沖縄対策本部

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沖縄対策本部■「毛沢東の沖縄返還要求支持」と「沖縄祖国復帰の真実」

2013年05月10日 09時21分53秒 | 沖繩の歴史


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「沖縄対策本部」 ~戦後レジュームの脱却は沖縄から~
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■「毛沢東の沖縄返還要求支持」と「沖縄祖国復帰の真実」

人民日報が5月8日に、沖縄の主権は「未解決」だという論文を掲載したことについて、時事通信が見事な反撃を与えました。

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<「沖縄は日本帰属」と電報=毛主席意向、大使館に徹底-64年外交文書で判明・中国>
(時事通信 2013/05/09-18:51)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201305%2F2013050900614&g=soc
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 【北京時事】中国外務省が1964年、米国の施政下にあった沖縄の主権について、毛沢東主席の意向に沿い、「当然日本に返還されるべきだ」という外務次官の談話を作成した上、各地の大使館などに電報で送り、外交官に指示を徹底させていたことが9日分かった。時事通信が、中国外務省档案館(外交史料館)で外交文書として収蔵された電報の原文コピーを閲覧した。
 中国共産党機関紙・人民日報は8日、沖縄をめぐる主権について「未解決」と主張する研究者の論文を掲載した。しかし、49年の中華人民共和国の成立以降、中国は沖縄に対する領有権を唱えておらず、この電報は、沖縄の日本帰属を中国が認めていたことを示す証拠の一つと言えそうだ。
 電報の表題は「『ソ連はあまりに他国領土を取り過ぎている』という毛主席の談話」(64年7月28日)。それによると、毛氏は同年7月10日、日本社会党の国会議員と会談。議員が北方領土問題への毛氏の考えを質問したところ、「あなたたちに返還すべきだ」と答えた。毛氏はこの年の1月、訪中した日本の日中友好関係者と会見した際、沖縄を「日本の領土」と認め、沖縄返還要求運動について、「中国人民は日本人民の正義の闘争を心から支持する」と表明していた。
 背景には、当時の反米闘争や中ソ対立の中で、毛氏が日本の領土返還要求を支持していたことがある。中国外務省は毛氏の意向を基に、領土問題に関する原則を策定。「日本固有の領土は今日、米国に占領された沖縄であろうが、ソ連に占領された千島列島であろうが、日本が取り戻そうと要求するのは正しい。当然日本に返還されるべきだ」という王炳南次官の発言が電報に記載された。
 電報はさらに「外交活動の中で、こうした領土問題を自ら話してはいけない。質問されて答える場合には、個人の見解として王次官らの談話を簡単に伝え、決して突っ込んで話してはいけない」と注意を促した。
 中国では50年5月、対日講和会議に備えて開かれた外務省の内部討論会などの場で、日本共産党の徳田球一書記長(当時)が沖縄出身であることから「沖縄の日本への返還を主張すべきだ」との意見が出て以降、沖縄に対する領有権を主張しなくなったことが当時の外交文書で判明している。
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このニュースは、現在の中国の沖縄をめぐる主権についての発言をだまらせる力を持ったニュースだと思います。
政府も外務省もすぐに、この毛沢東の言葉を引用して、反撃をするべきです。
中国の現在の沖縄強奪戦略にとって非常に不利となる情報ですが、毛沢東の言葉は中国共産党にとって絶対であり削除や改ざんすることはできないようです。

実は更に詳しく毛沢東の発言内容を記録した、中国共産党新聞の毛沢東文集、第八巻という公開資料があります。
1964年1月27日に毛沢東は、「中国人民は日本人民の偉大なる愛国闘争を断固支持する」という声明を発表し、沖縄の日本返還も支持していたのです。

 

<毛沢東:中国人民は日本人民の偉大なる愛国闘争を断固支持する>

http://goo.gl/O3wn0

<日本語訳:毛沢東「中国人民は日本人民の偉大なる愛国闘争を断固支持する」(毛沢東)>

日本の人々が1月26日に開催した大反米デモは、偉大なる愛国運動である。中国人民を代表して日本の英雄の皆様に敬意を表明します。最近、日本では、米国に対して大規模な大衆運動を開始し、米国のF105D型核搭載戦闘機と原子力潜水艦の日本駐留反対、すべての米軍基地の撤去要求と米軍武装部隊の撤退の要求日本の領土沖繩の返還要求日米"安全保障条約"の廃止、等々。すべてこれは日本人民の意思と願望を反映している。中国人民は心から日本の正義の戦いを支援します。(以下省略)

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上に、冒頭の要点部分のみ翻訳してみました。毛沢東が述べている1月26日の大反米デモとあります。
毛沢東が発言した1月26日の大反米デモが実際に開催されたのかをネットで検索してみましたところ「語り継ぐ出版労働史」というホームページにその記録がのこされていました。

 

【情報ソース】

http://www.syuppan.net/mura_HP/narahp/rokyo/n_211.html


 

この出版労連の横田集会の記録は、日付、内容とも毛沢東の発言と整合性がとれています。どうも、毛沢東は日本国内の反米デモの詳細について翌日には情報を入手するパイプを持っていたようです。ということは、70年安保闘争について日本への工作ルートを持っていたということです。

それに続いて、毛沢東は、

「日本の領土沖繩の返還要求、日米"安全保障条約"の廃止、等々。すべてこれは日本人民の意思と願望を反映している。中国人民は心から日本の正義の戦いを支持します。」

と述べています。
ここで、問題なのは、「沖縄の返還要求」「日米安保破棄」が並んでいる事です。
毛沢東にとって、沖縄返還を支持する理由は、日米安破棄だったということが考えられます。

この声明が発表された1960年代の沖縄は復帰運動が大きく展開された時代です。それでは、1960年4月28日に発足し、沖縄復帰運動の大衆運動をリードしていた「沖縄県祖国復帰協議会」の運動はどのようなものだったのでしょうか?

沖縄復帰運動がピークとなった1969年の定期総会の資料があります。
そこに、復帰運動の目標として4点が掲げられています。

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沖縄県祖国復帰協議会 第14回定期総会 資料より抜粋
復帰運動の目標
(1969年3月22日)
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【復帰運動の目標】

(基本目標)

1.対日「平和」条約第三条の撤廃

 アメリカのお沖繩占領支配は、日本の真の独立と平和を犯すものであり、その統治の根拠としている対日平和条約第三条は民族の自決と主権平等の原則から、政界人権宣言及び国連憲章に背反する無効なものである。従って、国際場裡と国際法に反する、不法不当な条約第三条の撤廃を期す。

2.日本国憲法の適用

 日本国民である百万沖縄県民は、当然日本国憲法の適用をうけ、憲法によって日本国民といsての諸権利が保証されなければならない。憲法の完全適用は祖国復帰の実現にとって重要な課題であるから、日本政府にその実施を強く迫る。

3.軍事基地撤去

 アメリカの沖繩支配の主目的は沖縄基地の排他的自由使用にある。これらの基地は核武装され、共産圏諸国に攻撃目標は向けられ、とりわけ中国封じ込め、ベトナム侵略戦争を中心としてアジア諸国に対する侵略と攻撃の基地である。又、米韓、米台、米比、アンザス各軍事条約の適用範囲に包含され、日米安保条約を含め、アメリカの極東軍事戦略の拠点をなし、アジア諸国のカイライ政権を更に県民にちする基地被害はこれまで生命財産を奪い、核の脅威は正に県民の声明を一瞬に奪い去らんとする状態である。このようなアアジアを分断し、アジア人民を殺戮し、県民の声明を危機におとしいれているアメリカの沖繩基地は、平和憲法を守り、佐藤自由民主党政府の反動政策を粉砕する立場からも撤去を要求して戦わねばならない。

4.日米安保条約の撤廃

 日米安保条約はその付属文書によって米による沖繩の軍事基地使用を認め、祖国を分断している。従って復帰を実現するためには、各基地自由使用を許している日米安保条約を廃棄しなければならない。アメリカの沖繩基地は日米安保条約の要石であり、軍事基地撤去の戦いは正に日米安保条約廃棄の戦いの重要な一貫として沖縄県民に課せられた重要な戦いである。されに沖繩の早期返還を望む国民官女を利用して「核付き・自由使用」を認めての沖縄返還を目論む佐藤内閣の態度を見る時、日米安保常条約の改悪、平和憲法の改悪、そして再軍備、核武装と一連の反動制作を看破しなければならない。われわれは、憲法全文慣れ日に同第九条による我が国の安全と生存に関する規定に基づき戦争を否定して、日米安保条約廃棄を求めて戦い、即事務所行けん全面返還の戦いこそ沖縄県民のおかれた父馬から具体的な闘いとして受けとめ、国民的連帯の中で協力に闘う。

<旬報社 「沖縄問題」より>
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驚いたことに、毛沢東が声明で述べていたのと同じ、「軍事基地撤去」「日米安保破棄」が祖国復帰協議会の目標として掲げられていたのです。沖縄祖国復帰協議会の復帰運動は、毛沢東が支持している愛国闘争と整合性がとれているのです。毛沢東が支持している愛国闘争とは、安保闘争であり、祖国復帰協議会の運動も安保闘争だったということです。

つまり、毛沢東は、沖縄県民の祖国復帰を願う愛国心を利用して、巧みに反米へ誘導し、安保闘争をしかけていたわけです。

日米両政府は、この安保闘争を抑えるために、ありえないウルトラ必殺技を出して来ました。

それは、沖縄に米軍基地機能を維持したまま、日米安保条約も延長し、沖縄の施政権を日本に返還するということです。
今では、米軍基地が残ったままの沖縄復帰は当たり前のように思われていますが、当時はベトナム戦争の真っ最中で沖縄は米軍の出撃基地であり、訓練基地でもあったのです。毛沢東は米軍が絶対に沖縄を返還するわけがないと信じて、祖国復帰運動をしかけたのだと思います。

その毛沢東の読みと異なり、1971年6月17日、日米間で沖縄返還協定が調印されました。

普通なら祖国復帰を熱く望んでいたい沖縄県民は大喜びしたものと思われます。 ところが、毛沢東の工作により沖縄の報道と政治運動は全く逆の方向へと動いていったのです。祖国復帰協議会のデモのスローガンやマスコミを介して聞こえる沖縄県民の声は「沖縄返還協定粉砕」となっていたのです。このスローガンは、私には、毛沢東の

