IZUNOHANA’s blog

     後期高齢驀進中者の戯言

郷愁のおばさん二人中国紀行(53日目)

2008-08-31 07:19:18 | 旅の足跡

1986年8月31日(日)
-カシュガルの市場散策-

小刀 55元
首飾り 4元
耳飾り 2元
髪飾り 4元
ポット 50元
刺繍飾りブラウス 20元
馬齢 5元
うどん 1元4角
茶水 6元
ナン 2角
スイカ 8角
ロバタク 1元
夕飯代 7元8角
(レート 1元=約42円)

カシュガルを離れる日が明日となり、ふと考えた。
天を突き雲をも遮る大山脈と、身を隠すところとて無い茫々と広がる砂漠。
両者に囲まれたこの街で、己の体すら思うように動かせずに居た私達は、閉じ込められた感が強くあった。
そして、絶えず頭にあるのは、如何にしてこの街を脱出するかだけだったように思う。
再び、この地を訪れることはあるだろうか・・・よしんば、あったとしても、こんなにのんびり滞在することは無いだろう。
今日は強く反省して、街の空気にどっぷり浸ることとする。

まず、脱出報告のハガキを投函(このハガキが日本に着いたのは9月18日だった)。
エィティガール広場のパフォーマンスうどん屋では、再び、カシュガルの味を噛み締めて、体力、気力ともOK。
それから、バザールをさまよい、ひやかし、熱中し、歩き回ること5時間あまり・・・これぞ「地球の歩き方」実践版。
刺繍入り絹のブラウスを散々迷って(20元=840円)購入し、レースのストールに飛びついてみれば日本製、カシュガルに来てから馬齢の音がとっても気に入ったので、何とか手に入れようと得意の絵を描き(何しろ漢語が通じないので表現しようがなく、でも、得意の絵もなかなか判ってもらえなかったのだが・・・)、鍛冶屋の店先では、真鍮製のポットを修理している・・・それを眺めること1時間、これもしっかり買いました。

私は何処に行っても(外国、日本を問わず)バザールが好きだ。
一番、生きている匂いのあるところと思う。
見つけると歩き廻っているが、ここ、カシュガルのバザールはとても魅力的。
ナンを焼いている少年達、道端の床屋さん、親の傍らで遊ぶ幼児等、ディスコ音楽に群がる若者、種々雑多な色、音、におい・・・・。人々の生活のエネルギーに呑みこまれ、外来者の自分が無くなってゆく・・・その感じが好きなのです。

明日の出発がつつがなく行くように、夕食からビール断ちをする。
(その後、私は、99年9月に再びカシュガルに訪れた。案の定、街はとても整備されており、広場のバザールもきっちり区画され、食堂等も衛生的になっていた。でも、生活感よりも観光客対象のような感じを受けた。それでも、広場付近から外れた場所では、一般人民が行き交う、懐かしいにおいのする市場があり、何故かほっとしたのだ。まあ、観光客の勝手と言われれば、正しく勝手な話ではあるが・・・)


    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷愁のおばさん二人中国紀行(52日目)

2008-08-30 09:04:19 | 旅の足跡

1986年8月30日(土)
-またまた、何をする事も無いカシュガルの一日-

杏の皮 2元
昼飯代 14元5角
�泣酒(ピール)他 12元5角
夕飯用野菜 6元
スイカ 1元
(レート 1元=約42円)

昼食時、日本の山岳隊員2名と同席した。
彼らは天山の一角にある未踏峰にアタックしたが不成功だったとか・・・隊長の体調が悪かったので・・・と、冗談のように言う。
「悔しくないの」と聞くと「残念だれど、ま、仕方ないですよ」との返事に・・・うん、そうそう・・・深刻にならない所が良い。
ウイグル人のポーターを雇ったのだが、思うようには動いてくれず、何か問題が生ずると、彼らは首を傾げて「ボンマイダー」と言うのだそうだ。神様だけがなせる業、仕方ないねぇ・・・という事なのだろう。
この話に、我等も大いに笑ったが、その「ボンマイダー」はいつの間にか、我等の傍にも寄り添っていたらしい。

賓館には我等と同じように足止めされた日本人が何人かいた。
退屈しのぎに食事会でもしないかと誘ったが、現れたのは山男2人。
彼らの持ってきた登山用食料の余りと、買出してきた野菜などを肴に、ワイン、ビールも急ピッチで、久しぶりに・・・飲んだ!・・・という感じになる。
まずは、満足!


