神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

令和の時代に米騒動とは

2024年09月07日 17時34分44秒 | 時代検証
 富山県魚津市の海岸道路を走っていると目に付くのは「蜃気楼道路」の看板
5月の連休ごろ、”ぼわ~”とした晴れた日に蜃気楼は発生する
私は蜃気楼は2回しか見たことがないが、高速道路か新幹線の高架橋のようなのが、海上に出てきて、それは少しずつ伸びていった
富山市の工場の景色が水蒸気や大気のスクリーンに写ってできるらしい
これは余談
同じ道路に「魚津米騒動の発生地」みたいな看板が立っている
前に、この件は書いたことがあるから、詳し事は書かないが、大正7年に起こった事件で、米不足で毎日米の値段が上がるのに、米商人の蔵には米があり、それを北海道で売れば魚津で売るよりはるかに大儲けできるため、商人は船で北海道に転売する
それを知った、魚津の漁師のおっかちゃんらを中心に米の積み出しを阻止した事件だ。

私はスーパーに米が無いと聞いて驚いた、まさか令和の時代に米が無いとは何たることか
まあ日本人というのは、騒ぎ立てると、それに乗りやすい国民性なのか?
さらにテレビ、新聞、週刊誌が書き立てると、ますます危機感を募らせて、愚かな奴は買占めを謀る
自分さえ良ければ他人はどうでもよいが見え見え、日本人の質もずいぶんと落ちぶれたと思う、みんなで少しずつわけあうという精神が見えない
それより飽食の時代に、米が少し減ったからと言って買いだめまでするか~?
もう新米の時期がそこまでやってきているのに。

過去にもオイルショック、近いところではコロナ騒動で、それぞれトイレットペーパー(当時はロールではなく、四角い紙束)、洗剤が店から姿を消し
コロナ騒動ではマスクが姿を消したし、大地震が起きるとスーパーの食品売り場が空っぽになった
こんなに物が豊富になったのに突然無くなるとは信じがたい
騒ぎを聞いて、米がないなんて人口が多い都会の話だろう米どころの北陸、越後はまさかそんなことはあるまいと確認にスーパーへ行って見たら
本当に5㎏袋の米は一つもなく、高級米の2㎏、1㎏袋がかろうじて残っていた
それも「お一人様一袋」と書いてあった。

私は米が無ければ、パンでもうどんでもラーメンでも、私の好物ジャガイモやコーンを食べていれば良いと考えるが、世間の多くはそう考えていないのだろうか
米を食べる世代が減って、パン食家族が多いと聞いたが、こんな時だけ米を食べたくなるのだろうか?
ある人に聞いたら、米を買い占めるのは高齢者なのだと言った
なるほど、高齢者は米食する人が多いかもしれない、それにしたって、高齢ともなれば一日にどれだけたべるだろうか、大したことは無いと思うが、マスコミに踊らされるのも高齢者が多いのかもしれない
我が家は米は1日4合炊く、一か月なら1斗2升と云うところだから18㎏あれば間に合う
女房殿の実家は農家なので(農協だか大規模農家だかに委託している)、10か月は融通してもらっている、残りの2か月だけ米店かスーパーで買っている。

買占めなんかしなくても、1か月待てば美味しい新米がどっさり出てくるのに、当座分だけ買えばいいものを、今度は余していつまでも新米を食べられなくなるだろうに・・・
今年は豊作らしいが、米の小売価格は上がるらしい
米農家の収入があがるのは喜ばしいが、年金暮らしの財布は細るばかりだ。

我が家の周辺も、そろそろ刈り入れかな



月光仮面はだれでしょう

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(193) 甲越 川中島血戦 20

2024年09月07日 08時46分04秒 | 甲越軍記
 武田晴信は信濃で一気に勝負をつけようと小笠原、木曽、伊奈の三方面へ同時に攻めかける陣立てを決めた。

松本の小笠原には、板垣弥冶郎、日向大和、原加賀守、小幡織部正、その子小幡孫冶郎など七頭の軍団を充て
伊奈郡には、浅利式部、馬場民部少輔、山本勘助、安間三郎右衛門の四頭で大将は山本勘助
木曽へは、甘利藤蔵、内藤修理、原美濃守、曽根七郎兵衛尉の四頭、大将は原美濃守
総大将武田晴信は諏訪に本陣を立てて、三方からの報告を待つ。

甘利、内藤は木曽に向けて発向して、鳥居峠から進んで、在家を放火して習井峠を越すところに、木曽方の兵、八百騎が現れた
木曽方は中腹より矢を射かけて来たので、武田勢も鉄砲で応戦する
上から鉄砲を撃ちかける武田勢が有利となり、木曽勢色めき立つところに、武田勢はどっと攻め下りる
甘利、内藤の勇者、米倉丹後、畠野加賀、木部駿河、上泉伊勢ら我先に打って懸かる
木曽の松田、村井、神原、篠原、藤本らは押されて討ち乱され敗れる
坂を転げ落ちて、在家に入り込み、これを盾に抵抗するが、武田勢に勢いは強く、隙間なく討ちこめば、これにこらえきれず、どっと敗走する
武田勢は騎馬三騎、歩卒八人の首を諏訪の本陣に送って勝利の報告とした。

小笠原に向かった板垣、原の軍勢は、松本筋の村々を放火して押しかかる
小笠原勢は、小笠原掃部大夫、野木左衛門尉、丸山肥後守など一千五百を三手に分けて甲州勢を入れまじと短兵急に攻め寄せる
甲州勢は小山を背にして必死に戦えども、小笠原勢に押されて敗走する
小笠原勢は勇み立ち、逃げる武田勢を追って坂を駆けあがる。

板垣の組下、広瀬郷左衛門、三科肥前守、猪子才蔵、曲淵庄左衛門、上野豊後守ら歴戦の勇士は、坂の途中で踏みとどまり
「こればかしの敵に背を見せるは悪しきなり、我に続け」と叫んで逆落としに小笠原勢の真ん中めがけて攻めかかれば、たちまち敵十八騎を突き倒す
これに勇気づけられて、板垣、日向、小幡、横田、市川等もどっと返して突きかかれば小笠原勢は耐え切れず、一町ほど引き下がる。

小笠原の先駆けの将、野木備前は、味方の不甲斐なさを怒り、馬回り二十余騎で踏みこたえて、武田勢十一騎を突き殺し、壮気燦然と戦えば小笠原勢もこれを見て「野木を討たせるな」と引き返して甲州勢と追いつ追われつの接戦を繰り広げた
この時、武田勢の後ろに備えていた原加賀守の勢は、下道を回って小笠原勢の尻から挟み撃ちにせんと士卒を励まして急ぎに急ぐ
これに気づいた小笠原の将、水野飛騨守は「後方より敵来る、この道をとられればわが軍は一人残らず死ぬものと心得よ、大事の場所ぞ、踏みこらえて敵を打ち崩せ」と無二無三に攻めかかる
両軍共に、ここが今日の大事と心得て死に物狂いの戦となる。