IZUNOHANA’s blog

     後期高齢驀進中者の戯言

それなりに年末が近づいています

2019-11-28 09:17:53 | この頃思う事

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このところ、雨降りだったり曇りだったりで、「紅葉狩り」の機会を逃していた。
この日も雨降りだったが、多分、もう最終だろうし、ダメ元でも良しと、友人と誘い合わせて、お隣の市にある自然公園(無料ですから)に出かけてみた・・・ご覧の通りだった事に満足、安堵感(一年も恙無く終わりに・・・かな?)をもって年末に向かうとする。

 


 

 

相変わらず・・・と言うか、歳と共に・・・と言うか、自分がやろうと決めた事が、順次、解決済にならないと次に進めない(心理的に)という悪癖に縛られている私だが、11月も終わりという時点で今年を振り返ってみると、年頭にあたり「これとあれはしよう(したい)」と思っていた事に関して、まぁ、順調とは言えない(世の中には無理な事もある・・・に甘えて)けれど、一応、為されていると自己満足している。

毎年、パソコンでの「年賀はがき作り」をしている友人からお手伝い依頼のメールが届き、「はい、は~い」と二つ返事で出かけた数年前とは違って、多少、重い腰ながらも承諾したが、一方では、順調に年末に到着したな・・・と、ある種の安堵感があるのも面白いと思っている。

ただ、他人様の「年賀はがき作り」に携わりながら、さて、自分の「年賀はがき」はどうしようか・・・と言う迷いがあるのも事実なのだ。
そう、そろそろ「年賀はがき終い」にしようかな・・・という思いが、年々、増している。
つらつら考えれば、年一回の「安否伺い」であることも事実で、パソコンで作るのだからそう面倒ではないし、続ける事に技術的な問題は無い筈だが、止めようか・・・という思いの中には、私自身の悪癖(順次解決せねば・・・)に縛られている自分自身に嫌気を感じている部分もあるように思う。
要するに、「年末には年賀はがきを作る」をしないと「年末が終わらない・新年が迎えられない」・・・という事に縛られているのだ。
一気に「年賀はがき終い」は出来ないのは分かっているが、せめて、この歳に至ったのならば、正月を迎えた新たで心爽やかな気持ちを持って、これから先一年の思いを込めた(俗にいう未来志向?)年賀はがきを届けるのもありでは?・・・まぁ、自分自身の考え方と、相手方である知人・友人たちの気持ちに即して、どう折り合う点が見つけられるか何だろう・・・ね。


しかし、そんな迷いの中でも、やっぱり、今年も年内に「年賀ハガキ作り」をしてしまうのが私の正体なのだ・・・それが一番の問題。

 

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頭痛がして来て・・・

2019-11-22 09:06:32 | この頃思う事

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我が家に於いては、茎がやたら伸び放題になりミスボラシくなってしまう「小菊」を、今年はなんとか格好良くしようと、この春から植え替えたり、伸びる芽を摘んで脇枝を増やそうと努力はしたけれど、相変わらず、野放図な姿にしかならなかった・・・来年は何としようか?

 


 

頭痛がして(と言っても、深刻な病の前触れでは無い事を、一応、お断りして)・・・、そうなんですよ、今までこんな経験は無かった(と思いたい自分)のに、あの頭痛は何だったのでしょうか・・・

 

17日日曜日、友人と二人で久しぶり(多分3年振り?)の「クラシックコンサート」に出かけたのですね。
「ロマンチックロシア」と銘打たれたその日のコンサートは・・・

 1、グリンカ 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
 2、ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
 3、ピアノ奏者アンコール曲(?)
 4、ニコライ・リムスキー=コルサコフ 禿山の一夜 編曲版
 5、チャイコフスキー バレエ組曲くるみ割り人形
 6、オーケルトラアンコール曲 チャイコフスキー アンダンテ・カンタービレ

・・・と、20分の休憩を含めて2時間30分間、私は、シカッと席に座したまゝで(混み入ったトイレに行くのが面倒だったのもありますが)、音楽を堪能していたのですよ。

ですが、最後のアンコール曲に入った時点で、じわぁじわぁっと頭痛がして来て、息も苦しく(みたいに)なってしまい、やぁ、早く外の空気を吸いた~い!という願望に苛まれていたのでした。