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷愁のおばさん二人中国紀行(51日目)

2008-08-29 07:58:13 | 旅の足跡

1986年8月29日(金)
-何する事もなくカシュガルの一日-

ロバタク 2元
切手 4元5角
ナン 4角
昼飯代 10元9角
スイカ 5角
夕飯代 10元
(レート 1元=約42円)

過酷な旅を経験した後のためか、頭の回転がゆるくなったようだ。

午前中はのったり過ごし、午後になって、街へ出た。
CAACとCITSに寄って、ウルムチから北京への飛行便が手に入らないか聞いてみる。
初めから予想はしていたが、あっさり「没有」では、あまりにも悲しいではないか・・・。
Wさんは、こんな調子ではOさんが北京に滞在中に、我等はたどり着けないかも知れないと、しきりに心配する。
でも、出来る限りの手を尽くし、世界中の神様にお祈りしたのだから、後は、運を天に任せよう・・・と言うしかないのよね。
スイカを買って賓館へ帰る。

カシュガルでの食事は、おかゆではなく、蒸したご飯が主食だったので、食事そのものが飽きることは無かったのだが、何しろ食べるチャンスのあるおかずが少ない。
メニューに書いてあっても、注文すると「没有」ばかり。
で、我等はだいたい「トマトと卵のごちゃごちゃ炒め」を食べ続けることになる(これを「没有料理」と呼んでいた)。
街の食堂で食べることもあったが、だんだん面倒になって手軽に賓館で済ませる日が多かった。
今日も一応、メニューを見ながら注文をするが、いつものように返事は「没有」・・・そこで一句浮かんだ。
  「没有と 言われて思わず 対不起(ごめんなさい)」
評:無いと思いつつも、もしも・・と期待を秘めて、おそるおそる賓館の服務員に尋ねるが、彼女の悪びる気もない堂々とした態度に、口ごもり、その上、思わず謝ってしまう・・・作者の気の弱さが目に見える、すばらしい句だ(自薦ですが・・・)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷愁のおばさん二人中国紀行(50日目)

2008-08-28 07:21:26 | 旅の足跡

1986年8月28日(木)
-休養日-

昼飯代 16元9角
夕飯代 6元
スイカ 1元2角
(レート 1元=約42円)

体中がギシギシと痛む。

午前中は洗濯、後は休養。昼食のビールをちょいと多めに飲み、夕食までひたすら眠る。
その間に、Wさんは散歩に出かけたようだ。
実を言えば、我等2人、「おばさん」と自称してはいるが、Wさんはレッキとした「お姉さん」なのだ。
私より数歳も若い。
やはり、若さだろうか、疲労回復が早いのね。

夕食前に市場へスイカの調達に出かけただけなのに、お腹は空くのですねぇ・・・勿論、夕食もしっかり取った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷愁のおばさん二人中国紀行(49日目)

2008-08-27 11:01:46 | 旅の足跡

1986年8月27日(水)
-カラクリ湖は何処?-

トラックヒッチハイク 30元
バス代(ウルムチ近郊~市内) 2元
馬タク代 1元
うどん(解放軍兄さんの友達) 2元6角
羊のスープ 1元
(レート 1元=約42円)

人間は強いと思う。
否、女は強いと言った方が良いのか(我等は弱い女と思っていたが・・・)、恐れ多くも、神を呪い、仏を恨みながら、明日は絶対街へ帰るぞと、何度も何度も決心したというのに、辺りが明け始めた頃、勿論、我等は凍死もしてなかったし、昨夜の体験も「終わった、終わった」と、急に過去へと過ぎ去っていた。

