IZUNOHANA’s blog

     後期高齢驀進中者の戯言

分相応の選択肢?

2020-02-25 13:23:00 | この頃思う事

今月初めだったか、うろ覚えの記憶だが、姉が「春の香り」と言って、「フキノトウ」を天ぷらにしてくれたのが美味しかったので、友人に「春の香り」のお裾分けしようと思いながらも後回しにしているうちに、既に、ご覧通りの姿に変化していた・・・もう、食せない!

 


 

 

姉の家には、2組(若しかすると3組)の雛飾りがある。

見慣れない木目込みお雛様が飾ってあったので聞いたところ、2番目の娘に姉が手作り(と言っても、衣装を木目込んだだけだが・・・)したものだと言う。
姉には、女、女、男の子供があり、当然の如く、長女には段飾りお雛様、長男には鯉のぼりと5月人形を買い与えたが、次女から、自分には何もない・・・とクレームが出て、そこで、「手作り木目込み段飾お雛様」を作ったのだと言う。

それを聞いて、何とな~く面白いものだなぁ・・・と思ったのは、我が5人姉妹で、雛飾りを与えられたのは長女である姉だけであったけれど、何にでも、平等であることを求める私が、姉だけにお雛様があるという事実を、すんなり、受け入れていた事だ。
そうかぁ、世の中の平等意識の内実は、我が世代と姪たちの世代では、随分、違ってきていたという事なのか・・・と、この年をして実感した。
そう思って、ふと、思い出した事がある。
母を介護する事に関して、親の世話に振り回されていた末の妹(多分、昭和26年生まれ)が、我ら姉たちに向かって、「親を看る義務は、姉妹平等の筈だ」と言った言葉だった。
その時の私は、「親にだって、看て貰いたい子供がある」と言い訳じみた言葉を吐いたけれど、ホンネでは「一番、親に世話になった子が看るべき」が言いたかった(その言葉は呑み込んだけれどね)。
私の認知度と言うか認識度と言うか・・・に於いては、「権利を主張するには、必ず義務も伴う」であり、自己主張する前に義務を果たせ・・・であって、私(次女)は姉(長女)と同じ待遇を要求しないけれど、自らの力で為すことに口を挟むな・・・を実践して来たと思っているし、(必ずしも成功だったとは言えないが・・・ま、それはそれとして)分相応の選択だとしていた。

まぁ、私如き自分勝手でイイ加減な人生を過ごしてきた者が、権利だ、義務だ、平等だ、差別だと声高に言えないけれど、これらの懸案は単独では存在しえないと思っているので、権利が欲しければ義務を果たせ、平等を欲するのならば差別をするな・・・家族に優遇される長女には、それなりに責任を持たされるし、お雛様が無い次女は、随分、気儘に生きて来られたし・・・要するに、人生の辻褄は合っているという事ではないのかな?

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固定観念に惑わされてますが・・・

2020-02-19 13:55:56 | この頃思う事

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ご近所さんの畑では「伊豆の国桜」が、丁度、見頃になっていた。「河津桜」より早く咲く・・・が売りらしいが、河津も、既に、見頃になっているようだ。

 


 

 月曜日から始まるカレンダーを買ってしまった。

昨年末、早々に翌年の卓上カレンダーを買ったけれど、表示文字が薄くて、離れると数字が読めない。
そこで、新年2月末になってから、何は無くても、まずカレンダーを買わねば・・・と、友人に頼み、わざわざ、名の有る書店迄出向いたのに、季節商品だからか、すでに片隅に追いやられていて、何か「選ぶ」という雰囲気に無く、そこにある物の中で、ろくに吟味もせず、見え易い字だけを選別にして、手に取りレジに向かった。
買ってしまえば「一安心」と目的は果たされ、改めて確認もせず、その後、悠々とランチと、ショッピングと、オシャベリを楽しんで(これがお出かけの本旨なのだから)帰宅。