「日米安保破棄させるために沖縄の復帰運動をしかけたのに、本来の目的を達成せずに、沖縄を日本に渡してたまるものか!」

という叫び声のようにも聞こえます。

その思いが沖縄に伝わったかのように、沖縄返還協定調印後は、国会での協定批准に反対するデモやゼネラルストライキは激しいものになってきました。沖縄でも東京でも警察官が死亡するという過激なデモになっていきました。

結局、「米軍基地の残る復帰は反対だ」として冲縄の政治家も大衆も沖縄復帰に反対し、冲縄の世論は、「復帰反対」一色になり、当時の自民党政府は、沖縄返還協定を強行採決で批准する大儀を失ってしまいました。

沖縄祖国復帰は大きな危機を迎えていたのです。しかし、このような危機の中で、奇跡中の奇跡ともいえるような中で実現したのが冲縄の祖国復帰です。

ここで、全国民が知って置かなければならない事が一つあります。

それは、「沖縄祖国復帰を実現したのは、決して『沖縄県祖国復帰協議会』では無い!」ということです。「彼らがやった事は沖縄県民を騙した安保闘争である」ということです。

何故なら、この『沖縄県祖国復帰協議会』の活動こそ、沖縄問題の根源だからです。1960年代に『沖縄県祖国復帰協議会』が県民を巻き込んで展開した復帰運動の結果作り上げられた政治、マスコミ、教育界こそが今の沖縄問題の発信源だからです。

そして、その裏には毛沢東がいたということです。それを知ることで沖縄問題の本当の敵を知り、戦う事が可能になるのです。

中国共産党の「沖縄を拠点として、日米安保を破棄し、日本をのっとる。」というこの戦略だけは、復帰前も復帰後も今も一貫して貫かれている方針である事は間違いありません。

復帰前は、ベトナム戦争真最中の中、沖縄を日本に復帰させる事により、日米安保を破棄させようとし失敗したものの、今度は逆に、沖縄を琉球として独立させる事により日米安保を破棄、または無力化させ、日本全体をのっとる方針に変わったわけです。

今度は、この動きに対して本当の敵を見定めて、沖縄を守らなければなりません。

沖縄祖国復帰運動の真実については詳しくは、5月12日、13日に、歴史の生き証人である、母仲村俊子が明かす予定です。

日本国民を上げて、冲縄の真実を知り、沖縄を守らねばならない時が来たと感じています。
多くの方のご参加をお待ちしております。

(仲村覚)

------------------◇◇◇◇◇◇近日開催のイベント ◇◇◇◇◇◇------------------

        領土死守!国民蹶起大集会
     ~支那・朝鮮から聖地、沖縄、竹島を護ろう!~

◎日時:512日(1400分開演 (13時30分開場)16時30分終了予定 
◎場所:会議室2A :文京区民センター 会費:1000円

※上京者交通費支援のためカンパ大歓迎

 真の愛国者は結集せよ!     ヤジ、怒号大歓迎!

 ~あの鈴木信行(韓国から起訴)が、あの我那覇真子(沖縄の愛国ヒロイン)が登壇!~

沖縄、島根から愛国者が続々上京中!その他著名人多数登壇!

<現時点での登壇予定者(敬称略)>
☆仲村俊子(沖縄より) ☆梶谷萬里子(島根より)、☆村田春樹、☆西村幸祐、☆坂東忠信、その他調整中

主  催:領土死守!国民蹶起大集会実行委員会(委員長 村田春樹)
後  援:維新政党・新風 / 沖縄対策本部 / そよ風
事務局:村田春樹(TEL:090-7055-2500) 仲村覚(TEL:080-5021-8105)

<FaceBookページ>
http://www.facebook.com/events/448543901890436/


      沖縄県祖国復帰41周年記念議員会館学習会

     「沖縄県祖国復帰の真実」
 ~祖国防衛の砦、沖縄問題の本質を探る~

チラシダウンロードPDFはこちらから http://goo.gl/93SLL

※下記画像をクリックしてやまと新聞さんのホームページで御覧ください。

日時:平成25年513日(月) 
集合:12時30分、 入館:13時00分 開演:13時30分  終了予定:16時00分 
場所:第一衆議院議員会館地下1F大会議室   会費:無料

主 催:沖縄県祖国復帰41周年記念議員会館学習会実行委員会
後 援:沖縄対策本部  そよ風
事務局:080-5021-8105(仲村覚)

■来賓挨拶
 ◎衆議院議員  中山成彬
 ◎前衆議院議員 長尾たかし 
   他調整中

■特別来賓挨拶
 ◎落合(大田実中将のご子息、元海将補)

■沖縄からの報告
 ◎「沖縄県祖国復帰の真実 」 
     仲村俊子(初代沖縄防衛協会婦人部長)
 ◎「名護市からの報告」 
     我那覇真子(名護市民)
 ◎「石垣市からの報告」 
     友寄永三(沖縄の平和を守る県民の会代表)
◎「戦後レジュームの脱却は沖縄から」
     仲村覚(沖縄対策本部代表)

■特別講演
 ◎「日本にとっての沖縄祖国復帰の意義」
              西村眞悟先生(衆議院議員)

■沖縄へのメッセージ
 ◎鈴木正人(埼玉県議) ◎小島健一(神奈川県義)
 ◎小坂英二(荒川区義) ◎岡しげお(埼玉県議)

■沖縄からの要請
 ◎ 沖縄上京要請団


主 催:沖縄県祖国復帰41周年記念議員会館学習会実行委員会
後 援:沖縄対策本部  そよ風 やまと新聞 東京都郷友会

事務局:080-5021-8105(仲村覚)

<紹介ブログ>
http://blog.goo.ne.jp/jiritsukokka/e/8a8b83ca1749d05b2c833c4bb16e40d6

※予約申込不要ですが、参加人数把握のためにFaceBook又は、下記メールアドレスまで参加のご表明をお願い致します。

<FaceBookイベントページ> 
http://www.facebook.com/events/524967857544540/

E-mail:nakamura.satoru7@gmail.com

チラシ:http://goo.gl/FFxh2


 

5・19沖縄県祖国復帰41周年記念大会

 

今年も祖国復帰をお祝いします!
  特別ゲストに、TVでおなじみ「櫻井よしこ先生」をお呼びして、祖国復帰の理念に立ち戻り、沖縄の様々な問題に切り込んでいく大会としたいと思います。

◯祖国復帰日の丸パレード
10時30分 普天満宮集合
11時 パレードスタート(宜野湾市民会館まで約1,4キロ】
 
◯テーマ 「現在の沖縄問題を解決し、子や孫に誇れる沖縄県へ」
◯日 時 5月19日(日)14時開会(13時開場)

◯場 所 宜野湾市民会館大ホール(宜野湾市役所の隣です)
第一部 沖縄県祖国復帰41周年記念式典
第二部 記念講演 櫻井よしこ先生(ジャーナリスト)

◯会 費 500円
◯主 催 沖縄県祖国復帰記念大会実行委員会
那覇市若狭1-25-11波上宮内

祖国復帰の「5月15日」に「琉球民族独立総合研究学会」が設立されます。ほかならぬ祖国日本に帰ってきた歴史的事実を冒涜するこの動きに対して、私たちは祖国復帰の事実を確認する必要があります。

 昨年は祖国復帰より四十周年という記念すべき年であり、多くの行事が開催されました。
 しかし、私どもは五年や十年に一度ではなく、毎年の記念大会開催を通して祖国復帰の歴史的意義を確認すべきであると考えております。県の内外問わず祖国復帰の意義を発信し、祖国復帰にかけた先達の貴重な体験や歴史を、次世代を担う青少年に受け継ぐべく記念大会を開催致します。

 「沖縄県祖国復帰四十一周年大会」では、四十年の歴史を振り返った昨年の大会から、新たな一歩を踏み出すべく、基地問題や安全保障など沖縄をとりまく問題にも取り組んで参りたいと思います。

お問い合わせ
      電話 098-868-3697 FAX 098-868-4219
      携帯090-6831-0989(坂本)
      E-mail npnkig.okinawa@gmail.com


◇◇◇カンパのお願い◇◇◇

 沖縄には全国の左翼勢力が集中し様々な反米・反日・親中の扇動工作を行なっています。また、政界もマスコミ界も全て乗っ取られており、特にマスコミは、反米、反日、親中の扇動工作機関紙となっています。日本防衛の砦である沖縄を左翼勢力から取り戻さない限り日本の未来はありません。一方沖縄の保守勢力は組織力が弱くマスコミの言論弾圧を受けた状態で声をあげるにも挙げられない状態です。それを打ち破るためには、沖縄の保守勢力を全国から応援し、沖縄県民を啓蒙しなければなりません。

 そのような沖縄の啓蒙活動や支援活動を組織的、継続的、計画的に行えるようにするため、「沖縄対策本部」を設立する事にいたしました。中国の動きを見ると今が最後のチャンスだと感じています。やるべきことをやらずして、植民地になった時に「あの時にもっと頑張ればよかった」と後悔するようなことはしたくありません。国家存亡の危機を乗り越えるために、何としてでも、全国の力を結集して沖縄を中国に売る左翼勢力から沖縄を取り戻したいと思います。是非、皆様のご賛同とカンパのご支援をお願い致します。

◎ゆうちょ銀行
◎店名:019(ゼロイチキュウ)
◎預金種目:当座
◎口座番号:0789977
◎口座名称:沖縄対策本部(オキナワタイサクホンブ)

◎(記号番号:00180-0-789977)

 

※皆様の浄財は次の活動の運営費用に活用させていただきます。

◇左翼、中国の活動、工作に関する情報収集分析 ◇沖縄保守勢力への支援体制構築 ◇啓蒙活動(沖縄各地) ◇沖縄のマスコミ正常化運動 ◇沖縄の正しい歴史の編纂 ◇議会対策、ロビー活動(国会・沖縄地方議会)

 

