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沖繩対策本部長■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(後編)

2011年11月12日 11時02分29秒 | 沖繩の歴史

 

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■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(後編)

 

■西洋列強に次々と不平等条約の締結を迫られる日本と琉球

これで、日本も琉球国も清国のように開国し不平等条約を締結する事になりましたが、戦争や領土を奪い取られ植民地になるような事は回避することができました。

この米国との条約締結をきっかけに日本と琉球は次々と西洋列強国と不平等条約を締結していくことになります。

結局、日本は英米蘭仏露葡の6カ国と琉球は米仏蘭の3カ国と条約を調印しました。

ペリーの開国により、日本の開国への動きは加速することはあれどももう後戻りはできなくなっていたのでした。

 

【アメリカ合衆国】

日本:1854年3月31日  日米和親条約(ペリー)

琉球:1854年7月11日  琉米修好条約(ペリー)

日本:1857年6月17日  日米和親条約を修補する全9箇条の下田協約(ハリス)

日本:1858年7月29日  日米修好通商条約(ハリス)

 

<琉米和親条約>



【オランダ】

日本:1856年1月30日  日蘭和親条約

日本:1858年8月18日   日蘭修好通商条約(ヤン・ドンケル・クルティウス)

琉球:1859年7月 6日 琉蘭修好条約(ファン・カペレル)

 

<琉蘭修好条約


 

【フランス】

琉球:1855年11月24日  琉仏修好条約(ゲラン提督)

日本:1858年10月 9日  日仏修好通商条約(ジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵)

 

<琉仏修好条約>


 

【ロシア】

日本:1855年 2月  7日  日露和親条約調印(プチャーチン)


【イギリス】

日本:1854年10月14日 日英和親条約(スターリング)

日本:1858年 8月26日  日英修好通商条約(エルギン伯爵ジェイムズ・ブルース)


【ポルトガル】

日本:1860年 8月 3日 日葡修好通商条約調印


■日本の反面教師、西洋列強に侵食されていく清国

このように日本と琉球は西洋列強のアジア進出の波に飲み込まれ次々と開国していきます。

この時の反面教師がアジアの大国といわれた清国でした。

清国はアヘン戦争後も更に西洋列強に侵食されていきます。

イギリスは1856年清の官憲が自称イギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実に、1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こしました。

イギリスは、宣教師が逮捕に遭った事を口実として出兵したフランスと共に広州・天津を制圧し、1858年にアヘンの輸入公認・公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の航行の承認・賠償、さらに「夷」字不使用などを認めさせる天津条約を締結しました。

条約の批准が拒否されるとさらに北京を制圧し、批准のみならず更に天津等11港の開港・イギリスに対する九龍半島南部の割譲を清に認めさせる北京条約を結びました。(1860年)。

 

<大沽砲台へ攻撃した英国軍の67歩兵隊>


 

■ペリーの開国で本格化し日露戦争で完成した「明治維新」と「琉球処分」

このような清国の二の舞を避けるために起きた改革が明治維新と琉球処分です。

日米和親条約からわずか14年後の1868年1月3日、王政復古の大号令で265年間続いた江戸幕府は滅びました。

また、琉米和親条約から25年後の1879年4月4日、琉球藩は廃止され沖縄県が設置される「廃琉置県(琉球処分)」により450年間続いた琉球王朝は滅びました。

それから日本は駆け足の近代化改革が始まります。

そして、日米和親条約から51年後、日本は多くの犠牲者を出しながら日露戦争に勝利し1905年9月4日にロシアとポーツマス条約を締結します。

これにより日本はアジア人でも西洋列強国に勝てることを世界に証明します。

日本は列強国の仲間入りをしました。

この日露戦争では、沖縄県から2000人以上が出征し、戦死者205人、 戦傷者149人を出しています。(帝国全体で 129万動員の 戦死8万人、戦傷49万人)

25年前琉球だった沖繩は既にこの時、完全に日本と一体となって日露戦争を戦っていたのです。

つまり、明治維新と琉球処分は、アヘン戦争直後から始まり、ペリーの開国で本格化し日露戦争で完成したと言えるのではないかと思います。


■外交史として見る「明治維新」と「琉球処分」

明治維新と琉球処分はひとつの改革であり、それぞれ一つの違った側面といえます。

しかし、マスコミや言論界では、「琉球処分」というと負のイメージが強く日本政府による琉球民族への差別・虐待というイメージが強くなっています。

その前提には、日本政府が琉球処分さえ行わなければ、琉球王朝の繁栄が永遠に続いたという間違った認識があります。

この節で述べてきたように、南京条約の後に清国がフランスの琉球割譲の要求をもし拒否しなかったらどうなっていたのでしょうか?