さて・・・と、卓上カレンダーを定位置に据え、「これなら離れた所からも見えるな」と、一人、悦に入って・・・えっ、何じゃこれ?
そうなんよ、このカレンダーは週の開始が月曜日だったのだ。
私は、今まで、この手を使用した記憶は無い(と思う、多分?)。
ま、大した予定が有る訳でないし、すぐに買い替える必要は無いと判断し(千円以上したからね)そのまま使用する事にした。

それが・・・である。
予定を書き込もうとして、左から無意識に、日、月、火・・・と数えて、「あれ!日にちが違うよ!」と思う訳で、そこで、そうそう、月、火、水・・・だったと気づくのだ。
また、確か20日木曜日に予定があったとカレンダーを見ると、「えっ、20日は水曜日だった?」と驚き、そして、「ああ、月曜日からだった」と・・・まだ、今年は2か月しか過ぎていないのに、まぁ、何回、驚いたことやら・・・要するに、長らく(ほゞ、生まれた時から)「週の開始は日曜日」の習慣で過ごしている内に、「日曜日が頭だ」が、一種、固定観念となっているからだと判明した。


で、こんなに惑わされるカレンダーなのに、「絶対、買い替えないぞ!」と、少し意地になって使っている。
基本的に、私の関係する事の内では、間違っても大事に至るようなことは無い・・・という安心感とイイ加減さで、とりあえず「固定観念の払拭」に挑戦してみようかと・・・大袈裟に言うほどの事でも無し・・・そう、ただ暇なんだよね!

でも、「固定観念」というのは、かなり、頑固であるな。

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雨の日に「八百万の神」を想い・・・

2020-02-16 08:55:17 | この頃思う事

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蕾を見てから、なかなか花が咲かない「椿」だけれど、ほんの数日(と自分は思っている)見なかったうちに開花していた・・・自然の時間経過が早くなったのか、自分の感覚が鈍くなったのか。

 


 

天気予報では先週末は雨予報が出ていたのに、あまり、「今日は雨の日」だという感じが無く過ぎた。
でも、今朝(16日)は雨、今日一日中は雨降りのようで、正真正銘の「雨の日」である。

世間が「ウイルス」で危機感イッパイの中、雨が降ると、多少、ウイルスの活動も抑えられるのではないかと、素人考えであるが安心感も持ったりするが、ま、あくまでもそう考えたい自分自身の気持ちの表れだろうな。
それでも、「一雨ごとに春が来る」のは間違いなく、我がご近所先輩方々は、気温的には、十分、春に達しているという自説をもって、ひと月も早く(通常は3月らしい)「ジャガイモ」の植え付けをしたそうだ・・・姉も便乗したと言う。
それを聞いて、「そうか~、もう植えても良いのか」と私も便乗しようと決めた、「ジャガイモ」では無いが、昨年の収穫で「白ゴーヤ」の種を取って置いたものだ、但し、直播なので1週間ほど様子を見るつもり。
見た目では「緑ゴーヤ」の方が栄養価がありそうだが、食するには「白ゴーヤ」の方が扱いやすいので、ここ何年かは「白」を植えて来た。
この「白ゴーヤ」の元は、ご近所さんの畑の隅で自力発芽した苗を頂いたものだから、既に3代目か4代目であり、よくよく思えば、これは「自然の悠久の営み」の流れの一端なんだなぁ・・・と、妙に感心したりしている。

先日見たTV番組中、日本に滞在している外国の方々への「精進料理」に関して質問したうちで、「動物に命があるという事は分かるが、植物(食物)の命を頂くという考えは理解できるか?」というがあり、おおよその人が理解できると言っていた。
でも、それを聞きながら(英語で会話しているから私の理解度もイイ加減)、日本人の「植物にも命がある」という思考の原点には「八百万の神」の存在があるように思うが、海外では(私の偏見か、一神教の方々に於いては)、植物も生物学的な命の存在として理解されているのではないか・・・なんて事を思ったりした(だからと言って、ダメ出しをしている訳では無い、いろいろあるという事)。