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「沖縄対策本部」  ~戦後レジュームの脱却は沖縄から~
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日本の国家を存続させるには、沖縄への工作を集中させる支那と左翼勢力への
対策が必要です。しかし、誰も本部を設立しないので、一念発起し「沖縄対策
本部」を立ち上げました。マスコミが報道しない沖縄左翼の扇動工作の実態と、
それに対抗する情報戦、啓蒙運動に関する情報を配信します。
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沖繩対策本部長■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(後編)

2011年11月12日 11時02分29秒 | 沖繩の歴史

 

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■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(後編)

 

■西洋列強に次々と不平等条約の締結を迫られる日本と琉球

これで、日本も琉球国も清国のように開国し不平等条約を締結する事になりましたが、戦争や領土を奪い取られ植民地になるような事は回避することができました。

この米国との条約締結をきっかけに日本と琉球は次々と西洋列強国と不平等条約を締結していくことになります。

結局、日本は英米蘭仏露葡の6カ国と琉球は米仏蘭の3カ国と条約を調印しました。

ペリーの開国により、日本の開国への動きは加速することはあれどももう後戻りはできなくなっていたのでした。

 

【アメリカ合衆国】

日本:1854年3月31日  日米和親条約(ペリー)

琉球:1854年7月11日  琉米修好条約(ペリー)

日本:1857年6月17日  日米和親条約を修補する全9箇条の下田協約(ハリス)

日本:1858年7月29日  日米修好通商条約(ハリス)

 

<琉米和親条約>



【オランダ】

日本:1856年1月30日  日蘭和親条約

日本:1858年8月18日   日蘭修好通商条約(ヤン・ドンケル・クルティウス)

琉球:1859年7月 6日 琉蘭修好条約(ファン・カペレル)

 

<琉蘭修好条約


 

【フランス】

琉球:1855年11月24日  琉仏修好条約(ゲラン提督)

日本:1858年10月 9日  日仏修好通商条約(ジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵)

 

<琉仏修好条約>


 

【ロシア】

日本:1855年 2月  7日  日露和親条約調印(プチャーチン)


【イギリス】

日本:1854年10月14日 日英和親条約(スターリング)

日本:1858年 8月26日  日英修好通商条約(エルギン伯爵ジェイムズ・ブルース)


【ポルトガル】

日本:1860年 8月 3日 日葡修好通商条約調印


■日本の反面教師、西洋列強に侵食されていく清国

このように日本と琉球は西洋列強のアジア進出の波に飲み込まれ次々と開国していきます。

この時の反面教師がアジアの大国といわれた清国でした。

清国はアヘン戦争後も更に西洋列強に侵食されていきます。

イギリスは1856年清の官憲が自称イギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実に、1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こしました。

イギリスは、宣教師が逮捕に遭った事を口実として出兵したフランスと共に広州・天津を制圧し、1858年にアヘンの輸入公認・公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の航行の承認・賠償、さらに「夷」字不使用などを認めさせる天津条約を締結しました。

条約の批准が拒否されるとさらに北京を制圧し、批准のみならず更に天津等11港の開港・イギリスに対する九龍半島南部の割譲を清に認めさせる北京条約を結びました。(1860年)。

 

<大沽砲台へ攻撃した英国軍の67歩兵隊>


 

■ペリーの開国で本格化し日露戦争で完成した「明治維新」と「琉球処分」

このような清国の二の舞を避けるために起きた改革が明治維新と琉球処分です。

日米和親条約からわずか14年後の1868年1月3日、王政復古の大号令で265年間続いた江戸幕府は滅びました。

また、琉米和親条約から25年後の1879年4月4日、琉球藩は廃止され沖縄県が設置される「廃琉置県(琉球処分)」により450年間続いた琉球王朝は滅びました。

それから日本は駆け足の近代化改革が始まります。

そして、日米和親条約から51年後、日本は多くの犠牲者を出しながら日露戦争に勝利し1905年9月4日にロシアとポーツマス条約を締結します。

これにより日本はアジア人でも西洋列強国に勝てることを世界に証明します。

日本は列強国の仲間入りをしました。

この日露戦争では、沖縄県から2000人以上が出征し、戦死者205人、 戦傷者149人を出しています。(帝国全体で 129万動員の 戦死8万人、戦傷49万人)

25年前琉球だった沖繩は既にこの時、完全に日本と一体となって日露戦争を戦っていたのです。

つまり、明治維新と琉球処分は、アヘン戦争直後から始まり、ペリーの開国で本格化し日露戦争で完成したと言えるのではないかと思います。


■外交史として見る「明治維新」と「琉球処分」

明治維新と琉球処分はひとつの改革であり、それぞれ一つの違った側面といえます。

しかし、マスコミや言論界では、「琉球処分」というと負のイメージが強く日本政府による琉球民族への差別・虐待というイメージが強くなっています。

その前提には、日本政府が琉球処分さえ行わなければ、琉球王朝の繁栄が永遠に続いたという間違った認識があります。

この節で述べてきたように、南京条約の後に清国がフランスの琉球割譲の要求をもし拒否しなかったらどうなっていたのでしょうか?

また、江戸幕府がペリーの開国を拒否したらどうなっていたのでしょうか?

また、日本政府が琉球を清国に譲ったらどうなっていたでしょうか?

琉球の冊封関係上の宗主国である清国は半分西洋列強の植民地のような状態にあり、近代化は日本より遙か遅れていました。

清国が滅びるのは沖縄県が設置されてから更に33年後の1912年でした。

このような清国は例え日本が琉球を手放したとしても琉球国を保護する力は既にもっていなかったのです。

つまり、日本が琉球を清国に譲ったとしても西洋列強が奪い合いどこかの国の植民地になっていた事はまちがいありません。

このように、琉球処分を日本と二国間の問題として捉えるのではなく、清国と琉球、琉球と日本、日本と西洋列強国、琉球と西洋列強国など多国間外交史として捉えることにより今まで見えなかった「琉球処分」の本当の意味が見えてくるのだと思います。

これから、アヘン戦争から日清戦争までの帰還をこのような多国間外交史の観点から捉え直してみたいと思います。

終わり

(仲村覚)

 

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沖繩対策本部長■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(中編)

2011年11月12日 10時03分34秒 | 沖繩の歴史

 

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■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(中編)

 

■ペリーの来琉1回目>大統領の国書伝達式>ペリーの来琉2回目

 1855年の琉仏修好条約の締結から2年遡る1853年5月26日、アメリカ合衆国海軍のペリー提督が蒸気軍艦4隻を率いて来琉しました1853年6月9日に琉球を出航すると江戸に向かうのではなく小笠原諸島の調査に向かったのでした。

その理由は小笠原も将来の補給基地となると考えたからです。ペリーは父島に貯炭地を建設したり牛、羊、山羊などを繁殖のために陸揚げし6月23日に一旦琉球に戻り7月2日に江戸に向けて那覇を出航します。

<首里城を訪問するペリー(ペルリ提督琉球訪問記)>

<ペリー上陸の地記念碑(那覇市泊の外人墓地内)>

そして7月8日に浦賀に到着し7月14日に久里浜で大統領の国書伝達式を行います。(9)

 来年再び渡来することを明言し17日に江戸を離れます。

その後ペリーは7月28日に再び琉球に来航します。

ペリーは琉球王府へ「聖現寺の有料賃借」「石炭貯蔵庫を建設」「密偵の禁止」「市場での購入」を要求し、琉球の総理官が拒否すると、「明日までに満足できる返事が出来なければ200人の兵で首里城を占領する」と脅し強引に要求を受け入れさせました。

ペリーは8月1日に琉球を離れて香港へ向かいました。(10)

このようにペリーは琉球を日本開国の拠点として活用していたのでした。

現在、米軍は沖繩の事を「太平洋の要石」と表現して戦略的拠点とされていますが、約160年前のこの時から沖繩とアメリカとのこのような関係は始まっていたといえます。


■日本が開国を拒否した場合、琉球占領を考えていたペリー

アメリカはペリーを日本に派遣する5年前にメキシコ戦争に勝利しカリフォルニア州を獲得し太平洋への進出が可能となっていました。

アメリカ大統領はこのメキシコ戦争で名声を得たペリー提督を特命全権公使として日本に派遣し、日本の開国を図ることを決定したのでした。

ペリーは浦賀に来る前年ケネディー海軍長官に次のような書簡を送っています。

「日本国政府がもし日本本土の港湾解放を頑強に拒絶し、そのために流血の惨をみる危険があるときは、別に日本の南部地方において良港であって薪水補給基地に便利な島嶼に艦隊錨地をしてしたいと思う。」

「このためには琉球諸島が最も便利である。」

「同諸島は日本国諸侯中最も有力な薩摩侯の領土であるが、清国政府は同島の主権に監視意義をとなえている。」

「残忍な薩摩候は強大な権力でもってこれを圧服し、同島住民は常に虐政のもとで呻吟している実情である。」

「もし同諸島を占領し、住民を圧政から解放するならば、それは道徳上から見ても正当なことである。」

「本官に同島を占領せしめるならば、住民の生活は大いに改善され、住民はこぞって合衆国市民を歓迎するに違いない。」(11)

このようにペリーは琉球の占領も考えていたのです。

これに対して米政府は

「大統領もまた遠征艦隊の安全を確保するために、好都合な一、二港を獲得する必要があり琉球諸島がその目的にもっとも適合することを認められた」(12)

 と回答しています。


■ペリーの来琉3回目

 1854年1月14日、ペリー提督は5隻の艦隊で香港を出発し24日に全艦那覇に終結しました。彼は再び江戸の出発するに先立ち1月25日に海軍長官に次のように上申しています。

「日本政府が合衆国の要求に応じないか、または合衆国商船及び捕鯨船に避泊する湾港を指定することを拒絶するならば、本職は合衆国市民の蒙った侮辱及び損害に対する補償として、日本帝国の附庸国である琉球島を合衆国の旗の監視下に置き、政府が本職の行動を承認するかどうかを決定するまで、上述の制限内で租借する決心である。」(13)

2月7日、ペリーは那覇で合流した2隻を加えて7隻で江戸に向かって出航しました。(14)

