IZUNOHANA’s blog

     後期高齢驀進中者の戯言

郷愁の中国紀行(22日目)

2008-07-31 09:16:35 | 旅の足跡

1986年7月31日(木)
-ラサを離れ空港へ-

切手 6元3角
病院代 179元3角
ホテル代(ラサ日光ホテル7泊分) 350元
バス代(ラサ~空港) 7元
パン代 4角
ホテル代(空港ホテル) 30元
(レート 1元=約42円)

朝、病院からWさんが戻って来た。
賓館のおねえさんが、自転車で迎えに来てくれたそうだ。
体調も本調子ではなく、食事を殆ど取って無いので、力が入らないという。
そこで、いつもの歩きは止めて、車(小型ワゴン車)で、民航事務所に送ってもらった。

ここから飛行場まで3時間くらいバスに乗る。
日米の国際ご夫婦が、親切に口利きしてくれて、揺れの少ない場所に移動。
ゴルムド~ラサの経験があるから、とても嬉しいのだが、揺れる席に移動させられた人には、申し訳ない気がする。
空港までの道路は整備されており、揺れも少なくて、これでは移動しなくても良かったな・・と思ったが、ここは、ご夫婦の親切に甘える事としよう。

道すがら、馬に乗った人、2人、3人と連れ立った人、ぼつりと歩く人等を、バスの中から見送りながら・・・もう、この人たちに出会う事もないなぁ・・・派手に観光対策をしている街ではないし、しゃれた食事もなかったが、とてもしっくりとあう、良い風情の街だったけれど・・・また、来る事はあるかなぁ・・・ちょっと感傷的な気分になる。
(この後、2002年8月に再びラサを訪ねた。その変化には、もう、びっくりで、三度目の訪問は、ちょっと考えてしまっている)

飛行機は、明日の早朝便のため、空港ホテルで1泊する。
ホテルの餐庁で可愛らしいフランス娘と同席した。
我等は洗いざらしの服に、薄汚れてきたザック、既に日焼けで浅黒く(Wさんは色白だが・・・)、なのに彼女、ひらひらのワンピースを優雅に着こなし、楚々とした風情でキャリーバッグを引きずり、何故か、1人旅。
我等は、彼女に、明日のモーニングコールを依頼された。
やさしい日本人としては、断るなんてことは出来ませんよね。

チベット最後の夜は、降るような・・とは言い難いが、手が触れられそうな近さで、星が輝いている。
星空を眺めるのも久しぶりだなぁ。


 

 

 

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郷愁の中国紀行(21日目)

2008-07-30 12:59:19 | 旅の足跡

1986年7月30日(水)
-Wさん入院す-

入院お礼品 13元
サンキストオレンジ 2元8角
トマト 1元8角
トイレットペーパー 1元
(レート 1元=約42円)

持ち金を、航空券代ではたいてしまったため、手許不如意。
入院に、どの位お金が必要か分からないが、とりあえず両替しなくては・・・私は必死に銀行へ走った・・いやいや・・・歩いたのだ。
ホテル-銀行間、往復2時間。気持ちが先行して、足がもつれそう・・・あぁ、タクシーはないのかなぁ・・・本当に日本は便利だよ・・・まぁ、北京も便利だったけどなぁ・・・なんて、つまらない事をぼやきながらも、ホテルに戻り付くと、Wさんは既に病院へ行ったとか・・・「区人民病院へ行く」という、Wさんのメモ在り。
フロントで、病院の場所を教えてもらい、再びホテルを出た。
セッセか、セッセか、ひたすら歩いて病院へ・・・そこにおねえさん服務員が待って居てくれ、病室まで案内してくれるのだか、その道のりの複雑なことといったら、右に曲がり、左に折れて、この角を曲がって、あちらの方へ・・・全く頭に入らない。
やっと辿り着いた病棟の入り口には「外国人専用」と書かれてあった。
専用病棟が要るほど、外国人はぶっ倒れるのかなぁ・・・と、変なところに妙な感慨を覚えたりして・・・Wさんは脱水症状を起していたため、数本の点滴をしたが、今日は入院するとう事になった。
スイカの食べすぎと言われたそうだが、一緒の量を食べていても、なんとも無い私の立場はどうなるの。