私の、ホントにイイ加減な農作業であっても、毎年、芽を出し実を成らせてくれる植物に接する度、「自然はスゴイものだな」と感嘆する中には「有難いものだな」という感謝の気持ちも入っている。
それは植物自体に向けて・・・というより、無意識のうちに、後ろに(どこだろう?)控えている「八百万の神」への感謝のような気がしているのは、私もそろそろ終点に近づいて来たと言う表れなのか・・・とも、思ったりね。

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「中だるみ」だなぁ・・・と

2020-02-11 13:07:44 | この頃思う事

姉が、庭の隅に植えてあった「水仙」を、昨年、球根を掘り起こして、鉢に植え替えた・・・揃って芽を出したが、花が咲くのは、まだ、ひと月程先(かな?)のようだ。

 


 

先月末に、申告の付帯事務として、青色専従者給与の年末調整と役所への報告書類作りをして、届出を終了。
一つ完了したところで気持ちを切り替え、今月初めに開催した「同級生遊びの会新年会」雑用係に専念、次回開催予定ご案内を一斉送信、只今、一休みしている。
甥からも、青色決算に関する事務が進んでいないらしく音沙汰がないから、今週は手持ち無沙汰で・・・内心はイライラ状況で催促したいが、ここは、ぐっと我慢、我慢なのである、何せ「自立する」のが目標だからね,TVでも見て時間を潰すしかない。


そのTVでは、「明けても暮れても、微に入り細に入り、ウイルスウイルス」、それを知ったからと言って私に何が出来るの?
クルーズ船からの発症者は何人になったとか乗船者に疲労とストレスが溜まって・・・非常時って事でしょ?
外出時にはマスクを着用しろ?帰宅したらしっかり手を消毒・洗浄しろ?
マスクも消毒薬も買うことが出来ない私に、いったいどうしろと言うのか?
まぁ、既に退職している高齢者(私です)の出来る自主防衛といったら、幸い通勤義務はないからどこへも出かけず、只々、家に引き籠ってTVでも見ていることしか出来ない・・・よねぇ。
そのTVが、どうする事も出来ない情報を垂れ流すだけで、はっきり言って「あまりにウルサイ」だけだ。
で、対策としてTVの音を消したり、全く関係のない番組にチャンネルを替えたりしている(TVを消せばイイのに、全く、音がしない世界は落ち着かないというバカな症状がある)。

あくまでも、私の一方的・個人的な感想として・・・あれこれ姦しく、重箱の隅をほじくり返すようなマスコミ報道だが、この難題が、何時、収束するかは不明な状況に於いて不安はあるとしても、今は、日夜、懸命に働き、努力を尽くしている関係者の健康を気遣い見守ることが先ではないか、総括・検証は結果をみてからでいい・・・と思う次第。


中だるみ状態でボ~としている脳細胞は、何もかもを騒々しい障害物として排除してしまう・・・ま、私の持病だわな。
さて、来週は、ガンガンと脳細胞を刺激して貰えるのを期待して・・・どうかな?期待しない方が賢明かもね。

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幸せの伝播・・・って?

2020-02-04 19:40:49 | この頃思う事

ご近所で一番早く花が開く「梅の木」だが、決して陽当たりがイイとは言えない場所なので、若しかして、地下に温泉脈でもあるのかも知れない(地熱が高い?)・・・と、私は、密かに思っているのだが、さて?

 


 

 

昨日(3日)の朝、我が東屋迄、新聞を持って来てくれた姉が(姉宅の新聞を一日遅れで読んでいる)、「今日の夕飯には、恵方巻が届くからね」と言う・・・あぁ、もうそんな日になっていたのか・・・と、月日(時間)の流れの速さを感じたが、そんなに忙しくないのに、何故だろうな?
毎年節分には、自作の恵方巻(まがい)を作っていた姉だが、身近に様々な問題が発生して混乱していた昨年は、とてもそんな気が回らなかったのか(或いは、作らなかったのか)、私に届けられなかった。
特別、食べたいとは思っていないものの、毎年、恒例のように来ていたものが来ないというのは、何か不安にさせるし、寂しいものなんだよね。
今朝、姉からそんな言葉を聞いて、姉も、それなりに心の整理を付けて前向きになろうとしている姿に、少し安堵感を持った。