 この時、琉球の運命は江戸幕府がペリーの開国要求を受諾するか、拒絶をするかにかかっていたのです。

しかし、その計画はペリーの胸の中だけに存在しているため、琉球国の住民は自分たちがまさか国家存亡の危機の中にあるという事を知る由もありませんでした。


■日米和親条約締結

2月13日午後2時、ペリー艦隊は浦賀沖に到着しました。(14)

 ペリーはアメリカの要求が拒否されるならば直ちに戦争に訴える用意があると幕府を威圧しました。

ペリーの強硬な態度と黒船の威容に恐れをなした幕府側は、国書で求められている、石炭、食料の補給、難破民保護の2つの要求は認めるが通商は拒否するという態度を固め、ペリーも一歩譲って日本の通商拒否を理解しました。

そして、4回にわたる交渉の末、ついに3月31日、全12条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)の調印が行われました。

下田、箱館(函館)両港の開港、漂流民の救助、引渡し、アメリカ船への薪水・食料・石炭の供給、下田への領事駐在、などが主な内容でした。日本が列強のいずれかの国との抗争に巻き込まれたならば、アメリカが援助することも約束しました。 (15)


<ペリー下田上陸之
図>


この条約の締結によりペリーの琉球占領は幻に終わりました。

もし、この時に幕府が強行に拒絶したなら沖繩はハワイのようなアメリカの植民地になり、明治維新も実現していたかどうかもわかりません。

この条約締結の交渉にてペリーは琉球の開港についても要求していましたが幕府は権限が無いと回答していました。(16)


■ペリーの来琉3回目:琉米修好条約締結

下田で日米和親条約を締結したペリーの仕事は残すところ、琉球との修好条約の締結だけとなりました。7月1日ペリーは再び来琉。7月7日に条約締結にむけて本格的な交渉を始め、7月11日(6月17日)にマシュー・ペリー提督と尚宏勲らが調印、漢文(琉球王国の外交上の文書は漢文)と英語ともに二通作成、交換しました。

内容は以下のとおりです。

(第一条)自由貿易

(第二条)アメリカ船舶に対する薪水の提供

(第三条)アメリカ船からの漂流民の救助

(第四条)アメリカに領事裁判権を認める

(第五条)アメリカ人墓地を設置及びその保護

(第六条)琉球国の水先案内に関する規定

(第七条)アメリカ船舶への薪水の提供に関する費用等(17)

日米和親条約にはこの時点でまだ通商は含まれていませんでしたので、琉球は日本に先立ち通商の面で開国したことになります。

続く

(仲村覚)

後編はこちらから


 

【参考書籍】

( 9)ペリー来航歴史を動かした男たち 小学館 山本博文 P23~36

(10)最後の琉球王国 開分社 比嘉朝進著 P67、68

(11)沖繩の歴史 NHKブックス 宮城栄昌 P143、144

(12)本音で語る沖繩史 新潮社 仲村清司

(13)沖繩の歴史 NHKブックス 宮城栄昌 P144

(14)ペリー来航歴史を動かした男たち 小学館 山本博文 P163

(15)日米交流150年委員会 日米和親条約 http://p.tl/OD6h

(16)ペリー来航歴史を動かした男たち 小学館 山本博文 P164

(17)ウキペディア「流米修好条約」 http://p.tl/s3qw


  

 

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沖繩対策本部長■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(前編)

2011年11月11日 22時51分11秒 | 沖繩の歴史

 

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中編はこちらから  後編はこちらから  

■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(1/3)

 

■当時の東アジアの安全保障環境を理解せずして「琉球処分」は語れない

戦後の日本は憲法9条を信奉した教育を受けたため概して安全保障的概念が欠如しています。

そのため幕末や明治維新の歴史を学んだとしても年表通りに学び、日清戦争までは日本の内政改革について学び、続いて日清日露戦争について学ぶようになっています。そして明治政府が沖縄県を設置した「廃琉置県」を「琉球処分」という言葉で学び、沖縄県民が被害者のようなイメージを受けています。

しかし、「琉球処分」の行われた時代は、日本は西洋列強の植民地にならないために必死に近代化を急いでいました。

ましてや更に弱小国である「琉球国」の存続などは風前の灯の中にあったのです。

仮に「琉球処分」が行われなかったとしたら、琉球国は西洋列強のどこかの国の植民地になっていたはずです。

アヘン戦争後の琉球は、フランス、イギリス、アメリカなど西洋列強から日本開国の拠点、東アジア貿易の拠点として狙われていたのです。

当時の沖繩が置かれていた環境を理解する事によって「廃琉置県」「琉球処分」の本当の意味が見えてくるのだと思います。

参考に当時、フランスと米国がどのように沖繩に開国の圧力をかけてきたのか具体的な事例をご紹介したいと思います。


■アヘン戦争後、フランスは清国に琉球の割譲を要求していた

1842年8月29日、イギリスと清国南京条約に調印し、阿片戦争は終結しました。この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めました。

(アヘン戦争戦闘図)


南京条約はコーンウォリス艦上で結ばれた。


それに遅れをとりたくないフランスは、1844年清国に使節団を送り10月24日に南京条約と同様の黄埔条約(こうほじょうやく)を清朝政府に認めさせました。

この時に使節団は条約交渉の際に琉球を取り上げています。

清国がイギリスと再度戦争することになればフランスは清国を援助することを表明したものの、清国が清仏同盟条約案を提起すると、逆に清国を援助するための代償基地として一定の地域をフランスへ割譲するよう要求しており、の地域のひとつに琉球も含まれていました。(1)

更に、フランス以外の列強諸国に琉球諸島を譲渡させないことを清朝政府に提示しましたが幸い双方とも拒否されました。(2

もしこの時に清国が拒否しなければ香港がイギリスの植民地になったように沖繩はフランスの植民地になっていたのです。


■沖繩を日本開国の拠点と狙いを定めていたフランス

フランスが清国と南京条約と同等の黄埔条約(こうほじょうやく)を締結した前後にフランスの艦隊は琉球に条約締結を求めて寄港しています。

実はこの時フランスは琉球を東アジア進出の中継拠点として琉球を重要視していたのです。

日本と通商をしたいフランスは琉球が日本と交易しているところに目を付け琉球商人を介してフランスの商品を日本に販売する構想をもっていました。

また、ローマ教皇庁の指示のもとに琉球ルートによる日本再布教計画が立てられ、宣教師の対日中継基地として琉球を位置づけていました。

これは以前朝鮮ルートで宣教師の日本入国が失敗に終わったため琉球ルートへ計画変更が行われていたのです。(2)

  このように西洋列強の開国の圧力は、日本に先んじて琉球から始まっていたのです。


■フランス軍艦の来琉(1回目):デュブラン艦長

このような計画を持ってフランスは琉球に3回来航しています。

初回は黄埔条約(こうほじょうやく)を締結する前の1844年4月28日、フランス東洋艦隊のアルクメーヌ号(乗員230名)が那覇に入港しました。

デュブラン艦長は、通信、貿易、布教の3項目の受け入れを要求しそれを断られると、後日セシル提督が来琉予定である事を伝え、通訳官の琉球語習得のためとの名目でフォルカード神父と清国人伝道士高(カオ)二人を上陸させ残して去って行きました。(3)

 フランス人宣教師のフォルカードはその後2年間琉球に滞在し、琉球当局の厳しい監視のもとで琉球語の習得に努めるとともに布教を試みることになります。4)

 滞在中に彼は6000語以上の琉仏辞典を著しました。5)

(フランス戦の日本画:1846年沖繩)


(フォルカード神父)


■フランス軍艦の来琉(2回目):セシーユ提督

1846年5月2日、フランス艦サビーヌ号が那覇に姿を現し近海の測量や那覇・首里の探査を試み、5月31日、北部の今帰仁間切へ向けて出航しました。

6日後の6月6日、フランス東洋艦隊のビクトリューズ号とセシーユ提督の乗船クレオパトール号(乗員500人)が那覇港に姿を現し琉球に滞在していた通訳フォルカード神父ら二人を乗せて今帰仁へ向かい、3隻のフランス艦隊が今帰仁の運天港に終結することになりました。

6月17日から7月14日までの約1ヶ月間もの長い間、3隻の艦船の姿で威圧を与えつつ琉球に条約の締結を迫ったのです。(6)

 この交渉で、特筆することは、セシーユ提督が琉球駐在の薩摩役人にも言及し琉球が薩摩の支配下にあることを見抜いている事、ヨーロッパとの貿易のメリットを強調しながら案に薩摩の厳しい支配から脱却することを勧告していること、更にイギリスの琉球占領の意図を伝え暗にフランスの保護下に入れば琉球の安全が保証されることを示唆していることです。

要するに条約締結を要求するセシーユ提督の最終的な狙いは、琉球を保護国としてライバルのイギリスと対抗するための拠点を築くことであったと思われます。

琉球は巧みな引き伸ばし戦術を駆使して条約締結に全力を尽くし、7月17日に琉球当局の説得に失敗したセシーユ提督は3隻のフランス艦を率いて運天港を離れて長崎にむかいました。(7)


■フランス軍艦の来琉(3回目):ゲラン提督

9年後の1855年11月6日ゲラン提督率いるフランス艦隊が来琉しました。

ゲラン提督の条約交渉はこれまでにない暴力的で威圧的なものでした。

3日目の交渉も難航しているところに、土地住宅の借入と領事館と商人の駐留を要求してきました。

5回目の交渉で引き延ばそうとしたところをゲラン提督は激怒して兵士に建物を包囲させ刀を突きつけて条約に署名をさせました。(8)

 この条約の内容は1年前にペリーと締結した琉米修好条約締結よりも不利なものでした。

琉仏修好条約の第二条条には土地家屋の貸借の規定があるという事は、琉球へのフランス海軍の軍事施設の設置が可能となっているということです。

この背景にはフランスが極東において戦争をする時の軍事拠点として琉球を確保しておきたいという考えがあったと推測できます。

 

続く 

中編へ

 

<軍団と共に上陸するゲラン提督 場所:泊(とまり) >


 


 

 

 