演奏会が終わってから(午後6時)、軽く夕食でもしようと友人の車の乗って、会場からちょい離れた「イタリアン」の店に向かいました。
前から行きたい店で、大好きな「ペペロンチーノ」を前にしても、先程からの頭痛は遠のいていたが、今度は、食欲が出ない!のです。
まぁ、一体、どういう事!ですよね。
勿論、残したりしませんよ、«食べ物を残さない»をモットーとする私には、食べ切るのが使命(?)なのですから・・・。

家に戻って、つらつら考えるに、2時間半(開場からでは3時間)も動かないでいれば、体がコリコリに固まってしまうのは当たり前だと納得したが、それでも、今までのコンサートでも、大体、こんな風で、あまり動かない私だったのですから、今回が特別という訳ではないのですね。
では、何故、頭痛が・・・今、確信的に思うのは「集中」が原因だと言う事。
つまり、ここ数年、殆ど、一つのことに3時間も集中したことが無かったのです、いつも思い付きで簡単に済ます事しかしていないのですもの。

素人ながらも、ロシアクラシックの荘厳さを、かなり、濃密に脳細胞にインプットされた自覚はあるが、我が脳細胞は、それを受け取るには、余りにも貧弱である事も一因かも・・・と思ったりもしています。
まぁ、そんなこんなで、「脳細胞と胃袋」に刺激を貰えたコンサートだったのです(そうだそうだ・・・実は、ピアノ奏者のアンコール曲は、聞き覚えがあるのに曲名がどうしても出てこなくて、何か気持ちがスッキリしないので、家に帰ってからPCに保存してあるピアノ曲を聴き捲ったけれど確認出来ないのです、それも脳細胞が疲れた原因でもありますね)。


とは言いながらも、やはり、久々にドップリ浸る事が出来た「生演奏コンサート」は、良いですねぇ・・・これは、間違いなくホントです。

 

 

・・・・・・・・・・・

22日金曜日追伸:コンサートでコリ固まった筋肉と高揚した脳細胞の鎮静化対策として、18日、19日は休養の日。
20日、21日の両日は、通常筋肉回復作業として、我が家の「柿の木」3本を剪定(何時ものイイ加減な枝切です)しました。
でもって、本日は、脳細胞も通常活動位置に収まったようで、ようやく、ブログ更新に向かいました。

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性懲りもなく、また屋根に上がって・・・

2019-11-16 13:01:05 | この頃思う事

 ←(拡大可能)  山から取って来た小木の「欅」を即席的寄せ植えした盆栽(多分、父の遺産)は、水遣り程度で放置したまゝだが、秋になると、一応、紅葉する・・・自然は有難いものだ!

 


 

枯葉が舞い散るロマンチックな秋・・・などとは程遠い我が家の秋は、日々、落ち葉掃きを欠かすことが出来ない。


台風襲来前に、雨樋の掃除をしなければいけないな・・・と思えども、台風が来て大雨が降れば、雨樋の枯葉も流れるかも知れない・・・と、希望的観測を持っていたが、やはり、世の中は厳しいもので、そうは問屋が卸さなかった。
その後の突発的一時集中大雨では、雨樋から溢れ落ちる(否、流れ落ちる)水音は、掃除をせよ!と命令されているようだったが、腰が重くて(痛くてではありません)、なかなか行動が伴わないでいた。
でも、本日(16日)は、案外、暖かく風も無いので(風が有ると、掃除をしても次から次へと舞い落ちる枯葉に意欲が削がれてしまう)、午後一に、又しても、性懲りもなく、屋根に這い上がった訳で・・・それと、18日が、また、雨だと言うし・・・

我がボロ家にも雨樋が4本あるが、その内の1本は、長い間、完全無視(北側屋根で日陰のため容易に乾かなく、足が滑る)で、多分、もう雨樋の用は成していないと思う(それならば、外してしまう方が良いかも知れないな・・・とは思っているけれど、それもまた面倒)が、私が掃除可能な3本の雨樋は、屋根に上がらないと作業が出来ないので、上がるしかないのだ。
だからと言って、これからずっと出来る可能性はないが、とりあえず、今日は可能な状況なのだから実践する・・・出来なくなったら、その時に何とかなるように考えればイイし・・・と、つまりは、考えていないという事なのだよね。

