与板 地蔵堂から三国街道の分岐点 寺泊方面 弥彦方面
現在の新信濃川分水路が出来て 此の近くは 円上寺潟が開拓され。
現在開拓され 穀倉地帯ですが 確かこの辺りは石港とも
言われて此処は疲れての休憩場所、 渡部城も近い。
良寛さんも托鉢の帰りに 此処で休憩して夕景を楽しまれた様です。
現在の新信濃川分水路が出来て 此の近くは 円上寺潟が開拓され。
現在開拓され 穀倉地帯ですが 確かこの辺りは石港とも
言われて此処は疲れての休憩場所、 渡部城も近い。
良寛さんも托鉢の帰りに 此処で休憩して夕景を楽しまれた様です。
五合庵への道 国上山は雪一色で木々も重い雪で耐えて
湾曲して居ます。近くで住んで居ても 此れ位の雪の時の
五合庵 久しぶりです、 良寛さんが住まれた頃は まだ降雪も
多い時代です、大変な苦労と淋しい日々 の連続なんでしょうね。
湾曲して居ます。近くで住んで居ても 此れ位の雪の時の
五合庵 久しぶりです、 良寛さんが住まれた頃は まだ降雪も
多い時代です、大変な苦労と淋しい日々 の連続なんでしょうね。
雪の五合庵 深い雪の埋もれていました、
雪で重そうな椿も 咲いています。雪の日は 万葉集 を読み
歌を詠み 書を。
五合庵 歌碑(碑文の上部に良寛さんの似顔絵あり)
読み あすからは わかなつまむと おもひしに
きのうもけふも ゆきはふりけり
萬元上人墓碑 五合庵境内
萬元上人は国上寺の客僧でく国上寺再建の功労者 この庵に住み
五合庵と名付けた人、
雪で重そうな椿も 咲いています。雪の日は 万葉集 を読み
歌を詠み 書を。
五合庵 歌碑(碑文の上部に良寛さんの似顔絵あり)
読み あすからは わかなつまむと おもひしに
きのうもけふも ゆきはふりけり
萬元上人墓碑 五合庵境内
萬元上人は国上寺の客僧でく国上寺再建の功労者 この庵に住み
五合庵と名付けた人、
雪の国上寺へ出掛けてきました。少しの晴れ間ですが。
今期最後の雪ではないでしょうかね、もう今年は 雪も終わり
では?
国上寺 五合庵 乙子神社も 雪の埋もれたそんな光景を。
写真は途中から車の中からの国上山です。車内から撮影で少し傾きました。
続編で雪の 五合庵 吊り橋 乙子神社 夕暮れの丘も紹介します。
(写真クリックで大きくして ご覧いください。)
今期最後の雪ではないでしょうかね、もう今年は 雪も終わり
では?
国上寺 五合庵 乙子神社も 雪の埋もれたそんな光景を。
写真は途中から車の中からの国上山です。車内から撮影で少し傾きました。
続編で雪の 五合庵 吊り橋 乙子神社 夕暮れの丘も紹介します。
(写真クリックで大きくして ご覧いください。)
続 口上
にわかに嵐がつのり来て、今は本郷大火事で
お江戸で名高き消防が、火事よ火事よと詰め寄せり,たれしるまいとは
思いども、お七が付けたと部平めが、訴人いたしたそのために、哀れ
お七は召し取られ。
にわかに嵐がつのり来て、今は本郷大火事で
お江戸で名高き消防が、火事よ火事よと詰め寄せり,たれしるまいとは
思いども、お七が付けたと部平めが、訴人いたしたそのために、哀れ
お七は召し取られ。
口上
可愛やお七は後手に、砂利場の方えと引き出され、一段高いがお奉行様
右と左がお書き役 、お七は幾つで何の年、お奉行様のお情けで、そなたは
一二か一三か,いまだ十五になるまいと調べられたが お七こそ、私は十六丙午、
七月七日の誕生日,それでお七と申します、一六才なら是非もない、
その日の栽許も極まれば。
可愛やお七は後手に、砂利場の方えと引き出され、一段高いがお奉行様
右と左がお書き役 、お七は幾つで何の年、お奉行様のお情けで、そなたは
一二か一三か,いまだ十五になるまいと調べられたが お七こそ、私は十六丙午、
七月七日の誕生日,それでお七と申します、一六才なら是非もない、
その日の栽許も極まれば。
口上
可愛やお七は後ろ手に 栗毛の駒に乗せられて、引き出さす所が
牢屋口。御伝馬町、米に花咲く麹町 、いつもニコニコ人形町、
馬はなけれど 馬喰町で、カラカラ渡りが日本橋 品川表となりならば
右と左が挙屋町、あまたお女郎が指をさす、
あれが八百屋お七かと、なしたよい子だ良い器量だ 目細鼻高桜色。
瓜核顔で色白で、お七が姿で柳腰、吉さが迷うたも無理が無い。
可愛やお七は後ろ手に 栗毛の駒に乗せられて、引き出さす所が
牢屋口。御伝馬町、米に花咲く麹町 、いつもニコニコ人形町、
馬はなけれど 馬喰町で、カラカラ渡りが日本橋 品川表となりならば
右と左が挙屋町、あまたお女郎が指をさす、
あれが八百屋お七かと、なしたよい子だ良い器量だ 目細鼻高桜色。
瓜核顔で色白で、お七が姿で柳腰、吉さが迷うたも無理が無い。