(1)清末中琉日関係史の研究 京都大学学術出版会 西里 喜行著 P105

(2)論文 19世紀中葉のフランス極東政策と宣教師~劉物条約締結をめぐって~ 

   沖縄県立向陽高等学校 地歴科教諭 上原令著

(3)沖縄県の百年 山川出版社 金城正篤、上原兼善、仲地哲夫、秋山勝、大城将保著

(4)清末中琉日関係史の研究 京都大学学術出版会 西里 喜行著 P107

(5)最後の琉球王国 開分社 比嘉朝進著 P12

(6)清末中琉日関係史の研究 京都大学学術出版会 西里 喜行著 P108

(7)清末中琉日関係史の研究 京都大学学術出版会 西里 喜行著 P110

(8)最後の琉球王国 開分社 比嘉朝進著 P85、86

  


 

 

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沖繩対策本部長■ 琉球処分とは琉球庶民の救済である

2011年11月06日 16時50分12秒 | 沖繩の歴史

 

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■ 琉球処分とは琉球庶民の救済である 

■「琉球処分」とは非常に平和的な国家統一事業だった 

歴史書では明治時代に琉球王国が廃止され沖縄県が設置された事を「琉球処分」と称しています。それはあたかも日本政府が琉球国の住民の意思を無視し武力で琉球王国を滅ぼしたかのような印象を与えています。しかし、「琉球処分」といっても実際には日本軍により殺害された人は一人もいません。沖繩県が設置された翌年の明治13年、日本への服従を嫌って清国へ救援を訴えに密航した親清派の人々がいます。清国に脱出した琉球人の事を「脱清人(だっしんにん)」と呼んでいます。幸地、国頭、二人の親方は脱清人を率いて福建省総督に面会し、首里城落城を訴え救援を求めました。総督は「日本兵は何万人か、琉球人の殉死は何百人いたのか」と問いました。その質問に対し幸地は答える言葉がありませんでした。何故なら日本兵はわずか450人、殉死者はおろか戦死、自決は一人もおらず無血の首里城明け渡しだったからです。それは戊辰戦争、西南の役で1万人以上の死者を出した明治維新と比べても非常に平和的な国家統一事業だったのです。


■朝命の遵奉の決断を下していた尚泰王 

実は当時の琉球王、尚泰王は、進んだ思想の持ち主でした。彼の側近にも世界情勢をよく見えている役人が複数いました。例えば「自ら進んで版籍奉還する事が国益である」と首里王府に提案した待講の津波古政正や、「琉球が生き延びるには日本の一部になるしかない」と考えていた三司官の宜湾朝保などです。尚泰王は彼らから世界情勢を学んでいたのです。そのため、日本政府から清国との朝貢・冊封関係を断つよう勅命がくだされ議論が紛糾する中、「朝命を遵奉すべし」と決断し命令を下しています。しかし、頑固党と呼ばれる親清派閥の勢力から圧力を受け王命を撤回させてしまいます。彼らは琉球国民のためではなく、既得権益のために王国を存続させたかったのです。残念な事に尚泰王の優柔不断さの結果、日本政府は強行的な手法を取らざるを得なくなってしまったのです。

 

■「琉球処分」とは親清派琉球士族の処分であり琉球庶民の救済である 

沖繩のマスコミでは日本政府が米軍基地を沖縄県に押し付けることを第二の琉球処分とか第三の琉球処分などということがあります。この表現は事実と全く異なっています。琉球処分の「処分」とは既得権益を求めて日本への服従に対して抵抗運動を執拗に続けていた親清派の士族グループに対してであり、一般の琉球国の住民に対してはむしろ救済だったといえます。松田道之は、沖縄県を設置する任務で沖繩に派遣されました。彼は密偵を使って庶民の実情を把握して居ました。その密偵からの報告によると「士族の4割は内地の新政を望んでいるが、口にするのを恐れている。」「平民は琉球藩の過酷な政治を恨み日本の直轄を望んでいる。」ということでした。実際、琉球処分前の沖繩では、寺小屋もなく農民は字の読み書きも習うことができず、農奴のような生活をしていました。それが、沖縄県の設置以降は、農民も学校に通えるようになりました。これにより沖縄でも身分制が廃止され、努力しだいで誰でも出世できるようになったのです。 

現在、首里城祭などでは華やかな王朝文化を再現していますが、琉球国の庶民全員がこのような華やかな文化を満喫していたわけではありません。首里城の華やかさは朝廷だけのも庶民には全く関係の無いことだったのです。逆に庶民はこの朝廷が冊封や朝貢で華やかな儀式を行うために大きな税負担を強いられていたのです。

(仲村覚)


<尚泰王(しょうたいおう)>ウィキペディアの解説

http://p.tl/xSey

1843年8月3日(道光23年7月8日) - 1901年8月19日)は、第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王(在位:1848年6月8日 - 1872年10月16日)、後に日本の華族として琉球藩王(在位:1872年10月16日 - 1879年4月4日)、侯爵。童名は思次良金。父は、第18代国王尚育王。

1848年6月8日(道光28年5月8日)にわずか4歳(数え年では6歳)にして即位した。

1853年(咸豊3年)にはペリーが琉球に来航し、翌1854年に琉米修好条約を締結した。さらに、1855年には琉仏修好条約、1859年には琉蘭修好条約を結んだ。

元来、琉球は日本と清(中国)に使を送り独自性を保っていたが、他府県の廃藩置県も済んだ翌年の1872年(同治11年、明治5年)に、日本は強引に尚泰を琉球藩藩王に冊封し、東京に藩邸を与えた。然うして1879年(光緒5年、明治12年)の琉球処分により琉球藩に沖縄県が設置されると、藩王の地位を剥奪され居城の首里城も追われ、琉球王国は消滅した。尚泰たちは琉球王家の屋敷の一つ中城御殿に移ったが、華族として明治政府より東京在住を命じられた。尚泰の次男尚寅、四男尚順は後に沖縄に帰ってきている。

のち華族令の発令に伴って尚泰は侯爵となった。1901年(明治34年)に59歳で没。墓所は沖縄県那覇市の琉球王家の陵墓・玉陵(たまうどぅん)。なお、尚家は現在も存続している。

「命どぅ宝」は尚泰王の言葉と言われることもあるが、本来は演劇中のセリフである。


<津波古政正(つはこせいせい)> 朝日日本歴史人物事典の解説

http://p.tl/o0dh

生年: 尚【外6BB4】13.8.21 (1816.9.12)  没年: 尚泰30 (1877) 

幕末琉球の政治家。首里の士族家の生まれ。中国名は東国興。北京の国子監に留学し,帰国後さまざまな職を歴任したのち尚泰王の国師(教授役)となる。理知的でバランス感覚を持つ政治家として知られる。明治政府による琉球処分(沖縄県設置)の動きをめぐって王国内部が紛糾した際も常に冷静な判断を王に意見具申したが,激動の渦中で死去したため,その資質は十分に生かされなかった。高弟に『琉球見聞録』の著者,喜舎場朝賢がいる。 (高良倉)


<三司官 宜湾朝保(ぎわんちょうほ)>1823~1876 JCCweb美術館より

http://art.jcc-okinawa.net/rekishi/giwanchobo/

宜湾朝保尚灝20年(1823年)3月5日 - 尚泰29年(1876年)8月6日)は、琉球王国末期の著名な政治家で歌人。当時の正式な呼称は宜湾親方朝保。

琉球藩を受け入れた 王国最後の政治家

十九世紀中葉、日本が明治維新を成し遂げた激動の時代。
若くして琉球政治の最高職・三司官に就任した宜湾朝保は維新を祝う使者として東京に派遣された。そこで新政府から琉球を日本の藩とし、国王・尚泰(しょうたい)を藩王とする詔勅が下され、使者一行は驚くが、宜湾は世界の大勢とと自国の立場を鑑みこれを受諾した。以降、琉球を日本に取り込むための施策、所謂(いわゆる)琉球処分が段階的に行われていった。
亡国の危機に瀕した琉球王府では議論が沸騰したが、宜湾はこの様子を「衆官の議、もっぱら己の門閥(もんばつ)を保つを先にする」と評し「ただ国家を安んずる」ために多難な琉球を新しい時代に導こうとした。しかし親清派の士族達からは「売国奴」と呼ばれ、激しい非難の集中砲火を受けたため病に伏し、やむなく三司官を辞した。彼が憂悶のうちに没したその三年後、強権的に琉球王国は廃され沖縄県となった。

「野にすだく 虫の声々かまびすし たが聞き分けて品定めせむ」  宜湾朝保

宜湾朝保は当代一の国際感覚を持った政治家であり、琉球最大の歌人とも称された文化人だったが、失脚後は不遇な晩年を送った。


 

<尚泰王(しょうたいおう)> <宜湾朝保(ぎわんちょうほ)>

                

 

 


<参考文献>

 

     




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JSN■【動画紹介:拡散依頼】「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」最終話(1/2)

2011年01月26日 00時29分45秒 | 沖繩の歴史

 

仕事が多忙のため、間があいてしまいました。

前回に引き続き、
「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」最終話(1/2)を紹介させていただきます。

今回は、国旗を掲揚することにより、日本人の心が一つになれる。

それを痛感させる動画です。

国旗を掲揚することなく、日本人が日本人であることの誇りと喜びを示す方法は、

この世には存在しません。

1964年の沖縄、県民一体となって祖国日本との一体感を喜んだ瞬間がありました。

尖閣危機の今こそ、祖国復帰の原点に帰って、素晴らしい日本を子孫に残すために

沖縄・日本を守りぬきたいとおもいます。

以下、是非、感動の動画をご覧ください。

動画の視聴が難しい方のために、動画中の文字を起こしました。

<「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」第二話>
http://www.youtube.com/watch?v=W6YNSgMajDU&NR=1