Wさんの病室にも何人か(チベット族かな?)が入院していて、入れ替わり立ち代り、Wさんのもとに来ては、あれこれ面倒を見てくれるのだそうだ。
親切はとても嬉しいが、病人としてはちょっと辛いかもね。

再び街に出て、入院のための日用品の買い揃え、病院に戻る。往復1時間余り。
8月1日移動の予定なので、無理やりだか、明日は退院という了解を得て、ホテルへ帰ることにした。
例の道のり(本日2往復した渡り廊下)をくるくる、くねくね歩きながら・・・まっすぐ歩いたら早いだろうなぁ・・・疲れたなぁ・・・と思っていた。
待ってよ・・まっすぐ歩いている人がいるじゃないの・・・私は、早速、かの人の後を追った。渡り廊下を跨ぎ、中庭をつっきり、最後は2メートルほどの金網フェンスをよじ登って乗り越え、すばやく無事に大通りに着地した。

標高3000メートルラサ市内、東西南北歩き回り、通算6時間、私は賓館のベットに倒れこんだ。
明日はラサを離れる・・・荷物の整理をしなければ・・・・。


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郷愁の中国紀行(20日目)

2008-07-30 09:22:47 | 旅の足跡

1986年7月29日(火)
-夏の別荘ノブルリンカへ-

ポタラ宮 3元5角
ノブルリンカ 4角
航空券(ラサ~成都) 842元
トマト 1元7角
スイカ 4元
茶水 1元4角
夕飯代 10元
(レート 1元=約42円)

3度目のポタラ宮参り。
何度行っても、見取り図と自分の位置とがあやふやで、「ここはどこ?私はだぁれ?」なんて言いながらうろつく有様だ。
まさに大迷路である。

ポタラ宮から小一時間程(勿論、徒歩です)のところに、ダライラマが使用したという、夏の宮殿(別荘)ノブルリンカがある。
ひりひりする日差しの中、ようよう辿り着けば、ただいまお昼の休憩中で、門は硬く閉ざされている。
所在無くうろついていたら、大先生に出会い、チベットビール(?)チャンをご馳走になった。
「ビール」というには爽やかではないし、かといって、「どぶろく」というにはこくがないような・・・・でも、2杯飲んだ。

キチュ川のほとりで、しば~し、くつろぐ。
ノブルリンカ宮殿前に戻り、傍らにあったベンチ(テーブルもあったなぁ)に腰掛けて、開館を待っていると、一人のチベット人男性が近づいてきて、我等の前にドッカリ座わった。
我等もチラッと見て、もしかしたら、ニコッと笑ったかも知れない。
だからか、いや、そんな事はないと思うが、彼は何を話しかけるでもなく、我等を正面からじぃっと、それこそ、穴の空くくらい見つめ続けるのだ。
いやはや、どうしたら良いのよ・・・・。
仕方ないから、無言で、あらぬ方向を見つめ、じっとしていたら、彼は興味が失せたか、近くの西洋外人に近づき、また同じように見つめている。
彼は、今日、どんな発見をしたのだろうか・・・なんだ、おいらと同じじゃないか・・・とでも、思ったんでしょうかねぇ。

夜になってから、Wさんの体調が悪くなり、モーレツな下痢だという。
疲れか、スイカの食べすぎか、はたまた大先生奢りのチャンが災いしたのか。
明朝、病院に行くことにするが、心配だ。


  

夏の宮殿(ノブルリンカ)                          キチュ川の渡し舟 

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郷愁の中国紀行(19日目)

2008-07-28 09:05:14 | 旅の足跡

1986年7月28日(月)
-セラ寺へ自転車で-

貸自転車 18元
セラ寺拝観料 2元
昼飯代 10元6角
トマト 1元6角
夕飯代 10元
(レート1元=約42円)

