我が家では、例年、28日に「餅つき」をしています。
一応、石造りの「かまど」も設えていて、「釜」に「せいろ」乗せて「餅米」を蒸し上げ、「臼と杵」で搗いていました。でも、10年程前に病気の為、父と兄を相次いで送ることになって、搗き手を失った我が家の「餅つき」も風前の灯か・・・という状態になりました。それでも、一臼、搗くのに、我が家の女達が入れ替わりに搗き手になって「臼と杵」を維持してきたものの、さすがに搗き初めの「こね」が出来なくて、「餅つき機」を導入し、この「こね」を担当してもらったのです。
近頃では子供達が「跡継ぎ」として立派に成長してくれたので、我等老人はすっかり任せ、搗きたての「おろしもち」など食しながら、講釈をたれていられる身分となりましたが、「こね」の担当は「餅つき機」のままで、まぁ、これはこれで良いのでは・・・と思っています。
ところで、最近の新聞記事に、年末のある日を国をあげて「一斉餅つきの日」に制定したら良いという楽しい提案が載っていましたが、私も大賛成です。家庭でこじんまりと「餅つき」をすることも楽しいですが、職場で、学校で、町内のあちこちで、「はいよっ」「ペッタン」、「はいよっ」「ペッタン」・・・想像するだけでも嬉しくなりますねぇ。
国民の休日の中に、こんな楽しい休日があるのも、面白いと思いませんか。
「来年のことを言うと鬼に笑われる」という諺の成り立ちに、先日、この歳になって「目からうろこ」のごとく理解する事ができた。
毎日新聞日曜版「旧暦どっぷり」松村賢治氏の記事によれば、この諺は旧暦時代の発生で、つまり、旧暦では「太陰太陽暦」採用のため、閏月を2、3年ごとに挿入して太陽暦に同調を図ったため、なにやかにやいろいろあって(私の頭脳では簡単には説明できないから、各自調べてください)、旧暦11月1日にならないと、来年の暦が入手できなかったのだそうで、庶民には月の大小、閏の有無も分からず、11月1日以前に来年の計画をたてようもなかったのだという。どうなるか分からない来年の事なのに、有象無象が、とやかく言うのを「鬼」が聞き、「あいつら、馬鹿なことを言ってるよ」とせせら笑っていたのだろう・・・暦だけではなく、他のことにも当てはまるような気もするが・・・正に「目からうろこ」が落ちるがごとく、よ~く分かりました。
今日は「太陽暦」を採用しているのだから、元旦から来年の話をしても構わないだろうが、どこかにお住まいの「鬼」の立場も考慮して、やはり12月に入らないと来年の話はしにくいもの・・・と思うが、如何?
私はというと、来年の事は来年に考えるつもりで居ります・・・でも、笑っている「鬼」って何だろう。
敦煌・鳴沙山を望む
◎1994年(平成6年)9月2日~9月9日
[北京→西安→桂林→上海]
◎1997年(平成9年)9月9日~9月16日
[北京→西安→敦煌→トルファン→ウルムチ→北京]
第8回目の旅は特に「シルクロード」に拘った旅ではなく、たまたま「中国桂林」に行ってみたいという友人と参加したものだが、せっかく中国に行くならば、せめて、シルクロードの香りがする長安(西安)だけでも見てもらいたくて、西安のあるツアーを選んだという訳で・・・。
「始皇帝陵」「兵馬俑坑」「清華池」「大雁塔」「碑林」とお決まりコースではあるが、友人は中国の壮大な遺跡群に感激してくれたようだ・・・歴史に興味を持ったかどうかは分からないけれど・・・。
私としては、史跡はもう見慣れたものの、何か住み慣れた街に戻ってきたようで、街の空気にどっぷりと浸り、気持ちの良い滞在であった。
第9回目には、再び、三度の敦煌である。
前回の旅でちょっぴりシルクロードの香りに触れた友人も同行する・・・友人も、また、シルクロードの深みに嵌ったかな・・・ちょっと嬉しい。
訪れる度に変わってゆく中国の姿に、もったいないなぁという思いも感ずるが、その変化を楽しむのも悪くない。