前回の動画に、マイクロ波回線が実際にどのように経由されたのか知りたいとい
うコメントをいただいておりました。

探してみると、それっぽいものがみつかったので紹介します。
鹿児島からの先のルートだけですが・・・

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<本土・沖縄間 OHマイクロ記念の碑>

「此処、多野岳山頂に設けら れ、本土・沖縄間に耳目となり、心の架け橋として歴
史的に重要な時代に即応すべき使命を果たしたOHマイクロ回線、いまその時代の幕
を閉ざす惟え ば、昭和三十九年九月、新時代の寵児として本回線は開設された。
時、恰も東京オリンピックに当りそのテレビ中継沖縄百万県民は、地理的、時間的条
件を超 え、迫力ある臨場感に感嘆し、本土との一体感に感動した。
爾来二十年、昭和五十九年三月に至るまで、OH回線が沖縄の政治、経済、文化の
進展に果 たした役割は大きい。ことに沖縄県民の悲願とも云うべき祖国復帰へ
の貢献は特筆に価する。
我々は、茲にOH回線が単なる通信方式と云うより重要な 歴史の担い手であったこ
とを、高揚するものである。

昭和六十一年十二月 賛同者一同」

----------------------------------------------------------------------

記念碑によると、この回線は、与えられた使命を完遂し、昭和59年に新しい通信方
式に役目を譲ったそうです。

前回のやり残しもできたことですし、次の話へ進みます。


「沖縄の東京オリンピック」最終話(1/2)


さて、これで沖縄の人々の二つの望みは叶いました。
でも、もし出来ることなら聖火を持って走る沖縄の青少年たちを沿道でみんなで日
の丸を振りながら応援したい…

しかし、それは最も難しい願いでした。

前述した通り米軍は、沖縄での日の丸掲揚を異常なほどに規制していました。

当時の在沖米軍は、日の丸を日本の国旗というよりも、琉球列島米国民政府(USCAR)
の治世の転覆を目論む過激派のシンボルマークのように見ていたのです。

これに反発して沖縄では少し以前から「日の丸を揚げよう」運動が始まっていました。

その中心となって活動していたのは「沖縄教職員会」です。

どこかで聞いたことがあるな…と思われるかもしれませんが、これは、皆さんご存知の
沖縄教職員組合(沖教組)の前身となった組織です。

嘘のような本当の話です。

ただし、前身とはいえ教職員会は、校長や教頭も含まれており、労働組合ではあり
ませんでした。
この活動の成果だったのかどうかはわかりませんが、1961年の池田・ケネディ会談
において法定の祝祭日に限り公共建物にも日の丸掲揚がゆるされることになりまし
た。

さて、おなじみの当時の高等弁務官、ポール・キャラウェイは、これに強く反発し
て次のようなコメントを残しています。


「ケネディ政権の日米協調政策は、沖縄におけるアメリカの軍事的利益を損なう。」

時は冷戦の真っ只中。彼には彼なりの正義があったのでしょう…
と、ちょっとだけフォローを入れておきます。

この「日の丸を掲げよう」運動がピークを迎えたのは、もちろん、日本でのオリン
ピック開催で盛り上がったこの時期でした。

さらに、新聞社である琉球新報が「聖火を日の丸で迎えよう運動」を提唱すると、
商店街や自治会がこれに同調。

集落や学校、婦人会や青年会へと次々に運動の輪は広がり、「聖火を国旗で!」の
機運が沖縄全土を覆いつくしました。

ここで、少し整理してみまよう。

この時点で国旗の掲揚が許されていたのは、

1.個人の家屋や政治的な意味を持たない私的な会合
2.法定の祝祭日

残念ながら聖火リレー当日の沿道はこれに当てはまりません。
やはり、過ぎた願いだったのでしょうか…

とりあえず、話を勧めます。

聖火は8月21日にオリンピック発祥の地ギリシャのオリンピアで採火され、22日に日本へ向けてアテネを出発しました。

アジア初のオリンピックであることを誇示するかのように、アジアの国々を喝采
の中聖火は駆け抜けていきます。

リレー走者全員の胸には、「TOKYO1964」のロゴと組み合わさった日の丸がまぶし
く輝いていました。

通過国は11カ国。海外でのリレー走者は870名。

かつて無いほどの盛り上がりを見せていました。

しかし、香港でちょっとしたアクシデントが発生しました。

台風の為、聖火が一日足止めを食らったのです。

このため、本来なら9月6日に沖縄入りするはずだった聖火の到着が9月7日になっ
てしまいます。

日程調整に頭を悩ませた東京オリンピック組織委員会は、沖縄での日程を短縮し
たいという意向を沖縄側に伝えます。

しかし、沖縄側はこれを拒否します。

沖縄のリレー走者3473名の青少年には、多くの戦没遺児が含まれていました。

日の丸を護るために戦場にちった彼らの父親は将来の日本にどんな未来を夢見た
でしょう?

世界中の喝采を受けながら、平和の祭典の使者として晴れがましさいっぱいに走
る息子の姿は、何よりもその地でなくなった父親達への供養になるはずでした。

リレー走者3473名一人足りとも減らすわけにはいかないという思いは絶対に譲れ
ませんでした。

それに対して日本側が見せた誠意は、沖縄での日程は変更せず、聖火を途中で
「分火」して先に鹿児島へ送ることで、本土の日程も変更せず、沖縄に残った聖
火を福岡経由熊本で「合火」するという調整によって示されました。


9月7日午前11時59分

聖火を乗せた「シティ・オブ・トウキョウ」号が台湾から那覇空港に到着しました。

栄えある国内第一走者に選ばれたのは、当時22歳琉球大学4年生の宮城勇氏でした。

彼の父親も彼が2歳の時クェゼリン島の戦で戦死していました。

そういえば、日の丸掲揚の話を途中で置き去りにしていましたね…

この第一走者の宮城氏は後に産経新聞の取材に対してこう答えていました。

「道の両側がすごい日の丸で、走りにくかったが感激しました。」

米国民政府はこの日の丸を黙認しました。

いえ、黙認せざるを得なかったのです。

「聖火を日の丸で迎え要運動」は、年齢、性別、職業を超えて沖縄全土を覆い尽
くして盛り上がっていました。

高等弁務官の強権をもってしても、この勢いを抑える手立ては無かったのです。

ワトソン高等弁務官は後に、プレスにこう言っています。


「祝賀行事であるため黙認した」


とにかく、沖縄でこれほど公然と日の丸の旗が振られたのは、戦後初めての事でした。

ちょっと沿道の写真を観てみましょう。

うはぁ…確かに走りにくそうです。
というか建物の屋上まで人がびっしりです。

「聖火を日の丸で」運動を提唱した琉球新報社前には五輪旗と並んで巨大な日の丸
が掲げられました。

沿道で住民が握り締めていた日の丸の多くは、この19年間、住民たちが自宅の箪
笥の抽斗で大切に保管してきたものでした。

いつか、この旗を振れる日が来たときに、虫食いの穴があいていたりしたらシャレ
になりません。それはそれは、大切に保管していたそうです。

そして、ずっと夢見てきたその「いつか」は今でした。

午後12時40分になh空港を出発した宮城勇青年が運ぶ聖火は、午後1時に歓迎式典
会場である奥武山(おうのやま)競技場に姿を現しました。

聖火台の下でファンファーレが奏でられました。

しかし、不思議なことにそのファンファーレは、会場にいた誰の記憶にも残りま
せんでした。


平日であったにもかかわらず、競技場につめかけた4万人の大観衆の拍手と歓声
は大地をも揺るがすものでした。

ファンファーレの音は、完全にかき消されてしまっていたのです。


聖火台に点火されると、高らかに君が代が演奏される中を大日章旗が悠揚と掲揚
台のポールを上り始めました。

米軍占領下にあった当時の人々は、何を思いながらこの光景をみていたのでしょ
うか…?

当時をよく知る人によれば、その時会場の人々は、てにした日の丸の小旗をぎゅ
っと握りしめて、涙をこらえていたそうです。

神の誕生か、この世の終末か… とにかく尋常な騒ぎではありませんでした。

この日から5日間、沖縄は熱狂の渦に包まれます。

もちろん、この熱狂に陶酔できない人たちもいました。

沖縄の詩人、中屋幸吉はこの時のことを、こう書いています。



「沿道をうめつくし、

旗亡き者は旗をふり、

袖なきものは胴をふり、

ふってふって

ふりまくり、あやうく

自分の精神まで

ふるいおとしかねない

透明で 単純な顔の群れ、群れ!」

「もっと、深い内容をもった別の、

新たな運動が一日も早く、

生まれんことを!」


裏を返せば、少し醒めた人から見れば、

皆、気が狂ってしまったのではないかと思うほど沖縄の人々は熱狂し、祖国との
一体感に前身で酔いしれていたのです。

(次回に続く)

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JSN■【動画紹介:拡散依頼】「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」第二話

2011年01月19日 01時40分48秒 | 沖繩の歴史
昨日の続きです。

当時の沖縄と日本政府が、どれだけ沖縄と日本を近づけようと努力を積み重ねてきた
のかがよく理解できる動画です。

「大田政作」という政治家の名前は子供の頃よく耳にしていたのを覚えています。

しかし、このような方の力で、復帰前の沖縄でも本土とそうかわらないテレビを見る
ことができたのだと初めて知りました。

当時の日本政府と琉球政府の方々に深い感謝の念いがでてくる動画です。

是非、ご覧ください。

(JSN代表 仲村覚)

<「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」第二話>
YOUTUBE
http://www.youtube.com/watch?v=sdDPH1FrEgY

ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13010259

<「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」第二話>

奇跡的な復興を遂げた祖国の威信をかけた一大イベントを本土の人と同じように
リアルタイムで味わいたい。

それが沖縄の人々の、もう一つの願いでした。

この当時、沖縄では、本土のテレビ番組(NHK)は録画でしか見る事が出来ません
でした。

東京からの距離が1540キロもあれば、当然、まともな電波が届くはずがありません。

しかし、この望みを叶える事が出来る技術が、当時、一つだけありました。

それが、マイクロウェーブ回線です。

簡単に説明すると、放送局同士をマイクロ波を用いた高速回線でつなぐことにより、
キー局の放送する番組を、地方でも安定して受信できる。というものです。

1954年に東京-名古屋-大阪間に開通したばかりで当時の最新技術でした。

しかし、このラインを遠方の沖縄まで延長するとなると見上げるハードルは
並の高さではありません。

沖縄から日本政府と公式折衝に当たったのは、太田政作行政主席。

行政主席とは当時の琉球政府の行政府の長で、今の日本でいう総理大臣にあたる職務
です。

メディアを通して日本との心理的な距離感を縮め、沖縄を「文化的に発展」させよう
というのは、
当時の琉球政府の指導者らに共通した思考でした。

後に太田はこう書いています。

「東京~沖縄間の距離は1540キロであるが、マイクロの世界では、わずか200分
の1秒に短縮される。これは私が当時心に描いていた日琉一体化の構想にもうってつけ
である。」