唯一持参の(おいしくない)ビスケットを食べているうちに、腹の底からフツフツとエネルギーが沸き立ち、「ここまで来て引き下がってなるものか・・・行くぞ、行くぞ、カラクリ湖だ!」に変わって行ったのだ・・・単純なのだろうね。
先発バスのドイツホモさんに出会う。
街へ戻るという・・・彼らも、カラクリ湖がこんなに遠いと思っていなかったのだろう。
割合に整備された道を2時間程走ると、雪を頂いた山々が目前に現れ、その麓に待望のカラクリ湖が姿を現した。

人っ子ひとり、馬一匹すらも見えない湖畔に降ろされた。
余りの寂しい様子に、同乗の日本人男性が心配してくれる。
同じ苦しみを味わった仲として、互いの無事を祈って別れた。
それにしても、寂しいところだ。
バスが遠ざかると、辺りはしんと静まり、ヒタヒタと岸に寄せる波の音と、山から吹き降ろす風のうなりが聞こえるのみ・・・風が体を突き刺してゆく。空はどんより曇って、今にも雪が降りそうな天気だ。
無人のパオ(包)が3棟、風を避けるように丘の影に立っている。
あららぁ、どうしよう。
困ったねぇ・・・真剣に不安が襲ってこないのはどうしてだろう・・・突然、人影が・・・10歳くらいの男の子・・・ウイグルでは無い・・・カザフ?タジック?キルギス?・・・分からない。
漢語と片言英語で話しかけるが通じない。
しからば、日本語に身振り手振りを加えて「食べる、寝る、家ないか?」と演技をすれば、しきりに湖のかなたを指し示す。
目を皿にして見つめると、白い建物らしきが見えるではないか・・・。
「謝々、サンキュウ、ありがとう」
どぅわぁーと広がる草原を建物目指して直進する(正規の道は遠回りに見えたので・・・)が、草原に見えたのは湿原であり、足首程の草に隠れて、そこここに小川があったのだ。
その小川は、跳び越すには少々広く、足を入れるには、これまた深い。
結局、回り道に回り道を重ねて、最後にはどうしても川に入らねばならない事となった。
その水の冷たい事・・・心臓がキューと縮まるほど冷たい!

ようやくたどり着いた集落は、ひーっそりして、竈の煙も立っていない・・・ゴーストタウンか・・・。
どてら(民族衣装です)を着た男性3人がやってきた。我等はにっこり笑って、当然、日本語で「こんにちは」と言いながら握手を求める・・・友好的な態度の表現ですね。
漢語、英語、日本語、身振り手振りにイラスト付、あらゆる表現を駆使して、食事にホテルを訪ねると、彼らは近くの小屋に我等を導いた。
そこには、嬉しいことに北京語の通じる人がいた。
Wさんの出番で、漢字も加えた会話によれば、3棟のパオが宿舎で他にはない、食堂もない、バスもない(我等が乗ってきたバスは何?1日1本という事かな)、時刻表もない、街へ行くにはヒッチハイクのみ・・・彼等は、親切にもいずれもダメならここへ戻って来いと言ってくれた。
そこで、すくさま決める・・・パオは無人・・・街へ帰ろう・・・ヒッチハイクが無理とだったらここへ戻ろう・・・。

結果的に、ヒッチは成功したので、再びこの集落に戻る事はなかったが、泊まってみても良かったかも・・・と後で思ったりした。
熱いお茶とパンをご馳走になる。
暖かくて、おいしくて、有難くて、冷えた体が芯から温まった。
「謝々、謝々。本当にありがとう」
(今、冷静に思うに、あの時、我等は完全に遭難状態だった。
何があってもおかしくない、十分な条件が揃っていたと思う。
人民の良心に助けられたのかも知れない。危機に出会うのは、案外簡単な事が原因だと感ずるが、如何?)


