今月初めだったか、うろ覚えの記憶だが、姉が「春の香り」と言って、「フキノトウ」を天ぷらにしてくれたのが美味しかったので、友人に「春の香り」のお裾分けしようと思いながらも後回しにしているうちに、既に、ご覧通りの姿に変化していた・・・もう、食せない!
姉の家には、2組(若しかすると3組)の雛飾りがある。
見慣れない木目込みお雛様が飾ってあったので聞いたところ、2番目の娘に姉が手作り(と言っても、衣装を木目込んだだけだが・・・)したものだと言う。
姉には、女、女、男の子供があり、当然の如く、長女には段飾りお雛様、長男には鯉のぼりと5月人形を買い与えたが、次女から、自分には何もない・・・とクレームが出て、そこで、「手作り木目込み段飾お雛様」を作ったのだと言う。
それを聞いて、何とな~く面白いものだなぁ・・・と思ったのは、我が5人姉妹で、雛飾りを与えられたのは長女である姉だけであったけれど、何にでも、平等であることを求める私が、姉だけにお雛様があるという事実を、すんなり、受け入れていた事だ。
そうかぁ、世の中の平等意識の内実は、我が世代と姪たちの世代では、随分、違ってきていたという事なのか・・・と、この年をして実感した。
そう思って、ふと、思い出した事がある。
母を介護する事に関して、親の世話に振り回されていた末の妹(多分、昭和26年生まれ)が、我ら姉たちに向かって、「親を看る義務は、姉妹平等の筈だ」と言った言葉だった。
その時の私は、「親にだって、看て貰いたい子供がある」と言い訳じみた言葉を吐いたけれど、ホンネでは「一番、親に世話になった子が看るべき」が言いたかった(その言葉は呑み込んだけれどね)。
私の認知度と言うか認識度と言うか・・・に於いては、「権利を主張するには、必ず義務も伴う」であり、自己主張する前に義務を果たせ・・・であって、私(次女)は姉(長女)と同じ待遇を要求しないけれど、自らの力で為すことに口を挟むな・・・を実践して来たと思っているし、(必ずしも成功だったとは言えないが・・・ま、それはそれとして)分相応の選択だとしていた。
まぁ、私如き自分勝手でイイ加減な人生を過ごしてきた者が、権利だ、義務だ、平等だ、差別だと声高に言えないけれど、これらの懸案は単独では存在しえないと思っているので、権利が欲しければ義務を果たせ、平等を欲するのならば差別をするな・・・家族に優遇される長女には、それなりに責任を持たされるし、お雛様が無い次女は、随分、気儘に生きて来られたし・・・要するに、人生の辻褄は合っているという事ではないのかな?