セラ寺付近の山で鳥葬が行われるという。
大先生からお誘いを受けたが、葬儀を観光するというのは、何だか気が進まないので、一応、お断りした。
で、そのセラ寺(鳥葬も終わっているだろう時間に・・)へ自転車で行って見ようと、貸自転車屋へ。
サイズが無い!
「これ以下のサイズはありません」という自転車のサドルを、目いっぱい下げても、足が届かないのよ。
それを借りた。
緩い登り勾配の道を、30分程、モンローウォーク方式でペダルを漕いで行く・・・ここは3000メートルと心しながら・・・。

セラ寺は、デプン寺と同じように、かっては数千人の僧侶を擁し、一大勢力を誇った寺であったそうだ。
今も十分に、その面影を感ずる寺構えだ。
壁画や仏像の保存状態も悪くなく、憤怒尊などは、すごい迫力がある。
庭の一画では僧侶達が問答をしている。
言っている事が分からないので、修行というより楽しくじゃれあっているような・・・・でも、修行の一環なのですね。

セラ寺からの帰り道、自転車のブレーキを掛けずに、いっきに走り下った。
3000メートルのサイクリング・・・この爽やかさ・・・すこぶる快適だ。

ポタラ宮の傍に生鮮市場がある。
ここで、トマトを購入。
スイカでない時はトマト、この旅の定番。
メインストリートの食堂で昼食。
込み合う店内で、のんびりマイペースで手紙など書いている西洋外人を見るにつけ、私の今までの人生って、間違っていたかなぁ・・なんて思ってしまう・・・空いてる店なら私もできるが、こんなに込んでいたら出来ないもの・・・日本人(私だけかも?)って、まず先に周りを見てしまうもの。

夕食はホテルで。
本日も貰い湯。

 


 

憤怒尊                             海抜3000メートルのサイクリング

 

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郷愁の中国紀行(18日目)

2008-07-27 10:19:03 | 旅の足跡

1986年7月27日(日)
-ラサ郊外デプン寺へ-

バス代(デプン寺) 1元2角
デプン寺拝観料 3元5角
昼飯代 6元9角
市内喫茶店 3元5角
高級宝石 16元
スイカ 3元1角
夕飯代 6元4角
ビール代 2元

郊外にあるデプン寺に行く。
バス停には数人のチベット人らしき人達がいるので、デプン寺方面はここで良いのかどうか、Wさんが漢語(北京語)で尋ねてみるが、よく分からない。
仕方ない、ここがデプン寺行きだと勝手に確信して、バスを待つことにする。
が、時刻表が無いので、いつまで待ったら良いのかが、また分からない。
いいや、いいや・・・のんびり待とう・・・旅に出ると待つことが気にならないもの・・・。

やがて、ガタピシバスがお客を満載して、我等の前にピタッと停車した。
♪・・・田舎のバスは、オンボロ車・・・♪という歌が、突然、思い出される。
無理やり自らを押し込んで(おばさんだからできるのね・・ではありません。
中国では、こうしなければ、一生、バスには乗れません)それなりの位置を確保する。

市内を抜け、平坦な、でも、殺風景な道を走り、やがて小さな村が見えてきた。
車掌さんが何か言っているので、我等も「デプン?デプン?」と叫ぶと、彼女が頷いた。
やれやれ、間違いなく乗れたんだ。

数人の外国人が前を歩いている。
我等もその後をついて歩いた。
すぐ脇をトラックが凄まじい土埃を巻き上げて走り抜ける。
暑い!暑~い!まったく、もう、人が歩いているんだから、スピードぐらい落としてよね・・・なんて、ぶつくさ言いながら山道を登っていたら、このくそ暑い中で、不平も言わず(か、どうかは分からないけれど・・・)道路工事をしているおじさんが、我等を手招きして涼しい脇道を教えてくれた。
ありがとう、ありがとう・・・これは日本語で言ったんだけれど、おじさんには通じたものと信じたい。

デプン寺は、今は、村のちょっと寂れたお寺という雰囲気だが、昔は大きな伽藍を配した名刹であったとか・・・観光客も少なく、静かな寺の境内で、村の子供達としばし語らい(中国やチベット語に英語に日本語で)遊んでもらった。

