IZUNOHANA’s blog

     後期高齢驀進中者の戯言

「シルクロードの風」が好き!

2019-08-28 14:08:40 | この頃思う事

 

背丈が高く伸び、花が咲いているのに、全く、気が付かなった「百日紅」。如何に、自分が、俯いてばかりの日々だったかを知らしめてくれた・・・反省!

 


 

 

拙き我がブログを「中国自由旅」を掲載した頃からお付き合いくださっている先輩ブロガーさんから、あるご提示を頂いた。
それは、私が、十数回も関わり合いを求めた「シルクロードの旅」で、何が一番、心に残ったかを掲載して欲しい・・・という事だった。

 

はたっと考えてしまった、どこも楽しかったし、面白かったし、でも、どこの記憶も、あんまり定かでないし(アルバム30冊くらいあった旅の写真は、すべて破棄してしまった)・・・というのが真実だからだ。

 

正直な所、私は、立派な建造物(世界遺産を含めて)・美しい景色・美味しい食べ物・有名貴重な産物(お土産品も)等には、殆ど(全くと言ってもイイかも)、興味を持たないので、記憶として残らない。

だから、「スゴイねえ!綺麗だね」と言われれば、「そうね、綺麗ね」と答えはするものの、それ以上の表現を示さないので、友人からは、「誘って来て迷惑だった?」と言われてしまうくらいなのだ(一応、我が身を弁護するなら、誘われたことを迷惑とは思ってないし、綺麗だから綺麗ねと返事はしたし、それ以上の意図は無いつもりなのだ)

 

そんな私が、何故に「シルクロードの旅」に嵌まったのか・・・・確かに、日本では味わえないカルチャーショックはあった。

敢えて結論のようなものを捻り出せば、その土地、土地には、姿・形は見えないものの、かつて、利益を我がものにという野心(欲?)があったにしろ、艱難辛苦を乗り越え、この厳しい道(砂漠の道にしろ、海の道にしろ)を往来した人々の息遣いが感じられたから、否、感じたかったから・・・それは、只々、「日々是好日」で過ごしていた私には、違ったエネルギーを貰えた・・・シルクロードの風は最高だったな・・・と。

とは言っても、現在の世、そこに住んで居る人たちの日常生活に共感を感じたのも事実だ。

たかだか数日の観光で訪れ(シルクロードに関する旅には、15回、出かけたが)、ちょいと覗き見る・・・だけで「知ったかぶり」は出来ない日常があるという事は承知の上で言うならば、ギリギリの自然環境の中で懸命に生きる姿は、もう、私自身が、当に忘れていた事だった(子供時代(昭和20年~30年代)には、彼らの100分の1、否、1000分の1くらいの経験はあったけれど・・・)。
東京という大都会の中に住み、大自然の厳しさも感じず、便利さが当たり前となっていた自分に、「目を覚ませ!」と叱咤されているような現実の体験は、意外と、居心地よさを感じていたようにも思う。
それと、行く先々の街で、つかの間の出会いであっても見せてくれる素直な笑顔(特に子供たちの)が最高に素敵だった。

多分、そんな出会いに引きずられて、飽きずに通った「シルクロード」だった気がする。

その当時の、中国、中央アジアの国々、イラン、トルコ、南インド、西インド等々、シルクロードの香りを求めて旅したどの村、どの町でも、脅威にさらされながらも大自然と寄り添い暮らす人々の姿は、今、私が生き続ける上での知恵を示唆してくれた・・・と思えるのだ。
だから、旅に於いての、結構切ない経験(飛行機のチケットが取れなかったり、宿泊所が満杯でバスの床で寒さに震えながら寝たり、国境を越える定期乗合バスを降りた(正式には降ろされた)ら、人っ子一人見えない荒涼とした場所だった・・・とか、朧気ながらの記憶で)さえも、今は、有意義だったと思える。

締めとして訪れた「シルクロード東の終着点・奈良」の街をのんびり散策したのも、自分勝手に達成感を感じた忘れ難い思い出だ。

 

 

こんな文章では、先輩ブロガーさんへの答えとしては見当違いかな?と思いながも、旅をこんな風に捉える人間も有りかも・・・と、思って頂けたら嬉しいですね。

 

コメント (4)
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表現の自由・・・なんだけどぉ⁈

2019-08-23 11:05:30 | この頃思う事

   今年、唯一、購入した花「ポーチュラカ(ハナスベリヒユ)」(拡大可能)

 


 

いや~、ホント、自堕落な夏を過ごしてしまった。

 

昔から、近隣の街で毎年恒例である「夏祭り」が終わると、秋がやって来る・・・と言われているが、今年も、祭りが終わったとたん、朝夕の気候が秋めいて来たように思うが・・・多分に思い込みもあるかな?

全く前向きになれない気分を、ひたすら「浮上効果維持」してくれたのは、日韓に関するアレコレニュースだった。
私は、そのニュースとコメントの溢れるネットに、図らずも虜になった。
私自身は、どこの国に関しても好き嫌いは持っていないつもりだが、ハングルを勉強している状況において、興味がある国・・・という事だろう。
但し、どちらにも肩入れしていないし、常に同等な目線でニュース等に接していると自負している。

何かにつけて「表現の自由」が話題になるけれど、この日韓の扱うニュースを見ていると、ある意味、これこそ「自由な表現」ではないか感じるのだ。
そう、互いに自分の思い込みだけで「公共(?)メディア」を使って罵り合う・・・罵倒の如くの言葉を使うことで、相手をとことん痛みつける・・・そこには相手を思いやる気配など微塵も無い。
これを「自由」と言わねば、何を持って「自由」と言うか・・・そんな気持になり、これらの発言(暴言もあり)を「正当化」してしまいそうになる始末で、昼夜(早朝、真夜中も)を問わず、TV(報道)とPC(ネット)と格闘している自分がいるのだった。

でも、ここ数日、真夏の気違いじみた暑さから、少しだけでも解放されると、私の、これらのニュースに関する集中度も落ちて来て、今、渦中から離れて思うのは、「表現の自由」を行使するには、自ずと「表現する事による配慮・気遣い」も伴うという事、これは切っても切れない「セットの行使」なのではないか・・・「配慮」の賭けた「自由」は単に「自分勝手」な暴力行為である・・・と。
日韓問題ニュースに限らず、何時の場合も当てはまる事だと信じている。

 

まぁ、真夏の宵の夢の如くで、「日韓問題」に振り回され(自分から勝手にのめり込んだのだが・・・)、それなりに考えさせられる事もあった「普通のオバサン」の率直な感想を持って、9月からの「心機一転」を図りたい私であるが、脳細胞が・・・モヤモヤ

 

コメント (8)
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