正規の道をたどって本通りに出る。
さあ、車を確保しなければ・・・だが、車の陰さえ見えない。
後ろを振り向きながら歩き始めた。
どこから来たのか、馬に跨った人が2人、3人・・・う~む、絵になるなぁ・・と感心する。
おっと、感激している場合じゃないよ・・・しかし、車なんてあるのかな・・・ちっとも来ないじゃないの・・・いや、待ってよ・・・あれ、あの埃りは車じゃないの?・・・近づいてきたのはトラックだった。
この際、選り好みは無しと手を上げた。
トラックは止まってくれた・・・解放軍だ・・・だめかな?・・・Wさんが叫ぶ・・・カシュガルへ行きますか・・・カシュガルへ行くよ・・・乗せてくださ~い。

トラックの荷台によじ登る・・・これはチベットで経験済み。
先客は大型モーター(主賓だね)、キルギス風おじさん2人にヤギ1匹。
トラックの荷台ドライブは、バスに劣らず緊張感がある。
崩れるに任せた路肩のぎりぎりに走るタイヤが、直接、目に入るのだから、スリルは満点のひやひやものだ。
しかし、かなりのスピードで走り続け、昨日のバスは何だったのと思うくらい時間も掛からずに、山道を過ぎ砂漠を走る頃には快適、爽快で荷台のドライブを体全体で満喫した。
キルギスおじさんからは、パンやブドウを、解放軍兄さんからスイカやお菓子を貰った・・・「謝々、謝々」。
公の認める事か、暗黙の了解かは知らないが、人民はこの車を乗合トラックとして利用し、いくばくか払っているようだ。
我等も感謝の気持ちを渡した・・・でも往路のバス代より10元ケチったけれど・・・。

カシュガルの手前の小さな町で、解放軍トラックと別れる・・・「謝々、謝々」
通りかかった女の子が我等に野の花をプレゼントしてくれる・・・胸ポケットに挿して、「謝々、謝々」
ウルムチ方面のバスが分からず、ヒッチハイクしようかと歩き始めたら、町人が大声で「バスが来た、あれだ、あれだ」と教えてくれる・・・、「謝々、謝々」

賓館にたどり着いたのは夜中の12時過ぎ。
ポットの湯で顔と手足を洗う(風呂場のお湯が出なかった)。
ベットが嬉しいねぇ・・・今日は何回「謝々」を言ったのだろうか・・・人民のみなさん、心からありがとう・・・良い旅が出来ました。


 

 

 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷愁のおばさん二人中国紀行(48日目)

2008-08-26 09:05:59 | 旅の足跡

1986年8月26日(火)
-カラクリ湖へ-

馬タク代 1元
ナン(2回分の食事)  4角
ビスケット 1元
バス代(カシュガル~カラクリ湖) 40元
スイカ 3角
(レート 1元=約42円)

朝8時、長途バス停は大混雑。Wさんを見失ってしまう。
両方で探し回ってもかえって見つからないと思い、窓口付近で待っていると、案の定、Wさんが見つけてくれた。
いつも、ごめんね。

待てというから待ち続けて3時間、ようやく乗れたバスに我等の席は無い。
その上、すこぶるオンボロだ。
元々、立っていても良いから・・・と乗ったのだから、当然といえば当然だが、既に出発した真新しい近代的なバス(外国人専用かな?)には立ち席は無かったのかなぁ・・・ドイツホモさんはそれに乗っていたけれど・・・。
ぐずぐず言わずに、気分を切り替え、運ちゃんの後ろにある道具箱を、我等の座席に確保する。
乗員3名(運ちゃん、車掌2名)、乗客は日本人男性3名(彼らは国境を越えてパキスタンへ行くとか・・)、日本人女性2名(我等です)、パキスタン人と思しき人々。男あり、女あり、子供に老人にと、まさか家族旅行ではないだろうが(でも、そうかも知れない)、満席の上に付録(我等です)も乗せて、バスは出発した。