市内へ帰るためにバス停に戻り、傍にあった食堂で昼食をとる。
中国での食事は、確かに、どこでも味は悪くないし、もう、衛生観念の違いにも、大分慣れては来てましたよ。
でも、ここの食堂のおじさんが皿を拭いている布巾は、何とかして・・・と言いたいくらいまっ黒なんです。
あぁ、拭かなくても良いんだけれどねぇ・・・・と、二人で顔を見合わせた。

バス停で待つことしばし・・・・まったくバスは来ず。
気長に待つつもりで、カフェテラスのような店に入ってくつろいでいたら、何やらバス停が騒々しい。
首を廻してバス停を見ると、人民たちが、ちょうど来たトラックの荷台に乗ろうとしているではないか・・・Wさん、乗ろうよ、便乗、便乗・・・我等は店を飛び出し、トラックの荷台によじ登り、人民たちに負けじと自分の位置を確保した。
減価償却もすっかり終わり、おつりが来る様なトラックだが、結構スピードを出している。
我等は、振り落とされないように、しっかり、荷台のロープにしがみつき、両足を踏ん張り続けた。
勿論、無料ですが、何にしても、中国の乗り物は体力が要りますねぇ。

今日は日曜日で、ホテルの餐庁はお休み。
夕食は街のレストランでする。
なすの味噌炒め(みたいなもの)を注文したが、熱々で、なかなかの美味でした。

 デプン寺にて 

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郷愁の中国紀行(17日目)

2008-07-26 12:28:32 | 旅の足跡

1986年7月26(土)
-ポタラ宮・大昭寺・バルコル-

パン 2角
民航予約金 10元
民航申込用紙代 1角
ポタラ宮 4元
革命展覧館 7角
昼飯 10元4角
帽子 1元
帽子のひも 5角
帯(使用中色落ち) 2元5角
高級宝石(メノウめいた)首飾り 8元
スイカ 4元
夕飯 7元
(レート 1元=約42円)

今日はすっきりと晴れている。
昨日の雨は、盆地を取り囲む山々に雪を降らしたのか、頂きが白く輝いていて、青空とのコントラストが何とも美しい。

ホテルから大昭寺、バルコル、ポタラ宮に至る近道を発見。
少しでも短縮できるのは嬉しい事・・・だって、標高3000メートルですから、ここは・・・・で、我等はこの道を愛用する事となった。

ポタラ宮の拝観料は昨日より高いなぁ・・・昨日は「おまけ」してくれたのかしら・・・。
迷路のような小部屋には、僧侶がお経をあげているところもあり、薄暗い中に、突然、出現した・・・みたいに感じて、ドキッとする。
でも、我等に英語で話しかけるので、日本人だよというと「ナムアミダブツ」って言うから、「オンマニペメフム」とお返しをした。
そして、彼等がニッと微笑むから、我等もニッと微笑んだ。
小さな、小さなコミュニケーション。

成都行飛行機を予約のため、民航の事務所に寄った。
入り口付近におばさん服務員がドカッと座っているので、見張りかな・・何用があるのかな・・と思っていたら、飛行機予約の申込用紙を販売していたのだ。
一枚、日本円で5円足らなのずだが・・・うーん・・・職場の安定確保か、ワークシェアリングか、効率的であって非効率な感じがするなぁ。
8月1日便が取れたので、まずは安心。
これからは、ゆっくり、ラサを楽しめる。

バルコルに戻って「ひやかしショッピング」のつもりが、結構、真剣に買い物をしてしまった。
「大先生」と「きくばりおじさん」が装身具など小物を売っている所で店番をしている。
人間観察には最適な場所だそうな・・・。

 

ポタラ宮全景

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郷愁の中国紀行(16日目)

2008-07-25 20:20:17 | 旅の足跡

1986年7月25日(金)
-ラサ市内・ポタラ宮-

ビスケット 1元5角
ポタラ宮 2元
絵葉書 5元(友誼商店)
昼飯代 7元5角
大昭寺 2角
夕飯代 6元
スイカ 3元6角
(レート 1元=約42円)