また、江戸幕府がペリーの開国を拒否したらどうなっていたのでしょうか?

また、日本政府が琉球を清国に譲ったらどうなっていたでしょうか?

琉球の冊封関係上の宗主国である清国は半分西洋列強の植民地のような状態にあり、近代化は日本より遙か遅れていました。

清国が滅びるのは沖縄県が設置されてから更に33年後の1912年でした。

このような清国は例え日本が琉球を手放したとしても琉球国を保護する力は既にもっていなかったのです。

つまり、日本が琉球を清国に譲ったとしても西洋列強が奪い合いどこかの国の植民地になっていた事はまちがいありません。

このように、琉球処分を日本と二国間の問題として捉えるのではなく、清国と琉球、琉球と日本、日本と西洋列強国、琉球と西洋列強国など多国間外交史として捉えることにより今まで見えなかった「琉球処分」の本当の意味が見えてくるのだと思います。

これから、アヘン戦争から日清戦争までの帰還をこのような多国間外交史の観点から捉え直してみたいと思います。

終わり

(仲村覚)

 

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沖繩対策本部長■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(中編)

2011年11月12日 10時03分34秒 | 沖繩の歴史

 

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■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(中編)

 

■ペリーの来琉1回目>大統領の国書伝達式>ペリーの来琉2回目

 1855年の琉仏修好条約の締結から2年遡る1853年5月26日、アメリカ合衆国海軍のペリー提督が蒸気軍艦4隻を率いて来琉しました1853年6月9日に琉球を出航すると江戸に向かうのではなく小笠原諸島の調査に向かったのでした。

その理由は小笠原も将来の補給基地となると考えたからです。ペリーは父島に貯炭地を建設したり牛、羊、山羊などを繁殖のために陸揚げし6月23日に一旦琉球に戻り7月2日に江戸に向けて那覇を出航します。

<首里城を訪問するペリー(ペルリ提督琉球訪問記)>

<ペリー上陸の地記念碑(那覇市泊の外人墓地内)>

そして7月8日に浦賀に到着し7月14日に久里浜で大統領の国書伝達式を行います。(9)

 来年再び渡来することを明言し17日に江戸を離れます。

その後ペリーは7月28日に再び琉球に来航します。

ペリーは琉球王府へ「聖現寺の有料賃借」「石炭貯蔵庫を建設」「密偵の禁止」「市場での購入」を要求し、琉球の総理官が拒否すると、「明日までに満足できる返事が出来なければ200人の兵で首里城を占領する」と脅し強引に要求を受け入れさせました。

ペリーは8月1日に琉球を離れて香港へ向かいました。(10)

このようにペリーは琉球を日本開国の拠点として活用していたのでした。

現在、米軍は沖繩の事を「太平洋の要石」と表現して戦略的拠点とされていますが、約160年前のこの時から沖繩とアメリカとのこのような関係は始まっていたといえます。


■日本が開国を拒否した場合、琉球占領を考えていたペリー

アメリカはペリーを日本に派遣する5年前にメキシコ戦争に勝利しカリフォルニア州を獲得し太平洋への進出が可能となっていました。

アメリカ大統領はこのメキシコ戦争で名声を得たペリー提督を特命全権公使として日本に派遣し、日本の開国を図ることを決定したのでした。

ペリーは浦賀に来る前年ケネディー海軍長官に次のような書簡を送っています。

「日本国政府がもし日本本土の港湾解放を頑強に拒絶し、そのために流血の惨をみる危険があるときは、別に日本の南部地方において良港であって薪水補給基地に便利な島嶼に艦隊錨地をしてしたいと思う。」

「このためには琉球諸島が最も便利である。」

「同諸島は日本国諸侯中最も有力な薩摩侯の領土であるが、清国政府は同島の主権に監視意義をとなえている。」

「残忍な薩摩候は強大な権力でもってこれを圧服し、同島住民は常に虐政のもとで呻吟している実情である。」

「もし同諸島を占領し、住民を圧政から解放するならば、それは道徳上から見ても正当なことである。」

「本官に同島を占領せしめるならば、住民の生活は大いに改善され、住民はこぞって合衆国市民を歓迎するに違いない。」(11)

