどり児は愛しい。息子を育てたことはあるが、私も娘は初めてだ。男の子に比べ、女の子は何もかもが華奢な気がした。反射的に見せるぼんやりとしたほほ笑みも、それこそ天使のように清らかだった。私は夢中で娘の世話をした。セリナ、という音がだんだん、娘を示す音だと私の中で認識されるようにもなってきた。
 夫はホッとしたようだった。女房に言い訳しなくてもよくなり、母性に目が眩んだ女房が、済し崩し的に『セリナ』という音が娘を示す音だと認識してくれて、心の底からホッとしたようだった。やれ泣いたやれ笑った、寝返りを打ったハイハイしたと、家族中で娘の一挙手一投足に騒ぎながら、私たちは賑やかに楽しく過ごした。
 九割五分はその通りだろう。私にとって『セリナ』は娘。愛しい者の名前。一日、そして一年の大半を、私はそう思って暮らしている。
 が……残りの五分。愚かで貴い母性に目が眩んだ、お幸せな母親ではない部分がある。ある瞬間ふっ……と、『セリナ』がそもそも『芹里奈』であったことを思い出す。夫によく似た片えくぼで無邪気に笑う娘の後ろに、黒々とわだかまる、不気味な昏い影を見る。その刹那、すさまじい脱力感にくずおれそうになるのだ。
(……芹里奈の影が、私を殺す)
少しづつ少しづつ、私の命はむしばまれてゆく。少しづつ少しづつ、私の正気はむしばまれてゆく。決してかなわない圧倒的な敵に脱力する度、私は壊れてゆく。少しづつ。

 

 夫は気付かない。

 

 休日。私は夕飯の支度をしていた。
 夫はリビングでテレビを視ている。カウンターキッチン越しに、少し寂しくなり始めた後頭部が見えた。
「A 子」
夫が私を呼んだ。私の名前は『映子』だが、ある時からふと、夫は私を『A 子』と呼んでいるような気がし始めた。『A 子』……家庭というものを維持する、必要で重要な部品。ただし、別の新しい部品と取り替えは可。皮肉まじりにそんなことを思う。思った瞬間、私は首を振った。
(……バカバカしい。そんな、自分で自分を貶めるようなことを……)

 私は夕飯の支度をしていた。愛用の、よく研いだ関孫六で野菜を刻んでいた。
 何故か手が止まった。目を上げる。くつろいでいる夫の後頭部が見えた。
(……これを)
関孫六に目を落とす。
(あそこに刺したら。どんな感じかしら……)
地肌の見え隠れするあの頭に、銀色に輝く関孫六が埋まる。かぼちゃのような手応えだろうか?それともキャベツを断つような……?
「……おかあさん、どうしたの?」
私は我に返った。絵本を見ていたセリナが、怪訝そうに私を見ている。
「……ああ。何でもないのよ」
(せめて、セリナが独り立ちするまでは……)
持ちこたえたい。……出来るだろうか?自信はない。芹里奈の影に正気を食い尽くされた後、自分が一体何をしでかすのか……、正直な話、私には自信がない。その前にせめて、彼と別居や離婚をする程度の正気はギリギリ、維持したいのだけれども。

 関孫六が鈍く光る。……ああ。これを夫の頭に埋めたい。心臓に埋めたい。驚く彼の顔をめった刺しにしたい。決して手に入らない男の心を、身体から引きずり出してかぶりつきたい……!
(……無駄だ無駄だ。そんなことをしても彼の心は手に入らない……)
……わかっている。わかっている!でも……娘の名前を呼ぶことで、この世で一番愛しい女の名前を呼び続けられることを思い付いた、男の狡猾が許せない。

 

 私は、ゆっくりと関孫六を研ぐ。

 

 ……芹里奈の影が、私を殺す。

 

 

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         《後編 終わり》

           了

 

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