雨が降っている。
北京で購入したビニールカッパが役に立つ。

まずはポタラ宮参りが礼儀というものだろうと、ホテルから徒歩で出かけた。
郊外へ向かうバスは確かにあるのだが、市内循環バスの存在は分からずに、我等は市内散策には、徒歩を主体に歩きとおした。
ここは3000メートル、3000メートルとつぶやきながらも、小一時間は歩いただろうか、小高い岩山の上に、どっかりと位置するポタラ宮が見えてきた。が、入り口が見つからない。
ウロウロしていたら、チベット婦人が手招きで案内してくれた。
地元の人だろうか、はたまた、地方から巡礼だろうか、冷たい雨の中で、彼女の暖かい気持ちが嬉しい。

正面から鋭角的に築かれた石段が、我等を宮殿の奥深くへ導く。
石段を登りきったところで、拝観料を払う。
ここでも外国人が一番高く、次は同胞華僑と留学生、一般人民は当然ながら一番安い。
貧乏な外国人もいるんだけれど・・・・我等のような・・・。

一旦、開けた場所に出てから、今度は狭くて暗い木製の階段を上った。
灯明に使用しているバター油の匂いが漂い、大勢の人々がすがって上ったであろう手すりは、まるく磨り減っている上に、油がしみ込んでいて、つるつると滑る。
各階は、いくつもの小さな部屋に区切られており、回りまわっているうちに、自分のいる場所が把握できなくなってしまう程だ。
とりあえず、釈迦牟尼像やチベット王や高僧たちにご挨拶をして、本日の拝観は終了する。
迷路を抜けてテラスに出ると、雨上がりの冷たい空気がおいしかった。

街の食堂で昼食をとる。
食堂の主人は、我等が外国人と思ったためか、やれ茶碗を持って来い、さあさあお茶をどうぞ、その上、調理場まで案内するなどサービスしてくれる。
気持ちの良いもてなしで、嬉しい事は嬉しいが、「調理場は見ないほうがよかったねぇ」なんて二人で話したりして・・・ごめんなさい。

ポタラ宮と大昭寺に我等の宿舎は、ほぼ一直線で、ホテルへの戻り道に大昭寺に寄る。
寺をぐるりと取り囲む道は、バルコルと呼ばれる門前市場のようなところで、当然、お数珠やろうそくが有り、衣料・食料・雑貨・靴に帽子にetc・・・・生活必需品と巡礼みやげの小さな店が軒を(テントを)並べている。
大勢の人々が行き交う姿は、しばらく見とれるてしまう程、とてもきれいだ。
雑踏の中にいると、気分が浮かれてくるようだ。

しばし、バルコルを楽しんでから、我等も巡礼者に倣って、ズラーと並んだ大昭寺大回廊のマニ車を廻して、旅の安全と健康を祈願した。


  

ポタラ宮にて

大昭寺にて

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郷愁の中国紀行(15日目)

2008-07-25 08:31:51 | 旅の足跡

1986年7月24日(木)
-いよいよラサへ-

茶水・ビスケット 1元5角
スイカ 5元
夕食代 11元
(レート 1元=約42円)

いよいよ、今日はラサ入りである。

昨夜からの雨は、時折、パラパラと来るが、どうやらもちそうだ。
キシキシと痛む体を揉み解しながら外に出ると、背筋がぞくっとする。
寒さ凌ぎに、首にタオルの田吾作スタイル採用。

本日の行程は3~4時間らしい。
昨日のような上下運動もなくて、緑のジュウタンを敷きつめた様な緩い起伏が、はるかかなたまで続いている。
その先には8千メートル級の山々が、山頂に白い雪を輝かせている。
薄い雲が目の前を漂っているのを見て・・・あぁ、ここの標高は高かったのだ・・・と、改めて感ずる程、穏やかな景色だ。
突然、広い高原に人の姿を発見。こんなところにも人間は住んでいるのだなぁ・・・すごいなぁ・・・と妙に感心したり・・・・。