ああ、ここがこんなになったのか・・・清潔になったなぁ・・・まず、道が整備されているもの・・・車が多いなぁ・・・ロパタクは、もう、居ないし・・・等など。
度々の訪問で、街が身近に感じられ、いつの間にか私自身が住民の立場になっていて、街の変り様にも(良い、悪いは別問題として)、発展するって、そういうものだよなぁ・・・と納得してしまっている。
ただ、どの街にも失くしてしまうには残念な貴重な財産(歴史的遺物だけではなく、街の佇まいとか・・・)があるということに、何時の日か、気づいてくれる事を願う。
[敦煌・三景]
[陽関にて遥か西方を望む]
[砂漠のキャラバン隊・・・否、盗賊か]
[沙州故城址・白馬塔]
[シャコバソボテン第3弾]この花の大元は、近所の洗濯屋さんの店先に鉢植えされていたものだ。花の色が、他には見られない(当時としては)素敵なピンク色で、早速にお願いして一枝分けてもらい、鉢に挿し芽(木)した。
それから私と一緒に、二十数年、転々としながらも、何とか生きて育ってくれた「つわもの」とも言うべき花である。
洗濯屋さんの店先では大きな株に成っていたが、我が家では大きくすることが出来ない(都会での生活空間は余裕の場所がなかった)から、小ぶりに仕上げてきた。摘み取った芽(茎)は、捨ててしまうには惜しくて、一つの鉢に挿し木をし増やした来たが、今は、増えすぎてしまい持て余し状態である。
これからは移動することも無いから、本腰をいれて、たくさんある小さな株を植えなおして、大きな株にしてみようか・・・と考えているところだ。
それにしても二十数年経て「シャコバ」の故郷に戻って来たが、あの洗濯屋店はもう無くなってしまっていた。お花をくださった店の人はお元気だろうか、それと、母であるあの「大きなシャコバサボテンの鉢植え」はどうなっているだろか、消息を知りたい・・・。
NHK総合で「ボランティア」の話をしている。そうね・・・こんなに余る時間を持ちながら、何も行動しない私は「なまけもの」か「無関心人間」か・・・。
定年を迎えて、これからの人生は、母の身の回りの世話をすることが大前提であったが、私にもそれなりの目的というか夢というか、一応、持っていた。
永年、故郷を離れていたので、何か地域に係わることが出来たらという思いと、今日までどうやら生きてこられたお返しをしたいという思いである。
しかし、母の世話は思いのほか大変だった。母は寝たきりでも、障害を持っているわけでも無い。健康には多少の不安もあったが、畑仕事に日々を過ごしている。他からみれば「元気で良いわねぇ」である。が、元気だから大変だった。自分の思うように行かないと満足しないのだ。毎日、毎日が母に振り回される・・・昨日言った事は今日には通じず・・・という始末に、すっかり疲れてしまい、再就職にもボランティアにも行けなくなった。
あれから丸2年と4ヶ月が経過し、私は母の世話の日々が「ボランティア」だと考えるようにした。私の余っている時間は、母が快適に過ごせるような環境を整える為に使うのだ・・・但し、母は、なかなか快適だと感じてくれないようだが・・・。
現実では、無職でいるのに、働いていたときよりも、自由な時間を持てなくなった。時間は余っているのに、自由な時間は無い。「ポランティア」というのは、本来、余った時間を使うのでなく、余っている「労働力」で奉仕することかも知れないと、この頃、痛切に思う。
1992年(平成4年)8月1日~9日
[上海→西安→敦煌→蘭州→北京]
敦煌・鳴沙山
86年に訪れた「敦煌」に再びチャレンジ。
前回、思い入れが深過ぎて、返って失望感を招いてしまったという教訓を、心に記して・・・。
「莫高窟」は「特別拝観窟(拝観料別徴収)」にも、十分、ゆとりをもって見学することが出来た。
要は先入観を持たないことだろう。
「莫高窟」の詳細は、旅の後、参考本を購入して、これもゆっくり復習した。
昭和62年か63年頃だったか、井上靖原作「敦煌」が映画化され、私も3回位映画館へ通った。