オリンピックに向けて「日琉間マイクロウェーブ回線事業」が始動しました。

沖縄援助計画の一つとして始動したこのプロジェクトに日本史府は当時の金額で10億
円という巨費を投じました。

さらに日本政府はこの事業の為に特別立法まで制定してプロジェクトを推進させました。

そして、オリンピックの開催まであと1年と迫った1963年9月、
日琉間マイクロウェーブ回線設備が完成しました。

装置は整えられました。

しかし、未だ開通のめどは立っていなかったのです。

問題は山積みとなっていました。

テレビ局の回線使用割り当て、

日琉間の分収率配分の問題、

そして、米側との交渉・・・

問題は一向に解決に向けて進もうとしませんでした。

沖縄住民の世論は悲痛な声を上げていました。

「オリンピックに間に合わない。。。」

太田行政主席は日本政府だけでなく米軍の3人の歴代高等弁務官をも交渉の相手としま
した。

今更ながら高等弁務官について簡単に説明すると、
米大統領の承認を得て国防長官が陸軍将官から任命する当時の沖縄の絶対君主的なもの
です。

絶対君主とはまた大げさなと言われそうですが・・・
とりあえず高等弁務官のチート過ぎる職務権限を見てみましょう。

・行政主席や琉球上訴裁判所裁判官の任命権
・琉球政府全職員の罷免権
・琉球政府立法院が制定する立法の拒否権

おわかりいただけたでしょうか?
司法・行政・立法の三権全てを掌握していました。

1950年代以降、米軍はマスメディアを住民への広報・宣伝活動統治の効率化に不可
欠な要素ととらえていました。

米軍はNHK番組(録画放送)を減らし、米軍も含めた琉球側の政策番組を増やすなどの情
報操作を行っていたのです。

ここで少しだけこの交渉に臨む太田政作氏の紹介をさせてください。

出身は沖縄県国頭郡国頭村。

早稲田大学在学中に高等文官試験に合格しています。
高等文官試験とは、試験に合格すると、行選管、外交官、領事館、判事、検事に登用さ
れる資格が与えられるという戦前のスーパーキャリア試験でした。


地裁の判事や検事局の検事を歴任し、台湾の5州3庁の一つ、ほう湖庁の長官として終
戦を迎えます。

戦後は熊本で弁護士をしていましたが、1957年に当間重剛主席に請われて沖縄入りし、
すぐに副主席に就任しています。
2年後の1959年、沖縄の保守勢力が結集して沖縄自由民主党が結成されると、総裁とし
て迎えられました。

説明が長くなってしまいましたが、要約すると希代の切れ者、沖縄返還後、沖縄の復興
に尽力した功績を称えられ勲二等瑞宝章を授章しています。

弁護士、検事、判事の経験者である大田主席にとって、交渉ごとは存分に本領を発揮で
きる舞台でした。

ブース高等弁務官は太田市の予想に反してあっさりと了承しました。
しかし、次に着任したキャラウェイ高等弁務官は様々な形で美国民政府の管理権を確保
しようとしてきました。

時系列でいうとマイクロウェーブ改正の装置が完成したのは、このキャラウェイ高等弁
務官の時期です。

キャラウェイ高等弁務官は歴代の高等弁務官の中でも強硬派としてしられており、高等
弁務官の強健を惜しみなくは集うしました。

彼がやり過ぎたせいで住民の反感を招き、米国は沖縄統治に失敗したといわれるほどの
人物です。

交渉は難航します・・・

オリンピックまで残り100日をきりカウントダウンが始まりました。

そして、聖火の沖縄入りまで残すところあと1ヶ月となった1964年8月1日。

ワトソン高等弁務官が着任しました。
彼は前任のキャラウェイ高等弁務官の強硬姿勢を改め、柔軟路線で対応した事で有名な
高等弁務官です。

前任者の強権乱発は「キャラウェイ旋風」とよばれており、沖縄の保守派も親米派もバ
ラバラに分裂。
沖縄は混沌と化していました。

そのせいで米軍の沖縄とうちの継続はすでに危ぶまれていました。

ワトソン高等弁務官は、琉球政府への権限の委譲を積極的に行うなどして、対米感情の
改善に努めました。

この柔軟路線のワトソン高等弁務官が着任した日を境に、事態は急速に収束へと向かい
ます。

そして・・・

1964年9月1日 午前9時

日琉間マイクロウェーブ回線開通式が行われました。

聖火の沖縄入りは、もう5日後に迫っていました。

このラインはオリンピックの同時中継を可能にするものでした。

「間に合った!」

この事業に関わった関係者、そして住民たちの歓喜のほどは私がここで述べるまでもあ
りません。

終戦から19年・・・
立派に甦った日本の晴れの舞台の会場に翻る日の丸に、
沖縄の住民もリアルタイムで感動するための環境が今ここに整えられたのです。

約13年間、米軍の準機関士「星条旗」の記者をつとめ、後に米軍占領史研究者となっ
た宮城悦二郎氏はこの日のことをこう言いました。

「テレビの『本土復帰』を果たした日」

次回へ続く・・・

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JSN■【動画紹介:拡散依頼】「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」第一話

2011年01月17日 23時13分00秒 | 沖繩の歴史
■世界華人保釣連盟が尖閣諸島に集結する「沖縄返還協定調印」日

皆様ご存知のように、今年6月17日には、世界華人保釣(釣魚島防衛)連盟が
尖閣諸島に集結する事が予定されています。

何故、かれらは6月17日を選んだのでしょうか

彼らが言うには、今年の6月17日は日米間で「沖縄返還協定」が調印され、
不法に日本に領土が奪われてから40年目の日であり、その日に尖閣問題解決の決
意を示すとの事です。

つまり、昭和46年(1971年)6月17日が沖縄返還協定が調印された日であ
り、その翌年の昭和47年(1972年)5月15日に沖縄が祖国復帰したわけで
す。

彼らのプロパガンダと戦うには、沖縄返還協定、沖縄祖国復帰、その歴史的意味を
しっかりと理解していく必要があると痛感します。

今年の5月15日は祖国復帰39周年になりますが、来年の40周年を迎える前に、
沖縄の祖国復帰とは何だったのか原点にかえる事がとても重要だと思います。

支那のプロパガンダやその手先となった沖縄に集中する左翼性力と戦い、日本を自立
国家として再建させるためには、沖縄返還の意味を正しくとらえる事が必須だと私は
思っています。

まずは、沖縄にとって祖国復帰とは何だったのか?

次に、日本にとって沖縄返還とは何だったのか?

更に、日米関係にとって沖縄返還とはなんだったのか?

また、あまり考えた事は少ないと思うのですが、

日中関係、米中関係にとって沖縄返還とは何だったのか?

これらの事について考える事により、尖閣諸島の問題の本質が見えてくると思います。
そういう中、沖縄の祖国復帰の原点を理解させてくださる、すばらしい動画が昨年
末にアップされていました。

「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」

<YOUTUBE>
http://www.youtube.com/watch?v=ACb3qUmX8-U


<ニコニコ動画>
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12942897
<script src="http://ext.nicovideo.jp/thumb_watch/sm13116120" type="text/javascript"></script>

という動画です。

作成者の方、本当にすばらしい動画ありがとうございます!
沖縄県民必見の動画だと思います。

また沖縄県外の方にも、日本と異なる沖縄の戦後史を理解する良い動画だとおもい
ます。

字幕も文字お越ししましたので、動画をご覧いただけない方も是非下記文章をお読み
ください。
今回は4本のうちの1本目をご紹介します。

(JSN代表仲村覚)

■動画:「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」第一話

<「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」第一話>

皇太子殿下ご結婚のニュースに日本中が湧いた昭和34年。

この年、5年後に開催される第18回オリンピックの開催地が決定しました。

第18回オリンピック競技大会、その開催地に選ばれたのは東京!

敗戦の傷手から奇跡的に立ち直った日本が平和的な民主主義国家として国際社会に
復帰する晴れの舞台。

このオリンピックは、日本の戦後復興を示す国家目標として位置づけられる事にな
ったのです。

開催地が決定した直後から、沖縄側は聖火リレーを沖縄でも実施するように
関係機関に働きかけ始めました。

当時沖縄は米国市政権かにあり、日本の「潜在主権」のみが認められているという
非常に曖昧な領域でした。

問題は簡単ではありませんでした。

当時、米国、特に在沖米軍が最も恐れていたのが、沖縄、日本国内の沖縄返還の世
論が高まることだったのです。

1945年の沖縄上陸直後に沖縄において日本国旗の掲揚と国家の斉唱・演奏が禁
止されました。

1949年の集成刑法では、日本国旗だけでなく、米国旗以外の国旗の掲揚まで禁
じられました。

講話条約発効の1952年になってやっと個人の家屋や政治的な意味をもたない私
的な会合における日の丸の掲揚が認められましたが、沖縄の長期保有を前提として
いた米国は沖縄県民の祖国愛を抑えようと苦心していたのです。

当時の外務大臣、小坂善太郎は、沖縄で米軍が禁止していた学校における日の丸の
自由掲揚を許可するよう、以前から何度も米国側に働きかけていました。

しかし、ブース高等弁務官の返答はNOでした。

「我々は琉球を、日本とのパートナーシップや信頼において統治しているのではな
い」
「どのような国旗も、絶対の政治シンボルとして、すべての人々に強い国民的感情
を正当なものとして呼び起こさせる」

1961年小坂外相鵜は米国務長官や大使と会談した際、次のような事を言いまし
た。

「日本政府は琉球の日本返還を求めてはいないが、復帰要求を抑えるために、琉球
の生活水準を向上させる事が決定的に重要である。」

小坂外相は同じ席で沖縄への日本政府援助の拡大や教育指導計画を持ち出しました。
しかし、過敏になっている米国側はそれすらも日本側の領土野心の現れではないか
と警戒の色を示したのです。
これに対し小坂外相は、こう言わざるを得ませんでした。
「日本政府は米国施政権を妨害するつもりも『少しずつかじっていく』つもりもない」
すみません・・・
自分で書いていて何を言いたいのかわからなくなってきましたが、

当時の沖縄を巡り、日本、米国で非常に繊細な政治的駆け引きが行われていたとい
う雰囲気が皆さんに伝わっていたら私の目的は達成です。

そんな状況の中で、東京オリンピックの聖火リレーを沖縄で実施したいという沖縄
側の要望が、米国にさらなる警戒を与えるのは目に見えていました。

しかし、沖縄の人たちも簡単には諦めません。

祖国日本が復興を果たし、世界の晴れ舞台に立つこの大イベント
になんとしてでも参加したい。

祖国との一体感をもっと身近に感じたい・・・

沖縄側は積極的にオリンピック東京大会組織委員会に働きかけ続けました。
1953年、沖縄体育協会が日本体育協会の支部として承認を受けていたのです。

しかし、その根拠だけでごり押しすることは可能なのでしょうか?