このようにペリーは琉球の占領も考えていたのです。

これに対して米政府は

「大統領もまた遠征艦隊の安全を確保するために、好都合な一、二港を獲得する必要があり琉球諸島がその目的にもっとも適合することを認められた」(12)

 と回答しています。


■ペリーの来琉3回目

 1854年1月14日、ペリー提督は5隻の艦隊で香港を出発し24日に全艦那覇に終結しました。彼は再び江戸の出発するに先立ち1月25日に海軍長官に次のように上申しています。

「日本政府が合衆国の要求に応じないか、または合衆国商船及び捕鯨船に避泊する湾港を指定することを拒絶するならば、本職は合衆国市民の蒙った侮辱及び損害に対する補償として、日本帝国の附庸国である琉球島を合衆国の旗の監視下に置き、政府が本職の行動を承認するかどうかを決定するまで、上述の制限内で租借する決心である。」(13)

2月7日、ペリーは那覇で合流した2隻を加えて7隻で江戸に向かって出航しました。(14)

 この時、琉球の運命は江戸幕府がペリーの開国要求を受諾するか、拒絶をするかにかかっていたのです。

しかし、その計画はペリーの胸の中だけに存在しているため、琉球国の住民は自分たちがまさか国家存亡の危機の中にあるという事を知る由もありませんでした。


■日米和親条約締結

2月13日午後2時、ペリー艦隊は浦賀沖に到着しました。(14)

 ペリーはアメリカの要求が拒否されるならば直ちに戦争に訴える用意があると幕府を威圧しました。

ペリーの強硬な態度と黒船の威容に恐れをなした幕府側は、国書で求められている、石炭、食料の補給、難破民保護の2つの要求は認めるが通商は拒否するという態度を固め、ペリーも一歩譲って日本の通商拒否を理解しました。

そして、4回にわたる交渉の末、ついに3月31日、全12条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)の調印が行われました。

下田、箱館(函館)両港の開港、漂流民の救助、引渡し、アメリカ船への薪水・食料・石炭の供給、下田への領事駐在、などが主な内容でした。日本が列強のいずれかの国との抗争に巻き込まれたならば、アメリカが援助することも約束しました。 (15)


<ペリー下田上陸之
図>


この条約の締結によりペリーの琉球占領は幻に終わりました。

もし、この時に幕府が強行に拒絶したなら沖繩はハワイのようなアメリカの植民地になり、明治維新も実現していたかどうかもわかりません。

この条約締結の交渉にてペリーは琉球の開港についても要求していましたが幕府は権限が無いと回答していました。(16)


■ペリーの来琉3回目:琉米修好条約締結

下田で日米和親条約を締結したペリーの仕事は残すところ、琉球との修好条約の締結だけとなりました。7月1日ペリーは再び来琉。7月7日に条約締結にむけて本格的な交渉を始め、7月11日(6月17日)にマシュー・ペリー提督と尚宏勲らが調印、漢文(琉球王国の外交上の文書は漢文)と英語ともに二通作成、交換しました。

内容は以下のとおりです。

(第一条)自由貿易

(第二条)アメリカ船舶に対する薪水の提供

(第三条)アメリカ船からの漂流民の救助

(第四条)アメリカに領事裁判権を認める

(第五条)アメリカ人墓地を設置及びその保護

(第六条)琉球国の水先案内に関する規定

(第七条)アメリカ船舶への薪水の提供に関する費用等(17)

日米和親条約にはこの時点でまだ通商は含まれていませんでしたので、琉球は日本に先立ち通商の面で開国したことになります。

続く

(仲村覚)

後編はこちらから


 

【参考書籍】

( 9)ペリー来航歴史を動かした男たち 小学館 山本博文 P23~36

(10)最後の琉球王国 開分社 比嘉朝進著 P67、68

(11)沖繩の歴史 NHKブックス 宮城栄昌 P143、144

(12)本音で語る沖繩史 新潮社 仲村清司

(13)沖繩の歴史 NHKブックス 宮城栄昌 P144

(14)ペリー来航歴史を動かした男たち 小学館 山本博文 P163

(15)日米交流150年委員会 日米和親条約 http://p.tl/OD6h

(16)ペリー来航歴史を動かした男たち 小学館 山本博文 P164

(17)ウキペディア「流米修好条約」 http://p.tl/s3qw


  

 

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