どちらかといえば「物語」より映画に映し出された「景色」に引かれてが本音かも・・・。
「敦煌」に関しての私の読書は、映画を見てから読むという、逆のパターンだったが、旅に選ぶときには、こういう取っ付き方も、また、良いのではと思っている・・・思い入れが少なくて済むし、本を読むにも返って新鮮な感動がある。
今回の旅では、「瓜州城」であったか「沙州城」であったか、その映画で使われたセットの城郭を見てきた。
本当に映画のセットというのはチャチだなぁ・・・の一言で・・・映画では実に感動的場面の城だったのに・・・と別なショックを感じてしまう。
敦煌には「映画のセット」を観光に使わなくても、本物がザクザクあるんだもの・・・私の本心では・・・ヤメテクレヨ・・・です。
今回の目的は「陽関」。
実に寂しいところである。
私の前にも後ろにも、右も左も、茫々と果てしなく広がる沙漠のみ・・・夕暮れの迫る「陽関」に立っていると、己の意思とは関係なくこの地に配属された古の人々に押し寄せたであろう、言いようのない「寂寥」と「不安」を、もの好きで来た私でさえ、ひしひしと迫りくるのを感じる・・・。
「敦煌映画村の入場券」
「遠く莫高窟に連なる鳴沙山」
「送元二使安西」 王 維
渭城の朝雨 軽塵を�覗し
客舎青々 柳色新なり
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
西のかた陽関を出づれば 故人無からん
「北京・万里の長城・・・遥か西へ続く」
昨日、東京上野公園に行った。公園内を、友人とおしゃべりしながら歩いていた時、何気なく、傍らの柵のうちにいる人に目がいき、二人の目が合った。ホームレス風の女性だ。彼女は、通り過ぎようとしている我等に「きったない顔!」との言葉を投げかけた。我等は思わず顔を見合わせ、一瞬、固まってしまった。
私の場合は、幼少より「みめかたち」には門外漢と納得しており、何を言われようがどうともないが、友人は、今でも(私より10歳ほど年輩です)髪は綺麗に染め、化粧もきちんとしている。でも、年輪なのだから気にすることはないのに、容色の多少の変化に気を使ってもいる(友人の名誉のために一言、決して他人から「きったない」などと言われるような顔ではない。年齢に比しても若々しくて綺麗なのです。ターゲットは私であったと思う)・・・でも、かの一言は友人を傷つけたようだ。私は「意味はないのよ。誰にでもそう言ってるんでしょ」とその場を繕った。が、私は別のことを考えていた。
アメリカ発の金融危機のあおりで、派遣、契約、臨時社員の相次ぐ解約や、解雇がニュースになっている。私は・・・やっぱり、案の定だ・・・と思った。
今の日本の労働環境の中では、経営者側の都合が優先で、労働者など最優先しないのだ。良いとか、悪いとかではない・・・列記とした現実なのである。
派遣、契約、臨時社員(私も経験してきた)の不安定な位置を認識していたの?・・・と問いたい。私は、少なくとも、わが身分を「正社員(それすら絶対ではないのだが・・・)」に置くべく、出きるだけの努力をしてきた。もしも、「職」を失う事があっても「ねぐら(民間の賃貸住宅に住んでいたが、入り口から真っ直ぐに歩くと十四歩目にはベランダに出てしまう部屋で、自称「十三歩半の豪邸」と呼んでいた)」だけでも確保しなければと、土日に可能な限りアルバイトをし続けた。
ホームレスの状況に至るまでの様々な事情は察するに余りあると思うが、ホームレスを選択したのも、その状況に甘んじているのも本人の判断だろう。どんな生き方もわが身の力量で行えば良いと常々思っているから、彼らホームレスに対して「見下した」気持ちは、勿論、無い。しかし、「同情する」気持ちも無い。
唯、この公園で彼女の言葉を耳にして、私の視線の中に・・・私はちゃーんとやってきたのよ・・・という傲慢な気持ちが表れていたのではないだろうか、彼女はそれを察したのでは・・・と、友人の動揺で上ずった声を遠く聞きながら、私の気持ちも揺れていた。