そんな訳で、あくまでも簡単に(イイ加減にとも言える)雨樋の落ち葉を手で取り除き、ゴミ袋に収め、屋根に落ちている枯葉は、箒で下の地面に履き落とす。

西側に向いた屋根からは、傍らにある柿の木から取ろう取ろうと思っていた柿の実を、手の届く範囲で収穫・・・これで、も一つ、用事が済んだ。

 

屋根から降りて、足元に散らばった枯葉を眺めながら・・・地面の掃除は明日にしよう・・・そう、何より働き過ぎ(?)ないのがナマケモノのモットーなのだから・・・ね。


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これもまた「縁」なのか・・・と

2019-11-11 08:57:57 | この頃思う事

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深まる秋に伴い、庭には、所謂、草花的な花が少なくなる中で、木に咲く花、「山茶花」類がそろそろ咲き出して来ると、今年も終わり・・・の気配を感じて何か寂しい、歳かな?

 


 

8日金曜日に、2年毎に開催している「小中学校同窓会」が開かれ、総勢250名程だった同級生らも、今回の参加者は、ぐっと減って40名弱だった。

そんな状況の中で、勿論、久方ぶりに会える人があるのは嬉しいし、実際、楽しい時間を過ごす事も出来た。
でも、我々も、これから若返る訳でもないから、様々な事が負担となって来るのは間違いないし、その負担を、一部の人(幹事)に任せてしまうことにもどうかと思うし・・・少し、同窓会の「常識的な形態」を変えてみるのも一考では・・・と、今回の会に於いて問題提起されたのは良い事だと私も賛同した。

 

人生に於いて、物凄~く親密だというのでは無いけれど、何故か、自分の節々の時期に何時も関わり合っている人がいる・・・て事、ありません?

我らの育った時代は、子供の行動範囲はごく狭い地域であり、小学生だって自宅のある小さな集落から外に出ることなど稀であった(私だけかな?)。
で、小学校で初めて出会った友は、偶々、友の自宅の近くに我が家の親戚の家があり、そんなことがキッカケで友達気分になったのだと思うが、ま、あまり過去過ぎて定かではない。
我が学区では、小学校から中学校は、特別、転出やら転入で無ければ、ほゞ、同じメンバーであり、割合、仲間意識みたいな気持ちはあったかもしれないが、私自身の立ち位置は、ちょい枠の外であり、だから、高校受験の際も、その友とは何の連絡なく別々の高校に入ったのに、3年後、就職試験を受けに行った先で再会し、職場で気の合った仲間と3人(つるんで・・・なんて言われながら)、一緒に、お茶や食事をしたり山登りや旅も行ったりしたが、それぞれの都合でバラバラに退職した。

友ら二人は結婚しそれぞれに定住するが、私は、それからは流れ者的生活に入り気儘に暮らして、年賀状のやり取りはしたものの会って旧交を温める事は無かった。
が、友の一人が病で亡くなった時期には、それこそ、偶~に会う機会もあったが、その機会も希薄になった頃、2年毎に「小中学校同窓会」を開催するという状況になり、私とその友とも頻繁(と言っても、以前と比べればだが)に連絡を交わすようになり、同窓会で会う(その会の後、2人でお茶やランチをしながら、来し方行く末を語る・・・とか)というのが定番みたいになった。

 

相変わらず連絡を取らないから、今回の同窓会会場で初めて、友が不参加という事を知り、すぐ電話を入れた・・・具合でも悪いのか?・・・と、胸騒ぎがしたからだ。
電話口から「元気だよ。平日で休めなかったから」と答える友の声に安堵し、関東に住むその友に「確約は出来ないけれど、オリンピックが終わったら上京出来ると思う、また連絡するから元気でいてね」と告げた。

ハッキリ言って、行かないかも知れない、否、行けなくなるかも知れない・・・でも、そう約束する事で、私の心に、一つの安堵感をもたらしたのは確かである。

自分勝手のワガママ気儘の上、傲慢な話だけれど、私はこの友を精神的な指標(正しい生き方をする)にしている気がするのだ、日常的付き合いはないけれど、大事な「親友」なんだと位置づけている。
ま、友にしてみれば「何とも迷惑だ!」と思っているかも・・・ね。

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晩秋の富士!