凄まじい道だった。
およそ工事現場でも、こんなひどい状態は無いだろうと思う。
風雪に晒された山肌は脆く、雨が降ると(否、降らなくても・・)崩れ落ちる土砂や大岩が道路を塞ぎ、また道路を押し流している。
バスはこれを乗り上げ、迂回し、激しく上下に揺れ、ひっくり返りそうなまで傾くのだ。余りのひどい状態に、チベットの苦しかった道だって、すばらしく思えるくらいで・・・これは道とはとても言えない・・・と、心から思う。
バスの振動で路肩は崩れ、窓から見える濁流渦巻く谷川が、不気味に誘う。
う~ん、あまりのスリルに緊張し、かえって気分が良いくらいだ。
尾てい骨が木箱(我等の座席です)にぶつかって痛む。
たびたび、エンストする。そのたびに車掌が水を汲みに行く・・・あぁ、それで2人いるのか・・・と気づいた。でも、エンストしている間がしばしの休憩となる。

どの位経ったの?・・・4時間掛かるとしても、後、3時間・・・2時間・・・1時間・・・湖は何処?
もう、既に7時間余り乗り続けている。
太陽はすっかり傾き、夕闇が忍び寄っている。敬虔なムスリムである運ちゃんは、バスを止め、敷物を広げ、夕べの祈りを始めている・・・カラクリ湖はいったい何処にあるのよ・・・祈りたいのはこっちです。

道らしい道になる。
更に、バスは走り続けて数時間、夜中の12時を回った頃、小さな旅社に停車した。湖なんて見当たりません。
今夜はここに泊まるらしい(乗務員から何の説明も無い・・・というのは当然の予定なのかな)。
星が天空に瞬き、夜気は心憎いほど清冽で、だが寒い!
広場を囲んで建物が数件・・・そのうちの大きな建物が宿舎のようだ。
行ってみると、先発グループが、床に直接敷かれた煎餅布団で雑魚寝している。
満員で足の踏み場もなく、場所を詰めてくれる気配もない。
乗務員に文句を言っても埒はあかず、ウロウロと泊まれる場所を探したが、「没有」。再び乗務員に食い下がると「バスの中に寝ろ」と言う。
なにしろ寒くていられない。
バスに戻ると、そこはさすがに地元民、パキスタンの人々はしっかり座席を確保して、既に眠りに就いていた。
のろまな日本人に残されているのは床のみ・・・寝ましたよ、寝るっきゃないでしょ。

何せオンボロバスですから、隙間風が容赦なく吹き込み、足からグングン冷えてきて、体温を奪う。歯は勝手に震えて、ガチガチと音を立てる。
国境を越えるという日本人男性も運転席付近に寝ていたが、彼らはダウンを着ている・・・我等は日帰りハイクのつもりだもの、防寒具なんて持ってません・・・ネッカチーフ、タオル、運ちゃんの油まみれつなぎまで借用して身に着け、お互いの体温で温まるいように、くっ付いてじっと横たわっていた。
とろとろとまどろんでは、寒さで目が覚める・・・うーむ、寒い!・・・風がうなっている・・・明日、目が覚めたら、きっと凍死している自分を発見する・・・凍死したら目が覚めないよね・・・後部座席からいびきがする・・・よく眠れるなぁ。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷愁のおばさん二人中国紀行(47日目)

2008-08-25 08:30:47 | 旅の足跡

1986年8月25日(月)
-事務労働日-

馬タク代 2元5角
航空券(カシュガル~ウルムチ) 582元
昼飯代(うどん) 1元4角
スイカ 1元4角
公安手続代 12元
電報代 18元
夕飯代 22元1角
(レート 1元=約42円)