1991年(平成3年)8月24日~8月31日
「北京→洛陽→西安→上海」
フリーで中国シルクロードを旅をしてから既に5年が過ぎている。
旅が終えた時、達成感というか虚脱感というか、前向きな旅心が萎えてしまったたのだ。
初心に帰って、「長安」を訪ねてみようと、第6回目の旅は「洛陽、西安」へと出かける事とした。
シルクロード全盛期の唐時代の「長安」の都は、現在の「西安」とは違う場所であったと言うが、それでも、あの過酷な砂漠を一歩一歩進んで造られたシルクロードの出発点であり、目的地であった「長安」の隆盛を感じたいと思う。
参考資料:陳舜臣著「紙の道」(ペーパーロード)を読む。
シルクロードと呼ばれた道はペーパーロート゜でもあったとのご見解である。そうよ、そうよ・・・あの道はシルクだけが主役ではなかったのだと、嬉して、楽しくて興味深い著書でした。
今回の旅に何が参考か・・・つまり、中国での紙の起源を詳しく明らかにしてくれてあり、「洛陽の紙価」の成り立ちが「目からうろこ」だったのだ・・・面白いです。
[洛陽・白馬寺前で・・・]
[洛陽・龍門奉先寺・・・大仏にはかの則天武后の面影があるとか]
[西安・城壁から市内を見る・・・正面遠く見えるのは鐘楼かな? ]
[大雁塔で・・・玄奘三蔵が持ち帰った経典が納められた]
[小雁塔で・・・]
[清華池・楊貴妃が・・・]
[秦の始皇帝陵墓で・・・始皇帝が埋葬されるとすぐに盗掘されたとか]
[兵馬傭坑で・・・撮影禁止なので、これは博物館のレプリカ]
[阿倍仲麻呂の記念碑・・・国際都市長安では異民族でも高官に採用したという、その一人である]
「あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも」
[
[シャコバサボテン第2弾]白のシャコバサボテン(実はピンク)が咲いたのでご披露します。
このところ、たまねぎの植え付け、じゃがいもの植え付け準備(畑に石灰を撒き、耕運機で耕す)などの畑仕事に追われて、シャコバの顔を確認しない日が数日あり、ふと見れば、シャコバの赤は、既に満開を過ぎ、白はピンクになり、濃いピンクも蕾が大分膨らんできていた。
赤は株自体が弱ってきているようなので、花柄を摘むだけではなく、思い切って一回り小さく整えた。来年の春が来るまで、大事に見守らなくては・・・・。
庭の花も残り少なくなって、さびしげな感じなので、何か明るい色の花を植えようかなと思っているところです。
ムンバイで同時テロ・・・テレビからニュースが飛び込んで来た。またか・・・と、半ばうんざりした気分になる。問題は何か、私如きが解説する必要もないだろうし、私自身理解してないかもしれない。
昨年12月、ムンバイを出発点にエローラ、アジャンタ、カジュラホ、アグラ、デリーとヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教、イスラム教と宗教に関する遺跡を訪ねた。遺跡といえどもインドでは(仏教は例外としても)、現在も脈々として生き続けている場所だ。単なる観光客である部外者(私のことです)でも、信仰する人々に接してみれば、信仰が、どれ程、その人の生き方を左右しているかを垣間見ることはできる。だから、尚更、どの信仰に対しても尊敬の心を持たねばならないと感ずるのだ。
誰でも争いより平和が良いでしょうに・・・狭い地球上で何とか共存するよう努力しようよ・・・と言いたいのです。
これによって、又、パキスタンとインドの関係悪化か・・・等などのニュースも流れているが、もう、こんな悪循環は止めにしましょう。
たまたまではあっても、訪れた事があるところには、何か、愛着と親近感を感ずる。そんな場所が壊れるのを見たくはない・・・と、遠くから祈っている人もあることを知ってほしい。
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