いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

1年後の福島(本編その1)・・・水族館、小名浜港、住宅街、いわき市内の様子を報告します。

2012年04月26日 22時20分10秒 | 日記

 1年後の福島を再訪した報告の本編(その1)です。
 2012年4月21日の土曜日、早朝に東京を出発した我々は、
常磐自動車道を、ひたすら、いわきに向かいます。
 小名浜を取材するために、途中、いわき勿来の出口で常磐道を
降りました。

 小名浜港がどうなっているかを取材するのが目的ですが、
小名浜港のすぐ手前に、水族館がありました。
 あの日、水族館に津波が侵入し、魚たちが飼えなくなりました。
 その魚たちを、一時、県外の水族館に預かってもらったことで
有名になりました。

 行ってみると、オープンしています。

 この写真は、水族館の入り口です。
 桜がちょうど満開です。

 立派な設備です。

 確かに、営業しています。
 人に来てもらうため、再開を急いだのだそうです。

 入場料は大人1人1600円で、ちょっと高いですね。
 中には入りませんでしたが、プールでイルカのショーでもやってい
るのでしょうか、時折、子供たちの歓声が聞こえてきます。
 子供たちの歓声は、復興に向けて、大きな力となります。
 
 しかし、これだけの施設、設備を維持するのは、それは
相当大変だろうと思います。
 資金的にも、相当な金額になるでしょう。
 正直にいえば、少し、首をかしげました。

 水族館のすぐ向こうが、もう、小名浜港です。
 去年、取材に来たときは、この港に、漁船が打ち上げられて、
ごろごろ横たわっていました。
 今回の写真をご覧ください。

 さすがに、陸上に打ち上げられた船は、片付けられています。
 しかし、港に、なにもないのです。
 船は作業船でしょうか、ただ一隻、停泊しているだけです。
 漁船がないので、ひとかげもありません。

 がらんとしています。
 港は、一見、きれいになったように見えますが、しかし、実際は
港として機能していないのです。
 原発事故で放射線が放出されため、福島の海で獲れた魚は、なかなか
買い手がいません。だから、漁船のにぎわいがないのです。

 しかし、そんな港の敷地に、新しい市場がオープンして
いました。

 もともと、ここは卸売り市場がありました。去年来たとき、その
卸売市場は、津波で破壊されていました。そこを整備して、消費者
向けの海産物市場を作ったのです。

 入ってみましょう。

 意外ににぎわっています。
 私たちが行ったときも、駐車場に、各地からの観光バスが来て
いて、その乗客が、この市場で海産物を買っていました。
 私たちの車のすぐ向かいに駐まったバスは、姫路(兵庫県)の
ナンバーをつけていました。遠くから来るんですね。でも、
そういうのが大事です。そうやって、人が来ると、被災地にも
活気が出てきます。
 観光でもいいから、被災地に行くというのは、とても意味の
あることだと思います。

 しかし、この海産物に近寄ってみて、気がついたことが
あります。

 おわかりになるでしょうか。

 もっとアップにしてみましょう。



 そうなんです。
 海産物に「北海道産」「千葉産」などと書いてあるのです。

 元気よくお客さんの呼び込みをしている店の人に聞きました。
 「これ、千葉産とか、北海道産とか、みんな、他県のもの
ということですか?」
 「うん」
 「じゃあ、仕入れてくるということですか」
 「うん。いわきにさ、中央卸市場があってね、そこで仕入れて
きて、並べるんですよ」
 「福島のものは?」
 「福島の魚は、売れないんですよ」
 年配の漁師さんでした。

 福島の魚は売れないんだという話をするときは、声が小さく
なっていました。
 小名浜という有力な漁港で、自分の所で獲った海産物を扱
えないというのは、それは、残念でしょう。 


 思わず、「がんばってくださいね」と、声が出てしまいました。
 漁師さんは、
 「はい」
 と、答えてくれました。
 せつなくなってしまいました。
 がんばって、という言葉はあまりつかいたくないのですが、
でも、本当に、がんばってくださいね。

 小名浜港をあとにして、いわきに向かいます。
 いわきに行く途中で、どうしても、寄りたい所がありました。
 1年前、小名浜港からいわきに向かうとき、海岸沿いの住宅街
を通り、そこで、津波に破壊された街を見て、衝撃を受けました。
 1年たって、そこがどうなっているのか、見ておきたかった
のです。

 小名浜港から車を30分ほど走らせると、その街に出ました。
 豊間地区と呼ぶようです。
 写真を見て下さい。

 驚くほど、何も変わっていません。
 津波で破壊された壁や屋根や、あるいは、家具、そういった
ものは、片付けられています。
 しかし、片付けられただけで、そのあとに、家もなにも建って
いないのです。
 ただ、家々の基礎と区画だけが残されています。
 
 車を駐め、外に出ると、ちょうどそこに、地元の女性が
いました。
 その女性のほうから寄ってこられて、
 「どこからいらっしゃったんですか」
 「東京です」
 というようなやりとりで、会話が始まりました。


 私たちは、話を聞くのも申し訳ないという思いでいたの
ですが、この方は、話が止まらないような感じで、いろいろ
当時の話を聞かせてくれました。
 この方は、幸い、少し離れたところに家があり、津波の被害は
比較的小さくてすんだそうです。
 「津波が来るというので、外を見たら、水がひたひたと
押し寄せてきていて、とにかく、逃げなくっちゃ、という
感じでしたよ」
 「でも、逃げるといっても、どこへ逃げたらいいのか、そんな
こと、分からないでしょ。なんだか、パニックみたいになっちゃ
ってね」

 この方の説明では、家が流されてしまった所に、せめて花を
咲かせましょうという運動があって、花を植えているのだそう
です。
 これです。

 たしかに、きれいな花ですが、なんだか、かえって、つらい
気持ちになりました。


 これは、花で、「とよま」と書いてあります。
 読めるでしょうか。 
 とよまというのは、この地域の名前です。豊間です。


 菜の花ごしに、流された家の跡地が見えます。
 この菜の花は、自生したのかと思っていましたが、もしかすると
あとで、この方たちが、植えたのかもしれません。
 
 家の枠組みも残っていました。


 写真を撮っていて、ふと足下を見ると、こんなものが目に入って
きました。

 スプーンです。
 流された家で使われていたのでしょう。
 かつては、このスプーンで、カレーやシチューを食べたのかも
しれません。

 津波の被災地には、生活の跡が、濃厚に残っているのです。
 これを、
 「がれき」
 というような言葉でひとくくりにしてしまうのは、とても違和感を
感じます。

 なにか魔法にかけられたようにぼうっとなり、津波の跡地を
見ていました。
 しかし、次の取材地があります。
 
 いわきの市街地に向かいます。
 いわきも広いので、とりあえず、JRのいわき駅を目指して、車を
走らせました。

 いわきの駅前です。
 1年前に来たときは、原発事故から間がないころでもあり、
人影も少なく、ひっそりと静まりかえっていました。
 しかし、今回は、行き交う人も増え、街は活気を取り戻しつつ
あるようです。
 「東北大進学会」という予備校の看板もあり、日常生活が戻って
きているようです。
 福島だと、東北大進学会になるんですね。
 
 いわきでお昼を食べ、福島原発に向かいます。
 それは、次回に報告します。