運命の日が来た。
神様、仏様、お釈迦様、天照大神様、活仏様・・どうかお願い致します・・・と祈ってから、いざ、出陣。

CAAC(民航):開始時間は11時だと聞いていた。
少しでも早く行って、良い場所(肉体的に負担にならない位置)を確保しようと、馬タクを飛ばし、途中からは我が足で飛ぶが如くに歩き(市の中心は馬タク・ロパタク乗り入れ禁止)、民航事務所に着いたのは10時半だった。
えっえーっ!・・・扉が開いているよ。
あせって飛び込めば、2メートル足らずのカウンターには、既に数人がへばりついている。
我等は、すぐさま、己の役割を認識し態勢をとった。
Wさんは手にしたパスポートを横柄な民航職員に突き出して、職員に受け取ってもらうまで、手を上げ続けねばならない。
その、Wさんを護衛するのが私の役割なのだ。
周りには大柄で背の高い人ばかり。
我等の顔の横から、頭の上から、大きな手が突き出されるし、後から脇から、ギュウギュウ押され、隙間があればすぐに割り込まれる・・・で、私はそんな彼らを、さりげなく、それでいて強力に払いのけ、足を踏ん張り一歩も動かず、後の敵はお尻で突き飛ばし、努力と忍耐の1時間半。
ついに手に入れました・・・9月1日ウルムチ便。軽いめまいが私を襲う。

CITS(旅行社):無駄とは思うが、もっと早いウルムチ便を入手出来ないか尋ねたが「没有」。
そうよ、いつも役に立たないのよ・・・と確認出来た事が大事かも知れない。
郵便局:国際電報は英文で書け・・ですって!。
そこで、9月2日か3日頃には北京に帰り着くという前提で、我等の少ない知識(少ないのは私だけで・・)を搾り出し、完成させた文章は以下の如く。
 「1th.Spt’ We can not arrive at BEIJING.Waite at hotel.」
「おせん泣かすな、馬肥やせ」に匹敵するくらい傑作と自認したのに、肝心のOさんには十分理解出来なかったと言われてしまった。
念のため、北京在住のWさんの友人宛に速達便を投函する。
昼食:エイティガール寺院広場の食堂街で「唐辛子ひりひりうどん」を食す。
旨かったですねえ。
それに、おやじと若い衆のパフォーマンスも見てて飽きない。

公安局:またまた昼休み時間中で、かんかん照りの中をじっと待つ。
Wさんは、ビザを1ヵ月分更新申請したがすぐにOKになった・・・3ヵ月申請でもOKが取れそうと言う。
この街にしばらく滞在するので、ホータン(和田)へ行って見ようと申請したが、未開放地域だからと不許可。
タシクルカンはOKだと言う。
すく申請し、旅行許可証を発行して貰った。

長途汽車発着所:タシクルカン旅行許可が下りたので、その手前にあるらしい「カラクリ湖」行きの切符を調達しに向かう。
明日の座席は満席という。
トルファンの事もあるし、数時間ならば立っていても良いと思い、Wさんが漢語(北京語)で、どの位時間が掛かるのか聞けは、窓口のお姉さんは得意の英語で答えるんだもの・・・何を言っているのか分かりませんよ。
でも、3時間とか4時間とか言ってなかった?と、勝手に解釈して粘っていたら、明日の朝8時に来いと言う。
は~い、ありがとうございます。
これで、一応、事務労働を完了する。

疲れを癒すためスイカを買って帰る。
でもねぇ・・・確実なのは「9月1日ウルムチ便」だけなのよねぇ。


  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷愁のおばさん二人中国紀行(46日目)

2008-08-24 07:35:47 | 旅の足跡

1986年8月24日(日)
-カシュガルの1日-

馬タク 4元
昼飯代 22元3角
スイカ 1元6角
ホージャ墳入場料 1元
ブドウ 6角
夕飯代 16元
ビール 10元
(レート 1元=約42円)

カシュガル市郊外に、(新賓館の近くだという)にホージャ墳(香妃墓)がある。

この先の不安は解決されていないものの、如何ともし難い訳で、この際さらりと切り替え、郊外散歩に出かけることとした。
ロバタク(馬タクより安い)をけちって歩き始めたが、案外遠くて、結局、馬タクに乗る。
まっすぐに伸びたポプラ並木の道を、ロバに跨った老人がポコポコと歩いてくる。
馬車が鈴を軽やかに鳴らしながら駆け抜ける。
泥水色の小川では、子供達が素っ裸で水と戯れ、歓声を上げる。
翳りの無い陽光が白く跳ね返り、一馬力の足音が心に響く。
なかなか良い具合の歩調だ。