2019-11-05 16:46:01 | この頃思う事

定番撮影ポイントで・・・木々の足元には狩野川が流れる

 

朝の静岡版TVニュース画面で富士山が映し出されたのを見て、見慣れた富士山だけれど、「ああ、良い姿だなぁ」と感じた。
そのあと、外に出て空を見上げると、雲一つない・・・とは言えないものの、かなり空だけの空(変だけれどそう感じた)だなぁ・・・と思い、そうだ、今日は富士山を撮って来よう・・・とチャリで定番撮影ポイントへ向かう。

う~む、確かに雲には遮られていないが、空の色が、イマイチ、ボケ~と霞んでいて、クッキリ富士が・・・では無い。
も少し時間が経過すれば、空の色も変わるかも・・・と、定番撮影ポイントから離れて狩野川(19号台風で氾濫寸前だった川)土手をチャリで移動した。
でも、やはり、澄み切った青空には程遠い空である。
素人でも富士山をライフワークのように撮り続け、素晴らしい写真を手にする人は、勿論、絶対的に高級カメラ(レンズ)を使用しているだろうが、良い瞬間が訪れるまで時間を惜しまないという拘りを持っているのだと思う。
富士山に毎日出会う機会がある上に、年中暇だというかけがえの無い特典を有する私は、その拘りと努力が無い(高級カメラも無いけれどね)のだから、イイ写真を撮るなんて端から無理という事。
ま、所謂、芸術に向かう感覚というか心構えが無い・・・という事だよね。

 

機会に恵まれたただけで手抜き三昧の写真ではあるが、それでも見惚れる(かも知れない)「本日の富士山」をご堪能あれ!

 

柿の実越しの富士を撮りたかったが、実は既にナシ

 

 

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ガラケーのタイムリミット!

2019-11-04 11:31:11 | この頃思う事

 (←)拡大可能 (↑)一斉に太陽に顔を向けている花たち

日向に置けば葉が焼けてしまい、では・・・と、日陰に置いたら茎が伸び放題に・・・と、毎年、置き場所に悩む「大文字草」なのだが、今年は、やや陽が射す(基本半日村なので、日照時間は少ない)場所に置いたところ、葉の成長はあまり上出来ではないが、例年以上の花数を咲かせた。
この方法が、来年も有効かどうかは、来年の天候次第なのかも・・・と、思っている。

 


 

 

退屈だから、何とな~くネットのニュースを冷やかし気分で眺めていると、いやぁ~、ついに最終通告だな・・・と、かなり真剣に注目したのが、「docomoによるガラケー用Fomaとiモードサービスの終了」だった。

2026年3月31日が「タイムリミット」だと言う・・・ついに来たか!の心境だ。



とは言っても、では急いでスマホに・・・という気持ちは、全く無い。
基本的には終了まで使用し続ける・・・という考えだ。
それに、今使用しているガラケーが、これから後6年間、故障もしないで使用に耐えられるかどうかだって不確実なのだから、使用不可能状態になれば問題無用で替える(但し、通話・メールだけで良し)しかない・・・という心積りはしている。

ただ、ふと心を過ぎったのは、後6年という事は、その時私は何歳になっているだろう・・・だった。
そう、79歳なのだよ・・・と、そう考えると、果たして、私が、脳細胞学的にも生物学的にも、「タイムリミット(「ほゞ」も含めて)」になっているのではないか。
現在の私に、特別(多少はあると認識)そう思うに至る症状が出ている訳ではないけれど、周辺同級生の便りに接するに付けて、まぁ、それも「想定内」で考えて置くべきだ・・・と、常に考えてはいるが、こんな風に「タイムリミット」が明確に設定されると、ぐっと身近な問題となった訳でして・・・
ま、欲目で考えたとしても、何もかも現状以下だろうから、早めの対策は必要・・・は、当然なのだ。

しかし、ここまで「タイムリミット」を認識しても、相変わらずのイイ加減さで、「docomo以外にもガラケーはあるだろう」とか「まぁ、終了となれば、高齢者向けの単純スマホが出るだろう」とか、安易な考えに流れてしまう私なのだ。

とりあえず、しばらくは(数年?)様子見と言う事で・・・(我ら高齢オバサンに幸いあれ・・・という意味)

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