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■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(後編)
■西洋列強に次々と不平等条約の締結を迫られる日本と琉球
これで、日本も琉球国も清国のように開国し不平等条約を締結する事になりましたが、戦争や領土を奪い取られ植民地になるような事は回避することができました。
この米国との条約締結をきっかけに日本と琉球は次々と西洋列強国と不平等条約を締結していくことになります。
結局、日本は英米蘭仏露葡の6カ国と琉球は米仏蘭の3カ国と条約を調印しました。
ペリーの開国により、日本の開国への動きは加速することはあれどももう後戻りはできなくなっていたのでした。
【アメリカ合衆国】
日本:1854年3月31日 日米和親条約(ペリー)
琉球:1854年7月11日 琉米修好条約(ペリー)
日本:1857年6月17日 日米和親条約を修補する全9箇条の下田協約(ハリス)
日本:1858年7月29日 日米修好通商条約(ハリス)
<琉米和親条約>
【オランダ】
日本:1856年1月30日 日蘭和親条約
日本:1858年8月18日 日蘭修好通商条約(ヤン・ドンケル・クルティウス)
琉球:1859年7月 6日 琉蘭修好条約(ファン・カペレル)
<琉蘭修好条約>
【フランス】
琉球:1855年11月24日 琉仏修好条約(ゲラン提督)
日本:1858年10月 9日 日仏修好通商条約(ジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵)
<琉仏修好条約>
【ロシア】
日本:1855年 2月 7日 日露和親条約調印(プチャーチン)
【イギリス】
日本:1854年10月14日 日英和親条約(スターリング)
日本:1858年 8月26日 日英修好通商条約(エルギン伯爵ジェイムズ・ブルース)
【ポルトガル】
日本:1860年 8月 3日 日葡修好通商条約調印
■日本の反面教師、西洋列強に侵食されていく清国
このように日本と琉球は西洋列強のアジア進出の波に飲み込まれ次々と開国していきます。
この時の反面教師がアジアの大国といわれた清国でした。
清国はアヘン戦争後も更に西洋列強に侵食されていきます。
イギリスは1856年清の官憲が自称イギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実に、1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こしました。
イギリスは、宣教師が逮捕に遭った事を口実として出兵したフランスと共に広州・天津を制圧し、1858年にアヘンの輸入公認・公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の航行の承認・賠償、さらに「夷」字不使用などを認めさせる天津条約を締結しました。
条約の批准が拒否されるとさらに北京を制圧し、批准のみならず更に天津等11港の開港・イギリスに対する九龍半島南部の割譲を清に認めさせる北京条約を結びました。(1860年)。
<大沽砲台へ攻撃した英国軍の67歩兵隊>
■ペリーの開国で本格化し日露戦争で完成した「明治維新」と「琉球処分」
このような清国の二の舞を避けるために起きた改革が明治維新と琉球処分です。
日米和親条約からわずか14年後の1868年1月3日、王政復古の大号令で265年間続いた江戸幕府は滅びました。
また、琉米和親条約から25年後の1879年4月4日、琉球藩は廃止され沖縄県が設置される「廃琉置県(琉球処分)」により450年間続いた琉球王朝は滅びました。
それから日本は駆け足の近代化改革が始まります。
そして、日米和親条約から51年後、日本は多くの犠牲者を出しながら日露戦争に勝利し1905年9月4日にロシアとポーツマス条約を締結します。
これにより日本はアジア人でも西洋列強国に勝てることを世界に証明します。
日本は列強国の仲間入りをしました。
この日露戦争では、沖縄県から2000人以上が出征し、戦死者205人、 戦傷者149人を出しています。(帝国全体で 129万動員の 戦死8万人、戦傷49万人)
25年前琉球だった沖繩は既にこの時、完全に日本と一体となって日露戦争を戦っていたのです。
つまり、明治維新と琉球処分は、アヘン戦争直後から始まり、ペリーの開国で本格化し日露戦争で完成したと言えるのではないかと思います。
■外交史として見る「明治維新」と「琉球処分」
明治維新と琉球処分はひとつの改革であり、それぞれ一つの違った側面といえます。
しかし、マスコミや言論界では、「琉球処分」というと負のイメージが強く日本政府による琉球民族への差別・虐待というイメージが強くなっています。
その前提には、日本政府が琉球処分さえ行わなければ、琉球王朝の繁栄が永遠に続いたという間違った認識があります。
この節で述べてきたように、南京条約の後に清国がフランスの琉球割譲の要求をもし拒否しなかったらどうなっていたのでしょうか?
また、江戸幕府がペリーの開国を拒否したらどうなっていたのでしょうか?
また、日本政府が琉球を清国に譲ったらどうなっていたでしょうか?
琉球の冊封関係上の宗主国である清国は半分西洋列強の植民地のような状態にあり、近代化は日本より遙か遅れていました。
清国が滅びるのは沖縄県が設置されてから更に33年後の1912年でした。
このような清国は例え日本が琉球を手放したとしても琉球国を保護する力は既にもっていなかったのです。
つまり、日本が琉球を清国に譲ったとしても西洋列強が奪い合いどこかの国の植民地になっていた事はまちがいありません。
このように、琉球処分を日本と二国間の問題として捉えるのではなく、清国と琉球、琉球と日本、日本と西洋列強国、琉球と西洋列強国など多国間外交史として捉えることにより今まで見えなかった「琉球処分」の本当の意味が見えてくるのだと思います。
これから、アヘン戦争から日清戦争までの帰還をこのような多国間外交史の観点から捉え直してみたいと思います。
終わり
(仲村覚)
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