ホージャ墳は畑の中にひっそりとあった・・・観光客の少ない時間帯だったのか・・・。
円形ドーム型建築を見ると、イスラム圏内だなぁ・・・一山超えれば中央アジア、その先は中近東だもの・・・繋がってるんだよね・・・と実感する。

我等の日課となったスイカ買いは、当然、カシュガルでも続けていた。
小山の如く積み上げられた中から、あれがおいしい、これは高いなんて品定めに、馬タクを値切るよりも夢中になるのは、食べる楽しみがあるからだろうか・・・。

ここでは、午後1時から3時まで昼休みが通常らしく、街に出ても閉まっている店が多い。
我等も「郷に入りて郷に従え」で昼寝を楽しんだ。
賓館での昼食時にビールを少し(本当に少しだけ・・)多めに飲み、ホロ酔い気分で横になる。開け放した窓からは、馬タクが鳴らす鈴の音が聞こえ、穏やかに、眠りに誘われてゆくのです・・・・。
このビール、真に「場所を得たり」で、乾燥しているためか、私の胃腸にはすこぶる快適(というのも、常の私は、飲みに行っては胃薬を服用するという状態だった)で、昼に飲み、晩に飲み、風呂上りに飲む。
これに昼寝が入るんだもの・・・小原庄助さんそのものじゃないの・・・。新賓館の滞在が長かった我等は、のん兵衛ぶりを知られるところとなって、たまには休肝日と注文しないでいると、服務員お姉さんは、伝票片手に「ビールは?・・・」という顔をして待ちの姿勢をとる。
で、ついつい頼んでしまうのだった・・・まぁ、言い訳だけれどね。


 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷愁のおばさん二人中国紀行(45日目)

2008-08-23 19:01:54 | 旅の足跡

1986年8月23日(土)
-ようよう砂漠を抜け、カシュガルに到着(2/2)-

昼食を済ますと、何より先に民航事務所に向かう。
4日か5日滞在後に、ウルムチへ戻り北京へ帰るという予定に従って、ウルムチ便を確保するためだ。

賓館から少年運ちゃんの馬タクに乗り、民航事務所と言う(漢語で)と馬タクは走り出した。
承知したものと思っていたのに、彼ら少年運ちゃんは理解していなかったらしく、民航事務所に到達しないのよ。
そこで英語と漢字で指示するも分からない。
あちこち走り回って16元も取られたのに・・・ここはどこ? ・・・ 民航事務所はいずこ?・・・の状態なのだ。その時、国際ホモさん達(彼らは老賓館に滞在か?)が馬タクで通り過ぎた。
天の助け・・・と、思わず出た言葉は・・・Please just moment.Where is Airport Office? I want to go to there・・・私は叫んだ。
通じましたよ、こんな英語で・・・。

困難を乗り越え、たどり着いた民航事務所は、ただ今お昼休み中で・・・ご丁寧に入り口の扉には大きな鍵を掛けてある。
で、室内で待つことが出来ない我等は、かんかんの日の中で、石段にペッタリ座って待つのみ。
何かため息が出てきそう・・・待って居るのは数人なので、ウルムチ便は空いているかと思いきや、そのうち、人々が集まって来た。
窓口が開くや否や、例の如く、わーっと一斉に受付へとなだれ込む。
はじき出された我等の前に、国際ホモさんが情報をくれた。
何とか大会があって飛行便は満席状態である。
次回の便は9月1日、受付は8月25日だと言う。
「えーっ、困る~。Oさんに会えないよ!・・どうしよう」と、それしか頭に浮かんでこない。
来た時の砂漠バスも30日頃まで満席という情報も入る。
Oさんと連絡を取らなくては・・・と、賓館に戻って国際電話を申し込んだが、夜まで待っても音沙汰無く、とうとう繋がら無かった。
何とも仕様が無い。
ともかく、9月1日便の切符が取れるかどうかも分からないのだから、その点がはっきりした段階で考えようという結論を出す。
それにしても、何故、北京から一番遠い所でこんな事になるのだろうか・・・神様、仏様、キリスト様、何とかして下さい・・・苦しい時の神頼みの典型だもの・・・叶えられる訳も無いのよね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷愁のおばさん二人中国紀行(45日目)