汽車はだんだんと街に近づいているらしく、乗り降りする人々増えてきた。
遠く目をやると、そう、ポタラ宮の姿が迫っていた。
ああ、あれがラサだ、ポタラ宮だ・・・難行苦行の後にみるポタラ宮の姿に、何故か気持ちが休まるのは、私が、一応、仏教徒だからなのかな(あくまでも一応だから、チベットの人達からみたら、まがい物だろうが・・・)と自分だけで納得する。

ここまでやって来るような日本人の中には、かなりユニークな人もいるみたいで、我等が後に「大先生」と密かに命名した写真家氏と、彼にとっても気を使う「気配りおじさん」の画家氏もその一人。
彼等は、あまりにも雰囲気が違うというか、いやいや、ピッタリよ・・というか、同行者でもないような気がするのだが、何時出会っても一緒だった。
始めてラサに来た我等は、ラサ最高級ホテルにでも泊まろうかな・・・とサイフの紐を緩めていたが、彼等に市中心地(ショカン寺付近)から、徒歩で30分程離れた「市第二招待所」を勧められた。
当方としても、安くて綺麗ならば文句はなく、早速に宿の確保に向かう。
まてまて、ここは標高3000メートルを超えている・・・富士山よりも高かったかな?・・・結構急ぎ足は禁物かも・・・急ぐことはないよ・・・ゆっくり、ゆっくり・・・・でも、気持ちは焦っている。

有難いことに、バス・トイレ付1泊50元で、1週間分の予約できた。
しかし、ユニーク2人組に勧められたからって訳ではないでしょうが、滞在中、バスタブには1度もお湯が満たされる時はなく、我等は「貰い湯」の日々を過ごしたのです。

  

 ラサ手前の峠                                    ラサ市内

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郷愁の中国紀行(14日目)

2008-07-23 14:20:42 | 旅の足跡

1986年7月23日(水)
-ゴルムド~西蔵高原へ-

宿代 5元(西蔵高原の旅社)
(レート 1元=約42円)

午前6時、ラサ行きの定期汽車(バス)は出発した。
くどいようだが、この時間は北京時間である。
西寧よりもっと西に位置しているゴルムドの街は、当然、真っ暗だ。

西洋外人は前の座席に陣取っているのに、何故か我等は一番後ろの座席を割り当てられ、是が苦難の始まり・・・だった。

汽車は、徐々に明けて行く街を後に、高度を上げて行く。
目前には雪を頂いた山々、多分5千メートルを超えているだろう山々が迫り始めていた。
しばらく行ったところでトイレ休憩。
ここでは大地に直接返すしか無いのだが、ぐるっと見渡して見ても、我が姿をさえぎってくれる木も土手も見当たらない。
ええぃ・・・女は度胸だ・・・と草むらの・・・しかし、丸見えの・・・陰で用を足した。
それにしても、お尻が寒い。

道路はアチコチに大きな穴ぽこが開いていて、汽車は走り抜ける度に、大きくお尻をバウンドする。
席が一番後ろの我等は、バウンドする度に、屋根に頭をぶつけるほど跳ね上がり、そして、座席にドサッと落とされる。
高原定期汽車の運ちゃんは、構うことなく、ひたすら、ひたすら走り続け、我等も、ひたすら、ひたすら飛び跳ね、落下し続ける・・・もう、胃腸の配置が変わってしまったようだ。

ゴルムドからは、もう、8時間走り続け・・・10時間走り続け・・・15時間走り続け・・・ついに17時間走りつづけて、午後11時過ぎ、土砂降りの雨の中、西蔵高原の真っ只中(真っ暗なのでどんな場所か分からないけれど・・・)の、とある旅社前で停車した。
さあ、それからがたいへんだった。

乗客は、小さな窓口に向かって、本日の宿を確保に殺到した。
当然、私がWさんの身の安全を図るために、体力を提供しなければならないのに、長時間の汽車揺れのため、体力も気力も失い、壁にもたれて立っているのがやっとの有様。
ようやく、Wさんの頑張りで、部屋を確保し、中に入ると、薄暗い電気がボーと点いてはいるが、何が何だか分からない。
手探りでベットにたどり着くも、女性西洋外人が、だれそれと離れたとか、くっついたとか、ゴチャゴチャ騒いでいて、我等も落ち着く事が出来ないのだ。もう、黙って寝てしまえよー・・・わがまま外人メ・・・過激ですみません・・・ともかく、何でも良いから、早く、横になりたいのですよ。
布団は、雨のためか高度のためか、じめじめと湿気ており、我等は、持参のバスタオルで体を包み、別の一枚を頭から被って、ようように横たわった。