1962年7月4日

聖火リレー特別委員会が決定を下しました。


「国内聖火リレーは全都道府県をカバーすること、走者は青少年で、
日本最初の着陸地は沖縄とする」

「我々は日本に見捨てられていない」

沖縄の人々は、米軍占領下にあるにもかかわらず、日本の国土と認められ、聖火
の国内第一歩をしるす地に選ばれたことを、「よき日本人」としての資質が試さ
れる機会と受け止めました。

沖縄リレー実行委員会美化小委員会は、新生活運動推進協議会や沿道市町村とと
もに、聖火コースの美化を住民に訴えました。

そして、全琉一斉に清掃運動を展開し、保健所では清掃要領を発表して、恥ずか
しくない沖縄を演出しようと努めたのです。

でも、区切りが良いようなので、また次回お話しします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第二話へつづく

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JSN■明治維新と沖縄

2010年11月23日 03時23分58秒 | 沖繩の歴史
【沖縄へ自衛隊を早急配備を実現するために署名のご協力をお願いします。】
<クリックしてダウンロードしてプリントアウトをしてください。>

■中国の侵略目標は尖閣諸島だけではない。

最近、中国の尖閣諸島への侵略行為があからさまになってきました。

また、尖閣諸島だけでは無く、

中国国内の言論では「日本は琉球に対する主権はない!」

「中国は琉球独立運動を支援するべきだと!」

「早急に香港やマカオのように、国務院琉球事務書をを設立するべきだ」

との声まで出てきます。

基本的に政治的な事に対する言論の自由はない国ですので、中国政府の意図が現れていると考えるべきです。

これらは、中国共産党の得意とする、プロパガンダ(情報宣伝工作)であり、

銃弾を使わない戦争をしかけてきているのだと気付かなければなりません。

もし、日本政府が「中国は単に尖閣諸島の領有を主張しているだけだ。」

と認識し、その対応だけに駆けずり回る様だと、国家を滅ぼす大きな大失敗をする事になります。

現在起きている問題は、そのような小さな問題ではないのです。

それは、

「沖縄の帰属問題」

「日本と中国による沖縄の領有権争い」

なのです。

■維新直後に明治政府が最優先で取り組んだ「琉球帰属問題」

日本の歴史を振り返ると、今、沖縄を舞台に起きている中国との外交問題は初めて経験した事ではない事がわかります。

時計の針を130年前に戻し、その時の日本政府の対応を確認する事により、今起きている問題の本質が見えてきます。

それは、明治維新直後から始まりました。

明治4年(1871年)、廃藩置県を行った明治政府は、翌年明治5年(1872年)には、琉球王国を廃止し、

「琉球藩」を設置しました。

新政府の設立後数年にして、琉球が日本の版図である事を内外共に示したのです。

しかし、実際に沖縄県が設置されたのは、明治12年(1879年)です。

琉球藩の設置から沖縄県の設置まで、7年間もかかりました。それには理由があります。

その7年間の間には、廃藩置県後も清国との朝貢関係を続けている琉球の帰属、領有権をめぐり清国との熾烈な外交交渉が繰り

広げられていたのです。


■宮古島遭難事件と台湾出兵

明治5年から7年までの間は、宮古島島民遭難事件をめぐって開戦ぎりぎりの外交交渉が繰り広げられました。

<宮古島島民遭難事件>
http://ja.wikipedia.org/wiki/宮古島島民遭難事件

明治4年、宮古島の年貢運搬線が台湾の高雄州に漂着し、乗組員69人のうち54人が当地の原住民に殺害されるという事件がありました。

日本政府は清朝に厳重に抗議しましたが、現地の原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、

日本政府は台湾出兵を行いました。(中止命令が出ましたが、西郷隆盛の弟の従道が拒否して出兵。)

<台湾出兵>
http://ja.wikipedia.org/wiki/台湾出兵

この事件に対する清国との交渉は平行線で進捗しませんでしたが、日本政府は土壇場で「台湾蕃地は清の領土ではない」という主張を引っ

込め賠償金を引き出す方向に交渉の論点を移し、明治7年10月31日「議定書」(互換条款)の調印にこぎつけました。

その結果、

「日本の台湾出兵は、『日本国民』を保護するための義挙活動である」

と清国が条約上認める形になりました。

これで日本政府は、琉球に対する清国の宗主権の主張を封ずる措置を講ずることができたわけです。

この事件において、日本側で外交交渉にあたったのは、当初は「柳原前光」、その後、難航した末「大久保利通」が全権弁理大臣として北京

に派遣され外交にあたりました。

清国で交渉にあたったのは、清国最大の政治家、当時の直隷総督兼北洋大臣の「李鴻章」です。

後に日本軍は日清戦争でも彼の率いる北洋軍と戦う事になります。

台湾出兵は、清国との開戦には至りませんでしたが、実質的に日清戦争の前しょう戦だったといえるのではないかと思います。


■分島・改約問題

そして、明治12年(1879年)に沖縄県の設置を果たします。

しかし、清国から沖縄県の設置に対する抗議は続きました。

翌明治13年(1880年)、アメリカ前大統領グラントが仲裁に入り、沖縄県から先島諸島を分割し清へ割譲し、その見返りとして、

日本に中国内地での通商権を与える案を提示し、調印直前までこぎつけましたが、清が拒絶したため頓挫しました。

最終的に、領有権問題の解決は明治27年(1894年)の日清戦争後まで持ち込まれる事になりました。



■沖縄と日本は一体でなければ、日本も沖縄も独立国でいられない。

では、何故明治政府は琉球の版図の確定を急いだのでしょうか?

単純に薩摩藩の属国だったから日本政府が引き継いだのでしょうか?

推測でしかありませんが、

「西洋列強から日本を護るため」

だっと私は思います。

明治維新の頃、既に琉球王国は米国と「琉米修好条約」を結んでいました。

浦賀にペリーが来航した時、ペリーは既に琉球を艦隊の補給基地、駐屯基地として利用していたのです。

1953年にペリーは下田で江戸幕府へ大統領の親書を渡したあと、琉球へ寄港し資材を補給し香港へ出港しています。

そして、香港から沖縄を経由して浦賀へ二度目の来航をしています。

つまり幕末の時点で、米国は既に琉球をアジアの中継基地として活用していたわけです。

このような便利な拠点ならハワイと同じように米国の殖民地にされる可能性が高かったとおもいます。

(1843年:イギリスがハワイの領有を宣言。1849年:フランスがハワイの領有を宣言)

その危険性を明治政府は知っていたからこそ、先手を打って日本の独立を護るために琉球を日本に取り込んだのだと思います。

それは、日本にとっても沖縄にとっても幸福な事だったとおもいます。

もし、琉球王国がそのまま独立国だったら、琉球は必ず他国の殖民地になっていたはずです。

それは、米国かもしれませんし、フランスかもしれません。

既に東アジアの位置で弱小国が独立国であることは許されない状態になっていたのです。

そして、沖縄が第三国の殖民地になった場合、日本は東シナ海の制海権を失います。

そして、東シナ海の制海権を失った日本もシーレーンを失うため独立国でいられなくなります。


■仮説:沖縄県の設置なくして、日本は日清戦争も日露戦争も戦えなかった。

では、ここでシミュレーションをしてみたいとおもいます。

明治政府が沖縄県設置に積極的に取り込まなかったらどのようになったでしょうか?

沖縄はご存知のとおり、地政学的に重要な位置にあります。

それは、日清戦争、日露戦争においても例外では無いはずです。

日清日露戦争にて共通の海戦がありました。それは、「黄海海戦」です。

黄海と沖縄は一見関係ないように思えますが、実は沖縄が日本だったからこそ、黄海海戦は戦えたのだと私は理解しています。

もし、明治維新後、琉球王国が日本と国交断絶し、清国と軍事同盟を築き、清国の艦隊が沖縄の港を利用する事を認めたらどうなった

でしょうか?

ここで、東アジアの地図を見ていただきたいと思います。

黄海の入り口は、日本海ではありません。それは東シナ海です。

沖縄を制するものは、東シナ海を制するのです。

おそらく、日本の艦隊は黄海に行く事も難しくなったのではないでしょうか?

また、九州の防衛にも相当の軍事力を割かなければならない状態になっていたと思います。

つまり、「沖縄県の設置無くして、日本は日清戦争も日露戦争も戦えなかった。」

ということです。


■現日本政府は、沖縄外交を明治政府に学んで臨むべき

さて、明治4年から12年までの沖縄県設置に到るまでの日清間の外交を確認し、次にその外交の目的を

考えてみました。

現在、「沖縄は日本」というのは当たり前になっていますが、わずか130年前はそうでなかった事がわかります。

明治維新直後に新政府が大きな苦労と努力の末に獲得し、日清戦争の勝利により確定したのです。

私たちは、よく考えた上で行動シなければ、明治維新の努力を崩壊させてしまいかねない瞬間に立ち会っているのです。

今、尖閣諸島の領有権を中国に主張されている日本政府は、この先人の足跡をよく学んだ上で外交にあたってほしいものです。


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