夕刻、姉の孫(高校性)が、豆撒きをするとやって来たので、「福は私の手の中にだけにひっそりと、鬼は玄関からより遠くに放りなげて」と注文すると、彼も笑いながら豆を撒いて行った・・・子供たちが(姪は2人の子供がいる)、母親の病に不安を抱えつつも、現実を見つめようとしている姿は、私も姉も、見ていて切ないものがあるが、現実は現実として受け入れることは大事だし、そこから未来が始まる・・・と話をしているが、彼らなりに消化しているのを感じられるようになった。
こんなささやかな事から、幸せに向かおうとする家族の姿を発見出来る事が、私にとっても幸せ・・・という事なのね。

 


我が手のひらに載っている小さな福の神(豆)を、一粒づつ(最近は、歯に自信が無いので、固いものと、物を一気に頬張ることを避けている)味わっていたら、ケイタイにメール受信された・・・かつての職場の上司からだ。
メールには「頂いた年賀状が2等に当たった。今年一年、いい年になるような気がして嬉しい」と記してある。
早速、返信メールで「自分が当たった訳でも無いのに、私も嬉しいです、私にも、いい年が巡って来そうな気がしますよ」と書いて送信した。

 

 

「幸せの伝播」・・・結局は、自分の気持ちの持ちようで物事を解釈するから、自分が幸せを感じようとする心があれば小さな幸せも「伝播」するって事なんだろうな・・・なんて思ったりする。

明日は「同級生遊びの会新年会」だが、さて、この幸せな気分を伝播出来るのか・・・ま、私の気持ち次第・・・って事でしょうね。

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「無用の用」アレコレ

2020-02-02 09:46:57 | この頃思う事

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勝手に「侘助」と吹聴しているが、ホントはどうなのだろうか・・・暖かな今年は、花びらが全開となって「侘助らしき風情」が見られないのが残念な気がする。

 


 

予定では5日(外出の予定があるから)に買い出しを・・・と思っていたが、冷蔵庫の中が、ほゞ、空状況となってしまい、とりあえず食せる物を仕入れようと、近くの「ドラッグストア(多少の食料品もある)」に出かけた。
帰り際、「そうだ、マスクを買わなくては・・・」と取って返したが、案の定、今、必要な品(用途・サイズとか)のコーナーはスッカラカンである・・・ふ~ん、こんな田舎でも買い占めする人なんているのかなぁ・・・と思いつつも、無いものは無いのだから、喚いたところでどうしようもない。
自分だって、ウイルスが怖くてマスクを買いに来たのでは・・・と思われるだろうから、ま、一応、言い訳を言わせてもらうと、病気で免疫性が極端に弱くなっている姪に接するためには、マスクが必需品となっているのだ。
これだけ物があふれた日本でも、必要な物が手に入らない・・・何かオカシクナイ?


買い出してきた物を収蔵しても隙間の残る冷蔵庫の空間には、保存容器が空のまゝ、半分を占めている。
大概が空状況な我が冷蔵庫は、冷蔵庫として役を果たしてないな・・・と思った。
そう、私にとっては必要でない物・無用な物の一つだとも言えるわなぁ・・・と。


そんな事もあって、偶々、ネット記事を眺めていた時、「無用の用」というフレーズが目に留まった。
「老子道徳経」という書物に記されている名言だそうだ(内容にご興味があればお調べくださいね)。
つまり、形ある物に価値があるのは、形の無いものがその役割を果たしているから・・・だと老子様は言うのですね。

まぁ、私が無理勝手にコジつければ、店頭にマスクが無いということは、如何にマスクに価値があるか・・・と言う事であり、私の空の冷蔵庫は、まだまだ物を詰め込める余地がある事で精神的余裕を高らしめている・・・と言うことになるのかなぁ・・・・な~んてね。
だから何?って気もするけれど、こんなバカげた思索が出来るってことが、一番の「無用の用」なのかも知れないね。

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