私の体の中で、すっかり配置換えした胃腸が、元に返るべくゆっくり移動をしている・・・そんな気がする。

 

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郷愁の中国紀行(13日目)

2008-07-22 09:39:58 | 旅の足跡


ようやく中部地方の梅雨も明けたようだ。
蝉が激しく鳴くのを聞きながら・・・はて?・・・中国紀行の折に、蝉の声を聞いたのだろうか・・・風景や人々の営みは、ボンヤリながらも記憶にあるのに、鳥の声、ロバの鳴き声、風の音、雑踏のざわめき、何故か二十数年の月日は、私の記憶から音を消している。
常に思い出すのは、あの乾ききった、突き刺すような光線の、太陽の輝きだ。
何故だろう・・・。


1986年7月22日(火)
-ゴムルドにて-

バス代 174元9角(ゴルムド~ラサ)
宿代 8元(ゴルムドバス停旅社)
(Wさんは留学生待遇なので、公的な料金は基本的に私より安い)
食事代 9元5角(解放軍餐庁)
ビスケット 8角
スイカ 1元7角
(レート 1元=約42円)

西寧からゴルムドはひたすらゴビタンの中を走る。
灼熱の太陽は地表の水分を激しく蒸発させ、塩分が白く輝いている。
コビタンのはるか端には、一本の木すら見ることができない山々が、その茶褐色の肌を屹立するのみ。
実に哲学的な風景である。

だが、それに引きかえ、車内のうるさい事・・・香港からの旅人たち男女8名が乗っていた。
自己主張の苦手な日本人2名は、自分達の座席から通路の座席にはじき出されても、じっと彼等の様子を見つめるだけ。
彼等、騒々しく持参のインスタントラーメンで食事を済ますと、ガイドブックを広げて行程検証を始めた。
そのやかましい事といったら・・・ピーピー、ワーワー、一斉に主張するのですよ・・・一人づつ言いなさいよ・・・お互い何を言っているのか分かってるの?
ハイテンションの意見交換が終わったらしく、やれやれ静かになったと思えば、それぞれもたれあったり、窓に寄りかかったりして寝ていた。
じっと窓外の風景を眺めて、物思いに浸っている・・・なんて姿は一度も見なかったよ。
これって、民族性?それとも年の差ですかねえ・・・・。

コ゜ルムドは終点である。
明日、ラサに向かうべく、汽車の切符を購入、ついでに本日の宿を確保する。

街をブラブラしながら、昼食を摂る為の餐庁を探す。
この街はとてもローカルな良い雰囲気。埃ぽいが、安らぐ街である。ちょっとした百貨店風の商店もあり、市場のようなところにおいしそうなスイカが並べられている。
帰りに買ってゆこう・・(この旅ではスイカが重要な位置を占めて、我等は、度々、スイカを丸ごと1個買い、2人で半分づつ食べていた。ビールとはまた違った、大事な水分補給として・・・)しばらく歩くが餐庁らしき店は見つからず、さて、どうしよう・・パンでも買って宿で食べるしかないかなあ・・・など思いつつ尚も歩くと、解放軍キャンプが現れた。
ダメモトと中に入ってみると餐庁があるではないか・・・。
おそるおそる食事ができるか聞くと、OKだという。
まずは昼飯にありつけた。

宿に戻り、就寝の用意をしていると、同室に中国婦人2名加わり4名となる。
その一人の台詞が面白かった。
「荷物を盗むものがいるから気をつけなさい・・・」でも、この部屋は一応、ドアには鍵もついてるし、ここにいるのはあなた方と私たち・・・。
「謝々、謝々」我等は彼女の忠告に従って、現金およびパスポート入りのバッグを、しっかりと抱きかかえて眠ったのでした。

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