2008-08-23 09:06:09 | 旅の足跡

1986年8月23日(土)
-ようよう砂漠を抜け、カシュガルに到着(1/2)-

宿泊代(新賓館押金) 50元
馬タク(民航事務所まで) 16元
ナン 2角
夕飯代 15元
ビール 7元
スイカ 1元5角
馬タク(市内移動) 1元
ポット代(弁償) 10元
(レート 1元=約42円)

お昼前、カシュガル到着をもって、3泊4日のタクラマカン砂漠横断は、無事終了となる。

今回の旅では、秘境と言われるチベット高原、熱砂地獄のトルファン、強風の吹きまくる安西、水は何処にあるのかと心配になるタクラマカン砂漠と、人間が生活するには酷だなぁ・・・と思われる所を見て来た。
でも、皆、逞しく暮らしているんですね。
自然を人間の力でねじ伏せるのでは無く、包まれて、逆らわず・・・厳しい季節はじっと身を屈めて耐えているのだろう・・・季節が変われば、一斉に訪れる自然の恵みを満喫するために・・・。

地球上の誰にでも、科学技術の恩恵を受ける権利を有するという・・・が、季節を忘れ、太陽を忘れ、バイオだハイテクだと騒ぐ日本は、果たして、人間らしい生活をしているのだろうか・・・。

砂漠のロード中、如何にバスに揺られ続けたとはいえ、我等はいつも小食で、本当に食欲か湧いてこなかった。
人民の旺盛な食欲に圧倒され・・・日本民族は今に絶滅する・・・と真剣に感じたものだ。
カシュガル(喀什)は「文明の十字路」「民族の十字路」と言われる。
かつて、この街を多種多様なものが行き来した。
今、その熱気を感ずるのは難しいが、それでも人々は陽気に行き交っている。
我等の気持ちも少しづつ陽気(ちょっとルーズな)になってきた。

さあ、宿探しだ。
宿泊可能なところは「老賓館」「新賓館」の2箇所。同行外国人は老賓館のようだが、我等は新賓館に焦点を合わせた・・・「新」だから新しくて綺麗かな・・・という思惑も有り。
新賓館のフロントでは、いつもの様に「没有(無いよ)」の一点張り。
我等だって、「はい、そうですか」と引き下がりは致しません・・・何せ、1ヶ月余りの旅で十分勉強してきましたもの・・・と、何処からか急に3人部屋が2日間出で来るのですよ・・・1泊30元貸切で・・・泊まってしまえばこちらのもので、現に我等は10日間もこの部屋を使用し続けたのだから・・・(30元が高いかどうかという問題はさておき・・)。
部屋に行くと、四角い部屋を丸く掃くらしく、角々に誇りが溜まっているし、風呂場を見れば湯垢でヌルヌル。
変な臭いもするんだなぁ。
蛇口をひねると水は出る。
よおし、掃除だ!。

締め切った窓を大きく開き、シミだらけのテーブルクロスは引っ剥がし、選択用ロープを部屋の中央に張って、準備OK。
洗面台にあった磨き粉を床に振りまき、たわし(トイレ用かな?)でこすってヌルヌル退治、シャワーを使って壁から床を洗い流し、臭いは元から絶つ!と足拭きマットを窓からほおり出し、服を着替えて洗濯してロープに掛けて干し、持参のシーツでベットメーキング。
はい、快適ホテル一丁あがり・・・やはり自分のことは自分でしなくちゃ・・・。
窓からは、さわやかな風がシルクロードの香りを運んでくる。

一段落したのでお昼を食べた・・・ビールのおいしかったこと・・・・。


  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする